朱月の夜遊び 朱月として完全に覚醒してから、卯月は鏡を見る時間が増えた。 人間だった頃の彼女も、衣装を選ぶことは好きだった。可愛い服を見つければ心が弾み、髪飾りを変えただけでも少しだけ自信を持てた。 けれど、今の卯月が鏡へ向ける感情は、それとは違う。 自分が魅力的であることを、確かめる必要さえない。 鏡の中にいる女が美しいことも、人間の目を引きつけることも、近づいた者の判断を鈍らせることも、すべて当然の事実として受け入れている。 今夜選んだのは、濡れた葡萄酒のような光沢を放つ、深い赤紫のボディコンワンピースだった。 首元は細いチョーカー状の襟で覆われているが、肩と背中は大胆に開いている。身体へ吸いつくような布地は、以前よりも成熟した腰の曲線と、鬼の魔力によってしなやかさを増した脚を隠そうとしない。 その上から羽織るのは、黒と紫の豹柄をあしらった短いコート。 昔の卯月なら、派手すぎると笑って棚へ戻していただろう。自分が着れば服だけが浮いてしまうと、試着することすらためらったに違いない。 だが、今では服の方が卯月へ選ばれる。 魔力を蓄え、放ち、再び魂を食らう循環を繰り返した身体は、かつての少女らしい柔らかさを残しながらも、明確な成熟を帯びていた。 華奢だった肩は優美な輪郭を保ったまま、姿勢には揺るぎない芯が通っている。 細かった腰は一層くびれ、その下へ続く曲線は、歩くたびに服越しでも分かるほど滑らかに揺れる。 人間だった頃より体格そのものが大きく変わったわけではない。 けれど、全身を満たす鬼気が、同じ肉体を別物に見せていた。 「……似合っていますね」 卯月は紅を引いた唇を、ゆっくりと持ち上げた。 昔の彼女の笑顔は、誰かを安心させるためのものだった。 明るく、可愛らしく、人懐こい。 今もその名残はある。 だが目元には、自分が見られていることを楽しむ余裕がある。相手の胸が高鳴ることも、もっと近くで見たいと願うことも、すべて先に分かっている女の笑みだった。 人を迎え入れる笑顔ではない。 人を自分の方へ歩かせる笑顔。 『ほんま、ええ顔で笑うようになったなぁ』 酒呑が内側から囁いた。 「前の笑顔も、嫌いじゃないですよ」 卯月は鏡へ映る自分へ指先を添える。 「でも、今の私にはこっちの方が似合うでしょう?」 『くつくつ。自信たっぷりや』 「だって、本当のことですから」 耳元へ香水をひと吹きする。 濃い花と熟れた果実の香り。 そこへ、飲んだ酒の芳醇な残り香と、鬼の身体から自然に漂う蜜のような甘い匂いが混ざる。 香水だけでは作れない香りだった。 一度吸えば、もう一度確かめたくなる。 もう少し近づけば、正体が分かるのではないかと思わせる。 そして近づいた分だけ、鼻ではなく魂へ絡みつく。 「それでは、行きましょうか」 『今夜も食事?』 「もちろんです」 卯月は豹柄のコートを肩へ掛けると、鏡の中の自分へ蠱惑的に微笑んだ。 「せっかく綺麗にしたんですから、誰かに見てもらわないともったいないでしょう?」 ◇ 週末の繁華街は、人間の感情で溢れていた。 酒に浮かされた解放感。 誰かに選ばれたいという願い。 他人よりも幸せそうに見られたいという虚栄。 恋人へ向かう期待。 帰る場所のない寂しさ。 卯月が通りへ姿を現すと、それらの感情が一斉に揺れた。 会話を続けながら目だけで追う男。 一瞬だけ足を止める女。 派手すぎると眉をひそめながら、すぐにもう一度振り返る者。 困惑。 羨望。 好奇心。 欲望。 すべての視線が、卯月の身体へ触れる前から熱を持っていた。 卯月はそれを避けない。 むしろ、細いヒールを鳴らしながら、普段よりゆっくりと歩く。 腰が揺れるたび、光沢のある布が街の灯りを反射した。 豹柄のコートから漏れる甘い体香に気づき、すれ違った男が思わず振り返る。 その瞬間に生まれた羨望と欲が、薄い酒のような味となって卯月へ届いた。 「あはっ……」 腹の奥で、魔力核が脈打った。 どくん。 まだ食事を始めてもいないのに、人々の視線だけで核が膨らみ始めている。 卯月は歩きながら、服の上から腹部へそっと手を当てた。 「もう大きくなってる」 『見られただけで喜びよって』 「だって、みんな本当に分かりやすいんですもん」 どくん。 また一つ、核が膨らむ。 卯月は幼子を宥めるように、自分の腹を指先で撫でた。 「我慢、我慢♪」 『卯月がいちばん我慢できてへん顔しとるけどなぁ』 「今食べたら、薄味でしょう?」 卯月は金色を宿しかけた瞳を細める。 「せっかくなら、ちゃんと期待させて、いちばん美味しくなるまで待たないと」 その言葉を口にすることへ、もう罪悪感はなかった。 人間が料理の火加減を考えるように。 朱月は魂が熟れる瞬間を考える。 通りを進みながら、今夜の相手を探した。 特別な悪人である必要はない。 強靭な精神も、巨大な野望も要らない。 むしろ、何の変哲もない人間の方がいい。 日常の外へ踏み出したつもりで、自分だけが幸運を掴んだと信じる。 その小さな自信が一瞬で砕けるとき、魂は素直で濃い恐怖を零す。 卯月が選んだのは、四十代ほどのサラリーマンだった。 少しくたびれたスーツ。 緩んだネクタイ。 手には仕事用の鞄。 おそらく、いつもならそのまま電車へ乗り、家へ帰るだけだった男。 だが今夜、その目は卯月へ釘づけになっていた。 最初に卯月の姿を見た瞬間、男は困惑しなかった。 派手な服に驚くより先に、その女を自分のものにしたいという願望が胸を覆っていた。 あの自信に満ちた顔を、自分の前だけでは崩してみたい。 誰もが振り返る女を、自分が掌握したい。 そんな欲望が、普段なら働くはずの慎重さを押し流している。 卯月には、そのすべてが香りとして分かる。 「こんばんは」 声をかけると、男は一瞬、自分が選ばれたことを理解できなかった。 「……私、ですか?」 「はい。ずっと見ていましたよね?」 男は否定しなかった。 羞恥よりも、卯月から声をかけられた高揚が勝っている。 「すみません。あまりにも綺麗だったので」 「ふふっ。正直ですね」 卯月は一歩近づいた。 花と酒と鬼の甘い香りが、男を包む。 魔術的な支配ではない。 判断を奪ってもいない。 ただ、目の前の女があまりにも自信に満ち、その自信を裏づけるだけの美しさを持っているため、男が自分から理性を脇へ追いやっている。 「少し、静かなところへ行きませんか?」 「いいんですか?」 「嫌なら誘いませんよ」 蠱惑的に目を細める。 その瞬間、男の中では、自分こそが卯月に選ばれたという思い込みが完成した。 「行きます」 返答に迷いはなかった。 卯月は満足げに笑い、彼へ背を向けた。 「それなら、ついてきてください」 男は豹柄のコートの背中と、その下で揺れる腰から、一度も目を離さなかった。 ◇ 二人が入ったのは、繁華街から離れた古い雑居ビルだった。 卯月は慣れた足取りで階段を上り、屋上へ出る。 周囲にはすでに認識阻害を施してある。 第三者はここに人がいることへ気づかない。 だが、男の意識へは何も働きかけていなかった。 彼は自分の意思で卯月についてきた。 扉が閉まると、男は辺りを見回した。 「こんな場所、よく知ってるね」 「誰にも邪魔されないでしょう?」 卯月は屋上の中央で振り返る。 男は警戒するどころか、その言葉を都合よく受け取って笑った。 すでに彼の中では、この先に起きることが自分の望む方向へ決まっていた。 卯月はその魂の味を確かめる。 期待は十分に甘い。 だが、まだ恐怖へ変えるには早い。 「私、少し変わったことが好きなんです」 「変わったこと?」 「人が驚く顔を見ること」 卯月はコートの襟を外しながら、ゆっくり男へ近づいた。 「怖がっている顔も、好きですよ」 普通なら、そこで疑う。 帰るべきではないかと考える。 しかし男は、卯月の言葉を危険の告知ではなく、刺激的な遊びへの誘いとしてしか聞いていなかった。 「君みたいな子に怖がらされるなら、悪くないな」 「怪我をするかもしれない、とは思わないんですか?」 「まさか」 男は卯月の肩から脚まで視線を滑らせた。 「そんな顔で言われても、怖くないよ」 卯月の笑みが深くなる。 警告はした。 帰る余地も残している。 それでも彼は、自分の欲望にとって都合のいい意味だけを選び取った。 「今なら、まだ帰れますよ」 卯月は屋上の扉へ目を向けた。 通路を塞いではいない。 だが男はそちらを見ようともしなかった。 「帰ってほしいの?」 「まさか」 卯月は即座に答える。 「ここまで来てくれたんですから、楽しませてください」 男の胸に、勝利したような喜びが広がった。 自信に満ちた女が、自分を求めている。 自分ならこの女を思いどおりにできる。 その思い込みが、魂をさらに甘く熟れさせていく。 男が一歩近づいた。 卯月は逃げない。 曲がったネクタイへ指を掛け、ゆっくりと形を整える。 「私を、自分のものにしたいですか?」 男は隠そうともせず頷いた。 「できるなら」 「できると思っているんですね」 「違うの?」 卯月は答えず、男から離れた。 豹柄のコートを肩から滑らせ、片手で受け止める。 その下から現れた赤紫のドレスが、街の灯りを艶やかに反射した。 男の呼吸が深くなる。 卯月は背を向け、肩越しに振り返った。 人懐こい可愛らしさは、もうそこにはない。 自分が注目を集めることを当然と知り、その視線をどこまで熱くできるか試す女の顔。 細めた目。 僅かに開いた唇。 相手がどれほど自分へ心を奪われているかを確信した、余裕のある笑み。 「そんなに見たいなら、近くで見てもいいですよ」 卯月は片手を腰へ置いた。 身体を僅かに前へ傾けると、ドレスの光沢が腰から脚へ滑った。 そのまま、腰を小さく左右へ揺らす。 ふり、ふり。 以前の卯月なら、冗談でもできなかった仕草。 だが朱月は、自分の動きに合わせて男の期待が膨らんでいくことを、魔力核の脈動として楽しんでいる。 どくん。 「あ……」 核がまた大きくなった。 男には、卯月の小さな吐息さえ自分へ向けられたものに聞こえた。 「触れても?」 「触れたいんですか?」 「もちろん」 「私が危険な女でも?」 男は軽く笑った。 「さっきからそればかりだね」 「大事なことですよ」 「分かってる。それでもいい」 実際には、何も分かっていない。 それでも男は、自分の意思で前へ進んでいる。 卯月はゆっくり片手を差し出した。 男の指先がそこへ触れる。 卯月はその手を自分の腰の近くまで導いたが、最後の距離だけは男自身に選ばせた。 「本当に、このまま続けますか?」 「ああ」 即答だった。 男の意識は、目の前の女を掌握する未来へ完全に支配されていた。 今さら警告など耳へ届かない。 「後悔するかもしれませんよ」 「しない」 「怖くなっても?」 「君を怖がるわけがない」 卯月はその答えを聞き、心から嬉しそうに笑った。 「そうですか」 男の手が伸びる。 卯月の身体へ触れる寸前。 魔力核の内部で、期待が完璧に熟した。 「そろそろ、いいかなっ♪」 男の指が止まる。 「え?」 卯月の瞳が、燃えるような黄金へ変わった。 頭部から二本の角が現れる。 茶色い髪は根元から白銀へ染まり、毛先へ向かって紫の炎のような色を帯びていく。 白かった肌には濃い紫が広がり、首筋から腹部へ、鬼の霊脈が妖しく浮かび上がった。 どくん。 巨大な魔力核が鼓動する。 先ほどまで魅惑的な女へ見えていた存在が、そのままの笑顔で、人間ではあり得ない鬼姫へ変わっていく。 男の中から、期待が消えた。 掌握できる。 自分のものにできる。 その確信が一瞬で砕ける。 卯月は逃げようとする男の手を掴まない。 ただ、黄金の瞳で見つめた。 「どうしたんですか?」 声も、笑顔も優しいままだった。 「私を好きにしたかったんでしょう?」 男が後ずさる。 「な……何だ、それ……」 「言ったじゃないですか」 卯月は一歩だけ近づいた。 「私は、危険な女かもしれないって」 その一歩だけで、男の魂から恐怖が溢れた。 自分が女を手に入れようとしていたのではない。 自分こそが、最初から鬼に選ばれていた。 その理解が期待を裏返し、濃厚な絶望へ変える。 「帰りたいですか?」 男は頷いた。 「声にしてください」 「帰りたい……」 「私が怖い?」 「怖い……!」 卯月はうっとりと目を細めた。 「うん。とっても美味しそう」 男が踵を返し、屋上の扉へ走る。 卯月は追わない。 追わなくても、彼の背中から恐怖が止めどなく溢れている。 自分が支配する側だと思っていた男が、ただの獲物だったと理解した屈辱。 このまま日常へ帰れないかもしれないという絶望。 それでも生きて逃げたいと願う、切実な魂の震え。 卯月は深く息を吸った。 「いただきます」 恐怖が香りから味へ変わる。 期待の残滓は濃い甘さ。 砕けた自尊心は、舌へ残る心地よい苦味。 絶望は芳醇な酒のように喉を満たし、生への執着が鋭い刺激となって腹の奥まで落ちていく。 「んっ……♪」 卯月の全身が震えた。 魔力核が大きく膨らむ。 一口味わうたび、身体の中心から熱が広がり、指先まで甘く痺れていく。 「うんっ♪」 もう一度、逃げる男の魂から零れた恐怖を吸い上げる。 「やっぱり、この味は何度食べても美味しっ♪」 男が認識阻害の境界を越え、屋上から姿を消した。 卯月は追わず、唇に残った味を惜しむように、ゆっくり息を吐いた。 『よう熟れとったなぁ』 酒呑が感心したように言う。 「最初から、私を自分のものにできると思い込んでいましたから」 『警告も何も聞いとらんかったしな』 「人って、欲しいものが目の前にあると、聞きたいことしか聞かなくなるんですね」 卯月は腹部へ手を添えた。 食事によって肥大化した核が、内側から服を押し上げるほど強く脈打っている。 「あはっ……また、こんなに大きくなっちゃった」 意識を集中すると、紫金色に輝く巨大な核が霊的な姿となって現れた。 卯月は両腕でも抱えきれないそれを、誇らしげに撫でる。 「酒呑ちゃん、見てください」 『見とる見とる』 「今夜のは、すごく濃かったですよ」 指先で花弁状の核をなぞると、圧縮された魔力が全身の霊脈へ逆流する。 卯月の背筋が震えた。 「あ……っ」 核は放出を求めるように、何度も激しく鼓動している。 卯月は熱を帯びた黄金の目でそれを見下ろし、嬉しそうに笑った。 「あはっ♪ このまま出しちゃえ♪」 『ここでかいな』 「認識阻害がありますから、誰にも見えませんよ」 卯月は自ら核の花弁を開いた。 内側から紫金色の光が噴き出す。 腹の底に満ちていた魔力が、胸から喉へ一気に駆け上がる。 卯月は声を押し殺さない。 鬼姫としての低い声を、恥じるどころか誇るように夜へ解き放った。 「――グ、ォオオオオオッ……!」 野太く、重く、それでいて艶を帯びた鬼声。 屋上の空気が震える。 膨大な鬼気が、紫の花弁となって卯月の周囲へ咲き乱れた。 一度では終わらない。 巨大な核には、まだ濃密な魔力が残っている。 「まだ……こんなにありますね♪」 二度目の解放。 「――ォオオオオオッ!」 ビル全体へ、低い振動が走った。 酒呑が呆れたようにため息をつく。 『認識は誤魔化せても、その獣みたいな地鳴りはバレるで?』 卯月は息を弾ませながら、楽しそうに笑った。 「獣じゃありませんよ」 巨大な核を抱え、誇らしげに胸を張る。 「今の私は、こんなに綺麗な鬼姫なんですから」 『綺麗な鬼姫は、食後にビル揺らしたりせえへんと思うけどなぁ』 「酒呑ちゃん、細かいです」 くすくす笑いながら、卯月は核をもう一度開く。 その夜。 人の視線を浴び、自分の魅力へ酔い、欲望を熟れた恐怖へ変えた朱月は、誰にも見つけられない屋上で、満足するまで低く甘い鬼声を響かせ続けた。