満ちた核 食事を終えたあと、卯月はしばらく窓辺に立っていた。 人間の姿のまま、夜の街を見下ろしている。 柔らかな茶色の髪。 見慣れた白い肌。 人懐こく、どこか安心感のある顔立ち。 傍目には、かつての島村卯月とほとんど変わらない。 けれど、その身体の内側では、食らった感情が濃密な鬼気へ変換されていた。 期待が恐怖へ裏返る瞬間。 逃げながら零れ落ちる焦燥。 生きて帰りたいと願う魂の震え。 一つ一つの味を思い返すたび、腹の奥にある魔力核が大きく脈打った。 どくん。 全身へ、甘い熱が広がる。 卯月は自分の腹部へ手を添え、楽しそうに首を傾けた。 「ん……」 以前なら、この熱を異物のように恐れていた。 魔力核が脈打つたびに身体を丸め、これ以上鬼になりたくないと泣いていた。 けれど今は違う。 卯月は熱を確かめるように、服の上から核をゆっくり撫でた。 「そろそろ、溜まっちゃったなあ」 声には困惑も羞恥もない。 食事をすれば魔力が満ちる。 満ちたものは放出する。 呼吸や睡眠と変わらない、鬼として当然の営みだった。 『えらい余裕やなぁ』 内側から酒呑の声が響く。 『昔は、核が動いただけで泣きそうになっとったのに』 「そんなこともありましたね」 卯月はくすりと笑った。 「でも、もう怖くないですよ。だって、これは私の身体ですから」 『ほう』 「角も、声も、魔力核も」 瞳の奥に、一瞬だけ金色が浮かぶ。 「全部、今の私です」 卯月は両手を腹部へ重ねた。 意識を向けると、人間の擬態の内側で命を刻んでいた核が、ゆっくりと表層へ浮かび上がってくる。 衣服を傷つけることはない。 胸骨の下から腹部にかけて紫金色の光が広がり、その中心から、花の蕾にも心臓にも似た霊的器官が投影される。 以前は、掌へ収まる程度だった。 今は違う。 幾重にも重なった紫の花弁。 その内側で脈打つ、濃い金色の光。 一度鼓動するたび、部屋全体が低く震えた。 卯月は両腕で抱えるようにして、巨大な核を支えた。 片手では到底持ちきれない。 自分の身体から生まれ、自分が食らった感情を蓄え、自分の鬼としての生命を循環させるもの。 卯月の表情が、子供のように明るく輝いた。 「あはっ! 見てください、酒呑ちゃん!」 両腕の中で、魔力核が強く脈動する。 「こんなに大きい!」 卯月は誇らしげに核を持ち上げた。 「片手じゃ持てないくらいですよ!」 『くつくつ。よう育てたなぁ』 酒呑の声にも、隠しきれない感心があった。 『何人分、味見してきたん?』 「秘密です」 『ほんま、立派な鬼姫になったもんや』 「でしょう?」 褒められた卯月は、恥じらうどころか嬉しそうに微笑んだ。 核の表面を指先で撫でる。 そのたびに、内側へ圧縮された魔力が卯月の霊脈へ逆流し、首筋や腕に淡い紫の紋様を浮かび上がらせた。 「あ……」 短い吐息。 全身が熱を持つ。 けれど昔のように、酒呑へ助けを求めることはない。 どこを開けばよいのか。 どの順番で霊脈をつなげば、最も美しく魔力が流れるのか。 もう卯月自身が知っている。 「酒呑ちゃん」 『なんや?』 「ちゃんと見ていてくださいね」 卯月は核へ両手を添えたまま、ゆっくりと目を閉じた。 「今の私が、どれくらい立派になったのか」 腹の奥にある本体と、腕の中へ投影した核が同期する。 どくん。 一度目の鼓動で、人間の擬態の下にある角が疼く。 どくん。 二度目の鼓動で、茶色い髪の毛先へ白紫が滲む。 どくん。 三度目の鼓動で、瞳が完全な黄金へ変わった。 「開いて……」 自分自身へ語りかけるように、卯月は囁いた。 花弁状の核が、一枚ずつ開いていく。 内側から漏れ出した紫金の光が、卯月の顔を下から照らした。 以前は、開かれることを恐れていた。 酒呑に促されても声を押し殺し、魔力を身体へ逆流させていた。 今の卯月は、自分から最も深い場所まで核を開く。 「全部、出していいよ」 魔力が一気に全身へ駆け上がった。 背筋が大きく反る。 喉の奥から、低い響きがせり上がる。 卯月はそれを止めなかった。 むしろ迎え入れるように唇を開く。 「――ォオオオオッ……!」 部屋を震わせる、野太い鬼声。 けれど、かつてのような無秩序な獣の咆哮ではなかった。 腹の底から響く低音には、女の柔らかさと、鬼姫としての威厳が混じっている。 恐ろしく。 美しく。 聞く者の身体を内側から震わせるような、濃密な声。 同時に卯月の全身から紫の鬼火が噴き上がった。 窓も壁も壊さない。 放出された絶大な魔力は、無数の花弁のように洗練され、卯月の周囲を渦巻いていく。 「あ……はぁ……」 一度目の放出が終わる。 卯月は深く息を吸い、熱に潤んだ金色の瞳を開いた。 全身に残るのは、空虚ではない。 力を惜しみなく解き放った鬼の身体だけが知る、深い充足感。 「すごい……」 両腕の中では、核がまだ大きく脈打っている。 一度では空にならない。 むしろ開かれたことで、内部の魔力がさらに滑らかに循環し始めていた。 『まだ出るなぁ』 「はい」 卯月は嬉しそうに笑った。 「まだ、こんなに残っています」 『昔の卯月なら、もう泣いとった頃合いや』 「昔の私は、人間の声に戻ろうとしていましたから」 核を胸元へ抱き寄せる。 その表面から伝わる鼓動に合わせ、卯月の呼吸もゆっくり深くなっていく。 「でも、もう戻りません」 『戻れへん、やのうて?』 「戻らないんです」 卯月は迷わず答えた。 「こっちのほうが、ずっと気持ちいいですから」 再び核を開く。 今度は先ほどよりも深く。 「――グ、ォオオオオッ……!」 二度目の鬼声。 紫金の魔力が柱となって立ち昇り、天井へ届く前に無数の花火へ変わった。 卯月の髪が魔力の風に煽られる。 茶色と白紫が入り混じり、擬態と本性の境界が曖昧になっていく。 それでも卯月は人間の姿を完全には解かなかった。 柔らかな顔立ちのまま。 人懐こい笑顔の名残を残したまま。 人間には決して出せない鬼声を、何度も夜へ響かせる。 「もっと……」 自分から求める声に、酒呑が笑った。 『欲張りやなぁ』 「だって、まだ満足してませんから」 三度目。 「――ォオオオオオッ!」 四度目。 「グ、ァアアアッ……!」 声を上げるごとに、卯月の身体から余計な力が抜けていく。 代わりに、鬼としての輪郭だけが鮮明になる。 恐怖を味わった舌。 魂を魔力へ変える核。 それを惜しみなく放つ霊脈。 そして、自分の力を美しいと思う心。 以前は、放出するたびに人間から遠ざかることを恐れていた。 今は一声ごとに、自分が鬼であることを確かめている。 「酒呑ちゃん……」 『ここにおるえ』 「聞こえていますか?」 『よう聞こえとる』 卯月は熱に浮かされたように微笑んだ。 けれどその意識は明瞭だった。 何をしているのか、すべて理解したうえで楽しんでいる。 「もっと聞いてください」 核の花弁を、最後まで開く。 中心に圧縮されていた魔力が露わになる。 それはもはや、かつて酒呑に助けられなければ処理できなかった不安定な力ではない。 朱月という一個の鬼を象徴する、洗練された巨大な鬼気だった。 「これが、今の私です」 卯月は誇らしげに告げた。 「全部、見せてあげます」 最後の放出。 核が太陽のように輝く。 「――ォオオオオオオオッ!」 低く、長く、艶を帯びた鬼姫の声。 紫金の炎が咲き誇り、部屋いっぱいに巨大な花を作った。 放たれた魔力は圧倒的だった。 それでも荒々しく飛び散ることはなく、卯月の意思に従い、何層もの花弁となって彼女を包む。 声が途切れる。 光がゆっくり薄れていく。 腕の中にあった巨大な核も、小さな光へ戻り、卯月の腹の奥へ沈んでいった。 卯月はしばらくその場に立ち尽くしていた。 深い呼吸。 熱を帯びた頬。 金色の瞳。 全身には、力を出し切った後の心地よい脱力感が広がっている。 『満足した?』 酒呑が尋ねた。 卯月は腹部へ手を添え、静かになった核の鼓動を確かめた。 「……もう少し出せたかもしれません」 『くつくつ。ほんまに欲張りや』 「次のお楽しみに取っておきます」 卯月は人間の茶色い髪と瞳へ戻りながら、明るく笑った。 その笑顔だけを見れば、かつての島村卯月と変わらない。 けれど彼女はもう、自分の中にいる鬼を隠して怯える少女ではなかった。 人の感情を味わい。 巨大な魔力核を誇り。 低く美しい鬼声を、満足するまで響かせる。 そのすべてを自分の一部として愛する、朱月という鬼姫だった。