人間をやめた夜 ※卯月、プロデューサーともに成人後の時系列。 インターホンが鳴ったのは、日付が変わる少し前だった。 プロデューサーが扉を開けると、島村卯月が立っていた。 寝巻きの上へ薄いカーディガンを羽織っただけの格好。髪は整えられておらず、頬には異様な赤みが差している。その一方で唇は青白く、額には細かな汗が浮かんでいた。 「卯月?」 呼びかけても、すぐには返事がない。 卯月は焦点の合わない目で彼を見上げた。何日も眠っていないような顔だった。 「どうした。具合が悪いのか?」 「……一人でいたら」 掠れた声が漏れる。 卯月は自分の身体を守るように、両腕で抱いた。 「私、一人でいたら……おかしくなっちゃいそうで」 それ以上は何も言えなかった。 プロデューサーは事情を問い詰めず、玄関を大きく開けた。 「とにかく入れ」 「でも……」 「話はあとでいい。今のお前を、外に立たせておけるか」 卯月はためらいながら、部屋へ足を踏み入れた。 その瞬間。 プロデューサーの胸から、温かな色が溢れるのが見えた。 驚き。 心配。 何が起きているのか分からない不安。 それでも、自分を追い返さずに受け入れようとする信頼。 橙色と青色の光が、彼の魂を柔らかく包んでいた。 卯月の喉が、無意識に鳴った。 ――美味しそう。 そう感じてしまった自分へ、吐き気がした。 「……ごめんなさい」 「何がだ?」 「何でもないです」 卯月は顔を伏せた。 頭の奥で、酒呑がくつくつと笑う。 『ええ魂しとるなぁ』 「やめてよ……」 「卯月?」 「独り言です。気にしないでください」 『心配と信頼。まだ薄味やけど、優しゅうて食べやすそうや』 「食べないよ」 声に出さず、酒呑へ言い返す。 卯月はもう、人間の食事をほとんど取っていなかった。 食べても味がしない。 温かいスープも、甘い菓子も、口の中で形と温度が分かるだけだった。 その一方で、一度だけつまみ食いした人間の恐怖は、今も鮮明に覚えている。 甘く。 熱く。 喉を通った瞬間、身体の隅々まで満たしてくれた。 だからこそ、二度と食べたくなかった。 食べれば、また欲しくなる。 酒呑に魔力を放出してもらったときの、全身を貫く解放感も同じだった。 恥ずかしい鬼の声を出した。 自分ではないと思いたかった身体が、あまりにも気持ちよさそうに震えた。 その記憶まで、もう身体に刻まれている。 人間の食事を取らない。 魂も食べない。 魔力も出さない。 何も入れず、何も出さなければ、鬼としての循環を止められると思っていた。 だが実際には、卯月の身体は内側から壊れ始めていた。 腹の奥にある魔力核は、出口を失った力を抱え込んで肥大し続けている。 胸から喉まで焼けるように熱い。 視界は霞み、手足には力が入らない。 「熱があるな」 プロデューサーの手が額へ伸びた。 触れられる直前、卯月は激しく身を引いた。 「触らないで!」 彼の手が止まる。 「……悪い」 「違うんです」 すぐに首を振る。 「Pさんが悪いんじゃなくて、私が……」 触れられたら、もっと分かってしまう。 彼の体温も。 脈も。 卯月を案じている感情が、どれほど甘いのかも。 プロデューサーは追及しなかった。 「今日は何も聞かない。帰りたくないなら、ここにいればいい」 「いいんですか?」 「ソファを使え。俺は別の部屋にいる」 「事情も話せないのに?」 「話せるようになったら話せばいい」 その言葉に、卯月は泣きそうになった。 まだ自分を、人間として扱ってくれる。 鬼ではなく、島村卯月として見てくれる人がいる。 「ありがとうございます」 心からそう答えた。 同時に、腹の奥で核が脈打った。 どくん。 彼の信頼を味わいたいと、鬼の身体が喜んでいた。 卯月は、そのまま数日間プロデューサーの部屋へ留まった。 出された食事には、ほとんど手をつけられなかった。 「少し食欲がなくて」と笑い、スープを数口飲んでは匙を置く。 夜はさらに酷かった。 ソファの上で身体を丸めても、熱は逃げない。 魔力核が腹の奥で膨張し、脈打つたびに紫の力が全身へ流れ込む。 声を出したい。 すべてを解放したい。 何かを食べたい。 けれど、そのどれも拒み続けた。 プロデューサーは何度も起きてきた。 水を持ってくる。 冷たいタオルを交換する。 卯月が眠るまで、少し離れた椅子へ座っている。 「すみません。明日もお仕事なのに」 「気にするな」 「どうして、そこまでしてくれるんですか?」 「担当だからだ」 「それだけですか?」 何気なく尋ねたつもりだった。 だが、その問いにプロデューサーの魂が揺れた。 青い信頼の奥へ、微かな赤が差す。 卯月は息を止めた。 それは単純な恋情ではない。 自分だけがこの子を守らなければならない。 他人には任せられない。 自分だけを頼ってほしい。 庇護と独占が混ざり始めた色だった。 『育ってきたなぁ』 酒呑が囁いた。 「そんな言い方しないで」 『最初は心配だけやった。今は、あんたを自分の手元へ置いときたいいう色が混ざっとる』 卯月は毛布を握り締めた。 「Pさんはそんな人じゃないよ」 『魂は嘘つかへんえ』 「私の魔力のせいだよ」 それは事実だった。 卯月は意識していなくても、周囲へ鬼の魔性を漏らしている。 汗ばんだ肌から漂う甘い体香。 熱に潤んだ瞳。 弱々しく誰かを頼る声。 それらすべてが、人間の執着を増幅させていた。 だから、プロデューサーだけを責めることはできない。 そう思うべきだった。 しかし日を追うごとに、卯月の中には別の感情が生まれ始めた。 ――Pさんなら、耐えてくれると思っていたのに。 自分がどれだけ変わっても、欲望に流されず、ただ人間として接してくれる。 最後の一人くらいは、そうあってほしかった。 その期待は、少しずつ裏切られていった。 プロデューサーは卯月が外へ出ようとすると、不安そうに引き止めた。 「今のお前を一人にできない」 他の誰かへ相談しようとすると、表情を曇らせた。 「しばらく事務所にも言わなくていい。俺が何とかする」 言葉そのものは優しい。 けれど魂の赤紫は、そのたびに濃くなっていった。 守りたい。 閉じ込めたい。 自分以外へ助けを求めてほしくない。 そして卯月は、それを嫌悪しながら、同時に味の変化を楽しみ始めていた。 プロデューサーが近づけば、熱に苦しむ顔を少しだけ見せる。 「一人にしないでください」と袖を掴む。 眠れない夜に、彼の名前を呼ぶ。 どれも嘘ではなかった。 本当に苦しい。 本当にそばにいてほしい。 だが、どんな声を出せば彼の魂へ赤紫が増すのかも、もう理解していた。 それを知ったうえで、卯月は少しずつ同じ仕草を選ぶようになった。 「悪い子やなぁ」 酒呑が笑う。 「違うよ」 『何が?』 「私は、Pさんが本当に信頼できる人か確かめてるだけ」 『それで、色が濃うなるたびに核が喜んどるん?』 卯月は答えられなかった。 その夜、卯月は黙って荷物をまとめた。 これ以上ここにいれば、本当に何かをしてしまう。 まだ戻れるうちに離れなければならない。 玄関へ向かうと、背後から声をかけられた。 「どこへ行く」 振り返る。 プロデューサーが立っていた。 「……家に帰ります」 「駄目だ」 「でも、これ以上迷惑をかけられません」 「今のお前を一人にはできない」 プロデューサーは卯月の鞄を取った。 乱暴な動作ではない。 彼自身は、危険な状態の卯月を引き止めているつもりだった。 だが魂の色は、これまでで最も濃かった。 「返してください」 「落ち着け。今は俺の言うことを聞け」 「他の人へ相談します」 「必要ない」 即答だった。 「事務所にも戻らなくていい。誰にも話さなくていい。俺が全部何とかする」 「Pさんが?」 「ああ」 「私が嫌だって言っても?」 「今のお前は、正常な判断ができる状態じゃない」 卯月の中で、冷たい何かが芽生えた。 自分の選択より、彼の判断を優先する。 それを守るためだと信じている。 魂の青い信頼が、赤紫の支配欲に包まれていく。 「Pさん」 卯月は静かに尋ねた。 「私が、ここから出たくないって言えば嬉しいですか?」 「何を言ってる」 「ずっとPさんだけを頼れば?」 プロデューサーの魂が大きく揺れた。 否定しなければならない。 だが、その想像に彼は安堵してしまった。 「今は、俺だけを頼れ」 「ほかの人のところへ行かない方がいい?」 「ああ」 「Pさんの言うことだけを聞いていればいいですか?」 「少なくとも、今はそうしてくれ」 卯月は目を細めた。 腹の奥で、魔力核が強く蠢いた。 どくん。 『もう十分やな』 酒呑の声。 卯月自身にも分かった。 ――今が、熟れた。 「卯月」 プロデューサーは彼女の肩を掴んだ。 「もう、どこにも行くな」 「……」 「俺がお前を守る」 その手に力が入る。 「お前は、俺のものだ」 その言葉を聞いた瞬間。 卯月の中に残っていた、最後の期待が消えた。 悲しみはなかった。 ただ、ひどく冷めた。 ――Pさんも、結局こうなるんですね。 信じていた。 自分を一人の人間として尊重してくれると思っていた。 けれどこの人も、魔性に当てられれば、自分を所有したがる。 守るという言葉で囲い込む。 所詮、人間なんてこんなものなのだ。 その傲慢な考えが、初めて卯月の心へ自然に根を下ろした。 プロデューサーはもう、卯月の中で頼るべき相手ではなかった。 長い時間をかけて美しく熟れた、獲物だった。 「……そうですか」 卯月は穏やかに笑った。 そして、彼の胸元へ両手を添えた。 「卯月?」 自然に背伸びをする。 抵抗も拒絶も見せず、卯月はプロデューサーの唇へ自分の唇を重ねた。 ほんの短い接触。 彼は驚きながらも、拒まなかった。 むしろ魂へ安堵が広がる。 自分の言葉が届いた。 卯月も自分を求めている。 ついに彼女を手に入れた。 浅い満足が、赤紫の執着へ甘く混ざった。 卯月はその味を吸わず、唇を離した。 まだ近い距離から、静かに彼を見上げる。 「私、こんな身体になっちゃったんです」 額から、二本の角が現れた。 茶色い髪は根元から白銀へ変わり、毛先へ淡い紫が滲んでいく。 瞳は黄金に染まり、首筋から胸元、腹部へ紫金色の霊脈が浮かび上がった。 部屋の空気へ、濃い酒と熟れた果実、花蜜のような甘い匂いが広がる。 どくん。 服の下で魔力核が脈打ち、室内の空気を震わせた。 プロデューサーの顔が強張る。 「……これが、お前の身体に起きていたことなのか」 「はい」 卯月は自分の腕を抱いた。 「角も生えて、目も変わって、お腹の奥には知らないものがずっと動いていて」 言葉には本物の嫌悪が残っていた。 「人の食べ物は味がしません。人の気持ちだけが美味しそうに見えるんです」 「それでも、お前は卯月だ」 「最初は、私もそう思いたかったです」 黄金の瞳から、一筋の涙が流れた。 「本当に助けてほしかったんですよ」 一人でいれば、人を襲ってしまうかもしれなかった。 魂を食べる快感へ耐えられなくなるかもしれなかった。 自分を知っているプロデューサーなら、人間の卯月をつなぎ止めてくれると思った。 「Pさんが私の心配をしてくれたこと、嬉しかったです」 水を用意してくれた。 何も聞かずに泊めてくれた。 味のしない食事へ手をつけない卯月を、責めずに見守ってくれた。 「ああ。なら、これからも俺が――」 「でも、駄目なんですよ」 卯月の声が低く変わった。 「私、魂の色が分かるんです」 プロデューサーの表情が止まる。 「Pさんが心配してくれていることも、信頼してくれていることも、全部見えました」 「なら、俺が本気だと分かるだろ」 「分かりますよ」 卯月は優しく頷いた。 「私を独り占めしたいことも」 「違う」 「自分だけを頼ってほしい」 「俺はお前を守りたいだけだ」 「ほかの人には渡したくない」 「……」 「弱っている私なら、自分のそばに置いておける」 プロデューサーの魂が揺れる。 言葉では否定しても、魂の色は濃くなるばかりだった。 卯月は腹部へ手を添えた。 その内側で、核が期待に満ちて蠢いている。 「知っていますか?」 黄金の瞳が、甘く細められる。 「執着心って、鬼にとって、とても美味しそうに見えるんです」 どくん。 背筋を熱が駆け上がる。 「最初のPさんは、優しい色でした」 心配は温かく。 信頼は澄んでいた。 「でも、私を自分のものにしたいと思い始めてから、どんどん濃くなって」 卯月の呼吸が、少しだけ深くなる。 「今はもう、美味しそうで、美味しそうで……」 プロデューサーの表情へ、初めて明確な警戒が浮かんだ。 その恐怖の芽さえ、卯月には香りとして分かった。 「最初は狩るつもりなんてなかったんです」 卯月は困ったように笑う。 「でも途中から、どんな顔をしたらPさんの独占欲が強くなるか、分かるようになりました」 一人にしないでと頼んだ。 Pだけが頼りだと匂わせた。 帰ろうとして、引き止められるのを待った。 「自分から、Pさんの気持ちを育てました」 「俺を試していたのか」 「少しだけ」 卯月は首を傾けた。 「悪い子ですね、私」 プロデューサーの魂へ、怒りが加わる。 信頼を利用されたという屈辱。 騙されていたのではないかという疑念。 それでも、卯月を救いたいという執着。 感情が絡み合い、急速に熟れていく。 魔力核が狂おしく脈打った。 「あ……っ」 卯月の身体が震える。 もう待てない。 それでも、最後に尋ねた。 「プロデューサーさん」 いつもの呼び方。 だが今の声は、助けを求める少女のものではない。 獲物へ取引を持ちかける鬼の声だった。 「あなたの魂を、私にくださいませんか?」 「……魂を?」 「Pさんが私へ向けてくれた気持ちを、いただきたいんです」 卯月は正直に答えた。 「心配も、執着も、私を好きだと思ってくれた気持ちも」 「それを食えば、お前は元に戻れるのか」 卯月は答えなかった。 けれどプロデューサーは、その沈黙へ自分に都合のよい希望を見いだした。 自分の魂を与えれば、卯月を救えるかもしれない。 自分だけが、この少女を人間へ戻せるかもしれない。 その自己犠牲の奥にさえ、特別な存在でありたいという執着が残っている。 卯月には、すべて見えていた。 「少なくとも」 卯月は微笑む。 「私は、とても楽になります」 長い沈黙のあと。 プロデューサーは卯月を見つめたまま答えた。 「……構わない」 「本当に?」 「俺を食って、お前が戻れる可能性があるなら」 声に恐怖はあった。 それでも執着を捨てられず、彼は言った。 「食べろ」 卯月の瞳が大きく開く。 次の瞬間、口元へ純粋な喜びが浮かんだ。 「……あはっ」 可愛らしい声。 けれど、その笑顔はもう完全に捕食者のものだった。 「ありがとうございます、プロデューサーさん」 卯月は彼の頬へ両手を添えた。 触れ方だけなら優しい。 長く思い合った恋人が、互いの気持ちを確かめるようにも見える。 しかし、二人の間にあるものは恋ではなかった。 捕食者と。 自ら喉元を差し出した獲物。 卯月はゆっくり顔を近づける。 唇が触れる直前、甘く囁いた。 「では、いただきますね」 唇が重なった。 一度目よりも深く、長い接触。 プロデューサーは目を閉じた。 自分の感情を差し出すことで、卯月を救うのだと信じている。 だが次の瞬間。 彼の胸の奥から、感情そのものが引き出され始めた。 唇を通じて、冷たい鬼気が魂へ入り込む。 心臓より深い場所へ絡みつき、感情の表面を掴み取る。 プロデューサーが息を呑んだ。 その瞬間に生まれた恐怖を、卯月は逃さなかった。 「ん……」 喉から、甘い吐息が漏れる。 恐怖が濃い香りとなり、卯月の口内へ流れ込む。 信じていた相手に食べられている。 助けを求めていた少女ではない。 自分の魂が熟れるのを待ち、最も美味しい瞬間を選んだ鬼だった。 その理解が、プロデューサーの心へ絶望を生む。 卯月の魔力核が歓喜した。 どくん。 全身へ刺激が駆け巡る。 何日も続いていた飢餓が消えていく。 乾いていた喉が潤う。 閉じ込められていた魔力が一斉に循環を始め、卯月の身体を内側から熱く満たしていく。 卯月は一度、唇を離した。 「……美味しい」 呆然と呟く。 プロデューサーは荒い息をしながら、卯月を見た。 その目にあった「まだ戻れる」という希望が揺らいでいる。 「卯月……最初から、これが目的だったのか」 「違いますよ」 卯月は穏やかに答えた。 「最初からじゃありません」 その一言が、彼の絶望をさらに深くした。 途中までは本当に信じられていた。 途中から、獲物として育てられていた。 「分かりました?」 卯月は間近から彼の顔を覗き込んだ。 「私はもう、Pさんが知っていた卯月とは違うみたいです」 「お前は……」 「はい」 紅い唇が、ゆっくり持ち上がる。 「人間とは、別の生き物になっちゃいました」 プロデューサーの中に残っていた希望が砕けた。 その瞬間、絶望の味が最も濃くなる。 卯月は目を細めた。 「でも」 もう一度顔を寄せる。 「今の私を自分のものにしたいって言ったのは、Pさんですよ?」 二度目の口づけ。 今度は、完全な捕食だった。 恐怖。 怒り。 後悔。 それでも卯月を見捨てきれない執着。 自分だけが救いたかったという傲慢さ。 それらが混ざり合い、濃厚な魔力となって卯月へ流れ込む。 「あ……」 全身が震えた。 「美味しい……」 魔力核が急速に膨らむ。 Pの魂から、表面の恐怖と絶望が吸い上げられていく。 一口。 また一口。 Pの膝から力が抜けた。 卯月は身体を支えようとせず、その場へ膝をついた彼を黄金の目で見下ろした。 「Pさんが、私を救えると思っていた気持ち」 さらに吸う。 「私を自分のものにしたかった気持ち」 もう一口。 「全部、とっても美味しいです」 プロデューサーの恐怖が薄くなる。 最初の食事は、それで終わるはずだった。 表面へ溢れた恐怖と絶望を食べれば、十分に卯月は満たされていた。 身体の火照りも収まり、魔力核も喜びに震えている。 「……もう、終わりにしないと」 そう呟いた。 だがプロデューサーの魂の奥に、まだ別の色が残っていた。 卯月が人間だった頃から積み重ねられてきた感情。 初めて担当した日の期待。 何度失敗しても、卯月の笑顔を信じ続けた信頼。 ともに仕事を乗り越えてきた、パートナーとしての愛情。 ステージへ送り出すたびに抱いた誇らしさ。 そして本人さえ明確には認めていなかった、淡い恋心。 何年もかけて育てられた温かな色が、魂の根に残っている。 どくん。 魔力核が、それを見つけた。 卯月の喉が鳴った。 「……こんなものまで」 『卯月』 酒呑の声が、僅かに低くなる。 卯月は腹部を抱きながら、膝をつくプロデューサーを見つめた。 もう十分だ。 そう分かっている。 それでも、魂の奥に残る青い光から目を離せなかった。 恐怖や絶望よりも、遥かに長い時間をかけて熟成された感情。 「でも……少しだけ」 卯月は自分へ言い聞かせるように呟いた。 「味を確かめるだけです」 『それは表へ零れた感情やあらへん。あの男の根っこや』 「私にくれたんでしょう?」 『どこまでやるか分かっとるん?』 卯月は答えなかった。 ただ、もう一度プロデューサーへ顔を近づけた。 彼の目には、恐怖が浮かんでいる。 先ほどまで、自分の魂を与える覚悟を見せた男が、今は本能的に後ずさろうとしていた。 「待て、卯月」 「Pさん」 卯月は優しく呼びかけた。 「まだ残っていますよ」 「何が……」 「私を信じてくれた気持ちが」 その声音には、慈しみすらあった。 だが慈しんでいるのは、二人の絆ではない。 その絆が、どれほど美味しそうに熟れているかだった。 「もっと、食べさせてください」 卯月は唇を重ねた。 三度目。 Pの魂の奥へ、鬼気が深く潜り込む。 最初に流れ込んできたのは、担当が決まった日の記憶だった。 不器用でも真っすぐ笑う少女を、いつか必ず輝かせると決めた気持ち。 澄んだ、優しい甘さ。 次に、仕事で失敗した卯月を励ました夜。 自分だけは彼女の笑顔を信じると誓った信頼。 穏やかで、深い味。 「ん……っ」 卯月の肩が震える。 恐怖とは違う。 刺激は鋭くない。 その代わり、舌から喉、胸、腹の奥へと、ゆっくり染み込んでくる。 次に流れ込むのは、ともに積み重ねた時間。 成功した喜び。 卯月の成長を誇らしく思った気持ち。 仕事相手という言葉だけでは説明できない愛情。 口にしなかった、ほのかな恋心。 「ああ……」 卯月は唇を離し、熱に浮かされたように息を吐いた。 「こんなに、私のことを思ってくれていたんですね」 Pの顔が苦痛に歪む。 「やめろ……」 「どうしてですか?」 卯月は本当に不思議そうに尋ねた。 「私にくれたんですよね?」 「そこまで、奪えとは……」 「でも、全部くださいってお願いしました」 「俺は、お前を救うために……」 「はい」 卯月は嬉しそうに微笑んだ。 「その気持ちも、とても美味しいです」 もう一度、魂を吸い上げる。 Pの魂から、青い信頼が抜け落ちていく。 橙色の愛情も。 淡い恋心も。 人間だった頃の卯月との思い出へ結びついていた温度も。 すべてが極上の魔力へ変わり、卯月の核へ注がれる。 「もっと……」 Pが床へ手をつく。 「卯月、もう……」 「あと少しだけ」 「やめろ」 その拒絶すら、卯月には遠く聞こえた。 心のどこかでは、止めるべきだと分かっている。 だが全身が喜んでいた。 心も。 舌も。 喉も。 腹の奥で狂おしく蠢く核も。 Pが何年もかけて自分へ育てた気持ちを、根から吸い尽くす味に歓喜している。 「全部……」 卯月の瞳が、恍惚と細められる。 「全部、私のものにしたい」 魂から色が失われていく。 Pの呼吸が浅くなる。 生命そのものを支える光まで、鬼気に引かれて揺らぎ始めた。 それでも卯月は止まらない。 最後に残った、卯月という名前への親しさ。 自分が守らなければという意志。 人間だった頃の彼女を、最後まで信じたいという願い。 それさえも味わおうとした。 『その辺にしとき』 酒呑の声が鋭く響いた。 卯月は聞かない。 「まだ残っています」 『それ以上は、気持ちやのうて命まで食うえ』 「でも……これも私のために育てたものです」 『卯月』 酒呑の魔力が、強引に卯月の霊脈へ割り込んだ。 魂へ伸ばしていた鬼気が断ち切られる。 「――っ!」 卯月は大きく仰け反った。 全身を貫いていた甘い流れが、突然途絶える。 その衝撃で数歩よろめき、荒い息を吐いた。 プロデューサーは床へ倒れ込んだ。 呼吸はある。 脈も残っている。 だが魂の色は、ほとんど透明になっていた。 命は助かった。 それでも、卯月へ向けられていた信頼も、愛情も、恋心も、その大部分が失われている。 『加減知らんにも程があるえ』 酒呑が呆れた声を出す。 『あと一口やったら、ほんまに死んどった』 卯月は倒れたプロデューサーを見下ろした。 「……どうして止めたんですか?」 自分の声を聞き、卯月自身が僅かに目を見開く。 心配ではない。 殺しかけた恐怖でもない。 食事を途中で奪われた不満が、真っ先に出ていた。 『死なせたかったん?』 「違います」 すぐに答えた。 だが、その先が続かない。 殺したくはなかった。 ただし、止めたくもなかった。 Pが自分へ向けて育てた感情を、一滴も残さず味わいたかった。 酒呑は倒れたプロデューサーの魂を確かめた。 『命は残った』 しばらくして、静かに続ける。 『せやけど、ここまで根こそぎやられたら……もう前と同じには戻らんやろなぁ』 「そうですね」 卯月は驚くほど淡々と答えた。 腹部へ手を添える。 魔力核は、これまでとは比較にならないほど巨大に膨らんでいる。 Pが何年もかけて自分へ育てた感情を取り込み、満足そうに脈打っていた。 どくん。 卯月の身体へ、深い充足感が広がる。 申し訳ないと思うはずだった。 泣いて謝るはずだった。 失った関係を惜しみ、どうにか感情を返す方法を探すはずだった。 けれど胸にあるのは、悲しみではない。 極上の食事を終えた満足。 自分へ向けられた信頼も愛情も、すべて食べて自分の一部にしたという所有感。 「……美味しかった」 卯月は静かに呟いた。 「Pさんが私を思ってくれた時間、全部」 黄金の瞳が、床へ倒れた男を見つめる。 「心配も、信頼も、好きだと思ってくれた気持ちも」 そのすべてが今は、卯月の魔力になっている。 「もう私の中にあります」 それは愛情を受け取った人間の言葉ではなかった。 感情を食べ、自分の内側へ取り込んだ鬼の言葉だった。 卯月はようやく理解した。 これまでは、鬼にされたと思っていた。 身体だけが変わった。 酒呑の力に侵食されている。 だから自分は被害者なのだと。 けれど違う。 Pの魂が熟れた瞬間を見極めたのは自分だった。 独占欲を育てたのも。 最も美味しいときに正体を明かしたのも。 二度目の食事で信頼や愛情まで根から吸い尽くしたのも。 すべて、島村卯月自身の意思だった。 「酒呑ちゃん」 『なんや?』 卯月は腹の奥で満たされた核を、両手で包んだ。 以前なら、異物のように嫌悪していた器官。 今は、その鼓動が愛おしかった。 自分が生きていると。 満たされていると。 何より確かに教えてくれる。 「もう、人間として生きようとするのはやめます」 酒呑は笑わなかった。 その言葉が、一時の酩酊ではないと分かっていた。 「人間の気持ちって、綺麗ですね」 卯月は静かに微笑む。 「信頼も、愛情も、時間をかけるほど深くなって」 その美しさを否定するつもりはない。 人の心が尊いことも。 誰かを愛する感情が温かいことも。 今の卯月は、誰よりもよく知っている。 味わい尽くしたから。 「だから、とても美味しいんです」 紅い唇が、ゆっくりと持ち上がる。 可愛らしく、人懐こかった笑顔の面影を残しながら。 そこへ初めて、鬼としての傲慢さと愉悦が宿った。 「私は、それを食べる側になります」 人間だった頃に最も信頼していた相手との絆を、自ら極上の食事として吸い尽くした。 しかも卯月は、それを後悔していない。 もう戻る理由はなかった。 床に倒れたプロデューサーの傍らで。 島村卯月だったものは、人間へ戻るために残していた最後の道を、自分の意思で閉ざした。 その夜。 卯月の身体だけではなく、魂までもが初めて鬼へ染まった。 そして心の奥で、後に卯月童子と名乗る鬼姫が、静かに目を開いた。