付喪神記(下)  その後、妖怪たちは一所に集まって、命の危機にさらされたことを語り合いほっとしていたが、  ある化け物の、 「我等はこの間から多くの生き物を殺し、邪悪の限りをつくしたによって仏法の責めを蒙った。  しかし、過ちを後悔する心を起こしたのでもったいなくも命ばかりは助けられたのである。  こうなったからには、早く今までの栄華をなげうって真の正しい道を求めよう」  という言葉にしたがって、みな一同に発心したのであった。 「そうなると、我等を導いてくれる徳の高い善知識を尋ねねばならないが、  あのとき我等を止めた一蓮こそ、学問に優れた諸宗に用いられる名匠だ。  あのお方にお導きを頼もう。  ただし、去年の冬にみなの前で恥をかかせたことが口惜しいが、  我等にもし罪を悔いる心があればどうして許して下さらないことがあろうか」  と、化け物たちは一蓮上人のすみかをたずねたのだった。  一蓮は昨年の冬からひとえに浮き世を厭い、山深くとじ籠り、  峰吹く松風を友としては現在・過去・未来の因縁について思いをめぐらし、  谷の水音に導かれて百八つの煩悩の垢を濯いでいた。  おりふし、古寺の入逢の鐘の音が恐ろしく微かに聞こえたので、 「今日も暮れるなあ」と一人口ずさむところに、柴の戸をほとほとと叩く音がした。  誰だろうと思って出ていくと、異形異類の化け物たちがやってきたのだった。  一蓮は、 「これはいったい何者だ。  仏法を害する天魔外道が私の道心を妨げようとして来たのか」  とたいそう驚いたが、 「我等こそあの古道具が化けた姿なのです」  と化け物の一人が言い、この間の出来事や発心の由来などを語れば、上人は、 「あの後、みなの行方を知りたく思っていたが、ここでお会いしたのは嬉しい限りです。  その上、発心をなさったことこそめでたいことです」  と喜んだ。  中にも、一蓮を痛めつけた手棒の化け物はことさら自分の咎を責めたので、上人は、 「そんなことおっしゃいますな。  こういう因縁によってこそ世を厭う気持ちは生まれるというもの。  あなたの悪行が私をさとし導く機縁となりますものを」  などとおっしゃる。  やがて、化け物たちは剃髪染衣の出家姿となり、沙弥の十戒から始め、  次第に具足戒を受けるまでになった。  ある時、僧となった化け物たちが上人に言うことには、 「おおよそ、さまざまな教えは仏果の大道ですが、  成仏の早い・遅いはひとえに教えの浅深によると承ります。  同じならば、深い教えを受けて早く真の道に入りとうございます」  すると上人は、こう論した。 「私は愚かで拙い僧の身ですが、長らく諸宗に学び、  有名な師匠の教えに従って真言宗の教門を叩かないということはありません。  おおよそ、神聖な教えを得ることは、  それぞれの機縁の浅深の度合いによって悟りに至る手段は異なるというものの、  すべてはこれ、生きとし生けるものの能力に応じて功徳をわかつものです。  どうして安易に是非を論ずることがありましょうか。  とはいえ、そのままの身で素早く悟るという即身頓悟について語るに至っては、  ひとえに密教でいう身・意・口の三密の力にあります。  昔、弘法太師さまがこの教えを説かれたとき、諸宗の名匠たちは疑ってそれに従いませんでした。  これによって、南北の碩学が朝廷に集まりいろいろな議論をしたのです。  それぞれ釈迦の弟子のごとく弁舌をふるいましたが、  大師の弁舌はとどこおりなく悟りのための精神統一の方法などを鏡を映すように明らかになさいました。  即身成仏の理が理路整然と説かれるに従い、さすがの碩学たちも舌を巻き、声を呑んでしまいました。  そのとき天皇が 『経文の立派なことは疑うべきことではない。しかし、朕はその証がみたいのじゃ』  と仰せられたので、大師が南方に向かって三秘密の境地に入りますと、  太師の肉体が忽ちのうちに大日如来のお姿となり、  こうべには五智の冠を頂き、背中から五色の光背を放ちなさったので、  天皇は頭を垂れて礼拝し、諸臣、諸僧も地面に降りて大師を拝し奉ったのです。  しばらくあって、大師はもとの姿に戻られ、生身の体と仏が不二一体であることをお示しになりました。  即身成仏への疑いはこの日に忽ちに解け、密教を根本とする真言宗がこのときからさかんに起こったのです。  大師が 『みなさんもすみやかにこの一門にお入りになり菩提を証しなさい』  とお語りになったので、列席の名匠で信受しない者はなかった、といいます。  この名匠たちはもとより徳の高い方ばかりだったので、金胎両部の法門を残るところなく伝授されたのです」  上人は続けて語った。 「あの龍智大王が妙薬をなめて八百歳の間年を取らなかったという故事は、  金智広智が遅れてやってくるのを待つためでした。  私は幸いなことにすでに名匠を得て法門のすべてを授けられましたので、  もう十分願いが叶いましたよ」  そう言って上人は百八歳の歳に念佛三昧の境地に入り、座にありながら成仏なさったのである。  すると、庵の西門が開いて真光が放たれ、部屋は破れて大日如来の浄土となった。  このような成仏の様子は、悟りを開こうとしている人でもなかなか見ることができない。  ましてや、なんの修行もしていない凡夫には見えなくて当然である。  しかし、真言修行の行者は、修行途上の方便によってそれを目の当たりにすることがある。  出家した化け物たちも上人の立派な成仏のありさまを拝して、  いよいよ修行の道に励む決意を新たにしたのだった。  その後、ある化け物が、 「このように一緒に住んで修行していれば、お互い気がゆるんで厳しい修行ができまい。  わからないことは教えあい、知識を増すことはいいのだが、  ややもすれば静かな修行のじゃまになることもある。  経文にも、『深い山に入って思惟仏道せよ』と説かれている。  だから、みなみな深山幽谷に分け入って、永遠に世俗との縁を絶って精進修行すべきだ」  と言うので、ほんとうにその通りだと思った化け物たちはしばしの名残を惜しみつつ、  それぞれが一人で住むことになった。  ある者は奥山の岩のはざまに苔のむしろを敷き、ある者は谷陰の松の木の下に庵を結んで修行に専念した。  そうして、それぞれに修行を積んで即身の悟りを開いた。  修行の形態や浅深によって、得た仏果はさまざまである。  如来の真言を修して持明悉地の成仏を遂げた者もいれば、  中台法性の観に住して諸仏悉地の悟りを開いた者もいる。  おおよそ、修行したあかつきに得られる仏果において多くの種類を立てることは  真言宗の特徴であって、顕教がかつて知らないことであった。  さて、命のない物が成仏するという教えについて、天台・華厳の両宗では  そのようなことを言ってはいるが、実際に成仏したという実例を聞かない。  しかし、真言三密の教義のみ、ひとりその実例があるのである。  それで、ほかの宗ではただ「草木成仏」と言っているのを、我が真言宗では 「草木は非情なれども、発心修行して成仏す」と言うのである。  いわゆる、迷いと悟りの世界である十界では、  ことごとく「阿字第一命」の徳を持たないものはないのである。  生命のあるものが発心修行して成仏するならば、  どうして命のないものができないということがあろうか。  今、古道具たちの成仏の因縁を聞いていよいよ真言宗の深奥であることを信ずるのである。  顕宗の学者が言うことには、昔からの伝えによると、道路や屋敷にはみな鬼神がいて、  寸暇を惜しんで活動しているという。  今、化け物になった古道具のことを思うに、きっとこの鬼神が憑いて悪事をさせたのであろう。  道具に自発的に化けるような本性があるだろうか。  いや、ないだろう、とのことである。  ああ、顕教と密教との懸隔は深いものだ。 「阿字(諸物の根元)」は命あるものもないものも等しく内に持っていて、なくなるものではない。  どうして古道具だけが鬼神の力を借りて化けるものであろうか。  もし、この深意を知ろうと思うならば、早く顕教の網から逃れ密教の道に入るべきである。