# ジャンク祓いの看板娘 ## 第壱話 ラジオに染み込んだもの ### 壱  朝の工房は油と鉄粉の匂いがする。  シャッターを半分だけ上げて、商店街の通りに漏れる光だけで作業をする。コンプレッサーの低い音が床を震わせていて、その下に、奥の事務机から流れてくるラジオの音が混じる。昭和歌謡。祖父ちゃんが昔から聴いている局のやつだ。 「こはく」 「あー、はい」 「茶、いる?」 「あとで」  返事をしながら手は止めない。あたしは作業台の上で預かった旋盤の主軸モーターを開いていた。町工場のおっちゃんから昨日の夕方に持ち込まれた案件で、症状は「動くんだけど、たまに咳き込むみたいに止まる」というやつ。 「主軸モーター、咳き込む系か。ベアリングだろ」  奥から声だけ寄越してくる。出てきもしない癖に、症状を聞いただけで部位が分かる。年の功というやつだ。 「あー、たぶんベアリング。金属粉、混ざってる」 「だろうな」  ジャンクじゃない。普通の故障。  機工系の祓い手をやっているとよく勘違いされるけれど、あたしの仕事の七割は普通の機械修理だ。ジャンク祓いと修理屋の二足の草鞋ではなくて、ジャンク祓いは修理屋の業務の一カテゴリーに過ぎない。看板が『ジャンク祓い』になっているのは、その方が珍しくて目を引くから祖父ちゃんが昔そう書いた、というだけの話。  症状を聞き取り、分解し、部位を特定し、処置し、動作を確認する。機械修理の手順はいつもこれで決まっている。  作業台の隅には油まみれの大学ノートが開きっぱなしだ。日付、案件、症状、処置──最後に一言感想を添えるのが、祖父ちゃんから引き継いだ癖だ。前日の最後の行に「油圧プレス/軸ぶれ/要グリス交換/また来るよね、これ」と、あたしの字が踊っていた。  主軸モーターのカバーを外して、ベアリングを覗き込んだ。微細な金属粉が混じっている。これかな、と当たりをつけて、続きの作業に入った。指の腹がドライバーの柄に馴染んでいて、握り直す必要もない。慣れた仕事は手が勝手に進む。  ふと、額にかかった髪の中でアホ毛が一本、勝手に揺れた。  気のせい。たぶん風だ。 「こはく」 「うん」 「客」 「えっ」  顔を上げると、シャッターの隙間から、中学校の制服が見えた。セーラーの紺色が夏の朝の光に切り取られている。立ち尽くしているのが、こちらからも分かった。  あたしは油まみれの手のひらをウエスで拭って、作業台を回り込んだ。 「あの……」  声が小さくて、聞き取りにくかった。あたしはシャッターの内側まで歩いて、その子と目を合わせる。 「ハイ、ジャンク案件ですか」  立ち尽くした制服の子は、肩を一度震わせてから、ゆっくり頷いた。 * ### 弐  あたしはその子を作業台の横の丸椅子に座らせた。狭い工房だから、応接スペースなんてない。事務机の引き出しから紙コップを出して、奥に向かって声をかける。 「祖父ちゃーん、お茶、追加で一杯」 「自分で淹れろー」 「客!」 「ふん、ゆっくり頼む」  奥から不機嫌そうな声が返ってきて、それからガサゴソとポットの音がし始める。  その子は両手を膝の上に揃えて、肩をすぼめていた。緊張している。たぶんジャンク祓いに依頼するなんて初めてだから、というよりは、いま起きていることを誰にも信じてもらえなかったから、ここでも信じてもらえないかもしれないと身構えている。そういう顔だ。 「ハイ、お茶、どうぞ」  紙コップを差し出すと、その子は両手で受け取った。 「あたし、御影こはく。看板出てる名前そのまま。あんた、名前は?」 「遠野……、しおり、です」 「中学生?」 「二年です」  ふむ、まあ、こういう仕事をしているとたまに来る年齢層だ。両親が信じない場合に、子供だけで相談に来るパターン。 「で、ジャンクの症状、聞かせてもらえる? あたしも仕事の進めようがあるんで」  しおりは紙コップを両手で握り直して、視線を畳の上に落とした。落ちている工具の影を見ているようだった。 「あの……お祖父ちゃんの、ラジオなんですけど」 「うん」 「夜中に、勝手に鳴るんです。毎晩、同じ時間に。十一時ちょうどに」  あたしは手元の紙コップに目を落として、ラジオの像を頭の中に置いた。 「真空管?」 「えっと、はい、たぶん」 「番組は?」 「昔の、歌謡の。お祖父ちゃんが、好きだった、ような曲を」  しおりは紙コップを握り直し、目線を畳に落とした。 「ような?」 「いま、もう、放送されてないみたいで……ネットで調べたんですけど、その番組は、二十年くらい前に、終わってる、って」  二十年前に終わった番組のリプレイ。古い小型ジャンクの典型的な症状だ。  ただし、毎晩同じ時間というのが少し気になる。半年くらい前に出始めて、最近一ヶ月で頻度と音量が増しているという話を聞いて、あたしは少し眉をひそめた。  半年。臨界に来ているにしては早いな。 「お祖父さん、いつ亡くなったの?」 「半年、前です」 「機械工だった?」 「町工場で、最後まで現場の機械を見てたって、母から聞きました」  半年か。あたしは頭の中でもう一度数えた。半年で症状が顕著、というのは、機工系の常識からすると早い。臨界点を踏むには時間が足りない。何か触媒があったはずだ。 「ラジオは形見?」 「私が、欲しいって言って、もらいました」 「他の遺品も家に?」 「あります、書斎に。お祖父ちゃんが亡くなって以来、片付けられないままで」  そこで初めて、しおりが顔を上げた。 「あの……お祖父ちゃんは、丁寧に機械を扱う人で。私にもよく言ってました。『機械は人を覚える』って。だから、私は」 「うん」 「ラジオも、お祖父ちゃんを覚えてる、ってことなのかな、って」  それはジャンクの理屈の半分くらいは合っている。けど、合っているのと、しおりが言いたいことは、たぶん違う。あたしは紙コップに手をかざして、湯気の向こうにラジオの像を思い浮かべた。 「神社には行った?」 「あ、はい、行きました。でも」 「断られた?」 「お祓いの対象には、ならないって。機械の故障では、神様の領分ではないって」  あたしは内心で苦笑した。 「うん、あいつら最近そういうの多いよ。機工系に丸投げ。あたしらの仕事増やしやがって」  軽口を叩いたつもりが、しおりは笑わなかった。  代わりに、紙コップを少しだけ持ち上げて、唇に近づけた。お茶は飲まなかった。 「ジャンクですね、明らかに」  あたしは結論を口にした。 「今夜、伺います。住所、書いてもらえる?」  しおりは頷いて、ペンを取った。住所を書きながら、声は出さずに口だけが動いた。あたしには読み取れた。  あの、本当に……お祖父ちゃんじゃ、ないんですよね?  あたしは答えなかった。 * ### 参  夜の街道は商店街よりずっと静かだ。  午後十時を過ぎると、祁邑市は半分眠ったような顔をする。閉まったシャッターの絵が、街灯の光で青みがかって見える。軽トラの助手席にしおりを乗せて、住宅地に向かう細い道を進んだ。 「あの、すみません、夜分に」 「いいよ。仕事だし」  しおりは膝の上で、両手を組んだり離したりしていた。緊張がほぐれていない。  あたしは話題を作ってやろうかと思って、けれどやめた。あたしの軽口でほぐれるタイプじゃないし、無理にほぐして向かう先がジャンク現場というのは、たぶん優しくない。  軽トラのバックミラーに、廃工場の影が映って、流れて、消えた。  もう一つ奥には廃線の駅舎がある。あれは大型班でも触れない場所だ。  昔は造船で食ってた港の方の路地を抜ける道で、夜になるとあのへんは少し空気が重くなる。あたしには視える側だから余計に。今夜は触れない。仕事先はあくまで遠野家のラジオだ。  しおりの家は住宅街の奥の二階建てだった。  門の前に車を停めて、エンジンを切った瞬間、玄関のドアが開いた。出てきたのはたぶんしおりの母親だ。化粧をしていない顔に、疲れた眉がついている。 「あの、ご足労、いただきまして」 「いえ」 「正直、私はこういうものを、その、信じている、わけでは」  あたしは笑ってみせた。 「ですよね、わかります」  母親はそれで少しだけ表情を緩めた。 「ただ、娘がここのところ、ろくに眠れていなくて」 「分かります。どっちにしろ、状態は確認しないと、何とも」 「お任せ、します」  廊下に上がる。家全体に、線香の香りがほんのり残っていた。仏壇からの匂い。半年経ってもまだ毎朝あげているということだ。  しおりが台所に寄って、湯飲みを二つ持ってきた。お茶が注がれていて、湯気が立っていた。緊張で喉が渇くのかもしれない。あたしの分まで、ご丁寧に。  しおりが先に立って、奥の和室に案内した。襖を開けた瞬間、あたしの胸の奥で、何かが小さく軋んだ。  部屋の三方の壁に、祖父の遺品が積まれていた。  工具箱が三つ、ラジオの隣に、古い柱時計、扇風機、無線機、それに折りたたまれた作業着。書斎というよりは、まだ持ち主が今夜帰ってくる予定の作業部屋に近い、そういう密度の物量だった。 「お祖父ちゃんが、亡くなって、半年経つんですけど」しおりは小さい声で言った。「片付けられないままで、ずっと」  ふむ。  あたしは部屋の真ん中に視線を置いて、それから周囲をぐるりと一周見渡した。物そのものではなくて、物の上に乗っている、薄い、磨りガラスみたいな層を視ていた。一つや二つじゃない。ほぼ全部の遺品の上に、薄い層がある。  でも、いちばん濃いのは奥の真空管ラジオだった。 「核はラジオで、確定っぽいね」 「核、ですか」  訊き返したしおりに、あたしは答えなかった。代わりに、肩からカバンを下ろした。中から雷錆レンチを取り出して、ロックを外す。  かちん、と乾いた音がして、折りたたまれていた金属が三段階で展開した。最終形態は身長と同じくらいの長さの杖で、先端にはレンチのヘッド、握りには音叉とコイル、柄には祖父ちゃんが刻んだ細かい意匠が並んでいる。  意匠の中には、機工系のものに混じって、祈祷系で見るような線も混ざっていた。あたしはそれを毎回、視ないふりをしている。 「念のため、レンチ展開しとくね」 「あの、それは、武器、ですか」 「武器でもあるけど、工具の延長」  時計を確認した。二十二時五十二分。  あたしはラジオの前に座って、しおりに少し下がるよう手で示した。 「ハイ、ラジオくん。お時間ですよ」  ラジオは答えなかった。当たり前だ。まだ。 * ### 肆  時計の針が動いた。  二十三時ちょうど。  ラジオが、勝手に、目覚めた。  ぱちん、と微かな音がして、真空管に灯がともる。古い機械の独特の、温まる時間。少しだけの遅延の後、スピーカーの奥からゆっくりと音が立ち上がってきた。最初はノイズ、次に司会者らしい男の声、それから歌謡の一節。  ——あの空の下で、また会いましょう、と——  ふた昔も前の歌が、二〇〇〇年代のテレビでは絶対に流れない節回しで、流れた。  しおりが息を呑んだ。 「お祖父ちゃん」と、しおりは小さく言った。  あたしは答えなかった。代わりに、ラジオの上を視ていた。  そこには人の手の動きがあった。  ノブに触れて、捻る。スピーカーの音量を、二段階だけ上げる。それから、椅子に座って、煙草の箱を探すように胸ポケットを叩く。  動きは透明で、空気みたいな密度で、けれどあたしには確かに視えていた。  祖父さんの、生前の手順だ。  ラジオが鳴り始めると同時に、額の前の髪の中で、アホ毛が一本、明らかにラジオの方へ向かって角度を変えた。気のせいじゃない。 「ハイ、お仕事しますか」  あたしは雷錆レンチを横に置いて、カバンから音叉を取り出した。同時に、磁石を一つ、左手に持つ。  音叉の柄を、ラジオの真鍮ダイヤルに、軽く当てた。  ぴい、と高い音が鳴る。  ラジオの音が、ほんの一瞬、歪んだ。  祖父さんの「手」が、ノブから離れた。  そのまま、消える、と思った瞬間——  部屋の隅で、何かがぱちんと弾けた。  工具箱の蓋が勢いよく開いた。中から、ドライバーが、レンチが、ペンチが、軒並み宙に浮いた。  古い柱時計の振り子が、逆方向に回り始めた。  扇風機が、誰も触れていないのに、ヴ、と低く唸って、回転を始めた。徐々に加速していく。  無線機からノイズと混じって、人の話し声らしきものが漏れてきた。  すべての遺品が、起きた。 「うわ、ちょっ、まじか」  あたしは反射的に立ち上がった。視界の隅で、宙に浮いた小型のドライバーが、しおりの方に向かって—— 「しおり、頭!」  あたしはレンチを横に薙いだ。展開していたから、リーチには余裕がある。レンチの長杆部がドライバーを叩き落として、畳に突き刺さった。  ドライバーは畳の繊維まで深く食い込んでいた。あれが当たっていたら、しおりの首から上のどこかが、無事ではなかった。 「核がラジオで、周りの遺品が共鳴してる、これ」  あたしは舌打ちした。 「思ったより蓄積してるな」  扇風機の羽根が外れた。  あたしはしおりの前に立った。 「あー、ハイハイ、面倒くせ。本気でやるね」  そう言って、袖をまくり直した。 * ### 伍  レンチを構え直して、軌道を計算する。  扇風機が最も危険だ。羽根が外れているからすでに高速回転体としては脱輪している。けれど、モーターがまだ生きていて、本体ごと振動で歩き始めていた。あれが転倒してこっちに突っ込んできたら、あたし一人ならまだしも、しおりは無理だ。 「動かないで」あたしは振り返らずに言った。「絶対に立ち上がらないでよ」 「は、はい」  二歩で扇風機に詰め寄った。レンチの先端のヘッドの内側に、機工系特有の音叉が組み込まれている。電源を入れて、頭部をモーターに直接当てた。  ぐわ、と扇風機が一度大きく震えて、それから、力を抜いた。  モーターが止まる。震動が収まる。 「よし、一個」  あたしは振り返って、左手の磁石を、部屋の中央に向かって投げた。  強磁束のかたまりが、宙を一瞬で横切る。古時計と無線機の中間に落ちた瞬間、両方の遺品から、薄いオーラみたいな層が、磁石に吸い寄せられて剥がれた。  柱時計の振り子が止まる。無線機のノイズが消える。  それと同時に、宙に浮いていた工具たちが、ぱらぱらと、雨みたいに畳に落ちた。 「ハイ、これで共鳴は止まる」  あたしは息を整えた。  部屋には、ラジオの音だけが残った。  昔の歌謡が、平然と、二番に入っていた。 「あの……」  しおりの声が、後ろから震えていた。 「全部、壊れたんですか」  あたしは振り返って、扇風機を、それから時計を、それから散らばった工具を見た。 「これ、後で直せる。今は止めただけ。直すから」  しおりは何も言わなかった。  あたしはレンチを杖代わりに床に突いて、ふう、と息を吐いた。  扇風機のモーター、たぶん、コイルは無事だ。古時計はネジを巻き直せばいい。工具は拾って並べればそれだけ。  書斎の三方の壁に並んでいた遺品は、ぼう、と立ったまま、もう動かない。  共鳴は止まった。  ただ、核は、まだ鳴っている。  あたしはラジオに向き直った。  それから、しおりに振り返った。 「さて」  それは自分に言ったのか、しおりに言ったのか、ラジオに言ったのか、自分でも分からなかった。 「核を、見るか」  しおりがこちらを見上げていた。  あたしは少し屈んで、その目を覗き込んだ。 「あんた、本当は、これ祓ってほしくないでしょ」  しおりの瞳孔が、針の頭ほどに、揺れた。 * ### 陸  しおりは、しばらく、答えなかった。  それから、震える指で、湯飲みを握り直す動作だけが、視界に入った。  お茶はもう冷えていた。 「違います」と、しおりは言った。 「違います」もう一度言った。 「だって、私、お祖父ちゃんが鳴らないと眠れないんです。むしろ困ってて。だから祓ってほしくて」 「それは、たぶん、嘘」  あたしは静かに言った。 「『鳴らないと眠れない』は、正解だと思う。鳴るから眠れないんじゃなくて、鳴るから眠れる。違う?」  しおりは何も言わなかった。  その何も言わなさが、答えだった。 「みんなには、なんて言ってるの?」 「鳴るのが怖い、って」 「親は信じない、わけだ」 「思春期、って」  あたしはふっと息を吐いた。 「気持ちの分かる年齢層だよ、それ。あたしも昔、そっち側だった」 「……御影さんも?」 「視えるのが、変だって言われた。子供の頃ね。でもさ、視えるのは『変』じゃなくて『体質』なの。ジャンクと一緒。違いが分かる人にだけ分かる」  あたしは、しおりの隣に腰を下ろした。畳に、直接、座った。レンチは横に置いた。 「あのさ、あたしは祓い屋だから、視えてしまうの。あんたのお祖父さんが、お祖父さんが残したラジオが、いまどう鳴ってるか。あたしには、それが、見えてる」 「はい」 「で、その上で、訊くんだけど」 「はい」 「あんたさ、お祖父さんが亡くなったとき、お祖父さんに、なんて言った?」  しおりは肩を震わせた。 「……行かないで、って」 「うん」 「言いました。何度も」 「うん」 「行かないで、行かないで、ずっと、行かないで、って」  しおりの目から、涙が、ひとつ、二つ、落ちて、湯飲みの縁を濡らした。 「お祖父ちゃんは、聞いてくれませんでした。ふっ、と笑って、それきり、目を閉じて」  しおりは声を絞り出していた。  一度、息を吸って、止めた。  それから、続けた。 「ずっと、私の中に、行かないで、が、残ってるんです。半年経っても」  あたしは頷きはしなかった。代わりに、ラジオの方を見た。  真空管の淡い橙色の灯火が、まだ点いている。 「あんたの、その『行かないで』が、たぶん、これ大きくしてる」あたしは静かに言った。「断定はできないよ。あたしも全部分かってるわけじゃない。でも、半年でこんなに育つのは、普通じゃない。何かが、機械じゃない側から、栄養を送ってる」 「私が、ですか」  あたしは少しの間、答えを待たれた質問のように、しおりを見つめた。 「お祖父ちゃんが繰り返してた『手の動き』が、ラジオに染み込んでる。それは事実。だけど、それを増幅させて、毎晩、十一時きっかりに鳴らすほどに育てたのは——」 「私が」 「たぶん」  しおりは湯飲みを両手で包んだ。手は震えていなかった。むしろ、何かを、決めるように、力が入っていた。 「私が、お祖父ちゃんを、引き止めてるんですか」 「断定はできない、って言ったでしょ」 「でも」 「うん、でも、可能性として、ある」  ラジオが、微かに、鳴っている。  歌の、サビの、二番。  祖父さんの「手」は、もう動いていない。けれど、機械は回り続けていた。 「祓ってください」と、しおりは言った。 「待って」 「えっ?」  あたしはラジオを一度見て、それからしおりに向き直った。 「先に、訊くことがある」 「はい」 「あんた、お祖父さんは、もうどこにもいない、って言われたら、どう思う?」  しおりは息を呑んだ。 「視えるなら、教えてください」しおりは、震える声で言った。「お祖父ちゃんは、本当に、もう、どこにもいないんですか」  あたしはラジオを見つめた。それから、しおりを見た。  そして、口を開いた。 「あたしね、視えるんだけどさ」 * ### 漆  あたしは、深く呼吸した。 「祓い屋やってると、ジャンクは『ジャンクとして』視える。そういう体質。それで、いま、ここに視えてるのは、お祖父さんじゃない」  しおりが息を止めた。 「お祖父さんが、生前ラジオを操作してた『手の動き』だけが、染み込んでる。何度も、何度も、毎晩同じ時間に。電源を入れて、ノブを捻って、煙草を探す。それだけ。意志はない。意識もない。お祖父さんが、いま、何かを思ってここに留まってる、ってわけじゃない」  しおりの目から、涙が、また落ちた。 「視えてるあたしが言うんだから、信じてほしい。これは、お祖父さん、じゃない」  しおりは、長いあいだ、何も言わなかった。  真空管の灯が、淡く、橙色に揺れている。歌は、サビが終わって、間奏に入っていた。 「視えるなら」しおりは、震える声で言った。「教えてください。お祖父ちゃんは、本当に、もう、どこにもいないんですか」  あたしは、答えを、すぐには口にしなかった。  代わりに、ラジオの上の、視えていた「手」が、もうそこにないことを、確認した。共鳴を切ったから、あの動きは、いったん止まっている。あとは核を片付ければ、消える。  祓いとは、そういう作業だ。  それでも、あたしは、口を開いた。  あたしはラジオに目をやった。それから、しおりの目に戻した。 「いない」  しおりが震えた。 「けど、いた」  しおりが顔を上げた。 「お祖父さんは、ちゃんと、ここにいた。だから、毎晩のラジオを聴く時間があった。だから、ノブを捻る手があって、煙草を探す癖があって、好きな番組を選ぶ耳があった。それが、機械に染み込むくらい、丁寧に、ここにいたんだよ」 「……はい」  しおりの目線が、わずかに、揺れた。 「染み込んでるのは、お祖父さんじゃない。けど、染み込ませた『お祖父さんがいた事実』は、消えない。あたしがこれを祓っても、消えない。あたしは、機械に染み込んだ動きを祓うことはできるけど、お祖父さんがいた事実は、祓えない。誰にも祓えない。事実はね」  しおりは湯飲みを、ぎゅっと握った。 「あたしね、お祖父さんって人、知らない。でも、ここに、こんなに『祖父さんがいた』が染み込むラジオを残せたって、それは、たぶん、相当のものだよ」  しおりは、しゃくり上げて、それから、頷いた。  何度か、頷いた。 「お祖父ちゃん、もう、いないんですね」 「うん」 「分かりました」  しおりは湯飲みを畳に置いた。 「祓って、ください」  あたしは頷いた。  雷錆レンチを取って、立ち上がった。  ここから先は、ただの仕事だ。あたしは整備工に戻る。  症状の確認。  真空管ラジオが、毎晩二十三時に勝手に作動する。  分解。  レンチの先端をラジオの裏蓋にあてがって、四つのネジを順に外す。蓋を開けると、真空管の発熱と、配線の埃の匂いがした。  部位の特定。  あたしには、視える。基板の中央、コンデンサとコイルの近くに、淡い橙色の層が、薄く、けれど確実に、層を作っていた。これが核。  処置。  カバンから音叉を取り出して、その層に向かって、振動を当てる。ぴい、と音が鳴って、層が、空気に溶けるように、薄れていく。お祖父さんの「手」の最後の名残が、ラジオから離れて、空中に散った。  動作確認。  あたしはラジオの裏蓋を戻して、ネジを締め直し、コンセントを入れ直して、ダイヤルを動かした。現在の局を、選んだ。  今夜の天気予報が、平凡な男のアナウンサーの声で、静かに流れた。 「機械は人を覚える、か」  あたしは独りごちた。 「覚えてた、ってことだよね、ちゃんと」  ラジオがお祖父さんの手の癖を覚えていた。半年間、毎晩、同じ時間に、再現していた。それは、人を『覚える』ということ、だった。  ただ、覚えると、いる、は、違う。  しおりは、畳の上で、声を出して泣いていた。  あたしは、レンチを畳んで、横に置いた。  それから、しおりの肩に、軽く、手を置いた。 「ハイ、終わり」  しおりは何度も頷いた。 * ### 捌  翌日。  午前中の工房は、いつも通り、油と鉄粉の匂いがする。  あたしは作業台の上で、預かった古時計を分解していた。振り子のネジ、軸受け、文字盤、それぞれをきちんと並べて、症状を確認していく。脱進機の歯車に、わずかな歪みがある。これは祖父さんが修理した跡があった。きっと、お祖父さんも、何度か、この時計を直していたんだろう。  足元には、扇風機と無線機と、それから、修理が完了したラジオが置いてある。 「こはく」  奥から、祖父ちゃんの声が聞こえてきた。最近は出てきもしない。エアコンの効いた奥の事務机から、声だけ寄越してくる。 「うん」 「昨日のジャンク、どうだった」 「思ったより大きかったです。共鳴してて。鎮めるのに手間取りました」  あたしは時計の歯車を一つ、油拭きで撫でた。 「ほう」 「核は小型ジャンクのレベルだったんですけど、周りの遺品が共鳴して、中型に近かったです」  奥から、ふん、と鼻を鳴らす音がした。 「半年って、臨界にしては早いな」 「ですね」 「触媒、あったか」  あたしは小さく息を吸った。 「依頼人の気持ちが、たぶん、触媒になってました」 「ふぅん」 「……ちょっと、危なかったです」 「ふぅん」  それきり、奥は黙った。  祖父ちゃんが『ふぅん』と言うときは、たいてい、何か思い当たることがあるけれど、すぐには言わない、ということだった。  あたしは、それ以上は訊かなかった。  訊いても、教えてくれないことを、あたしは知っている。  工具棚に、雷錆レンチを戻す。  今日も、柄の意匠の、機工系のものに混じる、線が、あたしの目に入った。祈祷系の意匠だ。  あたしは、毎度のように、視ないふりをした。  ふと、足元の扇風機の羽根が、誰も触れていないのに、ぴくりと一度だけ動いた気がした。  あたしはそちらを見ない。  鎮めた、ということは、消した、ということではない。それは祓い屋の常識だ。  ラジオに、コンセントを入れた。  真空管が温まって、橙色の灯が、淡くともる。あの夜のように。  スピーカーから、現在の、平凡な、午前の番組が流れた。  お天気のお姉さんが、今日は晴れだ、と言っていた。 「機械は、人を、覚える、か」  あたしは独りごちた。  それから、作業台の隅から、油まみれの大学ノートを引き寄せた。日付、案件、症状、処置──いつも通りに、行を埋める。鉛筆の先で書きつけた。「真空管ラジオ。中型ジャンク。核小、共鳴中。鎮め一、核処置一。完了」  最後の一行に、書きつけた。  機械は、人を、覚える、か。  鉛筆を置いた。  部屋の隅で、扇風機が、無音で、控えていた。  古時計は、針を抜かれて、文字盤だけが机の上に並んでいた。  それでも、ここには、お祖父さんが、いた。  そう思って、あたしは、続きの修理に戻った。 (了)