魔王城の奥深く。 一般の者にはその存在すら知られていない空間にヘミングウェイの隠し部屋は存在していた。 それはただの鏡を通してのみアクセスが許される、異界とも呼ぶべき場所。 その隠し部屋と呼ぶにはあまりにも広大で天蓋付きの荘厳な空間には壁一面に古今東西の書物が収められた巨大な本棚が立ち並び、天井からはシャンデリアの柔らかな光が降り注いでいる。 その一室では現在、カタカタと規則的でどこか乾いた音が響いていた。 音の主は空間の中央に据えられた特注の大きな卓を挟んで向かい合う二人、ヘミングウェイとクリムゾンノヴァ。乾いた音は卓上の何かを動かす動作から発せられている。 彼らが興じているのはヘミングウェイがかつてニコライ・ツンドクの図書館で目にした、とある子供向けの本に挿絵として載っていたボードゲームの再現だ。ヘミングウェイはその盤と駒のデザインに一目惚れして最高級の素材をかき集め、クリムゾンノヴァに作らせたのだった。 だがそれは単なる暇つぶしの道具ではない。二人は込み入った相談事や互いの意見をすり合わせる必要のある時、決まってこのボードゲームに興じながら話をすることにしている。 その理由は二人の性質にある。特にクリムゾンノヴァは血の気が多く、熱くなると喧嘩腰になりやすい傾向があった。しかしこうして常に手と頭を動かし、思考のリズムを乱さぬようゲームに集中しながら話すことで不思議と感情的な爆発を抑えて冷静な会話を保つことができたのだ。 このゲームの盤面が思考の「逃げ場」となり、感情が直接衝突するのを避ける緩衝材の役割を果たしていたのだった。 今回の話はクリムゾンノヴァの最近の行動に懸念を抱いたヘミングウェイが単刀直入に「釘を刺す」ため呼び出し、このボードゲームに興じながら切り出し始めたものだ。盤面では大理石製の盤に壁が設置され、ひとつひとつがとんでもない額になりそうな水晶細工のコマが配置されている。 「クリムゾンノヴァ、我輩達はあくまでもこの世界の『部外者』だ」 ヘミングウェイはそう言いながら自身の色のインプ像の駒とクリムゾンノヴァのインプ像の駒の間に壁のオブジェクトを置いた。それは、自分達「悪魔」や「超越者」と、この世界の住人との間に引かれるべき、明確な境界を示すかのように見える。 クリムゾンノヴァはその言葉に深い溜息を吐く。彼の目は卓上のゴーレムの駒を鋭く見つめている。 「……今更貴様が言えたことではないはずだがな。魔王の教育が終わってから散々好き勝手に遊んでおいて何を今更」 彼は離れた位置にある自身のゴーレムの駒を動かしてヘミングウェイの設置した壁に近づける。その行動はヘミングウェイの忠告に対する静かなる抵抗の意思表示だった。 「確かにそれは認める。我輩も貴様も好きなだけこの世界に手を貸し、好きなだけこの世界で遊び尽くした。だが……世界には踏み込んでいい限界というものがある」 「それも今更だ。もはや俺達の手で育てあげた魔王が存在しているという事実だけで十分に限界を超えているだろう。それにな、ヘミングウェイ。お前自身、影で“人形遊び”と称して人間の領分にも深く手を貸しているではないか」 カタカタと駒の移動や資源のオブジェクトを動かす音が二人の会話の応酬に合わせて交互に響く。クリムゾンノヴァの問いかけにヘミングウェイは口の端を吊り上げ、どこか愉快そうに答えた。 「それは飽き性な我輩の暇つぶしに過ぎず……あくまで新たな視点を得るための契約だ。 そもそも我輩たち悪魔にとっては魔族よりも人間の方が長い歴史に基づく取引相手である」 「ふん。正体を知らぬ人間に近づき、甘言を弄して契約させるのが貴様のような悪魔の常套手段。実に趣味の悪い暇つぶしだな」 クリムゾンノヴァはそう皮肉を込めて言ったが、ヘミングウェイは肩を竦めるだけだった。 「ただのギブアンドテイクだ。必要以上に求められなければ我輩も必要以上にもらう必要はない」 「……貴様は、魔族も人も、この世界においては等しく玩具と見ているのだな」 「当然だ。我輩はたまたま最初に魔族に呼ばれたからこちらに与しているに過ぎん。世界全体への帰属意識など本来悪魔にはあり得ん」 カタン。ヘミングウェイは盤面で自身のゴーレムの駒を動かし、クリムゾンノヴァの防衛壁を破壊して彼の拠点側へと侵入する一手を選んだ。ゲームはますます緊迫していく。 「悪魔にこれを聞くのもどうかとは思うが……貴様は、本当に情というものが湧かないのか?」 クリムゾンノヴァのその問いかけにヘミングウェイは一瞬、駒を動かす手を止めた。 「……悠久の時を生き、我輩の手で数多の世界を見てきた貴様なら分かるであろう。我々はあまりにも長くこの世界に関わり過ぎた。定命の者達の刻が我々にとって一瞬で過ぎ去ることを理解していたのに、深く関わって、情を与えようという所まで来てしまった」 ヘミングウェイは、自らのインプ像を弾き飛ばし、その勢いでゴーレムの駒をクリムゾンノヴァの王の駒の目の前に置いた。まるで、最終警告を突きつけるように。 「貴様、魔王と共に歩もうとしたな?」 その一言がクリムゾンノヴァの動きを完全に止めた。駒を動かそうと伸ばされていた彼の指先が、空中でぴたりと固まる。それは、クリムゾンノヴァ自身が心の奥底で認めていた事実だった。それをヘミングウェイに改めて鋭く指摘されてしまうと自分の中で何も悪くないはずだと思っていたにも関わらず、彼は言葉に詰まってしまった。 「……我輩も貴様も、この世界からすれば化け物だ。魔族、人族、どちらの視点から見ても我々は超越者であり、異物。その気になれば世界の理を根底から破壊しうる存在である」 「いてはならぬ存在、とでも?」 クリムゾンノヴァは、絞り出すような声で聞き返す。 「そうだ。いてはならぬ存在であるからこそ、けして戦いの表舞台に関わるなと伝えたな」 クリムゾンノヴァは、動揺からか駒を動かさない。ヘミングウェイはそれを「パス」と受け取り、迷うことなく駒を動かして、クリムゾンノヴァの王の駒を盤面から弾き出した。 「ゲームは我輩の勝利だが……」 ヘミングウェイの勝利でゲームは終わったが、会話はまだ中途半端だ。彼は魔力を使い、一瞬にして盤上の駒を初期の位置に戻した後、再び三つの駒――王、悪魔、竜――だけを選んで並べた。まるで、この城の三権を象徴するように。 「だからこそ俺はこの城から一歩も離れてはいない。魔王が俺達の前に姿を見せなくなってからも俺は魔王城から離れたことはない」 クリムゾンノヴァは自身が自制していることを主張した。 「知っている。正直なところ貴様がいつ堪えきれずに外へ飛び出していくかと我輩は戦々恐々としている」 「ほざけ。……というより、誰よりも魔王に入れ込んでいたのは貴様だろう。あの退屈を嫌うお前が自らの手で最高の退屈しのぎを育て上げたのだからな」 「我輩は…………ああ、認める。柄にもなく情をかけたのだ。あの魔王に。そして、この未だ発展途上な世界に」 ヘミングウェイは、盤上に並べた王の駒を眺めながら、どこか自嘲気味に、そして深く静かに笑った。彼の言葉には、悪魔らしからぬ、人間的な後悔のような感情が滲んでいた。 「この世界を貴様に見せ、連れてきたのは我輩だ。我輩が魔王に入れ込んでしまい、その情が移ることを見越して客観的な目線として貴様を魔王に会わせたのだ。自身のすることを客観的に見たくなった……それに貴様を付き合わせた以上、その責任を問うならばそれは全て我輩に帰結するものだ」 クリムゾンノヴァは、腕を組んで静かに言葉の先を促した。ヘミングウェイがここまで自らの内面を深く、長く語ることは滅多にない。言いたいことは山ほどあったがひとまず全てを話させようと耳を傾けた。 「我輩のいた世界では神も人も悪魔も皆が皆、常に争っていた。我輩がその気になれば簡単に崩れてしまう脆い世界のために、必死にな」 「それは以前にも聞いたな」 「……なぜ争うのか少しだけ理解した気がするのだ。我輩は知識だけでは得られぬものをこの世界でいくつも得てしまった。我輩らしからぬ考えだが……戦いたくなるとまでは思わないが、仲間……友……どれが適した扱いかは分からぬが……ああ、そうだ。肩入れしたくなる気持ちというものを初めて知った。この悠久の時を経て、やっとな」 そこまで聞くと、クリムゾンノヴァは目を大きく見開いた後、くっ、くっと、静かに笑い始めた。これは、珍しいどころの話ではない。常に冷徹で、なんでも知ったような顔で話すこの偏屈な悪魔が、実に初々しい反応を見せている。面白くないはずがなかった。 「関わるな、と言ったが……少しだけ手を貸すだけなら問題あるまい。契約ではなく……そうだな、手のかかる隣人にほんの少しの助けを差し伸べるのは……罪ではあるまい」 どこか言い訳じみた、言葉を選びながら言うヘミングウェイに、クリムゾンノヴァは意地の悪そうな視線を向けた。その視線に耐えかねたように、ヘミングウェイはわざとらしく咳払いを一つしてから言う。 「だが、本腰は据えるな。我輩達は、あくまでも部外者でーー」 「もういい、もういい。分かっている、分かっているから、貴様の自戒に俺を巻き込むな」 「……善処しよう」 観念したように、ヘミングウェイは深く溜め息を吐いた。 ちょうどその時、規則正しい足音と共に、二人の「隣人」が隠し部屋へと足を踏み入れた。一人はワタリガラスのガーゴイルであるフィッツジェラルド。もう一人は、バンシーと水の精霊の混血であるシルビア……抱き抱えられているぬいぐるみのような姿のフォーメイトもいる。大抵このタイミングで彼らが来るのは午後のお茶の誘い、すなわちティータイムの始まりを告げる合図である。 シルビアは無邪気な笑みを浮かべて超越者である二人を誘う。 ヘミングウェイもクリムゾンノヴァも、それぞれの世界で支配者として畏敬される超越者でありながらこの世界では少女のお茶の相手という、極めて人間的な役割を担っている。それが二人にとってはいまだに新鮮で面白いのだ。 「では淑女のエスコートは貴様に任せよう」 「毎回だろうが……仕方ない。シルビア、いつも通り俺の腕に乗れ」 「腐るな、我輩の人形が人間から譲り受けた菓子を出してやる……甘すぎて我輩の口には合わん」 クリムゾンノヴァは仕方ないと言いつつも口元が緩んでいる。シルビアは喜んでその強靭な腕に飛び乗った。 ガーゴイルであるフィッツジェラルドは声を出すことができない。代わりに好奇心と満足感を込めた瞳で三人の様子を興味深く眺めていた。 このワタリガラスは悪癖が多く、巻き込まれた魔族たちからの苦情がそれなりに来る問題児のガーゴイルだ。積み上げた実績と実力がなければとうに魔王城から追い出されていただろう。 しかし、幸いなことに彼はまだこうしてこの一室にいる。基本的に自分勝手で自由を好む性格ではあるが、ヘミングウェイに拾われてから彼の生活は劇的に変化した。その恩義はフィッツジェラルドの心に深く刻まれている。そしてなにより魔王がいなくなってからも、自身を含めた四人が定期的にこうして集まる「日常」を彼は気に入っていた。 言葉でこれを伝えることはできないが、自由を何よりも好むフィッツジェラルドが魔王の護衛という任を解かれて尚、自らの意思で会いに来るだけで恐らくヘミングウェイ達には分かっているはずである。 フィッツジェラルドは今日もまた、その静かな足音で三人の後を追うのだった。