# 『お姉ちゃんは私のもの!~シスコン妹と残念お姉様の日常~』 --- ## 登場人物 **霧島 柚月(きりしま ゆづき)**──姉。高校二年生。長い黒髪にアイスブルーの瞳。校内では「氷の華」と呼ばれるクール系お姉様。成績優秀・容姿端麗──だが家では壊滅的ポンコツ。料理をすれば火災報知器が鳴り、洗濯機の使い方を三年経っても覚えられない。妹のことを世界で一番愛している。 **霧島 ひなた(きりしま ひなた)**──妹。高校一年生。ショートボブの栗色髪にくりくりした大きな目。学校では元気印の太陽系女子。家事全般を完璧にこなす有能妹。しかしその本性は、姉への愛が宇宙規模のシスコン・ヤンデレ。お姉ちゃんに関わる全てに対して独占欲が発動する。性的嗜好が姉に向いているという業の深さを持つが、本人はそれを「だってお姉ちゃんだから当然でしょ?」で片付ける。 **白石 環(しらいし たまき)**──ひなたの幼馴染。同じ高校の一年生。おっとり系に見せかけた百合オタクの権化。ひなた×柚月でも柚月×ひなたでもどちらでもイケる雑食派。ひなたが姉にクソデカ感情を向ける度に「最高に可愛いですわ~!」と恍惚の表情を浮かべる。常にメモ帳を持ち歩き、二人の尊い瞬間を書き留めている。 **城ヶ崎 凛々花(じょうがさき りりか)**──柚月の高校の友人。ギャル。派手な見た目に反して貞操観念は鋼鉄レベル。面倒見が良く、ポンコツ柚月を放っておけない世話焼き体質。そしてある日、ひなたに一目惚れしてしまう。 --- ## 第一章 朝の霧島家 朝六時。 キッチンに立つひなたの一日は、炊飯器の蒸気と共に始まる。 味噌汁の出汁をとり、卵焼きを巻き、漬物を小鉢に盛り付ける。手際の良さは料亭の板前も顔負けだ。エプロンの紐をきゅっと結び直し、鼻歌交じりにフライパンを振るう。 「ふんふふーん♪ お姉ちゃんのための朝ごはん♪ お姉ちゃんの好きな甘い卵焼き♪」 何気ない朝の風景──に見えるだろうか。 「今日のお味噌汁はお姉ちゃんの好きなワカメとお豆腐。お姉ちゃんの好きなミニトマトも洗ったし、お姉ちゃんの好きな焼き海苔も出したし、お姉ちゃんの──」 全部「お姉ちゃんの好きな」で始まっている。自分の好みは存在しないのか。 いや、存在しない。ひなたの好みは「お姉ちゃんの好きなもの」だから。 完璧な朝食をテーブルに並べ終えると、ひなたは階段を駆け上がった。目的地は二階の寝室。姉妹で同じベッドで寝ているその部屋。高校生にもなって、だ。 正確に言えば、部屋は二つある。だがひなたの部屋は「お姉ちゃんの持ち物保管庫」と化していて、もはや就寝スペースとしては機能していない。柚月が幼い頃に使っていたヘアゴム、柚月が中学の時に書いたノート、柚月がうっかり落としたシャーペンの芯まで──ひなたは全てを回収し、大切に保管している。 寝室のドアをそっと開ける。 そこには、布団を蹴飛ばし、パジャマがはだけ、口を半開きにして寝ている「氷の華」の姿があった。 涎の跡がうっすらと枕に。 「…………かわいい」 ひなたの目がハートになった。比喩ではなく、本当にそう見えるくらいの恋する乙女の顔だった。 「お姉ちゃん、朝だよ」 布団の横にしゃがみ込み、柚月の顔を覗き込む。長い睫毛、白い肌、形の良い唇──ひなたはうっとりとした眼差しで姉を眺めた。 起きない。 「お姉ちゃーん」 肩を揺する。 起きない。 「……お姉ちゃん」 顔を近づける。近い。近すぎる。鼻先が触れそうな距離。 「──ん」 柚月の瞼がゆっくり開いた。まだぼんやりとした藍色の瞳が、目の前にあるひなたの顔を捉える。 「……ひなた?」 寝起きの低いハスキーボイス。ひなたの心臓が跳ね上がった。 「おはよ、お姉ちゃん!」 満面の笑み。尻尾があったら千切れるほど振っている。 柚月はゆっくりと身を起こし、まだ半分眠っている目でひなたを見つめた。そして── 「おはよう、ひなた」 ひなたの額に、ちゅ、と軽くキスを落とした。 幼い頃からの習慣。おはようのキスとおやすみのキス。柚月にとっては呼吸するくらい自然なことで、特別な意味は何もない。 だがひなたにとっては。 「~~~~っ!」 顔が真っ赤になり、両手で額を押さえ、その場でじたばたと悶える。毎朝この儀式を受けているのに、毎朝この反応をする。慣れることはない。永遠に慣れない。慣れたくない。 「ご、ごはん、できてるから! 下で待ってるね!」 猛ダッシュでキッチンへ戻るひなた。 柚月はその背中をぼんやり見送り、小さく微笑んだ。 「……可愛いなぁ、ひなたは」 ポンコツお姉様は、自分のキスが妹にどんな破壊力を持っているか、まるで理解していない。 --- リビングに降りてきた柚月は、テーブルに並んだ朝食を見て目を丸くした。 「……今日も凄いわね」 和食の献立が美しく盛り付けられている。味噌汁は湯気を立て、卵焼きは黄金色に輝き、白米はつやつやと光っている。 「えへへ、お姉ちゃんが美味しいって言ってくれるから、つい張り切っちゃうんだ」 ひなたがえへんと胸を張る。 柚月が席に着き、箸を取る。一口、卵焼きを食べる。 「──美味しい」 その一言に、ひなたの顔が花が咲いたようにぱあっと明るくなった。 「ほんと!? お姉ちゃんが好きだって言ってた甘めの味付けにしたんだよ! あと出汁もちょっと変えてみたの、前にお姉ちゃんがテレビで鰹出汁のお味噌汁が好きって言ってたから──」 情報収集能力が高すぎる。テレビでの何気ない一言すら逃さない。 「ありがとう、ひなた。いつも感謝しているわ」 クールな声音で、しかし確かな愛情を込めて言う柚月。学校で見せる「氷の華」の片鱗を残しながら、その目は妹を見つめるときだけ甘く溶ける。 「お姉ちゃんっ……!」 ひなたが感極まって椅子から立ち上がり、柚月の背中にがばりと抱きついた。 「ちょ、ひなた、食事中──」 「だってお姉ちゃんが優しいこと言うから! お姉ちゃん好き! 大好き! 世界一好き!」 ぎゅうぎゅうと抱きしめる。柚月の表情は迷惑そうに見えて、その口元はわずかに緩んでいた。振り払う気など毛頭ない。 「……わかったから。味噌汁が冷めるわよ」 「冷めてもいいもん。お姉ちゃんの方があったかい」 「意味がわからないわ」 わかっている。わかっているけど、わからないふりをする。それが霧島柚月のやり方だった。 --- 朝食の後、ひなたは洗い物を済ませ、洗濯機を回す。霧島家の家事は全てひなたの領分だ。 両親は海外赴任中で、仕送りは潤沢にあるが二人暮らし。家事能力ゼロの柚月と、家事能力MAXのひなた。完璧な需要と供給のバランスが成立している。 洗濯機がピーと鳴る。 ひなたは洗濯物をカゴに移し、ベランダへ向かう。タオル、シーツ、自分の制服──そして、柚月の服。 柚月のブラウスを手に取る。 「…………」 一瞬、手が止まる。 それから何事もなかったかのように、てきぱきと干し始めた。 何もなかった。何もなかったのだ。ひなたの耳が真っ赤なのは朝日のせいである。断じてそれ以外の理由はない。 ただ一つだけ。 「……お姉ちゃんのシャツ、今日は私が着ていこうかな」 なぜそうなる。 ひなたは柚月のシャツを一枚、こっそり自分の部屋に持ち込んだ。大きめのサイズが肩からずり落ちる感じがたまらないのだ、と本人は主張している。柚月は「またひなたが私の服着てる」くらいの認識で、特に気にしていない。天然は最強の防御力を誇る。 --- ## 第二章 通学路の波乱 「ひなちゃーん! おはよーございますわ!」 通学路で合流した白石環は、今日も今日とてにこにこ笑顔だった。ウェーブのかかったミルクティー色の髪を揺らし、小走りでひなたに駆け寄る。お嬢様言葉なのは素なのかキャラなのか、誰にもわからない。 「おはよう、たまちゃん!」 「今日も元気いっぱいですわね、ひなちゃん。そしてそのシャツ──少し大きくありません?」 環の目がきらりと光った。鷹の目。百合の鷹。 「あ、これ? えっと、これはその……お姉ちゃんのシャツで……」 「お姉様のシャツを!?」 環が手帳を取り出した。ものすごい速さでペンが走る。 「衣類の共有──いえ、妹側からの一方的な持ち出しですわね? これは『姉の匂いを纏いたい妹』の構図……スコア高いですわ……ああ、なんて尊い……」 「た、たまちゃん? 何書いてるの?」 「日記ですわ♪ ただの日記♪」 ただの日記にしては筆圧が尋常ではない。 三人で──正確には柚月は先に家を出ている。「氷の華」は妹と一緒に登校して猫を被る前の素を見せるわけにはいかないのだ。ひなたは「一緒に行きたい」と毎朝ごねるが、柚月は「学校では姉妹であることをあまり見せない方がいい」と諭す。 ひなたは不満だが従う。お姉ちゃんの言うことは絶対だから。 「で、ひなちゃん。今朝のおはようのチューはどうでしたの?」 「!? な、なんでそれ知って──」 「毎朝のルーティンでしょう? お姉様がひなちゃんの額にキスをなさるのは、もはや確定情報ですわ」 「……えへへ。今日もしてくれた」 ひなたの顔がとろけた。ドロドロに溶けた。チーズフォンデュか。 「今日はね、お姉ちゃんの寝起きの声がいつもよりハスキーで、もうほんっとに可愛くて、で、おはようって言って額にちゅってしてくれて、私もう死ぬかと思って──」 「素晴らしいですわ……! それはつまり、朝の寝起き状態でまず最初にひなちゃんの存在を認識して、無意識レベルで唇を寄せている……お姉様にとってひなちゃんは目覚めの第一優先事項……!」 「でしょでしょ!? お姉ちゃんすごいでしょ!? 世界一かわいいでしょ!?」 「最高に可愛いですわ~!──ひなちゃんが」 「え?」 「なんでもありませんわ♪」 環はメモ帳に「朝のチュー→妹側の反応:顔面紅潮、心拍数推定170bpm、語彙力消滅」と書き加えた。 --- ## 第三章 氷の華の正体 霧島柚月が学校で見せる顔は、家とは別人だった。 「霧島先輩、おはようございます!」 「おはようございます、霧島先輩!」 「霧島先輩、今日も素敵ですっ!」 廊下を歩くだけで挨拶の嵐。柚月はそれに、涼しい表情で小さく頷くだけで返す。無駄口を叩かない。表情を崩さない。背筋は伸び、歩き方は優雅で、まるで映画のワンシーンのようだ。 「かっこいい……」 後輩たちのため息が廊下に充満する。 だが。 教室に入った瞬間── 「ゆづ! おっはよー!」 金髪のハイトーンに、ピンクのメッシュ。制服のスカートは校則ギリギリの丈。耳にはキラキラのピアス。城ヶ崎凛々花が、満面の笑みで柚月に飛びついた。 「……おはよう、凛々花」 「ちょっとゆづ、また朝ごはん袖口にこぼしてるし! ほら、じっとして」 凛々花がハンカチを取り出し、柚月のブラウスの袖口を拭く。そこには味噌汁のシミがうっすらと。 「……気づかなかったわ」 「気づかないから問題なの! あんた学校では完璧なのに、こういうとこがほんとダメなんだから!」 「すまないわね」 「すまないじゃないし! ──はい、取れた。もー、ゆづはあたしがいないとどーすんの」 「困るわね、きっと」 さらっと言う。凛々花の頬がほんのり赤くなる。 「……っ。そ、そういうの、真顔で言うの禁止ね!」 柚月は何が禁止なのかわからない、という顔をしている。天然である。 城ヶ崎凛々花は、見た目はバリバリのギャルだが、その実態は「おかん」だった。面倒見が良すぎて、クラスの誰かが困っていれば真っ先に駆けつける。体調の悪い子にはさっと自分の上着をかけ、忘れ物をした子には予備の文房具を貸し、テスト前には自作のまとめノートを回す。 そして何より、柚月に対する世話焼きが群を抜いている。 入学直後、柚月がロッカーの使い方がわからずに無表情で十五分間立ち尽くしていたのを助けたのが出会いだった。あの「氷の華」が実はポンコツだと知った凛々花は、以来ずっと柚月の保護者を自任している。 「で、今日の弁当は? まさか持ってきてないとか言わないでしょーね」 「……ひなたが作ってくれたわ」 柚月がバッグから弁当箱を取り出す。布に包まれたそれには、手書きのメッセージカードが挟まっていた。 『お姉ちゃんへ♡ 今日も頑張ってね! 大好きだよ!!! ──ひなたより』 ハートマークが五つ。「大好き」の文字は通常の三倍の大きさで書かれている。 「……妹ちゃん、相変わらずだね」 「ええ。可愛い妹よ」 柚月の目が甘くなった。「氷の華」の鉄壁が、妹の話題だけで呆気なく溶ける。 「ゆづ、その顔やめなって。ファン泣くよ」 「どういう意味かしら」 「デレッデレだっつの」 自覚なし。これだからポンコツは。 --- ## 第四章 運命の邂逅 その出会いは、昼休みに起きた。 柚月がうっかり購買のパンの買い方を忘れて(列に並ぶということを失念した)立ち往生しているところに、凛々花が救出に向かった帰り道のことだ。 「もー、ゆづ。購買は毎回あたしと行くって約束したでしょ。なんで一人で行くかなぁ」 「……弁当があるのを忘れていたのよ」 「弁当あるのに購買行ったの!?」 会話が成立しているようでしていない。 中庭を通り抜けようとした時だった。 「お姉ちゃーん!!!」 遠くから、全速力で駆けてくる小さな影。栗色のショートボブが風になびき、大きな瞳がキラキラと輝いている。まるで飼い主を見つけた子犬──いや、それ以上の熱量。 ひなたは一切の減速なく柚月に激突し──もとい、抱きついた。 「お姉ちゃん! お弁当、美味しかった? 今日は唐揚げをレモン味にしてみたんだけど、お口に合った? ねえねえ、合った? 合ったよね!?」 「ひなた、まだ食べてないわ」 「えっ! もうお昼だよ!? お姉ちゃんちゃんとご飯食べないと駄目だよ! 栄養が! 免疫力が! お姉ちゃんが風邪引いたら私がお粥作って看病するけどそれはそれで嬉しいけどでもお姉ちゃんが辛いのは嫌だから──」 マシンガントーク。息継ぎを知らない。 凛々花は、その光景を横で見ていた。 見ていた──のだが。 最初に目に入ったのは、駆け寄ってくるひなたの笑顔だった。 太陽みたいだ、と思った。 こんなに純粋に、こんなに真っ直ぐに、誰かを好きだという感情を全身で表現できる人間がいるのかと思った。大きな目に宿る絶対的な愛情。はにかんだ時にちらりと覗く八重歯。姉にしがみつく小さな手。声のトーンが上がるたびに揺れる栗色の髪。 心臓が、どくんと大きく鳴った。 嘘でしょ、と凛々花は思った。 「り、凛々花? どうかしたの、顔赤いけど」 柚月が珍しく他人の異変に気づいた。普段は気づかないくせに。 「な、なんでもない! なんでもないから!」 凛々花は慌てて顔を背けた。 ひなたが柚月から離れ、凛々花の方を向いた。きょとんとした顔。 「あ、お姉ちゃんのお友達? 初めまして! 霧島ひなたです! お姉ちゃんがいつもお世話になってます!」 ぺこり、と元気よくお辞儀。 「っ──ど、どーも。城ヶ崎凛々花。ゆづの友達」 声が裏返った。城ヶ崎凛々花、十七年の人生で初めて声が裏返った。 「凛々花さん! お姉ちゃんをよろしくお願いします! お姉ちゃんポンコツだから、学校で誰かに面倒見てもらえてると安心です!」 ストレートに姉をディスっている。だが愛がある。愛しかない。 「う、うん。任せて。あたしがちゃんと面倒見てるから」 「わぁ! 頼もしい! ──でも」 ひなたの目がすっと細くなった。さっきまでの太陽のような笑顔が、一瞬だけ影を帯びる。 「お姉ちゃんに一番近いのは、私ですからね?」 笑顔のまま言った。 怖い。笑顔が怖い。 凛々花の背筋を冷たいものが走った。だがそれは恐怖であると同時に、不思議な魅力でもあった。さっきまでの太陽が一瞬で月に変わるこの落差。 やばい。これ、もっとやばい。好きになる。 「あっ、ごめんなさい! 今のは冗談ですよ! あはは!」 一瞬で太陽に戻った。情緒のジェットコースターが過ぎる。 そこへ── 「あらあら、凛々花さん? 初めましてですわ。ひなちゃんの幼馴染の白石環と申しますの」 いつの間にか背後に立っていた環が、穏やかな笑みを浮かべていた。 「ひなちゃんがお姉様にクソデカ感情を向ける瞬間を正面から浴びた感想はいかがですの?──なかなかの破壊力でしょう?」 「クソデカ感情って何!?」 「事実ですわ♪」 凛々花はこの日、三つのことを知った。 一つ、霧島柚月の妹はとんでもなく可愛い。 二つ、霧島柚月の妹はとんでもなく怖い。 三つ、自分はどうやら、その両方に惹かれている。 --- ## 第五章 お風呂の時間 霧島家の夜は、ひなたの「お風呂入ろう」の一言で始まる。 「お姉ちゃん、お風呂沸いたよ! 一緒に入ろ!」 「ええ」 柚月は何の疑問も持たずに頷く。高校生の姉妹が一緒にお風呂。世間的にはどうなのかという議論はさておき、霧島家ではこれが日常だ。幼い頃からずっとそうだったし、やめる理由もない。少なくとも柚月にとっては。 脱衣所で服を脱ぐ。 ひなたは──直視できない。視線が泳ぐ。天井を見たり、壁を見たり、自分の足元を見たり。 姉の身体は白い。すらりとした手足、華奢だが出るところは出ている体つき、それに── 体毛が薄い。非常に薄い。というか、ほぼない。 「……お姉ちゃんって、ほんとにツルツルだよね」 「生まれつきよ。手入れが楽で助かるわ」 当人はまるで気にしていない。コンプレックスもなければ自慢でもない。ただの体質。 ひなたの心臓はバクバクだった。毎日のことなのに慣れない。一生慣れない。慣れたくない(二回目)。 浴室に入り、シャワーを出す。 「お姉ちゃん、洗いっこしよう!」 「ええ、いいわよ」 これも毎日の恒例行事。背中の洗いっこ。 柚月はボディタオルを泡立て、ひなたの背中を丁寧に洗う。 「力加減はこれくらいで大丈夫?」 「うん! お姉ちゃん上手!」 続いてひなたが柚月の背中を洗う番。 ──素手で。 「ひなた」 「ん?」 「タオル」 「え?」 「タオルを使いなさいと言っているの」 「えー。素手の方がちゃんと洗えるよ? 泡の感触で汚れがわかるし」 「それは詭弁よ」 「詭弁じゃないもん。科学的根拠があるもん」 「ないわよ」 「あるの! ……たぶん」 毎回このやりとりをしている。そして毎回、柚月が折れる。 「……好きにしなさい」 ひなたの顔が輝いた。 素手で姉の背中を滑る指先。肩甲骨の形を確かめるように、背骨のラインをなぞるように、丁寧に、丁寧に。 「お姉ちゃんの背中、綺麗……」 「……変なことを言わないの」 「変なことじゃないよ。事実だもん」 湯気の中で、ひなたの目がとろんとしている。柚月にはそれが妹の「甘えモード」にしか見えていない。 深いところには気づかない。気づかないのか、気づかないふりをしているのか。おそらく前者だ。ポンコツだから。 髪を洗い合い、湯船に浸かる。向かい合わせで座り、足が触れ合う狭さ。 「今日ね、お姉ちゃんのお友達に会ったよ。城ヶ崎さん」 「ああ、凛々花ね。良い子よ。いつも世話を焼いてくれるの」 「……お姉ちゃんの世話を焼くのは、私の仕事なんだけどなぁ」 声のトーンが少しだけ下がった。ほんの少し──だが、柚月はそれを聞き逃さない。 ポンコツでも、妹のことだけは鋭い。 「学校でのことよ。家でのことはひなたにしかお願いできないわ」 「! ──ほんと?」 「ええ。ひなたのご飯が一番美味しいし、ひなたに起こしてもらわないと起きられないし」 「お姉ちゃん……!」 ひなたがざばりと湯船の中で柚月に抱きついた。お湯が盛大にこぼれる。 「こら、溢れるでしょう」 「だってぇ……嬉しいんだもん……」 柚月はため息をつきながら、ひなたの濡れた髪を撫でた。 「……本当に、犬みたいね」 「わんっ」 「鳴くな」 --- ## 第六章 環の観察日記 **白石環の観察ノート 四月十七日(木)** *本日の尊みポイント:* *一、登校時。ひなちゃんがお姉様のシャツを着用して登校。「お姉ちゃんの匂いがする」と恍惚の表情。尊さレベル:A+* *二、昼休み。ひなちゃんがお姉様に全力ダッシュで抱きつく。お姉様は迷惑そうにしつつも、一切振り払わない。尊さレベル:S* *三、同じく昼休み。ひなちゃんがお姉様に「一番近いのは私」と宣言。独占欲の発露。その直後に笑顔で誤魔化す二面性。尊さレベル:SSS* *四、新キャラ登場。城ヶ崎凛々花さん。ギャルで世話焼き。ひなちゃんを見て明らかに動揺していた。これは──三角関係の予感!?* *考察:城ヶ崎さんがひなちゃんに好意を抱いた場合、構図としては「姉を愛する妹」×「妹に惚れたギャル」×「妹を溺愛する姉」の三つ巴となる。どの組み合わせでも美味しい。どこに転んでも勝ち。百合の多重奏。わたくし、本日も生きていて良かった。* *明日の課題:城ヶ崎さんの動向を注視すること。あと、ひなちゃんのお弁当のメッセージカードの写真を撮ること(許可は取る)。* 環はノートを閉じ、満足げに微笑んだ。 「百合は世界を救いますわ」 誰もいない自室で呟く。壁一面に並ぶ百合漫画のコレクションが、彼女の信念の強さを物語っていた。 --- ## 第七章 ギャルの苦悩 城ヶ崎凛々花は、自室のベッドに突っ伏していた。 スマホには、今日の放課後に柚月から送られてきたメッセージが表示されている。 『今日はひなたがお邪魔したわね。良かったら今度、家に来ない? ひなたの料理は本当に美味しいの』 何気ない友人としての誘い。柚月にとっては深い意味はない。 だが凛々花にとっては── 「ひなたちゃんの、家に……」 心臓が煩い。 「いやいやいや! 何考えてんのあたし! 友達の妹だよ!? 友達の、妹!」 枕に顔を埋める。 思い出すのは昼休みのひなたの姿。姉に向ける真っ直ぐな愛情。誰かをあんなにも純粋に好きになれるということ。あの笑顔。あの声。あの──一瞬だけ見せた、冷たい目。 「やばいって。マジでやばいって」 凛々花は恋愛に対して奥手だ。ギャルの見た目に反して、男子と付き合ったことは一度もない。告白されたことは何度もあるが、全て断ってきた。「軽い付き合いは嫌」というのが彼女の信条だ。 その凛々花が、会って数分の女の子に心を撃ち抜かれた。 「しかも相手、めっちゃシスコンだし……。あたしの入る隙とかなくない……?」 頭では分かっている。ひなたの目に映っているのは姉だけだ。あの目は、他の誰にも向けられることのない目だ。 「……でも」 枕から顔を上げる。 「あたし、嘘つけないタイプだし」 スマホを手に取り、柚月にメッセージを返す。 『行く行く~! 楽しみ! ひなたちゃんの料理めっちゃ気になる!♡』 送信。 そして再び枕に顔を埋めた。 「自分で自分の首絞めてどーすんの……」 城ヶ崎凛々花、十七歳。恋の自覚、一日目。 --- ## 第八章 おやすみの儀式 夜十一時。 歯を磨き、パジャマに着替え、霧島姉妹はベッドに入る。ダブルベッド。二人で寝るにはちょうどいいサイズ。 布団に潜り込んだひなたが、にじにじと柚月の方へ寄っていく。 「お姉ちゃん」 「何?」 「今日も一日お疲れ様」 「あなたもね、ひなた。今日もご飯美味しかったわ」 「えへへ」 暗闇の中で、ひなたが柚月の腕にしがみつく。両手で。ぎゅっと。 「お姉ちゃん、明日も一緒に帰ろうね」 「学校ではあまり──」 「明日も一緒に帰ろうね?」 「……ええ、途中からなら」 「やった!」 小さくガッツポーズしたのが、気配で分かる。 「お姉ちゃん」 「何?」 「おやすみ」 「──おやすみ、ひなた」 柚月がひなたの方を向き、闇の中でそっと唇を近づけ、額にキスをした。 おやすみのキス。朝と対になる、もう一つの儀式。 「……っ。えへ、えへへ」 ひなたがぎゅっと柚月にしがみつく力が強くなった。 「お姉ちゃん大好き」 「知ってるわ」 「世界で一番好き」 「それも知ってるわ」 「宇宙で一番好き」 「スケールが上がったわね」 「次元を超えて好き」 「もう寝なさい」 「……お姉ちゃん」 「何?」 「……もう一回チューして」 「一回って決まっているでしょう」 「うう……ケチ」 「ケチとは何よ」 そう言いつつ、柚月はひなたの頭をぽんぽんと撫でた。ひなたの呼吸が穏やかになっていく。犬が撫でられて安心するように、柚月の手のひらはひなたにとって最高の安定剤だった。 「……可愛い子」 先に眠ったひなたの寝顔を、柚月は暗闘の中でしばらく見つめていた。 氷の華は、この部屋では溶けている。 ただの、妹大好きなポンコツお姉ちゃんに。 --- ## 第九章 休日──凛々花、霧島家襲来 日曜日。 凛々花は霧島家の玄関前に立っていた。手には手土産のシュークリーム。選ぶのに一時間かかった。ひなたちゃんは何味が好きだろうと無限に悩んだ末、定番のカスタードとチョコと抹茶の詰め合わせという安全策を取った。 インターフォンを押す。 ピンポーン。 数秒後、ドアが開いた。 「凛々花さん! いらっしゃい!」 ひなたが満面の笑みで出迎えた。エプロン姿。髪にはバンダナ。手には菜箸。 可愛い。 凛々花の思考がその二文字で埋め尽くされた。 「ど、どーもー! お邪魔しまーす! はいこれ、シュークリーム持ってきた!」 「わぁ! ありがとうございます! お姉ちゃーん、凛々花さんがシュークリーム持ってきてくれたよ!」 奥から柚月が現れた。家では眼鏡をかけている。黒縁の丸眼鏡。学校では見せない姿。 「いらっしゃい、凛々花」 「ゆづ……あんた、眼鏡……」 「家ではコンタクトを外しているの。ひなたが『お姉ちゃんの眼鏡姿が好き』と言うから」 「お姉ちゃんの眼鏡姿、知的で最高なんだよ! 家でだけの特別感があるの!」 ひなたが自慢げに胸を張る。家の中の姉は自分だけのもの、という主張が隠しきれていない。 「あはは、そうなんだ……」 凛々花は靴を脱いでリビングへ。 綺麗に片付いた部屋。花が活けてあり、クッションは整然と並び、テーブルの上にはランチョンマットがセットされている。 「うわ、めっちゃ綺麗じゃん。ひなたちゃんがやってるの?」 「はい! お姉ちゃんに快適に過ごしてもらいたいので!」 「ひなたがいなかったらこの家は三日で荒野になるわ」 柚月が涼しい顔で言う。自虐なのか事実の報告なのか。両方だ。 「お昼ご飯、もうすぐできるから待っててくださいね! 今日は凛々花さんが来るから特別メニューなんです!」 ひなたがキッチンへ戻る。 凛々花はソファに座り、柚月と向かい合った。 「ゆづ」 「何?」 「……ひなたちゃんってさ。いつもああなの?」 「ああとは?」 「その、お姉ちゃんお姉ちゃんって」 「ええ。物心ついた時からよ」 「へぇ……」 「可愛いでしょう」 言葉は少ないが、声のトーンが完全に変わった。いつもの凛とした声ではなく、角の取れた柔らかい声。 「ゆづ、あんたもかなりの妹バカだよね」 「心外ね。私は常に冷静よ」 「嘘つけ」 キッチンからいい匂いが漂ってくる。 しばらくして、ひなたが料理を運んできた。 和風パスタ、自家製ドレッシングのサラダ、コーンポタージュ。盛り付けはカフェのランチプレートのようだ。 「すご……ひなたちゃん、これ全部一人で!?」 「はい! あ、パスタの味付けはお姉ちゃんの好みに合わせてるけど、凛々花さんも大丈夫かなって思って──」 「え、味見する前に心配してくれんの? 優しすぎない……?」 凛々花の心臓がまた跳ねた。 一口食べる。 「…………美味しい。めっちゃ美味しい。なにこれ、店?」 「えへへ! お姉ちゃんもそう言ってくれるんです!」 「私の舌は確かよ──とひなたが言いたいのでしょうけど、客観的に見ても美味しいわよ、ひなたの料理は」 「お姉ちゃん! そういうこと言ってくれるの嬉しい!」 ひなたが柚月にひっつく。柚月は食事を続けながら、空いた手でひなたの頭を軽く撫でた。完全に無意識の動作。 凛々花はそれを見て、複雑な表情を浮かべた。 羨ましいのか、微笑ましいのか、切ないのか。全部だ。 「凛々花さん? 大丈夫ですか? 顔赤いですけど」 「だ、大丈夫! パスタが熱くて!」 「えっ、ごめんなさい! 冷ましますね! ふーふーしますね!」 「自分でできる! 自分でできるから!」 ひなたに「ふーふー」されたら心臓が止まる。凛々花は全力で阻止した。 --- 食後。 シュークリームを食べながらのティータイム。 ひなたは柚月の隣にぴったりとくっついて座っている。密着度がすごい。物理的に隙間がない。 「ひなたちゃんって、いつもそんなにお姉ちゃんにくっついてるの?」 「え? 普通ですよ?」 普通の基準がバグっている。 「ねぇお姉ちゃん、シュークリーム美味しいね」 「ええ。カスタードが好みだわ」 「じゃあ私のチョコと半分こしよ! はい、あーん」 ひなたがシュークリームを差し出す。 柚月は一瞬だけ目を伏せ──それから、何の躊躇もなく口を開けた。 ぱくり。 「──美味しいわ」 「でしょ! じゃあお姉ちゃんのカスタードもちょうだい!」 柚月が自分のシュークリームをひなたの口に運ぶ。ひなたがはむっと食べる。 凛々花は石化した。 あーん、を。した。姉妹で。目の前で。自然に。当たり前のように。 「え、あの、二人ともそれ普段からやってんの……?」 「ええ。いつものことよ」 「お姉ちゃんと食べると何でも美味しいんだよ♪」 「そう……」 凛々花はシュークリームを無言で口に突っ込んだ。甘い。でも苦い。恋の味は複雑だ。 突然、ひなたのスマホが鳴った。 「あ、たまちゃんだ。──もしもし?」 『ひなちゃん! 大変ですわ! 今日、城ヶ崎さんがお宅にいらっしゃってるんですの!? なぜわたくしを呼んでくれなかったんですの!? リアルタイムで観測するチャンスだったのに!?』 スマホの音量が大きい。全員に聞こえている。 「た、たまちゃん。スピーカーじゃないけど聞こえてるよ多分」 『あら、では城ヶ崎さんにもご挨拶を。──城ヶ崎さん、ひなちゃんをよろしくお願いいたしますわ♪ あ、もちろん「お姉様×ひなちゃん」の尊みを損なわない範囲で、ですわよ?』 「何言ってんの!?」 通話終了。 リビングに沈黙が降りた。 「……今の子、何者?」 「えっと……幼馴染の、たまちゃん。ちょっと、その……独特な子で……」 「百合が好きなのよ、環さんは」 柚月がさらりと言った。 「……なるほど」 凛々花は全てを悟った。自分の恋路は、一筋縄ではいかないことを。 --- ## 第十章 ひなたの独占欲 凛々花が帰った後。 夕食の支度をするひなたの手が、いつもより荒い。野菜の切り方が雑。柚月はそれに気づいていた。 「ひなた」 「何?」 「何かあったの?」 「……別に」 「別に、ではなさそうだけれど」 「…………」 ひなたが包丁を置いた。くるりと振り返る。 「お姉ちゃん」 「何?」 「凛々花さんって、お姉ちゃんのこと好きなの?」 「友達として、ということならそうでしょうね」 「……友達として」 「ええ」 「ほんとに? ほんとにそれだけ?」 ひなたの目が、昼間の一瞬と同じ光を帯びている。ヤンデレの片鱗。独占欲の発露。 柚月はその目を正面から受け止めた。 「凛々花は大切な友人よ。でも、ひなたは──」 柚月がひなたの頬に手を添えた。 「私の、一番大切な妹。それは誰にも変わらないわ」 ひなたの瞳が揺れた。険しかった表情が崩れ、目に涙が浮かぶ。 「……ずるい。お姉ちゃんそういうこと言うのずるい」 「事実を言っているだけよ」 「だからずるいの……!」 ひなたが柚月の胸に飛び込んだ。ぎゅうっと。 「お姉ちゃんは私のなんだから。誰にも渡さないんだから」 「はいはい」 「はいは一回!」 「はい」 柚月はひなたの背中をぽんぽんと叩いた。赤ん坊をあやすように。 ポンコツお姉様は、妹の心を宥めることだけは天才的に上手い。 --- その夜。 お風呂から上がり、髪を乾かしてもらいながら(もちろんひなたが柚月の髪を乾かす)、ひなたは言った。 「お姉ちゃん」 「何?」 「凛々花さん、また来る?」 「誘ったわ。来月にでも、と」 「……そっか」 「嫌?」 「嫌じゃない。嫌じゃないけど」 「けど?」 「……私も、仲良くなりたいなって」 柚月はわずかに目を見開いた。それから、鏡越しにひなたと目を合わせて微笑んだ。 「ひなたがそう言ってくれると嬉しいわ」 「だって、お姉ちゃんの大事なお友達だもん。お姉ちゃんの大事なものは、私も大事にしなきゃ」 「──偉い子ね」 「えへへ」 ドライヤーの音に紛れて、ひなたが小さく呟いた。 「でも一番はやっぱり、お姉ちゃんだからね」 聞こえたかどうか。柚月の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。 --- ## 第十一章 環の暗躍 翌日の放課後。 環はカフェテリアの片隅で、凛々花と二人きりで向かい合っていた。 「──で、城ヶ崎さん。単刀直入にお聞きしますわ」 「な、何?」 「ひなちゃんのこと、好きですわよね?」 凛々花はフラペチーノを噴き出しかけた。 「は!? な、なんでそう──」 「わたくし、百合に関しては嗅覚が犬並みですの。昼休みの城ヶ崎さんの瞳孔の開き具合、心拍の変動、それに昨日のお電話の後のひなちゃんの報告──」 「報告って何」 「ひなちゃんから『凛々花さんがずっと私の方見てた』って連絡が来ましたの」 凛々花の顔が真っ赤になった。 「バレてんじゃん……」 「で、どうなさるおつもりで?」 「どうって……。相手、めちゃくちゃシスコンだし。お姉ちゃん以外見えてないし。あたしなんか──」 「そこですわ」 環が人差し指を立てた。 「確かに、ひなちゃんのお姉様への感情は揺るぎないものですわ。それはわたくしが一番よく知っておりますの。しかし──」 「しかし?」 「ひなちゃんは『お姉様以外の人間を嫌いな子』ではありませんわ。むしろ、お姉様を大事にしてくれる人には好意的ですの」 「……つまり?」 「つまり、城ヶ崎さんがお姉様の良き友人であり続ければ、ひなちゃんの信頼を得ることは不可能ではない。もちろん、お姉様との関係を脅かさない限り、ですわ」 「友達からってこと?」 「えっと、申し訳ないのですが、わたくしが城ヶ崎さんの恋愛を積極的に応援するかと言われると、ちょっと複雑ですの」 「何で!?」 「だって、ひなちゃん×お姉様の尊みが減ったら困りますもの」 「おい」 「冗談ですわ。──半分は」 半分本気じゃねぇか。 「ただ、一つだけ忠告しておきますわ」 環の目が真剣になった。 「ひなちゃんのヤンデレは、本気ですの」 「……知ってる。笑顔のまま目だけ冷たくなったあれ、まだ覚えてるし」 「あれを向けられてなお好きでいられるなら──城ヶ崎さんには見込みがあるかもしれませんわね」 環がにっこり笑った。 「まぁ、どう転んでもわたくしには美味しい展開ですので。頑張ってくださいませ♪」 「こいつ……!」 凛々花はフラペチーノを一気飲みした。 甘い。やっぱり甘い。でも苦くはなかった。 --- ## 第十二章 距離は縮まる それから数週間。 凛々花は少しずつ、ひなたとの距離を縮めていった。 といっても、恋愛的なアプローチではない。ひなたの「お姉ちゃん至上主義」を理解した上で、まずは友人として信頼関係を築く作戦だ。 「ひなたちゃん、今日の弁当のおかず教えてよ。あたしの弁当がしょぼすぎてさー」 「えっ、凛々花さんも自分で作ってるんですか!? すごい! じゃあ今度一緒に料理しません?」 「マジ!? いいの!?」 「もちろん! あ、でもお姉ちゃんの分も作りますからね。お姉ちゃんの分が一番大事なので」 「わかってるって。むしろあたしもゆづの分作るよ。あの子、放っておいたら絶対まともに食べないし」 「わかる! お姉ちゃんったら放っておくとカロリーメイトだけで済ませようとするんですよ!? 信じられます!?」 「それな! この前なんか、水筒に入れたの水じゃなくてただのお湯だったし!」 「えっ、そんなことが!? お姉ちゃん!?」 共通の話題──「柚月のポンコツエピソード」で盛り上がる二人。柚月の世話を焼くという共通言語が、不思議と二人の距離を近づけた。 ある日の帰り道。 凛々花とひなたが並んで歩いている。少し後ろを環が「いい構図ですわ……」と呟きながらついてきている。 「ひなたちゃんってさ」 「はい?」 「料理以外に趣味とかあるの?」 「うーんとね。お姉ちゃんの服を選ぶことと、お姉ちゃんの好きな本を読むことと、お姉ちゃんの好きな音楽を聴くことと──」 「全部お姉ちゃん絡みじゃん」 「えっ、そうですか?」 自覚がない。 「ひなたちゃんさ。自分のためだけの趣味って、ある?」 「自分のため……?」 ひなたが首を傾げた。心底不思議そうな顔をしている。その概念がピンと来ていないらしい。 凛々花はその横顔を見て、胸がきゅっとなった。 可愛い。でも、少し心配でもある。 「……ま、いっか。そのうち見つかるよ」 「???」 「何でもないって。──あ、そうだ。来週の日曜、あたしと買い物行かない?」 「買い物?」 「うん。お姉ちゃんの誕生日プレゼント、一緒に選ばない?」 ひなたの目が輝いた。瞳の中に星が見えるレベルで輝いた。 「行きます! 行きます行きます! お姉ちゃんのプレゼント選び! 凛々花さん最高! 天才!」 お姉ちゃん関連のイベントに対する食いつきが異常。 「よし、じゃ決まりね」 凛々花は笑った。不純な動機がないとは言わない。でも、ひなたが喜ぶ顔を見られるなら、それでいい。 後方で環が手帳に猛烈にメモを取っていた。 「買い物デート確定ですわ……。これは現場に同行しなければ……」 尾行する気満々である。 --- ## 第十三章 買い物デート(と尾行者) 日曜日。駅前のショッピングモール。 ひなたは朝から気合が入っていた。お姉ちゃんのプレゼントを選ぶのだ。人生で最も重要なミッションと言っても過言ではない。 「凛々花さん! 今日はよろしくお願いします!」 「おう! ……って、ひなたちゃん、めっちゃ荷物持ってない?」 ひなたのバッグからは、「お姉ちゃんの好きなもの一覧(詳細版)」「お姉ちゃんのサイズ表(上から下まで完全網羅)」「お姉ちゃんの最近の発言から推定した欲しいものリスト」という三冊のノートが覗いていた。 「これは基本装備ですよ」 「情報量が諜報機関のそれなんだけど」 「だってお姉ちゃんに完璧なプレゼントを贈りたいから! 失敗は許されないんです!」 「……なんかもう、すごいわ。色んな意味で」 凛々花は呆れつつも、その一途さに惹かれる自分がいた。 アクセサリーショップ。 「お姉ちゃん、最近あのドラマの女優さんのピアスを見て『素敵ね』って言ってたんです。こういうシンプルなデザインが好みで──」 「これなんかどう? シルバーの、シンプルなやつ」 「あ、いいかも! でもお姉ちゃんの耳は横顔から見たとき左より右の方が映えるから、右耳に合うデザインが──」 「耳の左右で映え方まで把握してんの……」 次に雑貨屋。 「ブックカバーとかどうかな。ゆづ、よく本読んでるし」 「それいいですね! お姉ちゃんの手のサイズに合うのがいいな。お姉ちゃんの手って、指が長くて爪が綺麗で──」 「聞いてない情報が入ってきた」 ひなたが姉について語る時の熱量は、もはや自然災害に近い。凛々花は圧倒されつつも、楽しんでいた。ひなたの目がキラキラしている。その笑顔は、姉に向けるものとはまた少し違う──友達と楽しんでいる、無防備な笑顔。 凛々花は思った。こういう顔もするんだ、この子。 「あ、凛々花さん! あれ見て! お姉ちゃんに似合いそうなマフラー!」 ひなたが凛々花の腕を掴んで引っ張った。 ──手を、掴まれた。 凛々花の心拍数が急上昇した。 「ちょ、ひなたちゃん、引っ張んないでよ! 転ぶ!」 「えへへ、ごめんなさい! でも早くしないと売り切れちゃう!」 そう言って笑うひなたの顔が、あまりにも眩しい。 その時、雑貨屋の陰から── 「尊い……。尊すぎますわ……」 環が柱の影に隠れて双眼鏡を構えていた。完全に不審者である。 「ギャル×ワンコ妹の構図……これは新しい鉱脈……! しかもひなちゃんが自然に凛々花さんの手を取っている……無意識の接触……! これはひなちゃん側にも無自覚な好意の芽生え──いえ、まだ早計ですわね。データを集めませんと」 メモ帳にペンが走る。走りすぎてページが破れた。 買い物の結果、ひなたは柚月へのプレゼントにブックカバーとピアスのセットを選んだ。凛々花が「ラッピングまでしてくれるお店にしよう」と提案し、二人でリボンの色を選んだ。 「お姉ちゃん、喜んでくれるかな」 「絶対喜ぶよ。ひなたちゃんが選んだものなんだから」 「! ──凛々花さんって、優しいですね」 「え? いや、普通のこと言っただけだし」 「ううん。嬉しかった。ありがとう」 ひなたが、にっこり笑った。 凛々花は買い物袋で顔を隠した。赤い。顔が。 --- 帰り道。 「今日は楽しかったです! また行きましょうね、凛々花さん!」 「うん。──あ、ひなたちゃん」 「はい?」 「『凛々花さん』じゃなくてさ。凛々花、でいいよ。タメ口でいこ」 ひなたが目を丸くした。それから、ぱあっと花が咲くように笑った。 「──うん! りりか!」 呼び捨て。 凛々花の心臓が、致命傷を受けた。 「……っ。う、うん。そう。それでいいから」 「りりか、りりか! えへへ、なんか嬉しいな! 友達って感じ!」 「友達って感じ」。 友達。うん。まずは友達。 「あたしも嬉しいよ、ひなた」 二人は笑い合った。夕暮れの帰り道。オレンジ色の光が、二人の影を長く伸ばしていた。 その五十メートル後方で、環が滝のような涙を流していた。 「美しい……。美しすぎますわ……。夕暮れの呼び捨ては百合の定番……! あぁ、わたくしはこの瞬間に立ち会えて──」 通行人が不審そうに見ている。気にしない。気にしたら百合オタクはやっていけない。 --- ## 第十四章 姉の勘 その夜。 ひなたが買い物の戦利品を隠し(プレゼントは秘密だ)、上機嫌でキッチンに立っている。 鼻歌のレパートリーがいつもと違う。普段は「お姉ちゃんのための〜」系のオリジナルソングだが、今日は知らない曲を歌っている。凛々花のスマホから聴こえてきた曲だ。 柚月は眼鏡越しにリビングからキッチンを眺め、気づいた。 「ひなた、楽しそうね」 「えへへ、だって今日楽しかったから! りりかとお買い物してね──」 「りりか?」 ひなたが固まった。 「……凛々花さんのこと、呼び捨てで呼ぶようになったのね」 「あ、うん。りりかが、そう呼んでって」 「そう」 柚月の声は平坦だった。いつも通りの「氷の華」の声。だが── 「……良かったわね。友達が増えて」 その言葉には、ほんの少しだけ、寂しさが混じっていた。 ポンコツで天然な柚月でも、変化には気づく。妹の世界に、自分以外の人間が入り込んできていること。それは良いことだ。妹の世界が広がることは、姉として喜ぶべきことだ。 ──頭では、わかっている。 「お姉ちゃん?」 ひなたが振り返った。 そして、一瞬で姉の表情を読み取った。微細な変化。柚月自身も自覚していないかもしれない、ほんの僅かな寂寥感を。 ひなたのシスコンセンサーは、姉に関しては原子レベルの精度を誇る。 「お姉ちゃん!」 フライパンを火から外し、ひなたが柚月の元へ駆け寄った。 「私ね、りりかと仲良くなれて嬉しいよ。でもね」 柚月の両頬を、ひなたの手が包んだ。 「世界で一番大好きなのは、お姉ちゃんだからね。それは絶対に、絶対に変わらないから」 真っ直ぐな目。嘘のない目。宇宙に二つとない、純度百パーセントの愛情。 柚月は──「氷の華」は── 「……知ってるわよ、そんなこと」 ほんの少しだけ、目を潤ませた。 「お姉ちゃん! 泣いてる!?」 「泣いてないわ。玉ねぎを切ったせいよ」 「お姉ちゃん玉ねぎ切ってないよ!? 私が切ったんだよ!?」 「黙りなさい」 「お姉ちゃんが泣くなら私も泣く!」 「泣くな」 「うわぁぁぁん、お姉ちゃあぁぁん!」 結局二人で抱き合って、ひなたは号泣し、柚月は目元を拭いながら「だから泣いてないと言っているでしょう」と繰り返した。 台所のフライパンが空焚きになっていることに気づいたのは、十分後だった。 --- ## 最終章 変わらない朝 翌朝。 六時。ひなたのアラームが鳴る。 いつものように起き上がり、いつものようにキッチンへ向かい、いつものように朝食を作る。 味噌汁の出汁。卵焼き。白米。焼き海苔。ミニトマト。 「ふんふふーん♪ お姉ちゃんのための朝ごはん♪」 歌は変わらない。 朝食をテーブルに並べ、二階へ。 寝室のドアを開ける。 布団を蹴飛ばし、パジャマがはだけ、口を半開きにした「氷の華」が、今日も無防備に眠っている。 「……かわいい」 変わらない。 「お姉ちゃん、朝だよ」 「……ん」 「おはよう、お姉ちゃん」 柚月の瞼が開く。ぼんやりとした瞳が、ひなたを捉える。 「おはよう、ひなた」 額に、ちゅ。 「~~~~っ!!!」 ──変わらない。 この気持ちは、絶対に変わらない。 りりかのことは好きだ。友達として。たまちゃんは最高の幼馴染だ。学校の友達も、先生も、隣のおばさんも、みんな好き。 でも。 「お姉ちゃんが、一番好き」 額を押さえて、真っ赤な顔で、それでも満面の笑みで。 霧島ひなたの朝が始まる。 今日も明日も、明後日も。 ずっと、ずっと──お姉ちゃんのそばで。 --- ## エピローグ 白石環の総括 **白石環の観察ノート 総括号** *霧島姉妹の関係性は、日々新たな尊みを生み出しておりますわ。* *お姉様は変わらず美しくポンコツで、ひなちゃんは変わらず可愛くヤンデレ。* *城ヶ崎さんの参入により、物語に新たな味わいが加わりました。ひなちゃん×お姉様の不動の軸に、りりか→ひなたの片想いベクトルが絡む三角形。美しい。完璧な構図ですわ。* *ひなちゃんが凛々花さんに心を開き始めていることは、観察者として確認済み。しかし、それがひなちゃんの「お姉様への愛」を揺るがすことはないでしょう。むしろ、ひなちゃんの世界が広がることで、お姉様への愛もより深く、より自覚的になっていく──そんな予感がしますの。* *そして凛々花さん。あなたの恋は、茨の道かもしれません。でも、応援しておりますわ。あなたがひなちゃんを見る目は、とても綺麗ですもの。* *百合は世界を救いますわ。* *今日も明日も。* *──白石環* --- **『お姉ちゃんは私のもの!~シスコン妹と残念お姉様の日常~』** **──了──**