2体目のアンティーク・ギアゴーレムによる逆転の一撃は、しかし手札から特殊召喚されたバトルフェーダーにあっさりと受け止められてしまった。 ひ、と小さな声が漏れる。 歯の根がかちかちと鳴って全身から冷たい汗が噴き出した。 負ける。また負けてしまう。 縋るように見つめる前でリミッター解除のデメリットにより自分のフィールドが壊滅していく。 いやだ。やめて。誰か助けて。 そんな願いの無力なことは嫌というほど知っていたはずなのに、 記憶の中の少年は追い詰められるほどに怯え、戦う事よりも救いを求めることに集中してしまっている。 生きるためには勝つしかないとわかっていたが、もう戦いたくない。 助けて。誰か助けて。 だが装置の向こうにいる何者かは、少年に祈りの時間を与えないという事について一貫していた。 装置によって電撃が加えられ、意識が再び強制的に戦いに向けられる。 恐怖に判断力を奪われ、震える指は誤った順番でカードを切った。 (あ……あ……) 召喚を阻止できなかった恐ろしいモンスターが身を起こし、自分のなけなしの防御壁を蹂躙していく。 まただ、また負ける。またあの電撃が来る。いやだ。 でももう自分に挽回の策がないことはわかりきっていた。 フィールドが完全に切り開かれ、そして圧倒的な攻撃力が自分に向けられる―――。 つんざくような誰かの叫びが電脳の光景を、そして悪夢を切り裂いた。 自分がすさまじい悲鳴を上げているのがわかる。 違う、これが現実であるはずがない、あれはもう終わったのだ…… 理性が必死にそう叫び、けれど根付いた恐れは心身を苛んだ。 目を開けばいつもの自室があると知っているのに、 理性と感情と身体はそれぞれ完全に分離していて制御がつかず、ただ夢と現実の境目で苦痛に悶えのたうち回る。 違う、ここはあの閉鎖された部屋でも、デュエルフィールドでもない。今オレは自分の部屋で。 そう思いながら手探りで進み出そうとして、少年はベッドから転がり落ちた。 叩きつけられた痛みと硬い床の質感が今度こそ少年を現実に引き戻す。 「あ……、う……」 はあはあと荒い息を吐きながら、少年はやっと制御を取り戻した眼(まなこ)を開いた。 カーテンの隙間から差し込んだ夕陽が殺風景な空間をわずかに照らし出している。 目の前にあるのは白く無機質なあの実験室ではなく、自宅の暗い部屋だった。 「……」 呼吸を整えながら、縋るように床に額を押し当てる。 汗でぐっしょりと濡れた体に床の冷たさが心地いい。 硬い木の質感が自分は今実験室にいないのだと教えてくれた。 ……数分が経ち、少年はふらつきながら立ち上がる。 あの夢を見るのは久々だった。 ここのところは見ていなかったが、体調の悪化が精神に悪影響をもたらしているのかもしれない。 熱に浮かされたような……いや事実熱のある頭でそう思いながら、少年はキッチンに辿り着き冷蔵庫を開く。 何か飲みたかったし、空腹だった。 そして少しの間、何もない冷蔵庫の前で少年は立ち尽くしていた。 そういえば飲料は今朝こぼしてしまった分で最後だったかもしれない。 ここにはもう、からかいながら自分を心配して食料配達を頼んでくれるAIも、 家事を手伝ってくれるロボットもいないのだ。 開けっ放しにされた冷蔵庫が警告音を発しているのに気付いて、少年は(頭)を振った。 ネットで何か買うべきだとはわかっていたが、それを実行に移す気力はない。 冷蔵庫を閉じて水道の水で喉を潤すと、のそのそとベッドへの道を戻りはじめる。 ◇ 「……財前」 何日かぶりに見た彼は少しやつれていた。 知っているよりずっとかすれた声で藤木君が私の名を呼ぶ。 「ごめんなさい、部活の連絡網で調べたの。  何日も休んでいたから気になって」 体調を崩したとは聞いていたがどうやら彼は相当に悪いようだ。 彼の顔は蒼白で、いつも強い意志を秘めている眼も今は苦しげで半ば虚ろだった。 「心配、ない……」 話すのも辛いといった感じの呟き。 多分こう言われるだろうなとは思っていたが、ここまでとっかかりがなくては厄介だ。 だが自分がこうしてやってきたのは単に彼の事が(どういう理由にせよ)気がかりだった事の他にもう一つ 「一人」に戻った彼の面倒を見る者がもしかすると誰もいないのではないかと心配したからでもある。 もう彼と共に生活していたイグニスや家事を担うロボットはいないはずで、それがとにかく気にかかった。 私は明かりのない部屋の奥をのぞき込もうとして ―――この入り口はどうしてか床よりもかなり高い位置にあったので下に視線をやる必要があった――― ドアノブにかけられた彼の手の甲から血がにじみ出ているのに気付く。 「……手、血が出ているけど」 辛そうな表情の中に一瞬だけ驚きがあらわれる。 私の視線から隠すように彼は手を引っ込め、そしてそのままたたらを踏んで階段の手すりにぶつかった。 うぅ、と小さな呻き。 「ちょ、ちょっと藤木君?」 「心配ない……」 ふらつきながら、藤木君はうわごとのように先ほどの言葉を繰り返す。 「し……心配あります!  明らかに大丈夫じゃないじゃない!」 思ったよりも大きな声が出ていた。困ったような目で藤木君が私を見る。 だが体で隠されていた部屋の奥、西日に照らされた床には 空になったいくつかの飲料のボトルとパンの包みが見えた。 どう考えてもまともに生活できている様子ではない。 ◇ 扉を見つめるのに疲れ、再び布団に顔を埋めて目を閉じる。 押しかけてきた財前葵は上がり込むなり自分をベッドに押し戻し、 何やら買い出しに出かけてしまった。 別に飲み水なら水道でも済むし、買い物は次に起きたときに自分で行けばいい。 そもそも身体自体寝ていればそのうちには治っただろうに、彼女はそれがどうしても許せなかったようだ。 よくわからない事態になったなとぼんやりと思う。 確かにAiやロボッピがいた頃受けられた援助を無意識に期待していた節はあったし、 だからこそさっきはショックを受けもしたが、 彼女に助けて欲しいと言ったわけでもない。 ……とはいえ彼女が正しいと思った事に対して一直線で止まらないことはよくわかっていて、 自分にはそのことを論ずる気力もなかった。 ……多分、彼女は兄に看病してもらうのが当たり前だったのだろう。 そしてそれがきっと「普通」ということなのだ。 兄同様に彼女が善良であることもまたよくわかっている。 ただ彼女はその普通さ、というよりは健康さと善良さ故に、 悪夢に苛まれる姿を人目にさらしたくないという気持ちにまでは考えが及ばないのだ。 ……こんな時には眠る事すら嫌だというのに……。 鉛のように重い腕を持ち上げ袖で汗を拭う。貼られた絆創膏の下で傷が痛んだ。 悪夢に溺れながらどうやらどこかにぶつけていたらしい。 あんな狂態を目にしたら彼女はどう思うだろうか? 自分ですら制御できないあの状態に彼女は対処できるのだろうか? そう思うとやはり人前であの症状を晒すことは避けたかった。 悪いとは思うが、やはり彼女が戻ってきたらなんとか言って帰ってもらう方がお互いのためだろう。 ◇ 借りた鍵を差し込んで部屋の戸をそっと開ける。 4階までエレベーターのない建物や金属製の鍵なんて今時ちょっと見かけないもので、少し時間がかかってしまった。 扉をくぐり、あまり音を立てないよう注意を払いながら階段を降りていくと、 寝台の上で藤木君が眠っているのが見える。 どうやら自分が出かけている間に眠ってしまったらしい。 近づくと彼は疲れた、というか衰弱したような表情でゆっくりと呼吸を繰り返していた。 起こすのは悪いだろうか?でも少なくとも食事をとらせるまでは帰れない。 ならいっそ目を覚ますまでここで待ってやろう……そう考えた私は勝手に椅子に腰を下ろす。 家具一つとっても藤木君の家は質素で、はっきり言ってあまりお金回りはよくないようだ。 事件の被害者として彼の生活はある程度保証されているようだったが、彼自身が断ったのだろうか? 視線を落とすと、先ほど目にしたパンの包みが転がっていた。 部屋の隅にはいくつか新しいゴミ箱が並んでいたが、どうやらそこまで持っていく気力が無かったらしい。 包みを持ち上げて表を見ると、皆スーパーの値引き品から無造作に取ったような品で、 これも自分に与えられている食事とはかなりの差がある。 ……無性に哀しい気がして、私は眠っている彼を見つめた。 こうして眠っている「藤木遊作」はいつもの人を寄せ付けない雰囲気も、 プレイメーカーとしてのヒーロー然とした勇ましさも感じさせない普通の男の子なのに、 彼には自分に与えられている程度の「普通」もないのかもしれない。 ……何分かそうしていただろうか。 私は部屋が思いのほか暑い事に気づき、また自分が買い出しに出ていたことを思い出して立ち上がった。 ◇ 「ぅ……あ……」 買ってきた品物を仕分け、袋の底に埋もれた冷却シートを探していると、突然藤木君がうめき声をあげる。 目を覚ましたのかと思い様子を見るが、どうやらまだ眠っているようだ。 ただ彼の呼吸は先程と異なり喘ぐようで、時折寝苦しそうに身をよじっている。 悪い夢でも見ているのだろうか? 「や……だ……  ……やめろ……」 違う。記憶の中で閃くものがあった。 『どれだけ時が経とうと忘れることはできなかった。  あの忌まわしい記憶は、俺の眼に焼き付き、心臓に食い込み、抉り出す事など出来ない血肉となっていた……』 そうだ。これこそがかつてプレイメーカーの言っていた事件被害者のトラウマなのだ。 藤木君は徐々に息を荒げ、歯を食いしばって何事か呟き始める。 どうすればいいのかわからなかった。 揺すって起こせばいいのだろうか? それともこれは一時的な物で、手を出してはならないのか? 私の見ている前で、彼の手が虚空に伸ばされる。 藤木君は聞き取れない言葉を吐き出しながら片腕で頭を庇うようにして、 もう片方の腕でしきりに空を掴んでいた。 尋常な様子ではない、やはり起こさなくてはダメだ。 そう思って、私は彼を揺り起こすためにおろおろと手を伸ばす。 と、その手が空をさまよっていた彼の手に触れた。 「いたっ……!」 痛いくらいの力で藤木君が私の手を握りしめる。 また何事か藤木君の唇が言葉にならない音節を漏らした。 「ふ、藤木君……?」 名前を呼ぶと彼は一瞬体をこわばらせ、手に込められた力をわずかに緩める。 どうしてか脳裏に公園で握手を交わした時の記憶がよぎった。 「藤木君」 苦しげな喘ぎ。 彼を揺り起こすにはこの手を振りほどいた方がいいとわかっていたが、 違うやり方がある気がして私は一瞬考えを巡らせる。 ……そういえば昔自分が怖い夢を見たとき、兄がずっと手を握っていてくれたことがあったか。 『大丈夫だよ葵。私がついているから安心しておやすみ』 そんな言葉が思い出される。 「だ」 「大丈夫、だから。藤木君」 彼の大きな手をそっと握り返す。 「わ……私が、見てる、から……」 だから安心して、寝ていてください。 そう呟いて、自分の滑稽さに困惑する。 自分がいたら何だというのだろうか? 兄と自分ならともかく、彼と自分の間に何の関係もないではないか……。 「ざい、ぜん」 びくりと体が跳ねる。 訳の分からないことを考えている私を、いつの間にか焦点の定まっていない眼が見ていた。 起きているのか、起きていないのか―――。 「あおい」 そう小さく呟いて、藤木君は再び目を閉じた。 どうやら目を覚ましたわけではなかったらしい。 いつの間にか彼の身体からは力が抜けて先程より落ち着いた呼吸を取り戻していた。 ……結局私は力の抜けた手を振りほどく事が出来ず、ポケットから取り出したハンカチで彼の額の汗をぬぐう。 兄がしてくれたように頭を撫でようかとも思ったがそれはためらわれた。 代わりに空いている片手で買い物袋から冷却シートを探り当て、彼の額に貼り付ける。 ◇ 目を覚ますと辺りはすっかり暗くなっていた。 また床に転がり落ちて目を覚ますものとばかり思っていたが、想像よりもずっと快適な目覚めに驚く。 どうやら発作は起こらなかったのだろうか? そこまで考えて、遊作は誰かの手が自分の手を握っていることに気付いた。 小さな手……。 明かりをつけると、財前葵がベッドにもたれかかって眠っていた。 「……」 理解できない状況に一瞬硬直する。 強く握られた手は容易に外せそうにはなかった。 逡巡したのち、肩をゆすって彼女を起こす。 「ぁ……藤木、君……」 小さく呟いて、葵は遊作を見た。 ごめん、私が寝ちゃった。 そう言いながら立ち上がろうとして、彼女は自分の腕の違和感に…… つまり誰かの手を握っていては当然ベッドに手をついて立ち上がることはできないということに気付く。 「ち、違います!誤解だから!」 一瞬のうちに遊作の手の中から彼女の手は消え去っていた。 まだ何も言われないうちから葵は顔を真っ赤にして大声で叫ぶ。 熱のある頭に高い声はキンキンと響いた。 「あ、ごめん、叫んで……」 はっとしたように葵が声を落とし、そしてうろたえた眼で自分の手を見つめた。 お互いの手の中にはまだ相手の体温が残っている。 「で、でも、何もないからね?   藤木君が、藤木君があんまり不摂生な生活をしているようだから、仕方なくしただけだから」 有無を言わせぬ強烈な視線が遊作を射抜いた。 怒っているのだか慌てているのだかわからない眼は凄まじい迫力を放っていて、いつもの財前葵とは別人のようだ。 「いや、別にオレは何も……」 気圧されながらそう言った所で、遊作は自分の違和感に気付く。 額に手をやると、いつの間にかジェルのついた冷却シートが貼られていて、熱のある頭を心地よく冷やしていた。 こんなものは当然自分では買っていない。 「……これは、君がやってくれたのか」 「そ、そう!藤木君は自分の身体を大切にしなさすぎです。  ちゃんと薬を飲んで、病気を治す状態を作って、ご飯を食べないと治るものもなおらないわよ」 風邪薬と、冷却シートと、レトルトの粥を順番に指さしながら葵が力説する。 「あ、ああ……すまない……」 ……何か自分がよほどの罪を犯したとでもいいたげな強い口調に遊作は自然と謝罪していた。 生活について効率以外を意識したことはなかったし、 その事で誰かの不興を買うという事はもっと考えていなかったが、彼女はかなり真面目に怒っているらしい。 「……ううん、わかればいいの。わかれば」 一息に言って葵は小さく息を吐く。 一体彼女はどうしたというのだろうか、と遊作は思った。 怒りの一方で今日の財前葵はやけに引くのが早く、それが遊作には不思議だった。 自分が従順だったことが意外だったのか、それとも病人に対しては日頃程強く出ないものなのか。 とはいえこの分野の知識では彼女の方が優ることは確かなので大人しくうなずいておく。 「それで藤木君、こういう時はパンじゃなくておかゆとか消化のいいものを食べた方がいいわ。  ここに2日分買ってきたからちゃんと食べてね。  あと飲み物もお茶とかじゃなくて経口補液とかスポーツドリンクの方がいい、らしいわ」 差し出された飲料は室温並みに生ぬるかったが、先程まで触れていた人肌よりは冷たく、 そしていずれにしても遊作の乾いた空っぽの身体を潤すのには十分だった。 「ごめんなさい、冷蔵庫に入れようと思ったのだけど、  その、ちょっと、できなくて……」 そう呟いて葵は顔を赤らめて俯き、2人の間に再び微妙な沈黙が流れる。 結局彼女はなぜあんな眠り方をしていたのだろうか? 遊作はそれを尋ねようとしたが、先に口火を切ったのはまたしても葵だった。 彼女は既に話題を切り替えるという事を学習していたのだ。 「それで藤木君!台所を借りてもいいかしら?  レトルトだけど、私が作るから」 余りに露骨だったか。 葵は自分の頭に血が上っていくのを感じた。 葵を見る遊作の眼は怪訝さとも逡巡ともつかない色が浮かんでいる。 「……コンロなら向こうにある……」  一拍後に返されたのは追及の言葉ではなかった。 これ幸いとばかりに葵はレトルトの袋をひっつかんで 部屋の隅にある調理台に素早く逃げ去る。 ◇ 「あ、あのごめん藤木君。  これってどうやったら火がつくのかしら……」 電子化されていない古いコンロに困惑する財前を見ながら、遊作は気の抜けた笑みをこぼした。 あれならもちろん自分にも調理できる。 だから日頃ならそこまでしてもらうのは悪いと断っただろうし、 そもそも眠りに落ちる前など財前にはさっさと帰ってもらおうと思ってさえいたのに。 なのにさっき自分はそうするのが惜しくて彼女に調理場を教えたのだ。 そんな自分がおかしかった。 結局枯れた喉で声を張り上げようとする前に財前葵は自力で電源ボタンの存在を発見したようだ。 日頃使わないコンロに火が入り、そして空腹を刺激する香りが漂いだす。