耳の間を過ぎてゆく三月の風は、どこかやわらかく暖かい。こんな風にずっと吹かれていれば、花たちが浮き足立って咲き乱れてしまうのも無理のないことかもしれない。 「ここにいたのか」 私を見つけた彼の声も、そんな春風と同じように暖かかった。振り向かずとも、いつもの優しい微笑が目に浮かぶようだ。 「よくわかったね。何も言わずに出ていってしまったのに」 「ギターを持って行ったろ。こんな日に弾くならこのへんかなって」 制服を早々に脱ぎ捨てようと、彼が私を見失うことはない。おかげで、彼の教え子でなくなってしまってもこれなら見つけてもらえるな、などと、益体もない妄想に耽ってしまったけれど。 「みんなのところに行ってやらなくていいのか?後輩の子たちが寂しがってるぞ」 「行くさ。今日の夜は引っ張りだこだろうからね。 だから、今はひとりで空を見ていたかったんだ」 「そうか。悪かったな、邪魔したろ」 「…行かないでくれよ? 風の音を聞いていたら、きみに会いたくなってきたところなんだから」 申し訳なさそうに立ち上がろうとする彼を、袖を引っ張って引き留める。こうしているときみが来てくれると思ったんだ、という浅ましい目論見を顕にしても受け入れてもらえる自信はなかったが。 彼を好きになったと気づいたのは、あの欧州の遠征から帰った後だった。身も心も襤褸切れのようになった私を、彼はどこまでもひたむきに支え続けてくれた。 もう彼の薬指には、銀の指輪が嵌っていたのに。 「もう、スーも卒業か。 わかってたけど、なんかな。昨日まで普通に話してトレーニングもしてたから、なんだかすごく急に感じるな」 遠くを見るようなまなざしで彼はそう言ったが、短かったのか長かったのか、私にはよくわからなかった。彼に抱いた気持ちにどう決着をつけるか答えを得られないまま、結局この日を迎えてしまった。 三月の柔らかな風が、彼の髪をゆったりとかき上げている。いっそ潔く玉砕するのもいいかもしれないと思っていたけれど、彼の横顔を見るとまた決意が揺らいだ。 彼の顔を見る度に失恋の痛みが蘇ることに、耐えられそうになかった。 「…きみはどんな学生だったのかな」 「…ん?」 若見えしてしまうことを彼は気にしていたが、いつまでも無邪気に笑っていてくれる彼を見ているのが、私は好きだった。 「自分を振り返っていると、他人の思い出が聞きたくなるものさ」 知ってどうなるものでもないのに、きみの全てを知りたいと思ってしまう。 好きになることに理屈はつけられないと知っていたつもりなのに、これほど見境がなくなっている自分が、惨めを通り越して可笑しかった。 彼は少し恥ずかしそうにはにかんで、ゆったりと細めた目で空を見上げた。 「普通だったよ。スーみたいにかっこよくも、優しくもなかった。 毎日バカやって、未来の自分がどんな人生を歩んでいるかなんて想像もしないで、その日その日をはしゃぎながら生きてた」 快活なところは今と変わらないのだろうけれど、馬鹿をやっていた彼というのを想像できなかった。私の知っている彼は、いつも笑っているけれどいつでも真剣なひとだったからだ。 「なら、きみは随分と大人になったんだな。私の知っているきみはとても優しくて思慮深い」 「はは。優しくて思慮深いかはわかんないけど。 …でも、少しでも早く大人になりたかったのは本当だよ」 そんな彼の優しさに、どれだけ救われたか知れない。だからこそ、その優しさがいつ彼の中に宿ったのかを知りたかった。 「…どうして?」 「…ずっとトレーナーになりたいって思ってたから。 誰かの人生の、一番大事な時間を預かる仕事だからさ。少しでも誰かのことを考えられる人間になりたかったんだ。 それが大人になるってことだと思ってた」 初めからそうだったわけではないと彼は言うけれど、大人になろうと思った瞬間から、人は大人になりはじめている。誰かのことを考えられる人間になろうと思った時点で、もう彼は彼だったのだ。 きっとそのころのきみに出会っていても、私はきみを好きになっていただろう。 でも、きみに好きになってもらえたかと問われれば、はいと答える自信がない。 その優しさは、あのひとのために身につけたのか、なんて、ひどい意地悪を思いついてしまったから。 彼は一度も、私の前で弱い姿を見せようとしなかった。彼だって苦しいに決まっているはずなのにそれを圧し殺して、私の良きトレーナーであり続けようとしてくれた。 そのひたむきさが、泣きたいくらいに悲しくて、愛おしかった。 私では彼を癒してあげられない。頑張らせることしかできない。頑張るのが好きなんだと彼は言ってくれるけれど、私のために彼も苦しみ続けていたのだということを、私は決して忘れられない。 彼女とは違う。私の想いを知ってなお、私と彼に幸せになってほしいと言ってくれた彼女の優しさは、私にはない。 彼と彼女が並んで歩いているのを見たとき、どこにも入れないと思った。 あの幸せな日だまりに、私の居場所はないのだ。 「…だから、スーは本当にえらいよ」 そう呟く彼の顔は、私のよく知っている大人のそれになっていた。優しさと思いやりだけで作られた、大人の顔。 その顔を好きになったはずなのに、きみがその顔をしないで済む相手に、私は絶対になれない。 「将来、日本のウマ娘がまた世界に挑むとき、悔いのない結果を残せるように全力で支援する体制を作る。 海外で働くことにしたのはそのためなんだろ」 きみにはやはり、なにもかもわかられてしまっている。 苦しみの日々が、栄光に変わることはない。ならばせめて、その苦しみが意味のあるものに変わってほしい。 時間を戻すことのできない私には、そのくらいしかきみにしてあげられない。 「…スーはえらいよ。もう、誰かのことを想って生きようとしてる。 君自身の願いだって、いっぱいあったはずなのに」 「…っ…!」 ──なのにきみは、今でもそんな私のことを、幸せにしたいと思っていてくれるんだね。 「スーの生き方を否定するつもりなんてない。むしろ全力で背中を押してあげたいと思ってる。 …でも、そういう生き方を選ぶ前に、君のわがままをもっと叶えてあげたかったな」 視界が少しずつぼやけていく。 自分が情けない。彼はこんなにも、私のことを想っていてくれているのに。 それで大人しく満たされない私は、きっとひどい愚か者だ。 彼に目いっぱい照らしてもらうほど、私の矛盾は深く影を落とす。 わがままなら、いくらでもあるんだ。 ──本当はもっと、きみと勝ちたかった。きみを世界一のトレーナーにしてあげたかった。 ずっとずっと、きみのそばにいたかった。 でも、それは言わない。もうきみを困らせたくないから。 「…勘違いしないでくれ。 悔いがなかったと言えば嘘になる。きみともっと勝ちたかったとも思っているさ。 けれど、皆と一緒に、きみと一緒に走れたことを後悔したことなんて、一度もないよ」 きみに渡してもいい気持ちだけ、ここに置いていくよ。 きみを困らせたくはないけれど、何も伝えずにいるのも嫌だから。 「きみとの時間は、俺の最高の宝物だ」 「…さようなら。 今まで、本当にありがとう」 最後に一度だけ顔を見ようと思った。 ずっと見ていたら、きっと堪えられなくなってしまう。でも、きみの顔を見ないまま別れてしまうことなんて、私には到底できなかった。 きっときみは、笑って送り出してくれるだろう。私も笑って、それで終わりにしよう。 そう、思っていたのに。 「ごめんな。またね、にしてくれないか。 …やっぱり、スーがいないとさみしいよ」 私の目に飛び込んできたのは、子供のように目を擦る彼の顔だった。 彼が泣いているところを初めて見た。何の益にもならないわがままを、私の前で吐き出したところも。 「…だめだな。俺もまだ全然子供だ。 初めての教え子だから、ちゃんと送り出してあげたかったんだけどさ…」 消え入りそうな彼の声を最後まで聞く前に、彼を抱きしめていた。 「いいよ。 …俺も同じさ」 ああ、私は本当に酷いな。 泣いているきみを見て、嬉しいと思ってしまった。 やっときみが私に、悲しみを吐き出してくれたのだから。 潔く諦めて前に進もうと思っていたのに。 きみがそんなことを言うから、忘れられなくなってしまった。 きみと爽やかにお別れなんてしたくない。 たくさん泣いて、いつまでもここにいてと引き留めてほしい。いつもの優しいきみじゃない、わがままで寂しがりやなきみを見せてほしい。 「どこに行ってもいい。俺はずっと、スーを応援してる。 …でも、いつか必ず帰ってこいよ。待ってるからな」 ──きみの特別になりたい。 彼女の居場所を奪うことも、きみの心から潔く立ち去ることもできない。 こんな弱い私でも、きみは受け入れてくれるだろうか。 「──うん。約束する。 会いに行くよ。きみの育てたウマ娘は、こんなに立派な仕事をしているんだと思ってくれるようにね」 三月の風は、相変わらず穏やかに吹き続けている。きみが大人になり始めた日にも、風は同じように吹いていたのだろうか。 今のきみが好きだ。優しくて、強くて、どんなことになっても誰かのために頑張るきみが大好きだ。 ──なのに昔のきみにも会いたいと思ってしまうのは、罪深いことだろうか。 私ときみの腕の中に、過ぎゆく春を閉じ込めてしまいたい。 ──その風の中に、私の知らないきみの横顔を探しながら。