彼の左手の薬指に指環が嵌まっていることには、出会ったときから気づいていた。そしてそれを別段気に留めることも、その時はなかった。 「スー、そろそろ上がろう。休むのも大事だ」 「充分休ませてもらっているつもりなんだが…きみが言うなら仕方ないな。そうさせてもらうよ」 善い人だとは思っていた。仕事熱心で、誠実で、それでいて堅すぎず常に笑顔を忘れない。どんな逆境に在っても、この人となら楽しく走っていられると思ったから契約をした。だから彼にもう相手がいるとわかったときも、その人柄で放っておかれるはずがないという納得を覚えただけで、それ以上に何かを感じることはなかった。 「熱心なのはいいが、たまには知り合いにも顔を見せてやったらどうだ?生徒会の役員が、最近君が来なくて寂しいと言っていたよ」 「ははは。俺には仕事の邪魔だとしか言わないんだが…そういえばまだアメリカの土産も持って行っていなかったな」 いつの間にか私の友人とも仲良くなってしまっている人の好さがその証拠だろう。そんな彼にはどんなことでも打ち明けられるという信頼があったが、それは決して恋ではなかったと思う。 「…悪いが、もう少し待っていてほしいと伝えてくれ。せっかく会うなら、勝って胸を張っていたい」 「…スーは充分すごいよ。初めての海外遠征で5着に食い込むっていうのは、誰にでもできることじゃない」 しかし、その頃から彼に甘えてはいたのだろう。私が冷徹に自省に徹することができるのも、最後には彼が褒めてくれるという確信があってこそだった。 「…でも、俺は勝ちたかった」 「わかってる。俺もあれで終わっていいなんて思ってない。でも、やっぱり俺はスーを褒めてあげたいんだ。 スーが頑張ってたことは、俺が一番知ってるから」 守ってくれるけれど甘やかしはしない彼の態度は、ひどく性に合っていた。 彼とならできる。今までがそうであったように、初めはまごついた足取りでも一歩一歩進んで行ける。 自分のため。一族の名誉のため。勝ちたい理由はいくつもあったが、彼と一緒に笑っていたいからという理由が追加されるのに、そう時間はかからなかった。 ドアをやわらかく三度ノックする音だけで、彼が来たとわかった。どうぞ、と答えると、片手で器用に盆を持った彼が、ドアの隙間から滑り込むようにして入ってきた。 「おはよう。 具合はどうだ?朝ごはん、食べられそうか」 ここ最近、彼はいつも屋敷に来て手ずから食事をこしらえてくれる。私の身体の状態に合わせて栄養バランスを調整するためだが、初めて食べたはずの彼の手料理に懐かしさを感じてしまうのは、欧州の食べ物にいい思い出がないためだけではない気がする。 「ああ。見てくれ、先週から体重が1キロも戻ったんだ」 自分でも怖くなるくらいに痩せ細った身体は、お陰で奇跡的な回復を果たしつつあった。軽く走り込んでみた感覚も、身体の調子が確実に上向いてきていることを裏付けている。 ──けれど、心はまだあの泥のような芝の感触を忘れられない。 最適とは程遠い環境だったが、彼や周りの人達は熱心に私を支えてくれた。万全とはいかないまでも、自分の力を出し切れるという手応えを感じた瞬間もそれなりにあった。だが、だからこそ純粋な実力で負けたのだという事実だけが、目の前に厳然と突きつけられている。 勝ちたいという熱意が、負けるのが怖いという恐怖に変わるまでに、そう時間はかからなかった。 最近は眠るのが怖い。目を閉じると、まだあの重い芝を踏んでいると脚が錯覚するときがある。 帰国が決まった日に見た夢は最悪だった。 『彼女に何をしても、時間と労力の無駄だ。とんだ期待外れだった』 彼がそんなことを言うはずがない。だからこれは、私のいないところでもしかするとそんな話をしているかもしれないと、私自身が疑っているという証拠だ。 魘されて起きた私を心配する彼の顔は、いつも通り優しかった。 そんな彼の優しさの裏に、ありもしない悪意を想像した自分が情けなくて、言葉が出なくなった。 「…有馬記念のファン投票の結果が出た。 君も選ばれているよ」 外は晴れだよ、と言うような穏やかな口調で、彼はそう言った。こうすべきだ、という強制が少しも感じられない口調はどこまでも彼らしいけれど、今の私が自分の道を決めてよいのかという不安が、どうしても頭から消えない。 「…そうか。素直に嬉しいよ。 でも、今は…」 その自信のなさが、そのまま言葉に表れてしまった。 出たいとも、出たくないとも言い切れない。どちらを選んでも、選んだ時点で後悔してしまうような気がしていた。 「スーはどうしたい?」 ──そんな私を少しも変わらずに尊重してくれる彼の優しさが、今はひどく残酷に思えた。 出られるかどうか、勝てるかどうかと考えるならば、出ないという選択肢が現実的なのだろう。だが、このまま蹲っていたら、私は本当に私を許せなくなってしまう。 「…出たい。まだ俺に期待してくれる人がいるなら、それに応えたい。 けど…」 出たい、と答えたのは、そんな曖昧な意地のためでしかない。気の迷いと言い切ってもいいくらいの心持ちで出た言葉だった。 「わかった。絶対に出られるようにする。 身体も必ず回復させる。勝てるようにする」 なのに、彼は少しの間も置かずにそう断言した。 慰めでも強がりでもない、本心からの言葉だと、彼の瞳が言っていた。 もう、その目で見ないでほしい。きみのその目を、俺は散々裏切ってきたのに。 「…どうしてそこまでしてくれるんだ」 「…君のトレーナーだから」 彼が嘘を言っているとは思いたくなかったけれど、私が彼の口にする言葉に値する存在であると、私自身が信じられない。 「…違うだろう。普通のトレーナーはいくら担当が体調を崩していたって、こんなに献身的に看病なんてしない。俺のわがままのためだけに、出られるかもわからないレースに出させてくれたりなんかしない」 だから、彼の心をひっくり返したくなった。本音をぶち撒けて、あって当然の失望や悪意を見つけて安心したくなった。 「…なんで、俺なんかのために」 彼の瞳の色が変わった。ほんの少し険しく、怒ったような目つきだった。 けれど、どんな本音が吐き出されるのだろうと身構えていた私の耳に飛び込んできた言葉は、予想だにしないものだった。 「スーがそんなふうに言うからだよ」 彼が機嫌を損ねたところを初めて見た。そうなっても私を想い続けてくれるとは、微塵も思っていなかったけれど。 「…スーの言う通りだ。俺はトレーナーの仕事として以上に、君に何かしてあげたいと思ってる。 だって、悔しいじゃないか。スーはあんなに頑張ってるのに、あんなに強いのに、そんな君を君自身が一番許せないなんて」 罪を悔いるように語る彼の顔が、どんどんぼやけて見える。彼に責められて楽になりたいと思っていた自分が、情けなくて仕方なかった。 「決めたんだ。これからは何でもするって。 たとえスーのトレーナーじゃなくなったとしても、俺はスーに幸せになってほしい」 ただ、首を横に振ることしかできなかった。まだ自分の力が足りないのだと思っている彼に、それは違うと伝えたかった。 「…もう、何もかもしてくれているじゃないか」 ヨーロッパの芝にまだ慣れていなかったとき、つきっきりで走り方のフォームを見てくれたことも。 食事を取れないほど衰弱していたときに、シンボリやメジロの関係者を飛び回って協力を仰いでくれたことも。 それでも勝てなかった俺を、今でも少しも変わらずに信じてくれていることも、全部わかっている。 これ以上、彼に望むことなどない。彼は私になにもかもをくれたのだから。 「…なんでもしてくれるんだな」 望むことなどない、はずなのに。 「…抱きしめてくれないか。 一度だけでいいから」 ──もっともっと彼に愛されたいと、どうしようもなく思ってしまった。 彼の腕の中は、ひどく暖かかった。 「…ごめん…!ごめんよ…! あんなに尽くしてくれたのに、信じてくれたのに…きみに何も返せなくて…!」 「…いいんだ。君のほしいものを何もあげられなかったのは、俺の方だ。 …それでも、君と一緒に勝ちたい。君に笑っていてほしい」 もう、止められなかった。悲しくて、情けなくて、それでも彼が私のそばにいてくれることが、例えようもなく嬉しかった。 遅すぎる初恋だった。許されない恋だとも分かっていた。 それでも、人生で初めて好きになったひとが彼でよかったと、心の底から思っていた。 彼の奥さんに会ったのは、有馬記念に勝って数日後の大晦日のことだった。ご馳走するから家にぜひ来てほしいと彼を通して誘われたとき、どういう顔をすればいいのか、一瞬わからなくなった。 うちの嫁さんもレースを見に来ていて、勝利を祝ってあげたいと言って聞かないんだと言いながらも、苦笑する彼の表情は幸せそうだった。そんなふたりの間に、自分の弱さをいいことに割り込もうとしていた自分の行いが、改めて醜く思えて仕方なかった。 彼の奥さんは、柔らかな瞳と表情をした綺麗なひとだった。目を細めて微笑むだけで花が咲きそうな、女の私が一瞬どきりとしてしまうような美しさというものを、生まれて初めて目にした。 「お料理、どうでしょう。お口に合うかしら」 「とても美味しいです…!初めて食べたはずなのに、そんな気がしません」 そんな彼女の人柄が現れたように、彼女の料理はひどく安心する優しい味だった。彼女の夫に横恋慕している後ろめたささえ、忘れてしまうくらい。 「ありがとう。でも、本当に初めてじゃないかもしれないわ。 実はね、あのひとに頼まれてちょっとだけ料理を教えていたの」 「美味しいものを食べて少しでも早く元気になってほしいんだって、毎日ずっと言っていてね。 …放っておけなかったの。あなたのことも、あなたに何もしてあげられなかったって悔やむあのひとも」 古傷がずきりと痛むような想いがした。 私の前では弱さも絶望も見せない彼の姿に縋りながら、その裏に隠れた悲しみを探ろうとしたことを、今になって思い出した。 子供のように泣きじゃくる私を抱きしめてくれた時も、彼は涙一粒さえも溢さずに、私のぜんぶを受け止めてくれた。 ──なら、彼はいったい、いつになったら泣けるのだろう。 「あなたは苦しくても、我慢して走ってしまうから。そんなことをさせてしまうのは俺のせいだから、無理をしなくてもいいように強い身体にしてあげたいんだって、口癖みたいに言っていたから。 …だから、本当にあなたが勝ってくれて嬉しかったの」 少なくともそれは、私の隣にいるときではないのだと知って、少しさみしくなった。 「…すみません。いつもご迷惑をおかけして」 謝りたいことはもうひとつあった。 このひとには弱い自分をさらけ出せるのに、俺の前では泣いてくれないんだな、などと、理不尽な嫉妬を覚えてしまったのだ。 「いいのよ。あなたを幸せにすることが、あのひとにとっての幸せなんだから。 私もこの間のレースで、それがよく分かったわ。直向きに頑張るあなたに勝ってほしいって、心から思ったもの」 この夫婦ふたりの優しさに、私はどこまでも甘えてしまっている。 私を応援していると言ってくれて、心から嬉しかった。だからこそ、私がどうしてそこまで頑張ることができたのか、聞いてほしくなってしまったのだ。 私の大切なひとを、同じように大切にしてくれているひとだから。 「ありがとうございます。 …でも、それはきっと彼がいたからです。彼は私の幸せを、私よりも大切にしてくれるひとですから」 「…正直に言うと、遠征の後、もう自分が嫌いになっていたんです。誰の期待にも応えられなかった私なんて、もう何の価値もないんだって。 …でも、彼はどんな私でも信じると言ってくれた。私のために頑張ることはできなくても、こんなに私を大切にしてくれるひとのために頑張れないのは嘘だって思わせてくれたんです」 彼の話をしたときに、彼女の海のように深い瞳がきらきらと輝くのがわかった。 「わかるわ。彼はいつも自分よりも、そばにいる誰かを大切にしてくれるひとだから。 …いつまでもそばにいてほしいって、思わずにはいられないの。つらいときは、特に」 彼女が彼のことを褒めるのが、まるで自分のことのように嬉しかった。自分の好きなひとの魅力を、心から理解してくれることが。 「…分かります。誰かのために自分の身を削るのをやめないから、そばにいて守ってもあげたくなってしまうのですけれど」 「…ふふっ。 貴女はほんとうに、あのひとのことが好きなのね」 全身の血の気が引いていくような思いがした。何か言って取り繕わなければと思っていたのに、言葉が出なくなった。 彼女の瞳が、何もかもを許すようなやさしい光を湛えていたから。 「…はい。 申し訳ありません」 この瞳の前に嘘はつけないと思ったし、つきたくもなかった。 目を閉じた彼女はゆっくりと、首を横に振った。 「いいの。謝らないで。 私、うれしいの。あのひとのことをこんなに想ってくれるひとが、私以外にもいるってことが」 「…!」 軽蔑でも、憐れみでもない。私が彼を好きでいることを心から喜んでくれるその目が、眩しくて仕方なかった。 「…それにね。今の貴女はとっても綺麗だから。少し羨ましくなってしまうくらい。 そんな貴女からあのひとを取り上げるなんて、できないもの」 彼がこのひとを伴侶に選んだ理由がよくわかる。 彼女は光だ。どんな選択をしても、そのひとの人生を優しく照らしてくれる、灯火。 「…ありがとうございます。 もう、自分を責めたりしません。勝ちます。彼とあなたのために」 私があげられなかったものを、このひとはあげられるのだ。私はきっと、こんなに優しくなれないから。 「こちらこそ、ありがとう。 …わがままかもしれないけれど、あのひとを好きでいてあげて。さっきも言ったけれど、私は貴女にも幸せでいてほしいの」 戦うまでもない。勝負にさえなっていなかったと思う。 ──このひとを憎むなんて、天と地がひっくり返ってもできそうになかった。 あれからいったい、何年が経っただろう。 「誕生日おめでとう、トレーナー」 「ありがとう、スー。 もう祝われて嬉しい歳でもないんだが…君が祝ってくれると素直に嬉しいよ」 『俺』がいつの間にか『私』になった。自分の夢を追いかける代わりに、誰かの夢を応援してあげたくなった。 ──けれど、彼のことを好きでいることは、いつまでも変わらなかった。 あの想いが青春の苦い思い出に風化していったとしても、何も驚くに値しなかったろう。 けれど走ることをやめても、社会に出てたくさんの人に出会っても、心の中の彼の位置が変わらない。想い出を美化しているに違いないと思っても、こうやって再会する度に新しい彼の表情を見つけては、それを好きになってしまっている自分がいる。 「最近はどうだ?相変わらず忙しいみたいだけど。例のプロジェクトも随分盛り上がっているみたいだし」 「ああ、まあね。けれど、皆頑張ってくれているよ。そういう子たちに自分の経験を教えてあげられることが、今はただ嬉しい。 …きみの受け売りだけどね」 恥ずかしそうに掻き上げた髪に白いものが混じっていても。 優しく細めた目元にほんの少し皺が寄っていても。 性懲りもなく、いつまでも彼のことが好きだ。 「それで、呼んだのは誕生日を祝ってくれるためだけ?」 「ははは。やっぱりきみにはなんでもお見通しか。 …誕生日に頼み事をするのは少し心苦しいんだが、ひとつお願いを聞いてほしい」 彼は何も言わなかった。何を言っても叶えてあげるから、聞く前に何か言うべきことはないという無言の信頼は、現役の頃から変わらない。 「もう一度私に、トレーニングをつけてくれないか」 流石の彼も、何と答えればよいのか見当がつかない様子だった。だが、こんなことを頼めるのは彼しかいない。 「今度のプロジェクトの総仕上げとして、参加してくれている現役の子たちとレースをすることになった」 馬鹿げていると一笑に付されても仕方ないことだ。だが、そんな馬鹿馬鹿しいことを一緒に叶えたい相手が、今目の前にいる。 「こうなることは、始めた時からなんとなくわかっていてね。一応、自分でも鍛え直してはいたんだ。 …だが参加している子のひとりから、賑やかしで走るなと釘を刺されてしまってね。走るなら自分のエゴを出して、本気で勝ちに来いと」 自分にはとうに欲などないと思っていた。 けれど彼女にそう言われて、どうしても欲しかったものがあったことを思い出した。 「出走する子のリストがある。皆強いよ。現役世代最強のメンバーが揃ったと言ってもいいかもしれない。 ──そんな相手に勝てたら、きみのトレーナーとしての実力をこれ以上なく証明できるとは思わないか」 きみと勝ちたい。きみに最高の栄誉を授けたい。 ──私をずっと信じてくれたきみを、誰よりも幸せにしてあげたい。 「ひとつだけ言っておくぞ。 スーはもう十分すぎるくらい、俺にたくさんの幸せをくれたよ。足りないなんて後悔する必要なんか、ひとつもない」 そう言った彼の表情は、ともすれば不機嫌そうにも見えた。私が自分を責めていたあのときも、彼はこんな顔をしていたっけ。 けれど、それでも。 「──でも、うれしいよ。またスーと一緒に同じ夢を見れて。 俺にできることがあるならなんでも言ってくれ。明日にでもトレセンに行くよ」 最後にはこうやって、優しい笑顔で受け止めてくれるきみが、涙が出るほど好きだった。 「呑みすぎちゃったな。明日から練習とか言っておきながらこのザマだ」 「いいじゃないか。その分だけ今日は息抜きをしたと思えばいい。 きみとまた走れるのだから、そのくらい陽気にいかないとね」 酔い覚ましに橋の上に来て、川を渡ってくる夜風に身を晒した。 もう一度彼と同じものを目指せることが嬉しくて、あのときはできなかった乾杯をしたのだが、自分が酒に弱いことまですっかり忘れてしまっていた。 「…あのときもこうやって、セーヌ川の上に来たな」 「曇りで月は見えなかったけれどね。 晴れていたら、こんな景色だったのかな」 パレットに溶いた銀色の絵の具のように、月の光がまっすぐ水面に伸びている。 あのとき見られなかった景色が、今更蘇ることはない。それでも、もしこうだったらよかったのになと思わせてくれるには十分に過ぎた。 「ねぇ」 「…ん?」 「…まだ、言っていなかったことがあるんだ」 月日は流れ、私は残った。 けれど、きみが好きだという気持ちが、どれだけ波に洗われても落ちない。 でも、いいんだ。きみを好きでいるだけで幸せだって、わかったから。 「…もう、泣かないから。ずっと笑顔でいるから。 …ありがとう。きみがトレーナーで、よかった」 決して口には出せないけれど、想うことだけは許しておくれ。 ──大好きだよ。ずっとずっと、いつまでも。