例えば、学園での生活が息苦しくなったとき。例えば、実家からの重圧に耐えきれなくなったとき。例えば、本性を隠した振る舞いをする自分が嫌になったとき——— 日々の生活の中で鬱屈とした心情を抱えたとき、私はある水族館を訪れる。実家や学園領から離れたこの場所でならあらゆるしがらみに囚われず一人で思案できるからだ。 年間パスポートを係員に提示し、水槽の魚を前に会話を弾ませる人々をすり抜け、階層を降りて降りて、私は一番大きな水槽の前まで向かった。水棲生物に配慮されて薄暗くなっている空間は、いまの私の心の暗さを薄く広げてくれているように感じた。強化アクリルのパネルの向こう側には群青色の水を多種多様の生物が生息していて、人によってつくられたものながらも確かに“海”が存在していた。水槽の前に立ち、目を閉じて思いをはせる。やはり海はいい。海面の波立つ音は心地よさを与えてくれて、深く潜れば自らの悩みなど矮小に思えるほど雄大な世界が広がっている。ああ、私もこの世界の住民の一部になれたのならどれほど喜ばしいのだろう。 「なあ、アンタも一人で来てるのか?」海への思いを巡らせていたとき、近くで声をかけられた気がした。「そうですわ。」私は目を開けずその声に言葉を返した。「そっか」声の主は足を進め、私の隣で止まった「ここはやっぱりいいもんだよな。」「ええ、本当に。」声に対して私は相槌を打つ。今隣に立っている人がどんな人かはわからないけれど、なぜだか自然と会話が続いている。会話の心地よさは学園に所属してからの期間で数えても数度しか味わったことのないもので、きっとこの方とは会話の波長が合うんだろうなと考えていた。 「——でさ、やっぱり海で一番カッコいいのはさ!」そんな会話を隣から投げかけられた。それは私にとっては簡単な質問だった。そんなもの幼少期から決まっている。この海で最もカッコいい存在、それは——— 「サメだよな!」「シャチですわね!」「「……は?」」 「いやサメだろ?だってサメは古生代のころから地球に生息して姿を変えて現代まで生き続けてるんだぞ?」「そんな古い考え知りませんわ。現代で語るなら海の頂点捕食者であるとされるシャチこそが最もカッコいい存在になるのは当然のことでしょう?」「ロマンをバカにするっていうのか!?今いるシャチは一種族だけだけどサメは数百種族近いバリエーションがあって子供にも大人にも人気なんだぞ!」「シャチだって水族館でショーが行われるくらい大人気ですわ!」「大洗!美ら海!!海遊館!!!」「鴨川!名古屋港!!神戸須磨!!!」 白熱した最強議論は遠くから聞こえた咳払いひとつで終了した。すっかり開けた目であたりを見渡せば、周囲の視線は私たちに向かっているのがわかった。ひそひそ話まで聞こえてくる。隣の彼女も理解しているのか顔を赤くしていた。二人してお詫びのお辞儀をしてその場を後にした。少し明るくなったところで立ち止まればそこには小恥ずかしい雰囲気が漂っていた。「……ねえ、よろしければ飲み物でも飲んでいきません?」雰囲気に耐えられなくなった私はそれを振り払うように彼女を誘ったのだ。 「なんかごめんな?奢ってもらっちゃって」「……いえ、こちらもご迷惑を掛けましたので……」やらかした。今の私は目の前の彼女を見てそう思った。テーブルに片肘をついてジュースを飲む彼女は制服姿だった。黒を基調とした半袖にさらに黒めのスカート、緩ませているネクタイは炎のように赤い色。そのような制服を着ているのは間違いなく『ゲヘナ学園』の生徒でしかない。私が通っている『トリニティ総合学園』とは昔から確執があり、そんな二校の生徒が一緒にいることが知り合いにバレたらと思うと気が気でなく頼んだ飲み物にも手をつけずに周囲を確認していた。 「そんなにキョロキョロしてどうした?」ジュースを片手に彼女がそう聞いてきた。「あなたは何とも思わないんですの!?」私は小声でそう告げると彼女はコテンと首を傾けた。私がトリニティだと気づいていないのだろうかと胸元の校章を見せたり直接自分の所属校を言っても何が問題なのだろうかとでも言いたげに指を顎に当てて考えだし、ゲヘナとトリニティが同じテーブルで飲み物飲んで会話しているところをクロノススクールの報道部などに見つかりでもしたらマズいことになることを告げてようやく「ああそっかぁ!」と理解させることに成功した。彼女は頭までサメそっくりなのだろうかとトリニティ仕草が出そうになると「でもさ、トリニティもゲヘナもクロノスだってここから近くないしそうそう見つからないんじゃない?むしろ不安がってグルグルみてるほうが怪しまれるぞ?」といわれて自分が不審な行動をしていることに気づかされて再び赤くなった顔を冷ますようにストローから冷たい紅茶を普段より多めに吸ってやった。あはは!と笑う彼女の顔に少しだけ屈辱感と羨ましさを感じながら。 その後彼女と少しだけ話していたら自分のスマホからアラーム音が小さく鳴った。もうそろそろ帰らなくては門限に間に合わなくなる。「では私はこれで、ごきげんよう。」と席を立ち出口に向かおうとしたら彼女に呼び止められた。「あのさ!よかったらまた会えないかな?」言われたのは普通なら何ともない、だけど私たちの立場ではとんでもないことだった。「あなた、さっき言ってたこともう忘れたんですの?私はトリニティであなたはゲヘナ、本来一緒にいては危険な立場ですのよ!?」「そうだけどさ!アタシこんなに水族館の話が通じる相手は家族以外だとアンタが初めてなんだよ!ゲヘナの友達はこういうの興味なさそうだったし……だから、な?いいだろ?おねがい!」両手を合わせて彼女は必死に頼み込んできた。ああ、あの時感じていた心地よい気持ちは向こうも感じていたんだ。そのことがどうしようもなくうれしかった。だけど、やっぱり私たちの立場を考えると危険の方が大きい。ゲヘナがどうかは知らないけれど、トリニティ生徒がゲヘナ生徒と会っていることが知られたら裏切者の魔女扱いされることは想像に難くない。両校の確執が解消されるときが来るまでむやみに会うべきではないのだ。 「ごめんなさい、それでも簡単に会うことはできませんわ。」私は彼女にそう告げる。「ッ!……そ、そうだよな!やっぱり難しいよな~!ごめんさっきのは忘れ「ですが——」悲しそうな顔をした顔をした彼女の言葉を遮りさらに続ける。「この水族館でしたら、薄暗くて制服が見えにくいあの水槽の近くでしたら、またこのようにお話できると思いますわ。」私が言ったことに少しだけポカンとした表情をしていた彼女でしたが理解できた瞬間口元をほころばせ、目をキラキラさせて「そっか、そっかぁ!」と言っていた。「じゃあまた今度、この場所で!」「ええ、この場所で。」こうして私たちはこのめぐりあわせを一度きりにしないように約束をして別れていく。「ちょっと待った。」去り際にまた彼女がつぶやいた。「別にここじゃなくても制服着替えて会えば問題ないんじゃね?」「それは言わないお約束ですわ!」本日三度目の赤面をさらしながら急いで水族館を後にしていく。 これが、私シャチ子と彼女サメちゃん様との出会いでした。 第一章 邂逅、水族館の海溝にて 完