# 青い宙に浮かぶ影 青空を見上げたら白い月の代わりに地球が浮かんでいた。 それは、決して幻ではなかった。蒼く渦巻く大陸と白い雲の層が、いやに鮮明に、直子の瞳に映っていた。空気が止まった。周囲の音が、一瞬にして消えたように思えた——いや、自分の耳が塞がったのだ。何らかの錯誤か、それとも。心臓がゆっくりと、やや強く鼓動する。 引き返した。その一瞬の判断で、直子は視線を空から逸らし、身を翻した。公園のベンチの端に腰を下ろし、深く息を吐く。指の端が、わずかに震えていた。 「直子?」 後ろから呼びかけがあった。声の主は公子だ。公園で約束したのは昼の12時。今はどうやら、それを数分過ぎているらしい。視界の隅で、紺色の上着が揺らぐ。 「ごめん。少し気分が悪かった」 「大丈夫?」 「うん。もう大丈夫」 直子が返答すると、公子はベンチの反対側に腰を落とした。二人の間には、何もない空間がある。普段なら、その距離は二人の関係を表すものだった——親友にしては遠く、他人にしては近い。今日はそれが、妙に心地よく思える。 「この季節は苦手だね」公子は空を見上げた。「変な雲が出ることが多い」 「変な雲?」 「ほら。いつもと違う形の。さっきも思ったんだけど、あの雲、何かを描いているみたいで」 公子が指し示す先を、直子は慎重に見つめた。そこにあるのは、灰白色の塊。ただの塊だ。何も別の形に見えない。 「雲は、いつも変な形だ」 そう答えた直子の声は、自分の耳にも遠く聞こえた。 直子たちが通う大学はこの公園の北側にある。正確には、公園の北側三キロにある。毎週金曜日、二人はこのベンチで合い、時間つぶしをしていた。公子が授業を終えるまで待つ。その間、直子は本を読むか、空を見つめるか、そのどちらかだ。今日は違った。今日は、直子は空を見てはいけなかった。 「ねえ。最近、変だと思わない?」 「何が」 「世界。なんか、おかしくない?」 直子の肩がわずかに緊張した。脱力させようとしたが、かえって頸筋に力が入ってしまう。 「気のせいだ」 「そう?」公子は頬杖をついた。「私はずっと気になってるんだ。去年の秋から。何かが、こう、ずれているというか」 指を立てた公子の手が、空を切った。その仕草は無意識のものだったのだろう。だが直子には、その動作が何か別の意味を持っているように見えた。警告。あるいは、絶望。 「具体的には」 「具体的には……」 公子が言葉を探っていた。その間、風が二人の側を通り過ぎた。公園の樹々が揺れる。さらさらという音。それは通常の音だ。通常の世界の音だ。 「色が違う」 公子が観察するように続ける。 「空の色が。雲の白が。太陽の光が。全部が、微妙に違う。数度くらい色温度が変わったみたい。だからね。世界全体が、何かに見張られているような気がするんだ」 その瞬間、直子の脳裏に浮かんだのは、自分が先ほど見上げた光景だった。蒼い惑星。白い雲の帯。大陸の緑。それら全てが、遥か彼方から、この公園を見つめていたあの球体だった。 見張っていた。間違いなく。 「直子?」 「何?」 「聞いてた?」 「聞いてた。色が違う、って」 「そうだね。色が違うんだ」 公子は静かに笑った。その笑顔は、直子の知る公子のものではなかった。それは、何かに気づいてしまった人間の笑い。諦めと、それでいて、何か解放されたような。 ベンチを立つとき、直子は上空を見るまいと決めていた。だが、二人が公園を出ようとしたその時、公子が呟いた。 「もう見えてるんでしょう」 直子は立ち止まった。心臓の音が聞こえた。これまで以上に、強く。 「見えてるんだから、隠さなくていい」 振り向いた直子の前に、公子の瞳があった。その中に映っていたのは、同じ恐怖。同じ認識。そして、同じ孤独。 「君も」直子は言った。「見てるんだ」 「昨日の夜。窓から」 公子が続ける。その声は、かすかに震えていた。 「地球が。ここに。私たちの上に」 夜空の中で回転する惑星。その光景が直子の頭の中に蘇った。昨日。その前の日。その前の日。いつからだ。いつから自分たちの空に異なるものが浮かんでいたのか。 「逃げられない」 直子が言った。それは問いではなく、認識だった。 「逃げられない」 公子も同じ言葉を繰り返した。 二人は公園を出た。冷たい秋の空気が頬を撫でた。背後では、何かが回転していた。それは見えるわけではなく、ただ感じるだけだ。その視線。その重み。その、何か別の世界からの監視を。 もう逃げることはできない。それを、二人は理解していた。 振り返ることはなかった。 だが—— 直子の背中に、かかるはずのない影が落ちた。 それは、蒼い光を放っていた。 --- その晩。テレビは異常を報じはじめた。 世界中の気象観測衛星が、同時に同じ画像を送信してきたという。高度約四百キロメートルの軌道上に、何らかの大質量天体が出現した。正体は不明。公式発表では、既知の小惑星ではないという。 そして、その天体の軌道はゆっくりと降下していた。 降下速度は毎時四十キロメートル。 計算によれば、完全な衝突までの時間は、あと三日と二十時間。 直子は、その報道を布団の中で聞いていた。天井を見つめながら。その天井の向こう。その向こうの青い空の向こう。 降ってくる。 その言葉だけが、繰り返し、繰り返し、直子の意識に響いた。 降ってくるのだ。あの球体が。 だが、その時も直子の心には、奇妙な確実さがあった。 それは、落ちてくるのではない。 帰ってくるのだ。 長い旅を終えて。失われた兄妹が、ついに家路へと向かっている。 その認識が、なぜ自分の中にあるのか。直子はわからなかった。 わかるのは、ただひとつ。 このすべてが、終わりではなく、何かの始まりなのだ、ということだけ。