クイックキャメル721は鼻歌を歌いながらリヨン市庁舎のアーチをくぐり、ルネサンス風の壮麗な装飾が施されたエントランスを大股に横切って「福祉課」と書かれたドアを開けると、ポケットに握りしめていた二枚のチケットを意気揚々とカウンターに置いた。 「デイクォーターパス、二枚使うから。ランチを挟んだ四時間でお願い」  デイクォーターパスはその名の通り、司令官の昼間の時間の四分の一を予約できる券である。司令官パスの中では比較的発行数が多く、ベテラン隊員のあいだでは一種の最高額貨幣として流通している。今キャメルが出した二枚のうち一枚は以前戦闘報賞でもらったもの、もう一枚はサラマンダーとのポーカーで勝ち取ったものだ。潜水艦オルカ号時代からの古参である721にとっても、一度に二枚使うのはたいへんな散財といえたが、今回の勝負服にはそれだけの価値がある。渾身のアメスクスタイルを、なんとしても司令官の脳に焼き付けるのだ。  しかし、受付に座るコンスタンツァは券を確認するとちらりとコンソールに目をやり、気の毒そうに言った。 「今日と明日は全日埋まってしまっています。おそらくは、今週いっぱい空かないかと」 「はあ!? どういうこと!?」  キャメルが目をむく。コンスタンツァはキャメルのIDを確認し、古参の士官級隊員であることを確かめると、身を乗り出してすこし声をひそめた。 「昨夜、ユミさんがこちらへ到着されましたので」 「……あー……」  つり上がっていた眉がすっと下がる。「035?」 「はい」 「そりゃしょうがないかあ……」  キャメルはチケットを懐にしまい、きびすを返した。  とりあえず、サラマンダーを探し出してとっちめよう。今週末が使用期限のデイパスをああも簡単に手放したのは変だと思っていたが、どこからか今回の情報を仕入れていたに違いない。  * * *  愛しい人の腕が自分の体に回され、優しく、たくましく抱きしめてくれていた。コネクターユミ035はこの上なく幸せなまどろみにしばらくの間ひたり、それから愕然として覚醒した。  寝てしまった。なんにもしないうちに寝落ちして、朝までぐっすり眠ってしまった。  セリフもシチュエーションも山ほど考えてきたのに。ランジェリーだってとっておきのものを選んで、ディナーのお酒もあえて控えめにしたのに、すべてが無駄に……! 「よく眠れたみたいだね」うろたえるユミの頭上から、柔らかい声が降ってきた。 「司令官、あの、私……」  振り向いたユミの頬に手が触れ、あたたかい指が目のまわりをそっと撫でる。 「目のクマが取れてる。よかったよ」  司令官が微笑んでいた。あたたかい腕にやさしく抱き寄せられて、目の奥をのぞき込まれる。それだけで、ユミはもう何もかもどうでもよくなってしまった。 「まずは体調をととのえるのが一番。もう少しのんびりしてから起きようか。まだまだ時間はあるんだし、な?」 「……ひゃい」  * * *  きっかけは仕事上がり、隣にいたアルファのタブレットを何気なくのぞいたことだった。 「そんなお顔をなさっても、もう今日の仕事はありませんよ」  そんなに物欲しげな顔をしていただろうか、と苦笑して帰りかけた俺は、何か引っかかるものを感じてもう一度画面をのぞき込んだ。それはどうやら隊員たちの勤務表で、ずらりと並ぶリストのうち一行だけがやたら真っ赤に染まっていたのだ。 「ははあ、今月の残業時間……が……220時間!?」  アルファは一瞬だけ目を閉じた。見られたくないものを見られてしまった、という時の仕草だ。俺が隣の椅子に腰掛けると、アルファは小さくため息をついて居住まいを正した。 「ユミさん……コネクターユミ035さんです。彼女はネットワーク保守責任者、サーバ管理責任者、基地局拡充責任者を兼任しており、しばらく前から過大な業務が集中してしまっています。私達も問題だとは思っているのですが」 「なんでそんなことになってるんだ? 分担すればいいじゃないか」  コネクターユミ035なら俺も知っている。オルカ号時代からいる最古参のユミで、ずっと通信インフラの整備を担当してくれていた。物資もとぼしく、鉄虫による通信妨害もある中で、オルカと外部拠点との通信を維持できたのは彼女の奮闘のおかげだと聞いている。  が、それももう昔の話だ。今のオルカは当時とは比較にならないほど機材も人員も充実した。アルファもベータもスカディーもいるし、なんならコネクターユミだって何十人もいるのだ。035一人だけがこんなケタ違いの超過勤務をする必要などないはずだ。 「そうもいかない理由がありまして……」  アルファは観念したのか、画面にいくつかのリストを呼び出して長い脚を組んだ。 「まず、彼女は旧時代からの生き残り個体です。ずっと通信インフラ業務に従事しており、人類滅亡前と滅亡後両方のあらゆる障害やトラブルを経験しているため、保守エンジニアとしての技術はずば抜けています。他のどのユミモデルにも、035の代わりは務まりません。加えて、彼女の業務の特殊性があります。これは少し専門的な話になりますが……」  という前置きから入った説明は本当に専門的で俺には半分も理解できなかったが、要するに鉄虫の支配領域がいたる所に広がっている今の世界における通信インフラ整備とは、実際に世界各地に出かけて基地局ユニットを設置する作業に他ならない。設置にあたっては出力・通信帯域・暗号化強度・カモフラージュ周波数など数多くの設定を、設置場所の環境に応じてその場で決めなくてはならず(時には鉄虫の支配領域ギリギリに設置し、一瞬で設定して逃げなくてはいけない場合さえある)、その判断基準はいまだにマニュアル化できていない。さらに今は多くの独立共同体が次々とオルカに参入してきており、彼らのローカル通信機器をオルカのネットワークに組み入れる作業も並行して進める必要がある。安全管理上この二つの業務は不可分であり、経験と判断力をそなえた誰か一人が担う以外に、スムーズに進める方法はない。 「つまり、ユミに全部やってもらうしかない……ということで合ってる?」 「完全に合っています」アルファはこめかみを押さえて、もう一度ため息をついた。「いくつかの業務はベータに移管しましたし、後継者の育成も進めていますが、完全な解決にはまだまだ……」 「話はおおよそわかったけどな」  このままにしておいていいとは到底思えない。俺は人よりちょっぴり働くのが好きなタイプだが、その俺から見てもユミ035の働き方……というか働かされ方は常軌を逸している。デルタやベータの搾取からバイオロイドを解放したと言いながら、一番身近なベテラン隊員にこんな過酷な労働を強いていたのではオルカの理想も何もあったもんじゃない。 「あの子はもともと、北米で私の下にいたんです。なまじ付き合いが長いので、彼女の勤勉さに甘えてしまっていたところは正直あるかもしれませんね……」アルファは目を伏せた。実際的な彼女がこんな歯切れの悪い物言いをするということは、確かにずっと気にかかってはいたのだろう。  話を聞くかぎり、彼女の仕事そのものをすぐ減らすことはできない。通信インフラは医療・教育・福祉・流通などすべてにかかわる最優先の課題だ。整備の遅れが文字通り生死を分けることだってありうる。 「感謝の印として、ボーナスみたいなものを出せないか」 「それは出せますが、彼女かなりの貯蓄があるはずです。残業手当が相当な額になっていますから」 「金銭的なものじゃダメか……」 「ユミ035さんの件ですか?」 「わっ!」  いつの間にかアルマンがすぐ横に来ていた。「アルマンも知ってたのか」 「私の管轄ではありませんが、そういう事態になるのではないかと予測してはいました」アルマンはアルファと目配せを交わし、 「ひとつアイデアはあります。陛下のご協力が必要になりますが」  * * *  ソワンの作った軽めの(でも夢のように美味しい)朝食を食べてからリヨンの街を散歩。何の目的もないただの散歩なんて、いつ以来だろう。 「このブティックは先月オープンしたばかりでね、結構人気らしいよ。俺にはよくわからないけど」 「そうなんですね。わっ、素敵な柄」  花々をめぐる蝶のようにウィンドウショッピングを楽しんだあと、カフェのオープンテラスで昼食。 「ずいぶん買ったなあ」  テーブルの左右に、まるで砦のように立ち並んだ大量のショッピングバッグを眺めて司令官が笑う。 「久しぶりで、テンション上がっちゃいまして」  ユミも照れ笑いを返す。どうせ使う暇もない残業手当が貯まり放題貯まっていたのだ。今使わずしていつ遣うというのか。 「何にする? 新メニューのレモンチーズスフレ、美味いよ」 「じゃあ、それで。あとランチプレートと……ベリータルトもいいですかね?」 「いいに決まってるさ」  無数の視線とささやき声が背中に浴びせられるのを感じる。当然だ。司令官と二人きりでランチをしていて、注目されないはずがない。ちょっぴりの罪悪感と圧倒的な優越感に、ユミは妙な笑いを浮かべてしまう。  デート中の司令官に声をかけたり、関心を引こうとしてはならない。オルカに加入した者が最初に叩き込まれる鉄のマナーの一つである。だからどれだけ注目されようと、誰にも邪魔される気遣いはなく彼を独占できる。今日一日じゅう、いや明日も、明後日だって。何しろ懐には…… 「お待たせしました。チーズスフレとランチプレート、ベリータルトです。それから、こちらのカフェ・クレームは当店から」 「ふえっ!? あ、ありがとうございます……っ!?」  我に返って飛び上がったユミは絶句した。皿を運んできたのが、とんでもなく大胆な制服に身を包んだ無敵の龍その人だったからだ。彼女がたまにカフェ・ホライゾンで一介のウェイトレスとして働いている、という噂は耳にしたことがある。都市伝説だと思っていたが、まさか本当だったとは。 「貴殿がユミ035か?」  デート中の司令官に話しかけてはいけないが、デート相手の方に対してはその限りではない。ユミがうなずくと、龍は静かに微笑みかけた。 「世界規模の通信環境が維持できているのは貴殿のおかげだと聞いている。我々海軍も大いに世話になった。ささやかながら、小官秘蔵の豆を使わせていただいた。楽しんでもらえるとありがたい」  そして司令官の方へはそっと一礼だけをして、一言もかけないまま龍は下がっていった。 「あ……」 「ま、いただこうか」  司令官がカップを口元へはこんだのにつられて、ユミも一口すすってみる。 「美味しい……!」  鼻孔に吸い込まれてくる目の覚めるような香り。クリームに和らげられた深い苦味と、どこまでも広く豊かなコク。まだ砂糖を入れていないのに、甘味さえ感じられる気がする。連日エナジードリンクにぶち込んでいたエスプレッソショットとは同じコーヒーと呼ぶのもはばかられる。そうだコーヒーとは本来、こういう風に味わうものだったのだ。 「よかった」司令官が微笑む。 「あとで……」 「うん?」 「いえ」  あとで。このデートが全部終わったあとできっと、この人は龍の所へ行って、コーヒーの感想とお礼を言うのかもしれない。でも今この時、彼は龍に一言もかけなかった。目さえ合わせず、ずっとユミだけを見ていた。いくらかの後ろめたさを覚えながらも、それがユミにはたまらなく嬉しかった。  * * *  コネクターユミ035の昨年の精勤をたたえ、司令官一日フリーパスを10枚支給する。  それがアルマンの提案だった。  司令官一日フリーパスは祝い事や特別な勲功のあった時にだけ発行するものだ。最高幹部の中にさえ、5枚以上持っている者はあまりいないだろう。それを10枚支給するというのは俺から見ても、文字通り破格の待遇だ。 「それはさすがに……軍部や他のところから不満が出ませんか?」  アルファがもっともな懸念を口にする。一日フリーパスの大半は、戦闘での功績を賞するために発給されている。ユミの仕事が重責なのはもちろんだが、戦場で命を張っている兵士達を軽んじるようなこともしたくない。 「ですので譲渡不可、有効期限付とします」予想ずみの反応だったらしく、アルマンはよどみなく答えた。「昨年一年間で、ユミさんがリヨンの自宅で寝泊まりしたのは六日間のみ。あとはすべて出張泊か職場泊です。10枚支給しても年内に使えるのはせいぜい三枚か四枚でしょう。これなら、不当に高い報賞にはなりません」  出すものは盛大に出しつつ、実際の消費は最小限に抑えるというわけか。確かに巧妙ではあるが……。 「でもそれ、なんかズルくないか? どうせ使い切れないとわかってる券をもらって嬉しいかなあ」 「失礼ながら、それはご自身の価値を低く見積もりすぎですね」アルマンはにっこり笑った。 「一日フリーパスは陛下の一日という貴重な時間を所有している証。使わなくとも、持っているだけで多大な満足感をもたらすものです」  言いながら取り出した透明なスリーブには確かに、いつだったか秘書課に発給された一日フリーパスがきれいに収められている。 「期限の切れたフリーパスも、記念品として売買されているんですよ。ご存じありませんでした?」  アルファまでもが胸の谷間から同じようなスリーブを抜き出して、俺はもう黙るしかなかった。この上はせめて、できるだけ使いやすいタイミングを選んで交付してあげよう。 「……引き継ぎかなんかで、一度こっちへ来るタイミングがあったよな。いつだっけ?」 「再来月です」最初からすべてわかっていたように、アルマンが答えた。  * * * 「きれい……」  薄闇に沈みゆく街並みに、点々と暖かい光がともっている。大通りにはまだ大勢の人が行き交っているが、高みから見下ろすこの窓までその喧噪が届くことはない。  すっと顔の横に差し出されたグラスを受け取って一口ふくむ。上等のスパークリングワインだ。  リヨン市の中央通りを見下ろす、高級ホテルのスイートルーム。 「都会を感じられて、でも静かで落ち着けるところへ行きたい」  というユミの希望を、司令官は完璧にかなえてくれた。 「ディナーもすっごく美味しかったし……こんなわがままを聞いてもらっちゃって、いいんですかね」  司令官一日フリーパスには、司令官に一緒にいてもらえるという効力しかない。どこへ行って何をするかは本来、本人次第である。だが司令官は今日一日、ユミの「デートをしたい」という希望にそって、最高のエスコートをしてくれた。 「まだまだ足りないくらいだよ」  湯上がりのガウンに身を包んだ司令官は自分も一口ワインをあおり、ちょっとだけ照れくさそうに笑ってから、ふいに真顔になってユミを見つめた。 「ユミ035。デートの時は仕事の話と他の子の話はNGだってわかってるけど、ちょっとだけその二つの話をしていいかな」 「……はい」  ユミは司令官に招かれるままベッドに腰をおろした。柔らかいベッドにお尻が深く沈んで、隣に司令官が座ると少しだけ浮く。 「君の仕事の話は聞いてる。どうにか負担を軽くできないか考えてるけど、どうもすぐには無理っぽい」 「……はい」  この休暇が終わったら待っている仕事のことが一瞬脳裏によみがえってきて、ずっしりと心が重くなる。司令官の肩に頭を寄せ、濡れた髪のにおいを吸い込んで、どうにか頭から追い払うことができた。 「だから、せめて俺といる間だけは満ち足りて、幸せでいてほしい。それと、そう思ってるのは俺だけじゃない。今回のフリーパスの件だけどさ、やっぱり大きい話だからどうしても必要で、幹部会議にかけたんだ」  思わず赤面して目を上げる。まさか自分のデートが幹部会議の議題にされるとは。 「君の仕事の状況と成果を説明したら、誰も反対しなかったよ。みんな君に感謝してる」 「…………」  ユミは昼間の龍のことを思い返しながら、たくましい肩にもたれ、しばらく彼の指がそっと髪を撫でるのを感じていた。 「その気持ちをもらえれば平気……なんて絶対思いませんけど。いつか引退してのんびり内勤したいですけど。でも、もうしばらくの間は頑張れそうです」 「ありがとう」  司令官がユミを抱き寄せる。ふかふかのパイル地のガウンごしにもわかる鍛えられた胸板の感触に、ユミの胸はときめいた。 「もちろん、俺の気持ちは感謝だけじゃないけどな。どんどんわがままを言ってほしい。まだぜんぜん足りない」 「…………じゃあ、いっこ追加いいですか」 「いくらでも」  たくましい手が背中を撫でるにつれ、じわじわと体が熱くなっていくのに任せる。ガウンの胸に口元をうずめたまま、ユミはわざと聞き取りにくい声でもごもごと呟いた。 「甘々で、ちょう優しくて……でも強引で、力強くて。そんな感じにメチャクチャにしてほしいです」  しっかり聞こえたようだった。司令官は笑ってユミのほそい肩に手を添え、ガウンをすべり落とした。  そして、ユミのわがままを完璧に叶えてくれた。  * * * 「本当にいいのか? 予定じゃ帰るのは明日だって」 「はい、もう十分です。これ以上司令官成分を摂取したら幸せがパンクしちゃいます」  つやつやとほっぺたに元気をみなぎらせて、ユミは笑う。買い物、観光、夜のあれこれ……数日たっぷり遊んで、確かに近場にはもう行く場所もさほど残っていないが、パスはまだまだ使い切っていないはずだ。 「最終日は誰にも会わずに、うちで思いっきりゴロゴロ自堕落に過ごします。好きな人には見せられない時間も、女の子には必要なんですよ」  遠慮して強がっているのかと思ったが、どうもそういうわけでもなさそうだ。仕方なく俺はジャケットをはおって、忘れ物はないか室内を見渡した。最後にもう一度寝室をのぞくと、ベッドメイクでも修復しきれなかった連日の惨状が生々しく残っている。清掃が大変だろうな、これは。 「呼んでくれたらいつでも来るからな」 「じゃあ、スチオンに入っててください。午後あたり会いに行きます」 「はは、了解」  タクシーを呼んで、ユミの自宅まで送っていく。車中でふと思いついて、俺はユミに頼んでみた。 「フリーパスまだいっぱい残ってるよな? 一枚貸してくれないか」 「え? いいですけど……」  出してもらったパスのすみっこに、俺はちょっとしたメモを書きつけて返した。受け取ったユミの顔がみるみるほころぶ。よかった。最後にもう少しだけ、おまけの幸せをプレゼントできたようだ。  * * * 「お帰りなさい、ユミさん。いい休暇だったようですね」  両手に山ほどの紙袋をかかえたユミは、答えの代わりにスカディーに向かって力強く親指を立てた。 「これ、お土産です」 「まあ、嬉しい。……すごい量ですね?」 「お菓子の新商品がめっちゃ増えてて、買いだめしてきました。いやーやっぱたまには通販じゃなく、店舗で見るのも大事ですね」  デスクについてコンソールを立ち上げると、待ちかねていたように大量のメールが流れてくる。こめかみをひきつらせながらも、ユミは不敵に笑った。 「ふ、ふふふ。やってやろうじゃないですか、今の私は無敵です。……まあ、まだしばらくの間は」  最初のキーを叩く前に、ユミはもう一度だけ胸ポケットからスリーブを取り出して眺めた。  透明なスリーブには使い切れなかった司令官一日フリーパス券の一枚が収められている。左下に印字された有効期限の日付に線が引かれ、司令官の筆跡で書き込みがあった。 〈このパスの有効期限を一年延長するものとする。これを使ってまた俺に会いに来てね〉 End ===== 「それじゃ、これは部屋に入った人は判定不要で全員気がつきます。窓に赤い手形がついてるのが見えますね」 「うひー」 「その手形は私が調べましょう。警察官ですし」 「俺は机を調べる。メモとか残ってないかな」 「私ちゃんは部屋の中をぐるっと見て回るね。動画回しておこうっと」 「私もしれ……探偵さんと一緒に机を調べます」 「え、メローペちゃん医学生でしょ? 手形調べてよ。赤いのって絶対血じゃん」 「メローペじゃないってば! マリコ・T・ラッシュフォード! うう、わかりました。私も窓の手形を調べます」 「はーい。じゃあまず窓を調べる人、〈医学〉か〈生物学〉技能ロールお願いします」 「ほらね!」 「なんであなたがドヤ顔なのよ……〈医学〉成功です」 「どっちも持ってません。いちおう振ってみましたが、失敗ですね」 「まず、この手形は窓の外からついてます。それからマーリンさんの読みどおり、赤いのは血です。そして指のあとが七つあります。で、医学知識のあるマリコだけがわかるんですが、二つの手形が重なってそう見えるとかじゃなく、実際に指が七本ある手の跡です」 「ひい……!」  テーブルトーク・ロールプレイングゲーム。略してTRPG。  もとはイギリスの一件のあと、マーリンとブラインドプリンセスの仲を修復する一環として遊んだゲームだが、意外と面白かったのでそれからもたまに遊んでいる。 「机を調べる人は〈目星〉技能ロールを。失敗? じゃあ何も見つからないです。ただの殺風景な机ですね」 「あとで私も机を調べまーす」  初めてやった時はARゲームルームを使って色々と映像効果をつけたが、今は普通の会議室だ。紙と鉛筆とサイコロ、あとは想像力さえあればTRPGは遊べる……というのはみんなの受け売りだが、マスターの説明だけで情景を想像するのにもだいぶ慣れてきた。今は旧友がとつぜん消息を絶ったのでアパートの部屋を訪れたら、早速不気味なものを見つけてしまったところである。  何度か遊んでわかってきたことだが、ひとくちにTRPGといってもいろいろな種類がある。古典的名作「バンカー&ブラウニー」の他にも、リアリティをとことん追求した詳細なルールが特徴の「ドゥームクエスト」、敵も味方も大量のダイスを振って大ダメージを出すのが楽しい「ギャリソンズ&ジニヤーズ」、ドラマチックで退廃的なストーリー重視の「サイクロプスプリンセス:ザ・マスカレード」、宇宙戦争をテーマにしたSFもの「ウェアウルフ40000」等々。それぞれ世界観や能力値、成功判定のルール、特殊能力の種類などに特徴があって、違った世界、違ったタイプの冒険が楽しめるのだ。  そして、今やっているのは「ヒュプノスの呼び声」。ファンタジーやSFの世界ではなく、現代を舞台にしたホラーTRPGだ。 「机にメモ帳があるんですね? それなら特によく調べます。何か書き残されてないかな」 「おっと、目の付け所がいいですね。じゃあボーナスを付けて、知力×5でd100ロール」 「成功です!」 「メモ帳の一番上の紙に、うっすら跡が残っています。強い筆圧で何か書いたあと、一枚目を破りとったような感じですね。かろうじて『ヘア通り14 ライオンの…』と読めます」 「メローペちゃん、すごい。初めてとは思えませんね」 「ふふん。これくらい、探偵小説をちょっと読んでれば当然です」 「そしてそのタイミングで、司令官……サムの携帯電話が鳴ります」 「おっと、俺か。『サム・ハート探偵事務所だ。仕事か?』」  現代というのはもちろん旧時代の話で、2030年代くらいのアメリカが舞台になっているそうだ。かつての世界やそこでの暮らし……とりわけ、バイオロイドがまだいなかった世界のことを、映画や小説とも違う形で体験できるのは面白いものだ。  もっとも、困ることもある。「ヒュプノスの呼び声」の特徴のひとつはプレイヤーキャラクターがごく普通の一般人であるという点なのだが、 「ドアに鍵をかけられたか。仕方ないな、蹴り開けよう」 「蹴るんですね。じゃあ、筋力×2でd100ロールを」 「えっ、×2? 32しかないけど」 「そうですよ、それくらいです。分厚い木のドアって言ったでしょ」 「うりゃ……失敗。筋力16ってかなり高い方なんだろ。これくらいできてもよくない?」 「普通の人間にしてはってことですから、自分を基準にしちゃ駄目ですよ。筋力16っていうのはそうだなあ、大体ダッチガールちゃんくらいです」 「そんななんだ……! うう、かっこよく蹴り開けたかったのに」 (司令官さんってときどき変にハードボイルドぶりたがる癖ありますよね) (似合ってないよね。だいたいサム・ハートって名前もどうなのさパクリ丸出しじゃん) 「うるさいぞそこ」  その普通の人間について、俺はあまりにも当たり前のことを知らなくてちょくちょく間抜けな失敗をする。まあ、これもいい勉強だと思おう。 「さてさて、ダメダメなアーサーに代わってここは有名配信者の私ちゃんに任せるがよい。どうもー! 『Pie Channel』でおなじみ、ミスター・パイでーす! ちょっと教えてほしいことがあるんですけどー……って感じで〈説得〉ロール! 失敗! クソぁ!」 「店主は配信動画とか見ないタイプのようですね。ドアの窓から、すっごくうさんくさげにあなたを見てます」 「ぐぬぬ、なんのこちとら二段構えよ! 〈言いくるめ〉技能で再挑戦……よっしゃ成功ぉ!」 「説得に失敗したから言いくるめるって、人としてどうなんでしょう」 「うるせえ」 「ミスター・パイのマシンガントークに圧倒されて、店主がつい口を滑らせます。『そいつ、見覚えはあるな。常連だったが、先週から急に姿を見せなくなった』」 「先週というと、探偵さんの依頼人の荷物が盗まれたのと同じ時期ですよね。関係がある?」 「まだ情報が足りないのかもしれません。私は署に戻って、行方不明者のリストを調べてみましょう。メローペちゃん、手伝ってください」 「マリコですってば。部外者に見せていいんですか、そういうの」  今回は俺とマーリン、ブラインドプリンセスに加え、新メンバーとしてメローペが加わっている。こういうゲームに興味を持つタイプとは思わなかったので少し意外だが、 「ウォーゲームならトレーニングの一環としてたくさんやりました。せっかくオルカに来たんだから楽しそうなことにいろいろ挑戦してみろって、お姉ちゃんにも言われたし」 「なるほど」  それで挑戦するのがTRPGというのがいかにも頭脳派のメローペらしい。 「〈忍び足〉成功ですね? マリコは首尾よく院長室に忍び込めました。でも、院長がいつ戻ってくるかわかりません」 「うう、そういうの焦るなあ……じっくり調べてる時間はないですよね。まず机の上を調べます。引き出しは鍵がかかってそうだからパスして、その次は本棚を」 「ふむふむ。では〈目星〉技能ロールを二回。机の上と本棚に」 「えい……えい。二回とも成功。早く早く」 「机の上には怪しいものは見当たりませんが、本棚に気になるファイルを見つけました。写真が二枚はさんであって、一枚目は動物のような人間のような、異様な彫像の写真。二枚目はレントゲン写真で、どうやら胎児の手の部分のアップですね。よく見ると指が七本あります」 「ええーー! やだーーー! これ院長先生クロ確定じゃないですか? 戻ってきたら私おしまいじゃないですか!?」 「それは戻ってこないとわかりませんね~。でもその前にはい、覚醒度チェック」 「やだーーー!!」  ちなみにこのセッションが終わったあとのことだが、ゲームマスターを務めたエラがメローペを評して曰く、 「すごい怖がりなのに観察力と推理力があるから、あまり誘導しなくてもどんどん謎を解いてめちゃめちゃビビり散らかしてくれる。理想的なヒュプノスプレイヤーですね」  ……とのことであった。まあ、怖いの苦手そうなのに頑張ったよな、とは俺も思う。 「中には異様な臭いの空気がこもっています。もう皆さん暗闇に目が慣れているから見えますが、そこは天井の高い部屋で、中央に高くなった祭壇のようなものがあります。周囲には信者らしき人影がいくつか座っていますが、暗くて人数まではよくわかりません。祭壇のてっぺんには動物のようなそうでもないような、不気味な物体の彫像が置かれています。これはマリコが院長室で見た写真のと同じものですね。というわけで、あの写真を見てなかった人はここで覚醒度チェック」 「いきなりか! うう、なんとか成功」 「私ちゃんも成功じゃーい!」 「私はもう見てるから平気です。よかった」 「ああん、失敗です。1d6減って……6! ぴったり50になってしまいました」 「おおー! 覚醒度50%って、初期患者じゃん」 「ううう」 「50まで下がると、一日に必要な睡眠時間が二時間増えます。これはまあフレーバー程度で、プレイには支障ないんですが……初めて覚醒度が50を割ったので、一時的な虚脱状態に陥りますね」 「ええー! この土壇場で!?」  このゲームのもう一つの大きな特徴が、キャラクターに設定された「覚醒度」だ。邪神の姿やそれにまつわるものを見たり、力の影響を受けたりするとこの数値が減っていって、だんだん睡眠時間が長くなったり悪夢を見たりするようになる。そしてゼロになると永遠に眠ったままになり、死んでしまう。 「……あらためて説明を読むと、本当にヒュプノス病そっくりだな」 「ヒュプノス病っていう俗称はこのゲームが元になって生まれたなんていう説もありますからね。『ヒュプノスの呼び声』っていうのは元々アメリカのホラー小説なんですが、作者は実際にこれそっくりの症状で亡くなったんだそうです。……これは単なる私の想像ですが、もしかすると本当にFAN波の影響を受けていたのかもしれません」  エラは神妙な顔でそんなことを言ってから、 「ま、それはそれとしてドアは開きました。信者がこちらを見ていますが、まだ皆さんが誰なのかはわかっていないようです。どうしますか」 「うううーむ……!」  旧友の失踪、盗まれた骨董品、大学病院に流れる違法薬物の噂。一見バラバラに見えた三つの事件を追いかけるうち一つの大きな企みが浮かび上がり、俺たちは邪神の眷属をあがめる教団のアジトへたどり着いた。このあたり、エラのマスタリングは本当に上手い。俺も何度かゲームマスターをやってみたからわかるが、プレイヤーに自由に楽しませつつ脱線しないよう話を進めるのはなかなか大変なのだ。  で、俺たちはこれから邪神の眷属を復活させる儀式を止めないといけないわけだが。戦闘になった時一番たよりになるブラインドプリンセスのキャラクター……警官のジェイクがここへきて行動不能になってしまった。 「私、何もできなくなってしまいました。ぽへー」 「10分くらい続くんだっけ。ミスター・パイは拳銃使えないよな?」 「私ちゃんの武器はカメラとチャンネル登録者数だけー」 「私もスキル取ってませんが、格闘技を少々」 「戦力は俺とマリコだけか……これ勝てるのかなあ。まだ顔バレはしてないんだし、いったん逃げてジェイクを回復させてから来るべきか? いやでも……」 「司令官さん、こういうゲームだとけっこう慎重派ですよね。実際の戦場では大胆なのに」 「ゲームと現実はぜんぜん違うだろ!」 「それ普通逆の場合に言わない?」  このまま挑んでも勝ち目は薄いが、ここで退いたら儀式が成功してしまうかもしれない。ジレンマに陥ってうんうん唸っていると、マーリンがふいに手を上げた。 「カメラをオンにして、普通に歩いて入っていきます。どうもー! 『Pie Channel』でおなじみ、ミスター・パイでーす!」 「は?」 「実は私、前から皆さんの仲間にしてほしいと思ってて。あ、あそこにいる奴らってば皆さんの儀式を潰そうとしてるらしいっすよ」 「は!?」 「ここまでおびき寄せてきたんですけど、一緒にやっつけちゃいません?」 「はあああ!?」  突然の暴挙に唖然とする俺たち。しかし、どうやら敵の方もかなり戸惑っているらしい。俺とメローペ……もといマリコはジェイクを脇に寝かせたまま、とりあえず殴り込むことにした。 「キック! 成功! 信者を蹴り飛ばしながらパイに怒鳴ります。『あんた何考えてるの!?』」 「ふふふ、私ちゃんが頼りにするのはカメラとチャンネル登録者数だけだって言ったじゃーん。さあ皆さんの素晴らしさを世界に伝えましょう! ご本尊はあれかな?」 「『やめろ、その燭台に触れるな!』祭壇の向かいに大きな燭台があって、パイがそれに触ろうとしたとたん信者が後ろから羽交い締めにしてきます」 「! よしマリコ、燭台だ! 一か八か、あれを壊そう!」 「はい!」  怪我の功名で儀式の要になるパーツが判明したことと、信者が思ったより少人数だったこともあって、俺たちはどうにか儀式をぶち壊し、教団のアジトから脱出することができた。もちろんジェイクも……そして、しっかり逃げてきたミスター・パイも一緒にだ。 「私、最後まで何もできないままでした。ぽへー」 「もう復活していいですよ。ちょうど夜が明ける頃ですね。朝日がまぶしいです」 「いやー、すがすがしい気分。悪が滅びてよかったよね!」 「裏切り者が何か言ってるぞ」 「あなた教団の一味になったんでしょ。あっちと一緒に逃げたんじゃなかったんですか?」 「今からでも重要参考人として逮捕しましょうか」 「ひどくない? 燭台が重要だって判明したの私ちゃんのおかげじゃない? 命がけの芝居で突き止めたのに」 「えっ、あれ芝居だったの!?」 「騙されてはいけません。芝居ならプレイヤーとして先にそう宣言しておけば済むことです。あそこで負けてバッドエンドになってもそれはそれで美味しい、とか思っていたと見ました」 「てへ」 「あなたねー!」 「でも今思うと確かに、あそこでちょっともたついちゃったからな。流れを動かすのには有効だったと思う」 「ああいう時は変に考えないで、突っ込んじゃった方がいいんだって。あそこまで来たらゲームマスターだってエンディングまで行ってほしいから、なんかしらフォローしてくれるもんよ。特に今回は初心者もいたし」 「呆れた、そんな打算で無茶をしたんですか」 「ちょっと、確かにバランス調整はしましたけど、そういうメタな視点で悪用するようなら次は考えますよ」 「わかってるって。今回だけ今回だけ」 「まあ反省会はあとでゆっくり、それでは、皆さん家に帰って休みます。翌朝の朝刊には『湾岸倉庫で謎の火災』の記事が載るのでした。おしまい」 「ふー……!」  俺は鉛筆を置き、大きく息を吐いて肩の力を抜いた。さっきまで『ヒュプノス』の世界に没頭していた脳みそに、一気に現実の時間感覚が戻ってくる。朝から始めたセッションだったが、長丁場だったのでもう日が傾いている。この夢から覚めるような感じも、俺はちょっと好きだ。 「お疲れ様。メローペ、どうだった。面白かったかい?」 「…………」 「メローペ?」 「……あ! はい、すごく楽しかったです! すいません、ちょっとぼーっとしてて」  ぼんやりとマーリンの方を見ていたメローペが、ぴょんと跳ねて笑ってくれた。よかった、楽しくなかったのかと思った。 「わかります。こういう探索系のシナリオって情報量が多くて、一本終えるとしばらくぼーっとしちゃいますよね」 「それブリスが脳筋だからじゃない?」 「ダイスより重いものを持てない体にしてあげましょうか?」 「本当に楽しかったです。次はマスタリングもやってみたいな」 「おお、興味あります? まずは既成のシナリオで慣れるのがお勧めですよ。私もまだやってない名作がたくさんあります」  早速にこにことタブレットを取り出すエラを、俺は笑って止めた。初心者をすぐ沼にはめようとするのはマニアの悪い癖だ。 「私ちゃんとブリスは打ち上げで飲みに行くけど、アーサーどうする?」 「悪い、俺はこれから仕事なんだ」俺は謝りつつ腰を上げた。打ち上げも魅力的だが、夕食前の貴重な業務タイムを逃すわけにはいかない。 「私、行っていいですか? シナリオの裏話なんかもしたいですし」 「興味ありますけど、お酒飲めないので失礼します。マスター、途中まで一緒に行きましょう」  日の暮れかかった公邸の廊下を、メローペと二人で歩く。  さっきまで常に誰かが喋っている喧噪の中にいたので、半日ぶりの静寂に耳がしんと痺れたようになっている。鉛筆とサイコロ、それにキャラクターシートを収めたブリーフケースだけが、メローペの腕の中でカタカタ音を立てる。 「オルカに来たばかりの頃、マーリンにチェス勝負を挑まれたことがあるんです」  ふいに、メローペがぽつりと言った。 「十番勝負したってやつか」  メローペが頷く。その話なら俺も聞いている。負けても負けても「まだ本気を出してない」とかゴネて再戦を挑み続け、一度だけ勝ったところで勝利宣言をして、そのあとは絶対に勝負しなかったとか。実にマーリンらしい話だ。 「あんなのもちろんインチキです。強いのは私! それなのになんか勝ち逃げされた気分にさせられて、ほんと腹が立つ」  憤然と宣言するメローペに合わせて、太い尻尾がぶんぶん揺れるのが可愛い。そのまましばらく黙って歩いてから、メローペは渋々というように再度口を開いた。 「……最近、ちょっと思うんですけど。マーリンの強さって、そういう所なんじゃないかって」メローペは顔を上げて俺を見た。「私がオルカに来るきっかけになった、グリーンランド沖海戦を覚えてますか? あれはお互い全力を出して、私の勝ちでした。私はそう思ってます」 「ああ。俺もそう思うよ」  もちろんあの海戦自体が一種のお芝居だったわけだが、それでもあの艦隊戦は本気の戦いだった。本来の筋書きではわざと隙を作ってムニンに侵入させるはずだったところ、彼女は自力でマーリンの裏をかいて侵入を果たしたのだから、メローペの勝ちと言っていいだろう。一度マーリンも(ものすごくイヤそうな顔で)「あれは私の判定負け」と言っていた。 「でも……あれがもしも本当に命がけの、たとえばマスターの命がかかった戦いだったら。あの人はたとえ戦術で負けても、何かとんでもない卑怯でインチキで意地汚い手を使って、どうにかして私を阻止していたんじゃないかなって。そんな気がちょっとだけするんです」  俺はもう一度頷いた。  あの戦いは確かにメローペの勝ちだったが、それがそのまま指揮官としての優劣を示しているとは俺は思わない。マーリンの真価は……こう言ってよければ……往生際の悪さにある。どうにもならない時でも絶対に諦めず、たとえ卑怯な真似をしてでも、仲間を裏切ってでも、何が何でも戦果をもぎ取るのがマーリンのやり方だ。  ちょうど今日のセッションのように。ちょうど、長年の親友に裏切り者と憎まれてまでもモリアーティを消し去ろうとした、イギリスでの戦いのように。 「……レモネードガンマにはそういうズルさ、なさそうだよな」 「はい。ガンマ様は欠点だらけの性格ですが、ズルいとか卑怯とか往生際が悪いとか、そういうこととは絶対に無縁の人です。だから……」  俺はメローペの頭にぽんと手を置いて、その先の言葉を止めた。  だから、確かにマーリンはガンマの副官として生まれた、ガンマにない部分を補える存在なのだろう。そうだとしても、メローペがこれまで誰よりも立派にガンマの副官を務め上げてきた事実は変わらない。それに、マーリンのことをそういう風にとらえられるようになったのなら、それ自体が成長だ。 「メローペはえらいな」 「えへへ」  メローペはしばらく満足げに俺に撫でられてから、ぐっと背筋を伸ばして手の下を抜け出した。 「……だからといってあのチェス勝負を認めたわけでは断じてないですけど。いずれ必ず再戦の機会を作ってギッタンギッタンにします」  俺が声を上げて笑ったのと同時に、階段の上からアルキュオネがひょいと姿を見せた。 「旦那、引き継ぎの時間だよ。ご機嫌じゃん、何して遊んでたの?」 「お姉ちゃん!」メローペがぱっと顔を輝かせる。「すっごく楽しかったんだよ。ねえ、TRPGって知ってる?」 「なんだいそれ? ロケット砲の仲間?」 「違うよお! あのね……」  頬を紅潮させながら早口で説明を始めたメローペと、にこにこ聞いているアルキュオネを連れて、俺はわざとゆっくり執務室へ向かった。  仕事の時間は貴重だが、こういう時間はもっと貴重なのだ。 End ===== 2月10日 朝20.5℃ 正午27℃ 夕25℃  ムンド・ノヴォが枯れた。最後の一本だったのに。  朝、雨がすこし降ったがすぐ止んだ。南風が強い。  水の少ない年になるだろう。 「来月だ。来月のうちにここからベルティオガまでの鉄虫を一匹残らず追い払い、安全な土地にしてみせる。だからあの斜面をぜひ開拓してコーヒーノキを植えてくれ。きっとだ、頼むぞ」 「は、はい……」  あっけにとられている農婦型バイオロイドの手を握って何度も振ってから、龍はつややかな黒髪をひるがえして軍用SUVへ戻った。マリーが苦笑とともに出迎える。 「人の仕事だと思って、好きなことを言ってくれる」 「どのみちやる気だったろう?」 「まあ、そうだが」マリーはタブレットに表示された地図にメモをとって、窓の外に目をやった。 「しかし、ここにもなかったか……」 「ああ……」  憂い顔の中将二人が乗り込んだSUVが走り出す。乾いた砂煙がくるくると巻き上がって後に続いた。  不屈のマリーと無敵の龍。南米がオルカの領土となったことを誰よりも喜んだのは、大のコーヒー党であるこの二人だったかもしれない。  何しろ南米といえばコーヒーの本場、旧時代には世界最大のコーヒー産地だった大陸である。専門の農園とまではいかずとも、農業生産拠点のそこかしこで地元作物としてコーヒーが栽培され、なんなら町並みの中にすら自生し、住民は誰もが気軽に美味いコーヒーを楽しんでいるに違いない……そんな風に夢見て、軍務に励みながらも南米へ憧れの視線を向けていた二人であったが、カラカスの情勢が落ち着き南米全体の状況がわかってくるとその期待は無情に打ち砕かれた。 「ベータは……私達は、支配下にあるあらゆる地域に過酷な税を課していました。どこも食料を作るので精一杯で、嗜好作物を作る余裕なんて多分……」  現在の南米にはコーヒー農園どころか、ただ一本たりとコーヒーノキを栽培している拠点すらなかったのである。  申し訳なさそうに頭を下げるレモネードベータに、しかし諦めきれない龍は食い下がった。 「いくらなんでも、まったくないということはないだろう。一等市民なら多少の贅沢はできたというではないか。外部から客が来ることだってあったはずだ。飲み物はどうしていたんだ」 「もちろん、コーヒー自体はあります。北米から輸入したインスタントコーヒーを、大統領宮でも常備していて……」 「何ということだ」龍は額を押さえ、椅子にへたり込んだ。「ベネズエラだぞ? メリダ、ククタ、マラカイボだ。すぐ隣にはブラジルもコロンビアもある。その支配者が飲むコーヒーが、輸入品のインスタント?」  月例の指揮官会議で話を聞いたマリーも、ショックを隠しきれない様子であった。 「い、いや、しかしだな、カラカスでもすべての畑を一枚残らず把握しているわけではあるまい。古来より農民というのはしたたかなものだ。支配者の目を盗んでこっそり栽培する隠し畑のようなものが」 「コーヒーでか? 絶対にないとは言いきれないが……まあどのみち、農地の実情は確認せねばならん。その過程で明らかになることもあるだろう」 「理不尽な税を課すことはないとわかってもらえれば、畑を隠す必要もなくなると思いたいものだな」 「アンタ達、いいかげんコーヒーの話から離れなさいよ」  見かねたメイの突っ込みで会議が閉じてから数週間。待てど暮らせど、コーヒーの情報は入ってこなかった。とうとう辛抱しきれなくなった二人は、戦術調査の名目でみずから現地へ乗り込むことにしたのである。 2月12日 朝20℃ 正午25℃ 夕23℃  トウモロコシ粉が切れた。干し肉もあと一袋になっている。  先月からずっと膝の具合がよくない。山道の上り下りがますますおっくうになり、すっかり村から足が遠のいてしまった。最後に行ったのはいつだったか日記を確かめたら去年の11月だった。蓄えも乏しくなるわけだ。  そういえば前回、村でも今年は作柄がよくないと聞いた気がする。こんな体で、食べられもしないものを育てている自分をかばってくれている人達だ。迷惑をかけたくはない。  鉄虫が反対側の斜面をうろついているのを見た。警戒にも出なくてはならない。腹が減るのには慣れている。もう少し我慢しよう。 「旧サンパウロ州エリアは全敗だな……北上して、ミナス・ジェライス州に向かおう」 「四カ所しか見ていないが?」 「それで全部だ。ブラジル高原から南には、もう拠点はないらしい」  山の斜面に刻まれたほそい道を縫うように進むSUV、その後部座席で龍が差し出したタブレットには南米の地図が表示され、レモネードベータの管理下にあった生産拠点が光点で示されている。そのほとんどはベネズエラ国内と大陸の北半分に集中しており、南に行くにつれ急激に数を減らしていく。  オルカへの移管が進むにつれわかってきたことだが、ベータが管理していた地域は広大な南米のほんの一部にすぎなかった。大陸の大部分は鉄虫の支配域か、もしくは鉄虫がどれだけいるのかさえ不明の未踏査域である。今いるブラジル南部にはもう、鉄虫の隙間を縫うようにして小さな拠点がちらほらとあるだけだ。 「やはり実地で見てみなくてはわからないことはあるな。それはそれで収穫だが」  マリーは画面を閉じて龍に返すと、窓の外の濃い緑を眺めて眉間をもんだ。 「調査結果はフェアリーシリーズにも共有しておかないか。専門家の目で見れば、また別の有望な地域が見つかるかもしれない」 「同感だ。制圧作戦を進める上でも、生産力の高い土地を優先した方が効率的だろうしな」 「なんだ、貴殿はもうコーヒーノキの発見は諦めたか?」マリーがからかうような笑みを向ける。 「現状を見れば、そうもなる」龍は何かを放り投げるように手先をかるく振った。「新たに栽培することを考えた方が建設的だ。そうは思わないのか」 「この広大な南米の、百分の一も我々はまだ調べていない。諦めるには早すぎる」 「ほとんどが鉄虫の領域だとしてもか?」 「少人数の共同体なら隠れ住むことだってできる。自生している野生株だってあるかもしれん」 「意外だな、そこまで執着するとは。貴殿は豆より技術を重んじる流儀だと思ったが」 「豆をおろそかにしていいという意味ではないさ。それに執着ではない、夢といってほしい」  悪路でガタガタと揺れるシートの上で、龍が眉を上げた。「夢だと? おい待て、もしや豆が見つからなくとも夢を追うだけで満足だとか言いだすのではあるまいな」 「馬鹿な、必ず見つけるとも」マリーも身を起こし、SUVのエンジン音に負けないよう声を張り上げる。「それは大前提だが、結果ばかりを求めては本質を見失う」 「本質とは何だ。今の場合、高品質なコーヒー豆の供給源を手に入れること以上の本質があるか」 「品質はプラント艦や植物工場でも追求できる。手に入れることではなく、見いだすことこそが目的だったはずだろう」 「それは考え方として、あまりに……」龍は言葉を探すように一瞬だけ目を細めて、「あまりに愚直すぎる」 「愚直おおいに結構。兵士に必要な第一の美徳だ」 「あ、あああの失礼いたしますがっ!」  運転手を務めていたレプリコンが突然発した大声に、後部座席の二人はぴたりと黙って前を見た。 「どうした」 「も、もうすぐ渓谷です。先ほどの村で更新した情報によれば、谷の西斜面に鉄虫の目撃情報があり、僭越ながら東回りで迂回すべきかど」 「ふむ。しかし、迂回するルートは遠回りになるのではなかったか?」 「二時間ほど余分にかかりますが……」 「そんなに遅れては予定の行程を消化できない」  龍が腰を浮かせた。龍もマリーも指揮官として多忙な身である。無理矢理スケジュールを空けて南米まで乗り込んではきたものの、使える時間は決して豊富にはない。 「どれ、小官が威力偵察してくる。スピードは落とすなよ」 「えっ?」  言うが早いか、龍は走行中のSUVのドアを開け、無造作に飛び降りた。地を蹴って車に並んだと思うと、そのまま加速して追い越していく。 「持っていけ!」マリーが座席下のトランクから、ソフトボールほどの大きさの金属球を取り出して投げた。自身の専用装備〈シーカーの眼〉だ。放物線を描いて飛んだ球体は龍の頭上でふわりと静止し、護衛するようにゆっくりと周回を始める。ちらりと目だけで礼を言ってから、龍は加速をつけて一気にSUVを置き去っていった。 「あの……」 「運転に集中しろ。何かあればシーカー経由で連絡が来る」  残りのシーカーを車の周囲に展開させてからマリーはドアを閉め、どっかとシートに座り直した。金色の髪が生体電気をはらんで、わずかに浮き上がっている。それ以上何を聞ける空気でもなく、レプリコンはしばし黙って運転に集中した。 「…………」 「心配するな、彼女は無敵の龍だ。なまじの鉄虫に後れを取ることはない。引き際を見誤ることもない。……私と違ってな」 「は……」  皮肉なのか冗談なのかわからず、レプリコンは固い声を返すしかない。その様子にマリーはわずかに頬を緩めた。 「貴様はたしか、このあたりでずっと暮らしていたのだったな?」 「はっ、スチールライン南アメリカ方面軍第1師団、ブラジリア連隊に所属しておりました!」 「南米第1師団なら……」遠い昔の記憶をたどるように、マリーは目を閉じる。「マリー22号か」 「はい、マリー22号准将の指揮下におりました。とても勇猛な方でありました」 「そうだな、昔一度会ったことがある。私達の中でもとびきり勇猛な奴だった。あれも個体差なのかな」マリーはうすく笑った。「ブラックリバーは総じて、南米に関心が薄かった。補給など手薄で苦労したろうな」 「はい……サントス港での戦いで、准将閣下は戦死されました。私達の連隊が撤退する時間を稼ぐために」 「……やはり、そういう死に方をするのだな……」  レプリコンの位置からは、マリーの表情はうかがえない。次にマリーが口を開いたのは、谷を半分ほども走り抜けてからのことだった。 「近々、オルカでも南米方面軍を編成する。貴様達にも招集がかかるだろうが……応じるかどうかは自由だ。断ることもできるし、スチールライン以外の部隊に希望を出すこともできる。ホライゾンとかな」 「じ、自分はスチールラインの兵士であります!」 「はは、この場ではそう答えるしかなかろう。今決めなくともいい、ゆっくり考えるといい」  右側に広がる深い森の奥から、銃声が響いた。鉄虫の機銃の音だ。不意に途絶えたあと、木が倒れるような音がそれに続いた。 「それと、さっきのはディスカッションの一環だ、諍いをしていたわけではない。あまり気にするな」 「は……はっ」  ハンドルを握ったまま、レプリコンが再び身をこわばらせる。マリーは口元をおさえてクックッと笑った。 2月14日 朝21℃ 正午27℃ 夕22.5℃  久しぶりにマリー隊長の夢を見た。もうよく思い出せなくなっていたあの張りのある笑い声を、もう一度聞けたことが嬉しい。  勇猛な人だった。何十人かいるというマリー隊長の中でも一番だったのではないかと思う。真っ先に敵陣へ飛び込んで、私たち兵卒を守りながら戦って、負傷しながらも笑っているような、そんな人だった。コーヒーが大好きな人だった。  当直の時に飲ませていただいた一杯のブラックコーヒーの味をまだ覚えている。とんでもなく苦くて、夢のようにうまかった。あれから自分で淹れようとしてみたが、苦いばかりでちっともうまくない。豆の種類や淹れ方など、いろいろと説明していただいたのだが、もうどれ一つ覚えていない。書き留めておけばよかった。  土が乾いたせいか、ティピカの枝がよく育つ。収穫を早めるべきか。 「セイレーン大佐は何をやらせても抜群に飲み込みが早い。技術においては私と遜色ないと言ってもいいほどだ。後はもう少し、自分なりのこだわりのようなものを見つけてくれれば一皮むけるのだがな」 「私はやはりネレイド軍曹を評価するな。常にきわめて基本に忠実だ。どんな豆を使っても本来の味がそのまま出る」  結局SUVは何ごともな谷を走りきり、龍は白いスーツにいくつか傷と汚れを増やしただけで涼しい顔をして帰ってきた。そしてそのまま、今度はカフェ・ホライゾンのコーヒー談義が始まっている。 「軍曹は根が純粋というか、素直だからな。少々素直すぎるところもあるが」 「個人的にはスマトラの豆が入った時は、常に彼女にハイローストで頼みたいと思っている」 「スチールラインには有望なのはいないのか? 支店が増えてきたから、人手はいつでも歓迎するぞ」 「時々声をかけているのだがな、どうも敬遠される」マリーは顎をなでた。「スチールラインの兵は粗食をいとわないのが長所だが、そのぶん味への情熱に欠けるというか……自分で美味いコーヒーを淹れようというほどの者はなかなかいない。なあ、レプリコン兵長」  突然声をかけられて、運転席のレプリコンが飛び上がる。「はっ! 勝利!」 「コーヒーは好きか? 自分で淹れたことは?」 「ミールキットの粉コーヒーなら自分で作ります。それ以外のコーヒーを飲んだことは、その……」 「あれはコーヒー味の向精神剤だ。龍中将、やはりカフェ・ホライゾンのカラカス支店開設が急務だぞ」 「だからそのためにも栽培の方が早道だと言ってるではないか。兵長、貴官はどう思う? 新たに栽培を始めるべきか、あくまで在来種を探すべきか」 「わっ、私のような一兵卒が将官の方々に意見するなど、おこがましくあります!」 「ははは! 実に愚直な答えだ。マリー中将、教育が行き届いているな」 「からかうな」マリーが顔をしかめる。「大体私の言う愚直というのはな、兵卒だけでは駄目なのだ、指揮する者も同じだけ愚直でなくては。兵卒は愚直に作戦を信じ、指揮官が愚直にその信頼にこたえる。その二つが揃って初めて、鋼の結束を持つ戦線が生まれる。スチールラインとはそういう」 「あ……あの、伺ってもよろしいでしょうか」  レプリコンが恐る恐る声を上げる。 「お二人は……その、本当にコーヒーを探しておいでなのですか? 何かその、作戦上のカムフラージュとかではなく?」 「当たり前だ」マリーが眉根を寄せた。「なんだと思っていたんだ」 「も、申し訳ありません! あの、それでしたら実は……昔、少しだけ噂を耳にしたことがあるのです。私のいた村から少し離れた……ちょうどこのあたりの集落に、コーヒーを飲ませる家があると」 「何!?」  二人が目の色を変えたのが、見えなくてもレプリコンにもわかった。 「どこだそれは。集落の名は? 場所は?」 「何といいましたか……ええと、確かこの正面に見える斜面沿いのどこかにあったのですが」 「思い出せ! いや、すぐ向かえ! ええい、なぜもっと早く言わない!」 2月15日 朝21.5℃ 正午27℃ 夕25℃  戦友の夢を見た。前の晩にマリー隊長の夢を見たから、つられて思い出したのだろうか。  レプリコン85-03c上等兵。ノーム227ft曹長。イフリート574p少尉。インペット469大尉。ブラウニー732-66b一等兵。ブラウニー450-21a二等兵。ブラウニー1162-80h二等兵。栄光の第15中隊第1小隊。決死のサントス港防衛戦。  みんな自分より強くて、頭がよくて、りっぱな兵士だった。みんないなくなってしまった。一番馬鹿でぐずな自分だけが残った。  あの時、倉庫の中にコーヒーの木の種があったのは幸運だったと、何度でも思う。それに運命でもあったのだと思う。みんなコーヒーが好きだった。マリー隊長に教わったからだ。  いまの自分にできるのは、この山でコーヒーを育てることだけだ。この足では鉄虫と戦うことはできない。レモネードの手下になるのもいやだ。  いつかマリー隊長が、自分の知っているのとは別のマリー隊長だけれども、それでもマリー隊長が、ここへ来ることもあるかもしれない。その日のために、自分はコーヒーを育てよう。もう何十年もこの山から出ていないが、たぶん世界中にコーヒーの木を育てているところなんてもうないだろう。いつかどこかのマリー隊長が、この小さな小さな農園を見て喜んでくれる、そんなことが起きないだろうか。  ティピカの実が色づき始めた。自分にできることはもうこれしかないのだから。  それは山の中腹に、道と畑をささやかに掘ったような、小さな小さな集落だった。  その道がわずかに太くなる、おそらくは集落の中心部といえるのであろうあたりに一軒のバラックがあって、開け放した窓辺に食器や工具などの粗末な品物がいくつか並べられている。こうした店ともいえないような店は僻地の集落では珍しいものではない。生きていくには食料や農具以外にもこまごまとした物品が必要になるものだ。 「店主! コーヒーがあるのか? 二杯頼む!」  小柄なバイオロイド……ここらでよく見る、PECSの工業用低価格モデルだ……が顔を出し、龍とマリーの形相に目を丸くして、すぐにマグカップを二つ持ってきた。 「代金は?」 「古釘二本か、塩漬け肉半切れ、それとも……」  二人はそれ以上聞かずに懐からツナ缶を出して窓枠に起き、湯気の立つカップを口に運んだ。 「……!!」  挽き方も淹れ方もいいかげんで拙い。コーヒーサーバーの中で長時間保温されっぱなしだったのだろう、香りは薄く、酸味と焦げくさい苦味ばかりが舌を刺す。それでもそれは間違いなく、この南米で初めて口にした、正真正銘本物のコーヒーだった。 「ふう……ごちそうさま。豆はどうしているんだ? ここで栽培を?」 「……いえ、その。まあ」  マリーの問いにそのバイオロイドは目を伏せ、口の中で何かもごもご呟いてごまかそうとした。 「我々はオルカの者だ。コーヒーを探しに来た。どこかで栽培しているなら、ぜひ分けてほしい」 「その、あの、倉庫とかから、ちょっとずつ……」 「倉庫? 冷凍保存庫でもあったのか」 「ああそう、そうですね、そういうのが……」 「これは冷凍豆の味ではない」龍がカップの底に残ったわずかなコーヒーをもう一度すすって顔をしかめた。「冷凍するともっと味が水っぽくぼける。時間がたってはいるが、生豆から作ったもののはずだ」 「えと、あの……」 「何か、正直に言えない事情でもあるのか」マリーが身を乗り出すと、相手は怯えたように同じだけ店の奥へ下がる。 「マリー中将、そう凄むものじゃない。君、安心してくれ。我々は君らの不利益になることはしない」 「あ、はい、あの……」そのバイオロイドはなおも口ごもってから、ふいに顔を上げた。「マリー? あの……もしかして、スチールラインの指揮官さんですか?」 「そうだが」 「ブラウニーのいるスチールラインの?」  マリーはもう一度うなずく。コーヒー売りのバイオロイドはさらに何度か、目をちらちらと迷わせてから、意を決したように口を開いた。 「あ、あの……本当は……!」 2月15日 朝21℃   縁がいくらか波打った、肉厚のするどい葉をめくると、緑色や、黄色や、淡いオレンジ色をした、指の先ほどの小さな実が、枝の根元から先までびっしりと生っていた。 「これは……」 「コーヒーチェリー……コーヒーの実だ」実を傷つけないようそっと指先で触れて、龍がつぶやく。  見上げるほどの高木から、手を伸ばせば届くような低木まで、高さはまちまちだが、同じ形の実と葉が道の両側に無数に並んでいる。植物のことなど何も知らないレプリコンにも、それが丁寧に世話をされて栽培されているのだということはわかった。 「だが、農園という感じではないな……?」 「素人の仕事なのだろうな」マリーの疑問に龍が答える。「私も詳しくはないが、複数の品種を混ぜ植えしているように見える。しかし、この量はすごいな……」  三人はそれ以上言葉もなく、山道を登った。道ともいえないような獣道の突き当たりには、粗末な、本当に粗末な掘っ立て小屋が建っていた。  鍵もついていない扉を押し開けると、ベッドと小さな机、それに戸棚で中はいっぱいだった。戸棚の一番上には、銃身が曲がってもう使えないであろう小銃が、ぴかぴかに磨かれて大事そうに置かれていた。  机の上には一冊の古ぼけたノートがあった。手に取ってぱらぱらとめくってみると、それは日記だった。  一人のブラウニー、スチールライン南米方面軍に配属された、特別でも優秀でもないただのブラウニーの日記だった。最後のページには今日の日付と、朝の気温だけが書かれていた。  マリーはその最後のページを開いたまま、長い間微動だにしなかった。龍とレプリコンはそんなマリーを言葉もなく見守っていた。  外で、ほんのかすかに草を踏む音がした。目を上げると山の斜面のずっと向こうから、バケツをさげた人影がこちらへ歩いてくるのが見えた。片方の足をひきずっているのが、シルエットでもわかる。  マリーが風のように飛び出していった。レプリコンも後を追おうとして、ちらりと龍の方を見た。龍は深く息を吐いて、 「愚直というのは、つまりこういうことを言うのだろうな」 「はい。私は、スチールラインの兵士に生まれたことを誇りに思います」  レプリコンはそれだけ答えて駆け出していった。  ブラウニーがバケツを取り落とし、マリーとレプリコンに抱きしめられるのを、龍は少しだけうらやましそうに、戸口から見守っていた。   ―――――――――――     〈新豆入荷!〉   カラカス支店開店記念     新ブレンド 「ブラウニーズ・スペシャルティ」    本場ブラジルの味     先行限定発売! ※来年より通常販売の予定です※ スチールライン隊員の方10%OFF!!   ―――――――――――  カフェ・ホライゾンリヨン店の店先に、こんな看板が置かれたのは、それからしばらくしてのことだ。 End =====  金色の残光がわずかに西の水平線に残っていた。  夕闇に染まりゆくカリブ海の上を小さな輸送機が一機、まっすぐに南へ飛んでいた。  ウラジーミル社製Vl-228。小型ながら高い積載力と堅牢な設計で、旧時代から現在まで世界各地で使われている名機である。鉄虫に制空権を握られた陸上では低空か超高空を飛ばざるを得ないが海ではその必要もなく、左右のターボプロップエンジンを存分にふかして悠然と飛ぶその背後から、接近する影があった。  小さい。航空機ではなく、機動型バイオロイドだ。特徴的な矩形の二次元推力偏向ノズルと変形デルタ翼、風になびく長い金髪。ブラックリバーのP-22ハルピュイアだ。  レーダー派吸収構造素材のレオタードによる優れたステルス性で索敵を巧みにかいくぐり、Vl-228の胴体の真下へもぐり込んだハルピュイアは、体をひねって背面飛行をしながらなめらかに上昇し、輸送機の腹にぴたりと張りつく。航空機ならば離れ業だが機動型バイオロイド……それもスカイナイツのエリートにとってはたやすいことだ。手足とノズルを巧みに使って前進し、機首の真下まで来たハルピュイアはそこで動きを止め、右腰に装備したキャリーケースから大きな円盤のような機械を取り出した。  指先でレドームの整備ハッチを探り当て、正確にその位置に機械を当てる。電磁吸盤でしっかりと機体に貼り付いたその円盤は微細な電磁波と高周波、極細のレーザービームを使ってVl-228のレドーム内にわずかな誤作動を起こし、レーダーが無力化されているのに索敵システムはそのことに気づいていない、という状況を作り出す。  装置の作動を確認したハルピュイアは多目的バイザーのすみに表示された時計を確認する。作戦開始から42秒。予定通りだ。  レーダーが無効になったのと同時に、Vl-228に接近するバイオロイドが新たに二機あった。P/A-00グリフォンとP-49スレイプニールである。  なめらかに近づいてきた二機は輸送機左側面のハッチにとりつくと、小さな機械を使ってドアロックにハッキングをかけた。解錠が完了し、いつでも開けられる状態になったのを確認すると、グリフォンがタクティカルバイザーの小型ライトを小さく数回点滅させる。  一方ハルピュイアの方は再度移動し、コクピットのすぐ近くまで来ていた。グリフォンのポケットライトを確認すると、今度は左腰のキャリーケースから別の装置を取り出す。カメラマンが使うような、柄付きのストロボライトだ。  ポケットライトが消えてから正確に5秒後、ハルピュイアはストロボをコクピットの前へ突き出し、スイッチを入れた。 「!?」  激烈な閃光がコクピットを真っ白に照らす。同時にグリフォンとスレイプニールがハッチを引き開け、各々の飛行ユニットをパージ。与圧された空気が爆風となって吹き出すのにも構わず機内へ突入する。  パイロットが混乱し、両手で顔を覆ったのが見えた。080機関特製の、この特別な周波数で明滅するストロボはたんに目をくらませるだけではなく、視神経に作用して認知機能を攪乱する。ほんの一、二秒ではあるがパイロットは何も行動できなくなり、そしてグリフォンがテイザー弾を撃ち込むにはその一、二秒で十分であった。  全身を硬直させたパイロットをグリフォンが操縦席から引き下ろす。入れ替わりにスレイプニールがシートへ滑り込み、キャノピー越しに手を振ってみせると、機首にしがみついていたハルピュイアが同じく手を振りかえして離脱していく。 「えーとえーとCVR(コクピットボイスレコーダ)は……オッケ、古い型ね。二時間分しか録音されないから、あと30分は何しゃべっても平気よ」 「ふー……!」  グリフォンが大きく息をついて、パイロットの首筋に無針注射器を押し当てた。シュッというかすかな音と共にがっくり力が抜けてのけぞったその顔は、シティガードの警視正・サディアスだ。 「フレズ、フェイズ1クリア。サディアスさん来ていいよ」 《もうそっちへ向かってます。十五秒でランデブー予定》  開け放したままのキャビンのハッチから、銀灰色の翼が接近してくるのが見えた。P/A-8ブラックハウンドが、大きなハーネスでもう一人のバイオロイドを胴へ固定している。近づいてくるその手がハッチの縁をつかみ、入ってきたのはもう一人のサディアス……オルカのサディアスだった。 「見事な手並みだ。スカイパイレーツでもやっていけるんじゃないか」  ハーネスと酸素マスクを外し、ひとつ伸びをしたサディアスがキャビンを見回す。 「やめてよ。ハイジャック退治は何度もやったけど、ハイジャックする側になったのなんて初めてだわ」 「私やったことあるよ」操縦席からスレイプニールが首を出す。 「マジ?」 「なんか極秘任務とかって、ウロボロスと一緒にね。でも普通のハイジャックは地上にばれても構わないから、もっと楽よ」 「普通のハイジャック事情なんて知らないわよ……」 「9-34sか」  言い合いを続けるスカイナイツ二人に構わず、サディアスは横たわる同型機の襟を裏返して認識番号を確かめると、制帽をとってコートを脱いだ。 「服を交換する。こいつを脱がすのを手伝ってくれ」 「同じ服なのに?」グリフォンが意外そうな顔をする。 「同じ服だからだ。傷や汚れ、ちょっとした違和感が疑惑につながることもある」  さっさと下着姿になったオルカのサディアスは、寝ている方のサディアスのコートを脱がせはじめる。グリフォンもあわてて手伝った。 「……ひと穴ゆるい。オメガの下で働いていれば無理もないか」タイトなレザーパンツに脚を通したサディアスが、ふと腰に手を当ててつぶやく。 「何が?」 「仕事のストレスは食べて解消するたちでな」  引き締まった己の腹筋を満足げに撫でてからサディアスは操縦席へ向き直った。「代わろう。操縦にも慣れておきたい」 「はーい。私たちもそろそろ戻ろっか」  コクピットからひらりと出たスレイプニールは裸に剥かれたサディアスをコートでくるんで担ぎ上げ、外で待機していたブラックハウンドのハーネスにつなぐ。それから振り返ってぐっと親指を立てた。 「頑張ってね! 無事を祈ってるわ」 「ああ」サディアスは二本指で答礼した。「そっちのサディアスをよろしく頼む」  サディアス9-34sが目覚めて最初に見たものはパイプが縦横に走るせまい天井と、椅子に腰かけて静かにこちらを見ているブラックリバーのピュトンモデルだった。 「おう、起きたかの」  その瞬間、サディアス9-34sの頭にまず浮かんだのは、 〈処罰〉  の二文字であった。  レモネードオメガの支配する北米では一度のミスですべてを失う。たった一度、オメガを満足させなかったせいで最下層に落とされ、あるいは新品と入れ替えられた上官、同僚、部下は数知れない。自分も今、その列に並んだのだ。  重苦しい絶望に覆われると同時に、しかしサディアス9-34sの脳はフル回転を始めていた。オメガの下で働くバイオロイドが、何よりも鍛えられるのは業務遂行能力ではない。失敗をどうにかして取りつくろう、瞬間的な状況判断と打算の力だ。 「……」  無言のまま慎重に体を起こし、目だけで周囲を見回す。四肢は拘束されていない。固いベッドに寝かされていたようだ。  最後に覚えていることは何だ? 輸送機を操縦してカラカスへ向かっていた。オルカ反乱軍との休戦交渉にあたり、一時的にカラカスのシティガードの指揮を執るためだ。記憶がはっきりしないが、何か光を見たような気がする……首筋をさすると、かすかに痛む腫れがある。ひどい頭痛と併せて考えれば、おそらくテイザー銃で撃たれたあと麻酔を打たれたのだろう。この状況で自分を拉致する勢力は一つしかない。 (オルカ“反乱軍”……)  北米でもそれなりの地位にいるサディアス9-34sは、一般のバイオロイドと違い外界の情報にもアクセスできる。オルカが反乱軍などという雑な言葉で片付けていい勢力でないことはよく知っている。  普通に考えれば情報目的か人質……オメガ相手に人質が通じるなどとさすがに思ってはいないだろうから前者か。しかし、今このタイミングであることが問題だ。  オルカ配下の別のサディアスが、自分とすり替わってカラカスへ向かっている可能性がある。いや、輸送機自体も無傷で奪われたはずだから、間違いなくそうだろう。オルカはカラカスで何をする気だ? サディアスを暗殺ではなく拉致した意図はなんだ? この状況を乗り切って失点を挽回……少なくとも隠蔽して北米に戻る道筋はあるか?  大量の思考を一瞬で回転させた後、サディアスはゆっくりと口を開いた。 「ここで何か話せば……オルカに亡命させてもらえるのか?」 「ほっ」ピュトンが愉快そうに目を見開いた。「話が早いの。じゃがまあ、無理強いする気はないよ」  オーケー、尋問はなし。少なくとも今すぐには。サディアスの頬を汗がつたう。  敵の主目的はすり替わりの方で、サディアスを拉致したのは単なる「ついで」……という可能性の方へ天秤が傾いた。しかし事態が好転したとは必ずしも言えない。身柄が目的でないということは、状況次第で死んでも構わないということでもあるからだ。伝え聞くオルカの性格であれば、単に殺人を避けただけという可能性もあるにはあるが、楽観は禁物である。 「それなら、私をどうするつもりなんだ」 「さて、それが難しいところでな」ピュトンは目を細めて、その先を答えない。  とにかく今は少しでも情報を集めなくては。空気がひどくこもっていることに、サディアスは気がついた。どこか遠くで唸り続けている一様な機械音。加えてこの狭さ。船につきもののゆったりとした揺れは感じられない。 「潜水艦か、ここは」 「当たりじゃ。カリブ海におるよ」  なるほど、海中で待ち伏せて輸送機を襲撃したというわけか。辻褄はあっている。そしてそんなことを気軽に教えるということは、脱走などさせない自信があるのだろう。実際ここが本当に海中なら、独力で脱出するのは難しい。そして、みょうに煮え切らないピュトンの態度から、サディアスはここで一つの仮説を引き出した。 (オルカの目的は、カラカスでの交渉を無事に終えること……ただそれだけなのでは?)  あり得ない話ではない。オルカの戦力からすれば、今回の休戦は願ってもない好条件のはずだ。余計な事件が起きてほしくないというのは十分動機になり得る。オメガは事実この機に乗じてベータのケストスヒマスを奪うつもりだから、あながち深読みのしすぎというわけでもない。  そして、交渉が終わればサディアスの入れ替わりは必ず露見する。カラカスのシティガードならともかく、オメガの目を偽者が欺けるはずがない。何なら交渉が終わった時点で、オルカ側からバラす可能性すらある。そうなったとき、「サディアス9-34sを無事に引き渡す」という選択肢がとれなければ、オルカの立場はかなり不利になる。 (拷問もされず、かといって勧誘もされない。中途半端な態度は、そういう背景のせいでは……?) 「……オルカは来る者は拒まない、勧誘熱心な組織だと聞いていたがな? あんな低俗なMVまで流すくらいに」 「プロジェクトオルカのことか? ええじゃろ、あれ。儂がまだおらん頃でな、出られなかったのが残念でならん」  探りを入れても話をそらされる。やはり、こちらがオルカに行く気になっては困るのだ。天秤がだいぶこちらに傾いてきた手応えを感じたサディアスは、もう一歩踏み込んでみることにした。 「喉が渇いたな。何か飲ませてもらいたい」 「水でええかの」 「茶がいい。でなければ甘いものか」  腰を浮かしかけたピュトンの眉がぴくりと動いた。「……少し待っとれ」  ピュトンが扉の外に小声で何かささやく。しばらくして、運ばれてきたのは甘いレモンティーであった。 「……本当に出てくるとは思わなかった」一口すすると、香りも甘さも上品だ。缶や瓶の飲料ではない、今実際に淹れたのだろう。 「贅沢なものだ。物資が豊かというのは本当なんだな」 「おかげさんでの」ピュトンは曖昧に笑う。  サディアスはもう一口あおる。「本当にうまい。なんだか亡命したくなってきたな」 「そうかえ。……のう、嬢ちゃん」  カップから顔を上げるとすぐ目の前にピュトンがいた。 「さっきから、えらく察しのいいことじゃ。頭が回るのは結構じゃがの、ほどほどにしておけよ」  いつ立ち上がったのか、いつ近寄ってきたのかまったくわからない。トルマリンに似た明るい青の瞳がおそろしく底暗い光をはなち、その光に射貫かれてサディアスは言葉を失った。 「もし本心から亡命したいなら、オルカはいつでもお主を迎え入れる。オメガの追っ手からも守り抜く。そのためにオメガと一戦交えることになったとしても、儂らの司令官ならきっとそうする。じゃがもし、そんな司令官の優しさにつけ込んで悪さをするようなら……オルカは優しい所じゃが、優しさしかないわけではないぞ」  サディアスがようやくの思いで首を縦に動かしたのを確認してから、ピュトンはゆっくりと椅子へ戻った。酸素を求めるように喉へ手をやりながら、サディアスはようやく思い至った。 「貴様……ピュトンモデルではないな?」 「今頃気づいたのか」そのバイオロイドはおだやかに笑った。「いかにも、儂はピュトン特殊改修型……ウロボロスじゃ。名前くらいは聞いたことないかの?」  聞いたことがあるどころではない。スカイナイツ伝説の指揮官機。オルカはいつのまにか、こんな化け物まで復元していたのか。  にらみつけるサディアスの視線を意に介さず、ウロボロスはしずかに立ち上がり、 「ま、おおよそお主の読み通りじゃろうよ。大人しくしていてくれると助かるのう」  それだけ言って出ていった。襟首がぐっしょりと汗で濡れていることに、サディアスはその時になって気がついた。  一日たち、二日たった。ウロボロスの言ったとおり、特に尋問などはされていない。部屋の外にこそ出られないが、食事もそれなりにまともな……少なくとも、潜水艦の乗組員ならこんなものだろうという程度のものが運ばれてくる。  壁や扉は普通の樹脂製だ。SS級バイオロイドであるサディアスなら素手でぶち破ることもできなくはないが、廊下の外には二十四時間見張りが立っている。 (脱出できないまでも、オメガ様に連絡する方法はあるか……?)  ここまでの推測が当たっていれば無事に返してはもらえるだろうが、何かしら収穫を持って帰らなければ、オメガの下に戻っても未来はない。  悩み続けても何も思いつかないままの三日目、急に艦内が慌ただしくなったようだった。チャンスかと腰を浮かせたが、残念ながら警備が緩むことはなく、やがて何とも言いようのない顔でウロボロスが入ってきた。 「状況が変わった。……実は、今日が休戦交渉の予定日だったんじゃがの」  ウロボロス曰く、ベータとそのクローンがオメガを罠にかけようとして、オメガは一時的にオルカと共闘することになった。だが戦いはもう片付き、戦闘の余波でカラカス市街は半壊、ベータは敗れてオルカの傘下に入り、オメガはケストスヒマスを奪って北米へ戻ったという。 「というわけで、お主の処遇が宙ぶらりんになってしまっての。やっぱりオルカに来んか?」 「何だ、それは」  サディアスは呆れと怒りが入り交じった大声を出した。 「どうしても戻りたいなら、マイアミあたりの海岸に下ろしてやらんでもないが。今更言うのも何じゃが、オルカはいい所じゃぞ」 「そこじゃない。証拠もなしにそんな話を信じると思うのか」 「ううむ。証拠といってものう」ウロボロスはしばし頭をぐるぐる回してから、ぽんと手を叩いた。 「あれでどうじゃろか」  額と腕に包帯を巻いたサディアスが、カウチから起き上がってスカイナイツを出迎えた。 「やっほー、サディアスさん。お疲れ様」 「そっちこそな。このあたりでも大きな戦闘があったと聞いた」  壁一面の窓からはカリブ海が一望できる。カラカスから北に十数キロ、海沿いに立つ豪奢なリゾートホテルのスイートルームである。 「もー、デスストーカーがわんさか押し寄せて大変だったわよ」グリフォンが大げさに肩をすくめた。「サディアスさん、警察用装備だけであれとやり合ったって本当? よく生きてるわね」 「おかげでこの通りだがな」 「怪我の具合はどうなんじゃ?」 「歩き回れる程度には回復した。だがせっかく司令官がくれた特別休暇だからな、もうしばらくのんびり休ませてもらうつもりだ」 「それがいいですよ。これ、ソニア警視正からお見舞いです」  ブラックハウンドが差し出した紙袋を受け取ってサディアスは苦笑する。「あいつめ、また酒ばかり」 「それにしても、素敵なホテルですねえ。リンティたちが戦ってたすぐ近くにこんなところがあったなんて」広々としたスイートルームを見回して、リンティが目を輝かせた。 「来賓用としてベータが特別に維持管理していたんだそうだ。昔オメガも泊まったことがあるらしいぞ」 「リンティ達もここでリゾートしましょうよ、戦隊長ー!」  すでにあちこち駆け回って探検しているスレイプニールが隣の部屋から顔を出す。「二階にホールもあったわよね。あそこでコンサートするのもいいわね!」 「遊びに来たんじゃないのよ! 私達は任務、まだ残ってんだからね」  釘を刺してから、グリフォンがふと向き直る。 「そうだ、あっちのサディアス、9-34sだけど。結局オルカに亡命することになったわ」 「ほう」サディアスは眉を上げた。「まあ、今更オメガ領にも戻れんか。こっちへ来るのか?」 「保護観察でフランスへ行きました」ハルピュイアが補足する。「080に調べてもらって、問題なければ司令官に面通しして……いずれはこっちのシティガードを任せることになるかもですね」 「何を言ってもぜんぜん信じてくれなくて大変だったのよ」グリフォンが肩をすくめた。「まあ実際信じられないような急展開だったし、証拠なんか出せないからしょうがないんだけど」 「最後の決め手は、お前さんがくれたヒントじゃったのう」  ウロボロスがにやにやと笑ったのへ、サディアスが怪訝な顔をする。 「ヒント?」  ウロボロスは可笑しそうに、両手を腰に当てて腹回りをなぞって見せた。 「お前さんが置いてったパンツをな、あっちのサディアスに穿かせてみたら覿面じゃったわ」  一瞬、目を丸くしたサディアスは、はじけるように笑い出した。 「奴がこっちへ来たら、一緒に酒でも飲むか」 「ええのう。儂も呼んでおくれ」  サディアスは窓に近寄って海を眺めた。それからもう一度笑って、肋骨の痛みに顔をしかめた。 End =====