「ノーマ」  チキンディナーが手を伸ばしてくる。ノーマは腕を開いて迎え入れる。 「ゲン担ぎだ」  胸元で彼が囁く。心臓が皮膚一枚を隔てて側にある。脈が早い。襟の被膜が興奮に震えている。 「わかっています」  うさリン族の聴覚は鋭い。肌が触れる前から、彼の心臓が高鳴っているのを知っていた。ノーマに付きまとう不運を彼に移し、彼の異常な強運を衰えさせる……チキンディナーがここ一番の賭けに挑む前の儀式だ。  チキンディナーを興奮させるのは賭けのスリルであって、この肉体ではない。ノーマは彼に愛されない。それは不幸でも、幸福でもある。やがて肉体は衰える。かつて脚を失くしたように、失われることもある……だが、ノーマの不運は生ある限り、失われはしない。 「ありがとうよ、ノーマ」  チキンディナーがさっと身体を離す。左右色違いの眼がギラつき、歯を剥き出すような笑みが浮かぶ。 「お役に立てれば幸いです」  ノーマが胸のうちに秘める、この感情は愛ではない。愛は衰えもすれば、失われもする。ノーマが持つ不滅のものはふたつ。その両方ともが、チキンディナーに差し出されている。  猪に似た魔族の突撃を飛び越え、がら空きの背に一撃を見舞う。魔族は血を撒き散らしながら、顎をしゃくり上げた。右脚で牙を食い止める。鉄が悲鳴を上げた。  猪の魔族が振り返る。蛇に似た魔族も身を起こす。右脚が重い。左脚も動きが悪い。次の一撃には耐えられまい。 「下がっていてください」  ノーマは背にチキンディナーを庇い、前に出た。刺し違えても倒す。  蛇の魔族が牙を剥いた。ノーマは跳躍し、その顎を蹴り上げる。右脚が断末魔の声を上げる。空中で体をねじる、残る左脚で、魔族の頭を踏みつける。  猪の魔族が突進してくる。蛇の魔族は倒れながら、がちりと脚に歯を食い込ませた。咄嗟に義足を外して顎を逃れ、壊れた右脚を敵の体に、剣のように突き立てる。棒切れを突き出すような、蹴りとは呼べない動きだったが、突進の勢いが敵自身を破壊した。  目前の危機は脱した。新手が来る前に、急いでこの場を離れなければ……だが、動けない。脚がない。 「掴まれ」  小さな手がノーマの肩を支える。左右色違いの目が、強い意志を湛えている。 「行ってください」  小柄なチキンディナーには、ノーマを抱えていくことなどできない。肯定も否定の声もない、ただ手は離れない。 「チキンディナー様!」  馬車の音、呼び声。味方だ。降りてきた部下の手を借りて、チキンディナーはノーマを座席に引き上げた。小柄なうさリン族を持ち上げるには、部下一人でも充分だっただろう。しかし、チキンディナーは手を離さなかった。  馬車が走り出す。ノーマは座席に丸まって、自分の体を見まいとする。車輪の音より遥かにうるさく、激しく心臓が鳴る。脚。私の、脚。 「よくやった、ノーマ」  チキンディナーの手が伸びて、ノーマの頭を胸にそっと引き寄せた。 「もう大丈夫だ」  チキンディナーの胸に、顔を埋めるのは初めてだった。彼の頭はいつも胸の下に来る。 「何も心配は要らない。安心しろ」  細いあばら骨の向こうで、心臓が脈を打っている。死地を脱したばかりだというのに、鼓動は普段通りで、怯えているのが恥ずかしいような気がしてくる。  チキンディナーは黙ってノーマを抱きしめていた。ノーマはその胸に、黙って頭を押し付けていた。  馬車が石を踏んで揺れる。部下が通信の向こうの誰かを、激しく罵っている。振動も騒音も、幻のように遠く感じられる。間近な鼓動だけが、世界で唯一確かな物だった。 「下らん時間を過ごした」  チキンディナーは不機嫌に呟いた。 「まずい酒につまらん勝負ときた。実に下らん」  彼は珍しく、かなり酔っていた。酔眼を不機嫌に細め、手酌で酒を注ぎ、煽る。早いペースは、舌に残る酒の味を、洗い流そうとするかのようだ。 「付き合え、ノーマ」  と、目の前にグラスが置かれる。少し口をつけると、舌が焼けるような、強い酒だった。酒を置いたその手が、新たな酒を注ぐのを見て、少し不安になる。彼は帰ってきた時点で、既に大分酔っていたはずなのだ。 「そろそろ控えた方が」 「なら、こっちを付き合え」  緑の鱗に覆われた手が、カードを取り出す。左右色違いの目がウインクした。 「先に言っておくが、俺は今大分酔っている。負かすなら、今だ」 「わかりました」  二人きりで、何を賭けるでもなしに勝負する。当たり前のように負けた。チキンディナーは不思議そうな顔をした。 「運のせいか」 「いいえ、実力です」  酔ってはいても、彼の手は正確だった。確かにノーマは不運につきまとわれてはいるが、仮に二人の運が完全に均等だったとしても、チキンディナーに敵う気はしない。 「ふん、どうかな」  チキンディナーは少し笑った。 「酔ってるからな、俺は」 「はい」 「突拍子もないことをするかもしれん」  そう言うと彼はゆらりと席を立ち、隣に腰を下ろした。小柄な体が、半ばもたれかかるように押し付けられる。 「お前の不運、貰うぞ……少ししたらもう一勝負だ」  とりあえず機嫌は良くなったようで、よかった。密着している体温から逃れるために、関係ないことを考える。酔った男にもたれられていると、カードはとても扱いづらかった。 「さて、これで最後だ」  チキンディナーの目が燃えるように輝いた。普段は畳まれている襟の皮膜が、興奮に開いてはためく。  心ときめく勝負に挑む時、チキンディナーは実に楽しげな顔をする。ノーマは彼のその顔を、正面から見たことがない。いや、それどころか、 「クックク、勝負ッてのはこうじゃなくちゃあな……」  極めて珍しく劣勢の時の、牙を剥くような笑顔も、 「お前さん、ツキがねえな……」  趨勢の決した勝負を終える時の、つまらなそうな顔もだ。  ノーマがチキンディナーに挑む日は来ない。ノーマの居場所は彼の傍らだからだ。彼の背を守り、彼に従い、時には彼の求めに応じて、不運を分け与える。それがノーマの望んだ位置だった。概ね不満はない。  概ね、そう、ほんのわずかに不満はあるのだ。ノーマが従者である限り、彼を昂ぶらせることはできない。歓喜に満ちた彼の顔を見つめることは、決してできない。 「いい勝負だったぜ」  彷徨っていたノーマの思考を、チキンディナーの声が現実に引き戻す。 「帰るぞ。ノーマ」  振り向いたチキンディナーは、満足げに目を細めている。彼のこんな顔を見られるのは、ノーマだけの特権なのだけれど。