ハクマイ怪文書シリーズ 夢小説編 『Writing Light』 ◇ 『という訳で──美少女白毛世界最強G1マイラーウマ娘、ハクマイは今日を以って引退します! サヨナラ!』  ハクマイが引退会見を開き、姿を消してから、いつの間にか数年の時が経とうとしていた。  その日も夜闇はやけに冷たく、街の灯りはどこかよそよそしかった。私のスマホの画面には、あの日のニュース記事のスクリーンショットが光っている。 “ハクマイ、香港マイルをラストランに引退──舞う白き星、表舞台から退く”  どれだけ見返しても、その見出しの文字とWピースを決めたハクマイの画像は変わらないのに、私は意味もなく何度もその画像を開いては閉じた。  特徴的な、白と黒の髪。どれだけ離れていても誰よりも目立つ、その姿に惹かれたのが始まりだったのは、否定できない。  陽気で明るく、どんな時でも同期の三冠ウマ娘オルフェーヴルや、他の綺羅星にも負けじと場の中心にいるようなウマ娘。  インタビューでの快活な受け答え、出版された写真集の笑顔、配信での冗談交じりの語り。  そして、普段とは打って変わって、レース中の真剣な表情──そういうもの全部が、私にとってのハクマイだった。  NHKマイルで、上位人気のウマ娘を全員差し切っての日本レコードが印象的なのは、言うまでもないけれど──何故か、私の心に残っているのは、菊花賞のあのまっすぐで、苦しそうで、それでも歯を食いしばって走る姿だった。  あれを見たとき、「推し」がなんなのか、どうして皆必死になって、ほんの一瞬の出来事にのめり込み応援するのか、理解した。私にとってのヒーローが、あの日生まれた。  ウマ娘のレースなんて、友達との付き合いで見るくらいなものだったのに、フランスと香港から生配信されるレースをリアルタイム観戦までしてしまうくらい、私は彼女の魅力に飲まれていた。  ……なのに、だ。  あれから数年、ハクマイの名前はいつの間にか、ニュースや広報の影に隠れ、派手なウマ娘たちの話題にゆっくりとかき消されていった。  あれだけ活躍して、皆彼女のことを好きだったはず、なのに。  同期の三冠ウマ娘オルフェーヴル、後輩のゴールドシップとジェンティルドンナ。そしてハクマイが引退後、急速に台頭したマイラー、ロードカナロア。  ──ロードカナロア。勿論凄いウマ娘だし、私も好きだけど、ハクマイが2着で終えた引退レースと同じ日、同じ国で別のG1を勝ったから、「バトンを受け継いだ」だなんて、誰が言い出したんだ。  バトンなんて、渡してない。私の中じゃ、ハクマイはまだヒーローのままなのに。 ◇  ある日の夜、私は残業で疲れ切っていた。  大学を卒業し、自分のしたい職業に就けた筈なのに、成果は芳しくなくて──迷っていた。夢を追うことに、少し苦しさすら感じていて。  晩御飯を適当に済ませてしまおうと、やる気のない店員の声に迎えられながら、深夜のコンビニに入った。  そこで、出会ってしまったのだ──パーカー姿の、あの白毛の英雄に。 「年齢認証お願いしまーす」 「あ、はい」  深夜のコンビニに、少しハスキーな、しかし可愛らしい返事が響いた。タッチパネル操作音がモニターから鳴る。  パーカーのフードを深くかぶり、ウマ耳と白黒の髪を隠したその姿は、最初、ただの深夜に現れる怪しい若者にしか見えなかった。  けれど、コンビニの冷たい蛍光灯の下で、ちらりと垣間見えたその端正な横顔──薄紅色の小さな唇、真っ白な素肌。そして何より、薄く開かれた瞳から覗く燃えるような赤が、私の脳に焼き付いていた記憶を一瞬で呼び起こした。  現役中、私はハクマイが主役の握手会や、公私両方のファンイベントに何度も応募していたが──それらに終ぞ当選することがなく、彼女と対面する機会は訪れなかった。  いつだって、私がハクマイと出会えるのは、雑誌か、スマートフォン、テレビの画面越しだった。  だった、のに。 「……ハクマイ?」  自分の口からその名前が出たのが信じられないくらい、かすれた声だった。  彼女──ハクマイは、店員から受け取った、ややアルコール度数の高い缶チューハイと、小袋入りのツマミを握りしめたまま、一瞬だけ固まった。 「──え」 「夜はその、ば…ばんこめ! ですよね!」 (なんでこんな時間に、こんな場所に? アスリートが深夜にお酒なんて、いや今は違うのか。じゃあ、今は何をしてるの?)  頭が混乱でどうにかなりそうだったけど、何か言いたくて、震える声で彼女の夜配信で定番だった挨拶をした。(朝はおはこめ、昼はこんこめ、夜はばんこめ、だ)  その場の空気が、急に張り詰めたように感じたのは私の被害妄想だったのか、それとも本当に、あの場の温度が数度下がったのか。  彼女がかぶっていたフードを脱いだ。  白黒の髪は肩ほどの長さで跳ねていて、おそらくショートカットにしたのを放っておいたらああなったのかなと推測できた。  化粧も最低限しかしていないようだった。現役の頃、彼女のメイクアップ動画をよく見たものだと懐古した。 「ぁあ、えっと……ばんこめ〜!」  引退前の配信で見たあの軽いノリと同じテンションで、そう言った。数秒前の呆気に取られたような表情は、そこになかった。  そんな彼女とは真逆に、私の全身は震えていた。手のひらが汗ばみ、心臓が喉元までせり上がるような感覚に、私はただ立ち尽くしていた。  ハクマイは自分が何を持っているか気付いたのだろう。途端に焦って、 「……パ、パシリだから! 頼まれただけ。ほら、ぼく、呑まないし、全然!」  必死に言葉を重ね、何とか自分のイメージ崩壊を避けようとしているようだった。  その姿があまりに人間くさく、そしてどこか滑稽で、何とかフォローしてやりたくて……私は思わず声を上げていた。 「お酒を買うハクマイと、お酒をパシらされるハクマイなら……前者の方がマシです!!! 少なくとも、その方が……その方が、カッコいいです!!」 「はわわ…」  気づけば、深夜のコンビニに私の声が響いていた。店員がこちらを一瞬ちらりと見たが、興味を失ったようにすぐにレジに視線を戻した。  ハクマイは目をぱちくりさせ、缶チューハイを無かったことのように無理矢理ポケットにねじ込み、そして小さく笑った。 「お米粒ちゃん、運がいいね」 「そ、そんなことないです。貴女の握手会…私、全戦全敗でしたから」 「マジか。もっと回数やれば良かったなぁ」 「…今会えたから、全部チャラです」 「はは、それもそうかもね。一応握手やっとく?」  談笑が続く最中、私は今こそ聞かねばならないと、自分の中で何かが決壊するのを感じた。  ずっと心の奥で燻っていた問い。それを、ここで聞かなければ、一生後悔する。  心臓の音が──うるさい。 「……どうして、引退したの?」  どうして突然引退したのか、どうしてドリームトロフィーに進まず、そのまま姿を眩ましてしまったのか。長く抱えていた疑問を、泣きそうになりながら、短い言葉に込めて吐き出した。 「──」  その問いに、ハクマイの笑顔はほんの少しだけ寂しげな色に変わった。  永く沈黙が続いて、その視線は私でなく、外──夜闇と、ちかちかと点滅する街灯──に向けられていた気がした。  けれど、彼女は首を振っただけだった。 「秘密。」  たった一言。その言葉の奥に、決して他人に触れさせない壁のようなものがあった。  ああ、これはどれだけ問い詰めても、どれだけ涙を見せても、どれだけ好きだと叫んでも、彼女は答えてくれないだろう。  私はその確信と共に、深く息を吐いた。緊張と震えは、既に私の身体から抜け去っていた。 「そう、ですか」 「……答えはあげられないけど──想像して形にしてみたら?」  ハクマイが不意に言った。 「想い描くことは全人類誰にだって出来る、これって凄いと思わない? 形にするのは、そりゃあ少し面倒だけどさ」 「…そうして、間違っていたらどうしたらいいんですか」  言葉を返した私は、何故か懐かしい気持ちを抱いていた。 「それらの正誤は誰が判断するの? どうであれ、結局は自分が美しいと感じ、楽しければそれでいいと思うけど。 だから──ぼくがどうして走りたいと思ったか、何を想い走ったか、どうして走るのを止めたのか。 今までの君の目には、ぼくはどう見えていた?」  彼女はよく、生配信でこんな風に視聴者と長い対話をすることが時々あって、それを思い出させたのだろう。 「完成したら、直接は会えないけれど、見に行くよ。──嘘は吐かない、約束する」  その瞳は、まるで全てを見透かして欲しそうな光を宿していた。  これはきっと、貴女からの挑戦状だ。私はその視線から逃げられなくて、ただ頷くことしかできなかった。  コンビニの自動扉が開く。夜風が私たちの間をすり抜け、かすかに冷たい匂いを運んできた。  ハクマイは軽く手を上げ、そして夜の闇へと消えていった。  夢か、幻覚を疑って──でも、決してそうでないと私の記憶が保証してくれていた。 ◇  私は家に帰ると、全身の疲労も忘れ、気がつけばノートPCを開いていた。  小説なんて書いたこともなかった。絵を少し描くくらいのスキルしかない私が、震える指でキーボードを叩いていた。  目の前に浮かぶのは、液晶画面の中の英雄ではなく、夜のコンビニで見た、少し寂しげで、無くし物をした子供のような瞳をした、素顔のハクマイだった。  理由を最後まで明かさず去ってしまう時まで、私にとって、貴女はずっと完全無欠で、挑戦の意味を教えてくれたヒーローだった。  溢れる才能。  支えてくれるトレーナー。  競い合うライバル。  生まれた時から、全て持っていたと思っていた。  でも、そうではなかったのかもしれない。  貴女も苦しんだことがあったのだろうか。  貴女も人知れず涙を流したことがあったのだろうか。  私たちと同じ、ごく普通の人間のように。    対象aは永久に長く失われることはなく、きっと私の中で呼吸を続けるのだろう。  だから、今はただ、貴女のことが書きたくて描きたくて堪らなかった。 終わり