目を覚ますと、目の前に座っていたのは、馬ほどもある巨大な狼だった。  マヒアドに代わって配下の魔物が来ると聞かされてはいたが、狼を配下にしているとは思わなかった。理性はびっくりすべきだと言うが、感情が動かない。平坦な気持ちのまま、氷の針のような毛並みをただ見つめる。  視線に気づき、狼は座り直して、小さく口を開いた。 「マヒアド様はお寝みであらせられる」  狼は聞き取りづらい声で言った。 「おやすみ……」 「然り。スヤスヤである。生まれたての子狼の如し」  狼は顎を下げ、人間のように頷いた。 「かの方、何事にも入れ込む質であらせられる故、そなたが回復するまで不眠の番をなさっておられた。そなたが落ち着いて気が緩まれたのであろう、マヒアド様はこのところちょくちょく、居眠りをなさっているとのこと。書状を読みながら入眠なさる、食事中にうたた寝をされる、はては玄関先で雪に埋もれて眠りについておられたと。ノネッタ様より招集を受け、臣下一同馳せ参じた次第」  暖かな部屋の中、薄く開いた獣の口から、雪原にいるかのような白い息が漏れる。息は吐き出されるたび、冬の匂いを振りまいて、消える。 「そなたも不安ではあろうが、我慢してもらいたい。噛みついたりせぬ故」  狼はほとんど口を閉じて言った。彼の声が聞き取りづらいのは、どうやら生来のものではなく、牙を見せないよう努力した結果のようなのだった。 「あの方な、かわいそうなの駄目やねん」  樹皮のような肌の老爺は、髭を毟りながら呟いた。かすかに青い匂いがする。その髭は針葉樹の葉であるらしい。 「ちいと前にな、サームイテツクがごたついてたやろ。そん時な、マヒアド様侵略やあー言うて軍出してん」  老爺は抜けた髭の先で、指先をちくちくとつつきながら、独り言のように言う。 「国が荒れると賊が出るやろ、国境付近に陣取ってやな、湧き出る賊をちぎっては投げちぎっては投げ。落ち着いてから感謝のお手紙来てんねんけどな、侵略やからいらーんゆうてつっかえしはった。うちとこなんも得してへんやんけ。あほらし。なんかある度一々それや、しんどいで……ま、そこがええとこなんやけども」  老爺は木のうろのようにくぼんだ目を上げ、ぴんと髭を弾いてごみ箱に落とす。 「お前さん、死なんといてくれよ。マヒアド様、半世紀は引きずるで」  目を覚ます。微かな寝息が聞こえた。マヒアドは椅子に座ったまま、口を半分開けて寝ていた。身動きしても起きる気配はない。音を立てないように起き上がり、床にそっと足をつける。開いた扉がきいと軋んだ。流れ込む空気は、氷水のように冷たい。やはりマヒアドは目覚めなかった。  窓から落ちる月光を頼りに、空気と同じ温度の廊下を、裸足で歩く。足は鉛をつけたように重く、体は羽毛を詰めたように頼りない。ふらつきながらつま先立ち、窓のひとつを押した。こびりついた氷が音を立てて割れ、ぱらぱらと欠片を落とした。  どっと夜気が吹き込んでくる。外気は廊下よりも、更に冷たかった。開いた窓の向こうに、しんと凍てついた夜が見えた。一面白く埋め尽くす雪の上に、黒ぐろと闇が蟠っている。木々は氷に巻きつかれて沈黙し、風さえ息をひそめている。人の棲まぬ氷の国の光景。 「出ていきたいですか」  ふわりと肩に柔らかいものがかかった。厚手の毛布だった。 「あなたは自由です。どこに行っても構いません。でも、この雪の中に出ていくのはやめてください」  ノネッタの声は姿と同じに少女めいていたが、声の調子は落ち着いた大人のものだった。大人の表情を浮かべた子供の横顔が、月光の中で白く照らし出される。 「あなたが人間の国に行きたいのなら、わたしたちが仲介しましょう。大人になってから村を再興するというなら、できる限りの助力をします。……本当に、今あなたが村に戻ると言うのなら、わたしに止める権利はないです。でも、行ってほしくない」  ノネッタはふっと息を吐いた。彼女の息は白くならなかった。少女のように見える彼女も、マヒアドの他の配下と同じく、人間ではないのだ。 「生きていてほしいんです。あなたを見つけたのはわたしです。あなたのご家族が、命がけであなたを守ったことを知っています。わたしはご家族を助けられなかったけれど、せめて意志だけは伝えたいんです。生きていてください」  ああ、やはり皆死んだのだな。ぼんやりと思う。やはり悲しくはなかった。どうしてだろう、凍りついたように心が動かない。出した声も、心そのままに平たく聞こえた。 「死にたいわけではないです」  ただ、不思議なのだ。自分はなぜここにいるのだろう。家族と一緒にいるべきではないか。 「ご家族はあなたが今会いに行ったら、きっと悲しむと思いますよ。……戻りましょう」  ノネッタは少し悲しそうで、少し安心した顔で微笑した。母親が時々、そんな顔をしていたのを思い出した。  ノネッタの後について、廊下を戻る。青白い人魂のようなものが、曲がり角の向こうにすっと隠れた。氷の怪物が慌てて部屋に飛び込む。通り過ぎて、振り向くと、扉の陰から覗いていた顔が、慌てて引っ込んだ。魔族たちは、人間の子とノネッタの会話を、固唾をのんで見守っていたらしい。  元の部屋の前で、青い顔を蒼白にして、氷獄魔王マヒアドが待っていた。マヒアドは二人を認め、まとめて抱きしめようとするかのように、両手を大きく広げた。 「お……お……おまえ……」  マヒアドは駆け出し、止まり、その場で何度か足踏みをして、わなわなと両手を震わせた。 「大丈夫ですよ」  あまりの慌てようにおかしくなったのか、ノネッタが少し笑いながら言う。 「ちゃんと帰ってきましたから、心配しないでください」 「うん。うん」  マヒアドは震える両手を背側に回し、忙しく頷いた。 「ならば休むがいい。お前にはまだ休息が必要だ」  彼は威厳を取り繕ってそう言ったが、声は両手と同じく、情けなく震えていた。