すべての始まりは、幼き少女の心に投影された、一枚の絵画でした。 それは、両親が語ってくれた理想―― 苦しむ誰かの助けになりたい。悪いことがなくなればいい。 ただそれだけの、まっすぐで尊い祈り。 少女はその理想を、憧れのまま心に焼き付けました。 だからその絵は、彼女の奥底から湧き上がったものではなく、 両親の背を追うように描いた、ただの模写にすぎなかったのです。 けれど――たとえ借り物であったとしても。 その色を「きれいだ」と信じた気持ちだけは、確かなものでした。 だからこそ、少女は思いました。 この美しい絵画を、ここで終わらせてはいけない。 両親から受け取った願いを、自分の手で継ぎ、描ききらなければならない――と。 しかし、現実はそんな幼い夢を容赦なく打ち砕きました。 自らの手で描き進めれば進めるほど、澄んでいた色はにごり、構図は歪み、 少女は必死に修正しようと、色を重ね、重ね、重ね―― やがて気づけば、かつて美しいと信じた絵画は、 もう引き返せないほどに、どす黒く、醜いものへと変わり果てていたのです。 理想は砕け、信じていたものは反転し、心はゆるやかに腐り落ちていきました。 ――それでも。 ただひとつだけ、消えずに残った思いがあるのなら。 彼女は。 いえ、私は。 どれほど歪み、どれほど堕ちようとも。 ずっと、ずっと。 救世主に憧れていたのです。 『呼絵――本当に、ごめんなさい』 そう、このお話はそんな終わりに向かう私の…そして彼女の物語。 *** 今にして思えば、私の両親は――きっと、世間で言う“普通”とはずいぶんかけ離れた人たちだったのだと思います。 「世界を平和にしたい」 「この世から悲しみをなくしたい」 そんなことを、真剣な顔で口にする大人が、本当にいたんです。 しかもそれをただの理想論で終わらせず、実際に行動に移していた。 世界を飛び回り、報酬もろくに得られないまま、困っている人のために全力を尽くす。 私の両親は、そういう人たちでした。 だからこそ――私はいつも、孤独でした。 私が幼いながらもひとりで過ごせる年頃になると、二人は「あなたなら大丈夫」と言ってまた遠い国へと旅立っていってしまったのです。 「呼絵ちゃん、ごめんね。いつも一緒にいられなくて」 そう言って、頭を撫でてくれる母の手は、とても優しかったけれど。 どれだけ言葉を尽くされても、どれだけ丁寧に愛されても、 それは――私の“寂しさ”を遠ざけるものでは、なかったのです。 そしてある日、私はとうとう泣きながら尋ねました。 「お父さんもお母さんも、どうしてこんな虚しいことを続けるんですか?二人がどれだけ頑張ったって世界から争いがなくなるわけじゃないのに!」 ……いえ、勿論、当時の幼い私がこれを一言一句正確に言い放った訳ではないですが。 意訳すれば大体このような感じの言葉を、拙く喚き散らしたのを覚えています。 ただ、その時一番言いたかった言葉は結局、私の口から出てくることはありませんでした。 だって…… 『だから、見ず知らずの誰かを助ける前に私に構って!』 ……なんて、恥ずかしいじゃないですか。 加えて言えば、それは子どもなりの精一杯の強がりと、同時に甘えでもありました。 私の慟哭を受け、母は一瞬目を伏せて、それから笑いました。 「そうね。見返りなんて、ないわ」 「全員を救うこともできない。それでも――、一人でも救えたなら、それは意味のあることなのよ」 父も、どこか照れたように言いました。 「俺たちは“救世主”なんかじゃない。ただ、手を伸ばせば救える命があると信じてるだけさ」 「――」 彼らの想いの全部を、理解できたわけじゃありません。 その言葉の全てに、納得をしたわけではありません。 けれど、そのときの二人の姿はいつもと違って見えたのを、今でもよく覚えています。 ……二人が、誇らしかった! ええっ!本当にご立派だと……そう、思いました! ……失礼しました。少し、取り乱しましたね。 そうして私は、折り合いをつけたのです。 この人たちは、私の親であるよりも先に、世界のために尽くす人たちなのだ、と。 彼らの生き方は、あまりにも遠く、尊く、美しい。 ――だからそれは、『正しい』。 そして、私もそうなりたいと願いました。 誰かのために、何かをしてあげられる存在に。 その軌跡をなぞってでも、あの絵を、あの祈りを、自分のものにしたいと思ったのです。 それが、私の“原点”でした。 寂しさと憧れがないまぜになった、あまりにも幼く、けれど確かな出発点だったのです。 *** 桜の花がほころびはじめた、入学の季節でした。 街を歩けば、新しい制服に袖を通した子どもたちが笑い合い、どこか浮き立つような空気が満ちています。 けれど、私の胸には冷たい風だけが吹いていました。 その日届いた知らせは、ひどく簡素なものでした。 ――両親は、遠い国で殉職した。 誰かを救おうとして、命を落としたのだと。 私は泣きませんでした。いいえ、泣けなかったのです。 二人ならきっと、最期までそうしただろうと分かっていたから。 あの人たちは、自分の命よりも、幸せよりも……そして自分たちの一人娘よりも、見ず知らずの他人の幸せを優先する人でした。 だから、こうなるのは当然のことだと――心のどこかで納得してしまったのです。 ……本当は、その事実に胸が引き裂かれるほど痛んでいたのに。 直視してしまえば、立っていられなくなる。 本能的にそう思った私は、人のために殉職した両親を“誇り”に思うことで、悲しみから目をそらそうとしました。 葬儀の手続きは驚くほど淡々と進んでいきました。 参列者の視線も、牧師の声も、すべてが遠く霞んで聞こえます。 私はただ流れ作業のように頷き、署名し、形ばかりの儀式をこなしました。 そうして全てが終わったとき、私は小さな教会の片隅に、ひとり取り残されていました。 冷えたベンチ。沈黙。 誇らしいはずの孤独が、どうしようもなく空っぽに感じられて――。 その時でした。 ドアの方から、呼び鈴の音が響きました。 配達人が持ってきた小包。差出人には、亡き両親の名が記されていました。 震える手で封を解けば、中には真新しい赤いランドセルが。 それは入学を祝って、二人が生前に用意してくれていたもの。 きっと今日、この背にそれを背負わせたくて――。 その瞬間、すべてが崩れ落ちました。 「死んだ両親のことを、誇らしく思う娘でいなければ」 そう張りつめていた心が、音を立てて砕けていきます。 堰を切ったように涙が溢れ、嗚咽が止まりませんでした。 私は天涯孤独になりました。 親戚はおらず、頼れる人もいない。 残されたのは、古びて傾いた教会と、わずかな保険金だけです。 ――その教会は、両親が信仰を広め、人々を救おうとした場所でした。 ボロボロの壁、雨漏りの音、冷たい床。 けれどそこは、確かに二人が「生きていた」場所であり、今では私だけの帰る場所でもありました。 私はその教会に住み続けることを選びました。 それは、両親が信じたものの象徴であり、彼らの魂が息づく場所だったからです。 そして私は、あの赤いランドセルを背負って小学校へ通い始めました。 けれど、私はすぐに“浮いた存在”になりました。 「親がいない子」 「教会に一人で住んでるって」 「変なこと言ってる」 周囲の子どもたちにとって、私は“よくわからない異物”だったのでしょう。 「救世主になりたい」「世界を救いたい」―― そんな言葉を真顔で口にする私の姿は、夢見がちで、とても滑稽に映ったに違いありません。 私は孤独でした。 けれど、寂しくないと自分に言い聞かせていました。 一人でもいい。世界に一人きりでも構わない。 だって私は――救世主になるのだから。 「私が、あの人たちの続きをやらなくちゃ」 あの赤いランドセルと、古びた教会が、 私にそう囁いているような気がしていたのです。 *** それから、いくつもの季節が過ぎました。 毎日学校へ行き、授業を受け、誰とも話さずに一人で帰宅する。 家に戻れば、教会の床に雑巾をかけ、外れかけた扉を釘で打ち、崩れそうな壁を補修する。 保険金が底をつかないよう電卓を叩きながら、最低限の電気と水道だけを維持して。 誰も来なくなった礼拝堂には、毎日ひとつ蝋燭を灯して祈りを捧げました。 それが、私にできる“生きる”ということでした。 ――でも、本心は違いました。 私はずっと、両親が遺した理想に追いつこうとしていました。 “救世主になる”という目標を掲げ、自分にできることを探し続けていたのです。 掃除も、補修も、祈りも……すべてが意味のある行動だと信じて。 けれど、気づいていました。 それが“本当に世界を救う行為”ではないことを。 まだ小学生の私には、世界を変える力もなければ、 誰かの苦しみに手を差し伸べることさえできないという現実。 その無力さが、胸の奥を静かに締めつけていました。 そんな、もどかしく満たされない日々は―― ある日、突然終わりを迎えたのです。 「えっ……?」 何の前触れもなく、目の前の世界の色が裏返りました。 見慣れた礼拝堂が、奇妙にねじれた光の粒に飲み込まれていく。 木の床は金属に変わり、ステンドグラスは脈動する電子の膜へと姿を変えていきます。 視界のすべてが溶け、ノイズと光の渦の中で―― 私はただ、そこに立ち尽くしていました。 「……ここ、どこ……?」 その時。 「やっと来てくれましたっすね」 どこか抜けたようで、けれど澄んだ声が、背後から聞こえました。 振り返ると、銀糸のような髪をなびかせた少女が立っていました。 白い修道服に包まれ、淡い光を帯びたその姿は、現実とは思えないほど神秘的で――。 「わたしの名前は、シスタモン・ブラン。……まあ、あなたのガイド役ってところっすね」 見た目の雰囲気とはあべこべな口調の少女は、軽く笑って胸に手を当てました。 「もっとちゃんと言うなら――イグドラシル直属の巫女、“シスター”ってやつっす」 そして、まっすぐに私を見つめて言いました。 「ようこそ、このデジタルワールドへ。歓迎します……“救世主様”」 その言葉を聞いた瞬間、私の中で胸の奥で長く燻っていた何かが、そっとほどけていくのを感じました。 長かった孤独も、想い続けることでしか支えられなかった虚しい日々も、 すべてが光の中へと溶けていって。 だからきっと――その時本当に救われたのは、世界ではなく、 あの日の“私”だったのです。