鏡台の前の白い箱、それを見るたびに胸がざわめく。手に取っては置き、またすぐ手に取り。 ふわり、と、甘い匂いがこぼれてくる。ちゃぽん、と、中身の揺れる感触がある。 その感触に抗えずに、私は箱を開けてしまう。丸く艶めいた蠱惑的な瓶に、指を絡めてしまう。 無意識にため息がこぼれる――卵のように滑らかなその瓶の中には一つの世界があって、 それは未だ破られたことはないのである――そうであってはいけないというのに。 私に与えられたものなのだから、他の――剣やら、盾やら、小手、鎧、靴――装備と同様に、 何気なしに身に着けて、戦場に出ればそれで何の問題もないはずだった。 ただ、この小さな瓶一つを持て余してしまうのは何故だろう? 指が硝子の曲線をなぞっているうちに、彼の顔がぼんやりと頭の中に浮かんでくる。 傾いた液面を這う波を見るうちに、彼がこれを渡してきた時の口ぶりが耳に蘇る。 いっそ返してしまおうか?私には似合わないから、甘い匂いは性に合わぬから、と。 彼はきっと、怒りもせず――わかりました、とだけ言って別の装備を渡してくれるだろう。 だがもし、ほんの少しでもその微笑みの崩れたなら――そう思えば、とてもできなかった。 それともこれも、私の自意識過剰によるものか。彼から支給されたものの一つに、 特別な意味を見出したいだけの、独りよがりに過ぎないのであろうか。 受け取った装備を詰めた箱とは別に、一つだけ個別に渡された小箱。 分ける意味とは、なんだろう。色気のない解釈をするなら、硝子に入った香水一つ、 割れないように気を遣っただけだ――あるいは他に匂いの移らないようにしただけだ、とも。 その合理的な理屈を信じるには、わざわざ私の部屋にこれだけを届けたことの説明が付かない。 割れやすいから注意してくださいね、と一言添えればいいだけのものを、どうして? せめて、彼が蓋の裏に――書付の一つでも残してくれていたなら。 その意味を知らぬはずはないのに。彼の友人が私に個人的な贈り物をするのを応援し、 あるいは他の男女が絆の確認のために、これと同じ箱を交換し合うのを祝福し、 誰それが何某を好いていると聞けば、二人の間を走り回りもするくせに―― ずるいやつだ、お前は。男が、女に、香水を送る。いったい何のつもりで、どんな気持ちで。 それとも本当に、私に対しては個人的な感情など一切持ってはおらず、 単に、こういった香水が五感に与える力――身体を強くする魔力だけに目を向けて、 一介の暴力装置に過ぎない私を、より効果的に使い潰そうというだけなのか。 もし私が彼の立場だったなら――取り留めのない夢想はやがて現実味をも欠いていく。 歳上の異性に、色気のない箱で香水を渡す――何の気なしに。それはあり得るのか? 四つの歳の差は障壁となり得るや否や。生家の位の差は如何や。成り上がりの三代目は―― と、そこまで考えてふと、私は今に引き戻される。今の私はそんなものとは無縁ではないか。 兄上の死より、私を縛っていた家から離れてもう久しいというのに――それを考えてしまうのは、 彼が――本流でないにせよ――伯爵家の血筋を引いているから、だったろうか。 事の起こらぬままの私と彼の道筋が、こうして重なることはありえただろうか? 硝子の瓶は答えない。ただ濃紺の殻の中に、薫りを巡らせているだけである。 ぴとり。雫が皮膚の上で弾けて、代わりに豊潤な匂いをそこに花開かせた。 鼻が貪欲に香りを集める――匂いの粒の中に、彼の言葉が溶け込んではいないかと。 ただそこにあるのは、溺れていきたくなるほどに甘い匂いだけだ。 また一滴。特に鼻の利く方ではないが、それは先ほどの匂いとは違う顔を見せていた。 ぴとり、ぴとり、ぴとり――気がつけば部屋中に甘い匂いが立ちこめる。 この様子では服にも染み付いているだろう。戦闘続きで香水の付け方も忘れたのか、と、 部下たちの笑う顔がありありと浮かぶようだった。そしてその憎たらしい顔二つのあるうちは、 私は彼のことを忘れられていた――だのに、心なしか中身の減ってしまった瓶に夕陽が射して、 宵空のような色を見せると、途端にまた彼のことしか考えられなくなってしまった。 翌朝、何事もなかったかのように彼は私に話しかける。微かに鼻の動くのが見えたが、 私にそれ以上、何かを言ってくるようなこともない――私が考えすぎているだけか? 気に入ってくれましたか。僕の気持ちは伝わりましたか。よければ、こちらも―― そんな言葉を、彼は言うまい。箱一つ渡すのにさえ、気を使うような男だから。 私だけが空回りしている。私だけがいい気になっている。私だけが、私だけが、だけが。 では逆に、どういうつもりで渡したか、と正面から聞いてやろうか。 恋愛関係にもない――まだ――相手に、香水を渡すことの意味を考えたことは? 相手が未婚で、四つ上で、貴族の出で、子供は三人欲しがっていて――思考はまた輪郭を失い、 結局、私は彼に何かを問うことも迫ることもできない。情けない。 天恵が降りてきたのはそれから三日後のことだった。 他の仲間に聞けばいいじゃないか。支給された装備の種類と、渡された際の状況とを。 私と同じような渡され方をしたものが他にいれば――特段気に病むようなことでもなくなる。 まずは先日酒場で誘われたばかりの若い女に――私よりは二つ若い。 言い換えれば、私よりも彼に二つ近い――いや、そんなことは本題ではない。 答えは否。まだ手に職も付いていない駆け出しだから、と彼女は肩を竦めた。 また別の仲間。彼とは士官学校からの仲というが――やはり否。 これは藪蛇だった。私が彼からの荷物の話を聞いて回るのがそんなに不自然だっただろうか? 取り違いがないか不安だった、となんとか誤魔化してその場を取り繕う。 近衛騎士団からの部下たちには――聞いたのが間違いだった。騒ぎようは前の比ではない。 鏡台の引き出しの奥にしまっておいた、半分なくなった香水の瓶を引き出され、 やれ匂いには伝えたい想いがあるだの、その感想を伝えましたかだの、 挙句の果てには、お返しの品の目星は付けてあるかだの―― 私の問の本質とはずれたことばかり言い立てる――私は単に疑問を解消したいだけなのに。 ――疑問、とは?私は何を知りたくて、恥を忍んでこんなことを聞いて回っているのだろう。 本人に直接聞く勇気がないから、こんな回りくどいやり方で却って恥をかいている。 本人から、聞きたくない答えが返ってくるのが怖いから――回り道をしている。 私は彼からどんな答えを聞きたくて――皆とは違う自分、を確かめているのだろう? こつこつこつ、と部屋の扉が叩かれた。陽はもう暮れた。町の灯りもぽつぽつ消える。 夜の帳の中、音を失っていく宿とは裏腹に――戸の響きだけは、大きくなる。 誰だ、と訊ねた。返事はない。ただ沈黙の後に、またこつ、こつ、こつ。 夜更けに女の部屋を訪れるのは、恋人か同性の友人ぐらいのものだ――前者がありえないなら、 私は思いつく限りの知己の名を挙げてみる。悪戯の好きな順から。 それでも扉の向こうの何者かは、答えに行き当たらぬと見えて、沈黙の後、また叩く。 そして不意に――私にはそれがわかってしまった。だが――心の準備など、ない。 私が彼の名を呼んだ途端――がちゃり、とそれまでの時間が嘘のように、戸は開く。 彼の手の中の洋燈が、ゆらゆらと光を横顔に投げつけている。 座りますね、とだけ言って、脇机の上に置かれた洋燈から離れた影は、 音もなく私の手を取り――肩を掴んで、一気に顔ごと近付けてくる。彼の匂いが、する。 女の人が、男の人の送った香水を付けることの意味はご存知ですか――囁くように彼は言った。 言いながらまた、肩を引き寄せてくる。息の掛かるような距離、肌の触れるような距離。 思わず、彼の名を呟いてしまう――それはあまりに生娘の仕草に過ぎた。 四歳下の男に言い寄られていい気になっているのだと、自白するに等しかった―― そのまま私はほとんど操られるように、彼の懐から現れた別の箱を受け取らされてしまった。 今ではその中身は、私の左手の薬指を我が物顔で占領している。