誠の旗がはためく京の街。元治元年の春。桜の花びらが風に舞い、新たな季節の訪れを告げていたが、その裏では血生臭い風が吹き荒れていた。尊皇攘夷を掲げる志士たちと、京の治安維持を担う新選組との緊張は、日増しに高まりを見せていた。 新選組の屯所の一角、道場では今日も竹刀の打ち合う音が響き渡る。 「まだまだ!そんな剣じゃ、何も守れませんよ!」 凛とした声が飛ぶ。声の主は新選組一番隊組長、沖田総司。その華奢な体躯からは想像もつかないほどの神速の剣が、一人の青年を追い詰めていた。青年の名は藤丸立香。新選組の中では剣の腕は下から数えた方が早いが、誰よりも真面目で心優しい青年だ。 立香の剣は「守りの剣」だった。人を斬ることを厭わず、ただひたすらに治安維持という大義のために剣を振るう隊士たちの中で、彼の存在は異彩を放っていた。立香は、力なき人々を、そして仲間たちを守るための強さを求めていた。その純粋な願いに、人知れず血に塗れた己の剣への葛藤を抱える沖田は、強く惹かれていた。新選組が本来目指すべき「誠の剣」の姿を、この青年に見ていたのだ。沖田は、稽古で厳しく接しながらも、立香が見せるひたむきさに、時折胸が温かくなるのを感じていた。 「はあっ、はあっ……!もう一本、お願いします!」 打ち込まれ、息を切らしながらも、立香の瞳は少しも曇らない。その真っ直ぐな眼差しに、沖田は思わず頬を緩ませる。 「はいはい、今日のところはこれくらいにしておきましょう。明日の見廻りに差し支えますからね」 少しだけ甘さを含んだ声で言うと、立香は「ありがとうございました!」と元気よく頭を下げた。その素直さが、沖田の心をくすぐる。だが、その実、立香には秘密があった。 数週間前のこと。立香は一人、担当区域の見廻りをしていた。春とはいえ夜はまだ肌寒い。路地裏に差し掛かった時、物陰で壁に寄りかかってぐったりとしている人影を見つけた。 「誰だ!」 咄嗟に柄に手をかける。しかし、そこにいたのは旅人らしき人物だった。年の頃は立香とさほど変わらないように見える。月明かりに照らされたその顔は驚くほど整っていたが、性別が判然としない中性的な顔立ちをしており、ひどく疲労している様子だった。 「大丈夫ですか!?」 駆け寄ると、その人物はゆっくりと顔を上げた。その瞳には、獣のような鋭い警戒心が宿っている。 「……構わないで。わたしはここで少し休んでいるだけ」 その声は穏やかだが、人を寄せ付けない響きがあった。 「ですが、そんなところで…何か食べるもの、ありますか?」 「……余計なお世話。あなたには関係ない」 ぷい、とそっぽを向くその態度に、立香は困り果てた。しかし、その顔色が悪く、唇が乾いているのを見て、空腹と疲労が限界に近いことを見て取った。 「これを…」 立香は懐から自身の夕餉のためにと用意されていたおにぎりを一つ、躊躇なく差し出した。 その人物は、一瞬、驚いたように目を見開いた。そして、立香が羽織る浅葱色の羽織に目を留める。 「……新選組、か。わたしに施しを?何のつもり?」 その声には、隠しきれない敵意が滲んでいた。 「つもり、なんてありません。ただ、お腹が空いているように見えたから。敵とか味方とか、そういうのは今は関係ないでしょう」 立香の真っ直ぐな言葉に、その人物はしばらく黙り込んでいたが、やがて諦めたようにふっと息を漏らした。 「……そう。不思議なことを言うのね、あなた」 震える手で、しかし優雅な所作でおにぎりを受け取ると、ゆっくりと、しかし一口一口を確かめるように味わいながら食べ始めた。 「……助かったわ。まさか、新選組の隊士に助けられるなんてね」 おにぎりを食べ終え、少しだけ顔色が戻ったその人物は、立ち上がると軽く衣の埃を払った。 「俺は藤丸立香です。あなたは?」 「……高田源兵衛よ」 その人物──河上彦斎は、幕府の追手から逃れるための偽名を名乗った。彼女こそ、公武合体派の重鎮・佐久間象山を白昼堂々斬殺し、「人斬り彦斎」として京の治安を預かる者たちから追われる身となっていた、当代随一の暗殺者であった。今日はある「仕事」のために夜通し待ち構えていたが、標的が現れず、空腹と疲労で動けなくなっていたところだった。 「藤丸立香…。あなたの剣、少し見させてもらったわ。面白い剣ね。人を斬ることを躊躇い、ただ守ることを願う剣」 どこか寂しげに呟く彦斎の言葉に、立香は何か惹きつけられるものを感じた。 「礼をしなくてはならないわね。……そうだ。わたしはこの近くで小さな道場を開いているの。もしよければ、時々稽古をつけてあげましょうか」 「えっ!?本当ですか!?」 「ええ。このご恩返しよ。それに、あなたのような剣士がいるのなら、わたしの剣が何か別の役に立つかもしれない。そう思っただけ。嫌ならいいのよ?」 その申し出はあまりに突飛だったが、彼女の瞳の奥にある、剣に対する真摯な光に、立香は断ることができなかった。 「……お願いします!」 この出会いが、立香の、そして二人の「人斬り」の運命を静かに揺らし始める。 彦斎との秘密の稽古が始まってから、立香は戸惑いの中にいた。 「駄目ね、立香。その踏み込みでは、斬る前に斬られる。剣というものは、鞘に収まっている時が最も恐ろしいもの。抜いた瞬間に、勝負を決するのよ」 彦斎の指導は、まさに「人斬りの剣」そのものだった。守るための剣を求める立香にとって、その教えは本来受け入れがたいはずだった。しかし、彦斎と過ごすうちに、立香は彼女の別の側面に気づき始めていた。 稽古の合間、彦斎は時折、遠い目をして呟く。 「かつて、わたしは振るうべきでない剣を振るってしまった。…それ以来、何かが変わってしまったの」 その横顔は、道場の主と名乗るにはあまりに儚く、そして美しかった。 ある夜、稽古の後に彦斎は不意に立香の手のひらを見つめた。 「…あなたの手、まめだらけね。本当に努力家なんだわ」 その優しい声に、立香は少し照れくさそうに手を引っ込めた。彦斎はそんな立香の様子を見て、ふふっと小さく笑う。その笑顔に、人斬りとして生きる彼女の孤独が一瞬だけ和らいだように見えた。彼女の中で、この純粋な青年への想いが、静かに芽生え始めていた。 立香の剣は、二人の師の教えを受けることで、不器用ながらも確かな成長を遂げていた。沖田の「型」と彦斎の「実」。相反する二つの剣技が、立香の中で奇妙な融合を始めようとしていた。 そして、運命の稽古の日。 新選組の道場。立香と沖田は竹刀を構え、対峙していた。 「お願いします!」 「ええ、かかってきなさい!」 打ち合いを始めるが、沖田はすぐに違和感を覚えた。今日の立香の剣は、いつもと少し重心が違う。踏み込みは鋭くなっているが、竹刀の振りにわずかな力みが見られる。それは、守りではなく、攻撃に意識が傾いている証拠だった。 (何か、焦っているような…?でも、この鋭さは…) 数合打ち合った後、立香はすっと距離を取ると、竹刀を腰だめに構えた。それは沖田が見たことのない、抜刀術の構えだった。 「沖田さん。俺の剣を、見てください」 真剣な声に、沖田は息を呑む。 立香が踏み込んだ。左手を鞘に見立て、そこから竹刀を抜き放つ。 水平に薙がれた一閃。それは、これまでの立香からは想像もつかないほど、速く、鋭かった。 パァン!と乾いた音が炸裂する。 沖田は、その一撃を竹刀で受け止めていた。だが、その表情からは血の気が引き、いつもの朗らかな笑みは跡形もなく消え去っていた。 打ち合わされた竹刀の先で、立香の体はまだ震えている。技はあまりに未熟で、体勢も崩れている。沖田からすれば、それはまだ子供騙しのような稚拙な剣。 だが、問題はそこではなかった。 (この剣は…) 沖田の脳裏に、京の闇に潜み、人を斬るためだけに磨かれた暗殺者の剣技がフラッシュバックする。命のやり取りの中でしか生まれ得ない、効率化された殺意の結晶。 立香の技は荒削りだ。しかし、その先に待つ道は、紛れもなく「人斬り」のそれだった。守ることを願った彼の剣が、人を殺めるための鋭利な刃へと変貌しようとしている。 彼の剣から、あれほど顕著だった「迷い」が消えている。だが、それは守るための覚悟ではなく、斬るための決意によってだった。 私たちが、そうありたくないと願いながらも、この身を汚し続けることでしか成し得なかった修羅の道。その入り口に、この心優しき青年が、今、立っている。 (駄目だ。彼だけは、私と同じ道に進ませてはいけない) 新選組という人斬り集団の中で、唯一、純粋な「誠」を体現しようとしていた希望の光。その輝きが、自分と同じ血の色に染まっていくのを、見過ごすことはできなかった。 沖田は、竹刀を合わせたまま、凍てつくような静寂の中で口を開いた。立香は、師の見たこともない表情と、全身から発せられる凄まじい圧に、ただただ身を固くするばかりだった。 沖田はしばしの沈黙の後、静かに、しかしその言葉には万鈞の重みを込めて問うた。 「────その剣、誰に習ったんです。」