黒「」_02 1.食事にするか…… 2.風呂に入れるか…… 3.それとも…… dice1d3=2(2) -4- 猗窩座との戦いでは不死の体に甘え、防御を捨てて攻め込んだのだろう。 見るに堪えない負傷具合には憐れみの情すら湧かない。 敗れたのは実力で劣ったからだ。その結果死んだというのならそれまでのこと。 青痣と血化粧に彩られた無様な死に顔を一瞥し、興味無さげにその場を立ち去った。 せいぜい贄のため必要とされるその日まで大人しく眠っていれば監視も易い務めというもの。 まるで見たくないものから目を背けるみたく足早に、黒死牟はその場を立ち去った。 -5- 「」を此処に連れ込んで数日が経過した。 猗窩座の話では一度死んだ後も柱との交戦の間に蘇り、再び立ち向って来たとのことらしいが、「」は一向に目を覚まさなかった。 主ですらその正体について頭を悩ませるほどの異様な存在だ、鬼のそれと勝手が異なるのは承知の上である。 しかし、万が一にもその不死性が有限で、二度と目覚めないとあっては問題だ。 無惨の悲願成就の足掛かりとするためにも、「」は生かしてこの城に留め置かねばならない。 黒死牟は再び「」の寝所に足を運んだ。最後に見た姿と寸分違わぬ様子で布団に寝かされている。 普通の死体と違い腐敗していく気配はないものの、せめて回復の兆候くらいはないものだろうか。 一切の始末をせず放置したのだから当然だが、煤や泥汚れは付着したまま、口元の出血や返り血はすっかり乾いて粉になっている。 青痣は……以前よりも少しだけ薄く、黄味がかって見えるだろうか? これが鬼の治癒力によるものか単なる死斑なのか、表面だけ見ても判別は出来ない。しかし"透かして"観ることができるならば話は別だ。 微弱ながら拍動する心臓は緩やかにその身の各所へと血液を送り出していた。 状態だけ見れば死の淵に陥った人間と大差ないかそれを下回る、なんともか細く弱々しい脈の流れだが、確かに「」の肉体は目覚めつつあるようだ。 それだけ確認できれば十分だったが、巡るべき血液が腹部の辺りで滞留しているという妙な容体が気になった。 見れば、裂けた臓腑から溢れたであろう大量の血が一箇所に集まって大きな血腫のようになっている。 固まった古い血液が圧迫しているせいで他の損傷の治癒を阻んでいるのだろうか。 これが栓となり復活妨げの原因となっているのならば、軽く患部を切り開き"詰まり"を流してしまえばいい。 そう思い立ち刀を取り出そうとしたところでふと手を止める。 血栓の量が量だ、勢いこそ無いだろうが吹き出せば面倒なことになる。 自分が使うわけでもない褥が汚れようがどうでもいいが、城内の、しかも主から賜った部屋の畳までも穢すことは看過できない。 かと言って外に連れ出せばかつての恥ずべき失態の二の舞、なれば自ずと選択肢は限られた。 黒死牟は「」の身体を抱き上げると、寝室とその先にいくつか連なる部屋を抜け、最奥に配置された風呂場へと足を運んだ。 −6− 硝子戸を開くと、そこには人間時代の記憶に残る桶風呂とは比ぶべくもない空間が広がっていた。 誰がいつから用意していたのか、濛々と立ち込める湯気に覆われた先には、一人や二人が泳いでも余りあるほど広々とした浴槽が設置されている。 タイル張りの床の感触に戸惑いながら踏み入って中を見渡し、隅に排水用の溝があることを確認する。 黒死牟は珍しくその着物の袖を腰紐で括り付け、いわゆる襷掛けの姿になっていた。 これまでに幾度となく返り血を浴び続けておいて、今さら汚れを気にするような性分ではない。 だが、床に散らした血を流す際に一張羅が濡れるのは後々の不快に繋がると考えた。 さて、問題は現在脱衣所の壁に横たわらせている「」である。 正味、「」の肌や衣服が血に塗れようと黒死牟にはどうでもいい。 しかしこのまま隊服の上から腹を刻めば出血が収まるまでは下手に動かせず、後始末が容易ではない。 部屋を汚したくないという本来の目的にも反することになる。 手っ取り早く服を剥げばいいというのは明白だったが、対象が見知った顔の女である立つ瀬のなさが何処までも脳裏について回った。 何故かいつまでも冷めることのない湯水の熱にあてられながら長らく逡巡していた黒死牟の髪や着物は既にしんなりと水気を帯びており、それこそ本末転倒の様相であったが、もはやそんなことは些事となっていた。 −7− どれほどの時間が経過したかは分からないが、腹を括ったらしい黒死牟が「」のもとへ戻ってくる。 伸ばしっぱなしの黒髪は湿気で平時よりも大人しくなっており、顔に張り付く横髪のせいかその表情は窺い知れない。 手早く上衣だけ取り去って、早々に事を済ませるだけ。それだけを意識していただけに、隊服の釦を一つ二つと外して判明した事実に黒死牟の思考は一時停止する。 まだ"ある"のだ。しかも肌着一枚だけではない。 腰より長い丈の薄い肌着の上から厚手の靴下吊り帯を巻いており、腹部を晒すには長襦袢と半股引の間で長靴下の端と繋がるこれを取り外す他ない。 要するに一度、下まで脱がす必要があるということだ。 黒死牟は頭を抱えた。もう塵ほども残っていないだろう己の尊厳に、まだこれ以上削る余地があったとは。 別に女の肌を暴く行為に動揺などしていない。今や遠い過去でしかない継国の家での平々凡々な暮らし、その中で今となっては朧げな姿でしか思い起こせないが世間並みに妻子すら持っていた身だ。 そして、かつて傍に置いていた犬風情をどう扱おうとも何の感慨も湧きはしない。しないのだが、客観的な絵面の酷さからは逃れられない。 いっそのこと適当な女の鬼でも呼びつけて任せれば良いのだが、無理を通して無惨から預かった手前かどうも他の何者かを頼ろうという気になれなかった。 困り果てて無意味に立ち上がったりその場をぐるぐると歩き回ったりした末に、黒死牟はようやく覚悟を決めたようだった。 無骨な指からすれば小ぶりに見える真鍮の釦を上から順に外していき、ボロボロの上衣を取り去った。 露わになった白い肩には目を向けず、細腰を浮かせて長襦袢をずらしていく。 変に触れて不用意な露出に繋がることのないよう気をつけたのは杞憂だったようで、腰に巻かれた吊り帯が肌着と股引をがっちりと固定していたためにそれらが過剰に乱されることはなかった。 腰まで下ろし終わった襦袢の裾を引けば、吊り帯の紐先に括り付けられた小さな金具で留められた黒い長靴下が膝上までを覆っていた。 金具の造り自体は簡単なもので、靴下の裏側に挟み込まれた取っ掛かり部分から生地を剥がせばあっさりと外すことができた。その流れで固定具から解放され太腿からずり落ちそうになっていた靴下も脱がしてやる。 帯そのものも下腹辺りの留め具を外せばするりと解かれ、やっと肌着の裾が自由になった。 努めて無心を維持しながら薄く頼りない肌着を持ち上げる。途中固そうな生地できつく押さえられたやたらに豊かな肉の双丘が視界に入った気もするが排すべき雑念だ。 肩を上げ、首を潜らせ、とうとう「」の無防備な腹を晒すことに成功したが、ここから迅速に続く作業を終わらせなければならない。 乳押さえと半股引のみという直視し難い姿になった「」を抱え、黒死牟は再び浴室に向かった。 「」を木製の椅子に座らせ肩を押さえると、己の血から生成した刃を掌から表出させる。 そのまま内出血で青く染まった平らかな腹を薄く割けば、滞っていた血液の塊がだばだばと溢れ出した。 それは不規則に、股引の薄い繊維と足元のタイルを赤黒く染め上げていく。 斬るだけならばこんなにも容易い。 急に頭が冷えていく気分だった。 後は処理をするだけ、そう思いながら、すぐ近くにいくつか用意していた湯桶の中身をかけ流す。 タイルの隙間を縫って温い血水はあらかた流されていった。 二、三度ほど濯いだところ、腹には薄っすらとした太刀筋こそ残っているが血の勢いは治まりだしたようだ。 それだけでなく、全身に散らされた痣や擦り傷に至るまでが気のせいか癒え始めているように見える。 はて、治癒の速度は鬼ほどではないと報告されていたが、ムラがあるということだろうか。 鬼の血が巡り方方へ行き届いたことによる作用かもしれない。 ぼろ切れ同然だった「」の今の身体には多少の傷は残っていても、見てくれは精々眠っていると言える程度。 常人ならば生きていられぬ抉り痕や尋常でない内出血の痕跡はほぼ鳴りを潜め、元の白い肌を取り戻しつつあった。 とにかく全て洗い流して第二波を垂らし始める前に血止めの包帯でも巻いてやれ、そういった考えから「」の上体を支える手を離す。 物言わぬ死体は当然倒れ伏し、次の湯を汲むため桶を片手に離れた黒死牟の背後で鈍い音が響いた。 「──ったぁ……何が……?」 久しく聞いていないその声に思わず振り向く。 椅子から転げ落ちた上半身をゆっくりと起こし、勢いよくぶつけて痛むのだろう後頭部を抑えている「」がそこに居た。 涙混じりに閉じていた目を開くと、眼前には波々と中身が満たされた湯桶を抱えている異形の剣士。目を白黒させて「」がまた声を発しようとする。 「み……──ッツ!」 その言葉は腹部の痛みを自覚したことにより中断された。 そして当然の流れだが、痛みの発生源である下腹部を押さえようとして俯けば腹よりも先に、掛け湯によっていくらか染みが薄められズブ濡れになった股引一枚の自分の下半身が目に映る。 「は、え……っと?」 事態が呑み込めないまま「」は自らの恰好と正面で固まっている鬼を交互に見る。 亡き夫にしか許していない(当時は腰巻きだったが)肌着姿を、鬼となった継国巌勝であろう男の前で晒しており、しかも何故か大衆浴場と見紛う広さの浴室に二人きりとは何たることか? 「な……何をしたんですか……?」 蚊の鳴くような尋ね声が耳に届くや否や、静止していた時間が突如動き出したかのように黒死牟は正気を取り戻し、その弾みか手に抱えた桶を取り落とす。カコーンと気味のいい音が浴室内に響き渡った。 生娘でもあるまいにと言いたいところだが、あまりにも突飛な事態に理解が追いつかず混乱した頭では平静を取り繕うことは難しかった。 大量に血を流した直後で貧血気味の「」の顔に、なけなしの血がみるみるうちに集まって紅潮していく。 「否、違──」 「待って、まだ喋らないでくれますか……! 今、何も考えられなくて……!」 咄嗟の弁明を遮られ硬直するしかなくなる黒死牟に構わず「」は頭を抱えてその場にへたり込む。 困惑から立ち直るための時間が欲しいことには間違いないが、起き抜けの激しい動揺が障ったらしく、頭痛と切開痕の痛みが併発しているようだ。 黒死牟は蹲る「」の姿を見ても駆け寄ることはしなかった。何が出来るとも思えなかった。 -8- 「……すみません。少し……マシになってきました……。あの、今さらですが説明願えますか……?」 「む……」 相変わらずその声は切れ切れで掠れているが、つい先ほどまで死体だったことを思えばすっかり復調したも同然だ。 青白い顔を上げた「」と目が合うが、途端にその柳眉を顰めてじとりと睨めつけてきた。 「その前に……着替えは何処でしょうか」 「……そこを出て、脱衣場に……元の……汚れた隊服と……湯着や……浴衣がある……」 出入り口を指し示せば「」は背を向け、視線が気になるのか背後の黒死牟から目を離さないままにそそくさと硝子戸の向こうへ退室していった。 磨り硝子越しの影はしばらく歩き回ったあと、さほど遠くない位置に目当ての衣服を見つけて立ち止まった。 「……ここで聞きます」 「……順を追って……話そう」 顔を合わせながらの申開きとならなかっただけ多少ばかりに息苦しさは軽減されたが、それでも衣擦れの音混じりに行う弁解は全くもって生きた心地がしなかった。 自分でもはっきりと答えの出せていない部分は暈して語った黒死牟の説明に対し、いつの間に着替えを済ませた「」はやや釈然としない反応を返すしかなかった。 「うーん……? 経緯は把握しましたが、その、上弦の鬼ともあろう者が手ずから虜囚の世話をするという展開には無理がありませんか……?」 「あのお方から賜った任を……他の者に投げ出すことなど……言語道断……」 黒死牟の言い訳はだいぶ苦しかった。 昔から要領がよく弁の立つ「」の指摘には下手に取り繕ったところで不明瞭な点を突かれてしまうだろうが、何故このような事態に陥ったのかなど黒死牟自身が一番問いたいのだ。 「……お前の今の主は、鬼舞辻ですものね」 聞き手の心境とは裏腹に、ぽつりと吐き出された言葉は、抑揚なく酷く冷え切った響きをしている。 硝子の向こう側の表情がどのようなものか、わざわざ窺い知る気は起きなかった。 「分かっていますよ、違えた道が交わることはもう決して無いでしょうから。そうなるよりも先に止めることが、……人であるうちに斬り捨てることが出来ればと、あれから何度悔やんだか」 独り言ちた悔恨に反応は返ってこない。 あの頃の師が何らかの情念に囚われていたことは察していた。 「」が友人の敵討ちを理由に隊士となったのと同様に、鬼と対峙する者は皆程度の差はあれ義憤を胸に戦っていた。 だが、「」がその背を追い学び取った剣筋は、それとはまた違う負の感情を常に纏っているようにも感じられた。 気付けていても聞き出せず、自分には何をすることも出来ず、その結果が忘れもしない惨劇へと繋がったのだ。 何もかもを思い出した「」を突き動かすものは、予てより揺るがない一つの強固な意思である。 -9- 静かに歩み寄った人影が硝子戸を開く。 行き場をなくして浴室に充満していた湯気は開かれた先へ我先にと逃げ出していき、その間を小袖に着替え終えた「」が塞ぐように立ち尽くしていた。 見ればその腰には水仕事用の湯巻をつけており、およそ湯上がりの姿とは思えない出で立ちをしている。 顔を突き合わせて早々、「」は目を細めて品定めでもするかのように黒死牟をためつすがめつ眺め始めた。 睨むような目線には敵意こそ無いが、呆れ混じりの色からやがて発されるであろう言葉がどういったものかは先んじて察することが出来た。 「その頭、櫛は通しているんですか? 今は湿っていますけれど、ボサボサで毛が絡み放題なのが見て取れます」 ぴしゃりと言いつけられた指摘に答える間もなく二の句が続く。 「その着物も袴も随分前から見覚えがありますが、一体いつから着倒しているんですか。返り血なんかは色味で目立たなかろうと汚れているのは一目で分かりますからね? きちんと洗っているんですか? それじゃ物持ちがいいとかではなく単なる怠惰です、お侍を気取るならば身なりまで気にしないでどうするんです? 顔に跳ねてるのは私の血だと思いますけど、それだってどうして流さず放置してるんですか」 一息で咎めながら「」はツカツカと迫っていく。 勢いに気圧されて六つ目が瞠目していると、ぐいっと襟元を掴まれた。 「貸しなさい、洗いますから」 人の営みから離れて長い鬼にとってはなんと耳馴染みのない所帯じみた命令か。 責めるような眼差しは真剣そのもので、有無を言わさぬ苛烈さがあった。 黒死牟が一方的に詰られるばかりの睨み合いが続き、とうとう根負けして肩に結んでいた腰紐を解き始める。 当然ながらこの脱衣を妙な意味を持った行いなどとはお互いに思っていないが、男の着替え程度で今さら恥じらいはしないという表明なのか、「」は目の前で鬼が血の気のない肌を晒す様を一切目を逸らすことなく観察していた。 −10− 上弦の壱ともあろう者が、下帯のみの姿で放置される様子はなんと滑稽なことだろうか。 誰にとは言わぬがそれだけで向こう百年は笑いものにされる、そういった状況に黒死牟は身を置いていた。 上衣は洗い張りをすると言ってすぐさま反物の状態まで戻され、袴は湯桶の中で踏み洗いされ、刀身が錆びずとも鞘が傷むと叱られて虚哭神去までもが取り上げられた。この現状こそ正視しがたい光景だった。 熱心に手洗いをしている女の横顔を眺めるだけの所在ない時間だけが過ぎていく。 「お待たせしましたね、冷えたり……いえ、鬼は感冒なんて罹らないでしょうけど。さあ、貴方の番ですよ」 洗い終わった衣類を室内干しするからと出て行き、持ち主を長らく待ちぼうけさせていた「」が手拭いや細々とした道具を入れた桶を携えて戻って来るなりそう言った。 「風呂くらい……自分で……」 「もののついでです。そこに髪洗い粉がありましたけど未開封でしたよ、折角なんだから少しくらい手入れさせてください」 あの様子ではどうせ烏の行水なんでしょう、そう決めつける言葉に今一言い返すことができない。 代謝など無いに等しいこの身体であっても習慣の何もかもを捨て去った訳ではなく、気分の問題として時折水浴びをすることはあるが、このように近代的な風呂で入浴など、上弦の弐でもあるまいに。 湯女の真似事でもするつもりなのか、浴槽の側まで黒死牟の背を押して椅子に着かせると、空の桶に湯を汲んできて、既に湿気った黒髪を結わえた紙紐を解く。 粉の入った袋を湯に浸して揉み込む水音が聞こえたかと思えば、すぐに洗髪液の用意が整ったらしく「流しますよ」と一声をかけられる。 想像よりもとろみの無い半透明の湯が髪全体に行き渡り、常ならば纏められているべき毛量の殆どがたっぷりの水気を帯びて襲いかかる。 反射的に瞼を閉ざせば背後から現れた細く柔らかい指の腹が、頭皮を包み込むように擦り付けられた。 浴びせられた湯の温度とは別に、薬液の効果ゆえか洗い込まれた頭部はスッと冷涼な心地がする。 癖のあった毛束の絡みをゆっくりと櫛で梳かし、それが済めば再び三たびと湯で頭を濯がれた。 毛先を伝って雫がぼたぼたと零れ落ちる。 後ろで桶の水をかき回し手拭いを濡らしているらしい音がする。 頭の次は背中でも流すつもりなのかと辟易するが、それよりもまず、尋ねるべきことを口にした。 「近頃は……背を洗うのに……簪を使うのか……」 ハッとした「」が飛び退くよりも先に、黒死牟は振り返りもせず後ろ手に、簪を握る右腕を掴み上げた。 骨が軋むほどの力で絞め上げられた手首の痛みに「」は表情を歪ませ歯を食いしばる。 そのまま立ち上がった黒死牟の手に引っ張られ体勢が崩れる。逃れようと剥がすことも叶わない。 女としては平均より背の高い「」であってもその身長差からつま先立ちを余儀なくされ、ふらつきながら濡れ鼠の巨体と向き合わされた。 人外と成り果てた後も妥協を許さず極限まで鍛え上げられた鬼の筋力に非力な女の抵抗は意味を成さない。 掴まれた右手に握りしめられた簪の鋭利な先端は変わらず鈍く光っている。 ただの人間相手ならばいざ知らず、強靭な鬼の首を斬り落とすほどの殺傷力はないそれが、刀を持たない「」最後の抵抗手段だった。 「猩猩緋鉱石の装飾か……何であれ……無意味なことだ……」 「意味ならあります……! 継国巌勝、お前を差し違えてでも殺すことが、今ここに私が生きる意味です!」 絞り出すような声は何処までも真剣なものだった。黒死牟の手により一層の力がこもる。 「ぐぁっ……!!」 「刻んで朽ちぬ異形であれど……刃向かえぬよう……阻む手立ては……幾らでもある……」 ついに軋んでいた骨が壊れる音がした。 耳を劈く悲鳴が不快で、黒死牟は捕らえた獲物をその場に放り捨てる。 手首が砕けた拍子に唯一の武器がタイル床に落とされた。頼りない見た目よりも丈夫な紫色の軸がぶつかり、鋭い音が浴室に鳴り響く。 黒死牟はそれを拾い上げることすらせず、ただ冷めた眼差しで見下ろしている。 「物を……使い古しているのは……お前の方ではないか……」 激痛に蹲っていた「」はその言葉に視線だけを向けて唸り声を発するしかなかった。 覚えているくせに、何もかも! 刃先の折れた刀を修復した先で、土産に作ってもらった簪を見せたら呆れたことも。 単独の任務を終えて屋敷に戻ればまともな食事や着替えをした形跡がなく、問いただせば寝食忘れて修行に明け暮れたと宣ったことも。 貴方が下らないと切り捨てた数々が、私を今に至るまで突き動かす根源の記憶だというのに。 噛み締めた歯の軋みも虚しく、力の入らない非力な己の膂力にうなだれた。 すっかり熱を失った床に這いつくばる「」は起き上がれないまま、痛みのせいかそれ以外の要因か知れぬままにその瞳を濡らしていた。 様々な激情が綯い交ぜとなった視線から逃れるように黒死牟は退出する。体調に影響などはないが、すっかりと湯冷めした上体から雫が垂れ落ちた。 去り際、閉じかけた硝子戸の隙間から「」を一瞥する。 悲嘆に暮れて啜り泣くでもなく、無力に打ちひしがれ地を這うしか出来ない惨めな後ろ姿が、人ならざる眼それぞれに焼き付いた。 黒死牟の預かり知らぬ場に干された着物を縫い直すための手は壊してしまったが、そんなことはどうとでもなる。 そう思いつつ脱衣所を進もうとすれば、すぐ手前に男物の羽織と浴衣が用意されているのが分かった。 これも予め何者かによって何処かに仕舞われていたものを見つけ、替えの衣類にと持ち出してきたのだろう。 広げてみれば寸法は合う。袖を通し、一応の体裁は保たれる恰好に戻ることができた。 室内から外の景色を見ることは叶わないが、おそらく夜も更け人を狩るにはよい時分だろうと感覚で分かる。 監視対象はしばらく動けず、立ち上がれたとしてもこの城を丸腰の人間が出られはしない。 低く見積もり、黒死牟は「」のために誂えた牢を後にする。 城外に出てまず空を見上げれば、黒一色。その中を漂う千切れ雲が、その先に浮かぶはずの白い月を覆い隠していた。 −11− どれくらいの時間が経っただろう。 激しかった痛みが段々と麻痺してきて、代わりにぼんやりとしてきた意識を辛うじて保つため、思い切って舌を噛む。 毛が逆立ち顔中の神経が悲鳴を上げるような衝撃が「」を襲うが、おかげで緩やかな昏倒から逃れることができた。 全身が熱っぽく気怠いのはすぐ側の減ることも冷めることもない妙な湯船のせいだけではないだろう。 何にしても消耗が激しく、直ちにこの場を離れた方がいい。身動ぎするだけで苦痛がその身を支配する、それでも両膝に鞭を打ち、一寸ずつでも進まねば届かない。 移動する直前、目の前に転がる簪を見る。こんなものでも無いよりはマシか、少し迷ったが左手で拾い上げ、帯の隙間に挿し込んだ。 やっとの思いで出口に辿り着き、折れているのとは逆の手で戸の縁に触れる。 右腕の痛みにつられて微かに震えており、思うように力も入らないが、引手に指をかければ意外にあっさりと開かれた。 ひんやりとした外気が茹で上がる寸前の顔を撫でる。目先の小さな目標を達成したことも相まって、安心から気が抜けそうになるがどうにか堪えた。 濡れそぼった膝で低い段差を乗り越え、脱衣所に上がり込む。足の水気を拭き取るために敷かれた絨毯の繊維がチクチクと刺さるが些末な感触だ。 つるつるとした木目の床は地に這った姿勢から見れば存外広く見えた。 仮にこの部屋から抜け出せたとて、利き腕がこの様では戦えない。 あの男が居ない間に抜け道を調べ、朝を待って脱出し、体勢を立て直さなければ。 目覚めて間もなく、この城の全容を知り得ない「」は未だ希望を持っていた。 無理を押して腰を上げれば膝が軽く笑っている、だが立たねば動けない。 だらりと下ろした腕を刺激しないよう、慎重に一歩一歩と足を運んだ。 チラと患部を見下ろせば手首一帯が赤黒く腫れ上がっており、肉の下で砕けた骨が血管のあちこちを傷付けたのだと一目で分かる惨状だった。 鬼のように傷がすぐさま再生するわけではない己の身体には人間並みの回復力しか備わっていない。 だが、上弦の参との戦いで受けた傷が残っていないのは何故か? 骨だって間違いなく何箇所かは折れて呼吸もままならなかったはずだ。それが今では、つい先ほど受けた損傷以外はなんら問題なく機能している。 検証は出来ないが、死を一度挟み復活するまでの間に致命傷が修復されているのかも知れない。 いつまでも右手を庇ってろくな抵抗も出来ずにいるくらいであれば、賭ける価値はあるのではないか? あれからどれだけの時間が経ち、あの男がいつ戻ってくるかも分からない、目覚めてすぐに記憶を取り戻せる保証もない。 帯に挿した簪を抜き取る。額に浮かぶ汗が迷いと緊張を自覚させた。 仇敵に一太刀入れるための武器を自分の喉元に向け、「」は息を呑む。 片腕だけで刺そうにも、力の弱さに今の心理状態も重なって半端な自傷に苦しむ結果が見えていた。 こうなれば、その先端に向けて首の方から思い切りぶつかり、ひと思いに貫くしかあるまい。 壁際に簪を握った拳ごと左腕をつき、鋭く尖った切っ先の角度を首の側面に目掛けて調節した。 あとは首を振りかぶり叩きつけるだけ、そんな時に扉を開く音がする。 振り向くまでもなくその威圧で何者かは分かってしまう。その気配の主は「」の姿を捉えると即座に間合いへ踏み込み、刀の峰で心許ない凶器を弾き飛ばした。 体重を預けていた腕に容赦のない打撃を受け、「」は床に倒れ込む。 板張りの床に半身をぶつけた衝撃は勿論折れた右手首まで伝わって、酷い痛みに思わず声をあげた。 「ぐぅ……ッ……! どうして、また……戻って……!」 「何の……真似だ……」 質問を無視して黒死牟は得物の刃先を「」のおとがいに向けた。血の通わない相貌からは感情を読み取り難いが、心做しかその六つ目は強張っている。 場の空気は張り詰めているが、己の死を勘定に入れて動いている以上恐れることは何もない。 「この腕ではまともに活動することも叶いません。あくまで経験則で確証はないですが、一度死ねば治るのではと考えて自傷するつもりでした」 「」は怯むことなく淡々と答える。 「それで……目覚めて何をする……」 「備えます。何百年かかったとしても、お前という鬼を殺すために」 目を逸らさずに告げれば、数瞬の間を挟み、黒死牟は左手を自らの角帯に添える。 その動作を警戒した「」が視線を向けると、元々下げていた愛刀の鞘に加えて、二本目のまだ新しいであろう打刀が腰帯に差されていた。 「拾え……」 鞘ごと抜き取られた刀が足元に放られた。刀身を見ずとも分かる、日輪刀だ。 「これを何処で……!」 「拾えと言った……。二度……言わせるな……」 突きつけていた刃が更に肌の寸前まで寄せられた。有無を言わさぬ気迫に肌が粟立つ。 やむを得ず伸ばした腕には、峰打ちとはいえ加減のない一撃によるミミズ腫れが一直線に刻まれていた。 柄を取り、片手でなんとか鞘から刀身を抜いて「」は悟る。 最初に握った者の素養に応じてその色を変える刀の煌めきは、つまり元の持ち主が存在することを暗に示していた。 目を凝らせば判る程度に薄っすらと青く染まったそれを見て、「」は顔も知らぬ犠牲者の死を悼み苦渋に満ちた顔を伏せる。 「お前は心を持たない鬼畜生です……! 人を殺めて、何の感慨も抱かぬ醜い外道……!」 侮蔑を込めた涙声を張り上げるが、冷徹の面には一切響いていない。 「なれば刃向かえ……。寸分まで刻まれ……肉を散らし……血を枯らそうと……届かぬ剣を……永劫無様に振っていればいい……」 安い挑発も、「」の昂った感情を揺さぶり動かすには十分だった。 じくじくと疼いたはずの両腕の痛みも今この瞬間は脳まで伝わらない。 「継国巌勝!!」 ろくに力も入らない左手だけでは正しい構えも何もない、衝動的に身を起こし、剥き身の刀で斬りかかる。 ──顛末など語るに及ばぬ。刹那の内に「」の喉は返しの一閃で切り開かれ、盛大に飛沫を上げたというだけのこと。 正面から血を被ろうが差し支えは無い。人食い鬼にはそれが何より似合いの姿だ。 「」が倒れ伏すのと同時に納刀する。事切れた足元の死体からは依然として混ざりものの奇怪な血が湧き出ている。 鬼でも人でもないその血液の味が啜れたものではないことを知っている、だから食指は動かず惹かれもしない。目に入るだけでも疎ましい。 主君ですら解明出来ぬその血については、解ることが一つだけあった。 「」の身に流れるそれには、黒死牟に対する積年の殺意が満遍なく刻まれている。 いずれ目覚めるこの鬼狩りが何を忘れ何を記憶していようとも、その意思が失われることはないのだと直感で理解できた。 脅威だとは微塵も思わない、どころか小気味好くすらあった。 己の実力には遠く及ばない人間の剣技が、皮肉にも無限の時間を費やすことでこの頸に行き至ることが出来るのか、考えるだけでも滑稽だった。 床に転がる亡骸から温度が失われていく。それでも再び熱を取り戻し、同じ口振りで、執念で、立ち上がっては打ち倒されるのだろう。 鉄錆の臭いが空間に充満していく。 撒き散らされた血潮の温度は冷え切った空気と混ざり合い、その色を以て昏い展望を示していた。 −終− オマケのランダム封入特典EDスチル(2) fu5651614.png 血塗れの記憶ありきなおかげで一筋縄では発展しない愛憎CPは非常に気ぶれますね。 展開重視で妙ちきりんな流れは多分にありますが、寛大な心で六つのお目々をつぶって頂けると幸いです。 別に巌勝さん相手に卑しくなる母でもいいんですが、黒死牟の所業には激昂する気高さを標準装備してくれていると凄く助かります。 それはそれとして継子が小姓みたいに身の回りの世話焼いてくれる関係ってなんかエッチで素敵じゃないですか? 無惨「お前たち、暗に私の研究が百年かけても終わらないと言ってるのか?」