目を開けると、そこにいたのは母親ではなかった。体格のよい青い肌の男と、毛むくじゃらの獣人。二人とも村では見たことのない顔で……村人がここにいるわけがない。村はもうないのだ。 「おお、気が付いたかね」  獣人の毛深い手がそっと額に触れた。薬草の匂いが鼻をつく。医者であるらしい。 「気分はどうだね。私が何を言っているかわかるかな」  口を開いても声は出なかった。頷こうとしたが、頭が動かなかった。獣人は穏やかに微笑んで見せた。 「今薬を出すからね、少し待ってね……マヒアド様、峠は超えたようですよ」  マヒアドと呼ばれた男は、威厳を持って頷いた。凍りついた炎のような瞳が、超然としてこちらを見た。 「氷獄魔王マヒアド・ヴリザッガ・ブーフダインである。お前は我が国の客だ。楽にするがいい」  返事をしようとした途端に、ひどい咳が出た。魔王の威厳はたちまち崩れ、彼はおろおろとして手をさすった。その手に、ずっと手を握りしめられていたことに、この時初めて気がついた。 「大丈夫か?苦しいのか?しっかりしろ。私がついている」  マヒアドはぎゅうと手を握りしめ、不安そうに目を見つめてくる。笑ってしまうほどのうろたえようだが、笑う体力がなかった。 「大丈夫か?苦くないか……よし。偉いぞ」  魔王は大柄な体を乗り出して、薬を飲む様子を心配そうに見つめ、空の器を見て熱心に頷いた。 「休むがいい。我が国にお前を傷つける狼藉者はおらぬ」  マヒアドは再び背を真っ直ぐに立て、吹雪の唸りにも似た、人ならぬ声を出した。出たり引っ込んだり、忙しい威厳であった。 「マヒアド様、少しよろしいですか」  流れ込む冷気に乗って、部屋に新たな声が入ってくる。わずかに開かれた扉の隙間から、自分とさほど歳が変わらないであろう、小さな女の子の顔が覗いていた。 「ノネッタだ。回復したら改めて紹介する。あれは雪虫の妖精だ、高温の場所には立ち入れない」  少女は安心させるように微笑し、小さく手を振った。そう言われてみれば、部屋はとても暖かい。おそらく獣人にも、氷獄魔王にも不必要な暖かさだ。マヒアドは、高価な器でも扱うように、握っていた手をそっと降ろした。威厳を作り直し、一言残して椅子を立つ。 「お前を助けたのは私ではない。ノネッタに感謝するのだな」  マヒアドは軍人のように頭を高くして歩み、音を立てないように、そっと扉を閉めていった。獣人が耳打ちする。 「あの方はね、あんな態度を取ってはいるけれど、あなたを見つけてすぐ、サームイテツクから私を呼び寄せたんだよ。マヒアド陛下は慈悲深い。我々の国にもよく知られている。あなたはつらい目に遭ったけれども、もう大丈夫だ。何も不安がることはない」 「……の……盗賊が……」 「なんという……」 「こんな小さい子が……」  扉の向こうから聞こえる微かな声は、悲嘆のトーンを帯びている。ややあって、青い顔をほとんど白くしたマヒアドが戻ってきた。 「大丈夫だ」  視線に気づき、半分泣きそうな顔で言う。何か憂慮すべきことがあるのだろう。 「……」  声を出そうとして、口を開けるが、うまく音が作れない。マヒアドが眉を曇らせて、枕元に顔を寄せてくる。 「どうした」 「おかあさんは……」  無理やり絞り出した声は、がさがさと掠れている。マヒアドが白い顔を強張らせ、つばを飲み込んだ。 「いいか、泣くんじゃないぞ。お前の……」  そう言って、彼は大きく深呼吸した。 「おまえの……おかあさんは……」  そこまで言って声をつまらせ、マヒアドは目を見開いて上を向いた。目の縁から、大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。 「おまえを……しっかり抱きしめたまま……」  氷獄魔王は目の幅と同じぐらいの涙を流しながら、服の袖でごしごしと顔を拭った。 「泣かないのか」  魔王は涙声で言った。涙は出なかった。父親の死はとうに知っていたし、目の前で母親が凍りついていくのも見ていた。にもかかわらず、現実感がない。扉の向こうの遠いどこかで、家族が普段通りに暮らしているような気がする。そこに行く方法はわからないが。 「うむ。泣かなくていい。何も心配はいらん」  氷獄魔王マヒアド・ヴリザッガ・ブーフダインは力強く告げ、鼻をすすった。 「お前にはこのマヒアドがついている。何があろうと守ってやる」