「お疲れ様でした、ご主人様。施術の方はまたのちほど、午後にまいります」 「失礼いたします」  深く一礼してドアを閉めた二人はまったく同時に胸に手を当て、ほう、と甘い息をついた。 「……ちゃんとできたかしら、私。変ではなかった?」 「立派でしたよ、お姉さま」  まだ不安げな姉に、ダフネは微笑んだ。「さ、行きましょう」  季節外れの大雨がきれいに晴れ上がり、リヨンの街はガラスのしずくを撒いたようにきらめいて見えた。濡れた石畳の上を、鼻歌を歌いながらダフネは歩く。 「ずいぶん上機嫌じゃない」 「それはもう、お姉さまと一緒にこの仕事ができる日を待っていましたから」 「ふうん」  川沿いの舗道の石畳はところどころ剥がれ、砕け、飛び散った泥が雨に流されて筋をつくっている。デルタを仕留め、ヨーロッパがオルカのものになってからまだ一月足らず。戦火のあとはまだ、街のあちこちに残っている。 「まあ確かに、こんなに大切な仕事を今まで他の害虫がやっていたんだと思うと怒りがこみ上げてくるわ」 「またそんな風に言って……それ、落とさないでくださいね」 「大丈夫よ。自分の心臓を落としたってこれを落としたりしないわ」  ずっとエプロンのポケットに入れたままの手を、リーゼがいっそう固く握りしめる。  数ブロックほど歩くと大きな病院が見えてきた。旧時代からある病院で、デルタが人体実験の研究拠点として使っていた場所だ。医療設備が充実していたのでオルカが病院として再オープンしたが、デルタ時代からの住民は絶対に近寄りたがらないため、印象の改善が目下の急務である。  そんなわけで花など飾られてやや過剰に歓迎ムードの正面玄関を避け、リーゼとダフネは裏手にある目立たない通用口から入った。  廊下をすこし進んだところにある小さなドアに、 〈セクションS〉 とだけ書かれたそっけないプレートがついている。 「ただいま戻りました」 「お疲れ様ー」  部屋に入ると、クリーンベンチから両手を抜いてドクターが振り返った。「どうだった?」 「問題なかったわ」  扉をきちんと閉めたリーゼはようやくエプロンから手を出し、握りしめていた密閉式のカップをドクターに渡した。 「ひゃー。お兄ちゃんは今日も元気だねえ」  受けとって重みを確かめたドクターは嬉しそうに笑って蓋を開ける。中のどろっとした液体をピペットで吸い上げていくつかのマイクロチューブに手際よく注ぎ分け、最後に一滴スライドグラスに落として顕微鏡にかけた。 「ふんふん、色調よし、粘稠度よし、活動率はざっと65%ってとこかな。あとは染色して解析してっと……とりあえず、午後の施術は予定通りやって大丈夫そう」 「よかったです。お姉さま、そちらの準備もお願いしますね」 「わかってるわ」  シザーズリーゼは頬を赤らめ、しきりにカップの中身を見ている。ダフネも検査機器の準備をしながら、ちらちらと目をやるのを我慢できない。  もう何度も繰り返している業務だというのに、なかなか完全に慣れるのは難しい。カップになみなみと入っているのは、ダフネ自身も身をもってよく知っている液体……司令官の精液だからだ。  オルカ医務局・セクションS(Semen)。その名の通り、司令官の精液を取り扱う部署である。  司令官は定期的に、避妊のための薬品投与を受けている。  今の情勢下ではオルカの弱点を増やすことになりかねない妊娠というリスクを抜きに隊員との情事を楽しむためだが、そのシステムが整うまでには長い議論と試行錯誤の道のりがあった。 「避妊具を使えばいい」  という提案はむろん真っ先になされ、そして棄却された。 「少なからぬ隊員が、すでに『生』の幸福感を知ってしまっている」……というのがその理由である。 「あの誘惑に抗しきれるか? よしんば自分自身は我慢できたとしても、彼の方から求められた時拒むことができるか?」  この問いに自信を持って是と答えられる者は、最高幹部の中にさえ一人もいなかったのだ。 「そもそも、そんなことが許されるのだろうか」  これもまた、真っ先に問われたことだ。司令官とのベッドタイムはオルカ隊員にとって最高最強の福利厚生である。むろん同時に主人への性的奉仕でもあるわけだが、どちらがより多くの幸福を享受しているかといえば圧倒的にバイオロイド側だ。  それゆえ司令官への避妊処置とは、バイオロイドの都合で主人たる人類の体に手を加える行為ともいえる。バイオロイドであれば、本能的な忌避感を覚えずにいられない所業だ。 「司令官自身が提案したことだ」 「その厚意に甘えていていいのか」 「避妊処置が必要なら、我々バイオロイド側に行うのが筋ではないのか」 「外部拠点まで含めればオルカはすでに数万の人員を抱えており、今後ますます大きくなる。全隊員に避妊手術をするのはコストと手間の両面からあまりに非現実的」 「だとしても、司令官は我々の主人たるのみならず、この地球上ただ一人の人類である」  何よりも、これが最大の問題であった。 「その生殖器官に手を加えて、万が一ミスや後遺症によって機能が損なわれでもしたら、文字通り人類の存亡に関わる。コストで測っていい問題ではない」 「たとえば、しかるべき処置と訓練を受けた隊員だけが司令官と同衾できる制度にしては?」 「それは大きすぎる格差を生む。オルカの理念に反する」 「誰もが司令官に抱いてもらえる可能性がある、というのは宣伝工作上の大きな武器でもある。戦略面からもそれは避けたい」 「全隊員の排卵周期を把握・管理するのはどうか。手術よりは低コストで済むのでは?」 「しかしその場合、新規に合流した隊員の……」  数時間におよぶ侃々諤々の議論のすえ、 「とにかくいったん具体的な避妊方法を模索する。その安全性や効率をみて是非を判断しよう」  というところに落ち着いて、幹部会議は一応の決着をみる。  この問題専用にドクターモデルが新たに一機復元され、医務局の全面協力のもと研究にあたった。数ヶ月にわたる試行錯誤のすえ、作用機序の異なる複数のホルモン剤を、経口・注射を併用しつつ交代で投与する方式がもっとも人体への負担が少なく、かつ必要な時完全に生殖能力を復元できる方法として考案される。数回の動物実験を経たのち幹部会議と司令官の承認を得て実施に移され、同時にこれらの施術を管轄する部署としてセクションSが設置された。  こうしてオルカはようやく、ゴムもピルも必要ない自由な夜を手に入れたのである。 「リーゼお姉ちゃん、今日の注射は2番のメチルフェニル・クロム剤だよね? 成分比がちょっとだけ変わったから注意してね。前のよりも輸精管の萎縮が少ないはずなんだ」 「このピンクのラベルの方を使えばいいんでしょう?」  セクションSは今も、より確実かつ安全な方法を求めて研究を続けている。ホルモン剤の成分も日々細かく改善されており、今では司令官の毎日の体調にあわせた調整もできるようになった。  そしてセクションSにはもう一つ、公にされていない仕事がある。 「お姉さま、よく見ててください。まずこうして日付を書いて……」  ダフネは部屋の一番奥にある冷凍キャビネットを開けた。極低温の空気が作り出す白い霧が足下へ流れ落ちる。キャビネットの中には金属製のキャニスターが据えられ、日付の書かれたマイクロチューブがぎっしり並んでいた。  シザーズリーゼが、ほとんど畏敬の面持ちで顔を近づける。 「これが、ご主人様の……?」 「ええ」ダフネもまた、厳粛にうなずいた。「避妊処置を施していない状態の『活性精液』です」  ドクター06……セクションSのドクターが施術プランを策定するにあたり、絶対必要な要素として提示したのが司令官の精液サンプルの凍結保存だった。 「どんなに慎重になっても、事故の可能性を完全にゼロにはできないからね」  投薬スケジュールに隙間を設け、避妊効果が完全に切れる日を定期的につくる。そしてそのタイミングで司令官の精液を採取し、生殖能力をチェックするとともに、万一の事態にそなえてサンプルを凍結保存する。これがセクションSのもう一つの役目である。  ダフネは今回採取した精液のチューブをキャニスターの空いたソケットに収めて、ドアを閉めて急速冷凍モードを起動する。コンプレッサーの唸りが狭い室内を震わせた。 「手順はこれで全部です」 「覚えたわ。次からは……たぶん、一人でできると思う」 「お姉さまならきっと大丈夫ですよ」  堅い面持ちのリーゼの緊張をほぐすように、ダフネは微笑んだ。 「わかってると思うけど、この冷凍庫のことは絶対秘密だからね。外では誰にも言っちゃ駄目だよ」 「わかっているわ」  まだ実験台の方へちらちら目をやりながら、リーゼがきっぱりと答えた。  活性精液の採取はまた、セクションSがこんな目立たない病院の片隅でほそぼそと運営されている理由でもある。いつか司令官の子を宿すことを夢見る多くのオルカ隊員にとって、「妊娠可能な司令官の精液」というものがどれほど危険な誘惑に満ちた代物であるかは言うまでもない。誰がいつ魔が差して良からぬ行為に走らないとも限らないし、オメガ陣営に知られればそれこそオルカの弱点を一つ増やすことになる。  何より精液採取という任務自体も、誰にでも任せられるものではない。高い性的技巧と確かな医療知識、そして鉄壁の自制心を兼ね備えた信頼できる者しか、セクションSの裏の顔を知ることはないのだ。  シザーズリーゼ021は司令官がオルカに乗艦した時から付き従っている古参隊員であり、医務局の中核スタッフの一人でもある。しかし、メンタルに不安定なところがあるという理由でずっとこの役目からは外されていた。それが司令官との交換日記によって精神が劇的に安定したことで、ようやくのことでレアから「任せて問題なし」とお墨付きを得られたのである。そのことがダフネには嬉しくて仕方がない。 「さっき見た感じ、結構前のせ……サンプルもあったわよね。欧州作戦より前のも持ってきているの? どうして?」 「マイナス200度まで急冷できる特殊冷凍装置がこれ一つしかないんです。技術部に申請はしているんですが、今は大変な時期ですから、なかなか」 「電気もすごく食うしねー」 「たまに、何もしてないのに電気使いすぎって怒られることがあったけど、これのせいだったのね」 「はい……すみません、黙っていて」 「ダフネのせいじゃないでしょう。そういう仕事だったのだから」  フェアリーシリーズは全員が姉妹の絆で結ばれているが、中でもリーゼ……エリザベスA型とダフネA2型は共通の遺伝子をベースに作られた、ある意味実の姉妹である。セクションS発足当初から表裏フル要員だったダフネにとって、姉に対してこれほど重要な秘密をかかえたまま毎日を過ごすのは辛いことだった。今ようやく、その重荷から解放されたのだ。 「これからお兄ちゃんの移動も増えるだろうし、冷凍庫のことはそろそろちゃんと考えないとね」 「箱舟に送ったらどうなの。あそこはそれこそ、凍結保存が仕事でしょう」 「最終的にはもちろん、そうする予定なんです。ただタイミングが……」  その時、バツンという音とともに部屋が真っ暗になった。 「!?」  この部屋には窓がない。照明が落ちれば室内は闇である。ダフネが急いでドアを押し開けると外の廊下も薄暗く、何人かのナースが慌ただしく行き来していた。 「停電ですか!?」 「そうみたいです!」  通りがかったアクアを追いかけて、ダフネはナースセンターへ駆け込んだ。すべての照明や機器の電源が落ちた薄暗い室内は騒然としている。 「非常電源はどうしたんですか!」 「動かしてますが、出力が足りないんです!」院内電話を掴んだままのドリアードが答える。 「AGSは?」燃料電池で駆動するAGSは緊急電源の役割ができる。しかし、口にした直後にダフネは気がついた。  リヨン中央拠点化の最終段階として、ル・アーヴルからの兵站ルートを確保する大規模制圧作戦が大詰めを迎えている。その中核を担っているのがAGS師団で、先週から市内のAGSというAGSが出払っているのだ。 「市外の診療所とも連絡がとれなくて。いま外を見に行っていますが、もしかすると全市規模の停電なのかも……」  ざわり、とダフネの背筋に冷たいものが走った。このまま電力が復旧しなければ、冷凍庫の活性精液が溶けはじめてしまう。室温では精液は数時間で活性を失うのだ。 「現状では本棟と入院棟に電力を回すしか……」 「ふざけないで!」  いつの間についてきていたのか、リーゼがダフネを押しのけてドリアードの襟首を掴み上げた。 「さっさと電力をよこしなさい! でないと……」  だが、そこで言葉に詰まってしまう。セクションSに何があるかは極秘だ。なぜ電力が必要なのか、言うわけにはいかないのだ。  看護師長を務めている別のシザーズリーゼが、リーゼの腕をとって優しく、だが断固として押しもどした。 「今、オペが三件進行中なの。レアお姉さまも執刀しているわ。電力は優先してそちらへ回さないといけない。あなたもリーゼなら、わきまえなさい」 「…………っ!」  キリキリと音が立つほどに、リーゼが歯がみする。よくない兆候だ、とダフネは直感した。  エリザベスA型の人格は純心で情愛深いオベロニア・レアのメンタルスキーマをベースに、愚直で一徹な職人的傾向をプラスしてデザインされている。この性格は本業である農園においては極めてうまく機能する一方、それ以外の環境ではしばしば予期せぬエラーを起こした。一つのことに執着しすぎ、たやすく思考がオーバーフローする。つまり、キャパシティをこえた状況に弱いのである。滅亡戦争の初期、襲い来る鉄虫に何もできず立ち尽くしたまま殺される何人ものリーゼの姿が、ダフネの記憶モジュールの奥底には残っている。  やっと生来の気性を克服できかけたというのに、ここで下手なことをすれば「やっぱり彼女は危ない」と評価が逆戻りしてしまいかねない。 「お姉さま、ここは……」 「どきなさい!!」  妹の手を払いのけ、リーゼはナースセンターを飛び出した。 「お姉さま!」  リーゼは廊下を逆走し、セクションSに走り込む。ドクターの声と、金属質の破壊音が何度か響いたと思うと、ドアをぶち破って出てきたのは巨大な冷凍キャビネットをかつぎ上げたリーゼであった。 「お姉さま!?」 「うおおおおおおお!!」 「ちょっ……!」  止める間もあらばこそ、リーゼはそのまま病院の外へ飛び出していく。 「待ってください、お姉さま!」  トンボに似た細長いレーザーウイングが冬空を切りさいていっさんに飛んでゆく。シザーズリーゼの飛行性能はフェアリーシリーズの中でも群を抜いている。100kgを超えるキャビネットを抱えていてもなお、ダフネでは容易に追いつけない。わずか数秒で司令官公邸に至ったリーゼは、そのまま二階の窓ガラスへ突っ込んだ。  ガラスと窓枠の破片が廊下に飛び散る。公邸も停電しており、薄暗い廊下の警備にあたっているのはスノーフェザー一人だけだった。目を丸くしている彼女の白い首に噛みつかんばかりにリーゼが怒鳴る。 「鳥害虫! 害虫はどこ!? すぐに呼びなさい!!」 「は、はい!?」一瞬唖然としたフェザーだが、すぐに警備担当の自覚を取り戻す。「オルカのリーゼさんですよね? 害虫ってリリスお姉様のことですか? 一体……」 「お姉さま、いくらなんでも」やっと追いついたダフネの手を振り払い、ガラス片や木屑を髪にかぶったままリーゼはさらに声を張り上げる。 「いいから早く!! 時間がないのよ!!」 「そう怒鳴らなくても、私はここです」  冷たい声がしたと思うと、二丁拳銃を油断なく構えてブラックリリスがいつの間にか廊下の反対側に立っていた。 「リリスさん! すみません、お姉さまが……」 「ストーカー、一体何のま……」 「お願い、電気をちょうだい! ここならあるでしょ!?」 「はあ?」リリスが形のいい眉を片方跳ね上げた。 「何も聞かないで! 命より大事なものなの! 何でもするから!!」  血を吐くような叫びだった。リリスはほんのコンマ何秒かのあいだ、リーゼ、ダフネ、キャビネットの三つへ交互に視線を走らせ、それからほんのわずかに肩の力を抜いた。 「フェザー、ホワイトウイングを出力最大に。そのキャビネットを冷やしながら、地下の発電機室へ運びなさい。質問は禁止。この二人の指示にすべて従って」 「は、はい……」 「私はご主人様の警護に戻ります。ストーカー、一つ貸しよ」  きびすを返したリリスの背中に、ダフネは深く頭を下げた。少しだけ遅れて、リーゼもそうした。  きっかけは大雨によるローヌ川の増水で、上流にある原子力発電所の地下変電施設が漏水によるショートを起こしたことだった。  リヨンのような大都市圏への給電には複数の発電所が関与しており、本来ならその一つが止まっても致命的な影響はない。しかしデルタは市街の美化には熱心でも発電所などのインフラ設備にはコストをかけたがらなかったため、いいかげん老朽化していた変電設備と配電網が急激な送電経路変更に耐えられず一斉にダウン。占領後まもない時期ゆえ市内の緊急電源の把握も十分でなく、結果として市街全域のみならず周辺一帯までもが、およそ一日半のあいだ完全な停電状態に陥った。のちに「リヨン大停電」と呼ばれたこの事故はオルカのインフラ戦略上重要な教訓となりAGS配備計画にも影響を与えるのだがそうしたこととは特に関係なく、 「はい、終わりです。今週いっぱいは重い物を持たないこと」 「うう……」  無理な重量を抱えて全力飛行したせいで腕の腱(と飛行ユニット)を傷めたシザーズリーゼは、無事オペを終えたレアの治療とお説教を受けていた。 「リーゼはまだまだ一人で抱え込みすぎね。ダフネやドクターちゃんに相談していたら、もっといい解決法が見つかったかもしれないでしょう?」 「……すみませんでした、姉様」  両腕を包帯でぐるぐる巻きにされたリーゼがしょんぼりと頭を下げる。ぐるぐる巻きにした張本人であるダフネは、姉の腕をさすりながらいそいで言い添えた。 「でも、お姉さまの行動が一番早かったのは確かです」  冷凍キャビネットを抱えて飛ぶリーゼの姿は、当然ながら多くの市民に目撃されていた。重大な機密漏洩であるが、停電により皆が混乱していたことと、皮肉にもオルカのリーゼの気性の激しさが知れ渡っていたことにより、 「またあの人がなんかやってる」  という調子で流されたため注目度は低く、大きな問題にはならなかった。 「早いだけで浅慮でしたけれどね」  言いながら、ツカツカと医務室に入ってきたのはブラックリリスである。ダフネとリーゼをちらりと一瞥してから、レアに一枚の書類を渡す。 「AGS師団から二個小隊を急遽こちらへ戻らせるそうです。病院の電力需要について、概算を出しておいてください」  レアは書類を受け取ってから小さく頭を下げる。「今回はお世話になっちゃったわね」 「まったくね。私があのキャビネットの中身を知らなかったら、どうなっていたことか」 「あんたなんかに……」立ち上がってリリスを睨み付けたリーゼが、一瞬おいて目を丸くする。「……は? ……知ってた?」 「当たり前でしょう」リリスは勝ち誇った笑みを浮かべる。 「私は何年も前から、セクションSの採精スタッフを務めています。私がいつからご主人様のお側に仕えてきたと思って? 積み重ねた信頼が違うのよ、信頼が」 「……それを知ってさえいたら……!」  あんな風に頭を下げる必要はなかったのに。と思っているのが手に取るようにわかる。それでも手を出さないのは、今回事態が解決したのは彼女のおかげだと、リーゼも理解しているのだろう。ダフネは姉の代わりにもう一度、頭を下げた。 「あの、本当にお世話になりました、ありがとうございました」 「どういたしまして、困ったときはお互い様よ」愛想よく答えてから、リリスはふたたびリーゼに向き直る。 「ところであなた、あの時なんとか言っていたわよね。何でもする、だったかしら?」 「ぐぎ……!」リーゼの拳がいっそう固く握りしめられた。「……約束は、守るわ。二言はない」  リリスはにんまりと笑う。牽制するように身を乗り出したレアを手で制し、ゆっくり腕を組んだ。 「実は、フェザーをごまかすのに少しばかり苦労してね。あの子はまだセクションSのことを知らないから……それで結局、あなたは異常なアイスクリーム好きで、コレクションが溶けそうになって逆上したということにしておきました」 「なっ……!?」 「お礼に今度秘蔵のアイスをご馳走するという話になっているから、よろしくね。ああそれと、フェザーに怪しまれないよう、フェアリーの皆さんで口裏を合わせておいてくださいね」  愉快そうにコロコロ笑いながら、ブラックリリスは去っていった。レアが深々とため息をついて、小さく苦笑する。 「アウローラさんに頼んでみましょうか。ダフネ?」  ダフネも笑う。「そうですね。お姉さま、一緒にお願いに行きましょう」  シザーズリーゼは包帯を巻いた腕をゆっくりと振り上げ、天を仰いで叫んだ。 「あの、害虫ゥゥゥーーーーーーッ!!!」  凍結精子運搬用の超断熱デュワー瓶をようやく完成させて意気揚々と医務室へやってきたドクター06が、天に吠える姉と笑いながらなだめる妹を、ぽかんと口を開けて見た。 End