「マチュ…シュウちゃんの匂いがする」  ニャアンの一言を咀嚼するまでマチュは長い時間を要した。実に30秒。 「どうしたのマチュ?」  ニャアンは心配そうに屈むんでニャアンの顔を覗く。純粋無垢な魂がそこには存在した。「きききっ気のせいじゃないかな!?」  マチュは嘘を付くのが苦手な女の子だった。17年間、ずっと自分にも他人にも正直に生きていたからだ。その正直さで人を傷つける事もあった、傷つくこともあった。  人に懐かれる事もあった、今目の前にいるニャアンだ。懐いてくれている。友達。  人に好かれる事もあった、シュウジ―――シュウジだ。好き。  わたしはシュウジの事が好きで、シュウジはわたしの事が好きなの。  その事実は絶対的に揺るぎないものであった。『蜜月』の二文字では済まされない関係が存在する事は周知の事実だった。 「そうかなぁ…マチュからシュウちゃんの匂いがする」  ニャアンは一瞬、マチュの髪の匂いを嗅ごうとするが躊躇う。その行為が何を意味しているかニャアンは知っているからだ。シュウちゃんが好きな人に対して行う求愛行為。それが「人の髪を嗅ぐ」なのだから。正確にはマチュつむじを嗅いでいた。  ニャアンはマチュの髪の毛ではなく、服の匂いを嗅ぐ。シュウちゃんの香りがした。 「マチュ、いまは幸せ?」 「幸せだよ!ニャアンだって幸せじゃない?」 「私は幸せだよ?軍警は平気で人を殴るし、明日の仕事があるかどうかもわからない。けどマチュとシュウちゃん三人でいる時は幸せ」  決して穢してはいけない魂であるとマチュとシュウジが約束した魂がそこには存在した。 ニャアンの悲しき過去。そして悲しき現在がマチュへ降り注ぐ。護らないといけない。 「ありがとうニャアン」 「今のマチュの匂いは好きだよ。やさしい匂い。シュウちゃんの匂い」 「そんなに言われるとハズいよニャアン」  マチュはニャアンの脇をかるく肘で小突いた。剥き出しの女子高生らしい可愛らしさがそこには存在した。ニャアンの幸せそうな表情を見てマチュは安堵する。 「『おそろい』」はやっぱマズいかー」マチュ、我が身を五分反省する。  事の始まりはシュウジの隠れ家であった。小型宇宙艇『ランチ』でシュウジは生活している。  わたしみたいにお母さんに洗濯やご飯やらを頼っている訳ではない。ニャアンと同じく一人暮らしだ。シュウジは「ガンダムと一緒に棲んでいる」と言うが、無機物たる軽金属「ルナチタニウム」とカーボン素材で身を固める全長18mの巨大殺戮ロボット。  それと一緒に暮らすのは実質一人暮らしと同じだ。  そこらへん大人だなぁ、と思う。食べる事も寝る事も保証されていない中、ニャアンとシュウジは暮らしているのだから。わたしなんかちっぽけな恵まれた少女でしかない。  ニャアンの生活の様子は日々から垣間見えた。普段変な制服を着ているけどニャアンはああみえて結構オシャレさんだ。終日学生服にお気に入りのセーター姿で歩くわたしと違って私服で街を歩いている。レパートリーも多い。軍警に暴力に屈したりと辛い事ばかりだけど、『生活』が安定している事がわかる。  問題はこのハラヘリムシだ。どうやって生きているのかよくわからない?収入は?昼間はグラフティとクラバ以外なにやってるの?  地下の隠れ家。多重シリンダーでロックされた扉を明けるたびに聞こえてくるのは 「マチュおはよう、おなか吸いたなぁ」だ。生活力がニャアンと比べてあきらかに低い。  まぁ…ハラヘリムシに料理を作ってあげるのも楽しみなんだけど!とマチュは嬉しそうな顔。  食欲と排泄欲と創作意欲は満たされているとして、人間として清潔なのか?という問題がある―――。  答えは、半分清潔。半分不清潔。  シュウジは毎日スプレーと闘っている為、常にペンキめいた塗料が服につく。真新しい物から古い染みまでいろいろある 「ペンキ酷いね、洗濯はどうしているの?」 「溶剤をかけたら取れる」有機溶剤に洋服漬け込んだら洋服がとけちゃうよシュウジ! 「このツナギはそんなにヤワじゃないよ。ガンコな汚れ、これはウタマロ石けんで擦って取るんだよ」  シュウジの洗濯術は結構本格的だった。  シュウジの家の水回り。普段は地下道を流れる雨水を溜めて。それを生活用水にしている。飲料水も雨水だろ過しているらしいが不清潔。ただし洗剤はピンク色の粉石鹸。清潔かな? 「業務用だよマチュ、でっかい箱でまとめて買うんだよ」なかなか清潔。 隠れ家でトイレを借りた時とか料理をする前にピンクの粉石鹸で手を一度洗ったけど、翌日手が荒れた。掌の掌から油分が剥離された感じだった。洗浄力が高いのも問題である。  お風呂には入っている。「毎日じゃないよ」とシュウジは言う。不潔だが咎めらない。  『水』は彼にとって貴重な存在なのだ。コロニーの雨は計画的に降るとしても一月に2回か3回だ。雨水も計画的に使わないといけない。その為毎日入るのはちょっとアブない。らしい。干からびて死ぬ  けどわたしと肌を重ねた時はシャワーを貸してくれるシュウジの姿があった。「マチュと一緒なら節水になるしね」やぶさかではない。  シュウジとそういう関係になっている自分が好き。  シュウジのお風呂事情は簡素だった。固形石鹸一個で身体の全てを洗う。洗髪も洗身もすべて白い角張った塊に委ねていた。  わたしも当然髪を洗う。石鹸で洗うと髪という髪から油分が抜け落ちた。家に帰ると髪逆立つし櫛が髪を通らない!元に戻るまでに3日ほどを要した。  ヤバいよシュウジ!洗いすぎも問題だよ!清潔であるが不清潔!けどシュウジの髪はいつもどこかシットリとしていた。ジェジーが買っているポメにどこか似た匂いがする  くさいという訳じゃない。ジェジー、口は悪いがポメラニアン通称「ポメ」を大事に扱っている。 「犬はなぁ…毎日風呂に入れたらお肌が荒れるんだよ…野生、自然界に石鹸なんてまず存在しないからな。だから石鹸で洗うのは月に1回。それ以外はお風呂にいれるだけだ、丁寧乾かしてついでに爪を切っておしまい」  なんて、犬について熱く語る時がある。ポメはかわいい、ジェジーが手をかけているからだ。そのポメとシュウジが似たような匂いがする。野性味なのかなぁ。  固形石鹸で身体を禊ぐ生活。シュウジは大丈夫かもしれないが、私が大変だ!という事でかつての私は家にある洗剤やらシャンプーやらボディーソープをシュウジの家へ持っていった事がある。持っている一番大きいバッグに入り切らなかったので洗濯カゴに入れて持っていった。 「そこまでしなくていいのに…」とシュウジは訝しんだ。 「シュウジも髪傷むんだよ? 「傷んでも別に困らない」「私は困るの!」「複雑だなぁ」いつものやりとり  ためにし柔軟剤の匂いを嗅がせてみる。イズマコロニーのスーパーでは売っていない。お取り寄せのいい奴だ!値段はお母さんが買っているから見たこと無いけど。ためしにスマホで調べていみる…600mlで100ハイト!?高すぎる ※シャワールームでシュウジの身体を禊(みそ)ぐ安石鹸は一個1ハイトだと思ってください 「いい匂いがするね」とシュウジは褒めてくれた。うれしい 「これなら使ってもいいよ」「うれしい!」ちょっと飛び跳ねてしまった自分がいる。  シュウジのツナギやら下着やらを今にも壊れそうなシュウジの洗濯機に投げ込み、持ち込んだ柔軟剤と洗剤で洗ってあげる。シュウジの下着がちょっとくさい。シュウジの下着からはきっとシュウジのキラキラの香りがする…嗅ぎたい!けどそんな事したら変態じゃん!断腸の思いで洗濯機に投げ入れる。気持ちばかり酸素系漂白剤を追加。  その後は人間の洗濯。シャワーだ。シャワーの前にひとしきり恥ずかしい事は済ませた。  何度も一つになって、私も果てたし、シュウジも2回も果てた。ゴムとかそういうのは知らない。  お風呂、シュウジの産まれたままの姿がはずかしくなくなって久しい。 「昔は塗装ブースだったんだけど、お風呂に改造したんだ」というシュウジ渾身の浴室らしい。 「シュウジ座って♪髪の毛洗ってあげる♪」バスタブはないけどレインシャワーが鎮座する2坪位の浴室でシュウジと戯れる私がいる。バスタブあったらいいのに。 「ありがとうマチュ」とシュウジは風呂椅子に座る。ステンレス製の風呂椅子はどこか名前に反して錆びている。座面がプラスチックだ、おしりは痛くなさそうだ。  シュウジの髪の毛をワシワシと洗う。自分の髪を洗うのとは訳が違った。ちょっと難しい、けど悪い気はしなかった。美容師さんって毎日こうやって髪を洗っているんだぁという気持ちとシュウジに尽くしている自分にちょっと酔っていた。心地よい。  シュウジの頭ちょっとベトベトだったのでシャンプーは二回! 「トリートメントするよ、これ流していいタイプだからベトベトしないよ」 「そこまでしなくていい、僕はできるかぎり自然なままがいいんだ」 「えー!髪の毛傷むよ!?」「マチュが優しく洗ってくれたから大丈夫、ありがとう」  嬉しかった。その言葉が嬉しかった。 「お礼にマチュの身体を洗ってあげるよ」「!?」「背中向けて、マチュ」  そのままシュウジに身体を禊いでもらった。悪い気はしなかった。むしろ心地よかった。  結局全部洗ってもらっちゃったもんね、レインシャワーという豪雨の中。口づけをした。 「シュウジの身体も洗ってあげる♪」「おちんちんは自分で洗いたいな…おちんちんはボクの友達なんだ」 「キミのおちんちん私の友達でもあるけど?」「そうだね、マチュの友達でもあるね。よろしくねマチュ」  シュウジの身体も洗ってあげた、シュウジの陰部を洗浄する。皮も剥いて優しく洗った。  それから、洗濯が終わった服をガンダムさんの上で干す。その間私達はすっぽんぽんだ。 恥ずかしい姿でシュウジとガンダムの上で過ごした。シュウジはガンダムの顔にうっとりしている。  クラバという殺し合いの中で傷ついているはずの装甲板がどこか暖かく感じた、いや冷たかった。  シュウジの隠れ家にはドライヤーという存在がない、自然で乾かすと傷むんだよなーと思いながらも家のお風呂の後、熱心にドライヤーなんてかけていない自分自身がいる事に気づいた まぁいいや、シュウジと一緒だし。 「乾いたね」と言ってシュウジはツナギとパンツを触る。乾いているようだ。シュウジの隠れ家は湿り気はないがどこからか漏れてくる排熱音でほのかに暖かい。 「この暖かさで僕は生きているんだよマチュ、この薄い壁の外はマイナス300℃にまで達する宇宙空間だからね」  シュウジは淡々と語る。 「あれ?」 「どうしたのシュウジ?」 「…マチュの匂いがするね」シュウジは自分のツナギに顔を埋めながらそう答える 「マチュの匂い…ステキな匂いだ…」シュウジはしげしげと味わうように匂いを愉しむ。 「そんなに嗅がないでよ」「でもいい匂いだよ?」「それはそうだけど!」 「マチュの匂いに包まれているこんなにステキな事はないよ―――」 ―――水底のように透明な翠色の空間が眼の前に広がる。キラキラだ。  文字通り産まれたままの姿でシュウジとキラキラの海を泳ぐ。 「おそろいだねマチュ」 「おそろい?」 「僕とマチュは同じ匂いで包まれている。同じ匂い、同じ身体が重なり合う。ステキな事だ」 「えっ!?やだちょっとはずかしいよ!?」 「はうずかしくない」 シュウジの赫い瞳が私を見つめる 「すきだよ、マチュ」  キラキラの中で二人。重なり合う。同じ匂いを身に纏う。それはとても美しい事だった。  という背景がマチュとシュウジにはあった。それから、マチュは通販で柔軟剤やら洗剤やらボディソープからすべてそろえた  すごい値段になったので、クラバの貯金から切り崩した。ごめんねニャアン。次のクラバで絶対取り戻すから!  お母さんが何気なく買っていた洗濯溶剤はすべて高額商品だった。こんな高級品にまみれて生活しているんだ…という自分に嫌悪感を感じるが10秒ほどで払拭した。 「これでシュウジとキラキラできるんだもん!安い買い物だ!」 まったく躊躇しないあたりに、マチュという人間は自分に正直に生きているという姿が見える。  シュウジとおそろいの匂い。シュウジと『おそろい』って所がマチュは気に入っていた。  話を冒頭に戻そう。  だがニャアンにバレてしまった。どうしよう。ニャアンのサラサラヘアすごいよなぁ…ヘアケア大変だろうなぁ…まぁいいか。バレても平気。「やさしい匂い」だって褒めてくれた!それに何より「幸せ」って言ってくれた。ニャアンからその言葉が聞けるの嬉しいなぁ。  そして明日も、明後日もきっとシュウジの家にお呼ばれするだろう。洗濯をしてお風呂に入る。毎日じゃないよ?「水は貴重だからね」…ってシュウジの口癖が移っている!  いち少女のはしゃぎっぷりがどこか憧憬めいて見える。イズマコロニーは今、夏を迎えようとしている。   ―――人工の大地であるコロニーに天日干しは似合わない。みな、乾燥機で済ませる。  けど、私とシュウジのお洗濯はいつもガンダムの上で天日干し。ルナチタニムと原子力電池のお日様がポカポカ照らしてくれている。