およそ一年ぶりだろうか。庭を眺めるその男の背中は小さかった。 「すみません! 「」の、お父さんですよね」  声をかけられて、ようやく男は振り返った。眉間に寄った皺は、以前よりも薄かった。 「ああ……?」  男の視線の先には、鬼殺隊の隊服を来た男女が正座していた。快活そうな少年と、立ち上がれば身の丈六尺を越すであろう女だ。 「奥さんと話して、上がらせてもらいました。俺は……」 「我が家の面汚しが、よくもまた敷居を跨げたものだ。なあ、「」よ」  少年が名乗るよりも早く、男はその女を睨んだ。「」と呼ばれた女は体を小さく震わせる。 「この間はよくも殴ってくれたな。ええ?」 「……」  「」の視線は畳を漂っている。 「出来損ないめ……。今度は何の用だ、金の無心でもしに来たか」 「違います」  「」の隣の少年が口を開いた。男は言い返す。 「周りがそう甘やかすから、このバカは口も聞けんのだ」  続けて、男は冷笑した。 「それともお前も出来損ないか? 小僧」 「「」は出来損ないなんかじゃありません」  少年は、強くそう言い放った。そのまっすぐな視線に、男は目を逸らす。彼はまた、庭を見つめた。 「それで、何の用だ」 「はい! 俺は竈門炭治郎といいます! この度、「」と夫婦になるご許可を、お父さんからもらおうと思って……」  炭治郎はそこまで言って、言葉を止めた。男の匂いが変わったからだ。 「そうか……お前が、いや、君が、例の竈門くんか」  竈門炭治郎。鬼舞辻無惨の首を切った、鬼殺隊の英雄。すでに前線は退いたとはいえ、「」の父親は鬼殺隊の支援や後進育成の使命を帯びている。直接顔を合わせるのは初めてだったが、名前を聞けば、英雄であることはわかる。 「それで……「」と、なんだって?」 「はい! 夫婦になります!」 「……認めないと言ったらどうするつもりかね」  今度は「」の態度が変わった。 「😡」  その「」を父親は嘲笑う。 「言い返しもせず睨むだけか! どうだ、竈門くん。この女は頭も悪い。女のくせに体ばかり大きい出来損ないだ。獣と変わらんのだぞ」 「違います! 「」さんは、ちょっと話すのが苦手なだけで、頭だって悪くありません! それに彼女のおかげで、俺は何度も救われてきたんです!」 「そうか。口も利けない獣でよければいくらでもくれてやる。さっさと帰りたまえ、竈門くん」 「😡」 「……はい、帰ります。でも、お父さん。獣というのは取り消してください」 「獣だろう、口が聞けず、唸ることしかできない出来損ないだ!」 「違います! 「」は頑張って努力して、喋れるようになったんです!」 「なら喋らせろ! 十年も殴って躾けようとも、名前しか言えん馬鹿者だ!」  怒鳴りあう二人の間に、澄んだ声が割り込んだ。 「わたし、ちがう。わたし、しゃべれる」  その声の主は、「」だった。父親は、あんぐりと口を開け、弱々しく声を絞り出す。 「お……お前」 「わたし、かえりたい。おとうさん、きらい」 「……」  父親は、畳に視線を落とし黙り込んだ。 「……お邪魔しました」 「待て、竈門くん。少し話したい。庭へ出ないか」 「いいですけど……。あっ、「」はそこで待ってて」 「うん。まつ」  少し不安げだったが、彼女は頷いた。父親はもう、素足のまま庭へ踏み出していた。  縁側から、炭治郎は草履を見つけてつっかけた。  庭の柵の向こうには、青空が広がっている。庭の木の葉の中から、小鳥の鳴き声がした。連れ出しておきながら、父親の沈黙は長い。炭治郎は痺れを切らして訊く。 「無惨との決戦の、少し前です」 「そうか。……あの柵に、シミがあるだろう」  男は顎をしゃくった。その先の柵には、小さな黒ずんだ斑点があった。 「……? はい」 「あれは、「」の血だ。口も利けず、岩の呼吸も使えぬあいつに腹を立て、私は何度も折檻をした。その時の血だよ」  じゃり、と音が鳴った。素足で踏んだ、庭の砂の音だ。 「この庭で、何度も剣の稽古をした。私は木刀で、何度もあいつを打ち据えた」  その情景は、ありありと思い出せた。血と涙を流しながら、父を睨みつける「」。 「……許してくれとは言わない。私はあいつを、我が家名を汚す獣だと思っていたのだ。だから、獣を躾けるように育ててきた」  父親はそう言ってしゃがみ込んだ。左足の義足が軋む。鍛え上げられた筋肉が、着物越しにもわかる。その筋肉で、彼は幼い娘を殴りつけて育ててきた。 「女の幸せは、結婚だ。だが口も利けぬ出来損ないでは、嫁の貰い手もいるまい。せめて剣の腕があれば、一人でも生きていける。そう思って、厳しく育てた」  彼は育手でもあった。他の隊士やその候補たち以上に、「」を厳しく鍛えた。それはもはや、虐待だった。家の外に締め出され、それでも声一つあげずに泣いている「」に、彼はますます腹を立てた。 「私は間違っていたのだな」 「……はい。「」さんは、立派な人です」 「そうか。……良かったよ。君なら、きっと「」を泣かせるようなことはない」  父親の匂いが、また変わった。安心の匂いだ。彼は炭治郎から顔を背けたまま、続ける。 「今日はもう帰りたまえ。あいつも、ここは居心地が悪いだろう」 「……はい」  父親の肩は震えていた。  炭治郎は、彼の妻、つまり「」の母親から、彼のことを聞いていた。無惨の死後、彼は後進育成や鬼殺隊の支援の使命を失い、朝から晩まで、抜け殻のように庭を眺めているばかりだったという。  炭治郎は彼を残し、屋敷に戻った。 「😃」 「うん。帰ろう。俺たちの家に」  頭を下げる母親に礼を言い、二人の男女は家を出た。天を衝くような大女と少年は、手を取り合って玄関を後にした。  外に出ると、先ほどと変わらない秋の青空が広がっていた。静かな道を、二人は歩く。  ふと、「」が、炭治郎を抱きしめた。抱き上げた、と言った方が正確だろう。炭治郎の両足は、地面から浮いていた。 「わっ、ちょっと、「」?」 「たんじろう、すき」  「」はそう言って、炭治郎のうなじに顔を埋める。すんすんと鼻を鳴らし、彼女は炭治郎を感じていた。  大嫌いだった実家で、彼女も不安だったのだろう。炭治郎は、自分を抱きしめる「」の手に、自分の手を重ねた。そしてもう一方の手で、そっと「」の頬を撫でる。 「……「」。俺が、幸せにするよ」 「きゃふふ。わたし、しあわせ」  秋の空から降り注ぐ、太陽の光。道端の水たまりが、銀色に光って見えた。