……。 …………。 なんだ、それは。 ……アンタは、何を言ってるんだ。 その言葉の意味を、ロジカルに説明してみろ。 交通事故? …死んだ? …そんな、非科学的な。確率論的にあり得ないとは言わんが、あまりにも…唐突すぎる。 ……悪い冗談だろ。 アンタのことだ。俺の反応を見て、データを取ってるとでも言うつもりか。だとしたら、悪趣味にもほどがある。即刻、そのふざけた実験を中止しろ。 ……。 ……なんで、黙ってるんだ。 いつもみたいに、何か言ったらどうなんだ。 昨日…。 お前は、泣いていたな。 面倒くせぇヤツだと思ったが、同時に、エラーは修正しなくちゃならんとも思った。 俺たちの間の誤解は、パフォーマンスにおける致命的なノイズだと。だから、あの時間は「無駄じゃねぇ」と、俺は言った。今後のための、必要なメンテナンスだと。 …なあ。 あれは、なんだったんだ。 やっと、俺たちの関係性のパラメータが最適化された。これからだったはずだろ。 無駄を排除し、エラーを修正し、たった一つの勝利という目的に向かって、最短ルートを走り始める。…その、矢先に。 ………。 これが、結末か? こんな、何のデータも、何の伏線も、何の論理的な脈絡もない、ただの暴力みてぇな出来事で、全てが終了するのか? ……分からない。 どう分析しろって言うんだ。 この感情を、この状況を、この胸に突き刺さったまま抜けない、冷たい何かを。 どんな数式に当てはめれば、答えが出る? …おい、トレーナー。 アンタ、いつも俺に言ってたよな。「シャカールの言うことは難しいけど、正しいよ」って。 だったら、教えてくれ。 この、あまりにも理不尽な現実を。 俺は、どう理解すればいい。 ……返事、しろよ。 トレーナー…。 ……返事は、ない。 当たり前だ。死んだ人間に、どうやって返事をしろと言うんだ。 ロジカルに考えれば、至極当然の帰結。 …だというのに。 俺の脳は、アンタからの応答を、まだ待っている。 あり得ないと分かっているのに、信号が途絶えた相手に、リクエストを送り続けている。 …狂っているな。致命的なエラーだ。 翌日、俺はグラウンドに立っていた。 身体が、勝手に動いた。ルーティン、というやつか。プログラムされた行動。だが、そこには、常にいたはずのストップウォッチを握る姿がない。 「シャカール、今日は無理しなくていい」 誰かが、何かを言っている。他のトレーナーか、誰かだ。 その言葉が、ひどく非効率なノイズに聞こえた。無理? なぜ。俺の身体に異常はない。コンディションは悪くないはずだ。…いや。 …違う。最悪だ。 心臓が妙にうるさい。呼吸が浅い。視界のピントが合わない。 パフォーマンスを最大化するための重要な要素が、ひとつ…いや、全てが欠けている。 アンタという、俺の全ての前提だった変数が、ゼロになった。…いや、ゼロじゃない。存在そのものが、この計算式から消え去った。 俺はグラウンドを後にした。足は、勝手にトレーナー室に向かっていた。 ドアを開ける。 そこには、昨日のままの光景が広がっていた。 散らかったデータ資料。書きかけのトレーニングメニュー。飲みかけで冷え切ったコーヒー。 ホワイトボードには、俺の次のレースまでのプランが、アンタの汚い字でびっしりと書かれている。 一つ一つの文字が、まるで意味を持たない記号の羅列に見えた。 「…無駄だ」 思わず、声が漏れた。 昨日、俺は言ったはずだ。「これは無駄じゃない」と。 アンタとの誤解を解くあの時間を、俺は「未来への投資」だと定義した。 じゃあ、これはなんだ。 その未来が、たった一日で消え去った。俺の…俺たちの時間は、結局、最たる「無駄」になったじゃねぇか。 アンタは、いつもそうだった。 俺のロジックを、時々、めちゃくちゃにしやがる。 俺が効率を重視すれば、アンタは「気持ちも大事だ」と非科学的なことを言う。 俺がデータを突き詰めれば、アンタは「お前を信じてる」と根拠のないことを言う。 その度に、俺は苛立ち、アンタを非効率だと断じた。 …だが、アンタがそこにいるという前提があったからこそ、俺のロジックは成り立っていたんだ。 アンタという、予測不能な変数を組み込んでなお、勝利という解を導き出す。その方程式を解くのが、俺の存在意義だった。 …解くべき、方程式が、もうない。 机の上に、見慣れたハンカチが畳んで置いてあった。 昨日、俺がアンタに投げつけたやつだ。律儀に洗って、返そうとしていたのか。 俺はそれを、無言で手に取った。 微かに、アンタの匂いがした気がした。 ……チッ。 非論理的だ。 匂いなんて、ただの分子の結合情報に過ぎない。 なのに、どうして。 どうして、これだけで、胸がこんなに…軋むんだ。 なあ、トレーナー。 アンタは言ったな。「仲良くなりたかった」と。 その答えを、俺はまだ、返してなかった。 …教えてくれ。 この、胸に空いた穴を埋めるための、最もロジカルな方法を。 この、止まらない思考のノイズを消すための、最も効率的な手段を。 ……。 …おい、答えろよ。 アンタがいない未来で、俺はどうやって走ればいい? その答えだけを、教えろ。 …トレーナー。 数日が過ぎた。 時間が、ただ質量を持たずに流れていく。俺の周囲だけ、物理法則が歪んだみたいに。 葬式という、ひどく非論理的な儀式にも参列した。 決められた手順で、決められた言葉を述べ、人々は涙を流していた。涙は体内の塩分濃度を調整する以上の意味を持たない。悲嘆という感情の、ただの生理的な副産物だ。そう頭では分析しているのに、その光景を直視できなかった。 アンタの、白黒の、やけに間抜けな顔で笑っている写真が、現実感を削いでいく。まるで出来の悪いシミュレーションだ。 俺は走ることにした。 それが、俺に残された唯一の、ロジカルな行動だと思ったからだ。 夜明け前、まだ誰もいないウイニングターフに一人で立った。ひやりとした空気が肺腑を刺す。いつもの感覚だ。…そのはずだった。 地面を蹴る。腕を振る。 身体は動く。筋肉は正しく収縮し、心臓は血液を送り出す。完璧なルーティンワーク。 だが、走れなかった。 一歩、また一歩と脚を前に出すたびに、身体が軋む。違う。何かが、根本的に。 風を切る音が、いつもと違う。ターフの匂いが、いつもと違う。 聞こえないはずの、ストップウォッチのクリック音が耳の奥で鳴り響いて、リズムを狂わせる。 聞こえるはずの、アンタの、少しずれたタイミングで飛んでくる声援が、どこにもない。 数周も走らないうちに、俺は足を止めていた。 あり得ない。こんなことは。俺の身体にバグはない。メニューも、コンディションも、全て俺の頭の中に入っている。必要な変数は、全て揃っているはずだ。 …ああ、そうか。 そうだ。 アンタは、俺にとって変数なんかじゃなかった。 アンタは、俺が走るための方程式、そのものだったんだ。 その日、俺は再びトレーナー室にいた。 管理担当者が来て、「私物を整理するなら」と鍵を渡された。非情なまでに、システムは動き続ける。 机の上のものは、あの日からほとんど動いていなかった。 俺は、アンタがいつも使っていたノートを、初めて手に取った。ただのデータが羅列してあるだけだと思っていた。俺の走行タイム、ピッチ、ストライド、体調の波。そのはずだった。 パラパラと、ページをめくる。 走り書きの、汚い字。そこには、俺のデータに混じって、意味の分からない記述が並んでいた。 『今日のシャカール、昼飯の時、少し顔が曇っていた。人参が嫌いか?要観察』 『ミーティングで「非効率だ」と5回言われた。だが、最後はちゃんと話を聞いていた。進歩』 『次のレース、あいつが一番輝ける舞台にしたい。あいつの走りは、ただの数字じゃない。芸術だ』 …なんだ、これは。 パフォーマンスに関係のない、ノイズみてぇな情報ばかりだ。 こんな無駄なことを…。 そして、最後の方のページで、手が止まった。 あの日…俺たちが言い合った、翌日の日付の、短い記述。 『シャカールと、初めて少しだけ、心が通じた気がした。 俺がやっていることは、遠回りだし、あいつの言う通り非効率なんだろう。 でも、あいつがただ勝つだけじゃなくて、いつか、心から走ることを楽しいと思ってくれたら。 俺の、勝ちだ』 「…………」 息が、止まった。 楽しい? 勝ち? なんだ、それは。 アンタの勝利条件は、俺を勝たせることじゃなかったのか。俺たちが共有するゴールは、それだけじゃなかったのか。 非論理的だ。 非効率だ。 馬鹿げてる。 そんな曖昧なものを、ゴールに設定していたのか。アンタは。 ノートが、手の中で震える。 視界が、滲む。まずい。これも、ただの生理現象だ。塩分濃度の異常。 …アンタは、最後まで、俺のロジックの外側にいやがった。 俺が解こうとしていた方程式を、根底から覆すような真実を、こんなところに書き殴って。 …ああ。 そうか。 俺は、ずっと間違っていた。 俺は、アンタという変数を理解しようとしていた。 だが、アンタは、俺という存在そのものの、「意味」を定義しようとしていたんだ。 なあ、トレーナー。 俺は、どうやら…アンタとの勝負に、負けたらしい。 ハンカチを握りしめた手に、爪が食い込む。 初めて、声を出して、俺は泣いた。 もう誰もいない、がらんどうの部屋で。アンタが遺した、あまりにも温かいノイズに、溺れながら。 時間は止まらない。 俺がトレーナー室でどれだけ泣き叫ぼうが、世界は俺の悲嘆など意にも介さず、非情なまでに正確な時を刻み続ける。当たり前のことだ。地球の自転は、誰か一人の死で止まったりはしない。 俺は走るのをやめた。 部屋に篭り、ただ天井の模様を眺めて過ごした。食事も睡眠も、生命維持に必要な最低限のエネルギー補給とシステム休止の作業に成り下がった。俺が最も信奉していた、パフォーマンスを最大化するためのロジカルな生活は、その目的自体を失い、完全に崩壊した。 ファインモーションが見舞いに来た。 「シャカール、ご飯は食べてる? 一緒にお茶をしない?」 いつものように、キラキラとした、根拠のない善意を振りまきながら。 「…無駄だ。帰れ」 そう突き放す声は、自分でも驚くほど乾いていて、力がなかった。 マンハッタンカフェも、ドアの前に立った。 何も言わず、ただそこにいる気配だけがした。やがて、淹れたてのコーヒーの香りが、ドアの隙間から静かに流れ込んでくる。あいつなりの、コミュニケーションのつもりか。 だが、今の俺には、その香りすらも、失われた日常を想起させる拷問に過ぎなかった。 俺は一人でいたかった。 いや、違う。俺は、アンタがいなくなったという現実から目を逸らすために、全てをシャットダウンしていただけだ。 何日経っただろうか。 俺は再び、あの部屋の前に立っていた。扉に手をかける。中は、ほとんど空になっていた。アンタの私物だったものは、もうない。ただ、ホワイトボードの文字だけが、薄れながらもまだ残っていた。まるで、アンタの存在がこの世界から消えかけている過程を見せつけられているようで、吐き気がした。 俺はポケットから、くしゃくしゃになったノートを取り出した。 アンタの、汚い字。 『あいつが心から走ることを楽しいと思ってくれたら。俺の、勝ちだ』 何度読んでも、理解が追いつかない。 「…ふざけるな」 声が、漏れた。 「勝手なゴールを、設定するんじゃねぇ」 アンタの勝ちは、俺の勝ちじゃなかったのか。俺たちが目指す栄光のゴールは、ターフの先にある、ただ一つの輝きだけじゃなかったのか。 いつの間に、俺の走りを、アンタ自身の勝利条件にすり替えてやがった。 …どこまでも、非論理的なヤツだ。 俺はターフに向かっていた。 衝動的だった。怒りに任せて、俺は地面を蹴った。 アンタのゴールが正しいかどうか、俺が判断してやる。アンタの非論理的な理想論が、いかに現実とかけ離れているか、俺自身の走りで証明してやる。 だが、身体は鉛のように重かった。フォームもリズムもめちゃくちゃだ。 ただがむしゃらに、感情に任せて走る。こんな非効率な走り方は、初めてだった。 息が切れ、視界が歪む。 その時、幻聴のように、アンタの声が聞こえた。 『シャカール! いいぞ、その走りだ!』 違う。アンタならこう言うはずだ。 『フォームが乱れてる。ピッチを意識しろ』と。 『もっと周りの音を聞いてみろ! 風が、お前を応援してる!』 馬鹿を言え。風はただの空気の移動だ。 なのに。 どうしてか、俺は、耳を澄ましていた。 サァァ…と芝を撫でる風の音。 遠くで鳴く鳥の声。 自分の、荒い呼吸と、心臓の鼓動。 世界は、こんなにも音に満ちていたのか。 データを、ノイズだと切り捨てていた。 感覚を、曖昧だと排除していた。 だがアンタは、そのノイズの中にこそ、真実があると言いたかったのか。 俺は、ついに膝から崩れ落ちた。 ターフに額をこすりつけ、喘ぐ。汗なのか涙なのか、もう分からなかった。 証明なんて、できやしない。 アンタが正しかったのかどうかなんて、アンタがいない今、誰が判断できる? 俺はゆっくりと立ち上がった。 空を見上げる。雲ひとつない、忌々しいほどの青空が、そこにあった。 …なあ、トレーナー。 アンタは、俺にふざけた数式を遺していきやがった。 勝利という明確な解を求める俺の方程式に、『楽しさ』なんていう、定義不能な変数を組み込んで。 どうやって解けっていうんだ、こんなもの。 …だがな。 俺はエアシャカールだ。 解けない方程式など、この世に存在するべきじゃない。 アンタが遺した、この難解すぎる問題。 俺が解いてやる。 アンタがゴールだと設定した場所に、俺が辿り着いてやる。 そして、その場所で、俺はアンタに言ってやるんだ。 アンタのやり方は、どこまでも遠回りで、非効率で、そして… …何よりも、正しい勝利だった、と。 それが、俺にできる、唯一のアンサーだ。 俺は、再び走り出した。 隣にアンタはいない。ストップウォッチの音も、間抜けな声援もない。 だが、不思議と身体は軽かった。 風が、背中を押した気がした。 俺の日常は、再定義された。 走る。その行為自体は変わらない。だが、その目的関数が書き換えられてしまった。 『勝利』という明確なアウトプットから、『楽しさ』という、定義不能な概念へ。 俺は、この世で最も非効率な実験に、一人で取り組むことになった。 最初の数週間は、惨憺たるものだった。 俺は「楽しさ」を構成するパラメータを特定しようと試みた。 天候、湿度、風速、走路コンディション。聴覚情報として、鳥のさえずりの周波数、観客の歓声のデシベル。触覚情報として、芝の葉が脚を撫でる感触。 それら全てをデータとして記録し、走行後の自己評価(これもまた曖昧極まりない指標だが)と照合する。だが、何一つ、再現性のある相関関係は見出せなかった。 晴天の日に気分が最悪なこともあれば、土砂降りの中で、ほんの少しだけ、心が軽くなる日もあった。データは完全にノイズに汚染されていた。 「シャカール! 最近、なんだか走り方が変わったね!」 トレーニング中、いつの間にか隣で並走していたファインモーションが、太陽みてぇな笑顔で話しかけてきた。鬱陶しい。俺は自分の実験に集中したいんだ。 「…気のせいだろ」 「ううん、違うよ! なんて言うか…前はカミソリみたいだったけど、今は風みたい!」 意味が分からん。比喩は、情報を歪ませるだけの非論理的な伝達手段だ。 「俺は、お前に聞きたいことがある」 俺は、自分のペースを乱さずに言った。 「お前は、なぜ走るのが『楽しい』んだ。その感情を生成する、具体的なメカニズムを説明しろ」 ファインモーションは、きょとんとした顔で数秒瞬きをした後、心の底から愉快そうに笑い出した。 「ええっ? そんなの、考えたこともなかった! でもね、走ってると、心がキラキラするんだ! 風とお話ししてるみたいで、地面が笑ってるみたいで!」 …ダメだ。こいつとの対話は、時間の無駄だ。 キラキラ? 会話? 笑う地面? 全てが非科学的な妄想の産物だ。 「そうか。参考にならん」 俺がそう言って突き放しても、ファインは気にもせず隣を走り続けた。 「シャカールは、難しいことを考えるのが好きなんだね。でも、難しくないことだって、きっと素敵だよ?」 その言葉は、まるでノイズのように俺の横を通り過ぎていった。…はずだった。 その夜、俺はまたアンタのノートを読んでいた。 ファインモーションの言葉が、妙に頭に引っかかっていたからだ。 『難しくないことだって、きっと素敵だよ?』 ノートのあるページに、こんな記述があった。 『レース後、シャカールはいつも一人で反省会をしている。データを睨んで、次への課題を探している。それはあいつの強さだ。でも、たまには、ただ勝ったって事実だけで、バカみたいに喜んでもいいのにな。今日の空は、すごく青かった』 …空? レースの結果と、空の色に、何の関係があるというんだ。 パフォーマンスにおける相関関係はゼロだ。無駄な情報。ノイズだ。 アンタは、こんなノイズばかりを集めていたのか。 次の日、俺は一人で、ただ、歩いた。 トレーニングのためじゃない。あてもなく、レース場の周りを。 アンタのノートに書かれていたように、空を見上げた。確かに、青い。それがどうした。雲がゆっくり流れている。だから、なんだ。 道端に咲いている、名前も知らん花。風に揺れている。そこに、何の意味がある? …分からない。 俺には、分からない。 アンタが見ていた世界の解像度が、俺にはまだ、まったく理解できない。 俺は、芝生に寝転がってみた。 背中に当たる草の感触。土の匂い。太陽の暖かさ。 全てが、ただの物理現象だ。 それ以上でも、それ以下でもない。 …のはず、なのに。 目を閉じると、不意に、アンタの笑い声が聞こえた気がした。 『ほらな、シャカール。たまには、こういう無駄な時間も悪くないだろ?』 そんな、呆れたように、でも少しだけ嬉しそうに言う、アンタの声。 「…チッ」 俺は目を開けた。 空は、さっきと同じように青いままだった。 だが、その青色が、ほんの少しだけ、昨日までとは違う色に見えた。 解は、まだ出ない。 アンタが遺した方程式は、依然として解読不能だ。 だが、俺は、新しい変数を一つ、見つけたのかもしれない。 『無駄』 俺が、最も切り捨ててきた、この変数。 もしかしたら、アンタの方程式では、この『無駄』こそが、最も重要な定数だったんじゃないのか。 俺は、ゆっくりと身体を起こした。 実験は、まだ始まったばかりだ。 この果てしなく非効率で、非論理的で、そして…途方もなく長い道のりを、俺は行くしかないらしい。 …見てろよ、トレーナー。 アンタの勝ち逃げなんて、この俺が許すと思うな。 『無駄』をパラメータとして組み込んだ俺の実験は、さらに迷走を極めた。 レースの日が、近づいてきていた。 俺は、意図的に無駄な時間を生活に取り入れた。 今までならデータ分析に充てていた時間を、マンハッタンカフェの淹れるコーヒーをただ静かに飲む時間に充てた。あいつは何も言わなかったが、俺がカップを空にするまで、静かにそこにいた。その沈黙は、不思議と苦痛ではなかった。 ファインモーションに誘われるまま、お茶会にも参加した。飛び交う会話の内容は、9割が俺にとって理解不能な、キラキラした擬音語だったが、目の前で出されたケーキは、ロジカルに考えても美味だった。 「シャカール! おいしいかい?」 「…糖質の過剰摂取は、パフォーマンスに影響が出る」 「まあ! そんな難しいこと言って! でも、おいしいは正義だよ!」 正義…ね。アンタも、似たような非論理的なことを言っていたな、トレーナー。 周囲の見る目は、明らかに変わっていった。 他のウマ娘たちが、訝しげに、あるいは面白そうに、俺の行動を遠巻きに観察している。 当然だろう。エアシャカールというウマ娘の行動原理は、『効率』と『ロジック』だったはずだ。それが今や、目的もなくカフェで時間を潰し、菓子を食っている。バグったプログラムを見るような目だ。 だが、それでよかった。 他人の評価など、どうでもいい。俺が解くべきは、ただ一つ、アンタが遺した方程式だけだ。 レース前日。 俺は、アンタの墓の前に立っていた。 墓石なんて、ただの石だ。アンタの肉体を構成していた有機物は、とうの昔に分解され、自然のサイクルに還った。ここに、アンタはいない。 それでも、俺はここに来ずにはいられなかった。この非合理的な行動こそが、今の俺に必要なプロセスだと感じていた。 「…見ての通りだ」 俺は、誰に言うでもなく呟いた。 「俺は、アンタのせいで、めちゃくちゃだ」 アンタが消えてから、俺の世界から色と音が失われたと思っていた。 だが、違う。逆だ。 アンタが遺した『無駄』という名のウイルスは、俺のモノクロだった世界に、強制的に色を塗りたくり、ノイズだらけの音楽を鳴り響かせている。 それは、ひどく不快で、落ち着かなくて、そして…時折、どうしようもなく、美しいと感じてしまう。 「明日、走る」 俺は、墓石に手を置いた。ひんやりとした感触が、思考をクリアにする。 「アンタの言う『楽しさ』とやらが、何なのか。まだ、さっぱり分からん。解は、出ないままだ」 でもな、と俺は続けた。 「明日、俺はアンタが言っていたことを、一つだけ試してみようと思う」 アンタのノートに、何度も書かれていた言葉。 『ただ、前を見て走れ』 『タイムも、着順も、考えすぎるな。ただ、風になれ』 「…馬鹿げてる。だが、やってやる」 俺は、もう一度、石を撫でた。 「もし、これで負けたら…アンタの理論は、全て破綻する。俺の勝ちだ。文句はねぇな」 その夜、俺は初めて、次のレースのデータを一切見ずに眠りについた。 そして、ゲートが開いた。 歓声が、遠くで聞こえる。 各ウマ娘の息遣い。地面を蹴る蹄の音。 いつものように、俺の脳はそれらをデータとして処理しようとする。他者の位置、ペース、残り距離、俺の心拍数…。 だが、その瞬間、俺は意識的に思考を放棄した。 ただ、前だけを見た。 流れていく景色。 ターフの緑。空の青。 ファインモーションの言っていた言葉が、頭をよぎる。 『風とお話ししてるみたい』 馬鹿らしい。 そう思った瞬間、俺の身体を、強い風が通り抜けた。 ああ、これか。 アンタが、感じていたのは。 アンタが、俺に見てほしかった景色は。 データを読むんじゃない。展開を予測するんじゃない。 ただ、今、この一瞬を、全身で受け止めろ。 脚が、勝手に動いていた。 それは、計算され尽くした、最適化された動きじゃない。 もっと、奔放で、荒々しくて、そして…力強い何か。 まるで、俺じゃない誰かが、俺の身体を動かしているような感覚。 最後の直線。 隣を走るウマ娘の顔が見えた。必死の形相だ。 楽しいか? お前は。 俺は? 分からない。 だが、今、この瞬間。 ゴール板だけを見つめて、ただひたすらに脚を前に出す、この行為。 『ああ、悪くない』 心の底から、そう思った。 結果は、ハナ差の勝利だった。 タイムも、平凡だ。最高のパフォーマンスとは、到底言えなかった。 ロジカルに分析すれば、課題だらけの、不完全な走りだ。 だが、俺は、ゴール板を駆け抜けた瞬間、確かに笑っていた。 息も絶え絶えで、心臓が張り裂けそうで、それでも、口の端が吊り上がっているのを、自分でも感じていた。 ウィニングライブのステージで、眩しいライトを浴びながら、俺は客席のどこかにいるはずの、アンタの幻影を探していた。 見てるか、トレーナー。 アンタが遺した、クソみてぇに難しい方程式。 その解が、ほんの少しだけ…ほんの少しだけ、見えた気がするぞ。 これは、俺の勝ちか? それとも、アンタの、勝ちか? …まあ、どっちでもいい。 レースは、まだ、終わらない。 俺とアンタの勝負は、始まったばかりだ。 レース後の喧騒は、まるで別世界の出来事のように感じられた。 勝利インタビューも、関係者への挨拶も、全てが定められたプロトコルをこなすだけの作業だった。俺の意識は、別の場所にあった。 トレーナー室の鍵は、もう持っていない。 だが、俺の足は、また、あの場所へ向かっていた。扉の前で立ち止まる。もう、アンタの匂いも、痕跡も、ここには何もない。分かっている。 「…勝ったぞ」 静かな廊下に、俺の声だけが響いた。 誰に言うでもなく、ただ事実を、音にして吐き出しただけだ。 「アンタの言う通りに走ってみた。結果は、ギリギリの勝利。褒められた内容じゃねぇ。だが…」 言葉が、詰まった。 「…だが、悪くは、なかった」 あの最後の直線。 思考を放棄し、ただ風と一体になる感覚。 勝利の確信も、敗北の恐怖もなかった。ただ、走るという行為そのものに、全身が満たされていく、あの不思議な充足感。 あれが、アンタの言っていた『楽しさ』の入り口だというのか。 「…ふざけるな」 込み上げてくるのは、達成感とは似て非なる、もっと複雑な感情だった。 怒りに近い、何か。 「アンタは、俺に新しい世界を見せやがった。データを捨て、感覚で走るという、俺が最も忌み嫌っていた世界を」 それは、まるで堅牢な城壁に囲まれていた俺のロジックの世界に、アンタが巨大な風穴を開けていったようなものだ。 その穴から、コントロール不能な光や、騒音や、感情が、今も絶え間なく流れ込んでくる。 「どうしてくれるんだ、これ。俺はもう、以前の俺には戻れない」 完璧なデータと、揺るぎないロジックだけで構築されていた、静かで、クリアな世界。 もう、あの場所へは帰れない。アンタが、それを破壊したんだ。 俺は、扉に背を預け、ずるずるとその場に座り込んだ。 冷たい床の感触が、火照った身体には心地よかった。 「なあ、トレーナー」 静寂の中で、俺は問いかける。 「アンタは、俺のことが、分からなかったんだろう?」 俺のロジックを、俺の効率主義を、俺の孤独を。 だから、アンタはアンタなりの方法で、俺を理解しようとした。俺に近づこうとした。 あのノートに書かれていた、無駄だらけの観察記録。それが、アンタの答えだった。 「…俺も、アンタのことが、分からなかった」 なぜ、非効率なことをするのか。 なぜ、根拠のない精神論を語るのか。 なぜ、俺なんかのために、あんなに必死になっていたのか。 俺たちは、最後まで、互いを完全には理解できなかった。 言語も、OSも違う、二つのコンピュータみてぇなもんだった。 だが。 アンタは、最後に、一つの共通言語を遺していった。 『走り』 それだけが、俺たちが唯一、互いの心を完全に同期させられる、ただ一つのフィールドだったんだ。 俺は、アンタを理解するために、走る。 アンタの遺した、あの感覚の欠片を拾い集めるために。 「…面倒な宿題を、遺していきやがって」 俺は立ち上がった。 もう、ここには用はない。 俺のいるべき場所は、ここじゃない。 空を見上げる。星が、瞬いていた。 一つ一つの星は、物理法則に従って燃えているだけの、ただの天体だ。 だが、その星々の配置に、古代の人間は物語を紡いだ。意味を与えた。 アンタがやったことも、それと同じことなのかもしれない。 俺の、ただの物理現象に過ぎない『走り』に、アンタは『楽しさ』という物語を与えようとした。 …いいだろう。 その物語の結末を、俺が見届けてやる。 俺は、ゆっくりと歩き出した。 明日も、俺は走る。 答えの出ない問いを、抱えながら。 アンタのいない世界で、アンタの遺した風を探して。 この、どうしようもなく厄介で、たまらなく愛おしいバグを、俺は抱えて生きていく。 …それが、俺たちの勝負の、続きなんだろ。 なあ、トレーナー。 季節は巡り、ターフの色は何度かその深さを変えた。 俺は走り続けていた。アンタの遺した、解けない方程式を証明するために。 俺の走りは、変質していた。 レース展開を読み、最適なルートを割り出すクレバーさは健在だった。だが、そこに時折、予測不能な奔放さが顔を出すようになった。誰もがセオリーと信じていた位置取りを無視したり、常識では考えられないタイミングでスパートをかけたり。 解説者たちはそれを「円熟味」「レース勘の冴え」と評した。 違う。俺はただ、ターフの上でアンタとの対話を続けているだけだ。 『ここだろ、トレーナー。アンタなら、ここで笑うんだろ?』 そんな問いかけに突き動かされるように、俺の脚は動いていた。勝ち負け以上に、アンタを驚かせる一手を打つことに、奇妙な高揚感を覚えていた。 勝利の数も増えた。だが、それ以上に、人々の記憶に残るレースを、俺は刻みつけていたらしい。 ある日、小さな女の子に声をかけられた。 「エアシャカールさん! この前のレース、すっごくかっこよかったです! 風みたいでした!」 風。 ファインモーションが、そしてアンタが使った、あの非論 的な言葉。 「…そうか」 俺はただ、短く答えた。ありがとう、とは言えなかった。だが、胸の奥が、ほんの少しだけ暖かくなるのを感じた。俺がアンタと交わしている対話が、誰かの心に届いている。その事実は、俺の世界に新しいパラメータを追加した。 それでも、方程式の解は、まだ見えないままだった。 『楽しさ』という概念は、掴んだと思えば指の間からすり抜け、また遥か彼方へと霞んでいく。 俺は、まだ、心の底から「走るのが楽しい」と、断言することができないでいた。 アンタへの対抗心。アンタを理解したいという執着。それらが、俺を走らせる巨大なエネルギーであることは間違いなかった。だが、それだけでは、アンタの言う『勝ち』には、たどり着けない気がしていた。 そして、俺の引退レースの日が来た。 最後のレース。多くのウマ娘にとって、それは集大成であり、キャリアの終着点だ。 だが、俺にとっては、アンタとの長すぎた対話に、一区切りをつけるための儀式に過ぎなかった。 ゲート裏。独特の静寂と緊張感の中、俺は静かに目を閉じた。 アンタの姿を思い浮かべる。 ストップウォッチを片手に、少し困ったように笑う顔。 俺のロジックに呆れながらも、食らいついてきた、あのしつこい眼差し。 『…おい、トレーナー』 心の中で、俺は語りかける。 『俺は、今日まで、アンタの遺した問いに答えようと走り続けてきた』 多くの勝利を手にした。多くの記録を打ち立てた。 『無駄』と呼ばわるものを、いくつか受け入れた。 『感覚』という名のノイズを、楽しむことすら覚えた。 アンタがいなければ、決して見ることのなかった景色を、俺はいくつも見てきた。 『…だが、答えは、出なかった』 結局、俺は最後まで、アンタが夢見たような『心から走りを楽しむウマ娘』にはなれなかったのかもしれない。 俺の走りは、いつだって、アンタという不在の証明であり、アンタへの反駁だったからだ。 『これで、終わりだ。俺たちの、長すぎた勝負もな』 目を開ける。 目の前には、最後の直線へと続く、緑の道が広がっていた。 ゲートが開いた。 俺は、ただ、無心で走った。 作戦も、計算も、もう何もなかった。 ただ、ターフを踏みしめる感触。 頬を撫でる風の温度。 耳を打つ、地鳴りのような大歓声。 それらすべてを、全身で浴びながら。 俺は、初めて、アンタのためでも、誰かのためでもなく、ただ俺自身のために、走っていた。 この、エアシャカールというウマ娘が、ターフの上で生きてきた、その時間の全てを、この一瞬に燃焼させるかのように。 ゴール板が、目前に迫る。 勝てるか、負けるか、もうどうでもよかった。 その瞬間、俺は、確かに見たんだ。 ゴールラインの向こう側。たくさんの人々の中に紛れて、少し照れくさそうに、でも誇らしげに、アンタが立っているのを。 そして、ゆっくりと、無言で、頷いた。 幻覚だ。 疲労と極度の集中が生み出した、ただの幻。 ロジカルに考えれば、それ以外の答えはない。 だが。 ゴール板を駆け抜けた瞬間。 俺の口から、自分でも信じられないような言葉が、息と共に漏れ出た。 「…ああ、楽しかった」 歓声が、世界を飲み込んでいく。 俺は、ゆっくりと空を仰いだ。 どこまでも青い、アンタが好きだった空の色が、そこにあった。 なあ、トレーナー。 アンタが遺した、あの厄介な方程式。 その最後の答えは、ゴールラインの、その先にあったらしい。 俺の勝ちか、アンタの勝ちか。 …そんなもん、もう、どっちでもいいか。 俺たちの物語は、ここで終わる。 そして、ここから、また始まる。 風が、そう囁いている気がした。 引退式典という、二度目の非論理的な儀式は、 意外と悪くない時間だった。 スポットライトを浴び、花束を受け取り、ファンからの温かい声援を聞く。以前の俺なら、これら全てを「パフォーマンスに関係のない、形式的なノイズ」と切り捨てていただろう。 だが、今の俺には、その一つ一つが、俺とアンタが駆け抜けてきた時間の軌跡を肯定してくれる、意味のある信号のように感じられた。 式典の後、俺は一人で、夕暮れのターフを眺めていた。 もう、ここを走ることはない。 俺の脚は、もう勝利のために研ぎ澄まされることはない。 その事実に、ほんの少しの寂寥感と、それ以上の解放感を覚えていた。 「よぉ」 背後から、不意に声がかかった。 振り向くと、そこに立っていたのは、ゴールドシップだった。レース用の勝負服ではなく、ラフな私服姿のあいつを見るのは、新鮮だった。 「…何の用だ」 「別にィ? 王者の最後の勇姿を、目に焼き付けに来てやっただけだぜ」 いつものように、ふざけた口調で、あいつは俺の隣に並んだ。そして、同じようにターフを見つめた。 しばらく、沈黙が続いた。 俺たちの間に、饒舌な会話は必要ない。共有してきた時間が、何よりも雄弁だった。 やがて、ゴールドシップがぽつりと言った。 「お前さん、変わったよな」 「…何がだ」 「全部だよ、全部。昔のお前さんは、ナイフみてぇにピリピリしてて、周りを誰も寄せ付けなかった。だが、今は…そうだな、嵐が過ぎ去った後の、静かな海みてぇだ」 嵐。…言い得て妙かもしれん。アンタが、俺の中に巻き起こした、嵐。 「最後、笑ってたろ」 ゴールドシップは、俺の方を見ずに言った。 「あんな顔で走るお前さんを、初めて見たぜ。…何か、見つかったのかよ」 その問いは、やけに真っ直ぐに、俺の胸に突き刺さった。 見つかったのか? アンタが遺した方程式の、解は。 『楽しさ』という、定義不能な感情の、正体は。 俺は、ゆっくりと首を横に振った。 「…いや。結局、最後まで、分からなかった」 その言葉は、偽りない本心だった。 最後のレースで感じた、あの高揚感。あれが本当にアンタの言う『楽しさ』だったのか、俺には確信が持てない。あれはただ、長い呪縛から解き放たれる瞬間の、刹那的な輝きだったのかもしれない。 「そうかよ」 ゴールドシップは、意外にも、それ以上何も聞いてこなかった。 ただ、空を見上げて、大きく息を吸い込んだ。 「ま、なんだ。ゴチャゴチャ考えるのは、お前さんの悪い癖だ。答えなんて、一つじゃねぇんだろ、きっと」 その時、一陣の風が、俺たちの間を吹き抜けていった。 芝の匂いと、少しだけ冷たくなった夕暮れの空気が、混じり合う。 「…そう、かもしれんな」 俺は、初めて素直に、その言葉を認めることができた。 アンタは、俺に一つの答えを求めていたわけじゃないのかもしれない。 ただ、俺に問いを投げかけ、俺が俺自身の答えを探し続けること、そのプロセス自体を、望んでいたんじゃないだろうか。 「これから、どうすんだ?」 ゴールドシップが聞いた。 「さあな。何も、決めていない」 俺の未来は、完全に白紙だった。 勝利という唯一絶対の座標を失った今、俺は広大なマップの真ん中に、一人で立っているようなものだ。 だが、不思議と、不安はなかった。 「…まあ、たまには、一緒に釣りでも行くか」 「…は?」 「海を見てるとよ、色んなことがどうでもよくなってくんだぜ。オススメだ」 そう言って、あいつはニヤリと笑った。 釣り。あまりにも非効率で、生産性のない時間の使い方。 だが。 「…考えておく」 俺は、そう答えていた。 ゴールドシップはやがて、満足したように去っていった。 一人になったターフで、俺はもう一度、空を見上げた。一番星が、瞬き始めている。 なあ、トレーナー。 俺のレースは、終わった。 だが、アンタが遺した方程式を解くための、俺の旅は、まだ終わらないらしい。 これから、俺は多くの『無駄』な時間を過ごすだろう。 釣りをするかもしれん。 名前も知らん花を、一日中眺めるかもしれん。 ファインモーションのお茶会で、意味の分からない話を聞くかもしれん。 そして、その一つ一つの『無駄』の中に、アンタが隠したヒントを探すんだろう。 俺がターフの上で見つけられなかった、答えの欠片を。 それは、果てしなく、面倒で、そして… きっと、悪くない人生だ。 風が、また吹いた。 それは、まるで、新しい旅の始まりを祝福するような、優しい風だった。 エピローグ それから、さらに長い年月が流れた。 俺は、トレセン学園のトレーナーになっていた。 我ながら、ロジカルに考えれば最もあり得ないキャリアパスだった。俺が最も嫌悪していたはずの、曖昧で、非効率で、感情というノイズに満ちた職務。だが、俺は今、ストップウォッチを片手に、ここに立っている。 「シャカールトレーナー! 今の走り、どうでしたか!?」 息を切らしながら駆け寄ってきた担当ウマ娘に、俺は無表情で応える。 「フォームが5ミリぶれていた。ラスト1ハロンのピッチが0.2秒遅い。次の課題は…」 「も、もー! またデータの話ばっかり! 私が聞きたいのは、そうじゃなくて!」 唇を尖らせる担当に、俺は内心、ため息をついた。 …面倒くせぇヤツだ。まるで、昔の誰かさんみたいに。 俺のトレーナーとしての評価は、二分されていた。 徹底したデータ主義と、ミリ単位のフォーム矯正。ロジカルなレース展開の構築。それによって、担当ウマ娘の能力を限界まで引き出す手腕は、確かだった。 だが同時に、担当とのコミュニケーションにおいては、「冷徹」「非人間的」と囁かれていることも知っている。 それでいい。俺は、馴れ合いに来ているわけじゃない。 ただ、時折、俺は誰にも見咎められないように、小さな逸脱を犯す。 「…だがな」 俺は、担当の頭に、ぽん、と軽く手を置いた。びくりと肩を揺らす担当。 「…お前が、最後の直線で見せたあの走りは、悪くなかった。データには現れない、いい『風』が吹いていた」 「え…?」 きょとんとする担当に、俺はそれ以上何も言わず、背を向けた。 風。 あの言葉を口にするたびに、胸の奥が、チクリと痛む。それは、もう癒えることのない、古い傷跡だ。 トレーナー室のデスクには、一枚の写真が飾ってある。 俺の引退式の時のものだ。トロフィーを掲げる俺と、その横で、なぜか泣きながら、めちゃくちゃな笑顔で写っているゴールドシップやファインモーションたち。 その写真立ての後ろに、俺はこっそりと、一枚の古い写真を忍ばせている。 アンタの、あの間抜けな笑顔の、白黒写真だ。 俺は今でも、アンタの問いに答えられたとは思っていない。 『楽しさ』という方程式は、俺の生涯をかけても、おそらく完全には解けないだろう。 だが、それでいいのかもしれない、と最近は思う。 完璧な解など、存在しない。 ただ、問い続けること。探し続けること。そのプロセスの中にこそ、アンタが本当に伝えたかった『何か』があるのではないか、と。 「おい、トレーナー」 誰もいない部屋で、俺は時々、写真の向こうのアンタに話しかける。 「アンタの遺した、クソみてぇに厄介な宿題。俺は今も、解き続けているぞ」 俺は、俺なりのやり方で、アンタの物語を紡いでいる。 俺が育てたウマ娘が、ターフを駆け抜ける。 その走りの中に、ほんの一瞬、アンタが好きだった『風』が吹く。 その風を見つけるたび、俺はアンタとの対話を思い出す。 それは、勝利の栄光とは違う。 もっと静かで、個人的で、そして、どうしようもなく温かい、俺だけの報酬。 なあ、トレーナー。 俺がこっちに来るのは、まだ、だいぶ先になりそうだ。 アンタに報告したいレースが、山ほどあるからな。 だから、そっちで気長に待っていろ。 俺が解いた、俺だけの答えを、いつか聞かせてやる。 その時、アンタは、どんな顔で笑うんだろうな。 風が、トレーナー室の窓を、優しく揺らした。