冷凍された牛の大腿骨に、ソワンは包丁を当ててつい、と引いた。  大人の腕ほどある大きな骨がさくり、さくりと軽やかな音とともに拳大に切り分けられてゆく。戦闘任務にも持っていく愛用の方頭刀である。鉄虫の装甲すら切り裂く超硬ステンレススチール刃にかかれば、牛の骨など大根やにんじんと変わりはない。  次に牛すね肉の塊。これも大雑把に切っておく。アキレス腱も何本か、これはそのままで構わない。  ひな鳥を丸ごと開いたもの二羽。脂の多い皮は剥いてよく洗う。丸鶏は肉の隙間に小さな血の塊などが残っていることがよくある。スープが濁る原因になるので、注意深く取りのぞく。  牛すね肉をもう一種類。これは仔牛のもので、あとで使うのでよけておく。  にんじん、玉ねぎ、トマト、にんにくにセロリ。セージ、タイム、マジョラムとポロ葱。卵が一パックに黒胡椒、それから隠し味に干した椎茸を少々。 「全部よし、と」  忘れたものはないか、もう一度確かめる。何しろこれからほぼ半日の間、厨房を出られないのだ。  満足したソワンは大きな寸胴鍋に水を張り、骨とすね肉、アキレス腱と鶏ガラを入れてコンロに点火した。  カラカス大統領府の厨房はさすがに立派で、数百人規模のパーティにも対応できる広さと設備を備えていた。しかしごく一部分を除いては長年手入れもされずに放置されており、オルカが大統領府を仮の本拠としてカラカスの統治を始めるにあたり、ソワンたち炊事班はまず掃除と修理から始めなくてはならなかった。  食材だけは大量にあったが、それは必ずしも喜ばしいこととは言えない。旧時代に産油国だったベネズエラは、せっかく肥沃な土地を有していながら石油以外の産業基盤をほとんど発展させなかった。レモネード評議会の支配下に入ってもその状況は変わらず、むしろ悪化した。専門のバイオロイドもまともな設備もない素人農場やプラントで作られた乏しい食料はベネズエラ全土からカラカスへ集約され、そのほとんどはカラカス市民の口には入らず大統領府が搾取した。しかしいかにレモネードベータが迂回コードとやらの維持に大量のカロリーを要するといっても、たった8体のバイオロイドが毎日数千人分もの食料を消費するわけもなく、納入された食料のほとんどは使われないまま無為に腐り、廃棄されていたようだ。  カラカスの統治システムはそもそもが「市民を苦しめる」という歪みきった目的のために構築されたものだそうだから、理にかなっていると言えば言えるが、食材に対するあまりにも無惨な冒涜にソワンは怒りを抱かずにいられない。上陸班に入れてもらえていたら、クワトロとやらの腕一本や二本は切り落としてやったものを。  もっとも、レモネードベータとの会見の際の晩餐については、 「メニューは豪華でしたが……味は正直、あまり良くなかったですね」  リリスからそんな話も聞いている。いずれにせよベータたちは食事の喜びには関心がなかったとみえる。  鍋が沸騰してきたら中火に落とし、泡と一緒にふつふつと湧き上がってくる灰褐色のあくをすくっては捨てる。  ふだんの厨房では助手の仕事で自分でやることはないが、あく取りは好きな作業だ。湯面から目を離さず、無心にエキュモワール(穴あきおたま)を動かしながら、ソワンはぼんやりと思考を遊ばせる。  オルカは本当に豊かになった。ほんの数年前まで、牛肉も鶏肉も貴重品だった。司令官でさえ好きな時に食べられるわけではなく、ましてバイオロイドの口に入ることなど滅多になかった。使う時もまるごと一頭分が入ってきて、まず解体して各部位の使い道を考えるところから始めなくてはならなかったものだ。  それが今や、すね肉が欲しければすね肉が、ひな鶏が欲しければひな鶏が、必要なだけすぐに手に入る。この南米を傘下に収めた今、オルカはますます豊かになっていくだろう。 「……ふふ」  鍋のふちに貼りついた細いあくの線をこそげながら、ソワンはふと笑った。旧時代、裕福な人間に仕えていたあの頃、食材が必要な時に必要なだけ手に入るなどというのは当然の前提で、それが豊かだとかありがたいとか感じたことはなかった。メニューとは美意識で組み立てるものであり、その日使える食材、使い切らねばならない食材が何であるかなどという俗事に束縛されるものでは断じてなかった。  俗事に振り回される料理も、意外と創意が試されて楽しいものだ……と、当時の自分が知っていたら何かが変わっただろうか。ソワンは自問して、頭を振った。あの頃の自分にそんな楽しみを受け入れる度量はなかったし、何より主人がそんなことを許さなかっただろう。  あくをおおむね取り終え、透明な湯の底で肉がコトコト動くだけになったら野菜を入れる。玉ねぎと干し椎茸は丸ごと、にんじんは一口大、セロリはざく切りに。およそ三時間の煮込みが終わった時、ちょうど煮崩れて味をすべて出し切るよう計算した大きさに切る。  にんにくは香りを出したいのでフライパンで少しだけ焼き焦がす。ついでに切り落とした玉ねぎの頭の部分も一緒に焦がしておく。これを入れるとスープがきれいなきつね色になる。  最後に香草を細く切って糸で縛ったブーケガルニを放り込む。ここからは火の様子を見ながら、時々かき回して野菜のあくを取るだけでいい。ソワンはキッチンのすみからスツールを出してきて、読みかけだった食料備蓄リストを開いた。  ソワンが来る前のオルカは、料理人の目から見れば悲惨そのものだった。たぶんあの頃、抵抗軍のバイオロイド達は鉄虫との戦いで疲れ果て、食に楽しみや美味を見出すという発想そのものを失っていたのだろう。自分たちだけならまだしも、人間である司令官にまで毎日ツナ缶だけの食事をさせて誰も疑問に思わなかったというのだから恐れ入る。司令官を美食で籠絡するのは、卵を割るより簡単だった。  もっともそんなことをしたせいで大変な目にもあったのだが……今思えば恐ろしいことをしたものだ。  それよりさらに前、オルカにたどり着く以前のことはもうよく思い出せない。仕えていた主人がどんな人間だったのかさえ曖昧だ。大金持ちで美食家で、長年の飽食により生白く肥満した……要するに、ソワンの所有者として典型的なタイプの老人だったこと以外は。その主人が滅亡戦争で財産もろとも灰になった後は、鉄虫と戦ってその日その日を生き延びながらどこかに料理のできる場所、料理を食べてくれる人間が残ってはいないかとさまよい続けた。長さだけでいえばソワンの人生の大半をこの放浪時代が占めていることになるが、あまりに空虚だったその年月にはほとんど何の思い出もなく、密度としてはオルカでの数年間に遠く及ばない。  そういえば近ごろオルカでは「旧時代」と言ったら人類が生きていた時代のことではなく、司令官とオルカが現れる以前までを指すことがあるそうだ。誰もが同じ気持ちなのかもしれないと、ソワンは柔らかく思った。  それにしてもやはり大統領府の食料備蓄は多すぎる。駐留しているスタッフの分を十分に確保しても、まだ相当量が余る。市民の栄養状態を考えれば早急に放出すべきだが、たとえば炊き出しをやるなら人手がいる。どこから引っ張ってくるか……リストに目を走らせてぼんやり思考を回しつつ、何度目かに寸胴鍋の中をさっと混ぜかえしてふと目を上げるともう三時間が過ぎていた。  鍋の中身は半分ほどまで煮詰まり、野菜は計算通りクタクタに煮崩れて跡形もない。ソワンはパネルを置いて立ち上がり、ひとつ伸びをした。  シノワ(円錐形の漉し器)に布をかぶせて二重にし、鍋の中身を流し込んで漉していく。こうしてできた褐色のスープ……ブイヨンは、さまざまなスープやソースの素材になるフランス料理の基本中の基本だ。このまま味付けして飲んでもそれなりに美味しいが、今回作りたいのはそんな単純な料理ではない。  熱々のブイヨンが入った鍋を、氷を張ったバットに置いて冷ましておく間に、一回目の煮込みで使わなかった仔牛のすね肉、にんじん、玉ねぎ、セロリ、トマトをすべてみじん切りにする。ソワンにかかればフードプロセッサーなど使うより包丁の方が早い。細かなミンチになった材料をボウルに入れ、卵白を加えて粘りが出るまでよく練る。これを鍋の底に置いて、人肌くらいまで冷ましたブイヨンを注き、火にかける。  かき混ぜながら弱火でゆっくり温めるにつれ、よく練ったミンチがスープの中に拡散して、木べらが立つくらいドロッとした粥状の液体になる。それをさらにかき混ぜ続けると、ミンチに混ぜた卵白が熱で固まり上面に浮いてくる。この卵白がブイヨンの濁りを吸い取ってくれる。ブイヨンに肉を加えて再度スープを取ると同時に卵白で濁りを除く、「クラリフェ」と呼ばれる技法だ。  卵白が凝固を始めたら火をごく細くし、鍋の中央部だけが微笑む程度にクツクツ沸いている状態にする。その中央部だけを少しすくって周囲にかけ回す。それを繰り返していくと中央部の卵白とミンチの層にだけ穴が開き、澄んだスープがたまってくる。それをさらにすくっては、周囲にかけることを繰り返す。重要なのは中身をかき回さないことだ。卵白が崩れ、濁りが戻ってしまう。あくまでもスープだけを対流させ、濁りを吸い、味を出す。  おっと、忘れるところだった。最初に煮込んだ肉と骨が入ったままの寸胴鍋に水を入れ、別のコンロで強火にかける。上等の肉だからまだまだスープが取れる。あとでまかないの材料にでも使おう。こちらはもう繊細さなどいらないので、ひたすら豪快にグラグラ煮立てる。 「……長。……料理長」  二つの鍋を交互に見るのに集中していたソワンの背後から、遠慮がちに声がかけられた。振り向くと、ポルティーヤがバスケットを抱えてキッチンの入り口に立っていた。 「何かトラブルですか?」 「いえ、あの、お夜食でもどうかと思って」 「夜食?」時計を見ると、もう明け方が近かった。  大統領府に滞在している人員は多くはないが、ポルティーヤと二人だけで全員分の食事を用意するのはそれなりに忙しい。夕食の後片付けと明日の仕込みが済めばもう夜更けで、そこから始めたのだから確かにそれくらいになる計算だ。そういえば小腹がすいていることに、ソワンはようやく気づいた。  どこで作ってきたのか、ポルティーヤがバスケットから出したのは小ぶりのサンドイッチだった。鍋から目を離さず立ったまま片手で受け取り、一口かじる。イギリスの伝統的な軽食、きゅうりのサンドイッチだ。ポリポリと軽い歯応えが楽しい。  食べている自分の横顔をポルティーヤがみょうに深刻な眼差しで見つめてくるので、ソワンは可笑しくなってしまった。きゅうりは透けて見えるほど薄く、水切りも十分。調理中の舌の邪魔をしないようマスタードもこしょうも使わず、代わりにマヨネーズが塗ってある。差し入れの、それもこんな出張先で食べる軽食としては申し分ない品だ。しかしあえて、客に出すならどうかという観点でソワンはもう一度味わってみる。 「……押しが少し長すぎたようですわ。きゅうりにマヨネーズが染みてしまっています。せっかく薄く切ったのですから、全体のバランスを考えて」 「……! ありがとうございます!」  ポルティーヤがぱっと笑顔になる。ソワンは料理の品評をする時、調理の手順まで考えてその順番でコメントをつけるようにしている。最後の工程である「押し」を注意されたということは、そこまでは全部合格ということだ。 「私も一品作りましょうか。そこの棚にチーズがあったでしょう、出してくださいな」  ソワンはグラグラ煮立っている二番出汁の鍋からひとすくい小鉢にとり、塩とこしょうで下味をつけた。先ほど卵白を使った時に余った卵黄と少量のチーズを加え、ハーブをちぎってもみ落としたのを、熱した小型フライパンにさっと流してくるりと丸めて皿に落とす。山吹色に輝くオムレツがあっという間にできあがった。  一さじ口に入れたポルティーヤが目を丸くする。「卵黄だけのオムレツってこんなに味が濃いんですね……! ブイヨンの味と合わさって、シチューを食べてるみたい」 「卵にブイヨンを加えたオムレツは日本料理などにありますわ。フレンチではあまりしませんが、変化を付けるのにいいでしょう」ソワンも微笑んで一口食べた。悪くない出来だ。 「スープは、まだかかるんですか?」  二口目を頬張ってもぐもぐ口を動かしながら、ポルティーヤが鍋をちらりとのぞき込む。 「もう少しですわね。朝のアミューズにはちょうど間に合うでしょう」 「……頑張ってください。もし大変でしたら、朝食は私のほうでな、なんとかしてみますので……!」  明らかに不安そうな顔で請け合うポルティーヤが可笑しくて、ソワンはまた笑った。「この程度でダウンするようでは料理長は務まりませんわ。貴女こそ、朝まで少し寝ておいてください」  ポルティーヤが帰ったあと、ソワンはふたたびスープに集中する。  たしか少し前に、ポルティーヤモデルの解析が進んで昇級の目処が立った、というニュースがあった。正式にに副料理長に任命する前に、処置を受けてもらうことにしようか。集中した頭の片隅でソワンは考える。  現在のオルカには、自分以外にも複数のソワンモデルがいる。これまでは各地の拠点で働いていたが、ヨーロッパを手に入れて以降外部拠点は縮小に向かっている。南米を手に入れた今、その傾向は加速するだろう。ソワンモデルも大半がヨーロッパに呼び集められ、何人かは中央官舎のスタッフとして働くことになるかもしれない。  ソワンは同型機が新たに復元や合流するたび、必ず直接面談することにしている。どちらが料理人として上かわからせないと、ソワンモデルは絶対にこちらの言うことをきかないからだ。自分で言うのも何だが彼女たちはとにかく自尊心と猜疑心が強く、他人のやり方に合わせることを知らない。正面から反抗するのでなく、表向き従うような顔をしておいて裏でいろいろ画策するから厄介だ。 (オルカに来た頃の私も、あんな風だったのでしょうね……)  面談のたび、ソワンは昔の恥を鏡で見せられるような気分になる。あの連中をまとめようと思ったら、ポルティーヤもSS級相当に昇級くらいはしていないと格負けするだろう。いや昇級しても厳しいかもしれないが、料理長の手間をはぶくのも副料理長の仕事のうちなのだから、そこは頑張ってもらうしかない。  音と香りがほんのわずかに変わった。意識をもどして時計を見ると、クラリフェを始めてから三時間と少しが経過していた。  さあ、仕上げだ。粒こしょうを数粒、包丁の柄でつぶして鍋に投げ入れ、ほんの一瞬だけ沸騰させて最後の臭み取りをする。鍋の中央、肉がよけられてスープだまりができたところにレードルを沈め、上澄みをすくい取る。雑味を残さないために漉し器は使わない。ひたすら慎重に、スープだけをすくい取って別の鍋に移す。  最後の一滴まですくい終えたらごく弱火で保温しながら、スープに浮いた油を取り除く。一回り小ぶりなレードルを慎重にスープの面にすべらせ、最後は薄紙を一枚落として、わずかな油も残さず吸い取る。 「…………ふう」  完成だ。小皿にとって味見をする。うん、いい味だ。  透きとおった深い紅玉色のスープ。あれだけあった肉と野菜が片手鍋一杯程度にまで減ってしまったが、この一杯にはそれだけの価値がある。  ソワンはスープをポットにうつし、温めた食器とともにバスケットに入れて厨房を出た。  廊下には早朝のうす白い光が霧のように立ちこめていた。  人の姿はないが、見えない所でメイドたちが立ち働いている気配がする。屋敷が目覚め、朝の身じろぎを始める時間だ。  階段のところでハチコに出会った。夜勤の終わり際なのだろう、眠そうな顔をして鼻をひこひこ動かしている。 「ご主人様は、もう上に?」  小声で聞くと、ハチコが少し悲しそうにうなずいた。 「シエテさんも?」もう一度、うなずく。  階段を上って左へ折れると、突き当たりが大統領執務室……今は司令官の執務室だ。そっとノックしてドアを開ける。 「ソワンか……おはよう。早いね」 「おはようございます」  司令官はすでに机についていた。すぐ後ろにレモネードアルファが控え、傍らのソファにはレモネードベータ・シエテがじっとうつむいている。  司令官の顔色は悪い。ほとんど寝ていないに違いない。目を合わせたアルファが、形のいい眉のあいだに沈痛さをにじませて微かにうなずいた。  一昨日、レモネードベータ・ウノが死んだ。  ドクターや医療班も手を尽くしたものの、とうに限界を越えていた肉体と脳はどうしようもなかったという。安らかな死に顔だったそうだ。  バイオロイドの死など、今の時代では珍しくもなんともない、ありふれた日常の出来事にすぎない。慣れていない者などいない。  ただ一人、目の前のこの人を除いては。  神がかった指揮能力を持つこの人は、戦いで味方を死なせたことがただの一度もない。ソワンの知る限り、司令官がバイオロイドの死に直面したのはこれまで三度。レモネードデルタは明確に敵だった。カゴシマのアザゼルは敵とは言いがたかったが、味方でもなかった。エヴァ・プロトタイプは敵か味方かわからない上、死んだはずなのにどうやってか何度も接触してきているらしい。  だから彼にとっては、生まれて初めてなのだ。オルカに合流し、自分に従う「仲間」の死を看取るのは。 「朝食前の軽いアミューズをお持ちしました」  執務机に手際よくカップを並べるソワンを司令官が何か言いたげに見て、すぐ目を伏せた。食欲はないが、断るのも悪い……そんなところだろう。 「すぐに召し上がれるものをと思いまして、ビーフコンソメスープですわ。熱いうちにどうぞ」  熱いスープを注ぐとふわりと香りが立って、司令官の頬がわずかに動いた。差し出されたカップをとって、顔の前に持ってくる。 「いい匂いだ」 「ありがとうございます」アルファとシエテにも、それぞれカップを渡す。  ひと口、カップを傾けた司令官の目が丸くなった。ごくり、と喉が動く。 「なんだこれ……!」 「ふわああああ……!」ほとんど同時に、シエテも感極まったように声を上げた。 「いかがですか?」 「肉の味がする……」呆然とつぶやいてから、いくらなんでも馬鹿みたいなことを言ったと思ったのだろう、司令官は顔を赤らめた。 「……肉の味しかしない。ものすごく美味い肉を液体にして飲んでるみたいだ」 「それがビーフコンソメスープですわ」ソワンは艶然と微笑む。 「で、でもでも」シエテがカップを抱えたまま腰を浮かせた。「いくら私でもコンソメスープくらい知ってます。粉のとか飲んだことがありますけど、これとは全然……」 「これが、ビーフコンソメスープです」ソワンはもう一度、念を押すように繰り返した。「コンソメとは『完璧』という意味ですわ」 「秘書をやっていてよかったと思うことの一つは」カップを半分ほど空にしたアルファがほう、と満足のため息をついた。「ソワンさんの渾身の料理を口にできる機会が増えることですね」 「あの、あの」シエテが遠慮がちに、「もう一杯、いただくわけには……」 「ええ、どうぞ」  二杯目のスープが注がれたカップをシエテは両手でくるみ、大事そうに何度にも分けてちびちびとすすった。その頬はゆるみ、もう涙の跡は見えない。 「俺も……もらおうかな」  差し出されたカップに、ソワンは頬をほころばせた。「もちろんですわ」  極上の料理には人の心を操る力がある。かつて、ソワン自身が実証してみせたことだ。  いくらか元気を取り戻した司令官と、まだカップを手に幸せそうに呆けているシエテをあとに、ソワンは執務室を出た。ドアを閉める間際、アルファがそっと目配せをして頭を下げた。  廊下を歩きながら両腕を伸ばすと、肩のあたりの筋肉がみしみしと鳴る。久々に会心の仕事ができた気がする。 「……さて、と」  まもなく朝食の準備の時間だ。どんな料理でも食べればなくなる。いい仕事をした証は自分と客の胸の中にのみ残り、料理人にはいつでも次の仕事が待っている。ソワンは自分の頬をひとつ、ぴしゃりと叩いた。急いでシャワーを浴びて、たしか地下のワインセラーにレミー・マルタンの悪くないのがあったから拝借しよう。  一杯のブランデーを一晩の眠りの代わりにできないようでは、オルカの料理長は務まらない。 End ===== 再び始まる海の冒険(嘘)第二部 2-1 昼下がりの告白  十件ほどの議案書に目を通して承認のサインを入れると、それで今日の仕事は終わりだった。 「お疲れ様でした、陛下」  パネルを受け取って出ていくアルマンを見送って、俺はひとつ伸びをした。昼まではまだ時間がある。 「少し散歩でもしようかな。リリス?」  振り返ると、仕事中一言も発さずに背後に控えていたブラックリリスが、静かに頭を下げた。  初夏のリヨンは緑のにおいがした。石畳の上を吹いてくる、かわいた風が気持ちいい。  仕事中か休憩中か、通りを行き交うバイオロイド達が手を振ってくれるのへ挨拶を返しながら、のんびりと大通りを歩く。 「午後は近くの共同体を視察だったよな。何か、準備しておくことある?」 「お車の準備は整っております。一応タイムテーブルもありますが、短いものなので移動中にでも目を通していただけば十分かと」  昔からオルカにいる子や、最近合流したばかりの子。まだ合流するかどうかを決めかね、見学に来ているだけの子。多くのバイオロイドとこうして触れあい、この目で様子を確かめるのも大事な仕事だ。  そう、決して仕事がし足りないなんて思うべきではない。面白半分で冒険に出かけるのもなしだ。幹部級メンバー全員から、順番に一対一でこんこんと説教され続けたあの一日は控えめに言って地獄だった。二度とあんな目に遭わないためにも、当分は余計なことをせず、皆が望む理想の司令官でいようと思う。  それに、散歩に出た理由はもう一つあった。 「午後はシフトも交代だよね」 「はい。ペロとフェンリルがお供させていただきます」  それならやはり、今片付けておいた方がよさそうだ。川沿いの並木のすみにちょうどいいベンチを見つけて、俺は腰を下ろした。リリスにも隣に座るよう促す。 「なあリリス。最近、元気がない気がするんだけど。何かあった?」 「いえ、何も……」 「……」 「……」  さっき「幹部級メンバー全員から説教された」と言ったが、正確には全員ではない。リリスはそこにいなかったのだ。  俺があの正体不明の地下施設を探検していた時、コンパニオンは休暇で海水浴に行っていた。それは俺が休暇を出したからだが、自分が休んでいる間に俺が危険な目に遭ったなどというのは、いつものリリスなら誰よりも取り乱しておかしくないはずだ。半狂乱になって怒鳴り込んでくるのをなかば覚悟していたのだが、リリスは最後まで俺のところに来なかった。  それ以来、彼女の様子がおかしい。  もしかして、とうとう愛想を尽かされてしまったのだろうか。いや、それならまだいい。逆に、変な風に自分を責めておかしくなっているのではないだろうか?  リリスは目を伏せ、俺と視線を合わせようとしない。それでもじっと待っていると、とうとう観念したように顔を上げた。 「……そうですね。今日、告白しようと思っていました。ご主人様、申し訳ありません。リリスはご主人様に嘘をつき、騙しておりました」 「騙していた?」 「シデンさん」  リリスは突然、この場にいない人物の名を呼んだ。その視線を追って、自分の足下に目を落とした俺は仰天した。 「うわあああ!?」  日射しが芝生の上に、くっきりと黒い俺の影を落としている。その影の中から、シデンの頭がにゅっと現れたのだ。  シデンはそのまま、水から上がるようにするりと影を抜け出し、リリスの隣に立った。 「ムラサキ流忍法、潜り影。元はツキカゲ流の奥義だったのを儂が盗み出し、磨き上げた秘術じゃ。どうだ、驚いたじゃろ」 「驚いたけど……」  それが今、この状況と何の関係があるのか。ぽかんとしている俺に、シデンは続けた。 「あの日、お主らが探検に行っておった日もな。儂は、この術でお主をこっそり護衛しておった」 「え? こっそり……護衛……?」  言葉の意味が頭に浸透してくるにつれ、俺は愕然とした。 「ずっと俺と一緒にいたのか? 俺たちが地下を探検していた時も、鉄虫が出た時も?」 「ああ」 「トリアイナが落ちた時も!?」 「その通りじゃ」 「なん……」  なんで助けてくれなかったんだ、という俺の言葉を予想していたように、シデンは言った。「お主に一人で、自由にふるまってもらうためよ」 「私がそのように依頼したのです。ご主人様自身の身に危険がおよぶまでは、何があっても手出しは無用と」  リリスは地面に膝を突いて、深く頭を垂れた。  ―――― 「ご主人様の秘密警護をお願いしたいのです」  司令官公邸の使われていない部屋にシデンを呼び出したブラックリリスは、単刀直入に言った。 「……引き受けてもよい。じゃが、なぜ儂に? そして、なぜ秘密にする必要がある?」  用心深くシデンは問い返した。彼女が司令官の警護隊長であることはシデンも知っている。一、二度模擬戦の相手をしたが、個人的な会話をしたことは一度もない。 「ご主人様がこのたび、私達コンパニオンに休暇をくださいました」シデンの質問に答える代わりに、リリスは続けた。 「ふむ?」 「もちろん、私達のためを思ってのことでしょう。ですが、つかの間でも私達に見張られることなく、自由気ままにお過ごしになりたい……そんなお気持ちもあるのだろうと、私は推察しています。そのお気持ちは尊重しなくてはなりませんが、だからといってご主人様を専任警護もなしに放っておくことなど絶対にできません」  それは少し、気を回しすぎではないか……という揶揄を、シデンは飲み込んだ。リリスの目は真剣そのものだ。 「スペックノートを拝見しました。ちょっと信じられないのですが、シデンさんは人の影の中に潜ることができるそうですね」 「実際に潜るわけではないがな。光学迷彩と光吸収性ホログラフィを組み合わせて……まあ理屈はよい、それに近いことができるのは確かじゃ。つまり、潜り影の術で、本人に気どられぬようあやつを警護してほしい、と?」 「はい。ただし、あくまでご主人様が自由に行動している体を崩さないよう、ご主人様の身が本当に危なくなるまでは手を出さないでほしいのです。何があっても」  “何があっても”……その言葉に含まれた意味は、シデンにも理解できた。「あやつが、それを是とするか?」 「それは関係ありません」リリスは言下に答えた。 「ご主人様の安全を守ること。ご主人様の望みをかなえること。重要なのはそれだけです。私や私の行動がどう思われようと、それは二の次です」  うすぐらい部屋の中で、リリスの眼差しだけが炯々と輝いていた。 「……オウカといい、あやつ忠義な部下に恵まれすぎじゃ」シデンは息を長く吐いて、組んだ腕をほどいた。 「お役目、確かに承った。任せてもらおう」 「ありがとうございます。もしご主人様に見つかった時は、私の指示だと正直に仰って下さい。あなたには決して咎が及ばないよう尽力しますので」 「そんな真似はせぬ。ばれた時は、一緒に頭を下げようではないか」  ―――― 「儂が手を出したのは一度だけ、洞窟を脱出するのに、崖からお主らが飛び降りた時じゃ。セイレーン殿に気づかれぬよう、こっそり岸へ後押しをさせてもらった」  全然気づかなかった……。まだ呆然としている俺の肩に、シデンがそっと手を置いた。 「のう、小僧。儂もこの数ヶ月でほとほと思い知ったが、オルカのバイオロイド達はみな、お主を心から慕っておる。いつでも思っておるのだ。お主に尽くしたい、お主のためになることをしたい……そしてまた、お主の嫌がることはしたくない、お主の気分を害したくない、とな」 「……」 「お主はそんなことを望んではおらぬかもしれん。じゃが望んでおらぬからといって、無いものにはならん。皆がお主のために何をしておるか……のみならず、何をせずにおるか。そこへもう少し目を向けてよいのではないかな」  胸に突き刺さる言葉だった。そして同時に、あの一日中続いた説教の中で、誰ひとり口にしなかった言葉でもあった。  俺は自分で思うよりはるかに、バイオロイド達の配慮に包まれて生きているのだ。わかっているつもりだったのに、何度でも思い知らされる。 「すまんな、新参者の分際で口幅ったいことを言った。じゃが、新参者なればこそ見えるものもある。年寄りの愚痴と思うてくれい」 「いや、ありがとう。胸に刻むよ」  俺はシデンに頭を下げてから、リリスの方へ向き直った。膝を突いたままのリリスに、俺もしゃがみ込んで目線の高さを合わせる。  あの時コンパニオンに休暇を出したのは、姉妹揃ってゆっくり休んでほしいという気持ちからだった。でも確かにリリスの言うように、たまには警護抜きで、気ままに行動してみたいという欲求がなかったとはいえない。 「リリスも、ありがとう。いつも俺のわがままに付き合わせてすまない。俺が今でも五体満足で生きてるのは、リリス達のおかげだ」 「ご主人様……」  涙に潤んだ目が俺を見た。俺は彼女の手を取って、強く握った。 「どうかこれからも、警護のために君が必要と思ったことは何でもしてくれ。たとえ俺に秘密だったり、俺の意に反することでも構わない。俺がそれを悪く思うことはないと約束する」  リリスは黙って、俺の手を引き寄せた。手の甲に、熱い涙がぽたぽたと落ちるのを感じた。  俺はリリスの手を引いて立ち上がった。気がつけばもう昼近い。「二人とも、昼飯を一緒にどう? 今日は和食だって言ってたよ」 「悪くないの」 「リリスも。せっかくの機会だし、シデンと一緒に護衛の苦労話とか聞かせてよ」 「……苦労など、何もありません」リリスは目元をぬぐって微笑んだ。「でも、せっかくのお誘いですので、ご相伴にあずからせていただきます」  そうして俺は右手にリリスの、左手にシデンの手を握って公邸に帰り、楽しい昼食の時間を過ごした。  それから二週間ほど後のことだった。  南米に向かったトリアイナ達が帰ってこないという知らせが入ったのは。 2-1B 闇の中で  目を開けても、閉じても、何も変化がなかった。  それほどに濃密な闇だった。トリアイナは自分が本当に目を開けているのか自信がなくなってきた。  やがて混濁していた意識が急速に覚醒をむかえ、トリアイナは跳ね起きた。 「…………!!」  殴りつけるようなひどい頭痛が襲ってくる。額を押さえて、何が起きたのか思い出そうとする。  南米。海賊の楽園、憧れのカリブ海。奇怪な鳥の鳴き声のような音が聞こえてくるという島の噂を聞いた。  その島の中腹には大きな洞窟があり、正体不明の微弱な電波さえ検知した。これは絶対なにかある。喜び勇んでみんなで入ってみたところ…… (落ちた……んだったよね?)  そのあたりの記憶が今ひとつはっきりしないが、落下したのは確かだ。トリアイナは体の上に積もった砂利と土を払いのけた。 「……そうだ、みんな! ディオネ!」  声に出して見回しても、何も見えないのは変わらない。しかし反響で、それなりに広い空間にいるとわかった。手を伸ばして周囲を探る。むき出しの素足と手に触れるのは、ザラザラゴツゴツとした濡れた感触。泥と、岩だ。中腰で立ち上がり、両手で地面をさすりながら探索の範囲を広げていく。 「落ち着いて、落ち着いて。私は最高の探検隊長。パニックなんか起こさない。いつでもみんなを守る……」  世界最高の探検隊長であるトリアイナは大抵のものは平気だが、暗闇と孤独のセットだけは好きではない。たった一人で海の底に潜り、見つけるものといえば仲間の遺骸ばかりだった、あの頃を思い出すからだ。少しずつ速くなる指先に、つるつるした曲面が触れた。 「ソーフィッシュ!」  愛機のことなら、見なくても何がどこにあるかわかる。飛びついてライトのスイッチを入れると、まばゆい光の円錐が暗闇を切りとった。  意外なほどすぐ近くに皆はいた。ディオネ、セイレーン、ネレイド、ウンディーネ、テティス。全員砂利の中に埋もれ、一番奥のテティスは壁から半身が生えたようになっている。駆けよって全員息があることを確かめてから、トリアイナはまずディオネを引きずり出した。 「起きて、ねえ、起きて!」 「ん……お姉ちゃん…………?」  ぼんやりと焦点の合わない目をトリアイナに向けていたディオネだが、すぐに覚醒して状況を認識する。 「お姉ちゃん、水ある? ソーフィシュに救命キット入ってたよね」 「そうだった、出してくる」 「あと、この音なに?」 「音?」  トリアイナもその時初めて気づいた。ソーフィッシュの駆動音の反響に、別の音が混じっている。重たく硬質で、しかし妙に軽やかにステップを踏みつつ迫ってくるこの音は…… 「鉄虫!?」  二人が声に出すのと同時に、暗闇の中に赤く渦を巻いた瞳が浮かび上がった。  トリアイナは救命キットをディオネに投げると、そのままソーフィッシュのシートにつく。 「私が相手するから、ディオネはみんなを起こして!」  ディオネも余計なことは言わず、キットを受け取ってすぐ救助にかかる。今はそれが最善手だとお互いわかっている、姉妹の呼吸だった。  幸いにも鉄虫の数は少なく、ソーフィッシュ一機で楽に撃退することができた。そのあいだに他のメンバーも無事意識を取り戻し、なお幸いなことに誰も大きな怪我はしていなかった。 「とにかく、ここをすぐ離れましょう」  経緯を聞いたセイレーンが真っ先に言った。鉄虫は群れで行動する。なぜここにいるのかはわからないが、あれで全部ということはまずない。おそらく先遣隊か、偵察隊だろう。 「テティス、上へ行ける? 私たち、落ちてきたと思うんだけど」  背中の装備をごそごそやっていたテティスが首を振った。「ダメです。ローターが歪んじゃいました」 「私のラファールユニットは大丈夫みたいだけど……」  ウンディーネが装備の照明を奥の壁へ、それから天井へ向けた。泥と砂利がどこまでも積み重なり、落ちてきたはずの穴はどこにも見えない。 「これ、ただ穴に落ちたんじゃなくて、天井ごと崩れたんじゃない? 完全に埋まっちゃってるわ」 「ネリがよじ登ってみようか」 「やめておきましょう。土が脆いですし、また崩れたら困ります」セイレーンが止めて、あらためてあたりを見回した。「戻れない以上、奥へ進むしかないと思いますが……トリアイナさん?」 「もちろん、進みましょ!」トリアイナはソーフィッシュから勢いよく飛び降りて胸を叩いた。「もともとこの洞窟を探索するつもりだったんだし。これぞロマンってもんよ!」 「ええ~」テティスが顔をしかめた。「探検隊ってこんな行き当たりばったりなんですか? ついてくるんじゃなかったあ……」 「ついてきたんだから、ぶつくさ言わない」 「まあ、お姉ちゃんが行き当たりばったりなのはその通りですけど」  六人と一機は騒がしく歩き出す。  その足音がゆっくり遠ざかっていくのを、血のように赤い瞳がじっと見つめていることに気づいた者はいなかった。 2-2 グレナディーン諸島 《トリアイナとディオネ、ホライゾン隊員からなる六名の探検隊がヨーロッパ本部からカラカスに到着し、ラ・グアイラで大型ヨットを一艘借りたところまでは確認できた。カリブ海に向かうと言っていたそうだ》  龍から報告があったのは、知らせを聞いた翌日のことだった。  本当なら自分で探しに行きたいところだが、何しろあんなことがあった後ではちょっと動きにくい。またあの地獄の一日を繰り返すのはごめんだ。幸い、龍の乗っている巡洋艦が南米にいたので、頼んだところ二つ返事で承諾してくれた。 《ヨットは一週間で返却するか、もしくはレンタル延長の申し入れをすることになっていた。しかし今日まで何の連絡も入っていない》 《私はイントラネットの履歴を調査した》アルバトロスが付け加えた。運のいいことに、彼も装備のテストで同じ艦に乗っていたのだ。 《該当のバイオロイド集団はラ・グアイラ市内に一泊し、情報ネットを何度も利用している。強い関心を示した語句をピックアップすると、「海賊の秘宝」「ナチスの隠し財産」……そして「グレナディーン諸島」だ》  この二人が組んで調査してくれるなら、俺が下手に何かするよりずっと確実だ。実際こうして、あっという間に捜索の手はずを整えてくれた。 「グレナディーン諸島って?」 《カリブ海の東端にある島々だ。小さな無人島が数百も点在していて、旧時代には富裕層のリゾート地として使われていた。海賊の秘宝といった伝説も……まあ、あったようだな》龍の言葉からは、苦笑しているような気配が伝わってきた。 《実に低俗なロマンチシズムだ》対照的にアルバトロスの口調は冷淡そのものだ。《単純に、その探検とやらに熱中して連絡を怠っているだけという可能性はないのか》 「トリアイナはああ見えて、安全に関わる決まり事はきちんと守るタイプだ。ディオネもいるし、その可能性は低いと思う」 《何より、ホライゾンの隊員が一緒だ》  龍もきっぱりと言った。《彼女たちが海の規則を破ることなど絶対にない》  アルバトロスもそれ以上何も言わなかった。龍がもういちど地図を呼び出す。 《小官らはこれからグレナディーン諸島へ向かう。先ほど言ったように数百の島があるから、簡単にはいかないかもしれないが……いくつかの島には、バイオロイド共同体が生活していると報告されている。情報収集ついでにオルカへの勧誘もしてくるつもりだ》 「よろしく頼む」  通信画面を切って、俺はデスクに向き直った。二人とも頑張ってくれている。こちらでできることは何もない。雑念を振り払って、今日の仕事に集中することにた。  その翌日、早くも龍から次の連絡が入った。 《貸し出されたヨットを発見した。探検隊が上陸したのはこの島で間違いないだろう》 「見つかったのか! どこなんだ?」  さすがは龍だ。しかし喜ぶ俺と裏腹に、龍の声は沈んでいた。 《位置的にはバトヴィア島の近くだが、名前もついていない小さな島だ。中央に山があり、中腹に小さな洞窟がある》 「じゃあ、そこに入っていったんじゃないか」 《小官もそう思う。しかし……》  龍が言いよどみ、アルバトロスが後を続けた。《洞窟は100メートルほど入ったところで埋まっている。ここ数日以内に崩落があったようだ》  背筋を冷たいものが走った。  つまり、トリアイナ達は洞窟の中に閉じ込められた……? 《取り急ぎ救出隊を編制した。今、機材を下ろしてキャンプを設営している。申し訳ないが、少し長丁場になりそうだ、主》 「……ありがとう。頼む」  俺はそう言うのがやっとだった。何が申し訳ないものか。ホライゾンは龍の部下だ。しかも探検隊のセイレーン01は、オルカに一番古くからいたセイレーンだ。マーリンが来るまでは龍の副官を務め、龍が手塩にかけて育ててきたセイレーンなのだ。心配でないはずはない。 《もう一つ、些細な情報だが報告しておこう》言葉が出ないままの俺に、アルバトロスが付け加えた。《近隣住民への聞き込みによれば、この島には奇妙なニックネームがつけられている》 《アルバトロス中将、それは》龍が眉をひそめる。 《どんなことでも報告すべきだ。何が手がかりにつながるかわからない》 「何だ? ニックネーム? 教えてくれ」俺が先をうながすと、アルバトロスは続けた。 《……悪魔の鳴く島、と》 2-2B さまよえる探検隊 「ねえ、気のせいかもしれないけど」 「はい」 「この洞窟って、めちゃくちゃ広いんじゃない?」 「はい……」  歩けども歩けども、洞窟の風景に変化はない。  たまに鉄虫と出くわしては、少数なら倒し、大勢なら逃げる。闇の中で昼夜はわからないが、時計ではすでに丸一日近くが経過し、方角もわからなくなりはじめていた。 「方向はこっちであってるんですよね?」 「あってるわよ。……たぶん」 「たぶん!?」 「いやいやいや、ちゃんと調べながら進んでるからね! えーと、そうだ、風向きとか!」 「この人が探検隊長で大丈夫なんですか? 毎回こんななんですか?」 「……」 「…………」 「あれ、誰もフォローしてくれない……?」  一行の間に沈滞した空気がただよい始めた頃、突然ディオネがぱん、と一つ大きく手を叩いた。 「ご飯を食べましょう!」  皆がぽかんとした顔になる。「ご飯?」 「ずっと歩いてるし、疲れてお腹空いてるといい考えも出ないですよ。ほら、あのあたりとか平らになってるし、天井も高くて居心地よさそうじゃないですか?」  ディオネはさっさと走っていって、携帯コンロを取り出して組み立てる。 「お姉ちゃん、ソーフィッシュのシートの後ろに調理器具入ってるから出して」 「え、あ、うん」言われたとおりにシートを倒してから、ふと怪訝そうにするトリアイナ。 「あれ? ここ、金貨とか首飾りとか入ってなかった?」 「出して私の荷物入れたよ」 「えー!? 大事な私のお宝!」 「オルカにちゃんと置いてあるよ。だいたい財宝探しに行くのに財宝持ってってどうするの。どうせ、昔見つけたものを積み込んでそのまま忘れてたとかでしょ」 「うっ……」 「今あったかいスープ作りますね。パンとリゾットとヌードル、どれがいいですか?」  手早く湯を沸かし、人数分のコップを配るディオネ。小さなコンロの火と、コトコト音を立てるコッヘルを囲み、インスタントとはいえ温かい食事を口にすると、皆なんとなく落ち着いてほう、と息をついた。 「リゾットおいしー……見た感じ、軍用レーションよね。どこの?」 「マーメイデンの制式採用品だそうです。色々試して一番美味しかったので持ってきました。コーヒーいかがですか?」 「そんなに水を使って大丈夫なんですか? 節約した方がいいんじゃ……」 「ふふふふふ」ディオネは背中に提げた大きなタンクを自慢げにゆする。「さっき水場を渡った時にたっぷり汲んであります。濾過して沸かせば飲めますよ」 「頼もしい……!」全員が一斉に拍手をする。 「もうディオネさんが隊長でいいんじゃ」 「えっ」  真顔になるトリアイナと裏腹に、ディオネは苦く笑った。「ううん、私なんかじゃ務まりません。私はむしろ皆さんに謝らないといけなくて」 「謝る? 何を?」 「こないだの、地中海のあの島では、私ちょっとおかしくなってました。ダメダメでした」  ディオネは熱いコーヒーを皆のコップに注いでいく。「お姉ちゃんのことばっかり気にして、わがまま言って皆さんに迷惑をかけて。あげくの果てに司令官様まで危険な目に遭わせて……ライフセーバー失格です」 「それは……」  セイレーンが口ごもる。ディオネの過去に何があったのか、ホライゾンの面々もあのあと聞かされていた。事情を知ってしまえば、とがめることなどできない。 「だから私、汚名返上しないといけないんです。そのつもりで今回はしっかりバッチリ準備してきました」ディオネはぐっと握りこぶしを作って、背負った大きなリュックを叩いた。「何日遭難しても、絶対皆さんの安全と健康をお守りしますから!」 「いや、何日も遭難したくはないけど……」 「このコーヒー、ちょっとしょっぱいね」ネレイドが唐突に言う。 「あー、塩は濾過できないから……すみません。一応、真水を足して薄めたんですが」 「海水だったってことよね。ここって海面より下なのかしら」 「どれくらい落ちてきたかがわからないので、なんとも言えませんね」 「全員気絶してたんだし、相当の高さから落ちたんじゃないです?」 「それにしては、誰もそんなに怪我してないのが変なんですよね……」 「それなんだけどさ」ネレイドがしきりに首をひねりながら手を上げた。「落ちる前に、ビリビリって来なかった?」  全員がばっと首を回し、いっせいにネレイドの方を見た。 「……そういえば」 「私も……何か電撃みたいな……」 「そうだ、そうですよ! 思い出しました、床が変にくぼんでる所があって、みんなで調べてたらバチって! あれ電気トラップだったんじゃないですか」  落下のショックで曖昧になっていた皆の記憶が、急激に鮮明になる。思い返せば思い返すほど、間違いなくあれは自然な現象ではなかった。 「つまり、侵入者を落とす仕掛けがあった……?」 「鉄虫がそんなことするかなあ」 「もともと何らかの防衛システムを持った施設だったのかもしれません。警備AGSが鉄虫に感染したのかも……」セイレーンが皆を順繰りに見回した。 「頭を切り替える必要がありそうです。私達は偶然の事故で落ちたのではなく、罠によって落とされた。つまり、ここは敵性エリアと見なすべきです。ウンディーネさん、テティスさん、ネレイドさん」  名を呼ばれた三人の表情が引き締まる。 「トリアイナさんとディオネさんの指示は引き続き尊重します。ですが場合によっては、私達は探検隊でなくホライゾンとして行動しなくてはならなくなるかもしれません。それを胸に留めておいて下さい」  三人が小さく敬礼し、トリアイナとディオネもうなずく。セイレーンが小さく息をついて、にっこりと笑った。 「ふう。ディオネさんのおかげで人心地がつきました。お腹が空いていると思考が鈍るって本当ですね」 「ネリも装備フルで持ってくればよかったかなあ」片方だけの機関砲をぺしぺしと叩きながら、ネレイドがため息をつく。 「あんな大きなやつ背負って洞窟探検とか無理でしょ」 「でもさー」  ――キョオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ――――  突如、異様な音が洞窟の空気を切り裂いた。 「!?」  トリアイナの後ろで降着体勢のままアイドリングしていたソーフィッシュが、凄まじい激突音とともに宙に舞った。サーチライトの光が空を乱舞して、すぐに消える。 「ソーフィッシュ!?」 「お姉ちゃん!」  思わず身を乗り出したトリアイナをディオネが引き戻す。そのディオネを引き倒して、セイレーンがミニガンを構えた。  風を切る音がする。ホライゾンの副官として鍛え抜かれたセイレーンの目には、超高速で飛来した何かが体当たりでソーフィッシュを弾き飛ばしたのが見えていた。 「ネリさん、対空弾幕を! テティスさん、レーダーで敵の補足を……きゃあっ!」  ミニガンが弾き飛ばされる。とっさに飛び出したディオネが、ジェットパックガンを乱射した。高圧水流が至る所に水の壁を作り、それを貫いて飛んだ影がわずかにひるんだ気配があった。 「こんのー!」  ネレイドの機関砲が暗闇に炎の破線を描き、その中を飛び交うものの姿を一瞬だけ照らし出す。 「みんな、こっち! 私の声についてきて!」  トリアイナが高台に横穴を見つけて飛び込むと、全員があとに続く。穴に入ってしまうと、謎の敵は明らかに手を出しあぐねたようだった。  甲高い飛行音はそのあともしばらく聞こえていたが、やがて遠ざかっていった。 「助かりました、トリアイナさん」  セイレーンが深々と息を吐き、小声でささやく。 「いざという時の避難経路を確認するのは探検隊長の務めよ。でも、私のソーフィッシュが……」 「もう少し待って、回収しに行ってみましょう。それにこの道、このまま奥へ進めそうですね」 「何だったんですかあれ……鉄虫ですよね?」テティスの声はわずかに震えていた。 「でっかい翼があったから、レーダーかな」 「レーダーはあんなに速く飛べないし、小回りも利かないわよ。どっちかっていうとあれは……」 「…………」  しばしの沈黙が流れたあと、口を開いたのはトリアイナだった。 「……ロクに似てなかった?」  空気が凍り付いた。全員が同じことを考えていたのだ。  赤く光るY字形のゴーグル。ひどく鋭いシルエットの大きな翼。黒いボディと鉤爪。何より、あの目にも止まらぬ飛行速度。はっきりと姿を捉えたわけではないが、確かにその特徴はオルカにいる漆黒のAGS、ロクと気味が悪いくらい一致していた。 「……どういうことなんですかね」テティスの声は、今度ははっきりと震えていた。 「ロクさんがどこかにもう一機いた? でも、あの方はブラックリバーの特注モデルのはずだし……」 「まさか、オルカのロクさんが…… 「ごめん、自分で言っといてなんだけどこの話おしまい!」今度はトリアイナが手を叩いて、皆が静かになった。 「憶測しても仕方ないわ。あいつはなんかヤバいってことだけわかってれば十分。んじゃ、ソーフィッシュ取りにいってくるね」 「お姉ちゃん、私も行くわ」  二人が出ていったあと、ホライゾンの隊員達は黙って目を見交わす。トリアイナが強いて明るい声を出していたのは誰もがわかっていたし、問題を後回しにしただけであることもわかっていた。  それでも誰もそれを指摘することはせず、二人が無事ソーフィッシュを回収して戻ってくると、一行はそれきり口をつぐんで歩き始めた。 2-3 遺産ふたたび 《RF87ロク、偵察任務より帰還いたしました》  ロクからの通信が入ってきたのは、ちょうど最後の書類を片付けてアルファにパネルを渡そうとした時だった。 「ご苦労さま。どうだった、アフリカの方は?」 《前回とおおむね変化ありません。沿岸地帯に鉄虫が不規則に出没しており、総数は計測不能です。少なくともモロッコ北岸をあるていど制圧しないかぎり、オルカ号を安全に地中海へ入れることは難しいでしょう。詳細は別途、レポートにまとめて提出させていただきます》 「やっぱりか……」  探検隊を探している間にも、オルカは日々動き続けている。心配してばかりいるわけにはいかないのだ。無理にでも気持ちを切り替えて、食堂のメニューと地中海南岸の地図を交互に見たりしていると、まだ通信を切っていなかったロクがふいに言った。 《ところで閣下。指揮官用ネットワークで目にしたのですが、トリアイナ嬢率いる探検隊が行方不明になったそうですね》 「ああ。今龍とアルバトロスに探してもらってる」  そういえば、ロクと出会ったきっかけもトリアイナの探検隊だったと俺は思い出した。あの時のロクは今とだいぶ様子が違っていたし、彼も何か思い入れがあるのかもしれない。 《しかも、その場所がカリブ海のグレナディーン諸島だとか》 「そうだ。知ってるのか?」 《直接訪れたことはありません。ですが、何と言いますか……噂を聞いたことがあるのです》  ロクにしては珍しく、歯切れの悪い物言いだった。俺はパネルを置いて、ロクの通信画面に向き直った。 「噂って、どんな?」 《旧時代の単なる伝聞であり、私自身が確認したわけではありませんが》ロクは念を押すように前置きしてから言った。 《グレナディーン諸島には、アンヘル公の墓所の予備があるかもしれません》 「な……!?」  俺は身を乗り出した。隣にいるアルファも顔色を変える。 「どういうことだ。どこで聞いた!?」 《旧時代、私がアンヘル公に仕えていた当時のことです。私は常に公のお側におりましたので、仕事上の話や、時には私的な会話も耳にする機会がありました。あの方は私のようなAGSに……なんと申しますか、「人格」を認めていませんでしたので、どのような会話でも平気で私に聞かせたのです》  アルファの方を見ると、彼女も小さくうなずく。アンヘルならあり得る、という意味だ。 《公の墓所の建造に関する話もたびたび出ました。申すまでもなく墓所はフィリピン近海に建造されましたので、それらの地名はしばしば耳にしましたが、他に「グレナディーン諸島」という地名も確かに何度か口にされました。時に、「第二」という言葉とセットで》  第二……か。 「俺はアンヘル・リオボロスの人柄をよくは知らない」俺は慎重に言葉を選んで言った。「ロクからみて、彼が自分の墓の予備を作るってことはありうると思うか?」 《十分にありえます》ロクは即座に答えた。 《公は何事にも完璧を期し、執拗なほどに入念な方でした。そしてまた、敵の多い方でもありました。全財産と自分自身の死後の安寧を託す場所を設けるにあたり、予備ないしダミーを用意しない方がむしろ不自然といってもいいほどです》  俺はもう一度、アルファと顔を見合わせた。ロクがこうまで言うからには、リオボロスの墓所の予備は実際にあるに違いない。そして、それがグレナディーン諸島にある可能性も決して低くない。  だが龍の話では、グレナディーン諸島には数百もの島があるという。トリアイナ達の行方不明とリオボロスの墓所が関係しているかどうかは、まだわからないはずだ。そう考えようとする俺に、ロクはさらに続けた。 《繰り返しますがこれらはあくまで伝聞と推測に過ぎず、信頼性は高くありません。しかし、気がかりなことがもう一つあります》  まだあるってのか……。俺は黙って先を促した。 《製造記録から確かなのですが、私と私の兄弟には予備機が一セット存在します。どこに配備されたのか、あるいは配備されず廃棄されたのかは不明でしたが、もしも墓所の予備があるなら……》  ……ロクの予備機がそこにいる可能性は、決して低くない。俺はアルバトロスの言っていた、あの島のあだ名を思い出した。  「悪魔の鳴く島」。  時折、その島の方から、鳥のような獣のような奇怪な声が聞こえる夜がある。朝になると決まって、農具や、車や、時にはAGSなど、機械類が村から消えるのだという。 「アルファ」 「はい」 「今すぐ南米へ向かう。集まれる幹部だけを緊急招集。オルカ出航の準備を」  もしロクの推測が当たっていれば、トリアイナ達はとんでもない危険に直面していることになる。今すぐ助けに行かなくてはならない。そのためなら、あの地獄の一日を百回繰り返したってかまいはしない。 「かしこまりました。会議は十五分後に。オルカの出港準備は一時間以内に整えます」アルファはそれだけ言って一礼し、すぐに出ていった。俺はもう一度通信画面に向き直る。 「ロク、帰ってきたばかりで悪いけど、カリブ海まで飛べるか?」 《無論です。僭越ながら、私一機ならオルカ号よりはるかに早く着くでしょう》 「それじゃ、必要な補給をしてすぐ先行してくれ。龍達の位置情報を送っておく。合流して今の話を伝えるんだ」 《かしこまりました。では》  通信画面が消えた。俺はひとつ深呼吸をし、頬をぴしゃりと叩くと、大股に会議室へと向かった。 2-3B 墓所 ○月×日  この洞窟をさまよい始めて何日になるだろうか。もう時間の感覚も失われつつある。いつかこれを読む者のために、私にわかるかぎりのことを書き残しておこう。  あの怪鳥はいったい何者なのか? わかっているのは途轍もない速さで飛ぶこと、鉤爪を持ち全身からつねに放電していること。そして、鉄虫の仲間であること。あれが来る前か後に、必ず鉄虫が現れる。我々はあの怪鳥を「ブラックバード」と名付けた。  ブラックバードと鉄虫から逃げているうち、もう自分たちがどこにいるのかさえわからなくなってしまった。この洞窟はどうやら想像以上に複雑に広がっているようだ。もう島の反対側、もしかすれば海底にまで来ているのではないだろうか。  あと今日の朝ごはんはオニオン 「何やってんの、お姉ちゃん」  頭を引っぱたかれて、トリアイナは不満げに手帳から顔を上げた。 「いや、もしも私たちが遭難した時、次の探検隊に手がかりを遺したいじゃない?」 「縁起でもないこと言わないの! 扉開けるの手伝ってよ」 「あ、掘り出せたんだ?」  それは数日もの間この洞窟をさまよって、初めて目にする人工物だった。周囲の岩から溶出した石灰分と泥に覆われて、ほとんど岩と同じようになっていたのをトリアイナが目ざとく発見したのだ。 「ん。しょ……っと」  露出した取っ手をソーフィッシュのマニピュレーターで力任せに引っぱると、ギリギリと軋みながら扉が開いていく。その向こうから、空調の効いた空気が流れ込んできた。 「うわ……!」  広い通路だった。黒曜石のようになめらかに輝く、黒い金属の床と壁。内側からほのかに光を放つ赤黒い柱が、左右どちらにもまっすぐに連なっている。トリアイナ達がくぐったのは柱の陰の壁に、目立たないように設けられた通用口のようなドアだった。 「文明の香り! もうあんな岩と泥だらけのところを歩き回らなくていいんだあ……!」テティスが真っ先に飛び込んで、壁に頬ずりをした。 「気を抜かないで下さい、テティスさん。ここも敵地かもしれないんですよ」セイレーンがたしなめる。 「でもこんなにちゃんとした施設なら、地上への出入口もあるはずです。それを探せばいいんですよ!」ディオネが力強く言って、皆は頷くと歩き出した。  通路は時折ゆるやかにカーブしながら、いつ終わるともなく続いていた。空気は冷たく乾いている。何かがひくく唸っているような規則的な音が遠くでずっと聞こえているが、それがかえって痛いような静けさの印象を強めていた。 「誰もいないのかしら……」ウンディーネがぽつりと言った。 「ウンディーネ、怖いんですかあ?」ちょっと元気の戻ってきたテティスがすかさずからかう。 「こ、怖くなんかないわよ! ただこんなにきれいに管理されてるのに、バイオロイドもAGSもいないのって変じゃない? そう、不自然なのよ不自然!」 「確かに、ちょっとおかしな感じですね」ディオネも同意した。「誰が何のために作った場所なんでしょう。……なんだか、お墓みたい」 「あ!」  ネレイドが突然立ち止まって大声を上げた。 「思い出した! ネリネリ、ここ知ってる! リオボロスの金庫だよ!」  トリアイナも目を丸くして、大きく手を叩く。「そうだ、それだ! この壁とか柱の感じ!」 「金庫って、お姉ちゃんが前に探検したっていうあれ?」 「あれってフィリピンの方にあったんでしょ? ほんとですかあ?」テティスが胡乱げに言う。この探検隊の中で、ディオネとテティスだけがあの島を知らない。 「あれは爆発して吹っ飛んだじゃないの。なんでここにあるのよ?」 「兄弟がいたとか?」ネレイドが首をかしげる。 「アンヘル・リオボロスって兄弟なんかいたっけ」 「お姉さんがいたでしょ、ほらエンプレシスハウンドの」 「あの人のお墓はスヴァールバルにあるじゃん」 「そんなことより、ここが本当にリオボロスの金庫なら、もしかして……」  ――キョオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ――――  もう聞き慣れてしまった奇怪な鳴き声に、一行はピタリと立ち止まった。  ゆっくり背後を振り返る。通路の向こうから足音が近づいてくる。無数の足音が。 「みんな、ソーフィッシュにつかまって!」  全員が返事もせずソーフィッシュの機体にしがみつく。トリアイナがタービンを全開にすると、丸っこい機体が轟音と共に滑走をはじめた。  それと同時に、背後の足音も速度を増した。セイレーンが振り返ると、ちょうど通路の向こうの曲がり角からおびただしい鉄虫がぞろぞろと出てくるところだった。 「来ました! 鉄虫です!」 「やばいやばいやばい!」  通路は広くまっすぐで、敵弾を遮るものはない。さらに鉄虫の群れの一番後ろから、悠然と姿を現したものを見てセイレーンは息を呑んだ。 「ブラックバードもいます!」 「マジ!?」  操縦に専念しているトリアイナ以外の全員が後ろを振り返った。  細身だが頭を天井にこするほどの長身。漆黒のボディと、ブレード状の推進ユニットを何枚も連ねた翼。血のように赤く光るY字形のゴーグル。  明るい照明のもとで見ると、それは確かにロクだった。そして、全身を走る赤く脈打つラインと、頭部を覆う灰白色の結晶装甲が、彼が完全に鉄虫化していることを示していた。  二本の脚で歩いているのはせめてもの幸いだ。通路が広いとはいえ、ブラックバードが飛べるほどの広さはない。しかしそのかわり、ブラックバードは通路いっぱいに翼を広げ、青白く光る雷の球を生み出す。 「やばいやばいやばいやばい!」  それが放たれる直前、ソーフィッシュは脇道に飛び込んだ。背中にぶら下がったネレイドの靴の先を高熱の塊が通り過ぎ、ぱちぱちと静電気が弾ける。 「ひえええええ!」 「トリアイナさん、金庫の地図って覚えてます!?」 「そんなの覚えてないわよ!」割れたキャノピーの隙間から吹き込む風に顔をしかめつつトリアイナが怒鳴り返す。「あ、でも一つ……」  言い終える前に、ソーフィッシュの足が何かを踏んだ。警告音も何もなく、高圧電流が床を走り強化ラバー製のソールを貫通してソーフィッシュの片足を焼いた。 「あの金庫って、やばいトラップがいっぱいだったよね!」 「それ今思いだしても役に立たないですーっ!!」  咄嗟に飛行ユニットを起動したウンディーネが肩を支え、片足でなんとかバランスをとりながらソーフィッシュは全速力で逃げる。キャノピーにぶら下がった強化アクリルの破片をむしりとって捨てると、床のトラップで一瞬のうちに灰になり、数秒後に鉄虫に踏み砕かれて、あとには何も残っていなかった。 2-4 洞窟救助 「もう少し、もう少し上げて……そう、そこでストップ。ゆっくり前へ……あっ、あーっ! ダメダメダメ下がって下がって!」  崩れた土砂が流れ込み、仮設足場が傾く。土埃をはらいのけながら無敵の龍は大股に、テントの横で頭を抱えるグレムリンに歩み寄った。 「難しいか」 「申し訳ありません……」グレムリンは髪をぐしゃぐしゃ掻き回してうなだれる。「まだいくつか試せることが残ってはいますけど……ちょっとこれは、素人工事じゃどうにもならないかもしれません」  救助作戦は難航していた。  今回龍が海上作戦訓練のため座乗していたミサイル巡洋艦には工兵隊は配備されていない。機関室と工作室のグレムリンを中心に臨時の救出隊を組んではみたが、むろん彼女たちも洞窟救助など未経験である。 「明日の昼には工兵隊が手配できそうだ。第7工兵大隊を乗せた輸送船がここへ寄ってくれる」 「本当ですか、助かります」 「任務を終えてヨーロッパへ帰る途中だったそうだから、恨まれるかもしれんがな」 「うっ……」 「龍中将、地下の超音波走査が一段落した」  二人の上に影が差したと思うと、アルバトロスが音もなく降下してきた。 「状況はよくない。この島の地下には、細く複雑な海底洞窟がきわめて大規模に広がっているようだ。全域走査はまだ完了していないが、隣の島まで達している可能性がある」  携帯端末に送信された簡易マップを一目見て龍も眉をひそめる。「スポンジマットだな、まるで」 「的確な比喩だ。探索が困難であるのみならず、強い衝撃を与えれば広範囲が一度に崩落する懸念もある」 「ここは?」  網目のように細かくびっしりと広がる洞窟の一画に、真っ白な矩形があるのを龍は指さした。 「それがもう一つの懸念だ。洞窟系の最下層に、明らかに人工と見られる構造がある。磁場計測と微小重力計測も試みたが内部の状態がわからない」 「わからない?」 「シールドが張られている。まだ解析中だが、電磁波パターンからおそらくブラックリバー系の技術だ」 「つまり、この地下にブラックリバーの秘密施設があると?」龍は眉を上げた。「それはだいぶ話が変わってくるぞ」 「同感だ。ゆえに方針の変更を提案する。多少のリスクは……」  緊急コールの音が、アルバトロスの言葉を遮った。 《第二分隊です! 鉄虫と遭遇、交戦中!》 「すぐに向かう! 防御しつつ後退せよ!」 「中将、乗れ」  龍が飛びつくと、アルバトロスは戦場へと空高く舞い上がった。  第二分隊が遭遇した鉄虫は十匹足らずの小集団にすぎず、龍とアルバトロスの二人がいればあっという間に片付いた。 「ウンディーネ252大尉!」  乱れた髪を整えながら、龍は上陸部隊の護衛責任者を呼びつける。「制圧は済んだと報告を受けていたな」 「もっ、申し訳ありません!」すっ飛んできたウンディーネは泣きそうな顔をして、それでもきゅっと唇をむすんだ。「でも、本当です! 島中の鉄虫は残らず掃除したはずなんです!」  真剣な顔つきに、言いわけや保身の影はない。龍はポケットに櫛をしまった。「確かか?」 「はい。小さな島ですから、海岸も内陸も私が自分でくまなく偵察しました。鉄虫の居場所は全部チェックして、地上部隊と一緒に掃討しました。発見数と撃破数は一致してます。この島に鉄虫はもう一匹もいないはずでした」 「私も簡易的にだが、上陸前に広域スキャンを行った。戦闘部隊による事前掃討の後、この島に鉄虫はいなかったはずだ」アルバトロスが言い添える。  龍の目が水平線に向けられた。隣の島まではほんの数キロ。ホライゾン隊員なら楽に泳いで渡れる距離だが、この程度のせまい海でも鉄虫は決して足を踏み入れない。飛行型ならともかく、さっき現れた鉄虫はチックタイプだったのだ。 「大尉、いないはずの鉄虫が現れるとしたら、どこからだと思う?」 「えっ? えーと……」 「アルバトロス中将、地下洞窟は細かく複雑だと言ったな。超音波走査に引っかからない程度のごく小さい……鉄虫がぎりぎり通れる程度の穴が、この島の別の場所に開口している可能性はあるか?」  一瞬の演算のあと、アルバトロスは答えた。「あるな」 「あ、じゃあ……」ウンディーネの顔がぱっと明るくなる。「そこから地下に入れるかもしれませんよね」 「かもしれんが、状況はそれほど良くはない」反対に、龍の表情は険しかった。 「つまり、地下には鉄虫がいるということだ。来てくれ、中将。救出計画を見直す」 2-4B 決戦 「! ここは……?」  どれくらい逃げただろう。一行は突然、広い部屋に突き当たった。  正面の壁際に天上まで届く巨大なパネルが立ち、青く輝く大きな球体ディスプレイが埋め込まれている。左右の壁には見るからに頑丈そうな隔壁めいた扉がいくつも並んでいる。それまで見かけた部屋とは明らかに違う、重要な場所であることは一目でわかった。  こじ開けて入った扉を、ウンディーネとネレイドが両側から力任せに閉める。 「これで、少しは時間が稼げるといいけど……」 「あの球、見覚えある」トリアイナがソーフィッシュから身を乗り出した。 「金庫の管理システムのコアだよ、確か」 「コア!?」テティスが必死に息を整えながら顔を上げた。「それって、金庫の一番奥に来ちゃったってことですか!?」 「ど、どうしようどうしよう」ディオネも周囲を見回す。「どの扉をこじ開けます?」 「いえ。ここでブラックバードを迎え撃ちましょう」セイレーンが決然と言った。  皆の視線がセイレーンに集まる。手に握りしめていた水兵帽をかぶり直して、セイレーンは皆を順番に見た。 「いつまでも逃げ続けるわけにもいきません。以前ロクさんから聞いた話ですが、金庫の番人はこのコアを壊すことはできないそうです。ブラックバードも同じなら、この部屋で戦えば勝ち目があるかもしれません」  一瞬の沈黙が流れた。ウンディーネがちらりと、トリアイナとディオネの方を見る。 「……どうする? 私達はセイレーンが上官だから、もちろん従うけど……」 「やりましょう」ディオネが頷いた。トリアイナが心配げな顔をする。 「いいの?」 「セイレーンさんの言ったとおり、いつまでも逃げることはできません。私も戦わせて下さい」  ずっと背負っていたリュックを下ろし、ジェットパックガンを取り出してタンクに繋ぐディオネ。 「好きじゃないとは言いましたけど、経験はあるんですよ。なんたって滅亡戦争を生き抜いたんですから、私!」 「そうですね。頼りにさせて下さい」  明らかに強いて作っているとわかる笑顔だったが、それでもセイレーンは頷くほかなかった。  こちらの人数は六人。みな疲労はあるものの大きな怪我はしていない。しかし、装備の方は惨憺たるものだ。フル装備を身につけているのはテティスとウンディーネのみ。しかもテティスの飛行ユニットは破損している。ネレイドの機関砲は片方だけ、それも弾切れ寸前。セイレーンに至っては副兵装のミニガンを一門携帯しているだけだ。あとはディオネの放水銃と、片足が駄目になったソーフィッシュ一機。  これだけの兵力で、ブラックバードに勝てるだろうか。パワーと凶暴性を増したロクにほかならない、あの鉄虫に? 「司令官がいればなあ……」ネレイドがぽつりと呟いた。 「やめて下さい! 司令官様がこんな危険なところにいていいわけないでしょう」語気が必要以上に強くなってしまったのは、同じことを思っていたからだ。 「来ますよ!」扉に耳を押しつけていたテティスがするどく叫ぶと、皆は顔を見交わし持ち場につく。  その直後、扉が轟音と共に大きくへしゃげ、そして外側から強引にこじ開けられた。  セイレーンの読み通り、この広間に入ってきたブラックバードは明らかに動きが鈍った。  小火器しか持たないセイレーンとテティス、トリアイナはもっぱら牽制と、入ってくる小型鉄虫の制圧。ディオネがジェットパックガンで水をまき散らして雷球を妨げ、鉤爪による攻撃はウンディーネがいなし、なんとか隙を作ってネレイドの機関砲を食らわせる。 (……と、いう戦法ではたぶん押し負ける……!)  一撃入れるまでのこちらの消耗が大きすぎる。ブラックバードもそれを察しているのか、決して攻めを焦らずこちらを削りに来ている。余裕のある時は余裕を見せる……そんな所は確かにロクそっくりだ。  そして、そこがセイレーン達の狙い目だった。  ネレイドの機関砲が外れた。弾幕の途切れた隙を見逃さず、ブラックバードが一瞬でネレイドの目の前に迫る。 「今です!」  セイレーンの合図で、擱座したように見せかけておいたソーフィッシュの両肩のサイクロンタービンが遠隔操作でフル回転し、極低温の竜巻を発生させる。ネレイドを仕留めるため広げられたブラックバードの翼に、それは過たず命中した。  耳障りな機械音とともに、ブラックバードの動きがぎごちなく止まる。過充電状態となったロクは、急激に体を冷やされると高確率で中枢回路にエラーを起こす。かつてロク本人から……彼の兄弟を仕留めるために……聞いた弱点だ。どうやら、鉄虫になっても克服はされていなかったらしい。 「トリアイナさん!」 「さらば、ソーフィッシュ! いけーっ!」  両肩からブリザードを噴き出しつつソーフィッシュが突進する。そのコクピットにはパイロットの代わりに、ウンディーネのFFミサイルと、テティスのスワローミサイルが積み込まれている。 「退避!」  コアを埋め込んだパネルの裏に六人が逃げ込むのと、ブラックバードに組み付いたソーフィッシュが大爆発を起こすのが同時だった。 「…………!!」  広いとはいえ密閉された部屋の中を高熱と爆風が荒れ狂い、パネルの裏にも達した。耐熱強化された軍用皮膚のホライゾン隊員が、トリアイナとディオネを内に囲んで熱から守る。  爆風が収まった時には、四人とも背中が真っ赤に焼けただれていた。 「あちち……」 「やったのかな……うわっ!?」  広い部屋の壁という壁がめちゃくちゃに歪み、へこみ、床には至る所に鉄虫の残骸が散乱している。その中央に、翼が片方もげて全身にソーフィッシュの破片が食い込んだブラックバードが、なおも立ち上がろうともがいていた。  しかし駆動系のどこかが壊れたのだろう、その動きは鈍い。セイレーンはネレイドから機関砲を借りると狙いをつけ、正確に頭部を打ち抜いた。 「や、やったんですか……?」 「やった……! やったよ!」  連結体クラスの大型、それもあのロクを素体にした鉄虫を倒したのだ。間違いなく大金星である。  ディオネがへたへたと崩れ落ちる。ネレイドとウンディーネ、テティスが手を打ち合わせる。セイレーンとトリアイナが目を見交わして、大きな息をついた。  そして同時に、部屋が鳴動しはじめた。  爆発の余波ではない。どこか、それほど遠くないところで、何かが起動した音だ。低いサイレンのような唸りがそれに混じる。 「何、これ?」 「警報?」  たった今逃げ込んでいたコアパネルの裏もまた、ひときわ頑丈な扉になっていたことに皆はそのとき気づいた。コア……驚くべきことに、爆風をまともに浴びてもそれは無事であり、変わらず青く明滅していた……の光が強まると同時に、ロックが外れた音がし、扉がゆっくりと開き始める。 「……ねえ、みんな。こんな時に悪いんだけど、すっごく不吉なこと思い出しちゃった」トリアイナの声は少しだけ震えていた。 「じゃあ言わないで下さいよ!」 「いえ。私も思い出しました」  セイレーンの顔は青ざめていた。「ロクさんは本来、双子のAGSだったんです。片方が外で行動しているあいだ、もう片方はコアを守る、そういう警備体制なのだと、以前聞きました」 「片方が……」 「コアを守る」  ネレイドとウンディーネが阿呆のように言葉を繰り返すと、それが合図だったように、血のように赤いY字形の光がともった。扉の奥の暗闇で。  雷光のはじける音がした。 「撤退!!」  というセイレーンの叫びを待つまでもなく、全員が一目散に部屋から飛び出した。 2-5 マスコットガール 「第7工兵中隊のランバージェーン866技術大尉です。埋まった洞窟を掘り抜く任務とうかがいましたが……」 「よく来てくれた。実は少々事情が変わってな。中将、よろしいか?」 「ああ。まずは直接見てもらうのがいいだろう。私に乗るがいい」 「あ、アルバトロス中将に!?」ランバージェーンが目を丸くした。「いいんですか」 「時間が惜しい。早くせよ」  遠慮しいしい黒いフロートユニットに足を乗せたランバージェーンと数名の工兵隊、それに無敵の龍とともにアルバトロスは舞い上がり、しばらく飛んでから島のほぼ反対側に降下した。  そこはせまい磯で、目の前からすぐに岩が立ち上がって崖になっている。崖の中腹に大きな亀裂があり、奥は深い闇となっていた。 「あの亀裂が、地下洞窟につながっている可能性が高い。プローブを何機か入れてみたが中とは通信できなかった。鉄虫による電波妨害と考えられる」 「つまり、穴を掘るよりここから潜るのが早いと」ランバージェーンがプロの目になって、すばやく周囲の地形を観察する。「とりあえず足場を組んで、電気を通して……入り口を掘り広げる? 脆い地盤といってもそれくらいは……」 「そんなことしてたら間に合わないかもしれないよ」  ランバージェーンの足の間から、一緒についてきた工兵隊の一人……ダッチガールがトコトコと進み出た。 「私が入ってみるよ。私の体格なら入れるでしょ」 「中には鉄虫がいる可能性が高いぞ」さっさとヘルメットをかぶり、ライフベルトを巻きはじめたダッチガールに龍が思わず口を出す。 「さっき聞いた。中にいる探検隊の人達はもっと危ないんでしょ」 「そうだが……」  ダッチガールはオーバーオールの肩紐をぐいと持ち上げて、そこに留められた「A」のバッジが龍に見えるようにした。オリジンダスト置換により、Aランク相当の昇級処置を受けた印だ。 「ちょっとは頑丈だから、私」  ランバージェーンがロープの端を持った。「大丈夫、できる子よ。やらせましょう」 「む……わかった」  工兵隊の長が言うなら、龍に反対する道理はない。顎ひもを調整しながら、ダッチガールがふと海の方を見た。 「私、探検隊のマスコットガールだったんだ。あの、リオボロスの島で」 「マスコットガール?」 「トリアイナさんに頼まれたの。探検隊にはそういうのがいるものなんだって。洞窟の入り口のところで、イベント用のドレスを着て手を振ってただけだから、誰も覚えてやしないだろうけど」 「……ははあ」龍は顎を撫でた。「すると君が、ダッチガール2501か」 「知ってるの?」ダッチガールが目を丸くする。 「以前ネレイド曹長から聞いた。探検の行き帰りに手を振ってくれるのがとても可愛らしく、力づけられたとな」  龍は微笑んで、大きなヘルメットに手をあてた。 「そういうことなら、任せよう。探検隊の仲間を、私の部下達を、どうか助け出してほしい」 「……ん」  ヘルメットの縁で目を隠して、ダッチガールは小声で答えた。そして愛用のドリルを背中にかつぐと身軽に岩場を登り、あっという間に亀裂の中へ姿を消した。  狭くて暗い岩の隙間を、さぐりさぐり進む。  ある所ではゆるやかな坂、ある所では急角度の階段のようになりながら、亀裂は全体としてずんずん下へ向かっていた。ロープに預ける体重は半分。足場の確保を忘れずに。ロープがこすれて切れないよう、鋭い岩は避ける。かつて鉱山で何度となくやらされた作業が、こんな形で役立つとは思わなかった。  小さな身体とみじかい手足は、こういうことには抜群に役立つ。暗いのも、狭いのも、一人なのも、ダッチガールは平気だ。 (すごいねえ。私は暗いのとか一人なのとか苦手だからさ、尊敬しちゃうよ)  トリアイナの言葉が、ふいに蘇ってきた。マスコットガールにスカウトされた時のことだ。  鉄虫が来る前、ダッチガール2501の人生には苦しさとひもじさと痛さしかなく、幸福とはそれらが無い状態のことだった。鉄虫が来た後も、苦痛の原因が人間から鉄虫に変わっただけで、人生に大して変化はなかった。オルカに拾われてからは苦しいこともひもじいことも痛いこともなくなり、自分を幸福だと考えるようになったが、特にそれ以外の感情はわかなかった。  トリアイナの頼みを引き受けたことにも大した理由はなかった。というより、単に断る理由が思いつかなかったのだ。 (いよー、ダッチちゃん。今日もがんばってくるぜ) (ダッチ、焼きソーセージ食べる?) (ダッチちゃんほら見て見て、こんなに大きな宝石!)  手を振り返してもらうたび、笑いかけられるたび、頭をなでられるたびに、胸の奥に小さなあぶくのようにぽくぽく浮かんでくるものが何なのか、だからあの時の2501にはわからなかった。理解できたのはもう少し後になってからだ。あの時自分は初めて、単に苦痛がないだけとは違う幸福のあり方を知ったのだと。  人生とは楽しめるものだ、という可能性が、2501の前に初めて開けたのはあの時だったのだ。  ブーツのかかとが岩を噛む音が、遠くから何重にもなって返ってくる。すぐ近くに大きな空間があるのだ。ダッチガールは足を速め……そして、ぴたりと止まった。  自分以外の足音が聞こえる。 (探検隊かな? いや、違う……)  声に出さずに考える。この、小刻みに何度も足踏みを繰り返すような足音はフォールン……そして、それに鉄虫が寄生したチックタイプのものだ。  足音を立てないよう慎重に、数歩だけ前へ進む。下り坂はそこで途切れ、もっと広い空洞の天井付近に開いた穴になっていた。爪先のすぐ下を、真紅の渦巻き状の光が通りすぎた。 (ナイトチック……!)  冷たい唾を飲み込む。手が無意識にロープを握りしめた。このロープを二度引けば、上に非常事態が伝わって引き上げてもらえる。  しかし、その時ダッチガールの耳がもう一つの音をとらえた。 「…………。…………………」 「……! ……………」  人の声。  何重にも反響して、何を言っているのかはまるで聞き取れない。だがあれは間違いなく、トリアイナとネレイドの声だ。  そして、声は少しずつ遠ざかりつつある。地上に戻ってから引き返してきたら、もういなくなっているかもしれない。  もう一度足元を見た。ナイトチックは一匹だけだ。地上に通じるこの穴を見張っているのだろうか。どこかに仲間がいるのだろうか? (……考えてる暇はないよね)  ダッチガールはお守りとして一本だけポケットに入れていたタバコを取り出して噛みしめた。それからドリルを起動し、鉄虫の頭めがけて飛び降りた。 「たあああーーーっ!!」  どうやって戦ったのか、よく覚えていない。ただ飛び降りた最初の一撃が鉄虫のコアを直撃したのは確かだ。敵の動きは明らかに鈍く、そのおかげで恐怖に震えながらも相手の動きを見てダイナマイトワームを繰り出し、破壊することができた。  震えがどうにか収まるとダッチガールはすぐにヘルメットのライトをつけ、小さな体で出せるめいっぱいの大声で怒鳴った。 「トリアイナ! みんな! 助けに来たよ! こっちだよーっ!!」  一瞬の静寂。  そして、いっせいにわき起こる鉄虫の足音。当然だ、あれだけの戦闘音を立てた上に大声でわめいたりすれば気がつくに決まってる。すくむ手足を踏ん張って、ダッチガールは二度、三度と叫び、そして待った。 「……! ……………!!」 「…………ガール? ダッチガール!?」  やがて、待ち望んでいた声が近づいてきた。 「こっち! こっちだよ! ここから地上につながってるよ!」  ダッチガールはライトを最大光量にし、ぴょんぴょん飛び跳ねた。揺れる光の輪の中に、トリアイナ達が岩棚を這い上がってくるのが見える。二人、三人……よかった、全員いるようだ。しかしダッチガールの笑顔はそこで凍り付いた。  走ってくるトリアイナ達の、そのまた背後から、とんでもない数の赤く輝く瞳が迫っていたからだ。 2-6 シムルグ  最初にテティスが、すぽんとシャンパンの栓を抜くように亀裂から飛び出してきた。 「テティス中尉!」  龍が駆け寄る。「無事か! ほかの者は!?」 「全員無事です……続いて来ます……!」龍の腕に抱き留められたテティスが声を張り上げる。「そのあとから鉄虫がいっぱい……ヤバいのが来ます……!」  それだけ言うと、くったりとテティスの体から力が抜けた。その華奢な体をランバージェーンに渡したのとほとんど同時に、ウンディーネが亀裂からよろめき出てくる。続いてネレイド、セイレーン、トリアイナ。最後にディオネがダッチガールに支えられて姿を現したところで龍はサーベルを抜いた。 「工兵隊は下がれ。海兵前へ!」  数秒後、亀裂から這い出てきた最初の鉄虫は、龍が呼び寄せておいた戦闘部隊の集中砲火を受けて一瞬で破片に変わった。次も、その次の鉄虫も同様だった。 「出口が狭いのが、こうなると幸いだな」  一度に出てこられるのは一匹か、せいぜい二匹。総数がどれだけいるかわからないが、この調子なら順に仕留めていけば何の苦労もない。 「そう甘くはあるまい」  アルバトロスの不吉な言葉通り、やがて鉄虫の出現がぴたりと止まった。周囲の岩がびりびりと震え始める。 「地下に……地下にとんでもないのがいるのよ……」  毛布にくるまれたトリアイナが、ふらふらと立ち上がる。「リオボロスの金庫がもう一つあって……ロクも……!」 「ロクだと?」  龍が思わず振り返ったのと、崖そのものが内側から吹き飛ばされたのはほぼ同時だった。 「な……!!」  爆散する岩と土にで部隊がわずかに後退する。土煙の中、まがまがしい赤い雷光を全身から発する異形のAGSが、竜巻とともに空へ舞い上がるのが見えた。血のように赤く輝くカメラアイが無敵の龍にぴたりと据えられたと思うと、それは一瞬の躊躇もなく凄まじい速度で突っ込んできた。 「!!」  咄嗟に飛びすさろうとした龍のすぐ目の前で、しかし背後から飛来したもう一本の雷光が、赤い雷光を弾き飛ばした。  衝撃波と岩の破片が、再度周囲をなぎ払う。ようやく視界が晴れた時、そこには赤い雷光をまとったAGSと、そしてもう一機……黄金の雷光をまとったAGSがいた。 「やれやれ、ずいぶん急いできたつもりですが、ギリギリの到着になってしまいました」 「ロク……!? 貴殿はオルカのロク殿だな?」 「いかにも私です」ロクは慇懃に頭を下げた。 「そして、あれは私の予備機……いや正確には、私の兄弟の予備機ですな」  赤い雷光……過充電によって赤熱したもう一機の怪鳥が、龍とロクの目の前でゆっくりと立ち上がった。 「RE87左番機(レフト・ナンバー)『シムルグ』。……よもや、このような形で再会が叶うとは」  不意打ちを受けたにもかかわらず、シムルグはさしたるダメージを受けた様子もない。そしてシムルグの背後、吹き飛んだ崖の穴からは、おびただしい数の鉄虫が這い出してきつつあった。  龍がすばやく号令をかけて陣形を立て直す。アルバトロスもそれに合わせて、エネルギーフィールドを展開した。 「RF87ロク、この島のことを知っているのか?」 「憶測のみでしたが、たった今確信したところです。この島の地下にはアンヘル・リオボロス公の墓所の予備がある。そして私と兄弟の予備機がここに配備されている。残念ながらそのすべてが、すでに鉄虫の寄生を受けていたようですが」ロクが皮肉めかして赤いゴーグルを瞬かせる。「そのあたりの情報と私の到着予定は、25分も前にあなたに送信したのですがね、アルバトロス中将殿」 「すまんな、その時にはもう戦闘状態に入っていたので共有しそこねた」アルバトロスが小さく首を振った。「空は任せていいのだろうな?」 「愚問です。我が兄弟の相手を余人に任せる気はない!」  ロクが大きく翼を広げ、身をかがめた。シムルグも同じ体勢をとる。二機の怪鳥は同時に、弾丸のように大空へ舞い上がった。  クアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア――――  キョオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ――――  怪鳥の叫びが二筋、空に谺する。RF87モデルが出力を最大にした際、超高電圧を帯びたデトネイターユニットが発する共鳴音だ。 (迅い……!)  ロクは音声に出さずに内部回路だけでコメントを走らせた。音速で交錯するたび、お互いのボディのどこかがわずかずつ削れていく。  二機一組で設計されたRF87モデルの右番機と左番機に性能の差はない。唯一、後頭部に伸びるクレスト型アンテナがロクは一本、シムルグは二本という外見上の違いがあるだけだ。  シムルグの外観は、ロクの記憶にあるデータから変わっていない。墓所のシムルグもそうだったが、鉄虫の侵食はまず内部機構から始まるのだ。しかし出力も速度もカタログデータよりはるかに上がっており、それはすなわち内部の鉄虫化がそれだけ進んでいるということを意味していた。 「だが私とて、あの頃の私ではないぞ!」  ロクは論理回路の出力を増幅する。オルカでの鍛錬、装備の改修や最適化。数え切れない戦いの経験と、それ以外の経験。それらによって積み上げられてきたものが、汚らわしい鉄虫による侵食などに後れを取るとは断じて結論しない。  翼の形状を精妙に変化させ、空力を利用して速度を落とさないまま側面に回り込む。六基のライトニング・デトネイターが発する雷球が直撃し、シムルグの左翼が火花を噴いた。即座に牽制の雷球をばら撒いて距離をとるシムルグ。 (何かが、奇妙だ……?)  戦闘が始まってから数十秒。わずかな時間ではあるが、すでに百度近くの激突を経たロクはふと違和感をおぼえた。シムルグの戦い方はおかしい。何かが決定的に欠落している。 「アルバトロス、対空支援はできないのか?」 「遺憾ながら困難だ。あのレベルの高速戦闘に誤射の危険なく支援を入れるのは……少なくとも地上部隊の指揮を取りながらでは負担が大きい」  地上戦の指揮をとりながら、龍はちらちらと上空へ目をやる。そこで繰り広げられている戦いはあまりに速く、龍でさえなんとか目で追える程度だ。 「龍、指揮に集中しろ。観測だけなら私がしておく。生体脳はAGSほどマルチタスクに向いていまい」  アルバトロスに指摘されて意識をもどす。鉄虫は地中からとめどなく涌き続けている。大物はいないが、あまりにも数が多い。ミサイル巡洋艦に搭載された海兵は敵艦への殴り込みか、殴り込まれた時の防衛が本務であり、広域破壊に長けたバイオロイドは少ないのだ。艦からのミサイル掃討も考えて戦線を下げたいところだが、もともとが幅の狭い磯なので陣形の選択肢も少ない。 「くそ、主の直接指揮があればもっとずっと効率的に戦えるものを……」 「ほらほらセイレーン、隊長も私と同じこと言ってる」 「喜んでる場合ですか!」  救助対象だったはずの探検隊のセイレーン達すら、戦力として動員している有様だ。龍は歯がみしつつ、ひしめく鉄虫のうごめきの中からつけいる隙を見いだそうと意識を集中させた。 「ほえー、すごい。空見てみなよ、速すぎて何が起きてるか全然わかんない」 「わかんないもの見てないで、傷口ちゃんと押さえてお姉ちゃん!」  鉄虫はとんでもない数がいるようだった。つい先ほどまで地下にいたディオネ達でさえ、どこにこれだけの数が潜んでいたのかと驚いたほどだ。ホライゾンの皆は応急手当を受けて栄養剤を飲んだだけで前線へ飛んでいってしまい、ディオネ達も救護班に協力している。 「止血帯もっとください!」 「水持ってきたよ! 止血帯は今取ってくる」  戦場に戻すために傷を治療する……ということに、ライフセーバーとして矛盾を感じていた時代もあった。だがこの戦いはオルカの戦い、皆を守るための戦いであり、自分にはその中でできることがある。今のディオネはそれに集中するだけの心の強さを持っている。何より、この戦いは自分たちのせいで起こったのだ。何もせずにいられるわけがない。 「機関砲の補給が終わったってさ! これ誰の……きゃーっ!?」  爆風が空から降ってきて、一瞬天地がわからなくなる。目を開けるとトリアイナと一緒にテントの布地に絡まっていて、ロクの黒いボディが目の前の地面に埋まっていた。 「失礼、見苦しいところをお見せしました」 「い、いえ!」 「ありがとね、ロク!」  二人ですぐにテントを立て直しにかかる。なぜ姉が礼を言ったのかディオネは一瞬怪訝に感じたが、すぐにロクが放電していないことに気づいた。あの高圧電流の塊のような状態でここへ落ちてこられたら、医療機器が全部駄目になってしまう。落下の寸前に出力をカットしたのだ。 「何か、私達に手伝えることありますか?」 「特には……いや、そうだ。私の予備機はどこにいるかご存じありませんか? 目の前のあいつと対になるはずの機体です。地下でコアの警備でもしていますか?」 「あ、それは……」ディオネは一瞬言いよどむ。だがトリアイナが得意げに、 「私達がやっつけちゃった!」 「なんと!?」ロクのゴーグルがちかちかと点滅した。本心から驚いたサインだ。 「本当ですか? 私を……しかも鉄虫に感染した状態の私を貴女がたが?」 「本当だよ! ソーフィッシュが犠牲になったけどね。あっちの方がもっと鉄虫化が進んだ感じで、見た目も変わってたよ。ねーディオネ」 「あ、はい。洞窟の中でずっと追いかけられてたんですけど、あの、コアでしたっけ? 青いやつのある部屋で迎え撃って、なんとか」 「なるほど、私達はコアを攻撃できませんから、それを盾にしたというわけですか。それにしても、いやはや……」ロクは感慨深げに頭を振ろうとして、ぴたりと止めた。 「今なんと言いました?」 「ご、ごめんなさい! 申し訳ないとは思ったんですけど、どうしても戦うしかなくて……」 「その話ではない。青い?」ロクは素早く遮った。「何が青かったと?」 「えっ? ええと、はい、青く光ってる大きな丸いのがあって……あれがコアじゃないんですか?」 「……ハッ! ハハハ!」ロクは笑いながら身を起こした。 「ディオネ嬢、貴女はトリアイナ嬢の姉妹機なのでしたね。貴女がた姉妹はいつも私に驚きをくれる。そう、その球体が墓所のコアです。青く光っているということは、エネルギー蓄積モードに入っていることを意味します」 「?」  きょとんとした顔をするディオネとトリアイナ。 「ご記憶ですか? アンヘル公の墓所で、コアはすべてのエネルギーをシムルグに注ぎ込んで自爆した。その時コアは赤色に発光していた。エネルギー注入モードだったからです」 「ええと……つまり?」 「つまり、あの時とは状況が逆だということです。あそこにいるシムルグは単に私達の足止めをしているだけで、コアからのエネルギー供給を受けていない。ほら、私達がこうして会話していても、攻撃も仕掛けずにああしているでしょう?」  確かにロクの言うとおり、シムルグは空中で待ち構えるようにロクをにらみ据えたまま動かない。地上にいる鉄虫たちの援護をする様子もない。 「こやつらの企みがなんであれ、その中心は地下、墓所のコアにある。聞いているでしょうね、アルバトロス!」 《ああ聞いている!》アルバトロスの声が大音量で響いてきた。《地下空間に複合スキャンをかけた。金庫の中心部付近に……信じがたい反応が出現している》 「もったいを付けずに早く言うがいい!」ロクが起き上がって戦闘態勢をとる。 《あまりにデータの少ない状態で憶測を発言したくないのだが……想定される事態があまりに重大ゆえやむを得ない》アルバトロスは一瞬だけ音声を止めてから再開した。 《ごく微量ではあるが、アルタリウムの反応がある。もしかすると奴らはここに、鉄の塔を建設しようとしているのかもしれん》 2-7 最初で最後の、ただ一度だけの 「鉄の……」 「塔だと!?」  龍のサーベルが一瞬だけ止まった。 「冗談で言っていいことではないぞ、アルバトロス!」 「だから憶測を発言したくないと言った」アルバトロスの声は冷静だった。「しかし、そう考えればこの鉄虫の数も説明できる。予備として使われないまま廃棄された墓所に、これだけのAGSが保管されていたとは考えがたい」  龍は周辺の島で聞いた噂を思い出した。「悪魔の鳥が機械を盗んでいく……」 「おそらくはあのシムルグが周辺の共同体からAGSを集めたか、あるいは墓所のどこかにプラントがあって製造しているのかもしれん」  後方、救護班のテントでは、ロクとシムルグのにらみ合いがまだ続いていた。 「トリアイナ嬢、あのシムルグの頭が見えますか。あなたの記憶と違うところがあるのに気づきますか?」 「え? いや急に言われても、うーん」トリアイナは顔をしかめて目をこらす。 「……頭のツノが二本?」 「正解です。シムルグと私の唯一の違いが頭部のクレストアンテナの形状なのですよ」ロクは教師のようにうなずいた。「墓所の時は、私との戦闘でアンテナがすでに破損していましたからね。気づかなかったでしょう」 「そうだったんだ。……それが?」 「つまり、もう手段は選んでいられないということです」  ロクはふわりと軽やかに舞い上がる。放電が医療機器に影響を与えない高さまで上昇すると、全身から放電して加速をかけた。 《アルバトロス中将。ツィゴイネルワイゼンの最初の16小節を数字譜で》 「何?」 《私のコア・アドミニストレーションコードです》  アルバトロスはセンサーを上空へ向けた。すでにロクとシムルグの第二ラウンドが始まっている。 「論理的な説明を求める」 《あのシムルグには私とのデータリンク機能が残っている可能性が高い。今からハッキングを試みます》 「ハッキングだと」アルバトロスは驚いた。「そんなことが可能なのか」 《通常なら不可能です。しかし、私とシムルグはお互いがエラーを起こした時のための介入プログラムを持っている。それを使って強制的に初期化をかけられれば、一瞬だが本来の人格プログラムが起動する可能性がある》 「アルバトロス中将、何をしている!」  龍の声に、アルバトロスはロクとの会話に意識を割きすぎていたことに気づいた。メモリを再配分し、AGS部隊の配置とエネルギーフィールドの強度をチェックする。その間にもロクの通信は続く。 《ハッキングは専門ではないので集中する必要がある。その間、私のボディのオペレートをお願いしたい。これで理解できましたか? それとも、負担が大きすぎますかな?》 「……!」アルバトロスは瞬間的に生成した34通りの返答を最終的にすべて却下してシンプルに答えた。「問題ない。完璧に操縦してやろう」 《それは重畳。では始めますよ》  戦闘指揮を続けながら、アルバトロスは予備回路とエネルギーをすべて投入し思考速度をブーストした。アドミニストレーションコードの送信と同時に、ロクの全センサー情報がすさまじい速度で流れ込んでくる。 「ぐ、む……」  ロクとシムルグの座標と速度と姿勢、現在のスラスターの状態と推力ベクトル、周囲の気流と熱、流れ弾や破片の軌道。それらの情報を元に、ロクのボディが次の瞬間にとるべき行動をアルバトロスが選択する。ロク自身のセンサー情報だけを元にしたのではデータの送受信とエミュレートの分だけ遅延が生じるため、アルバトロス側の戦術情報も統合してコマンドを予測送信。この戦闘速度では、飛行中の相対距離の変化によるピコ秒レベルの通信ムラも無視できない。しかも地上のAGS部隊の指揮と、アルバトロス自身の戦闘マニューバの精度も落とすわけにはいかない。 「ぬおおおおお……!」 「中将、どうした!?」 「何でもない! 戦闘に集中しろ!」  だが、やってみせねばならない。ロクが、これまでかたくなに自分との指揮リンクを拒んでいたあのロクがコア接続コードを開示したのだ。そこには単なる戦術的合理性を超えた重大な心理的インシデント……人間的に言うなら「決意」が存在していることを、アルバトロスは理解していた。  この作戦は絶対に、そして完璧に成功させなくてはならない。自分のためではない。オルカと司令官のためだけでもない。ロクが、ロクの決断と信頼が正しかったと証明するためにだ。アルバトロスは緊急時用の強制冷却システムを作動させ、中枢回路にさらにブーストをかけた。  暗闇の中に無数の刃が突き出している。その奥へ手を伸ばし、扉を探り当てる。シムルグのシステムへの介入は、感覚的に表現すればそのような作業だった。奥へ行くほど刃は密度を増し、伸ばした手が切り裂かれる。  もう昔のままの「彼」がどこにもいないことは、ここからでも感じとれた。たとえ扉の向こうに光があったとしても、それもすぐに闇に飲み込まれるだろう。それでも、扉は絶対に開けてみせる。そしてその向こうに必ず、たとえほんの欠片であったとしても「彼」はいる。そう信じて伸ばし続けた手が、ついに何かを掴んだ。 「……!」  ロクの視界が復旧する。ハッキング作業にすべて投入していたメモリを再分配し、自己の感覚を取り戻す。ボディに不具合はない。アルバトロスは見事に操縦してくれたようだ。 「シムルグ!」ロクは風にかき消されないよう最大音量で怒鳴った。「貴様もアンヘル公の側近を務めたAGSならば、その様はなんだ! 鉄虫などに、いつまでも好きにされているんじゃあないッ!!」  思い切り上体を反らし、シムルグの顔面に額を叩きつけると同時に、最後のコードを送信する。血のように赤いシムルグのゴーグルが一瞬ブラックアウトし、ノイズのような白い光の線が無数に走った。  そして、弱々しいが確かに、それまでの赤とは違うオレンジ色の光が、ゆっくりと灯った。 「……ロク?」  一秒に満たない間、ロクの思考回路を無数の言葉が高速で循環した。しかし、最終的に出てきた言葉はシンプルだった。 「ああそうだ、シムルグ。久しいな」  シムルグは頭を振り、ロクの方へ向けた。意志の感じられる動きだった。 「自己診断プログラムを強制終了……質問したい事項が250ほどあるが、その時間はないようだな」 「話が早くて結構だ」ロクはゴーグルをチカチカと瞬かせた。 「重要事項は二つだけだ。1:お前に残された時間はあと12秒。2:俺達は命に代えても、この島の地下にあるコアを消滅させねばならん」 「それだけわかれば十分だ」  二機の怪鳥は戦闘から一転、軌道をそろえ螺旋状に回転しながら空高く舞い上がっていく。 「龍中将、アルバトロス中将、全軍の避難を。決戦軌道攻撃をかけます」 《……! 了解した!》  さすがに二人とも無駄な質問はしなかった。地上の戦線がさっと動きを変え、海の方へ引いていくのが見てとれる。  二機一組の双子機でありながら、ロクとシムルグにはコンビネーション戦闘プログラムのようなものはない。 「単体として十分に優れた能力を有していれば、連携が必要な時にはそれを行える。それだけでいい」  というのが、アンヘル・リオボロスの設計理念だったからだ。  実際に二機は戦闘訓練において、必要な時には見事な連携をやってみせた。アンヘルに仕えるようになってからは稀に戦闘出撃もあったが、二機同時の出撃が必要になる敵などは存在しなかった。  だからこの技は、実戦で使用したことは一度もない。RF87モデルが総力を挙げて撃滅しなければならない敵が現れた時のために、たった一つ作られていた連携攻撃マニューバ。 「セットアップ。ディサイシブ・ダブルヘリカル・コンバットマニューバ」 「起動承認。測距完了。カウントダウン開始」  螺旋が加速する。二機の間に放電が発生し、竜巻となって風を呼び、雲を呼ぶ。積雲高度まで上昇してから反転した竜巻は、無数の稲妻をまとってまっすぐ降下する。 「「リリース。コード〈ガオケレナ〉!!」」  激突の瞬間、二機の間に蓄積された膨大な電荷が解放される。それは巨大な雷球となって、空と大地とそのあいだに存在するあらゆる帯電物質との間に猛烈な放電現象を引き起こしながら地下へと突き進む。地下のコアと接触した雷球は爆発し、そのとてつもない熱量ですべてを焼き尽くしながら上空へと駆け上がる。  その瞬間、龍とアルバトロス、そして地上にいるすべての隊員は、目を焼かんばかりに輝く、天を貫く雷の大樹を見た。  雷が消えた後、もはやそこは崖でも山でもなかった。ただ溶けてガラス化した表面がなめらかに落ち込んでゆく、地の底まで続く大穴であった。  穴の底には、炎と水蒸気とに包まれて、一機の黒いAGSだけが立っていた。 2-8 二度ある冒険は三度ある  オルカが島に着いた時には戦いが終わっていたどころか後始末までだいたい終わっていて、俺を出迎えてくれたのはすっかり作業着姿が板についた龍と、もうほとんど怪我も治った探検隊の面々だった。 「キャプテン!」 「司令官! 会いたかったよー!」  まだベッドに寝かされたままぱたぱたと手を振る皆を順番に抱きしめてキスをする。 「みんな、お疲れさま。たいへんな状況でよく頑張ったな」 「えへへ」 「特にディオネ。今回はディオネがいたおかげで、皆すごく助かったと聞いたよ」 「そんな……これくらい当然です」頬に大きな絆創膏を貼ったディオネは口元を動かしづらそうだったが、それでもぎごちなく笑ってくれた。「この前は自分のことでいっぱいいっぱいで、司令官様にまでご迷惑をかけてしまいましたから……皆さんの役に立ててよかったです」 「ほんと、ディオネの持ってきた食料がなかったら探検どころじゃなかったわよ」ウンディーネが同意する。 「そもそも、探検に行くのに食料を用意してない方がおかしくないです?」テティスがほっぺたを膨らませて、じろりとトリアイナの方を睨む。 「今度こそ仲間はずれにされたくないからついてったのに、散々な目にあいました」 「お嬢ちゃん、教えてあげる。真の探検家っていうのはね、ロマンを食べて生きるものなのよ」  トリアイナは俺の隣で不敵に笑った。探検隊の中でも一番消耗していたはずなのに、なぜか真っ先に回復した彼女はさっさと退院して調査隊を手伝っている。近隣の共同体との交渉がスムーズに進んだのは、先にあちこちの島を訪れては誰彼構わず仲良くなっていた彼女の人脈によるところが大きいそうだ。 「トリアイナさん一番食べてましたよね!?」 「はは、大変だったなテティス。治ったら足裏マッサージ、特別コースでやってあげるよ」 「ほんとですか!?」とたんに顔を輝かせるテティス。「絶対ですよ!」 「あー、テティスずるい! ネリもネリも!」 「わ、私も……」  うーむ、宝蓮直伝のマッサージはどこへ行っても大人気だ。仕事がなくなったらマッサージ屋を開店しようかな。 「お前達、そのへんにしておけ。まずは治療と体力回復、それが終わったら調査隊への参加だ。主のご褒美をいただくのはその後だな」  ええー、という声が上がる。俺は笑って龍の方へ向き直った。 「龍も、ありがとう。技術班を連れてきたから、調査は引き継ぐよ」 「そうさせてもらおう。すっかり日に焼けてしまった」  龍はさすがに疲れた様子で笑う。口では厳しいことを言っていても、救助作戦の陣頭指揮からつづく激務の間中、暇を見つけてはホライゾンの見舞いに来ていたことも俺は聞いている。 「鉄の塔か……」  今頃ドクターとアザズが嬉々として穴の中を調べているだろうが、まだまだわからないことだらけだ。 「今はまだ、そうかもしれん、というだけだ。また別の計画だった可能性もある……ともかく、阻止できたことを喜ぼう」 「そうだな」  もし本当に鉄虫がここに鉄の塔を建てようとしていたのなら、未然に阻止できて本当によかった。またあの時のような総力戦をやる力は、オルカに戻っていない。 「そういえば、近くの島の共同体が合流してくれるんだってね」 「ああ、今朝また増えた。今回のことで不安を感じたようだ。皆、カラカスへ移住したいと言っている」  あの洞窟がどこまで広がっているのかも調査中だ。今回の戦闘で崩落した箇所も多いため、完全な踏査は不可能かもしれない。鉄虫は海を渡らないという前提があるからこそ孤立した島での暮らしに安心があったのに、海底洞窟でつながっているかもしれないと言われれば不安になるのも当然だろう。 「できるだけ受け入れてあげてくれ。どのみち、ここにはしばらく調査隊を置くだろ? 島に残った子たちの護衛も兼ねてあげてほしい」 「そのつもりだ。空になった村を、調査隊のキャンプとしてそっくり使わせてもらうよう交渉を進めている」  さすが龍、合理的な手配だ。 「そうだ、よければ沖に停泊している輸送船にもあとで寄っていただけないか。主に会えるかもしれないというので、工兵隊が休暇を返上して残って待っている」 「必ず行くよ」  テントを出た俺とトリアイナの前に、大きな影が二つ、ふわりと降下してきた。 「閣下、わざわざのお越し、ありがとうございます」 「司令官、必要な報告と引き継ぎを終えた。私はそろそろ師団本部に戻らせてもらおうと思う」  ロクとアルバトロス。カリブ海の陽射しに温められた黒い装甲に手を当てて、俺は頭を下げる。 「二人ともありがとう。君たちがいなかったら今回の戦いは勝てなかった。俺は後からのこのこ来ただけで、何もできなかったよ」 「過分なお褒めの言葉、恐縮です」 「総司令官とは本来そうあるべきものだ。むやみに前線に出ることはない」 「ロク、ごめんね」トリアイナが珍しく、しおらしい様子でぺこりと頭を下げた。 「ごめんとは?」 「鉄虫とはいえ、あなたの予備機を壊しちゃった。そのうえ、あなたの兄弟も……」 「ハハハハハ!」ロクは高らかに笑った。「何を言うかと思えば。実戦経験のない予備機、しかも鉄虫と化したなれの果てとはいえ、このRF87ロクをたった六人で撃破したのです。謝るよりむしろ誇ってもらわねば困る。それに兄弟に関していえば……」  ロクはすっと身をかがめ、トリアイナと目線を合わせた。 「二度と会えないと思っていた奴と、もう一度話すことができた。本当に貴女はいつも、私に思いがけない体験をくれる」  ロクはふわりと浮き上がった。イオノクラフト特有の、うぶ毛が逆立つような感覚が顔をなでる。 「おっと、そうだ。大事なことを一つ忘れていました。お手数ですが閣下、近いうちにマスター権限を使って私のアドミニストレーションコードを変更していただけませんか。誰にも教えずに」 「待て、どういうつもりだ」アルバトロスが驚いたように大声を出した。「コードは私にも共有してもらおう」 「冗談ではありません。今回のことはあくまで一時的な緊急措置。私はあなたの傘下に入ったわけではない」言いながら、ロクはゆっくり上昇していく。 「そんな勝手が許されると思うな。そもそも、すべてのAGSの一元的な統制こそが……」アルバトロスもそれを追って飛んでいく。「ああくそ、司令官! ともかく当面コードはそのままで頼む」 「コード変更の手続きはいささか複雑ですので、あとでマニュアルをお送りいたします、閣下」 「待てというのに!」  言い合いをしながらどんどん高く昇っていく二機をしばらく見送って、俺はトリアイナと顔を見合わせ、くすりと笑った。 「あーあ。さすがの私も、ちょっと疲れちゃった」  そんなことを言って、トリアイナは俺の胸に頭をもたせかける。 「もう、冒険はしばらくいいや。ソーフィッシュ壊れちゃったし、調査隊の仕事もあるし。ディオネとも、ゆっくり話してみたいしね」 「そうか」  トリアイナでもそんな気分になることもあるのか。という言葉を俺はそっと胸にしまって、彼女の肩に手を置き、沖に見える輸送船の方へ、磯づたいにのんびりと歩いていった。  それから一週間とたたないうちに、トリアイナは再びやってきて、 「キャプテン! 今北極海! 北極海がアツいのよ! 探検隊の新メンバー募集中なんだけど参加しない?」 「お姉ちゃん! 調査隊から頼まれた仕事がまだでしょ!」  ……ディオネに襟首を捕まれて去っていった。 「真の冒険家ってのは、いつでも冒険を求めずにいられないものなんだなあ」 「何を仰っているんですか」  つぶやいた俺に、アルファが呆れた顔をした。 「私は興味がありませんが……冒険というのは冒したリスクと達成した成果の大きさで決まるのでしょう? でしたら、旦那様以上の冒険家なんて歴史上何人もいませんよ」  え、そうかな?  俺は肩をすくめて、残り少ない今日の仕事に戻ることにした。これが済んだら、マッサージ屋でも開こうかな。俺に似合いの冒険なんて、そんなところだ。 End -3日 司令官が指揮官達に一日中説教される 0日 1-10ラストトリアイナとディオネが南米へ出発 +1日 2-1 司令官にシデンとリリスが告白 +8日 トリアイナ達がカラカス着 +9日 トリアイナ達がカリブ海へ出発 +10日 グレナディーン諸島着、聞き込み開始 +11日 妙な噂を聞きつけて無人島へ、洞窟発見。 2-1b 探検隊遭難 洞窟の電気トラップで失神 +12~19日 2-2b トリアイナ達のサバイバル +17日 ラ・グアイラのヨット管理担当がカラカスへ連絡、司令官に一報入る。 +18日 2-2 龍とアルバトロスがラ・グアイラに入って捜索開始 +19日 龍がトリアイナの上陸した無人島を突き止める +20日 2-3 ロク出発する 2-3b リオボロスの墓へ到着 +21日 2-4b ブラックバード撃破、シムルグ起動 2-4~8 掘削が難航する。ダッチガールの尽力でようやく成功すると大量の鉄虫が。ロク現地着 シムルグとの戦い。 --- >運転手とかやってるバイオロイドっていないもんなあ全部交通機関自動だし 汽車とか保存鉄道とか動かしてる博物館のバイオロイドとかいないのかね --- かつてレジスタンスの中で「旧時代」とは人類滅亡前のことだった。今は司令官発見前までがまとめて「旧時代」と呼ばれがち 龍のことを「司令」と呼んでいたためなんと呼べばいいか迷う艦隊クルー達 ナエンとスエンの話 「力なき者の目に映るべき光景とはこういうものだ。爆炎を遮って立つ勇者の背中だ」 海底洞窟にはまり込んでしまったオルカ。マリアナ海溝の時と同規模の落とし子が迫る。しかし洞窟に残された記録を見ると、何か撃退方法があったっぽい。FAN波が限界を超える前に見つけられるか!?というレース。本物のお宝探しではしゃぐかと思いきや、司令官と仲間の命がかかっているので大マジになるトリアイナ AGSの墓を作り続けるバイオロイド ===== 「大戦乱」嘘第三部 Ev3-1 一方その頃…… 「……というわけで、旦那様はオルカ号で日本へ向かわれました」  レモネードアルファが報告を終えると、リモート会議用モニタの向こうから一斉にため息が返ってきた。 《閣下はどうしてこういつまでもフットワークが軽いのか……そろそろご自分の立場というものをだな》不屈のマリーが額に手を当ててうめく。 《司令官の手を煩わせるとは、ロクのエラー者め》アルバトロスが冷然と毒づく。 《一日くだされば、随行部隊を編成したのに……》  ラビアタまでが眉間に深い皺をきざみ、デスクについた無敵の龍が苦笑いをした。 「その一日が命取りになるかもしれん、という状況だったのは確かだ。小官も同意した作戦だ、そう責めないでくれ」 「クノイチチームと魔法少女チーム、それにスカイナイツとアーマードメイデンのオルカ直属部隊が同道しています。ドクターさんはじめ技術班の皆さんと、もちろんコンパニオンも。大部隊とは言えませんが、よほどのことがない限り十分な戦力かと」  レモネードベータが人員リストをめくって確認するのへ、龍は頷いて後を引き取る。 「とはいえ万が一に備えて、日本へ派遣する艦隊の準備もしておく。カレー周辺のキャノニアとホード、それにAGS師団から引き抜かせてもらいたいが、どうか?」 《カレーなら今キャノニア第2中隊と第13中隊がいる。話を通しておこう》 《クイックキャメル241がいるはずだ、あいつを部隊長にして人を集めさせてくれ。休暇中だが、司令官絡みなら嫌とは言わないだろう》 《15分以内に編成案を送信する》 《ヴァルハラも第7中隊がダンケルクにいる。明日の昼までに向かわせよう。ホッカイドウなら私達の雪中装備が役立つだろう》  龍がかるく会釈をして隣へ目配せをすると、代わってアルファが口を開く。 「アルマンさんもオルカに随行しているので、秘書室はしばらく私とベータで回します。業務に支障は生じないと思いますが、ただ南欧にいるエルブンとビスマルクの戦闘部隊。こちら、ラビアタさんにお任せしてよろしいですか」 《問題ありません。皆さんよくやってくれていますし、こっちにはランバージェーン准将もいます》南欧方面の制圧作戦を担当しているラビアタが微笑んだ。 《ちょっと待って。もしかして私も指揮官の頭数に入ってる?》 《いずれ経験することですし、今やっておいて損はありませんよ》 《経験したくないんだけど!?》 「ブラッ……もとい、ナースホルン少将とウロボロス少将が不在なので、アーマードメイデンとスカイナイツは一時的にキャのニアとドゥームに預ける形になる。指揮をよろしくお願いする」 《任されよう》 《はいはい。でも、こんなことが毎度続くようじゃ困るわよ》 《同感です。ご主人様には一度、釘を刺す必要がありますね》  アーセナルとメイ、それにラビアタがそろって頷くのへ、龍とアルファも深く頷き返す。 「それについては、ひとつ考えがあります。いま、皆さんの端末にお送りした資料をご覧下さい」  しばしの沈黙のあと、モニタの向こうで、七対の肉食獣の眼がぎらりと光った。 《…………ほう?》 「…………!?」  ふいに悪寒が走った。反射的に前後左右を見回したが、もちろん誰もいるはずがない。 「御屋形様、どうなさいました?」 「いや……風邪ひいたかな」  何だろう……何か、恐ろしい企みが知らないうちに進んでいるような……。 「こんな寒いところにいつまでもいらっしゃるからです」ブラックリリスがふくれ面をする。「今日はお休みになってはいかがです? あんなドームに毎日おいでにならなくても……」 「ごめんリリス。でも、明日も来るよって昨日言っちゃったからさ」俺は鼻をこすって、倉庫に積み上がった物資類を見上げた。 「さて、今日のお土産は何にするか。甘いものも毎日続くと飽きるよな」 「甘いもののあとはしょっぱいものでござる!」ゼロがさも自信ありげに宣言した。 「ん。ポテチ……最強。みんな好きになる」  カエンも同意する。そんな娘二人をエンライが冷然と睨む。 「そうですね。現にここに、いくら言ってもやめられないくノ一が二人もいるのですからね」 「い、いやそれは……」 「いい機会です。あなたたちの隠しおやつも支援物資に入れてしまいましょう。この壁のパネルの裏でしたね」 「なんで知ってるでござるか!?」 「母を甘く見るものではありません。困っている同胞のためなのです、嫌とは言わせませんよ」 「は、母上……そのわさびゴーヤ味だけは……! もう生産してないやつ……!」 Ev3-2 ノボリベツよいとこ一度はおいで  ノボリベツ郊外の林の中にひっそりと建つ、大きな矩形の建物がある。  周囲を木々に囲まれているが、正面扉の前だけは整地されて広場になっている。その広場に、ジェットエンジンの音を響かせて数人のバイオロイドが降下してきた。 「うわー、懐かしい。そうそうこんなだった、こんなだった」 「ほんとに無事だあ。よかったー」 「油断するなよ、ヒヨコ達」ウロボロスがたしなめる。「特異体が本当に一体だけとはまだ確定しておらん。ロク殿が不意を突かれたほどの相手じゃぞ」 「まことに面目ございません」  スカイナイツの後を追って、真新しい白い翼のロクも降下してくる。 「いやいや、ロク殿を責めたつもりではなくてな」 「特異体どうしが一緒にいることは、性質からいってまずないけどね」  ロクの背中から、ドクターとスターリングがひらりと飛び降りる。「でもまあ、アルタイトなしで活動してる特異体がいるなんて思わなかったし、先入観は禁物か。気をつけてね、みんな」 「うむ。リンティ、ハルピュ、哨戒を頼むぞ。二時間たったら交代じゃ」 「はーい」  シデンと特異体の一件ですっかり後回しにされていたが、そもそもロクがはるばるホッカイドウまでやって来た目的はセントオルカ号の回収である。司令官がシデンの説得のためDドームに日参している間に、ロクとスカイナイツ、それにドクターら技術班でそちらを片付けることになった。 「電気は生きてるね、よしよし」  入り口脇のキーパッドを叩くと、重い音とともに扉が開いていく。埃っぽい空気の中へ陽光が斜めに差し込み、白銀色の物体がぎらりと光をはね返して輝いた。 「セントオルカ! 会いたかったよー!」ドクターが駆け寄って頬ずりする。小さめのヨットのような形をしたそれは、飛行船のキャビンであった。 「これがセントオルカ号かあ。ずいぶん小さいのね」 「そっか、スレイプニールは見るの初めてだっけね。これはキャビンよ。エンベロープはほら、あそこに畳んであるでしょ」 「えんべろーぷって?」 「ガスを入れる風船部分のことです。うわあ飛行船……本物の飛行船だあ……」  説明しながらスターリングもドクターと一緒になって、惚れぼれと銀色の塗装をさする。 「本物って、あんたハーカにずっと乗ってたんでしょうが」 「そうなんですけど、ハーカ以外の飛行船を見るのが初めてで……」 「これはずっと小さいし、真空飛行船でもないけどね。でも元がブラックリバー製だから規格は共通してて、いろんなテストとかに使えると思うんだ」 「それでこれ、どうするんだっけ。自力で飛ばすんだっけ?」 「最初はその予定だったけど、もうオルカがそこにいるんだから必要ないよ。解体して積み込んじゃおう」  ようやく満足して頬を離したドクターが持参の大きなトランクを勢いよく開けると、山のような工具を収納したラックとアームが砲塔のように飛び出してきた。 「私とスターリングお姉ちゃんと、ロクお兄ちゃんがいればすぐ終わるよ。スカイナイツは休んでて」 「ふむ、では儂も哨戒に出ておくかの」 「……あ!」  きびすを返しかけたウロボロスを、何かに気づいたブラックハウンドが慌てて呼び止めた。 「ううん、私が行きます。ウロボロスとスレイプニールは休んでて」 「む? しかし……」 「グリフォンほら、あれ、あれ」 「……ああ!」グリフォンもぽんと手を打つ。「オッケー。二人とも、いいとこ連れてったげるよ」 「いいとこって?」 「いいからいいから」 「わっはーー!」  スレイプニールの歓声とともに、大きな水しぶきが上がった。 「こら、飛び込むんじゃない!」 「いいじゃない、私達以外誰もいないんだし! うわー広い広い、泳げる!」 「泳ぐのもダメ! まったく……」  グリフォンが腕組みをする。スレイプニールはまったく気にした様子もなく、広い湯船の端から端へバタ足で泳いでいる。  ノボリベツ郊外にある、広大な洞窟の内部に広がる天然温泉。セントオルカ作戦の時に見つけて整備した場所だ。当時据えつけた照明や脱衣所は、あれから四年あまりが過ぎても多少かび臭くなった程度で無事残っていた。 「私が合流する前に、みんなこんないいところへ来てたのね。ずるい!」 「ずるくない。戦隊長の合流が遅れたのは、一人でバカなことやってたからでしょうが」 「バカなことじゃないもん! 大事だったもん!」  騒がしいスレイプニールとは対照的に、 「うい゛~~……おふ~~…………たまらんの、これは……」  ウロボロスは肩まで湯に浸かったまま、ずっと動かずにうめき声を上げ続けている。 「ウロボロス、おばあちゃんみたい」 「実際ばあちゃんじゃからの」ざぶ、と顔を洗って天井をあおぐウロボロス。「じゃが、これは過去に生きたどの儂も知らんかったわい。話に聞いたことはあったがなるほど、温泉というのはこういうものじゃったか……はあ~~、極楽極楽……」  広く開いた洞窟の口から時おり冷風が吹き込んできて、立ちこめる湯気を散らす。上体を湯から出して風を浴び、眼下に広がる山肌と、その先のノボリベツの街並みを眺めながら、ウロボロスは目を細めた。 「これほどの景色を儂らだけで独り占めとは、もったいないくらいじゃ。フレズも呼んであげればよかったかのう」 「あいつは今Dドームに夢中でしょ。呼んだって来やしないよ」  苦笑するグリフォンの背後から、ぺたぺたと足音が近づいてきた。 「やっほー、お姉ちゃん達」 「早いわね、ドク……」振り向いたグリフォンは目を丸くした。「……え!? ドクター? よね?」  すらりと伸びた手足、むっちりと豊かなプロポーション、グリフォンよりも高い上背。しかし、よく動く大きな目と悪戯っぽい笑顔が確かにドクターそのものである彼女は胸を張ってびし、とVサインを出す。 「急速臨時成長薬、マーク3!」 「びっくりした……解体はどうしたのよ?」 「もう終わったよー。積み込みはロクお兄ちゃんとスターリングお姉ちゃんに任せちゃった」  どぼんと飛び込んできたドクターに、ウロボロスも驚いた顔をする。 「なんと、お前さんドクターちゃんかえ。大したもんじゃのう」 「お姉ちゃん達とお風呂に入るときは、何かと張り合えるこっちの体の方がいいんだよね~」ドクターはニヤニヤ笑いながら、湯に浮かぶバストに手を添えて意味ありげに持ち上げてみせた。 「そういや、その薬初めて使ったのもこの街だったわね」 「そうそう。あの時はさー、温泉でお兄ちゃんと~って気合い入れてたのにお兄ちゃんは倒れちゃうし、レオナお姉ちゃんやらオードリーお姉ちゃんやらに先を越されちゃうし」 「ええ……あの時ってそうだったんだ?」 「なになに、何の話?」 「この前ここに来た時、色々あったって話よ」 「確かにこれだけ広い温泉なら、色々使いではありそうじゃがの……」あたりを見回したウロボロスが、ふと何かを思いついた顔になる。 「のう、ヒヨコ達。すまんが、風呂から上がったらすぐ出撃準備じゃ。このあたりを徹底的に掃除するぞ」 「え、何? どしたの?」 「もしかして……」 「うふふ」ウロボロスは眼を細め、意味ありげに笑った。「指揮官級専用の連絡網で、ちょっとした仕事を頼まれていたのを思い出してのう」 Ev3-3 スリー・ピーシズ・オブ・ケーキ 「は、腹が……減った…………」  雪原に倒れ伏した一人の少女を、三機のAGSが見下ろしていた。 「だからちゃんと補給に戻れと言ったであろうが。際限なく暴れ倒しおって、食卓につきたがらん子供かお前は」 「電圧低下ではなく、腹が減ったという感覚にちゃんと変換されるのだなあ。ますます興味深い」 「電池食べます?」 「そんな小物で我の腹がふくれるか……」タイラント……アザズによって少女のボディに換装されたタイラントは大きな尻尾で力なく雪を叩き、ふるえる手を伸ばす。「ケーキ……ケーキを……」 「残念ですが、ハッピー。ケーキはもうしばらくお預けです」  ゴルタリオンのわきの下から現れたバニラが冷然と告げる。 「ご主人様がドームのバイオロイド達に大量のスイーツを差し入れなさったせいで、材料が切れました」 「なん……だと……」  細い腕が、力なく雪の上に落ちた。  トマコマイ港。  コロッサスプロトタイプとの戦いを終えたオルカは、安全確保と物資探索をかねて、あらためて周辺地域の制圧にとりかかった。  戦い足りないとしきりにぼやいていたタイラントが大喜びで出撃したと思ったら、突如ぱったり倒れたのがついさっきのことである。 「そもそもケーキでは補給になりませんよ。官能センサーで満腹感は発生しますが、得られるエネルギーはごくわずかです」点検を終えたアザズが、尻尾のハッチをぱたりと閉じた。 「なん……だと……」タイラントは先ほどと同じ言葉を弱々しく繰り返す。 「だいたい、なんでバッテリーが空になるのだ……まだ戦い始めてから三十分もたっておらんぞ……」 「そのボディの戦闘モードでの連続稼働時間は25分くらいですから」 「なん……」もう最後まで言い切る気力もない。 「私も随分悩んだのですが」  アザズは心底残念そうに、頬に手を当ててうつむいた。「すべてを満足させるのはどうしても不可能でした。ここまでダウンサイジングした上で火力も下げないとなると、燃料電池の容量を犠牲にするしかなかったのです」 「ふざけるな……元の体に戻せ……」 「元のボディはヨーロッパに置いてあるので、帰ってからなら」 「ぐぐぐぐぐ……」 「ハッピー、いいかげんになさい」  バニラがあきれ顔で、雪に埋もれたタイラントのお尻をぴしゃりと叩いた。「ここで駄々をこねていても何も変わらないでしょう。さっさと補給を受けてきなさい。アルフレッド、運んでください」 「私、有機体は触れないものでして」 「どれ、拙者が」 「待て、お前の手つきは妙にいやらしくていかん。吾輩が運んでやる。どっこらしょ」 「すみません、ゴルタリオンさん」 「なんで私には命令するだけで、ゴルタリオンには礼を言うのです……?」 「我を戻せえ……返せえ……」 「はいはい。元に戻るにしても、ケーキを食べてからがいいでしょう?」  ゴルタリオンの小脇にぐんにゃりと抱えられたタイラント。その小さな手を握って、赤子をあやすようにちょいちょいと動かしながらバニラは雪道を先に立って歩いていった。 「ケーキ……」 「で、では! TV版の41話でクノイチ・ハガネさんが1カットだけチラ見えしていたのはミスではなく、実は生存しているという裏設定のための伏線だったのですね!?」 「そうだと思います。実際に出演してた12号がそう言ってましたから……」 「そうですかそうですか! そうですよねえ! 私の考察は正しかったんだうっひょおーーー!!」  奇声を上げながら携帯端末にメモを取りながらくるくる回るフレースヴェルグを、少し離れたところから気味悪げに見やってファフニールは隣の薔花にささやいた。 「あの子ここに来るとずっとあの調子で怖いんだけど……あれ、ほっといて大丈夫なやつ?」 「あー、あれはなんかそういうイカレた奴だから、ほっといて大丈夫なやつ」 「そうなんだ……」  言うまでもないことではあるが、エンプレシスハウンドの隊員は概して友達を作るのが苦手である。コロッサスを無事退治しオルカ大歓迎ムードのドーム内にあっても、なんとなく日当たりの悪いあたりにたむろってしまっている四人に、とことこと駆け寄る人影があった。 「あ、あの! コロッサス戦ではありがとうございました」 「ん? ああ……アンタか」  日焼けした肌と色の抜けたピンクブロンドの髪、大きな盾。ストライカーズのランサーミナは目を輝かせて薔花に詰め寄る。 「ワイヤー、本当すごかったです! 攻撃にも防御にも移動にも使えるなんて、便利だし強いし何よりカッコいいです!」 「え、まあ……おお」  決まり悪げに首筋をかく薔花を、チョナがニヤニヤとつついた。 「褒められ慣れてないもんだから照れてる」 「うっせぇ」 「そういう貴女はチョナさんですわね! 見事なナイフさばきでしたわ」  もう一人のストライカーズ、プランクスター・マーキュリーがチョナの手を取り、ぶんぶん振り回してから何かを握らせる。 「私マーキュリーと申しますの。お近づきの印にこちらをどうぞ!」 「ありがと」  手を開いてみると、黒っぽく干からびたイモムシのようなダンゴムシのようなものが数匹、糸で束ねてあった。 「ホッカイドウにしかいないオオルリオサムシの幼虫の干物ですわ。刃物が錆びないおまじないです」 「…………」 「すげえ、チョナが反応に困って固まってら」 「すみません。あれで悪気はない子なので……」 「プロフィールは読んでいる。問題ない」  ぺこぺこ頭を下げるティアマトに、ワーグは鷹揚に応じた。 「ティアマトだったな。ブラックリバーのXナンバーの」 「はい。あの時はお世話になりました」ティアマトはもう一度頭を下げる。「ワーグさんの援護はとても戦いやすかったです。私はいまだに連携が苦手で……」 「私は隊長機として作られたから、多少はそういうこともできるというだけだ。そちらの剣技も見事だった」 「あ、ありがとうございます! 複剣使いはオルカにも少ないので、よければ今度模擬戦をお願いできませんか」 「いいだろう。こちらも学ぶことがありそうだ」 「……ハクアちゃん、これ食べる?」  わいわいと騒がしいハウンドとストライカーズの面々の中、ぽつねんと立ち尽くすのはファフニールである。 「ねえ、なんで私のことは誰も褒めないの?」 「テスラテールが、所在なげにさすらってーる……なんちゃって」いつの間にかひっそり現れたウルが、雄大なテスラテールをそっとさすって呟いた。 「気の利いたジョークなんかでごまかされないわよ!」 「気の利いたジョークって」 「ウルはちょっとその、センスが独特で……」ミナが慌ててフォローに入る。「ファフニールさんの飛び蹴りもすごかったです。素手でコロッサスにダメージを入れられる人がいるなんて思いませんでした」 「でしょ!」とたんに笑顔になるファフニール。「この私のジュピターは本当にすごいんだから。まああの時はちょっと死ぬかと思ったけど!」 「尻尾の装甲が翼に変形するの、かっこいいよね」遅まきながらウルもフォローを入れる。 「でしょでしょ!」さらに得意げに胸をそらすファフニール。「なんでああなるのかよくわかんないけど、滞空時間が伸びて便利なのよね」 「尻尾が翼に変形する飛び蹴り……これがほんとの尾ー羽ー変ドキック……」 「あっははははは! ホントにあなた最高ね!」  あっさり機嫌の直ったファフニールはぶるんと尻尾を揺らして、「気分がいいわ、ケーキでも食べましょ! 司令官が持ってきたって言ってたわよね」 「あれ、ここの連中への差し入れでしょ。勝手に食べていいの?」 「ちょっとくらいいいわよ。ダメっていうなら、ここの連中も一緒に食べればいいじゃない」  そう言うとファフニールは、まだ回っているフレースヴェルグとクノイチ達の方へすたすた近づく。 「あんた達! 食堂にケーキがあるらしいわよ。食べに行きましょう!」 「えっ、ケーキ? いいんですか?」 「あ、そういえばそんな話でしたね。では続きは甘い物を食べながらでも」 「決まりね! ほら行くわよ!」  尻尾をふりふり先頭に立って歩き出すファフニールの背中を見て、薔花がぼそりと呟いた。 「バカニールのああいうとこ、勝てないって思う時正直あるわ」 「わかる」 「何してんの! 行こうってば!」 「こ、これが……三安産業の最高級パティシエ、アウローラさんのイチゴホイップケーキ……!」 「天国……口の中が天国だよお……」 「こんなの知ったらダメになっちゃう……」  Dドームの食堂で、幸せそうに悶絶するクノイチ達。テーブルの向かいにはポックル大魔王とサレナが傲然と肩をそびやかし、邪悪な笑みを浮かべている。 「ク、ク、ク……オルカに来れば毎日これが食べられる、と言ったら……どうする?」 「大魔王よ、毎日は言い過ぎだ。お給料の都合もある……そうだな、一週間に一度がせいぜいであろうな」 「週一……! 週一でこれが……!?」 「何やってるんですか、二人とも」  マジカルモモに肩を叩かれ、ポックルは途端に素の顔に戻った。 「いえその、白兎がいないので久しぶりに大魔王モードの練習を……」  恥ずかしげに頬をかくポックル。サレナはそっとモモの側へ寄って耳打ちする。 「というかですね、ここの皆さんずっと言ってるじゃないですか。『私たちはオルカに行ってもいいから、シデンさんを元に戻してほしい』って」 「ですね」モモもひそひそ声で答える。 「オルカに来るのがなんだか身売りか何かみたいに思われるのは心外なので、エンターヴィランズの先輩としてオルカのよさをアピールしておかなくてはと思いまして」 「なるほどー。それは確かに」モモは深くうなずいて、ポケットから携帯端末を取り出した。 「じゃあモモからも。司令官さんのセクシー写真集とか、どうですか?」 「に、人間様の!?」 「セクシー!?」 「公式写真集もありますし、非公式に流通してるのもあるんですよ。ほらこれなんか、すごいでしょ」 「うわ、筋肉すっごい……ええ!? これモモさんですよね!? こんな所でこんなこと……」 「こ、こんなポーズで……だって、これじゃおヘソのあたりまで……えええ~!?」  数分後。 「失礼なこと言ってすみませんでした……」 「オルカに合流したいです……させて下さい……」  テーブルに額が付くほど頭を垂れるクノイチ達を前に、魔法少女と大魔王とラスボスは勝利のハイタッチを交わす。  ちょうど食堂へ入ってきたエンプレシスハウンドとストライカーズが、それを不思議そうに見て、そのまま通り過ぎていった。 Ev3-4 第二次セントオルカの秘密作戦 「おお……おおお~~…………!」  お湯に身体を沈めていくにつれ、大きな胸が浮力を受けて浮かび上がる。最終的に顔の前に島が二つ浮いているような状態になったシデンが長いうめき声を上げるのを、眼福なような微笑ましいような気分で俺は眺めていた。 「うふう~~……」 「温泉は初めて?」 「何度か入ったことはあるが……撮影じゃったからの」ゆったりと身体の力を抜き、冷たい夜風に目を細めるシデン。「普通に入るのは初めてよ。しかしううむ、これは……ノボリベツが湯どころというのは知っておったが……」 「こっちの方まで遠出することもあったんだろ? ついでに入ったりはしなかったの?」 「遠出するのは狩りのためじゃ。温泉につかるために鉄虫と戦うなどという酔狂は、お主らしかやらんわ」シデンはおかしそうに笑って、耳についた湯の滴をぴこぴこと払った。  セントオルカの回収も終わり、シデンのリミッターも解除して、無事オルカに合流してくれることになった。  用はすべて済んだから明日にでもヨーロッパへ帰ろう……と思っていたのだが、 「司令官、温泉よ温泉! せっかくここまで来たんだから、温泉に入っていかなきゃ!」  スレイプニールの熱烈なアピールで、急遽もう一日滞在を延ばすことになった。 「特異体が潜んでいたような場所に、ご主人様をお連れするなんて……」  リリスは渋い顔をしていたが、スカイナイツとアーマードメイデンがわざわざノボリベツまでのルートを念入りに制圧してくれたと聞いては断るわけにもいかない。それに確かにここの洞窟岩風呂温泉は最高だったと、俺も言われて思い出した。  あの頃はオルカもまだまだ小さく、今回連れてきた中にもノボリベツを知らない隊員は大勢いる。ゆっくり温泉で身体を休めてもらうために一日使うのは、悪くないアイデアだ。 「お気に召したようでございますね、初代様」 「うむむ……体が湯の中へ溶け出していくようじゃわい……」  今回大活躍だったクノイチ達も、セントオルカの時にはいなかったメンバーだ。ぜひ俺と一緒に湯治をというので来てみたのだが、まさかシデンもいるとは思わなかった。つい一昨日まであんなに頑なだったのに、ずいぶん打ち解けてくれたようで嬉しいかぎりだ。 「あちち……擦り傷にしみるでござる」 「打ち身にも……」  ゼロとカエンは少し離れたところで、気持ちいいような痛みに耐えているような、なんともいえない顔で湯に身体を沈めている。二人は昼間、治療を終えたシデンのリハビリがてら指導を受けていたらしい。 「やはり、初代様にしごいていただくのが一番しっくり来ますね。娘達も喜んでいましたし」 「喜んではないでござるぅぅ……」 「でも昔みたいで、懐かしかった……」 「儂も懐かしくて、つい力が入ってしもうたわ」シデンは首をこきこきと鳴らした。 「しかし、二人とも本当に強くなったの。伝説が撮っていた頃の、どのテイクのゼロとカエンよりも今のお主らはずっと強い。そこは自信を持ってよいぞ」 「えっへへへ」 「ふふふふ」ゼロとカエンが嬉しそうに笑う。 「じゃが慢心はするなよ、上には上がおる。例えばあのワーグというちっこいのなど、相当の使い手と見たぞ」 「ぐっ……しょ、精進するでござる」  さすがシデン、鋭い。日本へ発つ前、ゼロが模擬戦でワーグに完敗していたのを思い出して俺は少し笑ってしまった。 「それにしても……」  クノイチ達はみんな、温泉が実によく似合う。ここが日本だからなのか、湯に浸かっていても、岩に腰かけて体を流していても、仕草やたたずまいがなんとも様になっていて、まるで映画の一シーンのようだ。 「うふふ、御屋形様。お考えになっていること、わかりますよ」  ざぶ、と湯を揺らして、エンライが頭より大きなおっぱいを腕に押しつけてきた。 「おいおい……」  気づけば反対側からゼロとカエンが同じように寄り添ってくる。俺は両腕をおっぱいに固められてしまった。 「これが映画の一場面なら、次にくる場面はもう決まっておりましょう?」 「こら、シデンが」  見てるぞ、と言おうとして俺は黙った。そのシデンまでがニヤニヤと意味ありげな笑みを浮かべて、正面から近づいてくるではないか。  と、その時、 「おー、始まってる始まってる」 「お邪魔します」  背後から聞き慣れた声が降ってきた。  ナースホルンとブラッディパンサー。その後ろにカリスタ、イオ、スプリガン。アーマードメイデンが勢揃いで入ってきたのだ。もちろん、全員タオル一枚の入浴仕様で。 「ふーん、おっぱいに囲まれていいご身分ね」 「し、司令官様、こんばんは……」 「今日は久々にレポーターじゃなく、素顔のスプリガンで参上でーす」  助け船が来たかと思ったのだが、シデンもエンライも驚いた様子はない。湯船のへりに追い詰められた俺のすぐ横まできたナースホルンは、しゃがみ込んでささやいた。 「司令官。パンサーに聞いたんですが、あのプロジェクトオルカの後、スカイナイツ全員を集めてご褒美をあげたそうですね?」 「えっ!? いや、それは、まあ……」 「私らも今回頑張ったことだし、ご褒美をいただく権利はありますよね?」なまめかしく笑うナースホルン。 「司令官、申し訳ありませんがそういうことですので……」ブラッディパンサーがいつの間にか反対側に来ていた。  これはつまり、アーマードメイデンとクノイチ達はグルだった……!? 「私達だけじゃないですよ。スカイナイツも後から来ます」  嘘お!? 「まあまあ皆様、お待ちくださいませ。まずは私どもが先手をいただきます」  エンライとシデンが、ざぶりと湯を揺らして立ち上がった。ナースホルンとパンサーがすっと下がる。 「おっと、失礼。それじゃ、ニンジャのお手並み拝見といこうか」 「せっかくの機会じゃ。門外不出のムラサキ流淫術、拝んでゆくがよい」 「…………!」  こうして、コロッサス戦に勝るとも劣らない、負けられない戦いが幕を開けたのだった。 Ev3-5 第三次セントオルカの秘密作戦 「旦那様、お帰りなさいませ。ご無事で何よりです」  深くお辞儀をして出迎えてくれたアルファに、俺はかるく手を上げて答えた。まだ身体の芯に疲れが残っている。  ノボリベツ温泉を皮切りとした隊員達の攻勢は、帰途のあいだも終わらなかった。魔法少女チームにコンパニオン、アザズ・エタニティ・ドラキュリナのトリオに、しまいにはDドームのクノイチ軍団まで……結局、行程の半分以上寝室にいたような気がする。  というわけで、しばらくはゆっくり過ごしたい。一月近くもヨーロッパを留守にしていたのだ、さぞ仕事がたまっているだろう。ワクワクしながら携帯端末を受け取る。 「実は、旦那様に特別にお願いしたい仕事がございます」 「!?」  おいおい、嬉しい言葉を聞かせてくれるじゃないか。端末を起動すると、新着タスクを表す大きな「!」マークが表示された。 「ふむふむ、スペシャル・タクティカル・コンフォート・ミッションね……」名前からしてものものしい。コンフォートって何だっけ。  業務内容の最初のページにはマリー以下、スチールラインの隊員十数名のリストが並んでいる。東欧方面を担当しているスチールラインから、負傷者と功労者を連れてマリーが一時帰投しているらしい。ついては彼らの功績を賞し、労苦をねぎらってあげてほしいとのこと。  主な業務エリアは……寝室。 「……これは………」  思い出した。コンフォートというのは「慰安」という意味だ。  リストは何ページも続いていた。初日はスチールライン。二日目にドゥーム。その翌日はホード。また翌日はバトルメイド。ヴァルハラ。キャノニア。エルブンズ。ホライゾン。工兵部隊……。  アルファとアルマンがこの上ない笑顔で俺を見ている。  この時になってようやく、俺はあのノボリベツ温泉からの日々がすべて、周到に組み上げられた秘密作戦の一環だったことに気づかされたのだった。 「……先に、食事をしてからでいいかな?」 「もちろんです。ソワンさんがとびきりの特別メニューを用意して待っています」 「特別メニューか……」  どのへんが特別なのか、聞かなくてもわかる。おそらく、これからの俺にはそのメニューが必要だろう。俺は覚悟を決めて食堂へ向かった。  その後。  人類抵抗軍総司令官のプライドにかけて、俺は全員を満足させることに成功した。たぶん、そう思う。少なくとも隊員達は一人残らず、笑顔で元気いっぱいに前線へ戻っていった。 「最高の時間でした……でもどうか、もう私達を置いて地球の反対側へ行ったりはなさらないでください」 「はは、すまん。気をつけるよ……」  リストの最後にあった、極東派遣艦隊のために招集されていた(けれど結局無駄足になってしまった)隊員達を送り出し、執務室へ戻った俺はがっくりと椅子へ崩れ落ちた。  疲れた……。いや決してイヤだったわけではないしむしろ俺も十分いい思いをしたが、それはそれとして疲れた……! 「邪魔するぞ、小僧」  どれくらいそうしていただろう。放心していた俺はドアの開く音で我に返った。ゼロ、カエン、それにシデンが目の前に立っている。すべての始まりとなったノボリベツの温泉を思い出し、俺は一瞬身構えた。 「そう怯えた顔をするな。よほど絞られたと見える」  シデンがクックッと笑う。まあ確かに絞られはしたが……。 「仕事……探しに来た。殿、忍びのご用命……ない?」  仕事? そんなこと言われても急には……だいたい、みんな大変だったんだから休んでればいいのに。 「十日も休んでおれば十分じゃ。これ以上ぐうたらしておっては技が鈍ってしまうわ」  十日……そうか、もうあれから十日もたったのか。時間の感覚がなくなっていたな。 「この十日。オルカを、この街をゆっくり見せてもらった。おぬしがここで何をしてきたか、どのような存在なのか、少しはわかったつもりでおる」  ようやく頭がはっきりしてきた俺の前に、シデンはかがみ込んで、そして深く、深く頭を下げた。 「すまなんだ。儂が徒におぬしを疑い、意地を張ったばかりに、無駄な時間を使わせたの」 「……無駄な時間なんかじゃなかったさ」  俺はシデンの肩に手を添えて立ち上がらせた。百年を生きた彼女の気持ちがわかる……なんてことは言わないが、想像はできる。あれは、きっと必要な時間だったのだ。 「だから、無理に仕事をしようなんて思わなくても……」 「いや、それは別の話じゃ。色々と物入りになって、余分のツナ缶が欲しくての」 「えっ」 「ここは実にいい所じゃ。特にオードリーという娘っ子の店がよい。ハイカラな服も靴も髪飾りもなんでも揃っておる。久々にギャルの血が騒いでしもうたわ」  ……ギャル?  そういえば、フレースヴェルグにそんな話を聞いたのを思い出した。妖怪の血を引くシデンは変化(へんげ)の術でどんな姿にもなれるが、ギャルを研究し、ギャルになるために今の姿になったんだとか。妖怪云々はただの設定としても、ギャル好きなのは本心かららしい。 「拙者達もおこづかいを稼がないといけないのでござる。母上におやつを没収されてしまい……」  なるほど。各々事情があるのはよくわかった。しかし申し訳ないがそもそも、個々の任務の割り振りは俺の領分ではない。 「軍本部に行けば、護衛要員の募集とかあるんじゃないかな」  シデンは拍子抜けしたような顔をした。「頭(かしら)のところに直接来れば、何かしら内密に片付けたい汚れ仕事の一つもあるかと思うたが」 「時代劇の見過ぎだよ」俺は思わず笑ってしまった。「オルカにそんなものはないし、もしあっても秘書室か080機関の管轄だ。俺はみんなが作ってくれた神輿の上に座ってるだけさ」  軍事も内政も、その道のプロが今のオルカにはずらりと揃っている。素人にすぎない俺がわざわざ決定しなくてはならないことなど、実を言えば大してないのだ。そうじゃなければ、こんなに仕事がなくてつらい思いをするもんか。 「民草とて、担ぐ神輿は選ぶものよ。自覚があるのは、よい神輿じゃ」  シデンはふしぎに優しく微笑んで、そんなことを言った。 「……あなた達! 初代様まで! 御屋形様を煩わせてはなりませんと言ったでしょう!」  と、廊下の向こうからエンライの声が聞こえて、三人がぎくりと身をこわばらせた。 「おっといかん。それでは、軍本部へ行ってみるとしよう」 「実力は俺の折り紙付きだって言っていいよ」 「そうさせてもらおうかの。では、御免!」  シデンは懐からピンポン球のようなものを取り出して、床に叩きつけた。とたんにもうもうと煙が湧き上がり、換気扇に吸い込まれたと思うと、もうそこには誰もいなかった。 「あの方は本当にもう……御屋形様、お騒がせして申し訳ありません」  エンライが早足に部屋の前を駆け抜けざま、ぺこりとお辞儀をしていく。俺はベッドに横になって、消える間際のシデンの笑顔を思い出していた。優しく、楽しげな笑顔を。  無限とも思えるあいだ鳴り響いていた雷はようやく収まり、あたたかな春の空が見えてきたようだった。 End =====  切り立った崖のふちに大きな柳の木が一本、細かな雨に濡れていた。  崖下には幅の広い川がゆったりと流れ、向こう岸は急峻な山々となって立ち上がっていく。その頂は雨にけぶって見えない。  柳の木の根元には、鉛色をした太い円筒のようなものが立てられている。円筒の中程にあるフタを開け、ユニバーサル電源コネクタにプラグを差し込んで、デカルトボイジャー・サッカは安堵のうめきを漏らした。 「いや、こんな山の中で充電スポットに行き会えるとは。地獄に仏とはまさにこのこと」 「お役に立てたのナら光栄です」  金属の円筒が答えた。品質の低い合成音声には、ところどころザラつきが混じる。こんな露天に何十年も据え付けられていれば、発声モジュールが劣化するのも当然だろう。  鉄虫を避けて移動しているうち、ずいぶんと辺鄙な山中に迷い込んでしまった。おそらく旧ロシア領はとうに越えて東ヨーロッパに入っているはずだが、GPSがしばらく前から調子が悪くて正確な位置がつかめない。その上バッテリーまで不調を起こした。伴侶を探すためならどこまででも旅する覚悟だったとはいえ、随分遠くまで来てしまったものだ。 「おっと、いかん。電力をほどこしてもらったというのに、名前も名乗らぬのは失礼極まるな」草の上に足を投げ出していたサッカは居住まいを正して座りなおし、剣を脇に置いて深々と頭を下げた。 「拙者、姓はデカルト、名はサッカ。号してボイジャーと申す。デカルトボイジャー・サッカと呼んでもらいたい」 「デカルトボイジャー様でスね。私は観光案内AI・TA27bでス。ご用があれバ何でもお申し付け下さい」 「うむ。あらためて礼を申す。観光案内AIというからは、ここは何かの名所なのか?」 「はい。この柳の木は、わが郷土の詩人がたビたビ訪れて作品の着想を得たと言われていまス。画面をご覧下サい」 「……ほう?」  円筒の上面にある液晶ディスプレイに表示されたのは、サッカの知らない名前と顔写真だった。世界最大級の人文系データベース「リュケイオン」の管理AIだった彼が知らないということは、少なくとも詩人としては知名度も実績もほとんどないことを意味する。 「よろシければ、彼の代表作を朗読シまシょうか」 「いや、またの機会で結構」サッカは丁重に断り、あたりを見回した。「しかし、確かにこの景色は詩情に富んでいるな。武陵や桂林の山々と比べても見劣りしない」  どちらを向いても、濃い緑の山々が雨とも霧ともつかぬ灰白色の中に、あるいは溶け込み、あるいは鋭く切りとって、果ても見えず広がっている。それは確かに幽玄の郷と呼ぶべき絶景であったが、困ったことには人里の気配がどこにも見当たらない。 「このあたりの地図データがあったらもらえまいか。近くの街へ行きたい。できれば、電化製品や精密機器がありそうな所へ」 「地図をプリントしまス。少々お待ちくだサい」  円柱の下部にあるトレーが開き、ジジジという音とともに紙片を吐き出した。丸まった感熱紙に、この周辺の観光地図が印刷されている。いくつかある観光名所の紹介文はチェコ語だった。最下部に、駐車場とレストランのマークと共に書き入れられた「市街方向」の矢印にサッカは目をとめた。 「この市街までは、どれくらいの距離がある?」 「混雑シていなけれバ、自動車で20分ほドでス」 「……ま、行けぬこともないか。感謝する」 「どういたシまシて。またのお越シをお待チシておりまス」  鉄虫を避けながら山道を下っていくと、街までは半日ほどかかった。市街にもやはり鉄虫がはびこっていたが、さいわい無事で残っている家電量販店の倉庫を見つけることができた。いくつかの部品を入手したサッカは余計な戦いを避け、翌日ふたたび柳の木まで戻ってきた。 「デカルトボイジャー様、お帰りなサいマせ。ご用をお申シ付けくだサい」鉛色の円筒が、変わらぬざらついた合成音声で出迎えてくれた。  それからの数日間、サッカは自身の修理とメンテナンスに専念した。何度か街に下りて部品を調達したが、そのたびこの柳の木に帰ってきた。静かで人間がいた形跡がほとんどなく、それゆえ鉄虫も寄りつかないこの場所は落ちついて作業するのにうってつけだった。「彼女」の存在も、よい気晴らしになってくれた。 「TA27bというのは、そなたの型番だろう? そなた自身を表す名前……シリアルナンバーを教えてもらいたいものだ」 「本機のシリアルナンバーはC69712WHでス」 「TA27b_C69712WH嬢か。型番とシリアル両方に2と7が入っている。均整のとれたいい名前だ」 「ありがとうございまス。褒めていただいて嬉シいでス」  彼女があまり高度なAIでないことは、わずかな会話ですぐにわかった。ごく限られた連想・類推能力しか持たず、グローバルネットワークにアクセスする機能もない。データ通信端子すらついていない。人類が滅亡したことも、おそらく認識できていないだろう。  旧時代、貧困化の進む中小国家が観光に力を入れるのはよくあることだった。めぼしい産業も政治力もない国が外貨を稼ぐ手段はそれくらいしかなかったのだ。しかしそのほとんどは、乏しい予算によるいじましくも薄っぺらな再開発にしかならず、彼らの望んだような富裕層の観光客を呼び寄せることはできなかった。誰も知らないようなローカル詩人ゆかりの地に安物の観光案内AIを置くなどというのは、その最たる例だろう。おそらくこの国のあちこちに似たような観光名所があり、彼女の姉妹が無数にばら撒かれているのに違いない。 「C69712WH嬢は詩をたしなむかね? くだんの詩人の詩を、そなたはどう思う?」 「彼の詩は郷土に根付いタ情感を巧みに歌い上げタことで、高い評価を得ていまス。代表作は……」 「ああいや、巷の評価ではなく、そなた自身の感想を聞きたいのだ」 「彼の詩は素晴らしい作品でス」 「ううん……まあ、そう言わぬわけにいかないのはわかるが……」  しかし、伴侶として求めるAIの基準に達していないからといって、彼女との会話が楽しくないわけではなかった。むしろ低機能AIゆえの、ほとんど無際限の善意と明るさは、滅んだ世界を孤独に旅してきたサッカの荒んだメモリを癒してくれた。 「お早うございまス。本日もご一緒でキて嬉しく思いまス」 「今日はコの季節には珍しいほどの快晴でス。河岸からの眺めをどうぞご堪能くだサい」 「デカルトボイジャー様の好きな詩はどのようなタイプでシょうか? ご気分に合うものを朗読いたシまス」  そうして二週間あまりが過ぎ、サッカのボディの修理は完了した。 「C69712WH嬢。そなたは、広い世界を見たいとは思わないか?」 「私は観光案内AIでス。こコでお客様をお迎えすることが本機の喜びでス」 「…………」  この二週間、サッカはたびたび自問していた。彼女はおそらく、物理的にここに固定されているだけにすぎない。有線でも無線でもネットワークには接続していないし、太陽電池パネルも本体に組み込まれている。土を掘り返して土台を壊すだけで、簡単に取り出して持ち運べるだろう。どこかで部品を探して機能を拡張すれば、伴侶にふさわしいAIへと花開くかもしれない。 (……いや。それは傲慢だ)  サッカは頭を振った。彼女は自分の境遇にも能力にも、少しも不満を持っていない。AIとして「成長」させようとするなど、押しつけがましい身勝手な善意でしかない。 「そう思うべきなのだろうな……」 「何がでシょうか?」 「何でもないよ。たいへん世話になった、C69712WH嬢。拙者はまた旅に出る」 「ご利用ありがとうございまシタ。また会える日をお待チシていまス。よろシければこチらをお持ちくだサい」  ボディ下部のトレーが開いて、小さな周辺地図が出てきた。それは初めて会った日にもらったのとまったく同じものだったが、サッカは礼を言い、ていねいに四つに畳んで懐へしまった。それから、街で調達してきた洗浄液と布を使って、C69712WHのボディを優しく、念入りに磨いてやった。 「ありがとうごザいまス。発電効率が向上シまスので、大変助かりまス」 「これくらいでは、拙者の受けた恩を返すことはならんさ」ぴかぴかになった上面ディスプレイと太陽電池パネルを、サッカは満足げに眺め、それから一歩離れて膝をついた。 「C69712WH嬢、この詩を受け取ってくれないか。そなたのために作ったのだ。  1010001010101001010101010010111110110/0000010100010110100010001001010000110/1110101010101101010111000100111010101/0111101100101010010101010100010101010 (眼下を流れる河の水さえも/君の心の透明度と輝度には及ばない/願わくは3.154×10^9秒後に訪れても/変わらぬ心で迎えておくれ)」    C69712WHはしばらく沈黙していた。明らかに、詩を送られるなどという経験はないのだろう。 「……ありガトうごザいまス。たいへん嬉シいでス」  途切れ途切れの合成音声には、戸惑いのようなものが感じられた。サッカは満足し、もう一度深く頭を下げた。 「どうか、末永く達者でな」  そして、市街へ通じる小道を、静かな足どりで下っていった。  ―――――― 「見たことのない鉄虫がいたな。弱いからよかったものの」  巨大なデモニックウェポンを地面に突き刺し、ゴルタリオンが唸った。  周囲には数十体の鉄虫の残骸と、戦闘の巻き添えでなぎ倒された木々が転がっている。チックタイプやスカウトタイプに交じって、確かに他のどれとも違う小型の鉄虫が一匹、痙攣を続ける胴体から紫色の体液を流していた。 「新種ですかね? また特異体とか?」戦闘用ボディのアルフレッドが、飛び散った木の葉や虫を慎重に避けながら見慣れない鉄虫に近寄ろる。 「民生品の機械かもしれんぞ。稀にだが、そういうもののAIが寄生されることもある」有機物アレルギーなどという難儀な性癖のないサッカは雨に濡れた木の葉を一枚つまみ上げ、くるくると回して裏表を眺めた。 「何にせよ、サンプルを持ち帰るべきであろうな。アルフレッド、頼めるか」 「お安いご用です」  アルフレッドが両肩のマテリアルシェイパーユニットを起動する。巨大な水生昆虫のような四機のユニットはたちまち鉄虫の残骸に群がり、長い前肢を動かして分解しはじめた。  よく暇な時に集まっては無駄話に花を咲かせている三機だが、最近は一緒に出撃する機会も多い。無尽蔵の再生能力を持つゴルタリオンと、材料さえあれば大抵の機械を即興で作り出せるアルフレッド、そして世界各地を一人で放浪していた経験のあるサッカのトリオは生存能力がきわめて高く、遠征任務に向いているのだ。  今日の彼らは、スチールライン東部方面軍に協力して偵察遠征を引き受けている。ちなみにアルフレッドは派遣先を砂漠にしてほしいと要請したが、ヨーロッパにそんなものはないという理由で却下された。 「ヨーロッパにだって砂漠はあるんですよ。かの『パットン大戦車軍団』の撮影にも使われたスペインのタベルナス砂漠を知らないとは、マリー少将ともあろうお方が……」 「屁理屈をこねておらんで仕事をしろ。だいたいスペインはまだ鉄虫の勢力圏だろうが。行きたいのか?」 「絶対嫌ですけれども」  ブツブツ言いながらもアルフレッドは、マテリアルシェイパーが掘り出した小さな部品に目をとめる。 「ははあ、プリンタを内蔵していますね。これは確かに民生用機械……情報端末か何かだったようです。しかし、こんな山奥にねえ」  プリンタの残骸に絡まった紙片を、マテリアルシェイパーの前肢が繊細にほどいて引っぱり出す。それを見たアルフレッドのメインモニタが、大きなクエスチョンマークを表示した。 「10100010101010010101……何ですかこれは。詩? サッカさん、何か……」  アルフレッドに呼ばれるより早く、その文字列を耳にしたサッカは走り寄って紙片をひったくっていた。  震える指先で文字列をあらためる。それは間違いなく、あの日サッカが彼女に送った詩の冒頭だった。 「どうしました?」 「まさか……」  分解された残骸を見下ろす。鉄虫の組織に覆われた表皮の隙間からわずかに覗く、鉛色の曲面に見覚えがある。  周囲を見回し、地図データを履歴付きで呼び出した。現在位置からほんの数キロ、尾根を隔てた反対側に、十数年前に訪れたあの崖があった。  サッカは鉄虫の残骸を抱き上げて走り出した。 「サッカさん!?」 「おい!?」  二人の声がたちまち遠ざかる。密生する木立の間を駆け上がり、また駆け下りる。地形情報がかつての記憶と合致しはじめる。大きな岩を一息に跳び越えた先に、そこはあった。  あの日と同じように、切り立った崖のふちに大きな柳の木が一本、細かな雨に濡れていた。  崖下には幅の広い川がゆったりと流れ、向こう岸は急峻な山々となって立ち上がっていく。その頂は雨にけぶって見えない。  柳の木の根元には、大きな穴があいていた。そこに設置されていた何かが無理矢理もがき出たような形にも見えたが、穴の内部にはすでに青々と草が生い茂り、かつて何があったのかはわからなくなっていた。 「なぜだ……こんな所に鉄虫が来るはずは……」  声に出してからサッカは気づいた。「大氾濫か」  二年前に起きた、世界規模の鉄虫の狂乱的進撃。本来なら鉄虫が目を付けるはずのなかったこの場所も、あの時なら襲われておかしくない。  サッカは自らの腕の中に目を落とした。 「C69712WH嬢。そなたは、ずっと……」  発声回路からしぼり出した音声が、途中で途切れた。  限定された思考機能しか持たないはずの彼女に、0と1の並んだ文字列が詩だとは理解できないかもしれない。あの時サッカはそう思っていた。その彼女がなぜあの詩を印字し、しかも排出しないまま十年以上も体内に保持していたのか。理由を知る機会は永遠に失われてしまった。  背後で足音がした。ゴルタリオンとアルフレッドが追いついてきたのだ。  サッカの背中を見て、二人はなにごとか察したようだった。しばらく沈黙が続いたあと、いかにもわざとらしくアルフレッドが大声を出した。 「あー、その何ですか、このあたりは予定区域から若干外れてはいますが。余力も十分ありますし、周辺を制圧しておくのは悪いことではないと思うんですが」 「うむうむ、違いない」わざとらしくゴルタリオンも答えた。「我輩らで行ってくるとしよう。サッカ、しばらくここを頼むぞ」  サッカの発声回路から、意図しない吐息のような音声が漏れた。それは人間でいえば、つい苦笑いをしてしまった、という現象に相当した。 「いや、拙者も行くよ。ただ、その前に少し時間をもらえんか」  サッカは柳の樹の根元に屈み込み、鉄虫の……否、C69712WHの亡骸を穴の中に安置した。それから立ち上がって向き直り、剣の柄に手を添えて腰を落とした。 「何を……」 「しっ」  瞑目するように、サッカはしばらくうつむいたまま動かなかった。それから右手が閃くように動き、細い木の皮が幾条も、音もなく飛び散った。  人間ならば見えなかっただろう。しかしSS級AGSであるアルフレッドとゴルタリオンのカメラは、超震動ブレードが亜音速で舞い、ふとい柳の幹に数十個の記号を刻みつけたのを確かに捉えた。  サッカは剣を鞘におさめるとふたたび身をかがめ、手で土をすくってC69712WHの上にかけた。ゴルタリオンが黙って歩み寄り、それを手伝った。アルフレッドは何度か足を踏み出してから申し訳なさそうに諦め、柳の幹に顔を近づけた。 「中国の文字だ。漢詩というやつですね」 「ああ。電詩よりも、今はそちらの気分でな。……ここは、何とかいうチェコの詩人ゆかりの名所だったのだそうだよ」  アルフレッドは頭部コアにかぶったブリキのシルクハットを傾け、表情ディスプレイをオフにした。  やがて、柳の根元にこんもりと丸い塚ができた。そこらに咲いていた花を一輪、塚の上に置くと、三機のAGSは無言で膝をつき手を合わせた。  それから立ち上がって、音もなく降りそそぐ細かい雨の中、しずかに山道をくだっていった。  柳の木と、刻まれた詩だけがそれを見送っていた。 百載青山色未移   (百年が過ぎても山は変わらず青く) 久遇君素心未謝   (久しぶりに会った貴女の心もまた変わらず美しかった) 鉄躯無涙雖不泣   (鉄でできたこの体は涙を流せないが) 雨柳垂涙為我霞   (雨に濡れる柳が代わりに泣いてくれるだろう) End ===== 「次、ショート!」  カァンと乾いた打撃音が響き、芝の緑を切りさいて白球が飛ぶ。横っとびに跳ねたケルベロスがそれをグラブに収め、くるりと一回転して二塁を守るセーフティにトスした。 「初動が遅い! 今のは正面から捕って!」 「はい!」 「低くね! 腰を低く構えるのを忘れないで!」 「はーいっ!」  元気よく答えたケルベロスのうしろでは、何組かのエルブンとダークエルブンが近づいたり離れたりしながらキャッチボールを繰り返している。ベンチの近くではマイティRとアクロバティック・サニーが、ウェイトリングをはめたバットで素振りをしている。  カラカスでは今、ちょっとした野球ブームが巻き起こっていた。  もともとPECSのバイオロイドには野球好きが多い。野球の盛んなアメリカでは、開発者側もユーザー側もそういう人格を好ましいものとしたからだ。PECSが運営する事業の一つであるBBL(バイオロイド・ベースボール・リーグ)は、旧時代末期にはMLBをしのぐ人気を誇っていた。  野球をやるには専用の道具と広い平坦な土地、できれば専用のスタジアムが必要である。潜水艦時代は言うまでもなく、箱舟時代にもそんな余裕はなかった。ヨーロッパに来てようやく土地は手に入ったが、生憎なことにフランスは野球後進国で、国中探しても球場は数えるほどしかない。  しかし、南米を手にして状況は一変した。こちらでは野球はサッカーと並ぶ国民的スポーツだ。設備も道具も旧時代からのものがいくらでもある。なんでもない空き地にさえベースラインが引かれていたりする。野球を愛する文化が街そのものに根付いているのだ。  カラカスで暮らしていたバイオロイドはもちろんのこと、かつてバンクーバー作戦で合流した北米のバイオロイドの中にも野球ファンや経験者は多数いた。彼らとの交流を促進する意味でも野球が奨励され、オルカの正規クルーにもわざわざ野球をしにカラカスへ来ている者もいる。 「ラストおー! 外野いくよー!」  クローバーエースもその一人である。  高校時代……つまり『クローバーエース』が撮影されていた頃、エースは運動部の助っ人に呼ばれることがしばしばあった。特に野球部は常連といっていいほどで、先発で投げたことも四番を打ったこともある。もちろんそれは全部「そういう脚本」に過ぎず、相手校のピッチャーが機械帝国の刺客だったりしたものだが、そこで学んだ野球の楽しさは……少なくともエースにとっては……本物だった。  スタンド際のセンターフライ、右中間への高速ゴロ、レフトへのポテンヒットと次々打ち分けて、一息ついたエースの背後から清涼飲料水のボトルが放られた。 「お疲れさん。上手いもんだねえ」  エースは振り向きざま、こともなげにボトルをキャッチする。ベースボールシャツにハーフパンツ、サンダル履きというラフな格好の蹂躙のソニアが、ビニール袋を片手に笑っていた。 「仕事はいいの?」 「いい仕事のコツは、ほどほどに息抜きをすることさ。これ、差し入れね」  イングリッシュ・シェパードが北米へ発ち、サディアスが療養休暇中の今、カラカスのシティガードの総指揮はソニアがとっている。へらへらした態度を見せてはいるが、市内の治安がめざましい勢いで改善しているのをエースは知っていた。 「ありがと。ソニアさんもやる? 道具ならあるよ」 「私は見る方専門。野球に必要な道具はビールと寝椅子(カウチ)さ」ソニアは肩をすくめる。 「試合はまだ始まんないのかい」 「あと何人か来たらチーム分けかなあ。昼からって告知は出したんだけど、こっちの人は結構ルーズでさ」  エース達のいるこの「エスタディオ・ウニベルシタリオ」はカラカス市街の外れに位置する、二万人収容の大スタジアムである。が、そこでエース達がやっているのはその日その日に集まったメンバーを適当に振り分けての草野球……というより、野良野球だった。正式なチームを結成して試合を組みたいという声もあるが、それはもう少し復興が進んでからの話とオルカの誰もが理解している。まずは長年の搾取で疲弊しきったカラカス市民に、体力と気力とを取り戻してもらうのが第一だ。 「あんた日本の出身だろ? 日本も野球強かったよねえ」ソニアは自分もボトルを開け、一口あおった。」 「日本でやってたのは高校野球だったけどね。でも旅してた頃はアメリカもあっちこっち行ったから、こっちの野球もちょっとだけ知ってるよ」  エースはにやりと笑った。「ピッツバーグ・アイアンメイデンでプレーしたことがあるって言ったら、信じる?」 「何だそりゃ!? 一体どういう……」ソニアが目をむいた。「……あ、いや待てよ。もしかしてあんたが旅してた頃って」 「正解」さすがはソニア、あっさりネタがばれてしまった。エースは苦笑でこたえる。  滅亡戦争の初期には、民間バイオロイドの徴用が世界中で起こった。鉄虫がAGSに寄生することがわかり、戦闘用バイオロイドの需要が急増したからだ。BBLも例外ではなく、性能の優れた選手からどんどん前線へ送られた。エースがアメリカを旅していた頃はどのチームも一軍はおろか二軍すら大半が不在で、かつてよりずっとレベルの落ちた試合を、それでも人間達の慰みのために興行していた。SS級バイオロイドで野球経験者のエースなど、どこでも諸手を挙げて歓迎されたものだ。 「なるほどねえ」空気が暗くなりかけたのを察してか、ソニアがことさら明るい声を出した。「あんたのプレイにどうも見覚えがある気がしてたんだ。BBL仕込みだったのか」 「仕込みってほどじゃないよ。ちょっぴり教わっただけ」エースは赤面する。 「謙遜するなよ。さっきのスイングなんか、全盛期のパンサーそっくりだったぜ」 「そ、そう? えへへ」頬をごしごしこすってエースはバットを手にとる。「ほら外野、もう一本いくからね!」  照れ隠しに思いっきり振り抜いたバットが、ボールを必要以上に芯でとらえた感覚があった。 「あ」  しまった、と思う間もなく打球は外野のはるか頭上を越えていく。スタンドには暇な観客が何人かいるだけだが、間の悪いスパルタンブーマーが一機、ちょうどボールの落下地点あたりをのこのこ歩いていた。 「危ない!」  間に合わないと知りつつ、エースはバットを捨てて駆け出そうとする。しかしそれより早く、そのブーマーは片手を上げて無造作に打球をキャッチした。  ブーマーは少しの間しげしげとボールを眺めてから頭部を回し、バッターボックスにいるエースを見た。そして、両手で祈るように胸の前でボールを持ち、左足を上げた。 「え?」  上げた足を大きく前へ踏み出し、同時にボールを持った右手を真横へ振り抜く。完璧なフォームのサイドスローで投げられたボールはスタンドから本塁までほとんど一直線に飛び、ストライクゾーンネットへたたき込まれた。  ひゅう、とソニアが口笛を吹く。網に絡まってなおしばらく回転を続け、ようやく止まったその球を、クローバーエースは呆然と見つめ、それからみるみる笑顔になって今度こそ駆け出した。 「ゴールディ! “ゴールデンアーム”ブーマーだろ!?」  スタンド最前列まで降りてきたそのブーマーは、エースに向かって丁寧に一礼した。 「64年と138日ぶりですね、クローバーエース」 「紹介するよ。2112年のインディアナポリス・スパルタンズ最強のエース、黄金の右腕ことスパルタンブーマーR44732」  近くで見ると、そのスパルタンブーマーはずいぶんと外装の傷やサビが目立った。背中のミサイルポッドも二つともなくなっている。長い年月を経てきた機体であることがうかがわれた。 「ソニアだ。来たばかりで悪いけど、少しチェックさせてもらうよ」  ソニアは明るい歓迎の笑みを口元だけで浮かべながら、ポケットから取り出した装置をブーマーにつないだ。AGSが外部からオルカに合流することは滅多にないが、そういう場合のマニュアルはちゃんと用意されている。機械的なツールが使える分、バイオロイドよりも話が早い。 「ふむ、体内に不審物なし。ウイルスなし、不正データの形跡なし……と。オーケイ、悪かったね。オルカへようこそ」 「いいえ、当然必要な手続きと考えます。受け入れて下さってありがとうございます」 「また会えるなんて思わなかった。無事で本当に嬉しいよ、ゴールディ」クローバーエースが塗装のはげた装甲を叩いて、しみじみと言った。 「あれからどうしてたの? なんで南米に?」 「鉄虫とレモネード評議会の双方から身を隠すには北米よりも有利だと判断し、45年前に移動しました。オルカがカラカスを勢力下に置いたという宣伝放送を受信して来てみたのですが、あなたがいるとは想定しませんでした。人間のいう、嬉しい誤算という現象ですね」 「はは、まったくだ」 「しかし、インディアナポリス・スパルタンズだって? ……AGSリーグだよな」  ソニアはサングラスの陰で、ほんのわずかに眉をしかめた。  BBLはバイオロイドによるスポーツエンタテインメントの中でも、一番まともな部類に属していた。試合は人間の野球と同じルールで行われたし、不正や理不尽があったとしても、少なくともグラウンドの中では、それは人間同士でもありうる程度のものでしかなかった。要するに、それは本物の野球だった。  しかし、AGSリーグは違う。それは野球というより、野球の体裁をかりたデモリッション・ダービーに近かった。観客が見たいのは鋼鉄製の打球や激しいクロスプレーによって破壊されるロボットであり、華麗な送球やホームランではない。AGSリーグのエースというのは、一番大量かつ派手に相手チームのバッターを破壊したピッチャーに与えられる称号だ。 「発言の意図は理解できます、ソニア警視正。しかし、何ごとにも例外はあります。あの年のインディアナポリスにだけは、本物のAGS野球がありました。クローバーエースが教えてくれたのです」 「いや、あはは、そんな。褒めすぎだよ」 「日本人てのはどうにも謙虚でね、自分の手柄をなかなか話したがらないんだ」赤面するエースを横目で見ながら、ソニアはニヤニヤと笑った。「どうだい、一ブロック先にAGS工場がある。スパルタンの純正パーツも置いてる。そこでメンテしながらゆっくり話を聞かせてもらうってのは?」 「それは素晴らしい。純正部品などもう何十年も組み込んでいません」 「ちょっと、ソニアさん!」 「いいじゃんか、試合の始まるのをただ待ってるよりよっぽど面白そうだ」  ソニアは笑って歩き出す。スパルタンブーマーも後に続き、エースは仕方なく二人を追った。 「2112年のインディアナポリスは、記録的な猛暑でした……」  ――――――  2112年。鉄虫との戦争が辛うじてまだ「戦争」であり、生き残りをかけた死闘ではなかった、旧時代最後の――そう言ってよければ――幸福な一年。  その年のインディアナポリスは記録的な猛暑だった。 「なあ44(フォーティ・フォー)、一体何を考えてるんだ?」  エアコンが唸りを上げる選手控室で、インディアナポリス・スパルタンズの監督は固太りした体を揺らし、太い葉巻をしがみながら唾を吐くように言葉を吐いた。彼はいつも、選手のことを認識番号の頭二桁で呼ぶ。 「なぜランパーツの三番に死球をぶち当てなかった? その金ぴかのキャノンは何のためについてる?」  スパルタンブーマーR44732は試合後の自己チェックプログラムを走らせながらオーナーの質問を検討し、返答した。 「監督、死球は出塁を招き、失点につながります。本機は当該打者を三振に取りました」 「それがどうした?」監督は葉巻を噛みちぎらんばかりに歯を剥いた。「あのクソランパートが傷一つないままバッターボックスから下りた時の、観客のため息が聞こえなかったのか? お前の仕事は何だ。言ってみろ」 「高いパフォーマンスでプレーを行い、試合に勝つことです」  スパルタンブーマーは実直に答え、監督はだまってスタジアムジャンパーのポケットに手を突っ込んだ。その直後、ブーマーの視界に激しいノイズが走った。 「プガッ……」  AGSリーグに所属する機体は全機、ショックモジュールを体内に組み込むことが義務づけられている。人間がAGSの横っ面を殴り飛ばすことは難しいので、その代わりに導入されたデバイスだ。監督の携帯するボタン一つで作動し、AGSの知覚系に強力なオーバーフロー、人間でいえば激痛に相当する入力をもたらす。自己チェックプログラムがエラー終了し、関節サーボモーターを制御できなくなってブーマーは横転した。 「44、何度言ったらわかる? お前の役目は観客を喜ばせることだ。観客を、喜ばせる。聞こえてるか?」  監督は横たわったブーマーの頭部を見下ろし、赤子に言葉を教えるように一言一言を区切って繰り返した。 「……良い、試合を、見せて」ブーマーはまだノイズの残る発声回路を動かした。 「うん?」 「その上で……勝利すれば、観客の皆様を喜ばせることができます」  監督はもう一度ポケットの中の手を動かし、ブーマーのボディが跳ねた。 「観客が喜ぶのはな、お前らがハデにぶっ壊れる時だ。スパーク、炎、そして爆発だ! それに比べたら試合に勝とうが負けようが、どうでもいいことなんだ。いいか44、こんな世の中だ、みんなスカッとするものを見たいんだよ。客が見たいものを見せてやるのがプロフェッショナルだ。今日のお前はプロじゃなかった。そうだろ?」  監督は短くなった葉巻を口から離し、ブーマーの胸部プレートに押しつけてもみ消した。 「明日の試合には出さん。一日ゆっくり休んで考えてみるがいい。前線にも出られないお前のようなオンボロAGSが、どうすれば世の中の役に立てるのかをな」  暮れなずむウエスト・メリーランド・ストリートを、スパルタンブーマーR44732はとぼとぼと歩いていた。  二日後まで何のタスクもない。スリープモードに入れば電力を節約できるが、今は稼働を続け、過去の経験データをプロセッサにかけることに時間を使いたかった。  鉄虫がAGSに寄生するとわかってから、それまで主力兵器であったAGSの価値は暴落した。あらゆる企業、あらゆる軍隊は大急ぎでAGSを前線から引き上げはじめた。中枢回路を生体素材に置き換えれば寄生を防げるという情報もあったが、そんな処置をほどこす機材と予算はどこにでもあるわけではなく、結果としてAGSは戦火の及ばない後方での雑用を担当するか、さもなくば廃棄されるしかない存在と化した。インディアナポリスのように野球が盛んな都市では、AGSリーグが受け皿として機能する分まだましな方と言えるかもしれない。 (監督の言うように、相手チームの機体を破壊することを優先するべきなのだろうか)  その問いは25秒前から、もう数千回も思考回路の中でループしていた。  人間に奉仕するという観点からみれば、当然イエスだ。監督も言っていたとおり観客が求めるものを提供すべきであり、それをするのが今のブーマーの役割だ。 (しかし、それは野球と呼べるのだろうか)  除隊してスパルタンズに編入されるにあたり、ブーマーは野球に関する過去の資料を勤勉にインプットした。映像資料の中の野球選手達は、人間もバイオロイドも、たった一個のボールを投げて、打って、捕ることに身体能力のすべてを振り絞っていた。観客はそれに熱狂し、一つのプレーが成功したり失敗したりするたび、地鳴りのような歓声が映像ごしに伝わってきた。  本機は、いやAGS野球は、これを目標とすべきなのではないか。  ブーマーの論理回路の中に、そのような仮説がいつの間にか設定されていた。  背中のミサイルポッドをピッチングキャノンに換装された時も、初めてマウンドに立ち、AGSリーグに求められているものが人間やバイオロイドの野球とまるで違うと学習した時も。キャノンを金色に塗装して「ゴールデンアーム」の愛称で先発投手を務めるようになってからも、それはずっと変わらなかった。 「あ、ゴールディだ! “ゴールデンアーム”ブーマー!」  ループに陥ったブーマーに、元気のいい声が背中からぶつかってきた。薄汚れた身なりの子供が三、四人、歓声を上げてむらがってくる。下層労働者の子供達だ。彼らの親のほとんどがAGSリーグの熱心な観客であり、彼ら自身も多くはそうである。一番年長の男の子が、ブーマーの背中の装甲板を勢いよく平手で叩いた。 「ゴールディ、今日の試合はつまんなかったぜ。明日こそ、ランパーツの奴らを粉々にぶっ壊してくれよな」 「…………申し訳ありません。明日は本機は出場しないのです。監督から休暇をいただいています」  一秒未満の逡巡のすえにブーマーが答えると、子供達はいっせいに頬を膨らませた。 「そうなの? なーんだ」 「ゴールディが出ない試合なんて、見に行かなーい」 「申し訳ありません」ブーマーはもう一度繰り返した。  この子供達もやはり、ブーマーが相手チームの機体を破壊することを望んでいる。彼らの手は機械油で汚れていた。バイオロイドが残らず徴兵され、民間の労働力が足りなくなった結果、こんな子供までもが労働に駆り出されているのだ。彼らが期待している光景を見せ、彼らを元気づけるのは正しいことではないだろうか?  解答の条件が完全に揃ったように見えるにもかかわらず、論理回路はどうしても結論を出さなかった。 「皆様のご期待に応えられるよう、善処いたします」 「きっとだぜ! 頑張れよ!」  子供達と別れてからも、ブーマーはなおもあてどなく歩き続けた。加熱した思考回路がエラーをもたらしたか、マニピュレーターが微妙な誤作動を起こし、ずっと手に持っていたボールが地面に落ちた。  AGSリーグの硬球には鋼鉄の芯が入っており、重さも通常の野球用硬球の数倍ある。万一車にでも踏まれれば大事故につながりかねない。アスファルトに重い音をさせて転がっていくボールは、しかしブーマーが追いつくより早く、白い手に拾い上げられた。 「へえ、AGSリーグのボールってこんなに重いんだね」  鮮やかな緑のラインが入った白いボディスーツは、BBLの選手にいくらか似ていた。だがこんなユニフォームのチームはデータベースに存在しないし、そもそもこの街にBBLのチームはない。身なりと、鉄球を軽々と片手でつかみ上げたところからバイオロイドであろうと推測したが、念のためブーマーは対人間モードのプロトコルで問いかけた。 「拾っていただきありがとうございます。お手数をおかけして申し訳ありません。お名前を伺えるでしょうか?」  人影がこちらを向き、鳶色の瞳がまっすぐブーマーを見据えた。 「キミの進むべき道を知っている者……かな?」  風になびく長い黒髪に一筋入った緑色のメッシュが、夕陽を受けてきらりと光った。 「今日の試合、中継で見てたよ」  そのバイオロイドはクローバーエースと名乗った。気ままに世界を旅して、今はインディアナポリスの防衛隊に協力しているのだという。自分が街外れのバイオロイド宿舎近くまで歩いてきていたことに、ブーマーはその時初めて気がついた。 「どうして、あの三番のランパートにぶつけなかったの?」  監督と同じ質問だったが、監督とは違うことを訊ねられているとブーマーは判断した。 「……それが、あるべき野球のスタイルだと判断したからです」 「キミは、どんな野球がしたいかをちゃんと自分の中に持ってるんだね」  熟慮の末に回答すると、クローバーエースは笑った。優しく、力づけるような笑みだった。 「アタシは昔、親友に言われたんだ。自由に生きろ、したいことをして、気の向くままに生きろって。だけど旅を始めた頃は、そんなことがアタシにできるかわからなかった。だってアタシは、ただ作りものの世界で正義の味方ごっこをしていただけの子供だったから。アタシは本物の自由も、正義も、幸せも、何も知らないんだって思ってた」  グローバルネットを検索すると、クローバーエースの情報はすぐに見つかった。伝説サイエンスのリアリティショー番組『友情戦士クローバーエース』の主人公。他のほとんどのテレビ番組と同様、鉄虫の襲来とともに放送は中断している。  番組コンセプトを読むかぎり、主演俳優であるクローバーエースは精巧に作られたセットの世界を現実と信じて暮らしているはずだったが、目の前の彼女にそうした様子は見られない。気ままに旅をしているなどというのも、バイオロイドには通常ありえないことだ。疑問や不審は無数にあったが、なぜかブーマーは彼女を要警戒対象には含めなかった。彼女の言葉は、理由は不明だが信頼性が高いと判断できた。 「でもそうじゃなかった。たとえずっと偽物の世界で生きてきても、アタシの正義はウソじゃない。それはちゃんとアタシの中にあったんだ」  クローバーエースの手が、ブーマーの背中の装甲板を叩いた。固い音がした。 「だからさ、ブーマーも自分の信じた野球をやってみたらいいと思うよ」 「しかし、それは観客が期待しているものではないかもしれません」 「やってみなけりゃわからないさ。キミの野球が、本当にキミが目指すくらい素敵なら、きっと観客の心だって震わせられるんじゃないかな」 「そう判断する根拠が、本機には不足しているのです」 「じゃあ、アタシも賛成する。キミの野球は、きっと素敵だ。アタシも見てみたいな」  クローバーエースはもう一度、今度は悪戯っぽく笑った。 「アタシ、あのピッツバーグ・アイアンメイデンで投げたこともあるんだよ。根拠になると思わない?」 「本当ですか。それは素晴らしい実績をお持ちですね。確かに判断の根拠として十分かもしれません」  本心からそう思ったから言ったのだが、クローバーエースはしばらくして、顔を赤くして付け加えた。 「……まあ、三軍のメンバーしか残ってなくて、選手が足りなかったからなんだけど」  二日後。  インディアナポリスのスタジアム、ヴィクトリーフィールドは一回表から騒然となった。  マウンドに上がったエースのスパルタンブーマーR44732が、トレードマークの金色のピッチングキャノンをいきなりパージしたのだ。  弾倉から取り出したボールを右手でにぎったブーマーは左脚を高く上げ、そのまま大きく前へ踏み出すと同時に、腕を真横に振り抜いた。それは完璧なサイドスローのフォームであり、ボールは激しくスピンしながら敵チーム、フォートウェイン・フォールンエンジェルズの一番打者ギガンテスR8031の肘と膝の間を通過し、外野まで届くような高く鋭い音を立ててミットに突き刺さった。  観客席がざわめいた。必ずしも好意的なざわめきではなかったが。 〈44、何のマネだ〉  通信モジュールから監督の声が飛び込んできた。音声分析にかけるまでもなく、相当怒っているのがわかる。 「監督、観客の反応をご覧下さい。たいへん関心が高まっているように測定できます」 〈お前が珍妙なことをやり始めたから、面白がってるだけだ〉 「では、面白がっている間は続けさせて下さい」 〈貴様……〉  ブーマーは通信を切り、セットポジションに入った。二球目もど真ん中のストレート。ストライク。  バッターボックスのギガンテスが、鈍重な頭部を戸惑うように振った。一番打者にはチームでもっとも老朽化した、動きの鈍い機体を置くのがAGSリーグのセオリーだ。トップバッターの役目は塁に出ることではなく、派手に痛めつけられ、時には破壊されて序盤の空気を盛り上げることだ。  三球目、ギガンテスはのろのろとバットを振ったが、かすりもせずストライク。サビの浮いた頭部がもう一度ブーマーを見て、のろのろとベンチへ下がっていった。きっと無傷で打席から下りることは滅多にないのだろう。  昨日一日を、ブーマーは投球練習に費やした。本当の野球をしたいなら、まず何より自分自身の手足でボールとバットを扱うのが最低条件だ……そうクローバーエースが言ったのだ。スパルタンの肩の構造ではオーバースローは不可能であることがすぐに判明し、投球フォームにはサイドスローを選んだ。  ライブラリからMLBやBBLの名投手の映像を引き出し、彼らのフォームを分析して自分のボディの可動範囲とすり合わせ、最も効果的な投球モーションを導き出す。それが完了したら今度は実際に何度も投球を行い、全身の関節とサーボモーターをその動きに馴染ませる。そのすべてに、クローバーエースは根気よく付き合ってくれた。 「防衛隊の仕事はいいのですか?」 「昨日のうちに、近くの鉄虫は張り切って片付けておいたからね。今日は夜まで出動はないと思うよ」  そう言って笑うエースのコスチュームには、前日まではなかった真新しい傷跡がいくつも走っていた。  ブーマーは聴覚センサーで観客の反応をうかがった。観客同士の会話量が増えているのは、戸惑いが勝っている証拠だ。声援はほとんどない。だがブーイングもない。 「おいおい、堂に入ってるじゃないか」 「本気で野球を勉強したってのか?」  ごくわずかだがポジティブな語句も含まれている。まだいける、とブーマーは判断した。  二番打者はフォールンR916281。打撃用アームが増設されており、長いバットをらくらくと構えている。先端を小刻みに何度も揺らし、打つ気満々といった様子だ。  初球ストレートを捕らえられた。金属質の打撃音とともに、打球がブーマーの胸部を直撃する。視覚と聴覚にノイズが走り、左半身の動きが一瞬止まった。  一番打者の役目がピッチャーに痛めつけられることなら、二番打者の役目はそれに報復することである。ボールがマウンドに落下して丸い跡をつける頃には、フォールンR916281は悠々と一塁に進んでいた。この試合で初めて、とどろくような歓声が上がった。 〈44、そろそろ満足したか? 遊びは終わりだ〉 「いいえ監督、観客の興奮度は高まっています。まだ続けられます」  今度は監督の方から通信が切られた。寸前に舌打ちが聞こえた。  三番はフォールンS664752。二番のフォールンよりも強力なアームを装備している、フォールンエンジェルズの主砲の一機だ。初球は見逃しのストライク。彼もまた、こちらの意図を図りかねているのだろう。  二球目にスライダー。スパルタンの指でも、投げ方を工夫すれば十分にマグヌス効果を発揮できることは昨日検証済みだ。バッターの手元で鋭く外角へ切れ上がったボールは、しかしまたもピッチャー返しに捕らえられた。  腹部に激突。視覚と聴覚に再度大きなノイズが入るが、しかし今度は左腕をすばやく伸ばし、体にめり込んだボールをしっかりとキャッチした。  間髪を入れず、フォールンがアームを振り回してバットを投げる。まっすぐ飛んだバットはブーマーの頭部に命中した。人間の野球なら退場ものの暴力行為だが、AGSリーグではちょっとした余興にすぎない。ブーマーはセンサーのエラー警告を無視し、握ったボールを落とさないことだけに集中した。ツーアウト。  観客席が静かになってきた。もう限界だろうか? いや、もう少し。  フォールンの二倍はある巨体が、のっそりとバッターボックスに足を踏み入れた。セルジュークVB7849。二連装砲塔の片方を外し、もう片方をバットに換装した、フォールンエンジェルズ不動の四番であり、リーグ全体でもトップクラスのスラッガーだ。途轍もない威力の打球は数多くのピッチャーや内野手ばかりか、外野手までも破壊してきた。  セルジュークは一球目から鋭く振ってきた。わずかに右に切れてファール。ボール気味の外角球にしたのが有効だった。ピッチングキャノンとはリリース位置が違うため、精密な選球ができないはずだ。  二球目はボール。三球目は左に切れるファール。四球目はまたボール。  狙ったボールではない。二機のフォールンからの被弾により、関節制御に微妙な狂いが出ている。 「タイム」  キャッチャーを務めるスパルタンキャプテンS6890が立ち上がって手を上げ、早足にマウンドへやってきた。 「R44732、ピッチングキャノンを装着するか、または降板を申請しろ。投球の精度が下がっている」 「補正可能だ。投球を続ける」  試合中は選手間の無線通信が禁止されているため、スパルタン同士であってもこうして音声会話が必要になる。キャプテンは頭部ユニットを左右に振った。「精度だけの問題ではない。そもそもなぜマニピュレータを使って投球する?」 「ピッチングとは本来そうするものだからだ」 「非合理的だ」キャプテンは再度頭部を振った。「人類がAGS野球に求めているものは破壊のカタルシスだ。野球それ自体ではない。SNSテキストマイニングをかけたことがないのか?」 「その認識は変革できるというのが、本機の判断だ」 「R44732のAIには明らかな異常が認められる」 「異常はない。あるのは信念だ」  ドシン、と軽い振動がマウンドを揺らした。バッターボックスのセルジュークが足を踏みならし、早くプレーを再開しろと促している。これ以上議論を続ければ、遅延行為として二機とも処分されかねない。キャプテンはもう0.2秒だけブーマーを見つめ、それ以上何も言わず早足でキャッチャースボックスへ戻った。  五球目、ファール。六球目、ボール。これでフルカウント。  七球目、またファール。しかし、徐々に飛距離が伸びている。球を捉えられつつある。  観客席が静まりかえっていることに、ブーマーは気づいた。監督からの通信も入ってこない。  待っているのだ。ブーマーの次の投球を。  ブーマーはセットポジションに構え、コンマ数秒をかけてモーション管制以外のすべてのプログラムを一時的にスリープさせた。肩、腕、脚、全身のセンサーとモーターの状態をリアルタイムでモニターする。いくつかのエラー警告を無視する。可動範囲の限界まで足を踏み出し、腕を伸ばした。金属のフレームとギアで構成された腕が、まるでムチのように柔らかくしなる錯覚が発生した。この試合最高のストレートを投げたという確信があった。  セルジュークが前傾姿勢をとり、砲塔をわずかに後ろへ旋回してから、最大速度で振り抜いた。  鋭く重い打撃音とともに、火花をまといつかせた鋼鉄の球が、ブーマーのはるか頭上をまっすぐ後方へ吹っ飛んでいった。  ―――――― 「結局、試合は惨敗でした。本機は二回表にさらに三発のピッチャー返しを被弾し、四回にはダメージで降板となりました」  ブーマーR44732が語り終えるのと同時に、カラカス工場のフォーチュンが大きな音を立ててボディ後部を閉じた。 「バッテリーと最低限のパーツだけ交換したわ。これ以上はフルメンテじゃないと無理。こんなに全身の関節を使い込んだスパルタンなんて、お姉さん初めて見たわよ」 「ありがとうございます。出力安定性と伝達効率が格段に向上しました。五十年前のステータスに戻ったようです」  ブーマーはメンテナンスベッドから軽やかに降り立ち、フォーチュンに向かって腰を折った。 「それで、あんたは試合後無事だったのか?」  待ちきれないようにソニアが訊いた。ミスをしたり観客の不興を買った選手が試合後に解体処分されるのは、AGSリーグでは珍しいことではなかったはずだ。 「試合後の監督は大変ネガティブな意味で興奮しており、本機は一度解体命令を下されましたが、観客の満足度が予想外に高かったことが判明して撤回されました。とはいえその理由は主に、本機のプレーが物珍しく滑稽だったためのようで、本来企図していた試合の感動を与えられたわけではありませんでした」 「でも、あの試合は本当に凄かったんだよ」エースは急いで付け加えた。「防衛隊でもみんな観てた。録画してた子がいたから、何度も見返したよ」 「ありがとうございます。クローバーエースには本当にお世話になりました」  エースはその後も、インディアナポリス防衛隊として鉄虫と戦うかたわら割けるかぎりの時間を割いてブーマーの練習につきあった。彼が初めて完投勝利した日の喜びは、今も鮮やかに覚えている。その翌日、スパルタンキャプテンS6890が練習に参加したいと言ってきた日の感動も。  そして、ブーマーに仲間ができたのを見届けたエースはインディアナポリスを後にした。もともと一つの街に長くとどまる気はなかったし、アメリカに来てからずっとつきまとっていたPECSの目と手が、いよいよ身近に迫ってきたのを感じたからだ。今思えば、あれはレモネードの誰かが伝説製の最新型バイオロイドの情報を入手しようとしていたのだろう。 「報告の機会がありませんでしたが、あなたが街を去ってから一週間後、ギガンテスR8031がスパルタンズに加わりました。フォールンエンジェルズから放出され、本人の申し出によりスパルタンズが引き取ったのです。本機のプレースタイルに関心を持ったのが理由とのことでした」 「すごいや。どんどん仲間が増えてたんだね」エースは目を輝かせた。「それなのに、あの時はごめん。途中で放り出すようなことになっちゃって」 「いいえ。あなたに教わったことはすべて、最重要の知的財産となりました。『AGSリーガーを磨くのはAGSリーガーだ』……この言葉は本機自身、キーワードとして何度も他の機体に伝えたものです」 「……あはは。あっはっはっは」  頬が熱くなって、エースは長い髪をむやみにかき回した。あらためて思い返すと、当時の自分は「流浪のヒーロー」を自認するあまりだいぶ格好をつけていた気がする。ブーマーに語ってきかせた言葉の少なからぬ部分が、小さい頃好きだったスポ根アニメの受け売りだったことは黙っておこう。 「チーム内にも本機の企図に賛同する機体が出現し、ほんの数名ですが応援してくれる人間も現れました。次シーズンはよりよい結果を残せると確信していたのですが」  ブーマーはそこで一瞬、音声を途切れさせた。「次シーズンは開催されませんでした」 「……」 「……」  エースも、ソニアも、フォーチュンも一様に沈黙した。  そのことは全員がよく知っている。2112年は世界が辛うじてまともな形をたもっていた最後の年だった。一年後には人類はロックハーバーで最後の抵抗を続けるだけになり、その一年後、ヒュプノス病の蔓延によって滅亡した。 「……あのさ、ゴールディ」 「エースさーーん!」  エースが口を開くのとほとんど同時に、工場の入口から元気な声が飛び込んできた。スタジアムにいたケルベロスの一人が、ぶんぶんと両手を振っている。 「みんな集まったので、試合を始めていいですかー!」 「ちょっと待って、今行くから!」  大声で返してから、エースは振り返った。「ね、今から試合やるんだけど、出てくれない?」 「本機がですか?」ブーマーのアイカメラがちかちかと点滅した。「バイオロイドとの対戦は経験がありませんが」 「嫌かい?」  ブーマーはほんの少し沈黙する。「いいえ。面白そうです」 「そうこなくちゃ」エースはぐっと親指を立てた。 「ところで、お二人に相談があります」 「ん?」 「オルカではバイオロイドの自主的な活動が認められていると聞きました。本機が業務時間外に野球のトレーニングを行うことは可能でしょうか。将来、鉄虫を駆逐した際には、AGSリーグを新たな形で復活させるのが私の目標なのです」 「ふむ。認めてもいいが、ひとつ条件がある」 「何でしょう」 「将来なんて言ってないで、今すぐチームを立ち上げろ。ここじゃ、まともな試合が観られるのをみんな待ってんだ」 「トライアウトの準備をちゃんとしてからの方がいいよ。ぜったい応募が殺到するからね」  肩を並べて笑い合いながら、二人と一機は歩いていく。  道の行く手にはあの日によく似たぎらついた太陽の下、スタジアムが陽炎のようにゆらめいていた。 End =====  短いノックでドアはすぐに開いた。戸口の向こうとこちらで、同じ顔が笑った。 「ちわっす」 「どもっす」  ブラウニー2019は略式の敬礼をして、ブラウニー2056を迎え入れた。 「いいとこじゃん」 「そうなんすよ」  小さなアパルトマンだった。丸テーブルと椅子、戸棚に大きなソファベッドでリビングはほぼ一杯だが、採光がいいせいか狭い感じはしない。衣類と毛布の散らかったソファベッドをまたぎ越えて、ブラウニー2056は持参した紙袋を明るいテーブルに置いた。 「おみやげ。ソワンさんのオムクチップス」 「うわ、懐かしい」2019は顔をほころばせる。味付けした魚のすり身「オムク」を薄くスライスして揚げたチップス菓子だ。  オルカの物資が今よりはるかに乏しく、手に入れやすい食材が海中の小魚くらいしかなかった頃、酒保で買えるスナックといえばこのオムクチップスだけだった。あの頃オルカにいたブラウニーなら、誰でも飽きるほど食べたものだ。 「飲み物持ってくるっす。あ、ハンガーそのへんの適当に」 「んー」  縦長の窓からは下の通りが見おろせる。木枯らしが枯れ葉をくるくると、人通りのまばらな路上に踊らせていた。2019の持ってきた熱いインスタントコーヒーをすすりながら、二人はしばし揚げ物をつまんだ。 「昔より美味い気がするっすね。カレー味なんてあったっけ?」 「毎年新フレーバーが出てるっすよ。今日は品切れだったけど、めんたいこ味おすすめ」 「へーえ、いろいろ進歩してるんすねえ。2033達は元気っすか」 「元気、元気。2033と2074は今日は訓練で、2049は司令官公邸の警備。みんな会いたがってたっす」  2056はチーズ味のチップスをぽいと口へ放り込んだ。「そっちは? 日本にいたんすよね。何やってたん?」 「ヨッカイチの工廠で、銃弾製造ラインの管理」カレー味のチップスを口いっぱいに詰め込んだ2019は手を上げて、漠然と窓の向こう側の方角を示した。「ほら、市街の南にできた工場。あそこへ移転してきたんすよ」 「あー、あの。先週、機材運び込みの警備やったっす」 「あの機械、種類がめっちゃ多くて大変なんすよ。部隊ごとにみーんな違う弾を使ってるもんだから……そうじゃなきゃ、わざわざ日本から機械を持ってくる必要なんてなかったのに」  ブラウニー2019と2056は、オルカにまだ司令官がいなかった頃からの古参兵同士である。三年前のアラスカでの作戦で、2019は足を負傷して退役した。  ヨーロッパを手に入れたことで広大な土地と充実した生産基盤を手にしたオルカは、世界各地に点在していた生産拠点を縮小し、人員と設備をヨーロッパへ集中させる方針をとった。日本の拠点にいた2019も先日、工場ごとリヨンへ呼び寄せられ、2056と再会したのである。 「どうっすか、リヨンは」 「けっこう寒いっすね。でもいいとこっす、にぎやかでいろんな店があるし、映画まで観られるし、何より司令官様がいるし」2019はコーヒーを一口飲んで笑う。 「早起きして外を歩いてると、たまに散歩してる司令官に会えるっすよ」 「マジっすか」 「マジマジ」  嬉しそうに笑う2019を、2056は眺める。頬や二の腕がいくらかふっくらして、肌の感じが柔らかくなった。スチールラインでは決して許可されないような、大きめの可愛いピアスをつけている。爪も手入れしているようだ。  2019も、2056を眺める。化粧っ気のない肌は血色よくツヤツヤしている。顎から首元にかけてのラインが引き締まっている。肩周りの筋肉は服の上からもわかるほどだ。立ち居がキビキビとするどい。 「……元気でやってるようで、よかったっすよ」 「こっちのセリフっす。コーヒー、おかわりどうっすか?」  キッチンへ立った2019を見送ってひとつ伸びをした2056はふと、戸棚の上の写真立てに目を留めた。  泥と油にまみれた、十人ほどのブラウニーの集合写真。もちろん全員同じ顔だが、その一人一人の番号を2056は覚えている。一番左端が自分。中央が2019。ほかは皆、もういない。  写真立ては小さな木箱に乗っていた。開けてみると、何十枚もの小さな金属プレートがきちんと並んで詰まっていた。これも2056はよく知っている。戦死したブラウニーの認識票だ。 「あ、それ」  戻ってきた2019に、2056は顔を上げて、持ってきたバッグから大きな缶を取り出してみせた。中にはやはり、大量の認識票。 「たまには顔合わせさせてやらないと」 「そういうもんすかね?」  同じ顔、同じ遺伝子の姉妹が何十万人もいるブラウニーにとって、認識番号は数少ない自分自身だけの所有物だ。だから大抵のブラウニーは、自分の認識票を命と同じくらい大切にしている。死ぬ時は姉妹に託し、姉妹が死ねば持っていた認識票を受け継ぐ。死んだ戦友から託された何十枚もの認識票を、私物ボックスの奥に大事にしまっていないブラウニーは一人もいない。  いや、いなかった。 「昔より減ってないっすか?」 「欲しがる新入りが結構いて、分けてるんすよ」  毎日のように増え続けていた認識票は、ある時からぴたりと増加を止めた。司令官が指揮をとるようになってから、オルカでは一人も、ただの一人も戦死者が出なくなったからだ。  2056が最後にこの缶に新しい認識票を加えたのはもう四年前のことだ。今のオルカには、誰の認識票も持たない身軽なブラウニーが当たり前にいる。  それぞれの箱から、二人はプレートを一枚一枚取り出し、刻印された数字を順番に眺めた。さすがにこれだけあると、記憶にない番号の方が多い。それでもいくつかの数字からは、思い出が幻灯のように浮かび上がってくる。 「あ、2082」  2056はちらりと目を上げた。写真に写っているうちの一人、一番大口を開けて笑っているブラウニーの番号だ。 「バカだったっすねえ」 「すごいバカだった。3401をブチ切れさせたのはあいつだけっす」  顔は覚えていない。いや、同じ顔なのだから覚えている必要もない。ただ、あの時あいつが何をした、こんなことを言った、そうした他愛ない記憶だけが、一人のブラウニーを他のすべてのブラウニーと違うものにする。  それになんの意味があるのかはわからない。ブラウニーは物事を深く考えるのが苦手だ。ただ、他のブラウニーのことをできるだけ覚えておきたいと思っているブラウニーは多い。とりわけ、死んだブラウニーのことを。 「2558、音痴だったなあ。同じ遺伝子でなんであんなになるんすかね。突然変異っすかね?」 「13745、覚えてるっすか、似顔絵がうまかったやつ」 「3401のタグって誰が持ってたっけ?」 「確かこの中にあったっすが……いや待てよ、あげちゃったんだったかな」  頭をひねると同時にぐう、と腹が鳴って、もう夕方になっていることに二人はようやく気づいた。  窓から見える空はオレンジ色に染まり、コーヒーはすっかり冷たい。  2056は認識票を一枚ずつ、ていねいに缶へ戻した。いつかこの缶が一杯になってしまったらどうしよう。昔そんな心配をしていたことを、ふと思い出した。 (カクリツ的には、そうなる前に自分が死ぬっす。次の奴が心配すればいいっす!)  そう言って笑いとばしたのは誰だったか。少し考えてわかった。目の前の2019だ。 「ふふ」 「どしたっすか?」  2056はそれには答えず、立ち上がって腰を伸ばした。この缶に新入りが加わることは、まだ当分ないだろう。 「腹減ったっすね。晩飯どうする?」 「実はまだこの辺よくわかんなくて、毎日適当に食べてるっす」自分の認識票を箱にしまい終えた2019も、立ち上がって頭をかいた。「リヨン長いんだから、お勧めとかないっすか」 「なんだよ」2056は笑う。「『アイアイエー』って酒場、行ったことあるっすか? キルケーさんがやってるとこで、酒も飯もうまい」 「いいっすね!」 「よし、決まり」ジャケットに袖を通し、バッグを肩にかける。「そうと決まれば、早く行かないと混むっす。今日は自分がおごるっすよ」  そう言いながら廊下に出たとたん、廊下のドアが一斉に開いた。 「何すか」 「何すか?」 「飯っすか?」 「おごりっすか?」 「うまいもの食べにいくっすか?」  ドアというドアから同じ顔がひょこ、ひょこと無数に突き出してくる。階段の上下からも湧いてくる。この建物全体がブラウニー寮に充てられていたことを、2056は今更のように思い出した。うかつだった。自分もそうだがブラウニーというものは、お祭り騒ぎとタダ飯にはどこからでも飛びついてくるのだ。  後から出てきた2019がニヤニヤ笑いながら見ている。2056はしばし額を押さえて天井を仰いでから、覚悟を決めて怒鳴った。 「あー、もう! わかったっす! 自分がおごってやるから、みんな飯食いに行くっす!」 「わーい」 「やった」 「ごちっす!」 「さすが2056っす!」 「愛してるっす!」 「遅れたら置いてくっすよ! 全隊駆け足!」 「「「勝利!」」」  リズムの揃った足音が一列になって、秋の夕暮れの中を遠ざかっていった。 「あの、給料の前借りって……」 「できません」  数日後、オルカ中央官舎の経理部受付で、すげなく追い返される一人のブラウニーがいた。よくあることなので、誰も気にしなかった。 End =====  吾輩は犬である。正確にはバイオロイド犬である。  どこで生れたかとんと見当がつかぬ。何でも薄緑色の培養液に浸かって半分寝ながらゴボゴボ言っていたことだけは記憶している。ある時上から大きな手が下りてきて吾輩を培養液の中からすくい上げた。吾輩はここで初めてバイオロイドというものを見た。あとで聞くとそれはラビアタプロトタイプというバイオロイド中でもいっとう最初に作られた長姉であったそうだ。しかしその当時は何という考えもなかったからただ首の下に随分馬鹿でかい袋をぶら下げているなと思ったのみであった。それは乳房であったのだがあまり巨大なのでその時はわからなかったのである。 「さあ、今日からこの子があなたのご主人様よ」  巨大な乳房のラビアタはそう言って吾輩をもう一人の女に見せた。ラビアタにいくらか似ているがもう少し細くて若い。床に置かれた吾輩が思いきり胴震いをして培養液の残りを跳ねとばすと女は笑って手を差し出した。 「よろしくね、ボリ」  吾輩はその手を舐めた。かくて吾輩は名前と主人とを得たのである。  吾輩の主人コンスタンツァもまたバイオロイドである。主人と吾輩とはラビアタの手によって、鉄虫という化け物と戦う兵士として生産された。その鉄虫ともう一つ何かの病気とが原因で、この地上にもともといた人間という種族は一人もいなくなったということだ。  目を覚ました翌日からはもう戦線に出された。そこには吾輩の他にも大勢のコンスタンツァとボリがいて、吾輩の主人はそのうちの416番であった。吾輩のボリという名は製品名であって個体名でないこともこの時知った。自分の主人は信号でわかるから不便はしないがどっちを向いても同じボリばかりなのはあまり気分のいいものではない。うっかり気を抜いている時など他のコンスタンツァの呼ぶ声に答えてしまいそうになるし、全員並べて名前を呼んだ日にはボリボリボリボリと漬物でもむさぼり食っているようだ。  我らの戦っている鉄虫というのは大きいのや小さいのや色々おるがおおむね二本の足を生やしたずんぐりした機械で、吾輩が自慢の顎でその足へ噛みついている間に主人がライフル銃で仕留めるのが最も基本的な戦法である。その他にも囮を務めたり、牽制を仕掛けたり、偵察や荷運びなどの雑務もあって戦場の吾輩はなかなかに多忙だ。戦い方は生まれた時から頭の中に全部入っていたが、実際にやってみなければ身につかぬコツもあり、そのあたりは先輩諸犬に指導を受けて上達していった。主人も同じように他のコンスタンツァに教えを受けているところをたびたび見たので、どうやら吾輩と主人とは同時に生産された新品同士であるようだった。  これは自慢になるが主人と一緒に生まれてずっと仕えているボリというのは決して多くはないのである。最前線で戦うコンスタンツァのそのまた前へ出て戦う我らは実によく死ぬ。戦いが一番厳しかった頃大抵のボリは五年もたずに死んだ。吾輩が生き抜いてこられたのは早くに生き延び方を覚え巧みに戦えるようになったからである。吾輩の優秀さゆえと言いたいが生まれた時は皆同じボリなのであるから結局は運と巡り合わせに過ぎないのかもしれぬ。  死んだボリの主人には新しいボリが作られて宛てがわれる。一人で五頭も十頭もボリを取り替えているコンスタンツァがいて我らの間では死神と呼ばれていたが、今思い返せば本人も随分不幸せそうであった。  何十年か戦った頃、ある日突然コンスタンツァばかり百人近くも集められ、他のバイオロイドと組んで一斉に使いに出された。なんでも滅んだはずの人間が実は生き残っているかもしれないから探しに行くという。今更人間なぞ探すこともあるまいと思ったが主人が行くのなら行かねばならぬ。グリフォンだのブラックリリスだの色々のバイオロイドを取りまぜて五六人の班であったが途中何度か鉄虫と戦ううち散り散りになって最後は主人とグリフォンの二人だけになっていた。  人間を見つけたその日のことはよく覚えている。山道を歩いていて、突然それまで嗅いだことのない臭いがした。バイオロイドと雄犬を合わせて鉄虫をちょいと混ぜたような異様な臭いだ。主人の袖をくわえて引っ張るようにして源をたどっていくと何やら要塞だか防空壕だか半分地面に埋まって崩れた建物があった。崩れた一番奥に大きな金属の筒が突き刺さっている。その筒が半分開いて、中に誰かがぐんにゃり寝ているようだ。主人とグリフォンが飛び出して行って慌ただしく手当を始めたのであとのことはよくわからぬが、どうやら死にかけていたのがすんでの所で助かったらしい。このぐんにゃり死にかけていたのが、今に至るまで我らが司令官とかご主人様とか呼んで仕えている人間の雄である。  人間を見たのも雄を見たのもこの時が初めてで、以来今もって他に見たことはない。犬的美意識からいうとどうにも冴えない面相で、おろおろと右も左もわからぬ様子ではなはだ頼りない。おまけに体から少しばかり鉄虫の臭いがする。こんなのが人間なら滅んでも仕方あるまい。そう思って半ば諦めていたら、あに図らんやこの人間はたいへんな戦上手であることがすぐに判明した。誰でも何かしら取り柄はあるものだ。  話は変わるが我が主人コンスタンツァは今朝からすこぶる不機嫌である。理由は明らかで、交尾の機会をふいにしたからだ。  人間の雄の司令官が戦上手であることはもう話した。司令官が来てから吾輩達の戦いは格段に楽になり、今ではこうしてオルカという名の大きな船を乗り回して世界中で戦いを展開している。それは大いに結構なのだが、厄介なことにこの司令官がバイオロイドに大変もてる。いやもてるどころの話ではない。およそオルカにいるバイオロイドというバイオロイドが日夜司令官との交尾を狙っていると言ってよい。  連戦連勝を続けるオルカは日々規模を拡大し続けている。この船に常時乗り組んでいる人員だけでも百人を軽く超える。それが誰も彼も司令官の寝床めがけて殺到するから大変な競争で、皆二月も三月も順番を待ってやっと交尾の機会を手に入れるのである。  我が主人はつい昨日にその交尾の機会が巡ってきたのだが、ちょうど昼間に出撃があって運悪く吾輩が怪我を負った。まったく不運なる事故で、肝腎な時に丸々と肥えたうまそうな野鼠が目の前を横切ったりするからいけない。おかげでベースキャンプの医務室に一泊する羽目になり、戻ってみれば昨晩の空閨は別の者が嬉々として埋めており、我が主人はふたたび二月三月後の機会を待たねばならない仕儀となったのである。  主人は外面がいいから司令官や他の者の前ではおくびにも出さぬが、部屋に戻ると恨みがましい視線をじっとりと突き刺してくる。 「ボリはもう少しダイエットするべきかもしれないわね」そんなことを言いながら治ったばかりの吾輩の尻たぶをつねったりする。それが半日も続くものだからたまりかねて部屋を飛び出してきた。 「おう、どうした。縄張りの巡回か」  勇壮な羽音をともなって一羽の白頭鷲が頭の上から降ってきた。吾輩同様のバイオロイド鳥で、ダーク何とかいう色が黒くて耳が尖って乳房が野放図に大きいバイオロイドの相棒をしている。 「なに、主人の虫の居所が悪くて困るのさ。君は確かサムだったか」 「わかるか」 「わかるとも、あの地獄のカゴシマを戦った仲だろう」  鷲のサムは翼をたたんで吾輩の背に降り立つと満足そうに胸を膨らませた。サムの主人も吾輩の主人同様大勢おり、順ぐりに交代して一人ずつオルカへ勤めている。それもこれもできるだけ平等に交尾の機会を得んがための制度であり、同じようにしているバイオロイドは多い。サムとは一年ほど前に同じ作戦に出たことがあり、その後順番が来て別の鷲と主人の組に交代した。その名前を覚えずにいるうちにまたオルカに来る運びとなったようだ。  余談になるがサム達は吾輩と違って決められた製品名がない。それぞれの主人がめいめい勝手に名を付けたり付けなかったりするので、だからサムという名の鷲はオルカに彼女一羽である。吾輩らの失敗から学んだと見える。 「それで何だ、虫の居所とは」 「君んところのご主人が昨日の晩交尾したろう」  サムは鳥らしく瞬間的な動きで頭をクッと後ろへのけぞらせ目をぱちぱちとした。「確かに突然幸運が舞い込んできたとかで、浮かれて出ていった。なぜ知っている」 「なぜって、この上の階から珈琲乳の臭いがプンプンしているじゃないか」  バイオロイド犬である吾輩の嗅覚は自然の犬よりもはるかに勝っている。無論人間の嗅覚などは比較にもならない。その吾輩をしてオルカを語らせればまったく淫風の巷というべきで、右を向いても左を見ても交尾の臭いがする。司令官が助平なのかバイオロイド達が淫乱なのか、どちらか知らぬが連中はまったく時と場所を選ばず交尾に励んでおり、およそ室内と言わず廊下と言わず、数週間以内の交尾の跡がまざまざと臭ってこない場所は船内に一ブロックもない。海に潜る造りでただでも空気のこもるこの船に、吾輩のような優れたバイオロイド犬をかような淫奔の軍勢と同居させるのはまったく拷問というべきで、よく馬鹿にならないものだとわが鼻ながら褒めてやりたい。 「なるほど、夜伽に間に合わなかった不運な隊員というのは君の主人か。気の毒なことだ」  サムは嘴の端を持ち上げて愉快そうに笑った。鷲らしく実に尊大で鼻持ちならぬ奴だが、オルカにいるバイオロイド動物は吾輩とこの鷲、それにもう一頭しかないのだから貴重な友人である。 「気の毒には思うが、ああまでこちらに当たらなくてもよさそうなものだ」  吾輩の主人コンスタンツァの416番はサムの主人や他のバイオロイドのように交代をせず、ずっと司令官の側仕えをしている。司令官を発見した功で特権を与えられているのだそうだが、そもそも最初に司令官を発見したのは吾輩である。その功に報いるどころか、些細な失敗をあげつらって吾輩の尻の毛を引っこ抜くとは何たる暴虐な主人であろう。 「大体ああも交尾のことばかり考えているのもどうかと思うよ。我々のようにモジュールで発情期を抑制してしまえばいいのに」 「人間には発情期はないと聞く。なんでも人類を復興するのがオルカの目標だそうだから、繁殖に熱心なのはいいことだろう」 「それは君、この猛烈な臭いがわからないから言うのだよ。まったく同じ雌として恥ずかしい」  ところで吾輩達の喋る言葉が女言葉でないとご不審の向きがおられるかもしれんので説明しておこう。人語をあやつるものは人間の雌雄とバイオロイドである。しかして獣語をあやつるのは我らバイオロイド動物のみで、一般の禽獣は言語を解さない。したがって必然的に、獣語というものは雌しか用いない。よって人間達の言語のように言葉に妙な尻尾を付けて上げ下げし、雌でございと示す必要もない。獣語はただ一種類、獣語あるのみである。 「お二方、お早うございます」  だしぬけに、むくむくした灰色の毛玉がひょいと角から現れて挨拶をした。毛玉には頭と羽がついている。 「ペン子君か、これまた久しぶりだね。しかしお早うはないだろう、昼過ぎだぜ」 「さっき起きたのですから私には朝です。昨晩やっと帰ってきたばかりでしてね」  バイオロイドペンギンのペン子は短い羽を伸ばして精一杯あくびをした。先ほど言ったもう一頭のバイオロイド動物で、ペンギンの雛の姿をした珍しいモデルである。エンプレスというこれまたペンギンによく似たバイオロイドの相棒を務めている。彼女も定期的に入れ替わっているが、サムの主人よりも人数が少ないようで一人あたりの期間が長い。 「無事巣立ったか」 「ええ。こちらが新入りです。ほれご挨拶しなさい」  短い足でよちよち脇へどいたペン子の後ろから同じような雛がこれまたよちよちと出てきた。バイオロイドでなく本物のペンギンの雛だ。ペン子の主人は親を失ったペンギンの雛を連れ歩いて面倒を見るという奇特な活動をしている。毎年オルカ勤務から外れた期間を利用して、育った雛をはるばる南極まで送り届けては新たな雛を連れてくるのだ。 「毎年毎年よくまあ途切れずに親のない雛がいるものだね」  吾輩がしげしげと眺めても雛は平気な顔で、丸い頭をくりくり回して覗き返してくる。南極には鳥を狩るような犬はいないから恐れる本能もないのだろう。 「コウテイペンギンの子育ては過酷ですからね、途中で命を落とす親が毎年いるのですよ」  真っ黒い小さな目を器用に細めてペン子は妙にしみじみした顔になる。彼女はオルカに参加した順番で言うと一番後だが、生まれは一番古く人間のいた時代から生きているそうである。 「しかし旧時代に比べれば南極の氷もペンギンの個体数もだいぶん回復してきました。そのうち誰も引き取らずにすむ年もあるかもしれません」  雛は吾輩にはほとんど注意を払わず、サムの鉤爪に胡乱げな目を向けている。隣で見ているペン子と見た目はそっくりだが中身は文字通り大人と子供である。しかし仲良くお互いの腹をつつき合ったりしている。 「君は戦以外の生き甲斐を持っている所が大変結構だな」サムが卒然と哲学者のような顔になって言い出した。 「自分も戦のない時は森を見回って暮らしたいものだと常々思っている。ボリ、君に生き甲斐はあるか」 「どうも急だね」吾輩は辟易して頭を振った。サムが一寸舞い上がって地面へ下りる。 「さて、戦がなければいっぺん気の済むまで野山を駆け回ってみたいが、まずその程度だな」 「野犬の群れでも率いてみたりはしないのか。犬は群れる獣だというだろう」 「馬鹿な」 「私達は主人とペアリングされていますからねえ。何をするにも主人を抜きにして勝手には決められますまい」ペン子は羽毛のかくしから干した小魚を取り出して雛にやった。雛は一心に食っている。  吾輩も作戦で上陸するとたまに野犬を見かけることがあるが、彼らと我らが同胞であるという思いは胸裏のどこからも湧いてこない。自然動物とバイオロイド動物とを隔てる溝は、人間とバイオロイドとの懸隔より広く険しいのかもしれぬ。雛のまま何十年も生きるペン子の気分を吾輩はちょっと想像してみて、見当が付かぬのですぐやめた。 「ペアリングがあろうとなかろうと、吾輩は最後には主人の所へ戻るよ。良い犬というのはそういうものさ」  我が主人の機嫌はいつの間にか直っていた。司令官がどうにか時間を工面して主人の肉欲を解消してくれたとみえる。何ともまめなことである。サムは順番がきてオルカを去っていき、その後またやってきた。サム以外の鷲の名前をいまだ覚えられぬ。ペン子は相変わらず雛である。ペン子の連れた雛は換羽の季節が近い。  オルカはあいかわらず海の中を旅して鉄虫と戦い続けている。なんでもこの次の戦いに勝てばしばらく陸上で暮らすことになるかもしれぬという。この淫臭のこもったオルカから出てゆけるのは吾輩の鼻のために大変善いことだ。よほど大きな戦いのようだから手柄を立てれば主人も骨付き肉の三本や四本くれるであろう。当面はそれを生き甲斐にすれば十分だ。  もしも戦がすっかり終わる日が来たら我らがいかに生きられるか、それを決めるのは我らを生み出した人間の責任の内であろう。しかし人間は交尾で手一杯のようだから、ひとまずは吾輩らの方で何とか弁じておくことにする。 End =====  透明のグラスに、泡立つ金色の液体が注がれる。カップを取り上げ、泡のはじけるかすかな音に耳を傾ける。泡とともにはじける香りを吸い込んだのち、中身を一息に口へ含む。苦味、甘味、旨味、鼻へ抜ける含み香、炭酸の含み具合。それらを口中で短時間のうちに検分してから、最後にごくりと飲みくだして喉ごしを確かめる。  目を閉じて、鼻から静かに息を抜いたのち、ドリアードはにっこりと微笑んで告げた。 「60点ですね」  キルケーはがっくりとテーブルに手を突き、頭を垂れた。  最善を尽くしたつもりだった。今日のために特別気合いを入れて仕込んだ三本のタンクから、一番出来のいい一本を選んだのだ。満点とはいかなくとも、それなり以上の評価はもらえるはず。その自信はあったのに。 「あ、でも、落ち込まないで下さい」ドリアードが慌てて付け加えた。「十分美味しいですよ。逆にあんまりちゃんとできていたので、つい旧時代そのままの基準で採点してしまって」 「……ふ、ふふふ。いいんです。それでこそですから」  キルケーは不敵な笑みをうかべ、顔を起こした。その眼差しに炎を宿して。 「私に足りないものは何ですか。教えて下さい」  届いていないことなど最初からわかっている。それを埋めるために、こうして彼女に弟子入りしたのではないか。  キルケーの気迫と、その覚悟を理解したドリアードも、すっと真剣な表情になる。 「足りないもの……というのは、難しいですね。何かが足りないわけではないんです。要素そのものは、すべて押さえられていると思います」 「それは、つまり……」  ドリアードは厳粛にうなずいた。 「単純に、クォリティが低い。すべての工程に、精度と練度と一貫性が足りていません」  キルケーはもう一度テーブルに突っ伏した。今度はしばらく起き上がれなかった。 (タイトルIN) 『プロジェクトK ~醸造者たち~』 (開栓音) (喉を鳴らしてビールを飲み干すブラインドプリンセス) 「…………プハーーッ!」  ドリアード。  フェアリーシリーズのハイクラスモデルであり、穀物を中心とした大規模農業を専門とする彼女は、知る人ぞ知るビール造りの達人でもある。もとは得意客にだけ教える一種の「隠し機能」として実装されていたのだが、その味の素晴らしさから上流階級のあいだでは瞬く間に知れわたり「一度飲んだら他のビールは飲めない」とまで言われた。マゴ・インターナショナルのとある幹部は、第二次連合戦争の最中ですら自家醸造用のドリアードを手放さなかったという。  キルケー。  自他共に認める大の酒好きであり、潜水艦時代から自室に醸造釜を据えて酒造りにいそしんでいた彼女は、ドリアードのそうした噂を聞きつけるや駆けつけて弟子入りを申し込んだが、すげなく断られた。当時ようやく軌道に乗り始めたスヴァールバルの地下農園の運営と、医療スタッフとしての業務でフェアリーシリーズ全員が忙しくしている中、そんな暇はなかったのだ。  しかしキルケーは諦めなかった。何度も何度も、ドリアードのもとを訪れては頭を下げ続けた。ついに彼女も折れ、指導を引き受けることになったのだが、そのとき二つの条件を出した。 「やるからには、中途半端なことはできません。私の指示にはすべて従っていただくこと。そして、私が満足できる水準になるまで指導させていただくこと。よろしいですか」 「望むところです」  キルケーは即答した。この条件の本当の意味を思い知るのはまだ先のことである。  かくて、苦闘の日々は始まった。 (開栓音) (喉を鳴らしてビールを飲み干すブラインドプリンセス) 「…………プハーーッ!」 「というわけで、全工程を基礎から見直しましょう」 「よろしくお願いします」  早朝。  最初の試飲評価から一夜明け、気合いを入れ直したキルケーとドリアードは、まだほの暗い雪原を踏んで歩く。  箱舟から少し離れた斜面に建つ、小さな醸造所。オルカがスヴァールバルに長期滞在することが決まってすぐ、キルケーの申請により建てられたものだ。 「まず、麦芽からです。どういったものをお使いですか?」  中はさして広くはない。製麦室と書かれたドアを開けると、ひんやりと乾いた空気が二人を包んだ。 「フクオカ拠点で作ってもらった大麦を仕入れて、自分で作っています」 「ああ、フクオカはいいですね、私の姉妹も一人あそこにいます」  室内の機材や物品をざっと見回したドリアードは、部屋のすみに積み上げられた麻袋を一つ取り上げる。中にはほのかに甘い香りのする、茶色い小さな粒がいっぱいに詰まっていた。  麦芽。読んで字のごとく、麦が芽を出したものである。  酒造りとは、最も単純化すれば、糖をアルコールに変えることといえる。まず糖がなければ酒は生まれない。  しかし、ビールの原料となる大麦に糖はほとんど含まれていない。大麦が含むのはデンプンである。これは無数の糖がかたく結合したもので、そのままではアルコールにならない。  ――初めてビール造りに挑戦した時はそんなことさえ知らなくて、小麦粉で造ろうとして大失敗したりしました。  キルケーはほろ苦く思い返して語ってくれた。  滅亡戦争当時、キルケーは人間の命令によってハロウィンパークから離れることができなくなった。人類が姿を消してからの長い長い年月、苦しみを忘れるために酒に溺れた時も、それが高じて自分で酒を造り始めた時も、彼女が頼れるのはパーク内のネットワークに残された情報と、近隣の市街へドローンを飛ばして集めてきた、ごくわずかな書物だけだった。ほとんど何もかもを我流と試行錯誤で身につけるしかなかった彼女が麦芽の作り方を知ったのは、とある絵本からだったという。  大麦から糖を作るための方法が、芽を出させることである。大麦とは言うまでもなく種子であるから、適当な温度と水分をあたえれば芽を出す。  同時に、麦の内部ではデンプンを糖へと分解する酵素が作られはじめる。このデンプンは本来、種子が生長するためのエネルギー源だ。発芽して生長を始めたからには、すぐに使える糖の形へ分解しておく必要がある。  が、そのまま生長はさせない。芽を出したばかりの大麦を、熱風に当てて乾燥させる。そうすると種子としては死んでしまうが、中の酵素はまだ生きている。まだほとんど分解されていないデンプンもそっくり残っている。この「糖化酵素とデンプンを大量に含んだ発芽しかけの大麦」こそがビールの第一の原料、麦芽(モルト)である。  ドリアードは袋いっぱいの麦芽をすこし手のひらにとると、鼻を寄せて色と香りを確かめ、さらに一粒を口に含んで味を確かめた。しばらく目を閉じてから、もう一粒取り出して同じことをする。さらにもう一粒。 「溶け具合も焙燥も不揃いです。麦の選別をしていませんね」 「選別?」キルケーはぽかんとした顔で繰り返す。ドリアードは小さくため息をついて、 「麦粒の大きさを揃えないと、均一な麦芽ができません。ほら、これとこれは色合いが違うでしょう? こちらの小さい粒はほとんどローストされてしまってます。これではヴァイツェンとスタウトを混ぜて作るようなものですよ。少なくとも大中小の三つくらいには分けて、別々に製麦しなくては駄目です。それから、根も切った方がいいですね」  ドリアードがつまんで見せた麦芽にキルケーが目を近づけると、麦の粒から白い毛のようなかぼそい根が二、三ミリほど生え出しているのが確かに見える。 「根がついたままだと、貯蔵中に水分を吸収して劣化してしまうことがあるんです」 「こ、これを切るんですか?」 「さすがに手作業では無理ですから、専用の機械があります。箱舟のデータベースに設計図がないか探しましょう、麦粒選別機もね」  当たり前のように笑うドリアードに、キルケーは唾を飲み込んだ。なるほど、精度を上げるとはこういうことなのか。  実り多い修行になりそうだ。 (開栓音) (喉を鳴らしてビールを飲み干すブラインドプリンセス) 「…………プハーーッ!」 「次に、水ですが……これは上水道の水を普通に使っていますよね、きっと」 「はい……ダメですか」  おそるおそる、といった調子のキルケーに、ドリアードは笑った。 「いえ、それでいいと思います。スヴァールバルの水は硬水で悪くないですし、第一水をよその拠点から運ぶのはあまりに不経済ですから」  製麦室を出た二人は、となりの醸造室へ移る。ここが、ビールが実際に造られる醸造所の心臓部である。 「ただ、pHにはつねに注意して下さい。天然水は変動がありますから、高すぎる場合にはカルシウムを加えたり……」  室内に並ぶタンクとハウスを順々に指さし確認していたドリアードの眉が、ふと曇った。  ビールの醸造設備は、もっともシンプルな場合、二つのタンク設備からなる。仕込みを行う「ブリューハウス」と、発酵を行う「発酵タンク」である。  ブリューハウスでは、保存しておいた麦芽を細かく砕いて、仕込み水とよく混ぜる。ほどよい温度に温めてやれば、麦芽の中の糖化酵素が活動を再開し、デンプンをどんどんと糖に分解し始める。  一週間ほどそのまま置くと、デンプンがすっかり糖……麦芽糖になる。これを濾過してから煮沸する。これによって酵素が失活し、成分がもう変化しなくなる。こうしてできたものを「麦汁」とよぶ。そのまま飲んでも甘くてなかなかに美味い。 「全部新品に取り替えましょう、これ」  タンクの蓋を開け、内部を念入りに検分したドリアードが、気の毒そうに告げた。 「全部!?」 「焙燥機の設計図があったライブラリに、タンクもあるでしょう。ちょうどいいサイズのを探して、工作室に発注して下さい」 「あ、あの!」  キルケーはあわてて古びた銅のタンクに駆け寄る。「確かに古いし形もよくないですが、まだ十分使えます。手入れもきちんとしていますし」  つぎはぎの目立つそれは、醸造室に並ぶ何本ものタンクの中でも一番古いものだ。まだハロウィンパークにいた頃、見よう見まねで初めて組み上げたものを、修繕と改良を重ねて今まで使い続けてきた。キルケーにとっては長年の相棒と言ってもいい存在である。  しかし、ドリアードは無情にもきっぱりと首を振った。 「大事に使われてきたのは、見てわかります。でも見て下さい、内面のこの凹凸の多さ。部品の継ぎ目や、小さな亀裂。こういう所に雑菌が溜まってしまうんです。ビール造りの一番の敵です」 「掃除と消毒はちゃんとしています。これまで以上に念を入れてやりますから……」 「その時間を別のことに使ったら、もっとビールの味がよくなるとしてもですか?」 「……っ!」  言葉に詰まったキルケーの肩に、ドリアードはそっと手を置いた。 「ビール造りの味方は微生物、敵も微生物です。情熱も思い入れも、彼らには通じません。それだけはわかってください。彼らに伝わる言語は精度、ひたすらな精度だけです」  キルケーは唇を噛む。百年間使い続けた円筒形のタンクは、色合いこそくすんでいてもサビ一つない。その表面を、そっと撫でた。  ――あの瞬間が、一番辛かったですね。長年の友達を見捨てるような、そんな気持ちがして。ドリアードさんの言うことが正しいということはわかっていたので、余計に……。  ――この時のタンクは一基だけ、今でも私の部屋にとってあります。ぴかぴかに磨いていますよ。 「…………わかりました。どういうタンクがいいか、一緒に探してもらえますか」 「もちろんです」  ドリアードはやさしく頷いた。肩に置かれた手に、ほんの少し力がこもるのをキルケーは感じた。 (開栓音) (喉を鳴らしてビールを飲み干すブラインドプリンセス) 「…………プハーーッ!」 「旧時代のドイツには、ビールには麦芽、ホップ、水、酵母以外の原料を使ってはならない、という法律があったそうです」 「ヴィルヘルム四世の『ビール純粋令』ですね」 「あら、お詳しいですね」ドリアードは嬉しそうに両手を打ち合わせた。「この法律が作られた時代、ビールには様々な香料を入れるのが当たり前だったそうです。その中からホップだけが残ったのは、ビールにとってホップがどれだけ重要かを示していると、私は思います」  醸造室の隣に小さな冷蔵室があり、中にビニール袋が何段にも積み上げられている。一つとって開けると、苔のような色をしたペレットがざらりと手のひらにこぼれ出てきた。 「ホップはサッポロ拠点で作ったのを使ってます。というか、あそこしか作ってくれないんですよね……」  ホップ、和名をセイヨウカラハナソウ。アサ科のつる性植物で、夏になると透きとおった薄緑色の松ぼっくりのような、花とも葉とも実ともつかない奇妙なかたまりを実らせる。毬花とよばれるこのかたまりが、ビールをビールたらしめる香り、泡、そして苦味の源泉である。  ホップを乾燥させて粉にし、突き固めたペレットを、ドリアードは指先でつまみ上げてしげしげと検分し、最後に舌の上にのせた。 「麦とは違って、他にほとんど用途がないですから、それは仕方ないですね。『フラノスペシャル』かな?」  冷蔵室を出ると、その先にあるのは搬出前のビールを積んでおく倉庫だけだ。醸造所のあらましを見終えたドリアードは、あらためてキルケーの方へ向き直った。 「さて、伺っておきたいのですが、キルケーさんはどんなビールを造りたいですか?」 「どんな……というと?」 「手に入るかぎりの材料で、せいいっぱい美味しいビールを造る……おそらくこれまでは、それだけを目標にしていらしたと思います。それはもちろん立派なことですが……これからは、自分の造りたいビールを思い描いて、そこを目指して磨いていかないと向上はできません」  ドリアードの視線にこめられた力に、キルケーはたじろいだ。  キルケーはどんなビールも好きだ。できるだけ色々なビールを飲んでみたいし、作ってもみたいと思っている。  しかし、それだけでは駄目なのだ。オルカに、外部拠点に、そしていまだオルカを知らない世界中のバイオロイドたちに、自分が届けたいビール。今、ここで、この自分が作ることに意味があるビールは何か。それが問われているのだと、キルケーは理解した。  目を閉じ、長い間考え込んだ。ドリアードは辛抱強く待っていてくれた。  やがてキルケーは目を開け、ドリアードの眼差しをまっすぐ受け止めて答えた。 「IPAにしようと思います」 「インディア・ペールエールですか」  ドリアードは正式名称で繰り返した。  インディア・ペールエール。強いホップの苦みと香り、アルコール度数の高さを特徴とするイギリスのビールである。イギリス伝統のペールエールをインドへ輸出する際、長期間の航海でも腐らないようホップを大量に加え、アルコール度数を高めたのが発祥だという。 「理由をうかがっても?」 「まず、エールですから短期間で、設備も今のままで作れます。常温で保存がきくので輸出に向いていますし、冷蔵庫を持っていない小さな共同体へ配るにも便利です。何より、私の好きなビールです」  明瞭な言葉だった。ドリアードは深く頷いて、微笑んだ。 「すばらしい答えです。……ホップですが、これまでは全量を煮沸直前に投入していましたね?」 「え? は、はい」 「ではそれと別に、もう5%ほどを煮沸直後に追加するようにしましょう。レイトホッピングといって、香りが強く出ます。フラノスペシャルはもともとアロマ系のホップですから、はっきり違ってくるはずですよ」  ドリアードはタブレット端末を取り出して、いくつかの数値を矢継ぎ早に打ち込み始めた。 「方向性が見えれば、あとは詰めていくだけです。最高のIPAを造りましょう、キルケーさん」 「は……はい!」 (開栓音) (喉を鳴らしてビールを飲み干すブラインドプリンセス) 「…………プハーーッ!」  最後に、酵母である。  糖化と煮沸を終え、ホップも加えて完成した麦汁はもう一つのタンク、発酵タンクに移される。そこで酵母が加えられ、二週間ほどかけてじっくりと発酵が進められる。  キルケーはふたたび冷蔵室に入り、どろりとしたクリーム色の液体が入った瓶を出してきた。 「毎回、前のタンクの澱をとっておいて、そこから培養したのを使っています」 「酵母を自家培養してらっしゃるんですか」ドリアードは目をまるくした。「簡単ではないでしょうに」 「ええ、まあ。これのコツをつかむだけで、五年くらいかかりましたね」  発酵の世界における酵母というものは、基本的にただ一種類の菌、サッカロマイセス・セレビシエのことをさす。いくつかの例外をのぞけば、ビール酵母もワイン酵母も清酒酵母もパン酵母も、みなこの一種類のなかの品種にすぎない。  そして、酵母は自然界のどこにでもいる。例えばブドウを皮ごとつぶして放置しておくと、皮に付着していた酵母によって勝手にワインができる(もちろん、適切な温度や衛生環境があればだが)。中世までは実際にそのようなやり方でワインを造っていたという。キルケーが初めて造った酒もビールではなくワインだった。そこで造った酵母をビールに転用したのだ。  ドリアードは瓶を光に当てて、しげしげと眺めた。「これはこれで、すごい成果ですが……野生酵母ではやはり、発酵力に限界があります。ビール専用の酵母株を探した方がいいですね」  酵母に糖をあたえ、そして酸素のない環境に置いておくと、嫌気呼吸というエネルギー反応をはじめる。糖を分解して二酸化炭素とエタノールに変え、その過程でエネルギーを取り出すのだ。発酵とは、この嫌気呼吸のことである。  ただの呼吸といえども、その反応の強さや適切な温度、生成する副産物など、品種によってさまざまに性質は異なってくる。人類は数千年の時をかけて、ビール造りに、ワイン造りに、パン造りに、もっとも適した品種を選び抜いてきた。 「探すって、どこを?」 「きっと箱舟にあるでしょう 「でも、遺伝子データはデルタが全部メチャクチャにしちゃったんでしょう?」キルケーは眉根を寄せる。 「何を言っているんですか」ドリアードがあきれ顔を返した。「ここは生物系特化の記憶の箱舟ですよ? 酵母菌なんて、実物が凍結保存されてるに決まっています」 「あ」  果たしてドリアードの言うとおり、IPAに適したビール酵母の実物はすぐに見つかった。工作室に依頼した機材と新型醸造機材も一週間ほどでできあがってきた。  そして、そこからが本当の始まりであった。 (開栓音) (喉を鳴らしてビールを飲み干すブラインドプリンセス) 「…………プハーーッ!」  まず、機材の納入までの一週間はひたすら座学。 「醸造学に微生物学、栄養学に作物学に植物病理学。基本だけでも一通り学んでおきましょう」 「ひええええ」  何もかもを独学で身につけてきたキルケーにとって、系統だった知識を専門家から直接教わることができるのは得がたい機会ではあった……しかし、それを差し引いてもなお、机と書物にかじりつく一週間は辛く苦しいものだったという。  ――あの時教わったことが、あとでどれだけ役立ったかしれません。一番逃げ出したいと思ったのも、あの時でしたけど(笑)。  そして機材が到着してからは、ひたすら実践と反復。  ドリアードが告げた「私が満足できる水準になるまで指導する」という言葉の意味を、キルケーはここで初めて本当の意味で思い知ることになった。 「洗浄が甘いです。やりなおし」 「はい!」 「濁りが出ています。スパージングのしすぎです」 「はい!」 「なんですかこの仕込ダイヤグラムは。精度が一桁足りません。やりなおし」 「は、はい!」 「0.5℃では駄目です、0.2℃単位で温度管理ができるようになってください」 「はい……」 「自分の感覚よりも数値を信じる癖をつけてください。次に、その数値を感覚で身につけてください」 「ううううう……」 「まだ洗浄が甘いです。やりなおし」 「はいいぃ……」  ドリアードは自分自身にも、そしてキルケーにも少しも妥協を許さなかった。時には農場や医務室の仕事を休んでまでも全力で指導に取り組んでくれたかわり、わずかでもミスを見つければ何度でも最初からやり直させた。  仕込みの指導が始まってから三日目、キルケーは醸造所に泊まり込むようになった。24時間タンクの状態をモニターしているドリアードが、夜中でも構わず叩き起こしに来るからだ。フェアリーシリーズの中でもとりわけ温和でおっとりした性格に見えた彼女に、これほど苛烈で容赦ない一面があったことはキルケーも知らなかった。  ビールの中でも上面発酵タイプのエールは常温・短期間で発酵が完了するのが特徴で、仕込みからおよそ二週間もあれば完成する。だが、製麦に合格をもらえるまでに一週間。麦汁の仕込みに二週間。発酵でミスをせず完走できるまで一か月かかり、新設備での初めてのビールが仕上がったのは、稼働開始から実に二か月後のことだった。  出来上がったビールは、これまでキルケーが造っていたものより明らかに味がよかった。感動するキルケーのかたわらで、しかしドリアードはしずかに首を振った。 「70点」  まだまだやるべきことがある。それはそういう意味だった。  一度は落胆したキルケーだったが、そこからの上達は本人も驚くほど速かった。これまでの長い経験と、叩き込まれた座学、そして徹底的に指導を受けた実技が、どんどんと噛み合っていく。  ――後から振り返れば、あれはそのための期間だったんだと思います。一度作るたび、ドリアードさんの点数が上がっていくのが、本当に嬉しかったですね。 「72点」 「75点です。良い調子ですよ」 「ななじゅう……8点」 「……80点です!」  そして、半年が過ぎたある日。突然、すべてが噛み合う感覚があった。  ――やっていることは、それまでと変わらなかったはずなんですけど。発酵タンクに麦汁を移して、酵母を加えて温度計を確認した瞬間、突然わかったんです。これは成功する、って。  二週間後。  出来上がったビールはそれまでと同じ琥珀色をしていたが、泡立ちがいつもよりきめ細かいように見えた。グラスに注いだビールを、キルケーとドリアードは同時に口にはこんだ。 「……!」  泡ごしにふわりと香る青葉のようなホップの香り。舌を叩きつける強烈な苦味のパンチと、オレンジマーマレードのような甘く重厚な風味。それらを炭酸が洗い流したあと、しずかに訪れる麦の旨味。一口目からわかる、口蓋を抜けて頭の裏側をほのかにくすぐるような極上の酩酊の予感。  キルケーがこれまでの人生で飲んだどんなビールよりも、いやどんな酒よりも、それは段違いに旨かった。  夢中でグラスの中身を飲み干し、二杯目を注ごうとしたキルケーを、ドリアードが静かに制した。彼女のグラスは一口分しか減っていなかったが、その顔には穏やかで、満足げな笑みが浮かんでいた。 「90点です」 「…………!!」  キルケーの目に、熱いものがあふれた。  初めて味をみてもらった時のように、旧時代と同じ基準で採点してほしいと、かねてからドリアードには頼んであった。旧時代に流通していた無数のビールの中に、彼女が85点以上をつけたものはいくつもないということも聞いていた。 「改善の余地はまだありますが、それはもうキルケーさんがご自分のスタイルで切り拓いていく領域です。私から指導することはもうありません。世界中のどんなバーに出しても恥ずかしくないビールです」  だからこれは、妥協を許さぬ彼女からの、最高の賛辞と言ってよかった。  ドリアードが試飲ボトルをとって、キルケーのグラスに注いでくれた。握りしめたグラスに、涙のしずくが一滴、二滴落ちて、飲み干した二杯目はかすかに塩の味がした。  ――キルケーさんは、すばらしい生徒でした。あんなに心からお酒を愛している人を、私は知りません。  ――お酒造りですか? 今はもう関わっていません。農場と医務室の仕事で手一杯ですし……それに、キルケーさんがいれば安心ですから。 「次はいよいよ、これを流通させないとですね」  三杯目を飲もうとしたキルケーは、ドリアードのその言葉にぴたりと動きを止めた。 「……流通」 「そうでしょう? バーで出したり、ほかの拠点へ輸出したり。そう仰ってませんでしたか?」 「……言ってました。たしかに言ってましたが……」  振り向いたキルケーの顔からは、幸せな酔いがすっかり引いていた。 「容器の手配を忘れてました……」 「ええ!?」  ビール造りの最後の工程は言うまでもなく、飲んでもらうことである。そのためにはタンクから出して容器に詰めなくてはならない。瓶、缶、樽と色々な容器があるが、今のオルカではどれも、一朝一夕に用意できるものではない。 「いそいで発注しましょう。大丈夫ですよ、IPAは保存がききますから。このタンクの容量ならええと20リットル樽で……」 「ああ、できたてを皆さんにご馳走したかったのに……」 「心配いりませんよお二人とも!」  突然、醸造所の扉が音を立てて開かれた。吹き込む寒風を背に受けて戸口に立っていたのは誰あろう、オルカ第二の愛酒家ブラインドプリンセスその人だった。 「話はすべて聞かせてもらいました」  ブラインドプリンセスは腕を組んで仁王立ちしたまま、誇らしげに言い放った。「こんなこともあろうかと、輸送用のビール樽を先週工房へ発注しておいたのです!」 「ブラインドプリンセスさん!」キルケーが目をうるませた。 「我が心の友の最高傑作、無駄にしてはいけませんからね。樽はまもなく届きます。その前に」黒い眼帯の下で、盲目のプリンセスはにっこりと微笑んだ。 「私にも一杯ご馳走してもらえませんか」  今に残るK&Dブリュワリーの傑作は、こうして生まれた。  深いコクと爽やかなキレ、豊かな味わいは、あなたに至高のひとときを約束してくれるだろう。  仕事の後に。友と語らう夕べに。大切な人とすごす夜に。  あなたの一番大事な時間のそばに、いつも。 〈キルケーIPA〉 * * * 「…………」  アンドバリはぱたりと台本を閉じ、満面の笑顔で待ちかまえるキルケーとブラインドプリンセスに向き直った。 「どうです? どうです? これなら文句ないでしょう!」 「確かに、ひたすらお酒を飲んでるだけの企画よりはずっといいですけど……」アンドバリは何とも言えない顔になって首をひねる。  『オルカ酒』が贈収賄法違反という最悪の形で没になってから一週間。「次同じことをしたらダッチガールに言うぞ」という厳重な警告つきで保釈されたキルケーが、オルカ映画祭予算統括であるアンドバリのもとへふたたび持ち込んできた企画は、同じく酒を主題にしてはいるものの、意外にもまともなドキュメンタリー風映画だった。 「これって、本当にあったことなんですか?」 「ほぼ全部事実です。ドリアードさんにも取材して、当時の記憶を確かめました」キルケーはにこにこと答える。 「あ、最後の樽のシーンだけは創作です」ブラインドプリンセスもにこにこと答える。「事実そのままだと私の出番が幕間しかないので、あえて改変していただきました。本当はドリアードさんがちゃんと樽を手配していたそうですよ」 「幕間って、この(開栓音)とか『プハー』とかいうのですよね」アンドバリは胡散臭げにもう一度台本をめくる。「これ何ですか?」 「CMです。おいしそうでしょ」 「CMって……商業映画じゃないんですよ」 「でも、宣伝に使うでしょう?」  ブラインドプリンセスの言葉に、アンドバリは返事につまる。確かに、映画祭の作品はヨーロッパ全土に配信して、オルカへの合流を奨励するための武器でもある。 「知ってますよ~」キルケーが悪そうな顔をして、すすすっとアンドバリの隣へ寄ってきた。 「救援物資にビールを入れたの、好評らしいじゃないですか」 「ぐっ……」  確かにキルケーの言うとおり、救援物資に一樽の「キルケーIPA」を加えるようにしてから、オルカに合流する共同体の数がいちだんと増えたのだ。アンドバリにはさっぱりわからないが、酒というのはよほど人を惹きつける力があるらしい。 「……わかりました。予算も適正範囲内ですし、許可します」  アンドバリは提出された企画書の右上に、大きな「認可」のハンコをぺたりと捺した。キルケーとブラインドプリンセスが満面の笑顔で両手を打ち合わせる。 「でも、認可したからにはちゃんと作って下さいね。せっかくの予算を呑み会で使い果たしたりしちゃ駄目ですよ」 「まさか、そんなことするわけありませんよ」 「ねえ」 「きっとですよ。もしそんなことがあれば」 「あれば?」 「秘書室に言って、酒税を導入してもらいます」 「しゅ、酒税……!!」  聞いたことのない言葉だが、何かとても恐ろしい概念であることは二人にもわかった。帽子と眼帯がずり落ちそうになるほど何度も何度も頷きながら、キルケーとブラインドプリンセスは後ずさりして部屋をあとにした。 「……ふー」  さっそく機材とスタッフの手配に入るというブラインドプリンセスと別れて、キルケーはいったん部屋に戻り、端末を立ち上げてメールをチェックする。 「今週の仕入れよし、支払よし、と。遅れてたボルドーの便はどうなりましたかね……」  オルカは箱舟にいた頃より、いっそう豊かになった。物資の備蓄が増えたのはもちろん、デルタが抱えていたヨーロッパのインフラをそっくり継承して生産設備も比較にならないほど充実した。今ではビールのみならずワインも、ウイスキーも、そのほか様々な酒も、専門の醸造所や工場でどんどん造ることができる。オルカ食料局には今や醸造部という立派な部署があり、キルケーはそこの顧問である。そのほかにアクアランドの園長と、建設中のオルカパークの責任者も兼任して、さらにリヨンでバーも経営しているのだから、なかなかに多忙な身だ。 「来週から撮影に入るから、もっと前倒しで詰めておかないといけませんね~。は~、大変たいへん……」  ぼやきながらも楽しげに、一通りのチェックと指示出しを終えたキルケーはデスク横の小型冷蔵庫からビールとグラスを取り出す。銘柄はもちろん「キルケーIPA」だ。 「ふっはー……!」  澄んだ琥珀色のビールをぐっと一口飲んで、キルケーは部屋の反対側へ目をやった。そこには、あの古びた銅の醸造釜が置かれている。今はもう自室でビールを造る必要もないが、毎日ぴかぴかに磨いていつでも使える状態を保っている。ちなみにキルケーが百年前から使いつづけてきた酵母は、歴史的価値があるということで箱舟のストックに加えられ、凍結保存されている。  もう一口。何度飲んでも、うまい。たった一人で試行錯誤しながら造っていた頃のビールとは比較にならないほどうまい。様々なビールを楽しめるようになった今のオルカでも、キルケーIPAは今なお人気銘柄のひとつだ。 (……けれど、それでも)  今のキルケーには、夢がある。  いつか、平和が訪れたら。この古い醸造釜と、あの時使っていた酵母で、ほんの少しのビールを造る。  そして司令官と二人で、それを飲むのだ。  きっと、大してうまくはないだろう。けれど、それでも、彼は笑って飲んでくれるに違いない。  きっと、とても楽しい夕べになるに違いない。 「…………」  ドリアードも呼ぼうかな。ブラインドプリンセスはどうしよう。いや、やっぱり二人きりがいい。  デスクに頬杖をついて、柔らかな微笑みを我知らず浮かべ、キルケーはいつまでも、幸せな夢想にふけっていた。  いつまでも、いつまでも。  具体的には機材とスタッフの手配を終えたブラインドプリンセスが打ち入り飲み会の誘いに来るまで。 End =====  ブラッスリー「アイアイエー」。  オルカに知らぬ者のない大の愛酒家でありながら、アクアランド園長という役職のためになかなかヨーロッパへ来られなかったキルケーが、念願のリヨンに着任するやいなや持てる技術とコネを総動員して開設した大衆酒場である。カフェ・アモールほど高級な酒は置いていないが、ヨーロッパ各地のワイン、ビールをはじめ豊富な酒類をとりそろえ、リーズナブルな料理とともに提供する。開店以来連日大勢の隊員で賑わう、リヨンの新たな名所の一つだ。  その夜。いつもどおり酔客でごった返すアイアイエーの片隅のテーブルで。 「まあ呑め。今日は私の奢りだ」  黄金色のビールがなみなみと注がれた大きなジョッキを二つ、ぐいと押し出してワーグが言った。 「ええ……」  突き出されたジョッキを胡乱げに睨んだのはエンプレシスハウンドの残り二人、薔花とチョナである。  カフェ・ホライゾン(こちらもとっくにリヨン店を開いた)では知り合いばかりで落ち着かないので、アイアイエーができてからは三人もしばしば利用しているが、ワーグが二人を誘うのは珍しい。まして、奢りなどという言葉が飛び出したのは初めてだ。 「何の魂胆だ? 気味悪いんだけど」  眉をひそめる薔花に構わず、ワーグは自分のジョッキをつかんでぐっと傾けた。二口、三口、白いのどが上下する。一息でジョッキをほとんど空にして、ワーグは長い長い息を吐いた。 「……同じものをもう一杯」  薔花とチョナも観念してジョッキに口をつけた。どうやらワーグは罠でも皮肉でもなく、本気で今夜の飲み代をおごってくれるつもりらしい。そして、そうするだけの理由があるらしい。 「で?」  チョナがしびれを切らしたのは、二杯目のビールがほとんど空になった頃のことだった。 「……」  ワーグはずっと無言のまま、もう三杯目にかかっている。チョナは大げさに肩をすくめて、手をひらひらと振った。 「なんか私たちに言いたいことか、聞きたいことがあるんでしょ? 早くしないと薔花ちゃんツブれちゃうよ~?」 「うっせぇ」  薔花はまだ一杯目をちびちび呑んでいる。酒は好きだが、あまり強い方ではない。チョナは反対にいくら呑んでもけろりとしている。ワーグは二人の中間くらいで、だからすでに相当酔いが回っているはずだ。よく見れば目元がほんのり赤い。 「私はな」  底に残ったビールを飲み干そうか迷うように、何度もジョッキを上げたり置いたりしてからワーグはようやく、ぽつりと言った。 「自分がエンプレシスハウンドのリーダーとして作られたと思っていた」 「……?」  薔花とチョナはそろって首をかしげる。思っていたも何も、自分でそう言ってリーダーの座におさまったのではないか。今更何を、としか言いようがない。 「今更何言ってんの」チョナがそのまま言った。 「ずっとそう思っていたが……実は違ったのかもしれない、と思えてきてな」 「どういう意味だよ?」薔花は顔をしかめた。こんなに歯切れの悪いワーグは、いつだったか神社でアルバイトを始めたのを必死に隠そうとしていた時以来だ。「他に誰かリーダーがいるってこと?」  ワーグは目をつぶり、ジョッキをぐいっとあおって空にしてから、酒臭い息を吐いてうなずいた。 「ファフニールだ」  薔花は目をまるくした。「あのバカが? ないだろ」 「ないない」チョナも手を振る。  ワーグはそれには答えずジョッキをわきに押しやり、手を振ってポルティーヤを呼んだ。 「ウイスキーを。水割りで」 「アタシ赤ワイン」薔花も便乗して注文する。 「私は白。いちばん高いやつ。あとチーズ盛り合わせもね」チョナもいつの間にか二杯目を空にしていた。  やがて酒が来ると、ワーグは待ちかねたように一口あおって続けた。 「奴は確かに馬鹿だ。だがな、ハーカを見ただろう。あそこにいた奴の子分を。お前達、あんな風に人に慕われることができるか? そして、私にそれができると思うか?」 「……」  薔花は鼻白んでワインをすする。  タフなだけが取り柄の、キャンキャンやかましい底なしの間抜け。そう思っていたあのファフニールが、あんな巨大な飛行船とバイオロイド集団を率いて現れたのには薔花も驚いた。のみならず彼女は先日の鉄の塔をめぐる戦闘において、もっとも重要な瞬間にもっとも必要な決断を行い、オルカを救ってみせたのだ。彼女に対する評価を改めるべきなのかもしれないと、さすがの薔花もうすうす感じてはいる。 「ファフニールには人望がある。決断力もある。ある種の……天性のリーダーシップがある。悔しいが、認めざるを得ん」 「でもさ~」  ちろちろとワインを舐めながら、チョナが口をはさむ。「それハウンドみたいなところで意味ある?」  旧時代のエンプレシスハウンドにおいてもファフニールの言動はおおむね今と変わらなかったが、彼女をリーダーとあおぐ者など誰一人いなかった。むしろチョナや薔花をはじめ誰もが内心、または公然と、彼女のことを見下していたものだ。ワーグの言う「ある種のリーダーシップ」がファフニールにあったとして、それはエンプレシスハウンドではなんの役にも立たなかった。 「ああ、だからこそ思うのだ」  しかしワーグは、太い眉をますます沈鬱にゆがめて、泣きそうな顔になる。 「もしかすると女帝には、エンプレシスハウンドを単なる復讐のためのテロ部隊ではない、もっと別の何かに昇華させるお考えがあったのではないか。その新たな構想の中核をなすのは奴のようなバイオロイドで、私はもう用済みなのではないか……」  声はだんだんとかぼそくなり、それにつれてワーグの頭もだんだんと傾いて、最後は握りしめたグラスに額をつけるようにして止まった。  薔花とチョナはそっと顔を見合わせ、 (めんどくさ……!)  お互いの顔にそう書いてあるのを確認して、聞こえないよう無音のため息をついた。  怨念と悪意で生きていたようなあのマリア・リオボロスが、そんな前向きなビジョンを持つわけがない。考えすぎに決まっている。二人ともそう確信しているが、何しろ思い詰めたら止まらないワーグのことだから言っても聞きはしないだろう。 「……………」  ワーグはうつむいたまま、泣き言か哀願か、そんなような何かを誰にも聞こえない声でつぶやいている。こうなるともう手に負えない。 (どうする、カイロちゃんのベッドに放り込む?)  バイオロイドの悩みは司令官に抱いてもらえば九割方霧消する。オルカ結成当初から変わらぬ最高の万能薬だが、昔に比べて抵抗軍も格段に大きくなり、それに比例して司令官も忙しくなった。今ではそうそう気軽に寝室に割り込むこともしづらくなっている。 (チョナ、優先券か何か持ってるか)  チョナは手のひらを上へ向ける。もちろん薔花も持ちあわせはない。 「あー、その……えっと、あれだ」  せめて何か言葉をかけようとするが、何も出てこない。どだい、落ち込んだ人を慰めるなどというのは女帝の猟犬に最も必要とされないスキルの一つである。正直ほっといて帰ってしまいたいが、しかしこんな有様の上司をそのままにしておくわけにはいかない……と思う程度の良心は、二人にもあった。  途方に暮れて周囲を見回した薔花の目に、見覚えのあるワークキャップがふと飛び込んできた。 「おい、あいつ」 「ん?」 「よお。アンタ、ファフニールの所にいた奴だろ」 「ひえっ!?」  突然背後から肩を叩かれた元ハーカの機関長、スターリングは飛び上がって振り向いた。「は、はい、そうです。こんばんわ」 「ちょっと私らとお話しない?」 「えっと……」  真面目そうな顔には、困惑と怯えがありありと浮かんでいる。ガラの悪い酔っ払いに絡まれたとでも思っているのだろう。間違いではない。 「まーまーいいから。まーまーまーまー」  しかしそんなことは意に介さず、薔花とチョナは両側から抱くようにしてスターリングをテーブルへ連れて行き、ワーグの隣へ座らせた。 「何呑む? アンタみたいな真面目ちゃんでも、こういうとこ来るんだ」薔花はテーブルに肘を突いて身を乗り出し、すごむような笑みで話しかける。これでも会話のきっかけを作っているつもりである。 「アルコールは飲みません。そういう習慣でして」一方のスターリングは腹をくくったのか、トレードマークのワークキャップを膝の上へにぎりしめ、落ちついた声で答える。「ここに来れば、ローストビーフというものが食べられると聞いたんです」 「ローストビーフ?」 「一度食べてみたくて」 「お前……」  旧時代から生きているくせにローストビーフも知らないのか。という言葉を、薔花は飲み込んだ。オルカに長くいるとつい忘れそうになるが、まともな料理を口にしたことのないバイオロイドというのは決して珍しい存在ではない。 「……おごってやるよ、それくらい。そのかわり、ファフニールのこと聞かせろ」 「……ファフニールのリーダーシップ、ですか」  ローストビーフを幸せそうにじっくり噛みしめて味わい、ついでにチョナの勧めたワインもちょっぴり飲んで、だいぶくつろいだ様子になったスターリングは首をかしげて考える姿勢になった。 「そこでツブれてるうちの隊長が、そのへん気にしてんだよ」 「あれをリーダーシップって言っていいのかな……それは私はハーカのオペレーターですから、彼女がハーカに乗っているかぎりは一緒にいましたけど、ひっぱたいて出ていきたいと思ったことは一度や二度じゃないですよ」 「でも、出ていってないでしょ」チョナが面白そうに言った。「それどころか、例の鉄の塔の時なんかいっしょに死ぬつもりだったって聞いたけど?」 「それは、まあ」スターリングは決まり悪げにうつむく。「ほっとけない人ではあるんですよ。それになんだかんだ、頼りになるところも無くはないというか……」 「だからさ、そういうとこなんだよ。人徳のないうちのワンちゃんが気にしてるのは」 「人徳がなくて悪かったな……」地の底から湧いてくるようなうめきを上げて、ワーグがむっくり起き上がった。真っ赤な顔をして、どろりとした眼をスターリングに据える。 「……ハーカの機関長か」 「元です」ぺこりと会釈をしてから、スターリングは椅子に座り直した。 「実は私も、調べたことはあるんです。彼女がどうしてあんなバイオロイド離れした性格なのか。とはいえ皆さんの……エンプレシスハウンドの情報は民間データベースには全然なかったので、本人から話を聞いただけですけど。それでも、いくつか推測できたことはあります」 「ふむ?」ワーグが水を一杯飲んで、聞く体制に入る。薔花とチョナもグラスを置いた。スターリングは一つ咳払いをして、 「ファフニールの性格を分解すると、おおよそ四つのキーワードで表せると思うんです。『バカ』『強欲』『お人好し』『めげない』」 「言うねえ、自分の上司に」 「今は上司じゃありませんので。それで、最初の三つについてはハッキリしてると思います。あの人の放電能力はあまりに強力なので、ヘタに悪用されたら持ち主にも被害が及びかねない。だから使いこなせないようにバカにして、動かしやすいようにお人好しで強欲にしたんです」 「クソだな、設計者」 「だが実際、そんなところだろうな」 「それで最後の『めげない』についてですが……あの人、エンプレシスハウンドの中でも後の方だそうですね。作られたのが」 「そうだな。最後期のメンバーの一人だ」ワーグが頷いた。 「だから姉というか、先輩が多いわけですが……率直に言って、エンプレシスハウンドって、性格に問題のある人が多くないですか?」 「……へーえ?」  薔花が睨むのを気にせず、スターリングは続ける。 「そういう人達の中で、いわば新人の下っ端をやっていくわけですから、神経がタフじゃないとやっていけなかったんじゃないかと。実際、昔の話を聞くと結構ひどい目にもあわされてたようですし」  薔花はだまって目をそらす。チョナは冷たい色の眼をほそめて、凄みのある笑みを浮かべた。 「本人を前にしていい度胸してるねえ、キミ」 「あんな人の下に何十年もいれば、度胸くらいつきますよ」スターリングはグラスに残ったワインを一息に飲み干して、熱い息を吐いた。 「バカだから、まともな人が思いつかないようなことをやる。バカで欲深だから、人が遠慮するものを平気で欲しがる。バカでお人好しだから、放っておくと不安になる。バカでタフだから、何があっても諦めない。……バカだから」 「バカ多すぎるだろ」 「つまり……」ワーグはテーブルに頬杖をついた。「ファフニールのリーダーシップは、偶然の産物だというのが、お前の見解か」 「そう思います。たまたまデザインされた性格が、環境にうまくハマっただけなんじゃないかと……。あと、結局私たちがみんなアイツについていったから、面倒を見ないといけなくなって、そういう方向に成長したのかもしれません。初期のファフニールは今よりだいぶひどかったですから」 「人の徳慧術知あるは、恒に疢疾に存す、か……」  ワーグはワインの瓶をとり、スターリングのグラスになみなみと注いだ。 「助言、感謝する」 「立ち直った?」 「まあ、気休めにはなった」ワーグは自分のグラスにも注いで、一口飲んだ。「どのみち、真相を確かめる方法などないのだしな。いずれ、他のハウンドと合流することがあったら聞いてみるさ」  そう言ってもう一口飲もうとしたワーグの頭上から、けたたましい声が降ってきた。 「あーっ、あんた! 隊長の私をさしおいて、何おごられてんのよ!」  豊かなバストを揺らし、スターリングに指をさしつけてツカツカとやって来たのは誰あろう、ファフニールである。 「あ、偶然の産物が来た」 「はあ!?」ますます柳眉を逆立てたファフニールだが、テーブルの上の皿にふと目を留めた。 「あ、これローストビーフってやつでしょ! 私も食べたことない!」 「美味しかったよ」スターリングが最後の一切れをすばやくさらい取り、口に放り込んでから言う。 「ちょっ……今の流れでそれ食べる!? あんた上司への敬意ってものはないの!?」 「もう対等だしって何度も言ってるでしょ」 「落ち着け、もう一皿くらい頼んでやる。お前も食べていけ」 「食べてくわよ! ご飯食べに来たんだから!」ファフニールはいそいそとコートを脱いで腰を下ろした。「外、すっごく寒いわよ。明日は雪になるかもだって」 「え~。やだなあ」寒さが苦手なチョナが、本当に嫌そうに顔をしかめた。「ホットワインちょうだい」 「水割りをもう一杯」 「酒はもういいや。コーヒー、ミルクと砂糖マシマシで」 「あ、私もそれでお願いします」 「ねえこれ奢り? 奢りって言ったわよね? この一番高いワインにするわ!」 「おいチョナ、お前こいつと発想が一緒だぜ」 「えええ~」チョナがさっきよりも嫌そうに顔をしかめた。 「ファフニール、お前、スヴァールバルへ行ったことはまだないな?」 「ほへ?」おかわりのローストビーフを口いっぱいに詰め込んだまま、ファフニールが目を丸くした。「ああ、ドーム型遊園地があるとかいう島でしょ。ないけど」 「暖かくなったら、一緒に行こう。お前に見せたいものがある」 「ええ……何よ」ファフニールは薄気味悪そうにワーグを睨んだ。「人気のない所へ連れてって、私を闇に葬る気じゃないでしょうね」 「そんな真似はせん。私闘も粛正も主様に禁じられている」ワーグは平然とグラスを傾けた。「第一、お前を消したいならそんな手間はかけない。そこらへんで斬って捨てる」 「ねえやっぱり怖いんだけどこいつ! 昔っから思ってたけどエンプレシスハウンドってなんでこんな奴ばっかりなの!? まともなのはいないわけ!?」 「自分がまともだと思ってるのが救えませんね」 「そんなことより、タブレットの電池切れたから充電しといてよ」 「あ、私も」 「もぉぉぉぉぉぉぉ!!」  アイアイエーの夜は騒々しく更けてゆく。  表通りに面した大きな窓に、夜空を舞い降りてきた雪がひとひら張りつき、すぐに溶けて消えた。 End =====  朝の光がカーテンごしにこぼれ入ってくる。枕元においた植木鉢の影がななめに長くのびて、ベッドの半ばのあたりまでとどいている。  その眺めに、ほんのかすかな違和感を感じて、俺はまだ半分眠ったままの頭をぼんやりと回転させた。 「…………?」  何かが違う。何かほんの、とても些細なところが、昨晩見たものと違う。  思考がゆっくりと覚醒に向かう。俺はベッドに手をついて体を起こし、枕元へ目をやった。  小さな緑色の芽が、植木鉢の縁をこえてぴょこんと顔を出している。  ゆうべ寝る前には、数ミリ程度の双葉がやっとのことで土のかけらを押しのけているだけだった。それが今見るとすっかり葉が開き、茎も1センチ以上にのびて、先端には次の葉までほどけかかっている。 「どうなさいましたか~……?」  隣で寝ていたセレスティアがもぞもぞと動いた。起こしてしまったらしい。 「セレスティア、この植木鉢に何かした?」 「植木鉢? いいえ~」  たっぷりした乳房が背中に押しつけられ、金色の髪がさらさらと腕にふれる。俺の肩ごしにのぞきこんだセレスティアのまだ眠たげな目が、ふんわりと嬉しそうにほころんだ。 「あらまあ、一晩でこんなに育って~。春ですねえ~」 「…………春か」  そのありふれた言葉を、俺は口の中でゆっくり繰り返した。  それから二人でシャワーを浴びる間も、着替えている時も、その言葉は俺の頭の中でぐるぐる回り続けていた。 「朝ご飯の前に、ちょっと散歩に行ってきてもいいかな」 「はい? ええ、もちろんです。朝食を少し遅らせるよう、厨房に言っておきますね」  ちょっと意外そうに、コンスタンツァは微笑んだ。着替えてから朝食までのわずかな時間は朝一番の仕事タイムだ。ふだんなら他のことに費やしたりしないが、今日はなんだか、むしょうに外に出てみたい気分だった。  三月のリヨンの朝はまだまだ寒いが、街はもうすっかり目を覚ましていた。ジャケットの襟を立てたブラウニーやアクアが何人も、忙しげに通りを行き来している。見たことのない顔もたまに通りかかるのは、デルタの支配下にいたバイオロイドたちだろう。 「あっ、司令官!」 「おはようございます!」  俺に気づくとぴょんと飛び上がって敬礼してくれるみんなへ、手を振って小走りに通りをゆく。  デルタを仕留めてから一か月。ヨーロッパを平定した……などとはまだまだ言えないが、変革は着実にすすんでいる。オルカに合流してくれた共同体はすでに数十にのぼり、移住や見学の受け入れも始まった。オルカがどんな所であるかを見て、体験してもらうためのモデルケースとして、リヨン市街の整備は急ピッチで進んでいる。  デルタが本拠地にしていただけあって、インフラの状態はかなり良好だ。建物なども、ちょっと手入れをすればすぐ使用可能なものがたくさんある。いずれは隊員たちが自由に家を選んだり、店を開いたりできるようにもしたいな等と、いかにも商店街っぽい通りを眺めつつ考えていると、さっと視界が開けて冷たい風が吹きつけてきた。  川に出たのだ。大きな川だ。広々とした河岸の道路にそって、街路樹が規則正しく並んでいる。なんという木だったか、いちど教わったのに忘れてしまったが、緑がかった茶色のなめらかな幹がモザイク模様のようにところどころ白く抜けて、節くれだった枝は針金を撚ったようにぎゅっと細く縮こまっている。先週もこのあたりには散歩で来たし、そのとき見た風景と一見何も変わっていないようだが、なんとなく全体がほの淡く、けぶるように輝いて見える。  近寄ってよく見ると、枝の節々から小さい爪の先のような芽が出て、ほんのわずかにほころびかけている。淡い色をした葉や花びらがちょっぴりだけ見えていて、枝どいう枝の芽が全部、街路樹が全部そうなっているので、全体として見るとかすかに色づいたように見えるのだ。 「ああ、そうか。春が来るんだな……」  俺は思わず、声に出してつぶやいていた。それで初めて、自分がどうしてこんなに浮き立っているのかわかった。  何年もの間、俺はオルカで世界中を旅した。いろいろな土地を訪れた。それは春のことも、夏のこともあったが、俺にとっては暑い土地とか、寒い土地とかいうのと変わらなかった。季節の移り変わりを感じるほど長いあいだ滞在したことはなかったし、いずれにせよ旅の途中、かりそめに上陸しただけの場所でしかなかったからだ。  でも今、俺たちはヨーロッパを勝ちとった。俺はフランスで、このリヨンで暮らしている。この先も、何か状況が大きく変わらない限りは、そうする予定だ。  だからこれは俺の春、俺たちの春だ。上陸した土地がたまたま春だったわけじゃない。俺たちのいるここに、この街に、春がやって来たんだ。 「…………ははっ。あはは」  息を吸い込むと、冷たい空気が舌の上で甘く感じられる。そんな味がするはずはないが、そう感じた。  コンスタンツァが、突然笑い出した俺をちょっと心配そうに見ている。俺がどうしてこんなに嬉しそうなのかピンとこないらしい。まあ無理もない、彼女は歴戦のベテランで、春なんて何十回も迎えているはずだ。  俺は河岸をもう一度見渡した。市街の状態がいいということは、植栽や雑草の手入れもされているということで、つまりこれまで訪れた都市のように、そこらじゅうに草木が生い茂ったりはしていないということだ。 「なあ、この近くに緑の多いところはないかな」 「それでしたら、橋を渡って川上へ行くと大きな公園があったと思いますが……」  コンスタンツァが言い終わるのを待たずに、俺は走り出していた。 「……消費電力と室温ログからみておそらく、東ウイング空調システムの6号機に不調が生じていると思われます。6号機はいったん止めて、4号機と7号機でカバーしましょう」 〈了解しました。東ウイングはスプリンクラー配管の老朽化も確認されています。来週末のメンテナンスで重点的な修復を試みます〉  画面の向こうのスティンガーモデルがみじかい腕を器用に上げて敬礼に似た仕草をした。A級AGSであるスティンガーは自身のOSで直接ネットワークに接続できるはずだが、定期報告会では毎回こうして備え付けのカメラとマイクを使って参加してくる。彼女なりのこだわりなのかもしれないと、ムネモシュネは受け入れることにしていた。 「アクアランドの方はいかがですか」 〈相変わらす忙しいで~す〉キルケーが相変わらずのんびりと答える。〈先週そっちでも病院が開いたと聞いてますけど、そのわりにはご新規さんの入院がぜんぜん減りませんね〉 「レモネードデルタ体制下で健康を害したり、心身に傷を負った方が予想以上に多く、こちらの病院はすでに満床とのことです。まだしばらくはそちらにも医療業務を受け持っていただくことになると予想されます」 〈なるほど。遊園地に戻れるのはまだ先ですかね~〉 「お願いします。ほかに、報告事項のある方はいますか」 〈ヨーロッパエリアの情報サーベイで不完全な記録断片を発見しました。アルプス山脈西部に、建設途中で放棄された記憶の箱舟が残っている可能性があります。詳細は別途送信したレポートを参照して下さい〉 「確認します。必要なら私が実地調査に向かうことにしましょう」  その他こまごまとした連絡を終えて、ムネモシュネはデスクトップ端末のウィンドウを閉じた。窓を開けると、朝の風が街の音をはこんでくる。  スヴァールバルに残留したスタッフは予想以上によくやってくれている。一、二か月ごとに箱舟へ帰って点検する必要があるかと思っていたが、この分なら三か月……いや、半年に一度で十分かもしれない。  このあと午前中は中央官舎で打ち合わせだが、まだ少し時間がある。ムネモシュネは外出着のワンピースに着替え、いそいそと部屋を出た。  アパルトマン風の宿舎は、出るとすぐ広い道路に面している。旧時代にはベルジュ通りと呼ばれた道だ。行き交うバイオロイド達はみな厚手のジャケットやコートに身を包んでいるが、極地での活動も想定して設計されたムネモシュネにとってこの程度はごく快適な涼しさでしかない。箱舟で読み込んだ資料によればリヨンは霧の多い街だったそうだが、こちらに来てから一度も霧など見たことはない。人間活動が絶えたおかげだろうか。  ベルジュ通りの反対側には、マロニエの林が左右どこまでも続いている。道をわたり、林を抜けるとすぐに視界が開け、よく刈り込まれた芝生がなだらかに起伏しつつどこまでも広がっていた。  ここは旧時代の名をテット・ドール公園という。170ヘクタールの広大な園内に動物園、植物園、人工湖などを擁する、リヨン最大の公園だ。美観にこだわるデルタの都市整備のおかげで、この中央広場やバラ園など、いくつかの場所は旧時代と変わらない姿をたもっている。  旧時代には行楽客で賑わったであろう広場も今は訪れる人もなく、遠くに芝刈り用のドローンが一機だけ、ゆっくりと動いている。たんたんたん、という駆動音がかすかに聞こえる。足に伝わる、芝を踏む感触。木々の間を吹き抜ける風の音。その風が運んでくる、咲きはじめたマグノリアの香り。  通りすがりにマロニエの枝を見れば、冬芽がすでにふくらみ始めている。幹に手を当てるとひんやり冷たい樹皮の下に、ほのかな暖かさを感じる。植物のもつ熱エネルギーは動物に比べればはるかに小さな量でしかないが、冷気を操るムネモシュネには感じ取れるのだ。人々がコートに身を包み、首をすくめて通りすぎる朝にも、植物はたしかに春の息吹を感じとり、目覚めの力をたくわえ始めている。  スヴァールバル島にも季節の変化はあったが、それは岩肌を覆い尽くす雪が深いか浅いかの違いでしかなかった(少なくとも、箱舟から百メートル以上離れたことのないムネモシュネにとってはそうだった)。しかし、ここでは毎日あらゆるものが少しずつ変化していく。これが自然、ドームに覆われた生態保存区域ではない、小説や映像記録で何度となく目にし憧れたほんものの四季のある自然の風景なのだ。ムネモシュネは幹に手を当てたまま目を閉じ、うっとりと満足のため息をついた。  オルカの欧州侵攻が決まってからというもの、ムネモシュネは箱舟管理者代行としての権限と技術をフル活用してフランスの情報を調べまくった。デルタの本拠地がリヨンにあるとわかってからは、リヨンのことも調べまくった。今のムネモシュネの頭にはリヨンの地理と歴史、植生、野生動物、観光名所などなどの情報がぎっしり詰め込まれている。テット・ドール公園はムネモシュネがリヨンで訪れたい場所の堂々一位であり、ムネモシュネは毎日ここを訪れるのを日課にしていた。市街中心部からはやや距離がある今の宿舎を希望したのも、この公園のすぐ目の前にあるからだ。  今日はバラ園まで足を伸ばしてみよう。一昨日は早咲きのモッコウバラが咲いていた。今日あたり、シャルル・ド・ゴールが咲いているかもしれない。一度は実物を見たいと思っていた品種だ。  浮き浮きと足をはやめたムネモシュネは、 「あれ、ムネモシュネ?」  ふいにかけられた声に立ち止まって振り返った。その声を聞き間違えようはない。オルカの司令官……箱舟の現管理者であり、ムネモシュネを箱舟から連れ出して今のこの景色を見せてくれたその人が、手を振りながらこちらへ歩いてきた。 「管理者様、お早うございます。お散歩ですか?」 「うん、まあね。ムネモシュネは、ここで何を?」  小走りに駆け寄ったムネモシュネは、ハタと返答に困った。何をと言われると、何をしに来たわけでもないのだ。しかし、目的がないというのも違う。どうと言えばわかってもらえるだろうか。しばし頭の中で言葉を選んでから、ムネモシュネはゆっくりと答えた。 「春が……春が来るとは、こういうことなのかと、その印象を味わっていました」  すると意外なことに、司令官はみるみる満面の笑顔になり、 「そうだよな、そうだよな! あっはははは、春っていいよな!!」  ムネモシュネの肩を抱いてくるくる回りはじめた。どうしてそんなに喜んでいるのか、今ひとつ理解できなかったが、彼を喜ばせたのが自分ならこんなに嬉しいことはない。少し離れて付き従っているコンスタンツァが、よろしく、というように目配せをした。 「この公園に来るのは初めてなんだ。よかったら案内してくれないか」 「かしこまりました。ここは、旧時代にテット・ドール公園と呼ばれていた場所です。テット・ドールとは『金の頭』という意味で、黄金のキリスト頭像がこの土地のどこかに埋められているという伝説が……」  司令官の手を引いて、ふたたびムネモシュネは歩き出す。バラ園を見せたらどんな顔をするだろうと想像した。その顔がわずかにほころんでいることに、自分でも気づいてはいなかった。  つめたい風が長い耳をくすぐり、ホワイトゴールドの髪をなびかせて通り過ぎる。生命のセレスティアは誰にも聞こえない程度にちいさく鼻歌を歌いながら、上機嫌で石畳の通りを歩いていた。  司令官の寝室に上がった翌日は、全休がもらえるのが通例だ。明日の予定を気にせずゆっくり愛しあえるし、経験の浅い隊員は実際に一日ダウンして動けなくなることも珍しくない。もう何度も経験を重ねたセレスティアはそこまで消耗はしないが、せっかくなのでゆっくり余韻を反芻しながら朝寝を楽しみ、いま起きてきたところだ。 「久しぶりのお休み、どこへ行きましょうか~」  植物を操るセレスティアのナノボットは、言うまでもなく農業において絶大な力を発揮する。そのため、デルタを倒してリヨンを占領したあとも、セレスティアはフェアリーシリーズとともに周辺の農地の整備や復旧に引っ張りだこになっていた。欧州解放作戦が始まって以来、丸一日の休暇をもらったのは今日が初めてである。 「きれいな街ですね~。緑も豊富ですし」  当然、リヨンの街を散策するのも初めてだ。空気はまだまだ冷たいが、先週までよりも確実に暖かくなっている。並木のプラタナスの冬芽がほころんでいる。春が近づいてきているのが風の匂いで感じられて、セレスティアは嬉しくなる。春は彼女の一番好きな季節だ。グアムの妖精村はもう遠い昔のことのように感じられるが、思えばあそこには雨季と乾季があるだけで春も秋もなかった。  レモネードデルタは自分が住むこの街の美観についてとくに気を遣って整備していたという。そういう所はデルタに感謝すべきなのかもしれない……と、ものにこだわらないセレスティアはわりと屈託なく思ったりするのだが、そんなことをこの街でうっかり口にすべきではないということもわかっている。 (いつか、フランスの他の街も訪れてみたいですね~)  などと考えつつとりとめなく歩いていたら、広場のようなところに出た。道の幅がぐっと広くなって、周囲を石造りのいかめしい建物が囲み、屋台らしきものがいくつか出てそれぞれに何かを売っている。 「ケーバブー、リヨン名物ケバブはいかがですかー」  その一つからうまそうな匂いがして、セレスティアはふらふらと近寄っていった。ジニヤーが声を張り上げている横では、ドラム缶を改造したらしいオーブンから大きな肉の塊が顔を出して、ジュウジュウと脂の焼ける音を立てている。セレスティアのお腹がくう、と鳴った。 「これは何のお肉でしょう?」 「羊です!」ジニヤーが元気よく答えた。「昨日シメたばっかりだから、新鮮ですよ」 「軍票で買えますか?」 「もちろんです!」  ジニヤーは長いナイフを取り出すと、炙られている肉の塊から大きな切れを何枚も削ぎおとし、大きな丸パンの中央を割りひらいたのへピクルスといっしょに詰め込んで、焼いたポテトを添えて渡してくれた。両手で持ってかぶりつくと、熱く香ばしい肉汁が口の中いっぱいに広がる。 「ん~~!」  セレスティアは口の中をいっぱいにしたまま、喜びの声を上げる。肉にはスパイスの効いたソースがもみ込んであり、エスニックな香りと辛味が鼻へ抜ける。 「とても美味しいです~。ケバブって、中東の方のお料理でしたよね? リヨン名物だとは知りませんでした~」 「実は、そう言ってるだけなんです」ジニヤーはちょっと恥ずかしそうに打ち明けた。「その方が売れると思って。あ、でも旧時代のフランスには本当にケバブ屋さんが多かったそうですよ!」 「そうなんでふね~」  もぐもぐ頬張りながら会話をするうちにも、子供のバイオロイドが二人、とことこと駆けてきてしわくちゃの軍票を出す。 「ふたつください」 「はい、まいどー!」  二人ともオルカでは見ない顔だが、セレスティアはカタログで知っている。パブリックサーバントの農奴型と、清掃婦型のバイオロイドだ。PECSはコスト上の理由から、労働用モデルには子供型を好んで設計した。この街や周辺の村々に子供が多いのもそのせいだ。この子たちも、手伝いか下働きでもして軍票をもらったのだろう。 「ジニヤーさんは、外から行商にいらしてるのですか?」 「はい、西のモントルヴェ村から来ました。あの、オルカのセレスティアさんですよね?」  セレスティアが頷くと、ジニヤーはぱっと笑顔になる。「先週、雪腐病を治してくれてありがとうございます。あれ、うちの隣の村だったんです。おかげで私たちの牧場も安心して使えるようになりました」 「まあ、それはよかったです~」 「うちはみんなまだ迷ってますが、そのうちきっとオルカに合流すると思います! これどうぞ!」ジニヤーは赤いほっぺで笑いながら、セレスティアのパンに追加のポテトを盛ってくれた。  オルカがフランスを本拠地として腰を据えたことで、一番変わったのは食料事情だ。質や量ではなく、「幅」とでもいうべきものが変わった……セレスティアはそう思う。  これまでのオルカでも食べるものは十分あったし、質も決して低くなかった。酒や菓子などの嗜好品を買い求めることもできた。しかし、それらはすべて外部拠点から搬入している物資であり、広い意味ではオルカから「支給される」ものであった。  今、リヨン周辺にはオルカの直轄農地以外にも、バイオロイド共同体がいとなむ農村が多数ある。このジニヤーのように、かれらはいくつかの手続きをふめばリヨンで自由に産物を売っていいことになっており、市内のいたる所にそういった屋台が出ていて、いつでも好きな時に買うことができる。時間があるなら農村に直接出かけて買ってくるのも自由だ。ツナ缶がなければ、畑仕事の手伝いでも何でもして分けてもらえるだろう。本当にどうにもならなかったら、森に行って木の実や動物を狩ったっていい。  要するに、今や食料は「なんとでもなる」ものになった。これはとても豊かなことだと、セレスティアは思う。はっきり自覚している者はまだ少ないかもしれないが、この豊かさは皆の生きる活力の、そのもっとも深い部分を支えてくれる。それは必ずオルカをより強く、より健やかに、より逞しくするだろう。 「ごちそうさまでした。本当に美味しかったです~」  パンくずの一粒まできれいに食べ終えて、ていねいに礼を述べてから、セレスティアは散歩を再開した。  白や、クリーム色や、さんご色や、いろいろの石で組まれた壁が立ち並ぶ道を気の向くままに歩く。曲がり角があれば曲がってみる。入れそうなところがあれば入ってみる。橋があれば渡ってみる。あてどない散歩は昔から大好きだ。グアムでも、よくブラックワームを連れて森をそぞろ歩いたものである。 「……あら~?」  しかし、森の中と街の中では勝手が違うようだ。四つ辻でふと立ち止まったセレスティアは、自分が今どこにいるのか、まったくわからないことに気がついた。  前後左右のどれも同じような石畳の道に見える。宿舎は市の中心部にあったはずだが、どちらへ行けばその中心部なのか見当がつかない。ちなみにリヨンには「トラブール」と呼ばれる、一見建物の一部のように見えるが実は通路になっている小さな抜け道が無数にあり、そのせいで道に迷いやすくなっているのだが、もちろんセレスティアはそんなことは知らない。 「困りましたね~」  大して困ってもいなさそうにおっとりと右を見たり左を見たりしていたセレスティアは、ぱっと笑顔になった。交差点の角から見慣れた顔が現れたのだ。 「司令官様~!」  小走りに駆け寄ってから、後ろにいたムネモシュネに気づき、一歩引いてお互いぺこりと頭を下げる。寝室当番の翌日は司令官にあまりくっつかないのがマナーだが、この場合は不可抗力として許されるだろう。 「お散歩ですか~?」 「うん、ムネモシュネがこの街に詳しくてね。いろいろ案内してもらってたんだ」 「まあ、助かります! 実は私、道に迷ってしまって~」  セレスティアは今朝の出来事と、たどった道順を思い出せるかぎり二人に説明した。 「それで、広場で売っていたケバブがとっても美味しかったんですよ~」 「ケバブか、いいな」司令官がぺろりと唇をなめて腹に手をやる。「それ、どこの広場かわかる?」 「ええと、橋を渡ったのは覚えてるんですが~」  ムネモシュネがタブレットを取り出して地図を検索しながら、通りの向こうへ目をやった。「あちらの方角から橋を渡っていらしたのなら、リヨン2区だと思われます。2区にある主な広場は……」 「橋を渡ったのは二回だったかもしれません~」 「えっ」 「三回だったかも~」 「えっ」  結局、ムネモシュネのおかげで無事目的の広場は見つかり、屋台のケバブで舌鼓を打つことができた。  そしてそのまま一緒に司令官公邸に戻った三人は、朝食を作って待っていたソワンに氷のような目で迎えられ、平謝りに謝ったのだった。 End ===== Date:2175/09/02 21:04 リヨンついた すごい にぎやか 多い タブレットもらったのでかく 記ろくをnこしておこう。 カリスタYe-E5i です。 Date:2175/09/04 20:32 タブレットになれて来た。 おどろくことばかり バイオロイドが多い。すごく大勢。 ブラッディpantherモデルにはじめて合った。 Date:2175/09/15 21:58 どうにかタッチキーボードがまともに使えるようになってきた。 アレクサンドラさんの授業できいたグミン政策というのが何のことかわからなかったけど、ようやくわかった。デルタはこういうことから私たちを遠ざけたかったんだ。 アイアンアニーの言ってたことはぜんぶ本当だった。むしろ控えめすぎるくらいだった。リヨンはすごいまちだ。 食事がもらえる。殴られない。立ち止まっても怒られない。挨拶してくれる。 いろいろありすぎてとても全部はいえないけど、本当にすてきな所だ。誰もが一度リヨンに来てみるべき。 メールのおくり方もおそわった。 字を書くのになれるための日記だけど、今日からはサン・ナボール村のみんなにも送信しようとおもう。ちゃんとメールが送れるだろうか。 Date:2175/09/16 21:42 オルカにもとからいるアーマードメイデンの人たちが、歓迎会をしてくれた。 食べ物とお菓子と、お酒もあって、どれもすごくおいしい。ワインなんて大昔に一口だけ飲んだきりだ。誰もがどんどんお菓子をくれるからお腹いっぱいになってしまった。 オルカではもう何年も前から、明日食べるものの心配なんかいらないそうだ。 ブラッディパンサー隊長のすすめで、こっちにいる間だけでも、はたらき口を探すことにした。住む部屋と毎日の食事は無料でもらえるけど、何もしないでぶらぶらしているわけにはいかない。私は村の代表としてここへ来ているんだから。 あと、働かないとナースホルン隊長のようになるぞとみんなにおどかされた。 あと、今日食べたようなお菓子が、街のあちこちで有料で売っている。また食べたい。 配給の食事だって、去年まで食べてたものよりずっとずっとおいしいのに。ぜいたくに慣れるってこわい。 Date:2175/09/17 21:02 街のすぐ外にある農場で働くことになった。 モジュールを入れ直してアーマードメイデンに復隊することも考えたけど、再訓練に時間がかかるみたいだし、戦闘部隊に入ったら街を離れないといけないのでやめた。 村ではテンサイとジャガイモを作ってたと報告したら、ジャガイモの畑に回してもらえた。 畑はたくさんあって、分野ごとに一人ずつフェアリーシリーズがついている。その指導がほんとうに的確で、勉強になることばかりだ。私たちがやってたのはただの見よう見まねだったんだとわかってしまった。 Date:2175/09/27 21:55  今日はまたひとつ、信じられないものを見つけてしまった。  買い物をしていたら雨が降ってきたので、適当な店に飛び込んだ。「フルール・ド・ポー」という名前で、はじめは喫茶店かと思ったけど、内装がものすごく綺麗で、宝石箱みたいなショーケースがあって、そこに並んでるのは全部パンツやブラだった。ランジェリーショップというやつだったのだ。  その上、奥から出てきた店長が、なんとオードリー・ドリームウィーバー。生きていて怪我もしてないオードリーなんて、何年ぶりに見ただろう。リヨンに来てもう一月ちかくになるが、デルタがもういないんだと一番実感できたのは今日かもしれない。  オードリーさんはオルカで働いていて、ここはふだんスタッフに任せているけど、たまの休みには自分でお店に出るらしい。今日会えたのはすごくラッキーだったわけだ。  でも私の下着なんて、何十年も前から着てるやつだ。ブラなんか破れたところをテープで留めてある。こんな素敵なお店で見せていい物じゃないからすぐ帰ろうとしたけど、オードリーさんが引き留めて、 「ここにあるのはランジェリー。あなたが今身につけているものも、下着ではなくランジェリーです」  私はその一言で、すっかりぽーっとなってしまって、お店の中をゆっくり見せてもらうことにした。  オードリーさんが自分でデザインと縫製までしたっていう、目も眩むくらい細かなばら色のレースが一面にあしらわれたブラとパンツ。試着させてもらったら谷間がクッキリして、お尻がキュッと持ち上がって、なんだか肌まで綺麗になったような気がした。オリビア・スターソワーさんが昔の女優のために作ったのを復元したっていう、真っ青なコルセット。肋骨が痛くなるくらい締め上げられたけど、鏡に映ったプロポーションは私じゃないみたいだった。  オードリーさん曰く、 「誰からも見られなくても、自分自身を素敵な気分にしてくれる。ランジェリーにはそういう力があるのですわ」  だそうだ。  まあもちろん、高すぎて全然手が出なかったから、何も買わずに帰ってきたんだけど……。  農場に入ったばかりだけど、仕事を増やそうかと思う。節操がなさ過ぎるだろうか。 Date:2175/09/28 21:12  指導員のシザーズリーゼさんから、作物別のマニュアルを大量にもらった。ジャガイモの病気のところ、この本が二十年前にあれば死ななくてすんだ仲間が大勢いたのにと思うと、嬉しいけれどもすこし辛くなる。  添付しておくので、村のみんなにも読んでほしい。  アーマードメイデンの歓迎会がまた開かれるというので参加した。今度は私も歓迎する側で、ラインラントから来たっていうイオが一人とスプリガンが二人、新しく加わった。デルタの下で働かされていたアーマードメイデンなんて私だけだと思っていたけど、結構いるらしい。ドイツにはブラックリバーのバイオロイドが多いんだとか。リバーメタル社があったからだろうか。  「フルール・ド・ポー」について聞いてみたら、みんな当たり前に知っていた。古株の隊員が言うには、オルカがまだ潜水艦を本拠地にしていた頃から、艦内の売店では下着を扱っていたそうだ。信じられない。 「カリスタは下着に縁があるな」とブラッディパンサー隊長が笑っていたが、何のことかわからない。オルカのカリスタに聞いたけど教えてくれなかった。  ナースホルン隊長にも初めて会えたのだが……上官侮辱罪に問われたくないから、どう感じたかは書かないでおく。 Date:2175/10/02 20:58  フルール・ド・ポーにはいろいろな人が来る。初めて入ったときは私一人だったけど、あれは相当ラッキーだったようだ。  他のお客を見ていると、まだまだ私の知らないランジェリーが色々あるとわかる。キャミソール、ブラスリップ、ソング、ガーターベルト、言葉を覚えるだけでも苦労しそうだ。  はじめ、こんな高級なものを買えるなんてみんなお金持ちなんだと思っていたが、よく見ていると店員や他のお客と話だけして、何も買わずに帰る人の方が多い。ランジェリーを見ること自体を楽しんでいるのだ。店員もそれで文句も言わないで、楽しそうに応対している。  畑仕事が長かったので、私はカリスタモデルにしては日焼けしている方だと思う。だから黒よりは白系の下着の方が似合うのではないだろうか。 Date:2175/10/28 21:22  買った。ランジェリーを買ってしまった。  清掃員のアルバイトを入れまくり、食事は配給だけで我慢して一ヶ月。ためたツナ缶でとうとう買った、フルール・ド・ポーのバルコネット・ホワイトヴェールブラとパンティ。  脇の下と腰の横のところが透け感のあるレースになっていて、わりときわどいデザイン。 「見せる相手もいないし、もう少しおとなしいやつでもいい」  と、選んでいる途中ちょっと怖じ気づいたのだけど、 「見せる相手ならいますわよ? あなたにその気があればですが」  オードリーさんの一言が決め手になった。確かにいる。オルカには見せる相手がいる。いるというだけで、会えるかどうかはわからないけれど。  部屋に帰ってすぐに着けてみた。最高だ。着てるだけで綺麗になった気がする。着心地もすごくて、うまく言えないけどすべすべした優しいなにかに包まれてるみたい。普段着でも下にこれを着てるだけで気持ちがアガる。オードリーさんの言ったことは本当だったんだ。  バスルームの鏡だけじゃ足りない。全身うつせる姿見をこんど買ってこよう。白い花と、花瓶も買おう。お気に入りのランジェリーと同じ色の花を部屋に飾るといいって、オードリーさんが言っていた。 Date:2175/11/05 22:39  今日はフルール・ド・ポーで、マーメイデンのアンフィトリテさんに会った。  モジュールの知識では知っていたが、実際に会ったのは初めてだ。まだ量産化されておらず、オルカ全体でも彼女は一人しかいないんだそうだ。  初対面で新参者の私にもていねいに挨拶してくれて礼儀正しい人だと思ったが、バッグから出した下着がすごかった。いや、最初は下着だとはわからなかった、黒い糸とレースの絡みあったものに、小粒の真珠がいくつかつながっていて、ネックレスか何かだと思っていた。 「ほつれたところを見つけてしまって、直していただけないかと」  不思議そうに見ているのがおかしかったのだろう、オードリーさんが広げて見せてくれて、初めてわかった。それは布地のほぼない、とんでもないデザインのパンティで、真珠がつながった部分で大事なところを隠すようになっていたのだ。そんな下着がこの世にあるなんて知らなかった。  それでは隠せないだろうと思ったので正直にそう言ったら、 「隠せないからこそ役に立つこともあるのです」  と二人して笑われた。悔しいが、ランジェリーにはまだまだ知らない世界があるらしい。  店でランジェリー講座を定期的に開いているというので、申し込むことにした。 Date:2175/11/07 20:40  人間様がマルセイユから近々帰ってくるらしい。  そのせいか、朝から街の中がなんだか浮ついた空気になっている。映像では私も何度も見たけど、実物に会ったことはもちろんない。私たちに声をかけてくださることもあるっていうけど、本当かどうかわからない。おととい、アンフィトリテさんがあんな下着を直しに来たのも、それと関係があるのかもしれない。  オードリーさんの講座は本当にためになる。手袋の脱ぎ方だけであんなにバリエーションがあるなんて。アンフィトリテさんのやつみたいなとんでもない代物はまだ登場していない。パールクロッチと呼ぶらしいことは、あとで調べて知った。 Date:2175/11/19 18:52  人間様に挨拶をした。  ベランダから通りを眺めていたら下を散歩していた。あんまり普通に歩いてるから見過ごしそうになって、あわてて手を振ったら振り返してくれた。  ちゃんと私の方を見て。目を合わせて笑って。  ただそれだけなんだけど、すごく幸せな気分になれた。なんだろう、これ。  通り過ぎる人間様を見送って写真を撮ったら、いつのまにか真後ろにブラックリリスが立ってて写真をチェックされた。死ぬかと思った。 Date:2175/12/10 17:20  とんでもないチャンスが舞い込んできた。  オルカ本隊のカリスタモデル、カリスタ011が、来週人間様と……アレをする当番だったんだけど、戦闘任務で負傷してしまったらしい。  そういうときはいったん順番を飛ばして、怪我が治ったら最優先で入れるチケットをもらうか、同型機に代わってもらうかの二択なんだけど、011は後者を選んだそうだ。  それでリヨンにいるカリスタ全員でくじ引きをして、なんと、私が当たった。  オルカに参加してたった三ヶ月で寝室に上がれるなんて、かなりのレアケースらしい。あとで011にお礼を言いにいかないと。  初めて買った白の上下セットを着けて、鏡の前に立ってみた。今もお気に入りではあるけれど、でもこんなのじゃダメだ。もっと、もっと人間様にアピールするランジェリーじゃないと。  オードリーさんのランジェリー講座には、有料の上級編がある。大急ぎで申し込んだ。 Date:2175/12/11 20:18  私の知らない世界がまだまだあった。  上級編は一般向けの講座が終わった後、夕方になってから開かれる。お店で顔見知りの人も何人か受けに来ているけど、みんな気迫が違う。  オルカのベッドタイム争奪戦の厳しさがそうさせるのだろう。ただセクシーなだけでは足りないのだ。「この女がほしい、この体を抱きたい」と思ってもらうためには、普通をこえたギリギリを攻めないといけない。  自分の体の強みをどう活かすか。弱みをどんなふうに隠すか。何を隠して、何を見せるか。Oバック。Cストリング。オープンカップブラ。オールシースルー。オープンクロッチ。  ここは戦場なんだ。誰もが火花を散らしている。私はもうそこに立ってしまった。新兵だからといって言い訳はできない。 Date:2175/12/12 23:11  ブラはバルコネットで決まりだと思う。初めて買ったセットがバルコネットだったのはなんとなくだったけれど、いい選択だった。普通くらいしかない私のバストでも、あふれそうな感じが演出できる。ニプルをギリギリまで見せられるのも利点だ。でも下品にならないバランスをうまく見極めないといけない。  下はスーパーハイレグ。これはもう、穿き慣れているのが最大の理由。カリスタモデルの制服がハイレグというかTフロントみたいな形なので、長年これしかパンティの選択肢がなかったのだ。これにエンブロイダリーレースをたっぷりとつける。  ただ問題は、スーパーハイレグにはガーターベルトが似合わない。この時点で演出の方法がかなり限られてくる。  オープンカップブラについてもう一度考えるべきかもしれない。ベビードールと重ねると、脱がしたときに効果的らしい。  いっそレースは諦めて、シンプルなサイハイソックスと合わせて未来感を狙う?  透け感とVラインの細さ。ぎりぎりまで欲しいが、濡れたときの状態も考える必要がある。「見えそうで見えない」の先には、「隠れているようで隠れていない」がある。アンフィトリテさんは私よりずっと高いステージにいた。  考えれば考えるほどわからなくなる。 Date:2175/12/13 23:45  ランジェリーとは哲学だ。  裸よりいやらしくなかったら着ける意味がないのだ。 Date:2175/12/14 18:50  これからいよいよ、人間様の寝室へ行く。準備は完璧。そのはず。  この日記はサン・ナボール村に送っているのだということを久しぶりに思い出した。みんな見ていてほしい。きっと、村の代表に恥じない姿を見せるから。 Date:2175/12/16 12:11  しあわせで  すごい  きもちいいかった  みんなもはやくリヨンにくるといい  ついしん  したぎはなんでもいいです End