ハクマイ怪文書シリーズ 転生バッドエンドIF編 『幕引くのは誰が為』 ◆  とある世界線の、日本。  そこでは、ウマ娘という言葉・生物が存在せず、競走馬という言葉に置き換えられている世界だった。  一地方都市の片隅、⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎という名前を持つ青年は満たされていた。  大学で教鞭を執り、専門である舞台芸術論を熱意ある学生たちに語る日々。繁華街から少し離れた、日当たりの良いマンションの一室。淹れたての紅茶の香り。週末には映画を観て、時折教え子たちの小さな公演に足を運ぶ──。
 穏やかで、静かで、満ち足りた人生。  ただ、時折、胸にぽっかりと穴が空いたような、奇妙な喪失感を覚えることがあった。  舞台、小説──素晴らしい創作物に触れ、感動したとき、胸中で火花のような何かが散った。
 燃えるように大切なものを忘れているような。命懸けで誰かのために尽くし、その輝きに魂ごと焦がされた、遠い日の夢の残滓。
 しかし、それはあくまで一瞬の感傷だ。⬛︎⬛︎は自身の幸福を疑ったことなどなかった。彼の瞳は、かつての宿命を知る由もなく、深い海の底のように、ただ静かに凪いでいた。 「⬛︎⬛︎先生! 今度の自主公演、絶対に観に来てくださいね!」  彼の穏やかな日々に、小さな光が差し込んだのは、半年前のこと。 
 ゼミの教え子である、⬜︎⬜︎⬜︎⬜︎。その小柄な体躯には太陽のようなエネルギーを宿し、まさに天性の表現者と言っていいだろう。彼女の脚本は未熟だが、人を惹きつける、どうしようもない「火」があった。
 ⬛︎⬛︎は、彼女の中に眠る才能に、純粋な指導者として魅了されていた。煤けた原石を、正しい方法で磨き上げ、その輝きを世に送り出してやりたい。その健全な使命感が、彼の日々をより一層、充実させていた。 「ああ、もちろん行くよ。君の脚本、楽しみにしている」  ⬜︎⬜︎に向けて微笑む時、彼の瞳の奥に、ほんのわずかに、かつての色が灯ることを、彼自身は知らなかった。
 誰かの才能を前にした時の、あの抑えきれない高揚感。
 彼が再び「トレーナー」の顔になりかけていることを、ただ一人、世界の片隅から見つめる者がいた。 ◆  彼女は、ずっと見ていた。 
 この世界に再び生を受けてから、何年も、何年も。  ハクマイは、変わらなかった。その名、獣めいた耳と尾、類稀なる身体能力は失われたが、それらは些事なこと。  白と黒の髪も、全てを見透かすような赤い瞳も、そして、⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎という男の魂に刻み込まれた、あの懐かしい「深い海」の香りさえあれば、それで良かった。
 彼女は、彼の人生を一冊の書物を読むように、静かに追っていた。  彼が大学の講師になったこと。穏やかな人々に囲まれていること。そして、⬜︎⬜︎⬜︎⬜︎という、眩しくて、ありふれた「光」に、あの頃と同じような瞳を向け始めていること。
 その全てを、かつてハクマイだった少女は知っていた。  しかし彼女の心には、一つの波風も怒らなかった。嫉妬も、憎しみもない。
 あるのは、ただ一つ。
 これから起こるであろう、許しがたい「冒涜」に対する、冷たい決意だけだった。 (ああ、トレーナー。君は、何も覚えていないんだね)  公園のベンチで、学生と楽しそうに語らう彼を、木陰から見つめながら、ハクマイは思う。 (ぼくたちの物語は、あの一生で、もう完璧に完成したのに!
君が薪を焚べ、ぼくが燃え盛った。君の瞳の中、ぼくは最高に輝いて、そして、燃え尽きた。最後は二人だけの静かな部屋で、永遠になれた……。終わりがどれだけ惨めだろうと、あれ以上に美しい舞台なんて、この世のどこにもない。 なのに君は、また新しい物語を始めようとしているんだね。
あの、ありふれた光を、君のその瞳で照らそうとしている。 駄目だよ、トレーナー。 そんなことをしたら、ぼくたちのあの日々が、ただの過去になってしまうじゃないか。
数多ある人生の中の、ありふれた一ページに成り下がってしまうじゃないか。 ぼくたちの愛は──あの破滅は、唯一無二の絶対でなければならないのに)  雨が、降り始めた。人々が傘を開き、足早に去っていく。
 公園には、雨音と、ベンチに座る彼と、そして、ゆっくりと木陰から歩み出る、彼女だけが残された。 ◆  ⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎は、雨宿りのために立ち上がろうとして、足を止めた。
 一人の少女が、傘も差さずに、自分の前に立っていたからだ。  白と、黒。
 奇妙な髪の色。現実感のない、まるでフィクションの物語から抜け出してきたかのような姿。
 そして、その赤い瞳に見つめられた瞬間、⬛︎⬛︎の心臓は、意味も分からず、氷水で締め上げられたかのように軋んだ。  忘れていたはずの、夢の残滓。
 燃え盛る炎。幾万の歓声。芝の匂い。そして、自分の腕の中で、か細く震えていた、小さな身体の記憶。 「……どなたですか?生徒の方でしょうか」  声が、僅かに震えた。目の前の少女は、ただ、静かに微笑んでいる。
 それは、全てを赦す聖母のようであり、これから起こる全てを知る、運命の宣告者のようでもあった。 「見つけたよ、トレーナー! ……あ、思い出せないかな。この世界には、“ウマ娘”がないみたいだから…」  その声を聞いた瞬間、⬛︎⬛︎の意識は、現在と過去の間を失った。
 「トレーナー」。その懐かしい響き。忘れていたはずの、自分の本当の名前を呼ばれたような感覚。 「何を…」 「まあいいや。大人しく、聞いてて」  ハクマイは、人差し指をそっと青年の唇に当てた。その有無を言わさぬ、絶対的な静寂の命令に、彼はただ言葉を失うしかなかった。  「あのね」と、彼女は語り始める。その声は、心の底から慈しむような、優しい響きで。 「また会えたら、今度は別の人生やってみても良いかな、って最初は思ってたんだよ。ペアダンスとか好きかなあ? ってね。
でも、幸せなのは、あの一生だけでいいかなって」  彼女は一歩、彼に近づく。雨粒が、彼女の白い肌を伝っていく。 
「君は、ぼくだけのトレーナーだった。ぼくは、君の瞳の中だけで燃える、君だけのウマ娘だった。他の誰も入り込めない、完璧に満たされた世界だったんだ。 君が他の誰かの才能を見つけ、それを育てる。果てに穏やかで、ありふれた、健全な幸福を手に入れてしまったら…ぼくたちの、あの狂おしいほど美しかった地獄が、ただの『間違い』だったみたいじゃないか」  彼の脳裏に、記憶のないはずの光景が、稲妻のように明滅する。
 NHKマイル、日本ダービー、安田記念、フランス遠征。そして、静かな雨音だけが響く、二人だけの部屋。 「君だけは、ぼくとの物語を汚しちゃいけない! あの完璧な悲劇を、ハッピーエンドで上書きなんてしちゃあいけないんだよ」  彼女の瞳から、光がすうっと消える。だが、その口元には、まだ優しい笑みが浮かんでいる。それは、愛する者の魂を、永遠に自らのものにするための、儀式の微笑みだった。 「だからね、君がまた『誰か』のトレーナーになる前に。君の魂が、また別の『火』を見つけてしまう前に」  ハクマイは、そっと彼の手を取った。その手は、雨に濡れて、氷のように冷たい。 「終わらせてあげる。ぼくと君が、もう2度と間違えないように」  ⬛︎⬛︎は、もう何も言えなかった。
 瞳を見たら分かる。目の前の少女は、こちらを見ているようで、見ていない。ずっと遠くを眺め、そして語りかけている。  ──狂ってる。そう頭では理解している。しかし彼の魂が、彼女の言葉を「正しい」と叫んでいる。
 ああ──そうだ。自分は、この魂の観覧者だった。この小さな身体が放つ、破滅的な輝きを、誰よりも近くで浴び続けるためだけに、存在していたような──。 「帰ろう、トレーナー」  彼女は、彼の手を引く。その手にかつての腕力はとうに存在しないが、彼はなすすべなく、それに引かれて歩き出す。  彼の教え子のこと、大学のこと、穏やかだった日々の全てが、急速に色褪せ、遠ざかっていく。 「ぼくたちの物語に、何度でも帰ろう。何百回生まれ変わっても、君の物語のヒロインは──ぼくだけなんだから!」  満面の微笑みを浮かべて、彼女は言う。  これから何処に連れて行かれるのか──何が起こるのか。彼女が導きとして灯した焔であるならば、そんな事は何だって良かった。  雨は閉演に贈られる拍手のように、延々と降り注いでいた。
 お終い