ハクマイ怪文書シリーズ バッドエンドIF編 『飛んで、火、に入る夏、の虫。』 ルート突入条件: ・ハクマイとトレーナーがお互いの好感度をカンストまで上昇させる ・他キャラクターとの好感度イベントを完了せず終了する ・トゥインクル・シリーズ終了までにG1を計5勝以上する(史実超えする) ・少女と青年が己の欲するものを知ってしまう ◇  トゥインクル・シリーズを引退する日、少女は青年にこう言った。 「ね、約束だよ、トレーナー。──その深い海みたいな瞳で、ずっとぼくの事を見つめていて」 ◆  その日は、小雨が静かに降り注いでいた。  己の領分、定められていたような気さえする以上の活躍をし、かつて喝采と歓声を浴びた彼女が、引退してから数年。  ハクマイは、“普通の現役引退ウマ娘”をしていた。  休日の昼間──トゥインクル・シリーズを退いたウマ娘による、ドリームリーグと呼ばれるものが、時たま開催される。彼女が顔を出せばかつてファンだった人々は笑顔になり、共に写真を撮り、善い言葉を並べてくれる。レースを走り終えれば、拍手が起こる。  「ありがとう」と言う喉は、形だけ動く。胸の中の火種は、返事をしない。  帰り道の電車、窓に映る自分を見て、思う──ああ、これは違う火だ。誰かに見せるために灯す、小さくて、温もりを孕んだ火。あの頃、レースのたびに燃え盛っていた焔とは、別物だ。  標のない空虚な日々に、生温さだけが残されている。  週に何度か、部屋の扉は開かれた。LANEに律儀に入れられる連絡も、合鍵の音も、もう習慣になっている。 「入ります」  トレーナー…元、だが。名前で呼んでやっても良いが、妙に慣れない。なので、呼び方は慣れ親しんだ「トレーナー」だった。  そんな彼が、雨粒を払って入ってくる。手には買い物袋。野菜と肉と、ハクマイが好きだった銘柄の牛乳。 「今日は煮物にします。冷えるので」 「手伝うよ。ちょっとだけ」 ◆ 「いただきます」  口に含めば、舌は覚えている。出汁の丸さ、根菜の柔らかさ。身体には良い。心にも良い、はず。 「どうですか。貴方みたいに上手じゃないですけど」 「おいしいよ」 「よかった」  穏やかで他愛のない会話は、心地よい。  けれど、その安堵が罠のように感じられる時がある。優しさというぬるさに、いつのまにか足が動かなくなる。  ──これが前に進むのを止めているのかもしれない、と、薄く思う。けれど、その薄さのまま、思考は湯気に紛れて天井のほうへ消えていく。  夜が深くなり、彼は洗い物を終えて、流しに皿を伏せる。 「明日は何時に」 「未定」 「分かりました。冷蔵庫に作り置きを入れておきました。無理はしないで」 「うん」 「何かあれば、連絡を」 「うん」  彼の気遣いの台詞は、かつてパドックの外で交わした合図と似ている。ルーティンは人を安心させる。安心は人を緩める。緩みは、日々の形になって、ハクマイの部屋に沈殿する。  彼が帰ると、雨音だけが残った。玄関の鍵がかかる音は、やさしい。やさしい音は、時に鎖の音にも似る。 ◆  眠れない夜がある。今夜もそうだった。寝返りを打っても、網膜の裏に、薄く火の粉がちらつく。  ──触れてはならない。  そう決めていたものが、部屋の隅にある。黒い長方形。コンセントに差さったまま、待機中の赤いライトを点している。ぼくはしばらく眺めてから起き上がり、近づいた。指先がリモコンを探り当てる。  押す。  画面が、グラデーションをかけて明るくなる。メニュー。フォルダ。日付。レースの名前。  ──やめておきなよ。  頭のどこかが囁く。  ──少しだけ。  別のどこかが答える。  ぼくは、ぼくの悪い癖を知っている。少しだけ、は、いつの間にか全部になる。  耳に馴染んだファンファーレ。部屋の空気がひと息で変わる。淀みを切り裂くように、あの日の喧騒が戻ってくる。芝の匂い、地を蹴る蹄鉄の響き、幾万の声。  画面の中で、ぼくは命を燃料にして加速していた。自己証明のために限界をひとつ、もうひとつと超え、その先へ。瞳に狂気めいた光を宿し、全身は熱に軋んでいた。  燦々とした陽光の下、ぼくは走り、燃え、喝采を浴びていた。  そして、必ずそこに彼がいた。心配そうに眉を寄せながらも、その瞳の奥には抑えきれない興奮と陶酔が渦巻いていた。  別のレースに切り替える。  彼はいつも同じ目をしていた。  ぼくが走ると、その瞳孔は、わずかにひらく。  ぼくが限界の先に手を伸ばすと、彼の肩の力が、目に見えないところで抜ける。  ぼくが火になると、彼の目は、爛々と光った。  指先が震え、再生を止めた。画面は静止し、ぼくの顔と、彼の顔が、奇妙な距離感で並んだ。  若き日の君。君は誰よりもぼくの無謀を案じると同時に、誰よりもぼくの壊滅的な輝きを望んでいた。  その矛盾に、気づいてしまった。今更。  ふいに、別の音声が脳裏をよぎった。  見覚えのある会見場、彼はマイクの前で、少し考えて、穏やかに言った。 『彼女の瞳の炎が、何を燃やし、何を照らすか……知りたくなったんです。一番近くで…』  不思議なコメントに、思わず笑う記者。拍手。  ぼくはテレビの前で、固まった。喉が乾く。  ──“一番近くで”。  電源を切る。画面が黒に戻り、部屋の輪郭と、こちらの影だけが、薄く映り込む。    暗がりの中で、散らばっていたピースが、ゆっくりと、形を取っていくのが分かった。音もなく……けれど確かに。  信じることで見ないようにしてきた線が、黒の中で白く浮き上がる。  止めなかった。  止められたはずの瞬間を、見送った。  見送るたび、彼の瞳は、群星を眺める子どものようにうつくしくなった。  息を吐くと、胸の奥で細い火が軋んだ。ぼくは口元に手を当て、目を伏せる。  ──ぼくは、何を欲しがっていた?  ──君は、何を欲しがっていた?  問えば問うほど、言葉は灰になる。灰を掻き分けると、底から、まだくすぶるものが顔を出す。  ひにさそわれてとびこんだのは誰?  誰?  急に酷い吐き気が込み上げてきて、トイレに駆け込んだ。 ◆  雨が拍手のように降りしきっていた。  ──やっと気付けたんだね。おめでとう。  外は暗い。  外廊下を、人の足音が通り過ぎる気配がした。エレベーターの到着音。しばらくして、ドアの前で、傘が畳まれる音。キーの金属音。  ──来たよ。  ぼくは身体を起こし、背をソファに預け、正面の黒い画面を見つめる。  扉が開く。 「…失礼します」  声が、いつもの優しい温度で室内に流れ込む。  彼が靴を脱ぎながら、こちらを見ている。  ぼくは、黒い画面を見ている。反射した自分の姿と、その横に、彼が映る位置を、視界の外側で測りながら。  次にトレーナーがぼくの部屋を訪れた時、ぼくはソファに座り、電源の落ちたテレビ画面を、虚ろな目で見つめていた。 ◆ 「作り置き、食べれましたか?」 「……ねぇ、トレーナー」  声が、ひどく乾いている。いつものぼくじゃないと、彼もすぐ気付くだろう。 「ぼくの走り、好きだった?」 「もちろんです。誰よりも」  君がぼくを見る目は、初めて出会い言葉を交わした時からいつも同じだった。  惚けたような、それ。 「そう? ……そうだろうね」  ゆっくりと立ち上がり、彼と向き合う。心の中に平穏な光はなく、冷たい憎悪がグルグルと渦巻いていた。 「……あぁ……」  唇から、絶望のため息が溢れる。 「……君だったのか、ぼくに薪を焚べ続けていたのは……」  彼の表情が僅かに凍りつく。きっと彼は、この日がいつか来ることを、心のどこかで予感していたのかもしれない。 「──騙されると思ったか! 穏やかに笑って、支え続けるフリして──ただの一度も止めようとなんてしなかった!」  絶叫が、静かな部屋に突き刺さる。 「ダービーも、菊花賞も、宝塚記念も!フランスも香港も! 君はぼくの無茶を一度だって、本気じゃ止めなかった! 口じゃ心配しながら、貴方の意思を優先すると言って──その瞳は、ぼくの莫迦踊りを、最高に楽しんでいたんじゃないのか!? 滑稽に見えただろうね! 面白かった? 親代わりに懐いてくる子供を弄んで──この、人でなし! 畜生ッ!」  信頼が反転した刃には容赦がない。かつて愛した相手を、最も深く、最も正確に傷つける。  罵詈雑言の嵐の中で、彼は黙って刃を受け止めた。弁解もしない。否定もしない。その沈黙が、彼の罪を雄弁に語る。 「何か言えよ」  絞り出した声は、もう怒りさえも通り越し、ひび割れた懇願のように響いた。 「……その通りです」  彼の声は、懺悔でも謝罪でもなかった。滔々と紡がれるそれは、揺るぎない事実の告白。 「俺は、貴方という才能に、その輝き、その意志に、魅入られています。貴方が燃え尽きるかもしれないと知りながら、その光から目を逸らすことができない。 そして俺の想う通り、貴方は俺が支えるほど、俺が自己を犠牲にするほど…高く、高く燃え上がった……貴方を止めることは、俺自身の欲望を否定することでした」  そして、彼はこちらを真っ直ぐに見つめて言った。 「恨んでください」 「うるさいッッッ!!!」  恨めるものか。嫌えるものか。今更、憎めるものか。  だってあの日々は楽しかった。  ぼくの人生であれだけ輝いていた日々はなかった。  燻り続けていた火に薪を焚べられた瞬間、どれだけ嬉しかったか、それを忘れた時は一時たりとて無かった。  君がぼくの為に全てを捧げるたび、舞台から降りられなくなる感覚が恐ろしかった。  焔の中で舞うぼくを遠くから眺める君を、どんな喝采よりも美しく感じてばかりだった。  愛と憎悪は表裏一体という。ならば、この燃え滓のような心に残された感情は、何と呼べばいいのだろうか?  彼に与えられた輝かしい過去を憎むことは、この身を焼いた焔そのものを否定することだ。それは、自分自身の人生を否定することに等しかった。 「……もう、見ないで……」  小さくか細い祈りだけが部屋に響いていた。  ぼくが愛した、深海のような濃紺の瞳が、こちらを見つめ返していた。 ◆ 終わり