「こちらが押し返せば押し返すほど、力を蓄えていく性質があるらしいんだよ。厄介なことに、発条(ばね)のようにね」  彼は喋りながら手元のメモ用紙にさらさらと何かを書きつけ、さっと回してこちらへよこした。 「彼女たちを知っているかい?」  サイレンススズカ。ライスシャワー。アストンマーチャン。ケイエスミラクル。ラインクラフト……。  字面の感じと「彼女たち」という言い方からして、おそらくウマ娘の名前なのだろう。どれも聞いたことがない。 「はじめの二人は比較的楽だった。トレーニングとケアを真面目にやり、無事を祈るだけで何ごともなく済んだ。その後からはだんだん大変になっていって、トラブルも増えたが……まあ何とか乗り越えることができた」 「何の話です?」 「君の失敗は、元をたどれば私たちにも原因があるかもしれない、という話だ」 「失敗?」  いったい何の話をしてるんだ。俺は何も失敗などしていない。  現に今もこんなに満ち足りて、幸せだというのに……。 (ちがう)  不意に、ズキンと頭が痛んだ。頭の中で誰かが声を発したような気がする。 「君のケースはとても込み入っていて、前例がない。解決の道はわからない。そもそも道があるのかどうかも」  彼が立ち上がり、身を乗り出した。歪んだ鏡に映したように、首から上だけがぐにゃりと巨大化してこちらへ迫ってくるように見える。俺は椅子を蹴って立ち上がろうとしたが、脚が動かなかった。 (まだ、何か)  頭が痛い。脂汗がぽたぽたと落ちて手の甲に染みをつくる。俺の手の甲はこんなだったか? いや、これは手の甲なのか? この、よくわからないものが……。 「だが、君は何もかも捨てて二人だけの幸せを選んだにもかかわらず、その幸せに溺れようとしなかった。他の選択肢はなかったのかと問い続けることをやめなかった。その問いが私たちを呼んだ」  顔が迫ってくる。この男はいったい誰だ? 俺はなぜこんな所でこいつと話している?  こんな所とは、どこだ? ここはどこで、俺はいつから…… (俺は)  猛烈な頭痛に叩きのめされて、テーブルに突っ伏した。思わす伸ばした手に、何かが握らされる感触があった。 「ささやかだが、これが私たちにできる精一杯だ」  私たち? 彼はさっきから複数形で話している。手の中のものは硬くて、冷たい。 (スティルに)  スティル!  ああ、その名前だけは忘れない。何もかも失くしてしまっても、その名前と、吸い込まれるような紅い瞳だけは鮮烈にここにある。  ここって、どこだ?  何もかも、何もかも。名前も記憶も命も姿も人生も失くしてしまった俺の……手の中のものが硬くて冷たい……。 「どうか、よい旅を」  …………考える。今度こそ、それが徒労に終わらないことを祈りながら…………。  ――――――――  目が覚めると、玄関に倒れていた。  寝汗で全身がびっしょりと濡れているが、寝覚めは爽やかだった。この蒸し暑い夏の夜に着替えもせずこんな所で眠ってしまったにしては、奇妙なくらい気分が清々しい。視界がこんなにクリアなのは久しぶりな気がする。 「……っ、痛……!」  ふいに走った痛みに思わず首を押さえようとして、手に何かを持っているのに気がついた。 「……時計?」  古めかしいアナログ式の目覚まし時計だ。上部に大きなベルがついていて、文字盤以外の全体が虹色に美しく輝いている。しかしどこかでぶつけでもしたのか、二つあるベルの片方はベルがひしゃげ、潰れてしまっていた。  鏡を見てみると、首元には何かに噛みつかれたような、赤い痕がついていた。これは―― (アナタの全てを――頂戴)  ふいに衝動に突き動かされて、俺は玄関のドアを開けた。早朝の日が差し込むマンションの廊下を、ちょうどトレセン学園の制服を着たウマ娘が一人歩いてくるところだった。 「スティル!」  口を突いて出た名前に、自分でも驚いた。 「え!? あ……」  いきなり名を呼ばれた向こうも困惑しているようだ。「私……はい、スティルインラブと申します……けれど……」 「あ。うん。その……いきなりですまない」俺も頭を下げた。よく考えたら服は昨夜のままでヨレヨレ、シャワーも浴びてなければ髭も剃ってない。女生徒の前に出ていい恰好ではなかったな。 「君は、昨晩公園で走っていた子だよな?」 「……はい。あなたが、急に倒れてしまったので……」  ここまで運んでくれた。そして心配になって、朝一番で様子を見にきた。突飛にも思える彼女の説明は、まるであらかじめ知っていたかのようにすんなり俺の腑に落ちた。  俺は出勤してからあらためてスティルインラブを探し、ていねいに礼をのべて、担当契約を申し込んだ。彼女もまた、最初からわかっていたように快諾してくれて、俺達はトレーナーと担当ウマ娘という関係になった。  スティルは素晴らしい素質を持ったウマ娘だったが、優秀なウマ娘がしばしばそうであるように、いくつかの困った点もかかえていた。一つはみょうに影が薄く、まわりの人間に気づかれにくいこと。困った点というより本人が困っている点と言うべきだが、俺にとってはひどく不思議だった。だって彼女は、とても目立つウマ娘なのだ。  背の高いほうではないが、すらりとした優美な立ち姿。つややかな栗色の髪と、いつもかぶっているヴェール。内側からほのかに光を放つような真紅色の瞳。どこにいても真っ先に目につくのに、どうして誰も彼女に気づかないのか俺には不可解でならない。 「あなたに気づいていただけるなら、それで十分ですから……」  そんな風に笑うスティルが不憫で、改善する方法をいくつか考えてみたが効果は出なかった。ウマ娘にはときどき理屈を超えた、宿命的としか言いようのない不思議な個性がつきまとうことがある。トレーナーの間でまことしやかに囁かれている噂だ。スティルのこれも、もう一つの性質も、そうしたものなのかもしれない。  もう一つの性質。……スティルインラブには、レースの時にだけ姿を現すもう一つの「本能」の顔がある。  「本能」のスティルの走りは普段の彼女とはまるで違い、貪欲で凶暴で、見ているだけで吸い込まれそうな昏く妖艶な魔性を帯びている。初めて出会ったあの夜、俺が目撃したのもこのもう一人の彼女の走りだったのだ。  あの夜は俺も、本当に吸い込まれて意識を失ってしまうほど魅入られた。しかしあらためて見ると、魅力よりも危険性の方を強く感じる。この走りは、異様だ。よくない方向へ連れていく何かを含んだもの……そんな気がする。  実際、レースの時に見せるこの恐るべき一面のせいで、スティルは同級生から不気味がられ、避けられることもあるようだった。そして、そのせいなのかわからないが彼女は「愛される」ということに強くこだわっていた。 「ティアラ路線で結果を残せば、私も皆さんのように愛されるウマ娘になれるかもしれませんよね」  結果を残せようが残せまいが、そんなことは関わりなく君は魅力的で愛されるべきウマ娘だ……などという通り一遍の文句は、わざわざトレセン学園に入ってきたエリートにかける言葉ではない。しかし、それでも俺はこう言うほかなかった。 「落ちついて成長していこう。君には十分な力があるが、それでも無理をしないのが一番だ」  前回の失敗は、俺がスティルの「本能」の方に魅せられすぎていたことだ。スティルは一心に俺を見つめてくれていたのに、俺は彼女ではなく「本能」の方ばかり見ていた。そのせいでスティルとのあいだに行き違いが生じ、余計な気まで使わせた結果、あんなことになってしまった。  ……あんなこと? 前回?  ふいにわき起こった奇妙な考えに俺は当惑し、しばらく首をひねってからそれを振り払った。 「トリプルティアラを目指そう。君ならきっとできる」  まだ本格的なトレーニングを始めてもいないが、それだけは確信できる。スティルはティアラ路線できっと結果を残せる。ティアラ路線を走りきったあとどうするかは、彼女の意志に任せればいい。俺は今度こそ彼女自身を見つめ、どこまでも寄り添い、支えることに徹しよう。  それが一番だ。そのはずだ。  ――――――――  混濁する意識の中で、また……またしても、同じ問いが浮かんだ。 “もしあの時、この結末を知っていたら……どうしただろうか?”  俺はどこで間違えたのだろう。  スティルは確かに結果を残した。メジロラモーヌ以来のトリプルティアラの栄冠に輝いた。そしてそこで、ふっつりと走りへの情熱を失ってしまった。  残念ではあったが、本人が望まないのに走らせることなどできない。あの恐ろしい「本能」に飲み込まれる恐怖を二度と味わわなくていいのは彼女にとって幸せなことだ。  スティルは惜しまれつつも引退した。金鯱賞に勝ち、はずむような足取りで帰ってきたスティルを、今度こそ俺も心から喜んで迎えることができた。  そして……そして、どうなった?  スティルはレース科からスタッフ研修科に転科し、トレーナーを続ける俺のサポートをしてくれることになった。  書類整理からウマ娘の健康管理、食事の支度まで実にかいがいしく働き、もはや自分自身が走ることには何の関心もないといったその様子を惜しむ声もあれば、 「三冠を獲るためだけに生まれてきたウマ娘」  などと揶揄する声もあったが、本人はまったく気にしていない様子だった。 「あなたを支えて共に歩けることが嬉しいんです」  そう言ってくれる彼女の笑顔に嘘はなかったと思う。俺もまた、スティルがいかに俺の支えになってくれているか、折に触れて本人に感謝し、周囲にアピールし続けた。 「おしどり夫婦」  などと言われるのは気恥ずかしかったが、スティルのはにかみながらも嬉しそうな顔を見るのは幸せだった。  いつの頃からだろう。  担当ウマ娘を見る俺の横顔に、スティルがじっとりした視線を向けるようになった。 「トレーナーさんは……私が、もう一度レースに出た方がいいと思いますか?」  そんなことを、何気ないふうを装って訊ねてくるようになった。  俺はもちろん否定した。走りたくないウマ娘を、トレーナーの都合で走らせたりしてはならない。スティルは今や俺のチームになくてはならないサポートスタッフなのだから、抜けられては困る。そもそも、これほど長くトレーニングから離れていい結果が出るはずもない。  考えられるかぎりの理由を並べたが、スティルは表面的にしか納得していないようだった。トレーニング中の俺を見る視線の赤みが増していき、そして、それは起こった。  模擬レースの最中にスティルがいきなり乱入し、俺の担当ウマ娘をぶち抜いていったのだ。  長いブランクをまったく感じさせない、妖気さえ感じさせる途轍もない走りだった。いや、その妖しい魅力は、最後に見た時よりはるかに増していた。 「ふふふふ……アハハハハッ…………」  膝をついてうなだれ、肩をふるわせる俺の担当ウマ娘の横で、スティルは笑っていた。俺はスティルから目が離せなくなっていた。 「そうよ、その目……あなたのその灼けつく目が欲しいの……あなたの情熱が、全部…………!」  そこから、砂の城に水をかけるようにすべてが崩れていった。  スティルはレースに復帰した。スタッフ科からレース科への転科にはきびしい試験と審査が必要なはずだが、それをどうやって通過したかは覚えていない。その魔性の走りで、スティルは勝ち続けた。  俺の担当する他のウマ娘は次々と辞めていった。別のチームに移った子もいれば、学園自体を去った子もいたが、俺はもうそんなことは何も気にならなかった。スティルだ。スティルを走らせるんだ。  スティルをトレーニングする。スティルのレースを見届ける。泥のように眠る。毎日がそれだけの繰り返しになり、やがて今がいつか、いつが今か曖昧になっていった。  今は冬か? 夏だったろうか? 何もわからないままベッドに倒れ込む。自宅に帰ってきたのは久しぶりだ。いや、ずっと自宅にいたんだっけ。スティルが傍にいれば、どこでもいいんだ。スティルが走っていてくれれば、俺は幸せだ。  本当にそうか?  それ以外の幸せはなかったのか?  夢うつつで伸ばした手に、硬くて冷たいものが触れた。  片方のベルが潰れた、あの目覚まし時計だった。あの朝以来見た記憶がないが、どこに行っていたのだろう。  時計は虹色に輝いていた。なぜだか自分でもわからないまま俺は手を伸ばして、潰れていない方のベルに手をかけた。  そして、力一杯握りつぶした。  ――――――――  目が覚めると、玄関に倒れていた。  寝汗で全身がびっしょりと濡れ、マラソンを走った後のように疲れ果てているが、意識は明瞭だった。手には、ベルが二つとも潰れた虹色の目覚まし時計を持っていた。次はない、ということだ。  俺は時計を丁寧にベッドサイドへ置き、大急ぎで着替えて顔を洗った。髭を剃っている間に、玄関のチャイムが鳴った。 「やあ、君か。ゆうべはありがとう」  そこにいたのはもちろん、スティルインラブだった。俺はもう驚かず彼女に礼を言い、昨夜の話を聞いた。そしてあらためて、彼女に担当契約を申し込んだ。 「もう一人のスティル……君の言う『本能』だけどね。あれは間違いなく君自身だし、君自身の力だと思うんだ」  もう、なりふり構ってはいられない。俺は最初から、スティルに俺の考えをすべて打ち明けることにした。  「本能」の走りには周りを喰らい尽くすような妖しい力がある。それは他のウマ娘を怯えさせ、萎縮させるが、同時にスティルの凄まじい力の源泉でもあるのだ。 「嫌がらずに向き合い、自分のものにして消化していくべきだ。危険で、険しい道かもしれないが……俺がきっと支えるから」  スティル自身は「本能」のことを隠すべき、はしたない存在だと思っている。それに向き合えというのは酷なことではあるが、根本的に解決できる可能性があるとすれば、この道しかない。 「あなたが、そう仰るのなら……」  躊躇いがちにではあったが、スティルも頷いてくれた。俺は早速、彼女のための特別メニューの作成にとりかかった。  昼間のトレーニングを通常の半分ほどで軽く済ませる。そのかわり、夜に「本能」ともう一度トレーニングを行う。最近はナイター競走が増えてきて、それに慣れるために夜間トレーニングする子も多いから、このやり方も不自然には思われない。 「昼に坂路をみっちりやったから、夜はプールエクササイズだ。下半身の疲労がどこにどれくらい残っているか、よく意識すること」 「ええ、わかったわ……」  重要なのは、昼と夜のトレーニングをできるだけ連続した、均質なものにすること。スティルと「本能」が同じ肉体を共有する一つの存在であることを、あらためて意識させる。  並行して俺自身も、ウマ娘のトレーニングについて、とりわけメンタルケアについてもう一度勉強し直した。皮肉なことに、二回も繰り返したスティルとの年月のおかげで俺はトレーナーとして相当経験を積んでおり、本を読んでも以前とは比べものにならないほど知識がすんなり頭に入ってきた。  何よりも重要なのは、お互いを理解しあうこと。相手を知り、自分のことを知ってもらうことだ。俺は昼も夜も、暇を見つけてはスティルと話す時間を作り、彼女のことをもっともっと知ろうとした。  お菓子の中でも特にチョコレートが好きで、しょっぱいスナック菓子はそれほどでもないこと。ボートを漕ぐのも好きだが、上手くはないこと。どちらかといえばボビンレースはスティルの、ジャム作りは「本能」の方の趣味であること。ゴルフのベストスコアは66(!)であること……。  最善のトレーニングのために必要だとかなんとか理由をひねり出して、ご両親に会いにいって子供の頃の話まで聞いた。 「こんなに何もかも知られてしまって……まるで、裸にされてしまったような気持ちです」  スティルはひどく恥ずかしがっていたが。俺としてはスティルが俺に向けてくれる膨大な想いと関心に、ようやく比較できるようになってきたかな、という程度でしかない。ご両親の前で不穏当な台詞を口にするのはやめてほしかったが。  意外なことに、子供の頃のスティルはずいぶんわがままというか、荒々しいところのある子だったそうだ。それが小学校に上がったあたりから急に大人しくなったという。ご両親はそれを普通の成長だと思っていたようだが、それを聞いて一つ思いついたことがあった。  俺は、スティル本人の子供時代の抑圧なりストレスなり、そういったものから「本能」のスティルが生まれたのだと思っていた。だが、おそらく逆だ。  「本能」の方が本来のスティルで、彼女が今のスティルを生み出したのだ。  さすがにスティルには黙っていたが、考えてみればスティルも自分よりも先にあったものだからこそ「本能」と呼んでいたのだ。そして、それはある意味で希望でもあった。スティルを生んだということは、「本能」のどこかに「今のままの自分ではいけない」という意識があったということだからだ。  前回の俺はスティルだけを見て、「本能」にはできるだけ目を向けないようにしていた。スティル自身のためにその方がいいと思ったし、最初の時に「本能」に引き込まれすぎた反省からでもあったが、それが間違いだったのだろう。  思えば俺は過去にも一度正解に近づいていたのだ。勝負服のデザインを決める時、俺自身が言ったんじゃないか。「どっちの声もちゃんと聞いて」「どちらの君にも嘘のない衣装を」と。  だから、俺がやるべきことは一つ。スティルと「本能」を融和させ、本来の、一つの人格に統合してやることだ。  俺は気の進まなそうなスティルを説き伏せて、全身が映る大きな姿見を部屋に置いてもらった。スティルと「本能」とは、あたかも別の人物であるかのように心の中で対話することもあるという。それをあえてやりやすくして、お互いの……こう言ってよければ……「相互理解」をはかる。  俺自身もできるだけ「本能」の方と話すように心がけた。仕草も言葉も、視線一つすらやたらに蠱惑的で挑発的な彼女との会話はなかなかに困難だったが、慣れるにつれある程度のコミュニケーションはとれるようになった。  「本能」はどこまでも貪欲で攻撃的なだけでなく、素晴らしく頭がよく、まわりの状況をよく見ている子だとわかってきた。その反面ひどく幼くて、無邪気なところもある。言ってしまえば、ガキ大将のような性格だ。 「君はスティル……表のスティルのことを、どう思ってるんだ?」  一度、俺は訊ねてみたことがある。彼女の答えは簡潔だった。 「どうも」 「でも、子供の頃からずっと一緒にいるんだろ」俺は重ねて聞いてみた。 「一緒にいるんじゃないわ。ワタシはあの子。あの子は認めたがらないみたいだけど」  つまり、「本能」はわかっているのだ。自分とスティルが、おなじ一人の人間であるということが。つかんだ希望の糸を、たしかに一歩分たぐり寄せたのを感じた。  もう一歩、たぐり寄せた。そう確信したのはオークスの時だった。  スティルはあの昏い炎が燃え立つような走りを見せて、見事にアドマイヤグルーヴを抑え樫の女王の座に輝いた。そして、それにもかかわらず、レースの最初から最後までずっとスティルのままだったのだ。 「よく、わかりません……本当にあの子が出てこなかったのかどうか……でも、これまでのような急に切り替わってしまう感覚はありませんでした」  まだ息を整えながら、スティルはそう言った。いい兆しだ。スティルと「本能」との境目が曖昧になっている。それは一つの人格に統合される前触れと思ってもいいだろう。  このままいけば、きっと成功する。スティルは分裂のない完全なスティルになり、強さと慎ましさを兼ね備えた、歴史にも思い出にも刻まれる最高の女王になれる。  そう、思っていた。  ――――――――  ――気がつけば、部屋の中にいた。浴衣のスティルインラブが佇んでいる……。 「お加減は、いかが?」  ひどく……疲れた。だるいような、痛いような。一歩も動けないような、一秒もじっとしていられないような、何とも言いようのない感覚に全身がからめ取られている。 「……長旅だったものね。今、窓を開けるわ。今夜は星が綺麗よ……」  目がかすんで……何も見えない。今は夜なのだろうか? 明るいのか暗いのかも、よくわからない。瞬きをしようとしたが、うまくまぶたを動かせなかった。  俺はどこで間違えたのだろうか。いや、いったい本当に間違えたのだろうか?  本当は此処こそが正しい結末で、俺とスティルはどうやっても最後には……此処にたどり着くことになっていたのでは? 「なあスティル……君は……」  むりに喉を動かしてみた。自分の声とは思えないほど、重くにごった声が出た。 「君は、“こっち”を選んで……幸せだった?」  こちらをじっと見ているスティルが、息を呑んだ気配があった。 「俺はずっと……ずっと、幸せだったけれど……君は……」  ――その時。頬に、冷たいものを感じた。 「スティル……?」 「……ごめんなさい。髪が、ちゃんと……乾いていなくて。ええ。とても……とても、幸せだった……」  スティル。泣いているのかい、スティル。  俺はスティルの涙をぬぐってやりたくて、ほとんど感覚のない手でふところを探った。いや、それはふところではなく俺の、臓腑の中だったかもしれない。  硬くて冷たいものが、俺の手に触れた。  時計だった。両方のベルが潰れて、使いものにならなくなった目覚まし時計だった。もう目もよく見えなくなっていたが、その虹色の輝きだけは、なぜだかはっきりと見えた。  俺はその時計を両手で持ち、残った力のすべてをふりしぼって、文字盤ごと握りつぶした。  ――――――――  俺は玄関にうずくまっていた。手には何も持っていなかった。  立ち上がる気力がなかった。遠慮がちなチャイムの音が二、三度鳴ったが、すぐに聞こえなくなった。  長い時間がすぎた。  結局何も変えられなかった。スティルだけを見ても、分裂した人格を一つにしようとしても駄目だった。思いつく限りのことを試しても結末は変わらなかった。俺にこれ以上何ができる。俺のすることに、なんの意味があるというのだろう。  他の誰かがトレーナーになれば、もっと違った結果になるのだろうか。それとも、誰であろうとあの結末に行き着くのだろうか。  そうだ、あのどことも知れない場所で、俺とスティルは確かに幸せだったじゃないか。あれでいいんじゃないのか。何がいけないんだ……? 〈ええ。とても……とても、幸せだった……〉  あの時、頬に冷たいものが触れた。  スティルは泣いていた。どれだけ幸せを口にしても、スティルは泣いていたじゃないか。  それでは駄目じゃないか。あんなに優しくて、辛いことがあっても不平一つ言わず、人のことばかり考えているような子が、泣いたまま終わったりしては絶対に駄目じゃないか。  誰かがスティルの涙を拭いてあげなくてはいけない。誰が?   もちろん、俺がだ。  他の誰にも任せたりなんかしない。  立ち上がって窓の外を見ると、もう夕方だった。  ……無断欠勤をしてしまった。俺は大急ぎで学園に詫びの電話を入れ、明日の準備をはじめた。  翌日、俺は同僚と上司に頭を下げて回ったあと、スティルを探してあらためて担当契約を申し込んだ。  今回は玄関先での自己紹介をしていないため、彼女は少し面食らった様子ではあったが、それでもすんなりと受け入れてくれた。  ひとまず、スタートは切れた。覚悟も決まった。しかし、さて具体的にどうしたらいいのかというと、さっぱりわからない。 「トレーナーさんは、まるで私のことを何でもわかっているみたい……」  とりあえずこれまでと同じようなトレーニングを続けるしかない俺に、それでもスティルは嬉しそうに微笑んでくれる。スティル自身に記憶はないが、俺と彼女の付き合いは通算でもう十年以上になる。走りの癖も伸ばすべき点も、たいていのことは頭に入っているのだ。 「あの、ちょっと見てほしいんですが……」  そして思わぬ副作用として、まわりから見ると俺は歳に似合わぬ落ち着きと貫禄をそなえているように見えるらしい。他のトレーナーから相談を受けたり、アドバイスを求められたりすることが妙に増えた。断るのも失礼だと思って、わかるかぎりで答えていると、それがまた意外と的を射ていたらしくて余計に相談事が増えていく。そんなことをしている場合じゃないのに。  そんなこんなでバタバタしているうち、ジュニア級はあっという間に過ぎてしまい、正月も過ぎたある日。見知らぬトレーナーが俺を訪ねてきた。 「はじめまして。スティルインラブのトレーナーさんですね」  小柄だが、日本人ばなれした彫りの深い顔立ち。差し出された手は暖かかった。 「ユニがいつもお世話になっています」  彼の後ろから、透きとおるような金色の髪をしたウマ娘がひょこりと顔を出す。彼女なら知っている。ネオユニヴァース……スティルのルームメイトで同期のウマ娘だ。  記憶によればスティルが毎回トリプルティアラを獲る一方で、彼女は毎回皐月賞とダービーの二冠を制覇していた。世代トップクラスの実力を誇る俊英の一人だ。ただ言語感覚に独特のところがあり、コミュニケーションがやや難しい。俺もあまり話したことはない。 「ネオユニヴァースは“SETO”。だけど、スティルインラブは“MATS”……だね」  こんな調子で、言っていることがよくわからないのだ。  しかしネオユニヴァースのトレーナーとも俺は何度か顔を合わせているはずだが……こんな人だったろうか? どうも記憶にない。 「ユニから、あなたが何やら悩んでいるようだと聞きました」 「悩んでいる?」  スティルのことは誰にも話していないし、それ以外で悩みなんか特にないが。首をかしげた俺を、ネオユニヴァースがのぞき込むようにする。 「スティルのトレーナーさんは“INTG”を試みたよね。でも、それは逆……“INTG”ではなく“DIVD”が重要」 「?」 「前回の“LOOP”でのことだよ」 「……??」 「ユニはこう言っているんです。……あなたは過去に一度何らかの形で、スティルインラブの育成に失敗しているのではないかと」 「な……」  俺は椅子を蹴倒して立ち上がった。たぶん、血相が変わっていただろう。 「どういう……意味ですか」 「ウマ娘の……いわゆる“運命”というものについて、あなたはどう考えますか?」俺の問いには答えず、彼は逆に質問してきた。  “運命”。その言葉は、俺達トレーナーの間ではある特別な意味を持った用語だ。  ウマ娘が生まれた時からレースを引退するその時まで……場合によってはその先も、彼女たち一人一人に宿り、その人生を牽引する「何か」。それが比喩やこじつけではなく、実在する力であることを、口には出さないがトレーナーならみな知っている。あり得ない偶然の積み重ねや、時には超自然現象めいた出来事によって、まるで最初から決まっていたかのような結末へと導かれてしまった……ベテランのトレーナーなら誰でもそんな体験談を一つや二つ持っていて、新人は必ずそれを聞かされるものだ。  考えてみれば「前回」までの俺自身の原因不明の体調不良も、それの一種だったのだろう。いざ自分の身に降りかかってみると、終わってみるまでそれとは気づかない……これも、トレーナーの間でよく言われていることだ。 「私にも、詳しいことはわからないんだが……ユニは、“運命”に対してとても敏感なんです。観測できる、と言ってもいい」 「!!」俺は目を見開いた。「じゃあ、スティルの“運命”もわかるんですか」  表情の読み取りにくい茫洋としたネオユニヴァースの眼差しは、しかし、深い愁いをたたえているように見えた。 「スティルは……“CMPX”。なぜあんな『アクリションディスク』が生まれるのか。ネオユニヴァースにも“UKP”だよ」 「そう……なのか」よくわからないが、要するに「わからない」と言っていることはわかった。 「でも、ネオユニヴァースは『シンギュラリティ』を得た。スティルインラブの『シンギュラリティ』は、あなた。“QOAX”は、きっと……あなたの側にある」  シンギュラリティ……特異点。通常の基準や法則が当てはまらない、特別なポイントという意味の物理学用語だ。つまり俺の行動が鍵を握っているという意味で、それはわかるのだが……。 「あなたはネオユニヴァースの“運命”を変えたんですよね? どうやって?」  俺はネオユニヴァースのトレーナーに尋ねてみた。彼は肩をすくめて首を振った。 「申し訳ないが、思い当たることはないんです。特別なことは何もしていない。あるいは、私はこれから何かすることになっているのかもしれない。ユニの言葉を私なりに解釈しただけなので、どこまで合っているかはわかりませんが……」  そう前置きした上で、彼は説明してくれた。こことは違う別の宇宙があり、その宇宙のネオユニヴァースにはとても大切な人がいたこと。自分がその人と似ている……というのか、とにかく何らかの共通する因子を持った人間であり、そのためこの宇宙のネオユニヴァースも、自分に出会うのを待ちこがれていたのだということ。 「じゃあつまり……俺もそうなんですか。別宇宙のスティルの大切な人に、俺が似ている?」  自分で言っていても荒唐無稽なオカルトめいた話だが、実際にオカルトめいたことを経験しているのだから信じられる。「でも、だからって何をすれば……」 「“UKP”……『未知』だよ。ごめんなさい」  ネオユニヴァースはぺこりと頭を下げた。落胆したが、思えば当然だ。他のウマ娘になんとかしてもらおうなんて、虫がいいにもほどがある。 「でも、“運命”を変える方法はあります。どこかに必ずキーポイントがある。そこで、示されたのと違う道を行くことができれば……」  違う道……ティアラ路線を離れる? いや、それはできない。スティルが万人に愛されるウマ娘になるために、トリプルティアラは必須の目標だ。  それから俺とネオユニヴァースのトレーナーは、長い時間をかけて情報交換をした。 「あなたのようなケースは聞いたことがない。普通、“運命”の力は誰よりまずウマ娘自身を振り回すものですが……スティルインラブの場合、彼女自身が“運命”と一体化しているかのようだ」  自分の知識が足りず、有効なアドバイスができないことを彼はしきりにすまながったが、俺にしてみれば自分の経験したことについてここまで突っ込んだ話が出来る相手は初めてであり、それだけでも百万の味方を得た気分だった。とうとう消灯時間がきてネオユニヴァースを送って帰らなくてはならなくなった時、彼は去り際にふと言った。 「これは、ユニの受け売りですが……本能や憎しみは次元を越えられない。越えられるのは“愛”だけ。愛だけが次元を越えられるんです」  目元と口の端に深いしわを刻んだ、イタリア人のような笑顔とともに、彼は帰っていった。  一人残された俺は、あらためて考え込んだ。  スティルがネオユニヴァース同様、次元を越えて俺との出会いを求めていたのだと仮定しよう。  ネオユニヴァースがそんなことをしたのは、別宇宙では大切な人との別離があったからだ。それは怪我による引退のせいであり、その怪我を回避することによって彼女は“運命”を乗り越えた。  だが、スティルはレース生命に関わるような大きな怪我などしていない。過去三回で一度もだ。  スティルはなぜ、大切な誰かを失ったのか。いや、本当に失ったのか?  何がスティルをああさせたのか? 俺が何をすれば、その流れが変わるのか?  考えろ。スティルの言動に何かヒントはなかったか?  俺とスティルの間に断絶が生じたのはどこだ? (トレーナーさん……どうして……泣いていらっしゃるんですか……?)  三年目の春、金鯱賞のあと……胸を弾ませて帰ってきたスティルを、心からの笑顔で迎えることができなかった。あそこが一つの転換点だったのは間違いない。でもそれはもう試した。スティルが円満に引退しても駄目だったのだ。  それより前……エリザベス女王杯でアドマイヤグルーヴに敗れた時? だがあの時にはもう、スティルは情熱を失っていた。  走ることへの情熱。 「…………ん?」  スティルは走りたい気持ちをなくした。秋華賞で燃え尽きたからだ。それは「本能」が強敵との勝負に満ち足りて消えてしまったためだったが、それでも俺は彼女の走りへの執着を捨てられなかった。そのせいで、スティルは消えたはずの「本能」をもう一度呼び起こす選択をしてしまった……それが、一度目に起きたことだ。  だが、それはおかしい。前回……三度目にわかった限りでは、「本能」の方が本来のスティルなのだ。満足しようがしまいが、心の本体が消えることなどありえない。  にもかかわらず。あの時「本能」は確かに一度、まったく姿を見せなくなった。どうしてだ?  俺は記憶をさぐって、スティルの様子を細かく思い出そうとする。あの頃の彼女は軽やかな一方、どこかひどく虚ろで、芯が抜けてしまっているようだった。  もしかして、あの時消えたように見えたのは、満足したからではなく、 「単に、力を使い果たしたから……だったとしたら…………?」  いや、それだって何も変わらない。一度目も二度目も、結局「本能」は復活し、そしてあんなことになったんだから。 「でも、もし…………」  もしも秋華賞の後本能が消えなかったなら、スティルは走る気持ちを失わなかったかもしれない。エリザベス女王杯の結果だって、金鯱賞の結果だって違ったかもしれない。その後にスティル自身が選ぶ道だって、違うかもしれないじゃないか?  これが本当に正しい手がかりなのかどうか、自信はない。望みは薄いだろう。しかし、もうほかに可能性らしいものは何も見つけられない。俺は新たな目標に向けたトレーニングメニューの計画にとりかかった。  「本能」が秋華賞で力を使い果たすことを防ぐにはどうすればいいのか。  方針としては簡単だ。要は「本能」にもっともっと力を付けさせればいい。本能のスティルは強敵と走る時に姿を現し、相手を喰らうことで力をつける。つまり、圧倒的に格上の相手とどんどん走らせるのが一番の早道だ。  そう、言うだけなら簡単なのだ。だが、実現するのは並大抵ではいかなかった。  彼女の走りに呑まれないくらい格上の併走相手なんてそうそう見つからない。いたとしても現役のエースやレジェンド級のウマ娘に、クラシック級を迎えたばかりの若手と併走なんて承諾してもらえるとは限らない。  俺はありとあらゆるコネを頼り、伝手をたどった。一生分の頭を下げ、知り合いという知り合い全員に借りを作り、土下座がすっかり板についてしまったが、それだけの甲斐はあった。 「え……何、あそこのメンツ……」 「エキシビジョンレースか何か……?」  マルゼンスキー。  シンボリルドルフ。  メジロラモーヌ。  オグリキャップ。  タマモクロス。  トウカイテイオー。  ビワハヤヒデ。  ナリタブライアン。  スペシャルウィーク。  エルコンドルパサー。  テイエムオペラオー。  名前を並べるだけでちょっと震えてくるような錚々たる名ウマ娘達に、ローテーションで毎日スティルと模擬レースをしてもらった。俺達のトレーニングレーンはその時期、学園のちょっとした名所になっていたらしい。  すべての模擬レースで期待通り「本能」は姿を現した。……そして、ただの一度も勝てなかった。 「っ……! 何だっていうのよ!!」  併走相手には「実戦と同様、速さだけでなく技も使って負かすつもりで走ってほしい」と頼んであった。せっかくレジェンド級の相手と走るなら、そういう所も盗ませてもらわないと損だと思ったのだ。経験に差がある彼女が勝てないのも不思議はないが、それにしても「本能」がこんなに苛立ちを露わにしているところは初めて見た。  そして彼女が苛立つほどに、奇妙な変化が起きた。 「色々ウワサを聞いてたけど、なーんだ、フツーに速い子じゃん。今度はちみー飲みに行こうね!」 「確かに最終直線で気配が変わった。言うだけのことはある素質の持ち主だが、妖気などというのはいささか誇張ではないかな」  スティルの走りから、あの異様なオーラが薄れてきたのだ。  どういうことなのか、最初はわからなかった。単に疲れて力が落ちているだけかとも思った。しかし、タイムにも加速力にも変化はない。むしろこの特訓が始まってからぐんぐん成長し、速くなっているくらいだ。  力は変わらないまま、異様さだけが抜けてきている……? 「幼い愛に、ようやく罅(ひび)が入ったようね」  模擬レースを終えたある日、メジロラモーヌがふとそんなことを言った。トリプルティアラの先達である彼女は言うまでもなくスティルにとって特別な存在であり、併せのスケジュールも特に多く組んでもらっている。言うことが難解なのが玉に瑕だが……なんだか最近そんな子ばかり相手にしている気がするが……今回はそれなりに理解できた。スティルが成長をはじめた、と言っているのだ。それも、これまでとは違うタイプの成長を。  本能のスティルは「啜る」とか「喰らう」といった言い回しをよく使う。それはつまり、対戦相手を餌のようなものとしてしか見ていないということだ。並外れた強さのせいでそういう視点になるのだと思っていたが、どうやらそれだけじゃない。 「本能」は、そもそも自分が敗北することを直視できていないのではないか。  「本能」にひどく幼いところがあるのは、確かに前から知っていた。彼女のふるまいは一種の、幼児的な万能感の表れなのではないか。表のスティルを生み出して自分が奥底に眠るようになった時点で、精神的な成熟の部分を表に任せてしまったのかもしれない。  それがここ数週間、ボコボコに負けまくったことで身の程を知り、本当の意味での成長が始まったのだとしたら。 (これは……示された道から外れたことになるんじゃないか……?)  それは一つの手応えだった。しかし油断はできない。前回も、その前だって、途中までは手応えを感じていたのだ。 「スティル、お疲れ! アイシングするからこっちへ。メジロラモーヌ、今日は本当にありがとう。次もよろしくお願いします」 「ありがとう……ございます……トレーナー、さん……」 「…………」  「本能」が消耗するということは当然、スティル本人が消耗するということでもある。スティルが見た目よりずっとタフだということを俺は何度もの経験で知っているが、もちろん油断はできない。  疲労困憊のスティルをベンチに寝かせてマッサージを始めた俺を、メジロラモーヌは一瞥して何も言わずに去っていった。  俺の期待も不安も知らぬげに、いつもどおり春は来た。  スティルは無事、桜花賞とオークスを制して二冠を手にした。危なげなく……とは言えない。あの地獄の連続併走特訓のおかげで「本能」の力は間違いなく過去最高に鍛えられていたが、スティル自身がそれをうまく制御できていなかった。一方でアドマイヤグルーヴの研ぎ澄まされた差し脚は相変わらずすさまじく、二戦とも一番人気は彼女に取られてスティルは二番人気に甘んじていたくらいだ。  そして、夏が来た。前回……最後に俺の記憶に残っている夏合宿は、ひどい有様の体をかかえて夜だけ這いずるようにトレーニングをしていたシニア時代のものだ。今度はあんなことにならないよう、みっちり計画的にトレーニングを重ねていたある日の夕方、俺はふとスティルを散歩に誘った。  特に理由はない。ただ、こんなふうに特に何をするでもなく一緒に過ごすのをスティルが喜ぶのは知っていたし、俺もスティルとの時間は好きだった。  うだるような暑さも日が落ちると大分和らぎ、ぬるい風が海の匂いを運んでくるのが気持ちいい。オレンジ色からすみれ色に変わってゆく空の下、田舎道を二人でてくてくと歩いていると、どこからかほそい歌声のようなものが聞こえてきた。 「これは……賛美歌……?」  音のする方へ歩いていくと、まばらな民家のあいだにぽつんと、赤茶けた瀟洒な建物が建っている。尖った屋根の上に、十字架が夕日を受けてきらめいていた。  合宿所の近くに神社があるのは知っていたが、教会もあったのか。正面の扉は開け放たれており、歌はその中から聞こえてくる。  道の真ん中に立ち止まって、俺たちはしばらくその歌を聴いていた。スティルはじっとうつむき、一心に耳を傾けている。一曲が終わり、次の歌が始まったところで、俺はスティルに声をかけた。 「中に入ってみようか?」 「でも、私……クリスチャンではないのですけれど」  別に信徒でなければ追い出されるというわけでもないだろう。俺は笑って、スティルを促して教会へ足を踏み入れた。  幸いなるかな  いと高き天の女王  幸いなるかな  幸いなるかな  ミサというやつなのか、単なる歌の練習か何かなのか、知識のない俺にはわからない。おそらく近所の人達なのであろう、普段着で年格好もバラバラの男女が、段の上に一列に並んで歌っている。聴いているだけの人も何人かおり、俺達はそっとその中にまじった。スティルがいつもかぶっている白いヴェールが、驚くほどこの場所に似合っている。  いのちの泉 天の門  喜べおとめ 輝くおとめ  すべてにまさる尊いおとめ  幸いなるかな  幸いなるかな  俺も別にクリスチャンではない。でもその時、その歌詞はふしぎと胸の深いところまでするりと入り込んできた。 「なんだろうな。幸いって……」  それはこの一年以上、ずっと考えに考え続けてきたことでもあった。どうすればスティルを幸せにできるのか。スティルの幸せとは何なのか。  スティルが俺の顔を見上げている。 「私にとっては、答えは一つだけです。トレーナーさんが……私の“幸い”です」  俺は素直にうなずいた。彼女の本心からの言葉なんだろうと思えた。 「でも、それだけじゃきっと駄目なんだ」 「…………」スティルは答えなかった。 「俺は君に幸せになってほしい。君もそう思ってくれている。なら、俺の幸せの中には君が入っていて、君の幸せの中にも俺が入っている。相手が幸せになれば、自分はどうなってもいい……そういう気持ちだけで進んでいくと、どこかで行き詰まる」  天の女王 み使いの王  われらのために祈りたまえ  幸いなるかな  幸いなるかな 「だから……二人で幸せにならないか、スティル」  俺もスティルをまっすぐに見た。緋色の瞳は内側から光をはなつように、ほのかに輝いていた。 「たぶん、二人だけでも駄目だ。君や俺の家族や友達、まわりの人達にまで俺達の幸せが伝わっていって、温めることができる。二人で幸せになるって、そういうことなんだ。そういうふうにならないか」  スティルは答えなかった。戸惑っているのだろうか。悲しんでいるのだろうか。今は、どちらのスティルなのだろうか。緋色の瞳がうるんで、反射する光がきらめいている。  オルガンの音が、ひときわ高くなった。まるで俺たちを祝福してくれているように。  スティルはこぼれる涙を両手でおさえて、たった一度、うなずいてくれた。  恐ろしいほどの静寂が一瞬、場内に満ちた。  それから、割れんばかりの歓声が秋空を満たした。 《やった! スティルインラブ、トリプルティアラ達成! メジロラモーヌ以来の壮挙です!!》  秋華賞。  スティルインラブは三度アドマイヤグルーヴの追撃を振りきり、史上二人目のトリプルティアラを達成した。彼女は誰にも決して忘れられるはずのない、偉大なウマ娘になったのだ。  俺は地下馬道に立ち、スティルの凱旋を出迎えた。汗と土にまみれたドレスが翻る。高い天井に蹄鉄の音が響く。 「トレーナーさん、トレーナーさん……!」  息を切らせた彼女が、俺を見つけて小走りになる。緋色の瞳に俺が映る。 「ああ……次はどのレースを走りましょうか? あの子がはしゃいでしまって、止まらないんです!」  その瞬間俺は声もなく、スティルに駆け寄って力一杯抱きしめていた。  ――――――――  秋が過ぎ、冬が来て、また春になった。  秋華賞を最後に、スティルはトリプルティアラで見せたあの圧倒的な力を出せなくなってしまった。  本格化が頂点に達し、下り坂に向かうのがちょうどあの頃だったのだろう。シニア級になってからは負けたり勝ったり、また負けたりといった調子で、 「三冠を獲るためだけに生まれたウマ娘」  などという口さがないことを言うファンもいると聞く。  しかしそんなこととは関係なく、スティルは元気に、心から楽しそうに日々を走っている。「本能」も健在で、ちょいちょい顔を出しては周囲を驚かせる。しかし、仲のいい友達の何人かはとっくに慣れてしまったようだ。最近は慕ってくれる後輩もできたらしく、二人でどこかへ出かけることも増えた。 「トレーナーさん、すみませんが今日は少し、早めに上がってもいいでしょうか。その……お友達と、ウマチューブの動画を撮ることになっていまして……」 「ああ、問題ないよ。今は調整期間だし、あとでどうとでもリカバリーできる」  こんな何気ない会話をするのが俺にとってどれだけ幸せなことなのか、きっとスティルにはわかっていないだろう。でも俺が幸せだということは感じとっているらしく、ここ最近はスティルもずっと上機嫌だ。 「後片付けはやっておくよ。動画ってあれだろ、登録者数一億人目標とかいう。大丈夫なのか?」 「ありがとうございます。うふふ、それが今日にも達成できそうなんです」スティルは嬉しそうに笑った。すごいな、本当に達成したのか。 「それで、あの……夜くらいに、特別ライブ配信をするのですが……トレーナーさん、観ていただけますか?」 「え、いいのか? もちろん観るよ」  いつもは出演動画を見せてくれと言っても恥ずかしがって教えてくれないのに、珍しいことを言う。スティルは恥ずかしそうな、待ちきれないような、なんだか不思議な含みのある眼差しを俺に向けて、 「きっとですよ。……きっと観てくださいね」  小声で言って、そそくさと行ってしまった。その背中を見送って、俺は機材の片付けにかかる。  俺はスティルを幸せにできているのだろうか。そう自分に問いかけることは、今でもたまにある。  今のままでいいのか? 俺はできることを全部やっているか? スティルはもっともっと、幸せになっていい子じゃないか?  ……答えは出ない。たぶん無理に答えを出そうとすると、いつかのようなことになってしまうんだろう。  あれから俺は健康そのものだ。精神と肉体が雁字搦めになり、別のものに変わっていくかのようなあの異様な感覚は、今回とうとう俺を襲うことがなかった。  それが鍵だったのだろうか。「本能」をなんとかするのでなく、スティルからあの異様な力を切り離すことが?  「“INTG”ではなく“DIVD”が重要」……ネオユニヴァースの言葉を思い出す。そうだとしても、俺のやったことのうちどれが決め手だったのかはわからない。結局、何もわからないままだ。  それでも、一つだけ確かなことがある。ウマ娘の運命は、決して越えられない壁じゃない。俺達トレーナーは、そのためにいるのだ。  腰を伸ばして空を見上げる。気がつけば、空の青さがずいぶんと濃くなった。夏が来る。  ライブの練習だろうか、風に乗ってどこからか、歌声が流れてきた。  たとえばタイムループなんかしちゃったって  運命で選んじゃうのはキミ  いぇーいいぇいいぇーい…… End