【幕間21】 錆びたコンテナハウスの扉が、低い音を立てて開いた。 その音に、近くに停めた車両の中で待機していたアヤネは、弾かれたように顔を上げた。ドアを開け、駆け寄ると、中から出てきたシロコと目が合う。 「シロコ先輩、お疲れ様です。ご無事ですか?」 アヤネの声には、安堵と、隠しきれない緊張が滲んでいた。 「ん。問題ない。契約違反の未遂があっただけ」 シロコは、いつも通りの無表情で、短く答えた。その簡潔すぎる報告に、アヤネはかえって眉をひそめる。 「契約違反の、未遂、ですか…? 詳しくお聞かせいただけますか。今後のリスク分析のために、正確なデータが必要です」 書記としての本能が、アヤネにそう言わせた。 シロコは、歩き出しながら、先ほどの出来事を、まるで他人事のように、客観的な事実だけを淡々と説明した。動きのベクトルの変化、水着への干渉、そして、口頭での警告。 「そ、そんなことが…。もし、先輩の警告を、相手が無視していたら…!」 アヤネの声が、恐怖に震える。自分が安全な車内で待機している間に、先輩がそんな危険な状況に晒されていた。その事実に、血の気が引く思いだった。 「…アヤネがいたから、冷静に対応できた」 不意に、シロコが言った。 「え…?」 「バックアップがいる。その事実が、私から不要な感情を排除した。ありがとう」 それは、シロコなりの、最大の感謝の言葉だった。 アヤネは、その言葉に胸を突かれ、同時に、自分の役割の重さを改めて痛感する。 「いえ、私の方こそ…。先輩に、そんな危険な思いをさせてしまって…。私の分析では、そこまでのリスクは…」 「これは、アヤネのせいじゃない」 シロコは、きっぱりと首を横に振った。 「新しいデータが取れた。有益。次に活かせばいい」 その言葉は、いつも通り合理的で、揺るぎない。 だが、シロコは、ふと、自分の腰のあたりに、そっと手をやった。まるで、そこに残った見えない感触を確かめるかのように。 「…でも」 ぽつり、と漏れた言葉に、アヤネは息をのむ。 「境界線を試されるのは、気分が良くない」 それは、怒りでも、悲しみでもない。ただ、ひどく無機質で、それでいて、心の奥底からの不快感を滲ませた、シロコの本音だった。 アヤネは、かけるべき言葉が見つからなかった。 「合理的」「データ」「分析」…そんな言葉が、いかに無力かを思い知らされる。 「…はい。本当に、ご無事でよかったです、先輩」 ようやく絞り出したのは、そんなありきたりな言葉だった。 でも、シロコは、それで十分だというように、小さく頷いた。 「ん。帰る。このデータは、次のブリーフィングで共有する」 「はい。すぐに議事録に追加します」 二人は、並んで夕暮れの工業地帯を歩き始めた。 シロコの背負う痛みを、完全に取り除くことはできない。それでも、その痛みを共有し、データとして次に繋げる。それが、今の彼女たちにできる、唯一で、最善の戦い方だった。