Chapter7:『龍珠の在処、魔女の正体』 7.1:『全員での謎解き』  ベーダモンが片付けを始める食堂の喧騒を背に、生き残った者たちは吸い寄せられるように談話室へと集まっていた。  壁の暖炉では相も変わらずデジタルの炎が音もなく揺らめいている。  しかし、その柔らかな光も温もりも、氷のように冷え切った彼らの心を溶かすには至らない。  ソファの配置はバラバラだった。誰もが、隣に座る者の体温すら信じられず、無意識のうちに距離を取っている。  皆で自己紹介をし合った1日目を思い出す。  ティンカーモンがいた席、赤城が論文を広げていた席、そして、ソク師範が豪快に笑っていた席。  その空席が放つ静かな圧力は、生き残った者たちの胸を重く締め付け、修復不可能な亀裂の深さを物語っていた。  その死んだように淀んだ沈黙を破ったのはユンフェイだった。  彼は静かに立ち上がると談話室の中央、暖炉の前へと歩み出た。  その瞳から、絶望の色は消え失せていた。そこに宿るのは悲しみを燃やし尽くした後に残る、静かで、しかし決して消えることのない復讐の蒼い炎だった。  彼は懐から一枚の紙片を、まるで聖別された遺物のように丁寧に取り出すと、ローテーブルの上にゆっくりと広げた。  ティンカーモンが遺した拙いクレヨンの絵。そのカラフルで無邪気な線は、この陰鬱な空間においてあまりにも痛々しく場違いだった。 「どうか、皆の力を貸してほしい」  ユンフェイの声は、驚くほど落ち着いていた。だが、その響きの奥には決して折れることのない鋼のような意志が貫かれている。 「この絵は、ティンカーモンが我々に遺してくれた最後の道標だ。彼女が何を想い、何を見つけたのか。  このままでは彼女の想いは、この館の闇に葬り去られてしまう。それだけは……それだけは、絶対に避けたい」  そう言うと、彼は、その場の全員に向かって深くそして丁寧に頭を下げた。  プライドの高い剣士が見せた初めての懇願。それは失われた小さな魂に報いるための、聖なる祈りのようでもあった。  その行動に、最初に動いたのは騎士だった。  彼は、当然のようにユンフェイの隣に立つ。それは、言葉以上の雄弁さで、彼らの間に結ばれた固い同盟をその場の全員に示していた。 「私にも……できることがあるのなら」  か細い、しかし確かな声が続いた。  レイラが、ワイズモンとスナリザモンに背中を押されるように、おずおずと輪に加わろうとしている。  昨日の絶望から、彼女はまだ完全には抜け出せていない。だが、その瞳には、ここで立ち止まってはいけないという新たな決意の光が灯っていた。  ワイズモンもいつもの軽薄さを抑え静かに頷いている。 「ふん。時間の無駄ね」  壁際に寄りかかっていたエリスが、冷ややかに言い放った。 「子供の落書きに、どんな意味があるというの」  だが、その言葉とは裏腹に、彼女の視線はテーブルの上の絵に釘付けになっていた。  秘宝。その在処に近づけるかもしれないという抗いがたい誘惑。  彼女は、あくまで渋々といった体を装いながらゆっくりとテーブルへと近づいていく。  彼女の足元で、フローラモンがどこか悲しげに主人の横顔を見上げていた。 「ふーん、面白そうじゃん。ティンカーモンちゃんのお絵描きクイズってわけね!」  唯一、ディエースだけが、場の緊張感を気にも留めず、楽しげな声を上げた。 「アタクシ、こーゆーの得意かも! アタシも混ぜて!」  彼女の能天気な明るさは、この歪な状況をさらに際立たせるスパイスのように響いた。  最後に、これまで黙って事の推移を見守っていたゴッドドラモンが、重々しく口を開いた。 「……この館に、秘宝などありえないと、そう思っておりましたが……」  彼は、深く、長い溜息をついた。 「もはや、常識で計れる事態ではないようですな。わかりました。この青嵐の館の主として、皆様の調査に協力しましょう。  私も、あの健気な妖精殿が何を伝えようとしていたのか、知る権利と義務がある」  それぞれの思惑、疑念、そしてわずかな希望が渦巻く中、ティンカーモンが遺した一枚の絵を囲み、奇妙でそして危険な共同捜査が、静かにその幕を開けたのだった。 7.2:『騎士と剣士の密議』 「どうか、皆の力を貸してほしい」  皆の前で深く頭を下げるユンフェイの姿を、騎士は静かに見つめていた。  彼のその行動が、ただティンカーモンの死を悼む悲しみからだけではないことを、この中で知っているのはおそらく自分だけだろう。  その懇願は、無力な者たちの同情を引くための演技ではない。  これから始まる謎解きを、真犯人を炙り出すための冷徹な「罠」へと変えるための、宣戦布告なのだ。  騎士の意識は、昼食の鐘が鳴り響く、ほんの数十分前へと遡っていた。    ☆  2階の男子トイレは、不気味なほどに静まり返っていた。  残されたのは、騎士とユンフェイ、そして手洗い場の大きな鏡に映る、2人の強張った表情だけだった。  陶器の冷たさが、張り詰めた空気をさらに冷やす。  先に沈黙を破ったのは、ユンフェイだった。彼は蛇口から流れる水で手を洗いながらも、その視線は鏡の中の騎士から一瞬たりとも外れていなかった。 「奇妙だと思わないか」  その声は、水音に掻き消されそうなほど静かだったが、含まれた鋭さは騎士の鼓膜を明確に捉えた。 「なぜ、犯人はこれほど回りくどい手を使う? 我々を1人ずつ、じわじわと消していくことに、何の意味がある。  もしこの館の機能を停止させ、我々を無力化することが目的ならば、真っ先に狙うべきはただ1人。この館の絶対的な心臓部、ゴッドドラモン殿のはずだ」  ユンフェイは、濡れた手を拭うこともせず、騎士に向き直った。  その瞳には、ティンカーモンを失った悲しみとは質の違う、冷徹な分析者の光が宿っている。 「それをしない理由……考えられるのは2つだ」  彼の問いに、騎士は静かに頷いた。自分もまた同じ疑問にたどり着いていたからだ。 「第1の可能性は、単純にゴッドドラモンが強すぎること。四大竜の一角だ。  いくらデジモンイレイザーとはいえ、単独で、しかも彼の本拠地で仕留めるのは容易じゃない」  騎士は、赤城のファイルを思い返す。  イレイザーは圧倒的な力を見せつける一方で、時に慎重に行動する側面もある。  いささか楽観的すぎるが、強大な敵との直接対決を避けている可能性は十分にあった。 「そして、第2の可能性」  騎士は、より確信に近い声で続けた。 「犯人は俺達を生かしておく『必要』がある」  騎士は、ユンフェイの瞳をまっすぐに見つめ返す。 「赤城さんのファイルにありました。ソク師範は、この館に隠された秘宝を執拗に探していたと。  そして、その情報を最初にこの場に持ち込んだのは、エリスです。  もし犯人もまた秘宝の正確な在処を知らないとしたら?  目的を同じくする我々を、自分よりも先に秘宝を見つけさせるための都合の良い『探索の駒』として、泳がせているとしたら?」  その推理は、この館で起きたすべての不条理な出来事を、1つの歪な線で結びつけた。  宿泊客同士を疑心暗鬼に陥らせ、互いを潰し合わせる。その混沌の裏で、犯人は安全な場所から、我々が秘宝へとたどり着くのを待っている。 「……なるほどな」  ユンフェイの口元に、自嘲ともとれる笑みが浮かんだ。 「我々は、まんまと踊らされているというわけか」  彼は、鏡に映る自分の顔を睨みつけた。絶望に沈んでいた愚かな自分。その背後で高笑いする、見えざる敵の姿が目に浮かぶようだ。 「ならば、騎士。我々が取るべき道は、もはや1つしかあるまい」  ユンフェイの声から、迷いは完全に消え去っていた。 「我々が筋書き通りに秘宝を見つけ出す。その時、犯人は必ずその姿を現すはずだ。それが我々の手の中に転がり込んできた瞬間に……そこを、叩く」  それは、あまりにも危険な賭けだった。自らが餌となり、猛獣を誘い出すに等しい。  だが、この膠着した状況を打破するにはそれしか道はなかった。 「これはもうただの謎解きじゃない」  騎士は、覚悟を決めた。 「ティンカーモンの想いを継ぐと見せかけて、犯人を追い詰めるための罠だ」  その言葉に、ユンフェイは静かに頷いた。 「ああ。……彼女の無念は、俺が晴らす」  鏡の前で二人の剣士は固い握手を交わした。    ☆  テーブルに広げられた拙い絵と、それを囲む、疑心暗鬼に満ちた宿泊客たち。  ユンフェイの「力を貸してほしい」という言葉が、まったく別の意味を持って、騎士の耳に響く。  そうだ。これから始まるのは、ティンカーモンを弔うためのものではない。  この狂った舞台の脚本家を、舞台そのものへと引きずり出すための、最後の芝居の幕開けなのだ。  騎士は、心の中で静かに、そして強く呟いた。 (さあ、始めよう) 7.3:『秘宝の発見』  談話室は、奇妙な熱気に包まれていた。それは希望などという生易しいものではない。  疑い、焦り、そしてわずかな好奇心が混じり合った、不健康で粘つくような熱気だった。  テーブルに広げられたティンカーモンの絵を、誰もが食い入るように見つめている。 「まず、この絵で明らかに不自然なのは3点だ」  ユンフェイが、集団を導く指揮官のように、冷静に口火を切った。  彼の指が、クレヨンで描かれた歪な館の各所を、ゆっくりと指し示していく。 「第1に、この巨大すぎる風車。第2に、軒先から異常な数、ぶら下がっている風鈴。  そして第3に、本来なら角ばっているはずのマザー・クリスタルが、滑らかな球体として描かれていることだ」  彼の指摘に、一同は改めて絵を検分する。確かに、その三点は子供の拙さを考慮しても、意図的なデフォルメのように見えた。 「もしかして……その絵、館のエネルギーの流れを示してるんじゃない?」  静観を決め込んでいたエリスが、まるで今気づいたかのように、独り言めいた声で呟いた。  その声は、控えめでありながら、確実にその場の全員の思考を1つの方向へと誘導していく。 「私も独自に調べていたのよ。この館の動力源は、ロビーの水晶だけじゃない。  展望室の風車や、至る所に設置された風鈴からも、微弱なエネルギーを収集している。  そのエネルギーの流れを、あの妖精は私たちとは違う『何か』で感じ取り、絵にしたとしたら……?」  そのもっともらしい仮説に、ワイズモンが飛びついた。 「マジっすかエリスさん! だとしたら、僕の出番じゃないすか!」  彼は、いつもの軽薄さを取り戻したかのように宙をくるりと回り、その分厚い本を開いた。 「この絵からは、微弱な魔力が……いや、魔力じゃない。ティンカーモンちゃんの、純粋な『想い』のエネルギーが残留してるんすよ!  彼女がこの絵に込めた、強い願いが!  この想いを触媒にして、僕の魔術で館のエネルギーと同調させれば、あるいは……!」  ワイズモンはそう言うと両手から淡い光を放ち、絵に向けてかざした。  彼の持つ魔術的な力が、ティンカーモンの想いを解き明かす鍵となろうとしていた。 「待って、ワイズモン」  エリスが、冷静に、しかし有無を言わせぬ響きで制止する。 「貴方だけでは、魔力が拡散して正確な探査は不可能よ。フローラモン、貴女も手伝いなさい」  エリスの命令に、フローラモンは躊躇いがちに一歩前に出た。その隣でウィッチモンに進化すると、ワイズモンの補助に回る。  同じウィッチェルニー出身デジモン同士、2人の魔力は、まるで失われた片割れを見つけたかのように共鳴し、増幅されていく。  魔術師たちが生み出した光の渦が、ティンカーモンの絵と、ゴッドドラモンが展開した館の構造ホログラムをゆっくりと包み込んでいった。  そして、2つのイメージが完全に重なり合った瞬間、誰もが息を呑む光景が目の前に広がった。  ティンカーモンが描いたあの歪な線。  それは、昨日、ティンカーモンが天竜の間で見た異常な歪みと、寸分の狂いもなく完全に一致していたのだ。  展望室の真下に描かれた大きすぎる風車は、そこで異常なエネルギーが集中していることを。  軒先から無数に垂れ下がる風鈴は、そのエネルギーが館の各所へと分散、あるいは屈折していることを。  そして、球体として描かれたマザー・クリスタルは、その全ての歪なエネルギーが最終的にロビーの中央、ただ1点へと集約されていることを示していた。  ティンカーモンは、理屈ではなく純粋な感性でこの館の真実の姿を捉え、それを我々に伝えようとしていたのだ。 「……見つけた」  ウィッチモンの声が、勝利を確信したかのように静かに響いた。 「全てのエネルギーが集約される場所……ロビーのマザー・クリスタル!  あそこで、ティンカーモンの想いを触媒に、正しい手順で操作を行えば必ず秘宝への道が開かれるはずよ」  彼女の言葉はこの混沌とした状況の中で、唯一にして絶対の真実のように響き渡った。  その瞳の奥に、誰にも気づかれぬよう、一瞬だけ、捕食者のような冷たい光が宿ったのを、騎士は見逃さなかった。  騎士は、高鳴る心臓を抑えながらこの物語のクライマックスが近いことを確信した。  ロビーの中央、マザー・クリスタルが放つ青と緑の光が、集まった者たちの強張った顔をぼんやりと照らし出していた。  ティンカーモンの絵から導き出された「エネルギーの歪み」という、あまりにも不確かで、しかし唯一の手がかり。  それを前にエリスがまるで舞台監督のように、冷静な声で次の段取りを告げた。 「エネルギーの異常が示された以上、このクリスタルを使って館全体を精密にスキャンするのが最も合理的ね。  物理的な捜索では見つけられない微細な反応を捉えられるはずよ」  その提案にゴッドドラモンは静かに頷いた。もはや彼の瞳に秘宝の存在を疑う色はない。  この混沌に終止符を打つためならば、どのような手段も厭わないという館の主としての覚悟が決まっていた。 「……承知しました」  彼は深く長く息を吸い込むと、自らの両掌をゆっくりとマザー・クリスタルへと翳した。  誰もが派手な光や轟音が鳴り響くものと身構えたが、変化は驚くほどに静かだった。  ただ、クリスタルの内部で脈打っていた光の螺旋が、わずかにその速度を速める。  シン、とロビーの空気が張り詰めた。  まるで、病院で重病患者の手術の成功を祈る家族のように、誰もが一言も発せず固唾をのんでゴッドドラモンの手元を見つめている。  やがて、クリスタルの表面から青白い光で描かれた館全体の立体ホログラムが、ゆっくりと空間に投影された。  それは寸分の狂いもない、精巧な建築模型。  ゴッドドラモンは、ティンカーモンの絵が示したエネルギーの歪みを基準データとして入力し、極めて微弱な、しかし特異なエネルギー反応のサーチを開始した。  ホログラム上を小さな光点が、まるで意志を持った蛍のようにゆっくりと移動し始める。  それは病室のモニターに映る生命の波形のように、静かで重い緊張感を伴っていた。  光点は、まず5階のトレーニングルームをなぞる。  次に4階へ。ユンフェイとエリスの部屋の上で、光が僅かに揺らめいた。2人の呼吸が、一瞬だけ止まる。  だが、光点はすぐに安定を取り戻し、何事もなかったかのように隣の部屋へと移動していく。  安堵のため息を漏らす暇もなく、光は3階へと下りてきた。  レイラ、騎士、ディエース、そして今は無人となったソク師範と赤城の部屋。  光点は、1つ1つの部屋を丹念になぞるように通り過ぎていく。  誰もが自分の部屋がスキャンされるたびに無意識にこわばっていた肩の力を抜いた。  やがてその微弱な光点が、まるで迷子の子が母親を見つけたかのように1階のロビーへと向かってきた。  ホログラムの中心、今まさに自分たちが立っているこの場所へと。  そしてホログラム上の騎士がいる座標で、光点はピタリ、と動きを止めた。  まるで心臓のように、トクン、トクンと、一定のリズムで静かに、しかし力強く明滅を繰り返している。 「……足元に、あるのか?」  誰かが呟いた。騎士は、自らの足元を見下ろしたが、そこには磨かれた黒曜石の床があるだけだ。  まさか。  騎士が確かめるように1歩、横にずれる。  その動きに寸分の狂いもなくホログラム上の光点もまた騎士を追ってスライドした。  もう一度、今度は後ろに下がってみる。光点は影のようにぴったりと後を追ってくる。 「…………馬鹿な」  ゴッドドラモンの口から信じられないものを見るかのような乾いた声が漏れた。  彼はスキャン結果を何度も確認し、やがてその厳めしい顔を絶望と驚愕に歪ませながら、静かに、しかし決定的な事実を宣告した。 「この微弱なエネルギー反応……ティンカーモン様が見つけた秘宝とされるそのエネルギー源は……」  竜神の視線がロビーにいる他の誰でもなく、騎士へと突き刺さる。 「……騎士様。貴方の体内にあります」  静まり返ったロビーに、その言葉だけが重く響き渡った。  全員の視線が一斉に騎士へと集中する。  当の騎士自身が、何が起きているのか、何かの悪い冗談ではないかと、ただ呆然と立ち尽くしていた。  時が止まったかのような静寂を破ったのは、ディエースの、ハッとした叫び声だった。  彼女は、血相を変えて指を差した。その指はゴッドドラモンでもなくクリスタルでもなく騎士の腹部を捉えていた。 「あーまさか……! 昨夜、あの自動調理器から出てきた虹色の飴玉……!!」  その一言で、忘れかけていた記憶のピースが、パチリと音を立てて嵌まった。  秘宝『刻の龍珠』は誰にも気づかれぬまま騎士の体内に取り込まれていたのだ。 7.4:『時を喰らう災厄の残滓』  ディエースの叫びが、凍りついたロビーの空気を揺さぶった。  虹色の飴玉。  騎士は、自分の喉がごくりと意思に反して動いたあの時の感触を生々しく思い出す。  まさかあの時飲み込んでしまったものが、みんなが求めていた秘宝だったなんて。  その信じがたい事実に誰もが言葉を失う中、ワイズモンだけが凄まじい勢いでその分厚い本をめくり始めた。  彼の顔から、いつもの軽薄な様子は完全に消え失せ、学者のような真剣さとそして何かを恐れるかのような焦りの色が浮かんでいる。 「ありえない……! そんなはずは……でも、このエネルギーパターン、この時空の歪み間違いなくアレだ……!」  彼は、本の特定のページで指を止めると恐怖に顔を歪ませながら叫んだ。 「そいつは『秘宝』なんかじゃない! 災厄そのものだ! このパターンは……終末の千年魔獣ズィードミレニアモンのものだ!」  ズィードミレニアモン。  その名がロビーに響き渡った瞬間ゴッドドラモンの表情が驚愕から畏怖へと変わった。  デジタルワールドで、その伝説の魔獣の名を知らぬ者はいない。  時と空間を自在に操り、過去と未来を破壊し存在するだけで世界の理を歪める災厄。 「どういうことですかワイズモン様。かのズィードミレニアモンが出現し倒された記録など千年はありませんぞ!」  ゴッドドラモンの問いに、ワイズモンは必死に自らの知識のページをめくりながら自らの推論を語り始めた。  その声は、恐怖にわずかに上ずっていた。 「僕も本を介して時と空間を超えることができると言われるデジモンですがね。  ズィードミレニアモンは時と空間そのものを内包するデジモンっす!  だから何度倒されたとしても、その存在が完全に消えることは絶対にない! 絶対にどこかで復活する!  きっと、どこかの次元……遥かな過去か遠い未来。  あるいは僕らが知らない別の並行世界(レイヤー)で倒されたズィードミレニアモンのほんの僅かなデータの残滓がこの場所に引き寄せられたんすよ!」  ワイズモンの指が、館の構造図の一点を指し示す。 「この『青嵐エリア』は常に破壊と再生を繰り返す、このデジタルワールドの中でも極めて特異な場所。  当然、時空間に対してもその特異性を発揮し、それが時空を彷徨う災厄の欠片を呼び寄せる磁石になってしまったんす!」 「そして、その残滓を偶然取り込んでしまったのが、あの自動調理器……無から有を生み出す錬金術の釜だったってことね!」  ディエースが最後のピースをはめ込む。全ての謎が、恐るべき形で繋がった。  古代のオーバーテクノロジーである調理器が、時空の果てから漂着した災厄のデータを「素材」として認識、凝縮し、そして「料理」として物質化させてしまった。  それが、虹色に輝く飴玉『刻の龍珠』の正体。  自動調理器の故障も、ソク師範やエリスが執着した秘宝の伝説も、すべてはこの時空を超えた災厄の欠片が引き起こしたものだったのだ。 「……だからか」  騎士は、自分の両手を見つめながら、呆然と呟いた。 「俺は昨日から幻覚を見るようになった。ユンフェイさんがデジタルワールドへ来たときの出来事を……。  レイラさんの罪と後悔の記憶を……。まるで自分がその場にいて体験したみたいに……」  その告白を聞いたワイズモンは、「やっぱりそうだ」と力なく呟いた。 「人間である騎士さんじゃ時空を操るズィードミレニアモンの力を取り込んでも完全には制御できない……。  その結果、不完全な形で他人の強い記憶や感情を媒介にして、『精神だけが過去へとタイムリープ』してしまう状態になってるんすよ!  言わば暴走した人間タイムマシンだ!」 「そのまんまじゃ、少年はどうなっちゃうのよ?」  ディエースが、いつもの軽口とは違う、本気で心配するような声でワイズモンに尋ねた。  ワイズモンは、ゆっくりと自身の分厚い本に視線を落とす。その顔には、どこか自らを語るような複雑な影が落ちていた。 「僕もまた本を用いて時を渡るデジモン。その知識を使い日記や歴史書を媒介にすれば、今は失われた土地を歩き過去の英雄とだって言葉を交わせる。  でもね、それは同時にとても危険な行為なんすよ。過去に深く干渉すればするほど、自分自身の時間がどこにあるのかを見失っていく。  僕が今ここにいるという確固たる感覚が少しずつ薄れていってしまうんです。そして最後には時を見失った迷子になる。だから僕は自分の足で旅してるんす」  彼は再び騎士へと視線を戻した。その瞳には、深い同情の色が浮かんでいる。 「騎士さんの場合、制御できてない分、もっと深刻だ。  ユンフェイさんやレイラさんの過去を体験して、『自分は彼らじゃないか』って思った瞬間があったはずっしょ。  それが続けば、どうなるか……。いつか自分自身が誰だったのか、本当の自分の記憶がどれだったのか分からなくなる。  色んな人格と記憶がごちゃ混ぜになって、魂そのものが摩耗し最後には空っぽの器になっちまう」  その言葉は、ディエースが抱える「記憶喪失」という現実とあまりにも残酷に重なった。  ワイズモンは続ける。 「ズィードミレニアモン自身でさえ、唯一無二の宿敵と定めた、たった1人の人間を楔(くさび)とすることで、かろうじて自我を保っていた。  それでも宿敵の前に時を超えて現れる度に、その性格はまるで別人のように違っていたと言われているくらいだ。  ……騎士さん、今のアンタにはその楔すらない」  騎士の背筋を、冷たい汗が伝った。  空っぽの器。ワイズモンの言葉は、騎士がこれまで漠然と抱いていた不安に、恐ろしいほどの具体的な輪郭を与えた。  確かに、ユンフェイの絶望を追体験した時、自分もまた「持たざる者」の劣等感に飲み込まれそうになった。  レイラの罪に触れた時、その重さに押しつぶされ、自分自身が許されない存在であるかのような錯覚に陥った。  あれは、ただの共感じゃない。他者の記憶が、自分の魂を侵食してくる抗いがたい感覚。  このままでは、本当に自分という存在が、誰かの記憶の寄せ集めの中に溶けて消えてしまうかもしれない。  両親の顔も友達と遊んだ思い出もズバモンとのことすら忘れて。  その恐怖に、騎士は思わずゴクリと唾を飲み込んだ。 「もし……もし、それをデジモンが取り込んでいたらどうなっていたの?」  それまで黙って聞いていたフローラモンが、鋭いそしてどこか期待を込めたような声で問いかけた。  ワイズモンは、ごくり、と唾を飲み込み最悪の可能性を口にした。 「もし相性の良いデジモンが取り込んでいれば……。  過去を幻視するだけじゃない。本当に過去へと跳び歴史を自在に改変する……そんな神にも等しい力を手に入れていたかもしれません」  過去を改変する力。  その言葉は、この場にいる者たちの心に、様々な形で深く突き刺さった。  ユンフェイの瞳に、現実世界で味わった屈辱と兄たちへの劣等感の記憶が蘇る。  レイラの胸に、見捨てた仲間たちの顔と取り返しのつかない罪の重さがのしかかる。  そして、エリスの隣に立つフローラモンの心には……。  過去を変えることができたなら。あの過ちさえなければ。  最後の引き金は、その言葉によって、静かに引かれてしまったのだった。 7.5:『魔女の裏切り』  静寂が、鉛のように重くロビーに沈殿していた。  ワイズモンが放った「過去を改変する力」という言葉。  それは、この狂った館に囚われた者たちの、心の奥底に眠るもっとも純粋で、もっとも醜い欲望を揺り覚ます悪魔の囁きだった。  過去さえ変えられるのなら。あの過ちさえなければ。  その甘美な毒は、もっとも純粋な魂から蝕み始めた。 「お願い……!」  悲痛な声が張り詰めた空気を切り裂いた。  声の主はフローラモンだった。  エリスの傍らで静かに佇んでいたはずの彼女が、まるで目に見えない力に突き動かされたかのように、1歩、また1歩と騎士へと近づいていく。  その瞳からは堰を切ったように大粒の涙がとめどなく溢れ落ち、花弁のような瑞々しい頬を濡らしていた。  彼女は、騎士の前で力なく膝をつくと震える両手を祈るように組み合わせた。 「お願い騎士……! その力をエリスに渡してあげて……!」  その懇願は、愛する者を救いたいという、ただひたむきな魂の叫びだった。 「その力さえあればきっと……! きっとエリスを、昔の……昔の、優しいエリスに戻せるかもしれないの……!  強がりだけど、本当は誰よりも仲間思いで……! 私が少し怪我しただけでも自分のことみたいに心配してくれて……!」  フローラモンの言葉は途切れ途切れだった。嗚咽が言葉を紡ぐよりも先に喉を塞いでしまう。  騎士も、ユンフェイも、レイラも、そのあまりにも痛切な姿にかける言葉を見つけられずにいた。 「お気持ちは痛いほど分かります。フローラモン様」  そのあまりにも残酷な静寂を破ったのは、ゴッドドラモンの威厳に満ちた、しかし非情な声だった。  スキャン結果が表示されたままのマザー・クリスタルのホログラムに視線を落とし、揺るぎない事実を宣告する。 「しかし、もはや手遅れです。スキャン結果によれば、『刻の龍珠』……ズィードミレニアモンの欠片は、すでに取り込んだ騎士様と、データ構造上の癒着を始めています。  いわば、心臓そのものになったのも同然。以下な名医であろうと、もはや取り出すことは……不可能でしょう」  竜神が下した、絶対的な診断。  フローラモンの顔から、か細い希望の光が消え、絶望がその美しい顔を覆い尽くした。 「そんな……。じゃあ、私達はどうしてこんなところまで……」  崩れ落ちるように彼女は床に突っ伏した。その小さな背中が絶望に打ち震える。  しかし、その隣でずっと黙って成り行きを見つめていた主人は違った。  ゴッドドラモンの非情な宣告を、エリス・ローズモンドは、まるで遠い国の天気報を聞くかのように、何の感情も浮かべずに聞いていた。  そして、フローラモンが絶望に泣き崩れるその横で、ゆっくりと、本当にゆっくりとその顔を上げた。  その瞬間、騎士は背筋に氷の刃を突き立てられたかのような悪寒に襲われた。  エリスの青い瞳からはあらゆる感情の色が抜け落ちていた。  そこにあるのは、冷徹な計算と目的を遂行するための無機質な意志だけが宿るガラス玉のような空虚な輝き。 「そう」  彼女の唇から漏れたのは、たった一言。 「生きて取り出すのは、でしょう?」  その言葉がロビーに響き渡った瞬間、ユンフェイが「しまっ……!」と叫びデジヴァイスICに手を伸ばした。  だが、それよりも早く、エリスは動いていた。  彼女が右手を振り抜くと、その手にはすでに青く輝くディーアークが握られている。 「カードスラッシュ!!」  左手で抜き放ったカードが、ディーアークのスリットを駆け抜けた。 「──《フリーズ!!》ッ!!」  叫び声と共に、絶対零度の光がディーアークから放たれ、ロビー全体を包み込んだ。  青白い閃光が視界を焼く。  時間そのものが、凍りついたかのように周囲のすべてが停止する。  驚愕の表情を浮かべたまま硬直するユンフェイ。声を上げようとして開きかけたディエースの口。  危険を察知し、騎士の前に飛び出そうとしたズバモンの宙で止まった前足。  天井から舞い落ちる光の粒子までもが、その動きを止めまるで星空を閉じ込めたガラス細工のように、静止した空間に煌めいていた。  意識はある。だが、指一本、動かせない。  絶対的な拘束。それは死よりも恐ろしい無力感だった。  その中で、自由に動ける存在がいた。  カードを行使したエリス、そして彼女のパートナーであるウィッチモン。  フローラモンは、いつの間にか魔女の姿へと進化を遂げ、その手に風を切り裂くための箒を握りしめている。 「ごめんね……」  ウィッチモンの声が静止した空間に悲しく響いた。  その魔女の瞳には、かつての戦友を手にかけなければならない、深い、深い苦悩が滲んでいる。 「ごめんね、騎士くんっ! エリスのために、今は死んでッ! 過去を変えたら……きっと助かるから!」  彼女は、悲痛な叫びと共に、その箒を天に掲げた。  緑色の魔力が螺旋を描きながら箒の先端に集約され、荒れ狂う風の刃へと姿を変えていく。  ウィッチモンの必殺技『バルルーナ・ゲイル』だ。  凄まじい風圧が、身動きの取れない騎士の髪を激しく揺らす。  次の瞬間、凝縮された風の塊は、空間そのものを切り裂くかのような轟音と共に一筋の巨大な刃となって放たれた。  全てを薙ぎ払い塵へと還す破壊の嵐が、絶対的な沈黙の中、騎士へと迫る。  回避不能。防御不能。  それはあまりにも一方的で、そして美しい処刑の光景だった。 7.6:『凶刃は真相と共に忍びよる』  無数の風の刃が、すべてが静止した牢獄の中で、身動きの取れない騎士の体に深々とそして無慈悲に突き刺さった。  抵抗する間もなく、騎士の体は内側から弾けるように崩壊を始めた。  肩が、腕が、胸が、光の粒子となってキラキラと舞い上がる。  それはまるで朝日を浴びて消えていく夜露のように、儚く、そしてあまりにも美しい光景だった。 (ナイトーーーーーッ!!)  ズバモンの魂からの慟哭だけが、意味を持たない音の塊となって虚しく響き渡った。  その無残な光景に、ユンフェイの瞳から光が失せ、レイラの唇からは声にならない絶望が漏れる。  誰もが、目の前で起きているあまりにも一方的な殺戮に、ただ立ち尽くすことしかできなかった。  やがて、騎士の姿は完全に掻き消えた。  光の粒子が最後の煌めきを放ち、静寂に溶けていく。  ただ、その中心に美しい虹色の光を放つ小さな球体、すなわち『刻の龍珠』だけがあった。  まるで宇宙の星雲をそのまま閉じ込めたかのように、妖しく、そして蠱惑的に、それはロビーの中央に静かに浮かんでいた。 「これで……」  エリスの乾いた唇から、勝ち誇った声が漏れる。 「過去は、私たちのものよ!」  彼女は恍惚とした表情でその球体へと手を伸ばし、確実な手応えと共に、長年渇望し続けた災厄の力をその掌中に収めた。  ロビーには、彼女の冷たい勝利宣言だけが響き渡った。  しかし、その瞬間だった。  彼女の手の中の龍珠が、チカ、チカ、と不規則に明滅し始めた。まるで出来の悪い玩具のように。  そして、ポンッ! という間の抜けた、場違いな音と共に、それは爆発した。 「なっ……!?」  爆発から噴き出したのは、破壊の光でもなければ、絶望の闇でもない。  大量の、ただの煙。そして、パーティーで使うような、キラキラとした色とりどりの紙吹雪だけだった。  掌に残ったのは、空虚な感触と、拍子抜けするほどの安っぽいきらめきだけ。秘宝の輝きは、どこにもない。 「!? これは一体……!?」  エリスが、信じられないものを見る目で自分の掌を見つめ、呆然とする。  その濃密な煙の中から、まるで舞台の緞帳が上がるかのように、1つの影がゆっくりと姿を現した。  本物の騎士がそこには立っていた。 「秘宝を見つければ犯人が動くことは、予測できていた」  静寂を支配する、騎士の冷徹な声。それは、魔女の短い勝利の余韻を、容赦なく打ち砕いた。 「……なぜ生きているの。確かにこの手で……」  愕然とするウィッチモンに、騎士はこの壮大な欺瞞の舞台裏を淡々と語り始めた。 「ワイズモンに頼んだんだ。『犯人は秘宝を見つければ必ず動く。力を貸してほしい』と。  俺は幻視したレイラさんの過去からワイズモンは犯人ではないと判断できたからな」  騎士の視線がワイズモンを一瞥する。その瞳には共犯者への確かな信頼の色が宿っていた。 「俺はディーアークで、事前にワイズモンに1枚のカードを使っていた。デジタルワールドの忍術の奥義が記された《秘伝忍法帖》のカードをな。  この効果を完璧に使いこなせるのは、イガモンやコウガモンのような生粋の忍者デジモン、そして……時を操る賢者の名を冠するワイズモン。  それだけじゃない。俺はワイズモンにディーアークとカードを託した。  お前が《フリーズ》を使ったあの瞬間……ワイズモンは、このトリックの最後のピースとなるもう1つのカードを密かに使っていた」  そう言いながら騎士は1枚のカードを見せる。 「《エイリアス!》のカード。対象の情報を複製し、実体を伴わない分身(エイリアス)を生成する、基本的なオプションカードだ。  ワイズモンは自らが持つ『時空間を超える力』と、《秘伝忍法帖》で得た『忍術』の知識を融合させた。  そして、お前の《フリーズ!!》の中でも唯一動ける特殊な『時空間忍術』を発動させていた。  ワイズモンが作った偽の俺と、本物の俺の位置を一瞬にして入れ替えたんだろう。  お前が殺したのもその手で掴んだはずの龍珠も……最初から、実体のないただの幻だったのさ」  すべての種明かし。それは、緻密な計算と仲間への絶対的な信頼なくしては成り立たない奇跡の逆転劇。  エリスは、息を呑んだ。まさか、あの飄々とした賢者が自分たちの計画の遥か上を行く策士だったとは。 「そんな……馬鹿な……!」  彼女が狼狽する中、騎士は、最後の一撃を放つ。その指先は、今や迷うことなく、愕然とするエリスを真っ直ぐに指し示していた。 「お前が犯人だ。そうであってほしくなかった……エリス」  騎士は、かつての戦友への複雑な思いを滲ませた。  その視線は、もはや怒りや憎しみではなく、ただ深い、深い悲しみに満ちている。  すべてを暴かれた。自らが仕掛けたはずの舞台の上で、いつの間にか道化を演じていたのは自分だったのだと、エリスはようやく理解した。  その瞬間、彼女の精神を繋ぎとめていた最後の糸が、プツン、と音を立てて切れた。 「あ……あはは……あはははははははははははははっ!」  狂気的な高笑いが、ロビーに響き渡る。 「そうよ! その通りよ、騎士! 私が! 私こそが、デジモンイレイザー様と木竜将軍のために働く魔女よ!」  開き直った彼女は、すぐさま次の行動に移った。《フリーズ!!》の効果が、まだ完全に解けてはいない。  騎士とワイズモン以外の者は、まだ金縛りにあったままだ。  そのほんの僅かな時間の隙を突き、最も近くにいて、最も無防備で、もっともか弱く見えた存在の元へと一瞬で駆け寄った。  ディエースの首筋に、腰のポシェットから素早く取り出した黒い物体を、容赦なく突き立てる。  チリチリ、と青白い火花が散った。 「実は私も魔法が使えるの。『雷魔法』スタンガン!」  悪辣なジョークと共に、ディエースのしなやかな体は悲鳴を上げる間もなく、ぐにゃり、とその場に崩れ落ちた。  やがて、永遠に続くかと思われた《フリーズ!!》の効果が切れ始め、ユンフェイやゴッドラモンの体が、ゆっくりと動き出す。  エリスは意識を失ったディエースを、まるで使い古した雑巾のように無造作に引きずると、そのか細い首に、冷たい刃物を当てて見せた。 「さあ、お遊びは終わりよ」  追い詰められた魔女の瞳が、狂気と勝利の輝きに満ちて、騎士たちを嘲笑う。 「この女がどうなってもいいのかしら?」 7.7:『鉄槌の宣告』  ユンフェイは、憎悪と怒りに顔を歪ませながら、しかし迂闊に動けない。騎士もまた、エリスがこれほどまで躊躇なく暴挙に出るとは予測できず、その場で身動きを封じられていた。  ズバモンが低い唸り声を上げ、ドラコモンもまた警戒に牙を剥く。  だが、か弱い人間を人質に取られた状況では、その圧倒的な力もただの重荷でしかなかった。  完全に場の主導権を握ったと確信したエリスは、しかし油断なく次の手を打った。  この均衡を、永遠に固定するために。 「あなたたちの切り札は、デジモンの持つ『進化』という奇跡。でも、奇跡なんて簡単に摘み取れるものよ」  彼女はディエースの体を無造作に盾にしながら、もう片方の手でディーアークを構えると、まるで手品師のように滑らかな手つきでカードを抜き放った。 「木竜軍団の基本戦術は、進化の封殺よ!」  その声は、甲高く、そして勝利の愉悦に震えている。 「カードスラッシュ、『エボリューションリミッター!』  瞬間、ロビー全体を覆うように、緑色の光で編まれた巨大な網が不可視の檻となって展開された。  それは、デジモンたちの進化の可能性そのものを縛り上げる、無慈悲な楔。  ズバモンやドラコモンたちの体が、一瞬ぐらりと揺らめいた。  彼らの内に秘められた、次なる段階への道が音もなく強制的に閉ざされたのだ。  成熟期以下のデジモンたちは、もはやただの子供同然。その事実が彼らの闘志を根底からへし折っていく。 「これで、お喋りは終わり。私たちの要求は1つ。騎士、今すぐ死んで刻の龍珠を渡しなさい。  どうせ、過去を変えれば貴方は死ななかったことになるのだから」  勝ち誇る魔女たち。それは完璧な王手に見えた。  この場の完全体以上のデジモンは、進化を封じられていないワイズモンと、そしてゴッドドラモンだけだ。 「──浅慮、ですな」  ゴッドドラモンは腕を組んだまま、静かにそしてゆっくりとエリスを見据えていた。  その表情には狼狽もなければ怒りもない。ただ絶対的な上位者が、足元で騒ぐ虫けらを見下ろすかのような底なしの侮蔑だけが浮かんでいた。 「まさか、貴方のような小娘の小細工がこの私に通用するとでも?」  その言葉の意味を、エリスが理解するよりも早く、ゴッドドラモンは、その右掌をゆっくりと、床のマザー・クリスタルへと翳した。 「皆様。どうかお休みください」  その声は、ロビーにいる者たちの耳に直接響くようだった。  穏やかでありながら、決して抗うことのできない神の勅令。 「この舘の、いや世界の秩序を乱す者を排除するのに、お客様の手を煩わせる必要もございません。私だけで十分です」  瞬間、マザー・クリスタルが、これまでとは比較にならないほどの神々しい光を解き放った。  青と緑の光の奔流が、ロビー全体を飲み込んでいく。視界が急速に白く染まり、あらゆる音、あらゆる感覚が純白のノイズの中に掻き消されていった。  目眩にも似た強烈な浮遊感の後、まだ霞む視界を無理やりこじ開ける。  そこは、部屋ではなかった。空間だった。  足元には、天の川のように無数の星が流れる広大な銀河が広がっている。  頭上を見上げれば赤や青、紫の星雲がまるで生きているかのように、ゆっくりと荘厳に渦を巻いていた。  上も下も右も左もない。絶対的な無重力空間。ただゴッドドラモンの絶対的な意志だけが、この世界の法則を支配していた。 「ここは……」  ユンフェイが呆然と呟く。 「『竜天回廊』……。四大竜の試練が行われる聖域だ……!」  ここはゴッドドラモンがその力を最大限に発揮できる彼自身が生み出した神の法廷そのものだった。 「ようこそ。我が聖域へ」  無重力空間に、ゴッドドラモンの声が荘厳に響き渡った。  その黄金の巨躯は、銀河の光を浴びて神々しく輝き、もはや単なる館の主ではない世界を司る絶対者としての威容を放っている。 「エリス・ローズモンド。そして、それに加担する愚かなデジモンよ」  彼の視線が、エリス、ウィッチモン、そして騎士たち1人1人を、まるで罪人を検分するかのようにゆっくりとなぞっていく。 「我が秩序を乱す罪は重い。人質もろとも、聖なる炎で浄化してあげましょう」  その宣告には慈悲などという感情は欠片もなかった。  彼が守るべきは個々の命ではない。この世界を成り立たせる、揺るぎない「秩序」という概念そのもの。  そのためには、1人の女の命も、それを守ろうとする者たちの想いも、等しく取るに足らない犠牲なのだとその瞳は冷徹に物語っていた。 「正気か!? ディエースごと殺すだと!?」」  ユンフェイが、信じられないものを見る目で叫んだ。  レイラもまた恐ろしさ「ひっ」と短い悲鳴を上げて、スナリザモンにしがみつく。  ワイズモンは、そのあまりの非情さに、ただ青ざめることしかできない。  彼らが必死の思いで築き上げた竜神への僅かな信頼はもはやない。  目の前にいるのは、秩序という名の狂気に憑かれた、ただの怪物だった。  だが、エリスだけは、その竜神の宣告を、表情1つ変えずに聞いていた。 「……人質が通用しないことは、想定済みよ」  彼女の口元に、微かな笑みさえ浮かんでいる。  ゴッドドラモンの非情さすら、彼女の計算の内だったのだ。 「ウィッチモン! やるわよ!」 「はい、エリス……!」  主人の冷たい決意に応え、ウィッチモンが悲壮な覚悟をその瞳に宿す。  彼女の体が再び進化の光に包まれ、その姿を、より強大でより戦闘的な形態へと変えていった。  現れたのは、花の姿をした魔女オウリアモン。  進化を封じられた他のデジモンたちとは違い、完全体へと進化した彼女は、この神の法廷で唯一、竜神に対抗しようという存在だった。  エリスは、意識を失ったディエースの体を無造作に引きずると、その柔らかい肉体を盾にするように、オウリアモンの前に構えた。 「ゴッドドラモン。本当に撃てるのかしら? この無関係な人間ごと、ね」  それは、悪魔の挑発だった。どちらがより非情になれるかという、冷たい心理戦。  その狂気の駆け引きに、騎士は、もはや我慢ならなかった。 「やめろぉぉぉっ!!」  彼の足は、魂は、すでに走り出していた。守るべきはディエース。  そして、どうしようもなく歪んでしまったが、それでもかつて背中を預け合った戦友であるエリスもまた、彼が守りたい対象なのだと本能が叫んでいた。 「ナイト!」  ズバモンもまた、主人の無謀な決意に応えその小さな体で必死に後を追う。 「愚かな……」  騎士のその行動は、ゴッドドラモンの逆鱗に触れた。 「ならば望み通り消えるがいい。秩序に抗う意思そのものが罪なのです!」  もはや、言葉は不要。ゴッドドラモンは、その両掌に、宇宙のすべての光を吸い込むかのように、聖なるエネルギーを凝縮させ始めた。  銀河が震え、星雲が捻じ曲がるほどの圧倒的な力。 「破壊せよ『ゴッドフレイム』ッ!!」  解放された浄化の光が、全方位へと炸裂した。  それは、もはや炎ではなかった。存在そのものを根本から消し去る、絶対的な破壊の奔流。  空間が灼熱に染まり、星々がその光に焼かれ、悲鳴を上げて消えていく。 「「カードスラッシュ!!」」  絶体絶命の、その瞬間だった。  騎士とエリス。二人の声が、奇跡のように、竜天回廊の轟音の中で重なり合った。  言葉を交わしたわけではない。視線を合わせたわけでもない。  だが、絶望的な状況を覆すための唯一の活路は、かつて共に戦った者たちには、痛いほどに分かっていた。  それぞれのディーアークから、青白い輝きを放つカードが同時にスラッシュされる。 「「《アイスウォール!!》」」  2人の想いに応え、騎士とエリスの前方に、二重の巨大な氷の壁が、地を裂くように隆起した。  だが、その防御も、竜神の絶対的な力の前にはあまりにも脆かった。 『ゴッドフレイム』が接触した瞬間、分厚い氷壁はまるで真夏の雪のように一瞬で蒸発していく。  防ぎきれない。  凄まじい熱波と衝撃波が、二重の防御を突破し、容赦なく騎士たちへと襲いかかる。 「ぐっ……ああああああっ!!」  騎士は、アームズモードへと移行させたズバモンを盾に必死にその身を守ろうとする。  だが、竜神の力はその矮小な抵抗を嘲笑うかのように彼を木の葉のように吹き飛ばした。  意識が急速に遠のいていく。  薄れゆく視界の中でも騎士は、ディエースを庇おうとした。  全身を打ち付け、骨が砕けるかのような激痛。灼熱の空気が肺を焼き、呼吸すらままならない。  銀河の光が万華鏡のように乱反射し視界をぐちゃぐちゃにかき混ぜる。  そして、その混沌とした意識の深淵で騎士の体内にある『刻の龍珠』が、これまでとは比較にならないほど、激しくそして歓喜に満ちた脈動を始めた。 7.8:『木竜軍団の襲撃』  騎士は脳を直接鷲掴みにされるような、強烈な痛みを覚えていた。  ユンフェイやレイラの時とは違う。  抗いがたい奔流が騎士の脆い精神の壁をいとも容易く食い破り、その意識を時空の彼方へと引きずり込んでいく。     ☆  デジタルワールドの幾多のエリアを結ぶ道が交わる一点。  そこに、『星脈の交易所』と呼ばれる拠点はあった。  あらゆる種族のデジモンが往来し、活気に満ちた市場が形成されたその場所は、一体のデジモンによって統治され鉄壁の秩序と繁栄を築き上げていた。 「おい、そこのお前。そのフロッピーの仕入れ値はせいぜい200ビットだ。  300で売ろうなどとは片腹痛い。手数料を差し引いて純利益は50がいいところだ。それで手を打て」  玉座に似た豪華な椅子にふんぞり返り、鋭い眼光で市場を睥睨するのはデーヴァ(十二神)の一角、竜に似た姿の完全体デジモン、マジラモン。  彼はあらゆる事象に値段をつける癖があった。  友情の価値、信頼の重さ、そして命の尊さまでも彼は独自のレートで弾き出す。 「この交易所全体の価値、〆て5000万元。悪くない投資だった」  計算高く、自らの利益にならなければ指一本動かさない強欲な支配者。それがマジラモンの表の顔だ。  しかし、彼が何よりも価値を置いていたのは、まだ成熟期にも満たないデジモンたちだった。 「未来への投資だ。こいつらが大成すれば、この交易所はさらに5000万、いや1億元もの価値を生み出す金の卵になる」  そう嘯きながらも、彼の目は未来を担う子供たちに注がれその支援を惜しまなかった。  無論、それは若きデジモンテイマーたちに対しても同じである。  人間の子どもたちがそのパートナーデジモンと共に齎す未来への可能性には、予測もできない価値がある。  彼のがめつさは、この楽園を守るための盾であり、その性格の悪さは、外敵を寄せ付けないための牙でもあった。  だが、その盤石に見えた繁栄に暗い影が差し迫っていた。デジモンイレイザーの尖兵としてデジタルワールドの侵略を進める木竜軍団。  その長である木竜将軍ドラグーンヤンマモンにとって、この独立した交易網は喉に刺さった骨だった。 「目障りなあの金の亡者を排除し、我がイレイザー軍の兵站拠点とする」  ドラグーンヤンマモンは冷徹に命じた。  副将であるデュアルビートモンに主力部隊を預けて交易所を正面から叩かせ、自らは遊撃部隊を率いて周囲の回廊を封鎖。  星脈の交易所は瞬く間に陸の孤島と化したのである。 「智謀、雷光の如く冴え渡り、武威、竜巻の如く荒れ狂るう。これが木竜軍団の信条。遊雷魔将デュアルビートモン、いざ参る。  ……さて、マジラモンはどう動きますかな?」  警報がけたたましく鳴り響き交易所の平和は無慈悲に引き裂かれた。  空を覆うのは、無数の昆虫型デジモンの軍勢。木竜軍団の侵攻が始まったのだ。 「敵部隊、ヤンマモン系とカブテリモン、クワガーモンの甲虫系が主体の編成。指揮官は……あのデジモンね」  城壁の上で、エリス・ローズモンドは冷静に戦況を見つめていた。  彼女の隣には、パートナーであるフローラモンが寄り添う。 「エリス、防壁の東側が手薄よ! フライモンとモスモンの群が来てる!」 「ケンとガルルモンを回して! 都市のデジモンたちには西の防衛を維持するように伝えて!」  エリスは、スマホに表示される戦況図を睨みつけながら、的確に指示を飛ばす。  しかし、数で勝り統率の取れた木竜軍団は、それでもなお優勢を崩さない。  ヤンマモンの飛行部隊とクライモンの攻城部隊が、エリスの元へと襲いかかる。 「フローラモン、お願い」 「ええ、エリス!」  エリスのD-アークが光を放ち、フローラモンのデータが書き換えられていく。 「フローラモン、進化! ――ウィッチモン!」 「さらに……超進化! ――オウリアモン!」  光が収束し、そこに現れたのは巨大な食虫植物のような姿を持つ完全体デジモン、オウリアモン。  その全身から発せられる甘い香りは、昆虫型デジモンにとっては死への誘いであった。 「さあ、おいでなさい可愛い虫さんたち。私ったらとってもお腹が空いているのよ」  オウリアモンは、女性的な優雅さとは裏腹に冷酷な捕食者として君臨する。 「『リーフレッド』!!」  彼女が両手の毒葉を振るうと、それは無数の刃となって飛翔し、木竜軍団の兵卒たちを次々と切り裂き貫いていく。  甘い香りに誘われたデジモンは、その美しい花の顎に捕らえられ養分とされる。 「敵前衛を撃破。……それでも指揮官は後方で動かない……不自然だわ」  エリスは双眼鏡で敵陣の奥を見据える。そこに立つのは紳士然とした佇まいの虫デジモン、デュアルビートモン。  彼は一切動じることなく、ただ自軍の兵士が食い散らかされていくのを眺めていた。  その不気味な冷静さにエリスは言い知れぬ不安を覚えていた。  木竜軍団による襲撃が始まってから三日が過ぎた。戦況は膠着していた。  交易所を守るテイマーたちの活躍、とくにエリスのオウリアモンの存在が、昆虫型デジモンで構成された木竜軍団にとって天敵として機能し戦線を支えていた。  しかし、デュアルビートモンは焦る素振りも見せず、その慇懃無礼な笑みを崩さなかった。  彼の策謀は、すでに交易所の内部で静かに進行していたのだ。 「僕たちにも、もっと力があれば……! 進化さえできれば……!」  交易所で暮らす成長期のデジモンたちは、自分たちの無力さを嘆いていた。  マジラモンやエリスたちに守られているだけでは駄目だ。自分たちもこの故郷を守るために戦いたい。  その純粋で切実な願いが悪魔の囁きに耳を貸す隙間を生んでしまった。  数日前から村に出入りしていた行商人の恰幅の良い男が、彼らに囁いていた。 「戦うための力が欲しいのですかな? これはお前たちを守るためのすごいアイテムですぞ……」  その男が差し出したのは接種すれば進化を果たす貴重なアイテム。  強さへの渇望はやがて警戒心を上回った。 『ギザギザはさみ』と『重い兜』を彼らは買ってしまった。  そして、三日目の戦いが始まった。木竜軍団はアトラーカブテリモン、オオクワモンを始めとする完全体以上のデジモンを複数投入してきた。  これまでの戦いは前哨戦に過ぎなかったのだ。  木竜軍団の本腰を入れた猛攻に昨日までは優勢を保っていた防衛線が押されていく。  苦戦する戦局を変えようと、1体、また1体と成長期のデジモンたちが禁断のアイテムに手を伸ばしていく。  その瞬間、悲劇の幕が上がった。 「グオオオオオッ!」  純粋な願いは、おぞましい絶叫に変わる。愛らしい姿は捻じ曲がり、硬い甲殻と鋭いハサミ、巨大な角を持つ異形の姿へと変貌していく。  クワガーモン、そしてカブテリモン。かつての仲間たちは、忌むべき敵へと姿を変えその眼に理性の光はなかった。 「策は成りました。さあ、我が同胞よ。偽りの平和に巣食う者共を排除なさい」  デュアルビートモンの命令一下、クワガーモンとカブテリモンたちが、昨日までの仲間に、家族に牙を剥いた。阿鼻叫喚の地獄絵図。 「な……に……?」  城壁からその光景を見ていたエリスは、言葉を失った。そして裏切りの刃は防衛の要であるオウリアモンに向けられた。 「みんな……どうして……!?」  オウリアモンの悲痛な叫びが響き渡る。  昨日まで「お姉ちゃん」と慕ってくれていた幼いデジモンたちが、今は憎悪の形相で襲いかかってくる。  守るべき対象であったはずの彼らが、もっとも忌み嫌うべき敵の姿となり牙を剥く。  その悪夢のような光景に、オウリアモンの戦意は急速に削がれていった。  甘い香りは悲嘆に変わり、捕食者の牙は鈍り、毒葉の刃は震えていた。  エリスもまた目の前の惨劇に立ち尽くしていた。信じていた者たちからの裏切り。守ろうとした対象からの攻撃。  彼女の冷静な分析力は、この理不尽な現実の前では何の役にも立たなかった。  それは他のテイマーたちも同様であった。後方からの予期せぬ奇襲、挟み撃ちは彼等を追い詰めた。  交流を深めたデジモンたちを攻撃することをためらう者が居た。心の優しき彼は真っ先に倒された。  非情の決断を取った者がいた。心を殺して戦った彼女は、無数の敵に飲まれた。  ただ泣きじゃくる者がいた。心は折れていたが、逃げ出すことも叶わない。  共に防衛に回っていたデジモン達も後方から巻き起こる混乱の中で次々に消えていった。 「……価値、暴落だな」  玉座で戦況を見つめていたマジラモンが、苦々しく呟いた。  彼が未来への投資と信じた「金の卵」たちは、今やデュアルビートモンの手によってこの交易所そのものを破壊するだけの怪物に変えられてしまった。  城壁が崩れ市場が焼かれ、彼が築き上げた「5000万元の価値」が音を立てて瓦解していく。 「戦況は決まったようですな。マジラモン殿、我ら『木竜軍団』は寛容です。降伏すれば決してあなたに手出しは致しません」 「これまで、か」  これ以上の損失は彼の計算が許さなかった。マジラモンは重い腰を上げ、デュアルビートモンの前に進み出た。 「わかった。降伏だ。我は軍門に下ろう。その代わり、これ以上の破壊活動はやめていただきたい。  そちらとしても価値の無くなったこの都市など欲しくはありますまい。取引成立、でいかがかな?」  デュアルビートモンは紳士的に一礼する。 「では、そういうことで。ああ、約束通り『木竜軍団』は手を出しませんが……貴方の民たちはどうでしょうかね?」  デュアルビートモンの言葉を信じたのが、マジラモンの最後の計算違いだった。  彼が降伏を受け入れた瞬間、デュアルビートモンは操っていた虫デジモンたち――元・交易所の住民たち――に、一斉に攻撃を命じた。 「!?」  約束が違う、と叫ぶ間もなかった。  無数の刃と角が、無防備なマジラモンに殺到する。  尻尾や髪を変化させて宝矢(パオスー)を放つ暇も、54万元の破壊力を持つ必殺技「ヴェーダカ」を放つ隙も与えられなかった。 「我が……5000万……元の……」  巨体がゆっくりと崩れ落ち、その命の輝きが消えていく。彼が最も大事にしていた者たちによって。  血飛沫とデータの霧。その光景が、スローモーションのようにエリスの目に焼き付いた。  希望は、完全に潰えた。信じる心は、利用されるためにある。絆は、裏切られるためにある。  平和は、より大きな絶望を生むための、ただの前戯に過ぎない。  未来を育もうとする意思はこうして蝕まれた。 『星脈の交易都市』は、本当の意味で終わってしまった。 「貴方には苦戦させられました。我が策で兵力を増やすはずが、差し引き0になってしまいましたよ。埋め合わせをしてもらわないと」  瓦礫の中に立ち、血の気を失った顔で、エリスはゆっくりとデュアルビートモンに向き直った。  その瞳からは、かつての輝きも、今の絶望の色さえも消え失せ、ただ空虚な闇が広がっていた。 「どうです? これからは貴方もデジモンイレイザー様のために働くというのは?」  デュアルビートモンは、捕らえた彼女のパートナーを足蹴にしながら彼女を誘う。  その問いかけに選択肢など無かった。 「……わかりました。貴方達に従います」  か細く、しかしはっきりとした声が、静まり返った戦場に響いた。  デュアルビートモンは、勝利を確信して歪んだ笑みを浮かべた。 「賢明なご判断です、ミス・エリス。歓迎しますよ、我が『木竜軍団』へ」  この日を境に、エリス・ローズモンドという少女は死んだ。冷静でありながらもその奥に優しさを秘めていた少女はもういない。  代わりに現れたのは誰にも心を開かず、ただ冷徹な命令を遂行するだけの氷のような瞳を持つ人形。  彼女の傍らには、パートナーであるフローラモンが静かに佇んでいた。  エリスを絶望の淵に立たせ、降伏させてしまった無力感。  守るべきだったはずの者たちが敵となり、敬愛する主を殺めた光景。  そのすべてがフローラモンの心に深い負い目と、決して消えることのない憎しみを刻み込んだ。  今はただ闇に染まったエリスの心に寄り添うしかない。だが、フローラモンは誓った。  いつか必ず、この屈辱を晴らす。  エリスの心を絶望から救い出し、あの慇懃無礼な虫けらを我が花弁で八つ裂きにするその日まで。  冷え切った少女の隣で、復讐の炎だけが静かに燃え続けていた。     ☆  灼熱の奔流が過ぎ去り、すべてを飲み込むはずだった純白の光が薄れていく。  誰かが必死に自分の名を呼ぶ声が、遠い水底から響くように騎士の意識を引き戻した。  ゆっくりと瞼を開けると、そこには、涙を浮かべながらも必死に騎士を介抱するズバモンとレイラの姿があった。  スナリザモンもまた、その小さな体で必死に騎士の頬を温めようとしている。 「……騎士さん、しっかりしてください! 大丈夫ですか!?」  その声が、脳裏に焼き付いて離れなかった絶望の記憶を洗い流していくようだ。  騎士は、ゆっくりと身を起こした。  星脈の交易所で見た裏切り、マジラモンの無残な死、そしてすべてを失い復讐の化身と化すしかなかったフローラモンの孤独な背中。  それら全てがもはや他人の記憶ではなく、自分の痛みとしてその魂に深く、深く刻み付けられていた。  エリス。  彼女もまた、守るべきものを理不尽に奪われ、その心を踏みにじられた被害者だったのだ。 「……ありがとう、レイラさん」  騎士は、絞り出すようにそういうと、この運命が狂ってしまった物語に終止符を打つという揺るぎない決意と共に静かに立ち上がった。