5月の雨が降っている。  これから夏へ向かおうとする空はまだ春の肌寒い時期の気配を残していて、それが降りしきる雨粒に宿っていた。  ひやりと冷たい空気に晒された首筋を毛羽立たせながら、御野智希は傘を閉じた。  足元に水溜まり。何の気なく覗き込むとすっかり白く染まった自分の髪が映っていた。  ───だいぶ白くなったもんだな。  胸の内で呟く。昔は生粋の日本人らしく黒髪だった。幼い頃の話だ。  人間の記憶は嫌なものばかりべったりとこびりついて忘れさせてくれないもので、親族の家へ移るまでの痛みに満ちた日々は小学生でも低学年頃までのことなのに鮮明に焼き付いている。でも、その頃までは髪は黒かった。  でもあの日、あまりにも身近な“死”に触れて、それから─── 「………。やめよう、こんなの」  記憶の反芻を断ち切るように呟く。軽くかぶりを振って残滓を追い出した。  この回想はどうしてもあの嫌な男の顔を連想しなければならない。意図的に智希はそれをなるべく避けている。  軽く傘を振って水滴を飛ばし、傘立てに入れる。今どき珍しい、古びた木製の扉を見つめた。  扉の上方には十字架がさり気なく添えられ、ここが教えに生きる者たちの領域であることを示している。  教会。キリスト教の信者にとっての聖域。ここに来る前、智希はネットで軽く調べてみた。  祈りの場所。奉仕活動の拠点。ギリシャ語で「エクレシア」という言葉が語源で、それは神によって召集された人々の集まりということを意味するらしい。  ファンタジー系の創作でたびたび聞く言葉を耳にして、こんなところにルーツがあったのかと驚いたものだ。  もちろん智希はキリスト教の信者ではなく、これまでの半生でこんなところに用事なんて一度もない。  けれども今日智希は一瞬躊躇ってからゆっくりとその扉を押し、屋内へと入っていった。  ぎぃ、と木の扉が軋む音と共に礼拝所の空気が智希を迎え入れた。 「おお……なんか、イメージ通りだ……」  目にした光景に対して思わず感嘆の溜め息と共に独り言を口にしてしまった。  意外に狭く、意外に広い。それが第一印象だ。  部屋は祭壇まで一直線に伸びた縦長の構造で、廊下の両脇に長椅子がいくつも並んでいるせいでそれほど広々とは感じさせない。  その長椅子にしたって人が3人か、詰めて4人座れるかどうか。それが十脚程度ずつ。  それで内部は一杯なので、きっと規模的には小さな教会なのだろう。  だが天井が高い。アーチ状になっていて、柱には華美になりすぎない程度に彫刻が刻まれていた。  これもネットで調べた情報だけれど、教会内部は声や音が響きやすいような構造になっているとか。  最奥の祭壇の上には色とりどりの模様がガラスに封じ込められたステンドグラスが嵌め込まれていた。  今日は生憎の雨なので輝きもそれなり。きっと太陽が出ているならきらきらと眩く光って神々しさを演出するはずだ。  廊下に沿って歩いていくと他のことにも気づく。とても丁寧に整備されていることに。  長椅子などの調度品には年月が刻んだ色の沈着や傷が染み込んでいるが、一方で埃ひとつ溜まっていない。  こじんまりとしていながら狭苦しさや汚らしさを全く感じさせないのは清掃が行き届いているからだ。  それを実行しているであろう者の顔を、智希は知っている。 「………本当にちゃんとシスターやってるんだな、あの人」  智希が長椅子を撫でて彼女の顔を脳裏に思い浮かべるのと、壁側にあった扉が開いて人が現れるのは同じタイミングだった。 「───あら? まぁ、御野様! いらしてくださったのですね」  黒いヴェールを被った僧衣姿のその女性は智希の姿を認めるなり、ぱっと明るく破顔する。  雨が降っているせいで空気は少し重たい。その空気が不意に華やぐような、朗らかな微笑みだった。 「こんにちわ、イドリスさん。お邪魔しに来ました」  ぺこりと智希は頭を下げた。彼女と出会ったのは数日前のことだった。  その日、教会では建物前の庭で小さな催しを行っていた。簡易的なバザーに炊き出し。売り上げは教会の維持費や寄付にあてられるという。  一人暮らしの学生には様々な欲望がつきもので、それを満たすための金銭をどこから捻り出すかといえばまず削られるのは生活費である。  食費なんてなるべく浮かせるに越したことはない。というわけで、地域掲示板に貼られていた広告を見て炊き出しの豚汁を啜りに行った結果このシスターに出会うことになった。  付近の住民であるお年寄りに混じって物凄いのがいる、というのが失礼ながら初見の感想である。  僧衣を着込んで顔や手以外に肌はほとんど見せていないのに、それを力技で貫通する主張の強い身体。胸も尻も凄く大きい。  その顔立ちは明らかに日本人のものではなかった。ヴェールから見える髪は金色で、瞳の色は澄んだ青空に似た碧眼。  そんなのがお年寄りたちの輪へ自然に混ざって談笑しているのは極めて違和感の強い光景だった。  理由はすぐに分かることになる。このシスター、日本語がべらぼうに上手い。西洋圏の人間らしいイントネーションの癖も感じさせない。  言葉が通じるとなれば途端に警戒心を無くすのが日本人という人種のさがであった。  遠くはウェールズから日本へ奉仕活動のため派遣されてきたという彼女はイドリスと名乗った。シスター・イドリスと。  会話するうち、智希が親代わりである親戚の元を離れてひとり暮らしをする苦学生であると知った彼女は言ってくれたのである。 『よろしければまた当教会をお訪ねください。細やかなものですがお食事をご用意しましょう───』  我ながら単純だとは思うが、身体だけならグラビアアイドル級の舶来美女に手を握られながら優しくそう申し出られて頷かない男子学生がこの日本にいようか。決していまい。  果たして智希がやってきた意図を読み取ったのか、イドリスはぽんと手を合わせて得心いったように頷いた。 「ああ、ひょっとすると先日の件ですね?」 「すみません、厚かましく強請りにきてしまいました。大丈夫でしたか?」 「ええ、何の不都合も。ちょうど教会の清掃も終わってそろそろお昼にしようと思っていたのです。少々お待ちくださいね」  智希を長椅子に腰掛けさせ、イドリスは奥へ引っ込んでいこうとする。  あっけなく了承してくれたことが却って不安を煽った智希は声を軽く張って彼女の背中へ呼びかけた。  思ったより大きな声となって響いたことに自分で驚いてしまう。教会が声が響くように建築されてあるというのはどうやら本当らしい。 「イドリスさん、本当にご迷惑じゃありませんか? 俺、お礼も出来ませんし」 「お気持ちだけで充分ですよ、御野様」  イドリスは振り返って柔和に微笑む。 「私たちは困っている方に施すのは当然です。それは主のご意思であり、それを代行できるのは我々の歓びですもの」 「俺、キリスト教徒じゃありませんけど……」 「信仰や立場は関係ありませんよ。誰にでも等しく主の慈愛は降り注いでおりますから」  朗らかな笑顔だった。裏表のない表情だった。  嘘のない、真摯な優しさを向けられる。それがくすぐったいような、気恥ずかしいような心地がして、智希はなんとなく視線を逸らしてしまう。  学校でこんなふうに心を通わせることなんてなかなかない。あの世界は“クラスメイト”という垣根が最初に存在してその上で遣り取りがある。良くも悪くも互いの間に一定の距離感というものが定まっている。  その点、このシスターの言葉には常に真心という血液が通っていた。慣れないが、嫌な気分ではない。 「───それでは少しだけお待ちくださいね。用意しますから」  イドリスは改めてそう言い残すと、今度こそ奥へ引っ込んでいった。彼女の気配がなくなったことを感じつつ、智希は長椅子の背もたれに身を預ける。 (なんだか不思議な人だな)  彼女と接するのはこれで二度目だが、相変わらず独特な雰囲気の持ち主だと思う。  おっとりとした立ち居振る舞い。優しげな眼差し。そして何より、人を疑うことを知らないかのような無防備なまでの善意の発露。  決して隔絶した感じはない。水のように空気のように傍にありそうな気配と教えに生きる者特有の聖性を併せ持っていた。 (なんか、天然っていうのかな……)  少なくとも、智希が今まで生きてきた中で出会ったことがないタイプの人間だった。  温もりに触れるとその反動とばかりに冷たい感触のする記憶が浮かび上がってくる。智希は手のひらで目を覆った。  “父親”というカタチをした奇妙な男のこと。あの男から浴びせ続けられた憎しみのこと。不意にあの男がいなくなって静かな日々が訪れたこと。  再びあの男が目覚めたこと。カタチが変わっていることを祈り、だが前にも増して歪な形になっていたこと。  すっかりその変わらぬ憎悪を振りまくカタチに嫌気が差して、気がついたら鬱陶しさを感じさせないカタチへと自分の手で整形していたこと。  ───オーヴァードという存在に自分がなっていたこと。  まるでザッピングされた動画のように矢継ぎ早に脳裏で再生された記憶によって心がささくれ立つ。ふと気を抜いた瞬間にいつもそれは蘇ってくる。  あの経験に比べれば、オーヴァードとなった直後に経験した事件は悲しかったが苦しくはなかった。  イリーガルとしてUGNに雇用される日々もそう悪いものではない。少なくとも、今は。  心が現実へと戻ってきて智希は自分がいる場所を確かめた。教会の長椅子に座っている。  そうだ、今俺は安心の中にいる。初めて訪れる場所、まだ出会って間もないシスター、緊張する要因は多いが安心してもいいところにいる。 「……………」  無意識に詰めていた息を吐いて、智希は顔を上げた。  見上げた先にはステンドグラスがあった。色硝子の向こう側に透かした天候はいくらか回復して、ほんの少しだけ日が差しているようだ。  その光をステンドグラスが乱反射して礼拝所を彩る。きらきらと輝く様をぼんやりと見つめていた。  曰く、教会のステンドグラスはかつて文字が読めない人のためにあったという。描かれた紋様によって聖者の旅路とその教えを問いたのだという。  この光はこんな俺のことも歓迎してくれるのだろうか。決してみだりに口にできない俺の過去、俺の罪を知っても。  鼻先に美味しそうな香りが漂ってきた。野菜の旨味が溶け込んだスープの匂いだ。どんなに嫌な気分に陥っていても腹は減る。  足音が少しずつ近づいてくる。智希は居住まいを正し、イドリスの訪れを待つことにした。  以来、智希はたびたびこの教会へ通って食事をご馳走になることになる。  時折この近所で見かけたことのない顔の大人や子供が出入りしていることに首を傾げながら。  この施設が実はUGNの息のかかった場所で、イドリス・コインフィールドというこのシスター自身も智希と同じオーヴァードだったと知ることになるのは───もう少し先の話だ。