タイトル 道満転生/00000〜平安最強最悪の陰陽師、転生したら現代の呪術界が雑魚すぎたのだが〜 キャッチコピー 霊力を失った俺は弱い…強くならねば(一級邪霊を一撃で消し飛ばしながら) あらすじ 千年の時を超え、一人の陰陽師が転生した。 その名は芦屋道満――平安時代最強にして最悪の陰陽師である。 弟子たちの裏切りで死した道満は、霊和時代――呪術と妖魔が蠢く現代に転生する。しかし生まれた直後に蘆屋道満の転生であるという理由で殺されかける事となる。 駆けつけた己の式神の少女、九重と共に逃げ出した道満は一人の若き陰陽師と出会い、彼――芦原秋房の息子となるのだった。 新たな家族を得た道満は、芦原斗真と名乗り過ごしていくが、大貴族である藤原家に親子ともども目を付けられ、そして陰陽の戦いに巻き込まれていく―― 大貴族・藤原家の冷酷な姫・柚姫の監視下、陰陽の戦いに巻き込まれる。霊力をほぼ失いながらも、斗真は己の平穏と家族の平和を守る戦いに挑んでいく! 本編 一話 陰陽師や呪術師を育成する高校、陰陽寮付属如月学園高校。  その入学試験の霊力値判定にて、俺は前代未聞の数値を出していた。 「な、なんだこれは……」 「そんなことが……」 「初めてだぞ、こんな数値は」  さもありなん。  俺の出した数値は…… 「00000|《ファイブゼロ》、だと……」  そう、00000だった。  つまりは、霊力が無いということだ。からっけつのガス欠、見事な枯渇である。  まったく、これがかつて力を求め最強にして最悪とまで呼ばれた陰陽師、芦屋道満《あしやどうまん》の転生した成れの果ての姿か。そう俺は苦笑する。  霊力のほぼ全てを失った事――後悔はしていない。  代わりに大切なものを得、守れたのだから。  もう俺は繰り返さない。  そう、あの時のような―――― ◇ 「ハハハ! ついに殺した! この俺が、俺達があの芦屋道満を!」  京の空を赤く染める炎の中、哄笑が響き渡る。  この私、芦屋道満《あしやどうまん》――平安最強にして最悪と謳われた陰陽師を討ったのは、他ならぬ私の弟子たちだった。  どうやって? 蓋を開ければ、なんとも愚かな話だ。  私の式神の真名《まな》――それを明かした私の失態である。  式神には真の名があり、それを知る者はその式神を操ることができる。故に決して他者に明かさぬものだが、酒宴の酔いに任せ、弟子を信頼しすぎた私が口を滑らせた。 「何かあった時のために、真名を教えておこう。」  そう、数体の式神の真名を教えてしまったのだ。  そして、寝込みを襲われ、酔いに鈍った私は醜態を晒し、それでも式神を調伏したのだが、その隙に討たれてしまった。  不甲斐ない。世間の言う悪行など認めが、身に覚えのないものばかりだが、敵を作り過ぎたのは事実。弟子に寝首をかかれるとはな。  出る杭は打たれる――そういうことか。 「道満様!」  南の空から、少女の叫び声が響く。 「げえっ! こ、九重《ここのえ》様!」 「道満様の指令で信濃国まで行ってたんじゃあ!」  弟子たちがざわめく。  見上げると、月光をまとった妖狐、九重《ここのえ》が飛来していた。金髪と白い肌が淡く輝き、漆黒の髪と金色の瞳を持つ私と対照的なその姿。  彼女の瞳には、涙が光っていた 「貴様ら……道満様に教えを乞うた身でありながら、よくもこの恥知らずどもが!」  九重の怒りが炎となって迸る。 「うるさい! 最低最悪の陰陽師にこれ以上付き合えるか!」 「朝敵だ! 俺達は朝敵を討っただけだ!」 「道長様に逆らうからこうなる!」 「ふ、藤原道長様がおっしゃった。芦屋道満を殺せば国が救われると!」 「お、俺は巻き込まれただけだ! 逆らう気なんて……!」  弟子たちが口々に叫ぶ。  なるほど。藤原道長に誑かされたか。私など、彼の方には邪魔者でしかないからな。 「弁明は無用。死ね!」  九重の周囲に炎が迸り、火矢の如く弟子たちへ突進した。  だが―― 「……!?」  九重と弟子たちの間に、光の格子が閃き、炎を遮った。九字護身法である。 「道満様!?」  その障壁を展開したのは、弟子たちではない。他ならぬこの私だ。 「何故!」  九重が叫ぶ。わかる、その気持ちは。だが―― 「彼らは、悪くない……」  悪いのは私だ。彼らを導けなかった私だ。 「見逃してやれ。これは我が式神への命令だ」 「……仰せのままに。」  九重は泣いていた。私の死を嘆く涙か。だが、悲しむ必要はない。お前は私が死しても消える事はないのだから。 「そんなこと! 道満様、私は……私は……!」 「……ありがとう。お前と過ごした時は、何物にも代え難い宝だった」 「道満様! 私は……待っています。貴方が再び現世に生まれ戻るその日を!」 「そうだ、な……」  九重には希望を持っていてほしい。このままでは私の後を追いかねない。それは困る。 「……いずれ、必ず」 「はい!」  涙を拭い、答える九重を見て、私は安堵した。  ああ、私の式神は、最後まで私のよき式神だった。  願わくば、お前のこれからに平穏と安寧のあらんことを。  そして、私の意識は闇へと沈んだ。 ◇  ふと、意識が戻った。  周囲は騒がしい。だが、体が動かぬ。目も開かぬ。  これは……何だ?  まあよい。肉眼が閉じていても問題はない。見鬼の術は魂の視界で世界を捉える。  やがて、視界が鮮明に開けた。  布にくるまれた赤子の身だ。  生まれ変わったのか? だが、普通の転生なら記憶は消えるはず。  泰山府君祭――転生を司る秘儀は知っているが、私はそれを行っていない。故に、私が私のまま転生するなどて――  周囲には、母らしき女性、父と思しき男性、産婆、そして老人と数人の男たち。  術師の気配を漂わせているが…… 「この魂の波長……間違いない」 「成功したのか……!」 「芦屋道満……千年の時を超え蘇った、最強最悪の陰陽師!」  ふむ。妙な流れだ。 何が起きているのか。 「今ここで殺さねば……この国は!」  父らしき男が物騒なことを言い出した。  ちょっと待て。 「御堂関白記に記されていたことは本当だったか……!」  ……御堂関白記。藤原道長の書だ。あの男が私の転生を予期していた?  ならば、私を悪しざまに記しているのだろう。誤解を解かねばならないな。  赤子の身で出来ることは……念話か。  術式成功。赤子の身でも術は使えるらしい。 『落ち着け。私は国やお前たちに害をなすつもりはない』  念話は通じたようだ。 「な、なんだ、この声!」 「生後すぐに術を!? やはり言い伝えは本当だったか!」  ……失敗したか。  脳内に声が響けば驚くのも無理はない。だが、私の名を知っているなら、念話程度で動揺するなと思うが。仕方ない。 『もう一度言う。我が名は芦屋道満。私は――』 「帰命全方位切如来一切時一《ノウマク サラバタタギャテイビャク》切処暴悪大忿怒尊《サラバボッケイビャク サラバタタラタ》一切障碍滅尽滅尽残害破障《センダマカロシャダケンギャキギャキ サラバビギナン ウンタラタ カンマン》!」  老人が真言を唱え始めた。不動明王の火界咒――煩悩も敵も焼き尽くす術だ。  私を、産婆と母ごと焼き尽くす気か。  それは……許せん。  かつて多くの者に忌み嫌われた陰陽師、芦屋道満。生まれたこと自体が罪と言われれば、否定はできまい。  だが、ただ産んだ母、ただ取り上げた産婆に罪はない。あってたまるか。 赤子の身で何ができる? 自身を守るなら容易だが、二人を守れるか――  答えは簡単だ。  心で所作を念じ、光の盾を二人の前に展開する。  これでよし。  この身、どこまで持つかはわからぬ。だが、見捨てる選択はない。気に入らんのだ。  芦屋道満を舐めるな――!  炎に耐える。  耐える。  炎と私の霊力が拮抗する。  だが、赤子の身では出力が足りぬ。このままでは押し負ける――!  だが、その瞬間。  私の眼前に、紅蓮の炎が舞った。  火界咒の赤い炎を凌駕する、太陽の如き灼焔が私を守っていた。 「遅くなりました。御生誕、誠におめでとうございます」  炎の中から、鈴のような声。灼熱の中でなお涼やかな響き。 「道満様が第一の式神、九重。復活を祝い馳せ参じました」  炎が晴れる。そこに立つは、十歳ほどの少女。  黄金の稲穂のような髪に、金色の狐耳。巫女装束に狐の尻尾を揺らし、変わらぬ姿で佇む。 『九重か……久しいな』 「はっ!」  九重がうやうやしく頭を下げる。その瞳には涙が浮かんでいた。  少し幼く見えるが、間違いなく私の式神だ。  千年を生き抜き、私を忘れず、呪力を辿って駆けつけてくれた。 「こして、の不届き者ども、いかに消し去りましょう?」 『待て』  ぎろりと睨み、物騒なことを言う。千年経ってもその性分は変わらぬか。 『そんな者どもに構う暇などない。それよりも、この時代を見て回りたい』  せっかく守った母と産婆だ。死なせるわけにはいかぬ。  だが、この状況では彼女たちの元で育つことは叶わぬ。  最初から私を殺すつもりだったとしか思えぬ手際だ。  ここは逃げる一手だ。 「御意」  私の身体は不燃の幻炎に包まれ、浮き上がる。 「……待って!」  母の声が響く。  すまぬ、母上。貴女に罪はない。だが、この家を家族とは思えぬ。ここにいても不幸しか見えぬ。  さらばだ。せめて、ご健勝のほどを。  九重の炎が家屋に穴を開け、私たちは飛び出し、去った。 ◇ (さて、これからどうするか)  私は思案する。  私の時代からどれほど経ったのか。町の面影はなく、四角く無骨な石の楼閣が立ち並ぶ。牛車の響きはなく、鉄の獣が唸りを上げている。  これが当世か。 (まずは学ばねばな) 「左様でございます、道満様! この千年を生き抜いた私が、色々とお教えいたします!」  ……不安だ。  九重は猪突猛進なところがある。先程から私を強く抱き、頬を擦りつけている。  この身は赤子だ。もう少し優しく扱ってくれ。己の式神に圧し潰されたくはない。 (お前は大事な護衛だ。護衛に専念しろ) 「はい!」  その時だった。 (む……これは) 「邪霊の気配です、道満様」  九重も感じたか。 (しかも、人が戦っているな) 「いかがいたします?」 (放っておけぬ) 「御意」  私と九重は気配の方向へ飛んだ。 ◇  五級邪霊、餓鬼蜘蛛《がきぐも》。鬼の顔を持つ巨大な蜘蛛だ。  若き術師がこれを迎え撃っていた。 「うおおお!」  裂帛の叫びを上げ、術を編む若者。背後には足を傷めた少女、さらにその後ろには逃げ遅れた子供たちがいる建物。  彼に逃げる選択はなく、瞳には諦めもない。ただ目の前の怪異を討つため、術を振るっていた。 (見事だ)  私は心から感心した。  術の腕ではない。弱者を守るため命を懸けるその心魂に。  だが、如何に心意気があろうと、覆せぬ現実はある。 「ぐああ!」  若者の術が弾かれ、吹き飛ばされた。  巨大な蜘蛛の顔が迫る。 「くそ……!」  このままでは彼も、守ろうとした者たちも死ぬ。  それは惜しい。 (九重) 「はっ」 (祓え) 「御意。」  瞬間、餓鬼蜘蛛が炎に包まれる。九重の火界咒だ。  手印も神咒もなしに放たれた炎は、瞬く間に蜘蛛を焼き尽くし、焼け跡だけを残して消えた。 「はぁ、はっ……!」  若者は呆然と焼け跡を見つめる。 「控えなさい」  私が念話で語りかけようとした瞬間、九重が口を開いた。 「芦屋道満様の御前だ。平伏せなさい。」  ……初対面で少し柔らかく話せぬか。見ろ、萎縮しているぞ。 「芦屋……道満?」 「左様。この方こそ、この平正の時代に千年の時を超え転生を果たされた、高名な法師陰陽師、芦屋道満様だ!」  青年は慌てて姿勢を正す。礼儀正しいな。 「ありがとうございます、危ないところを……」 『礼には及ばぬ。邪霊に挑むその雄姿、天晴だ』 「……!? 念話……赤子が!?」  驚くのも無理はない。 『然り。記憶を保持して転生した故、赤子の身でもこれくらいはできる』  だが、赤子ゆえ不便も多い。ふむ、これは良い巡り合わせだ。提案してみるか。 『若き術師よ、名は?』 「は、はい! 芦原秋房《あしはらあきふさ》と申します。」  芦原か。私の名と似ているのも縁か。 『そうか。芦原秋房殿。我が父にならぬか?』 「……え?」 「ど、道満様!?」  秋房が何か言う前に、九重が叫んだ。  五月蠅い。赤子の耳には響きすぎる。泣かずに済んだだけマシだ。 『その少女は何者だ?』 「え、それは、その……」 『妻か?』 「い、いえ、まだ……」  ふむ、まだ、か。 『ならば好都合だ。夫婦となり、我が両親となるがよい。  いや、親となる者にこの言葉は良くないな。両親となるがよいかと存じます。嫌でなければ是非ともお願いしたく』 「え、いや、その……」 「どどどどどどどどど道満様ぁっ!?」  九重、五月蠅い。少し黙れ。 『見ての通り、この身は赤子。さらに言えば、生まれてすぐ、芦屋道満であるという理由で殺されそうになり、逃げてきた身』 「えっ……」 『故に、身を寄せる保護者が必要なのです。適当な呪術師の家に売り込む事も考えましたが、権謀術数に巻き込まれるのは必定。面倒です』  またあのような出来事はごめんだ。市井の者の方が便利で、なにより平穏に過ごせよう。 『あなたと出会えたのも何かの縁。どうでしょう、これはあなたにとっても良い取引であると存じますが、芦原秋房殿』 「良い……取引?」 『然様。私を育ててくれるならば、私も貴方を育てましょう。芦谷道満の術を伝授し、鍛えようではないですか』 「……っ!」  秋房殿は息を呑む。  さもありなん。私の教えは、千年前でも栄誉だったものだ。 『力が欲しいのでしょう?』  私は彼の魂の渇望に語りかける。 『強く、なりたいのでしょう。彼女を護れるように』  力への渇望。  千年前も、今も、呪術師ならば、男ならば、愛する者がいれば、力を求めぬはずがない。  正直、弟子たちに裏切られ命を奪われた後に、また弟子を取るというのも滑稽な話ではあるが。  だが、過ちは繰り返さぬよう戒めとすればよい。  私は二度と弟子を信用せぬ。これは互いの利による取引に過ぎぬ。 『どうしますか、芦原秋房殿?』 「俺は……」  彼に抗う術はなかった。  ――この日、私、芦屋道満は転生を果たし、新たな父母を得た。 二話  あれから五年が経った。  この平正の時代は、私の生きていた時代に比べ、人が生きやすい。  魔物や呪いに気を配れば、飢餓はなく、病も医術と呪術で瞬く間に癒える。  なんとも穏やかな世だ。  そしてこの私、芦屋道満は―― 「おーい、斗真《とうま》!」  書斎で本を読んでいると、義父・芦原秋房が私を呼ぶ。  芦屋道満では不都合が多いゆえ、新たな名を得た。  式神の九重は「道満様の名を捨てるなど不敬!」と憤ったが、大事なのは名ではなく中身だ。  芦原斗真《あしはらとうま》。それが今の私の名である。 「何でしょうか、父上」 「昼飯だ! 早く来なよ!」 「承知しました。すぐ参ります」  本を閉じ、書斎を出る。 「お前さ、五歳児ならもうちょっと子供っぽい喋り方しろよ」 「これでも懸命に学んで改めました。平安の言葉は平正の世では通じませぬゆえ。」 「いや、そうじゃなくてさ……」  千年の間に言語は大きく変わった。知らぬ言葉も多い。 「子供ってのは無邪気で、舌ったらずに喋るもんだろ?」  父上が言う。そういうものか。だが、これはどうしようもない。 「精進いたします。以後もご指導を賜りますよう」 「はぁ、無理だな、こいつ。」  解せぬ。 ◇ 「おにいさまー!」  茶の間に入ると、妹の昴がぴょんと駆け寄る。  父上と茜殿の娘、芦原|昴《すばる》。一歳年下の四歳だ。 「おにいさま、あそぼ!」 「昼食の後、父上との稽古が済めばな」 「やったー! おにいさま、ブランコ乗る?」 「ブランコ? ふむ、昴が楽しめるなら付き合おう」 「うん! すっごく楽しいよ!」  昴が手を振って喜ぶ。茜殿が微笑む。 「あら、よかったね、昴」 「昴は良い子ですな、茜殿」 「ええ、私の自慢の子よ。斗真もね」 「光栄に存じます。」  笑顔で答える茜殿に、私も微笑を返す。  義母たるこの女性は、真っ直ぐな心と深い母性を持つ。 「おにいさま! はやくごはんたべよう!」  昴が私の手を引く。 「承知した、昴」  昴に引かれ、茶の間の机に座る。茜殿も向かいに腰を下ろす。  焼き魚の香ばしい匂いが食欲をそそる。 「いただきます!」 「いただきまーす!」  父上の声に、昴が元気よく唱和する。 「おにいさま、魚すき?」 「ええ、悪くないですね」 「昴、だーいすき! おいしいよね!」 「然り。昴の笑顔もまた美味です」 「えへへ!」  昴が頬を緩める。  ……平和な光景だ。この平正の世の日常。  千年前、権謀術数と戦乱に塗れた平安の世とは雲泥の差だ。  私の願いは、確かに叶ったと言えよう。  都の貴族の権謀術数、人間の闇、盗賊の横行、災害、飢饉、血腥い戦――  そんな世界で、法師陰陽師《ほっしおんみょうじ》として民や権力者の依頼を受けてきた。  法師陰陽師とは、宮廷に仕えず在野に生きる陰陽師だ。帝に仕え、暦を読み、国家を護る陰陽師とは異なる。  私が法師陰陽師となったのは、播磨の国に生まれ、師の下で術を磨き、生き延びるためだった。  気付けば、国内有数の陰陽師となっていた。  だが、楽にはならなかった。人と人、人と魔の争いの渦中へ投げ出され、人の醜さをつぶさに見た。  生きるため、享楽のために人を呪う者たち。その依頼を受け、呪詛をこなし、糧を得る日々。  心のどこかで、平穏を求めていたのだろう。  だからこそ、私は記憶を保持したまま転生したのだと思う。 ◇  昼食の団欒が終わり、陰陽術の修行が始まる。  芦原家の日課だ。 「急々如律令!」  私の言葉と共に、炎弾が中空を裂く。 「うわっ!」  秋房 が慌てて身をかわす。 「父上、避けてはなりません。術で防ぐのです。五行の水剋火、基本です。」  水は火を制する。五行相剋の理だ。 「お前の術、早すぎんだよ! 詠唱なしでバンバン撃つな!」 「実戦では敵は待ってくれませぬ。」 「ぎゃあ!」  秋房の悲鳴が響く。だが、彼は優秀だ。この程度では死にはすまい。 「おにいさま、かっこいい!」  昴が手を叩く。 「昴、見るだけでは上達せぬぞ。ほれ、水の術を試してみなさい。」 「うー、むずかしいよー!」  昴が頬を膨らませる。愛らしいものだ。  これが芦原家の修行だ。私が父上に稽古をつけ、昴にも術を教える。  幼い頃から術を学ぶのが基本ゆえだ。  秋房は着実に実力を上げている。かつての五級邪霊・餓鬼蜘蛛など、もはや敵ではなかろう。  私にとってもこれは必要だ。秋房を鍛えることで、彼から現世の知識と術を学ぶ。  どれだけ力があろうと、人間社会では住処と後ろ盾が必要だ。少なくとも元服までは。  秋房には強く、地位と富を持ってもらわねばならぬ。  力と地位と富。それらがあってこそ、人は平穏に生きられる。  いずれこの家を去るとしても、その時まで平穏を保つには、父上が強くなければならぬ。  強くなければ死ぬ。この平正の世でも、それは変わらぬ。  魑魅魍魎、悪鬼邪霊は今なお人を襲い、呪術は広く普及したが、人もまた人を呪う。  本質は、千年前と変わらぬのだ。  だからこそ、強くあらねばならぬ。 「そういや、お前、詠唱なしでも急々如律令は言うんだな」  秋房が言う。 「然り。あれは結び言葉。術を完成させる号令ゆえ、陰唱では済みません。」 「でも長いだろ? きゅうきゅうにょりつりょう、ってさ。意味がわかって自分に言い聞かせるのが大事なら、なるはやー、でいいんじゃね?」  何を言っているのだ、この男は。 「そのような言葉は使いませぬ。天地がひっくり返ってもありえません」  私はきっぱりと断った。  そのようなこと、あり得ぬよ。 ◇ 「本日はここまでとしましょう」 「おう、ありがとな、斗真!」  秋房が大の字に寝転がる。 「あー、疲れた! もう一歩も動けねえ!」  大きく伸びをする。 「ならば瞑想ですね。このまま幽世での訓練に移りましょう」 「おい、マジかよ!」  秋房が叫ぶ。 「冗談です。ごゆっくりお休みください。ただ、雨が降りますゆえ、部屋で休まれた方がよろしいかと」  ぽつり、と水滴が落ち始める。 「うへぇ、マジか」  秋房はおっくうそうに立ち上がり、私を肩車する。 「父上、お疲れではございませんか」 「だからだよ。ちょっと父親らしいことさせてくれ。それが癒しなんだ」  父上が笑う。 「承知しました」 「おにいさま、たかーい! 昴も!」 「ふむ、昴もか。父上、昴もお願いいたします」 「おう、任せな!」  秋房が昴を肩に担ぎ、昴がきゃあきゃあ笑う。  解せぬ。  私と秋房は、あくまで取引の関係だ。  私は元服までの居場所を得る。秋房は私の知識と鍛錬を得る。それだけの利害だ。  必要以上の家族ごっこは無意味だ。無益だ。 「……」  なのに、この男は…… 「あら、仲いいわね」 「おにいさまずるい!」  茜殿と昴が笑顔で迎える。  これが平正の世の人間か。それとも、この家族が特別なのか。  いや、そんなはずはない――と、思うのに。  理解できぬ。  まあよい。元服まであと十年。この居心地の悪い家族ごっこも終わる。  ――ちくり。  なぜか、胸が小さく痛んだ。 三話  あれから五年が経った。  年号は霊和《れいわ》に変わり、概ね平和が続いている。  私の周りで変わったことと言えば、秋房が出世したことだ。  この世界では、呪術師や陰陽師、法術師は特権階級だ。私の生きていた平安時代もそうだったが、力を持ち責任を果たす者に特権が与えられる。  ただし、誰もが責任を果たすとは限らぬのだが。  秋房は私の指導を忠実に守り、めきめきと腕を上げた。この時代の陰陽師は――弱い。  秋房が弱いのではない。全体のレベルが下がっているのだ。  理由は呪術の発達だ。  かつて呪術は、選ばれた者が研鑽を積んで初めて扱えるものだった。だが、科学の発展――呪術の別側面とも言える力――により、呪術は誰でも簡易に使えるものへと変わった。  例えば、炎の術は素質ある者だけが放てたが、科学は燃料と装置で誰でも炎を生む。  呪術と科学の融合により、呪具は洗練され、多くの者が呪術を扱えるようになった。国の霊的防護も強まった。  だが、代償として、全体のレベルは平均化され、上限が下がった。  命を懸け、身を削って強くなる必要が薄れたのだ。「私がやらねば国が亡ぶ」から「私ができなくとも皆で守れる」へ。  平和だが、レベルは低い。それが霊和の時代だ。  そんな時代に、平安の私が秋房を鍛えた。  彼は素直で努力家、才能もあった。正しく導けば、私の目から見ても一人前になろう。  平和な時代とはいえ、邪霊は存在し、呪術を悪用する者も多い。誰でも呪術を使えるがゆえ、悪用も増えたのだ。  そこで、実力と実績を認められた者が邪霊や悪党を調伏する制度が生まれた。  祓魔調伏官《ふつまちょうぶくかん》。  彼らは国家に貢献し、貴族の地位を得る。秋房は29歳の若さでその地位に上り詰めた。  国家一等祓魔調伏官、芦原秋房男爵。  息子として誇らしいものである。 ◇ 「というわけで、急な仕事でピクニック行けなくなった! いぇーい!」  秋房が明るく叫び、すぐに顔をくしゃっと歪める 「遺影ぇ〜い……」  地獄のような声で泣き出した 「うわぁぁん! ひどいよ、みんな楽しみにしてたのに!」  まるで子供のようだ。  事の始まりは先日、陰陽寮の使者が訪れ、緊急任務を告げたことだ。 「よし、俺、調伏官辞める。家族サービスに余生を捧げるぜ」 「やめてください、父上。父上には我々を養う義務がございます」 「だってよぉ!」  秋房が嘆く。 「確かに俺、強くなって出世して稼ぎも増えたけど、こんなことになるとは思わなかったぜ」 「芦屋道満の指導を受ければ、こうもなりましょう。この時代の呪術の低さを想定せぬ私にも責任はございます」  鍛えすぎてしまった、ということだ。  秋房が表情を変え、静かに言う。 「なあ、斗真。伝説通りの、いや、伝説以上の大物だよ、お前は。けど、俺にはわからねえ。お前、何を求めてるんだ?」  義父ではなく、弟子として、調伏官としての言葉だ。 「十年前に申し上げた通り、元服までの仮初の居場所を」 「……わかったよ」  秋房は諦めたようにため息をつき、父親の仮面をかぶる。  これが私と秋房の契約。術の指南と引き換えに、仮初の家族を演じる。もっとも、彼の演技は 少々やりすぎでは? と思う事も多々あるが。 「あー、めんどくせえ……」 「さほど嫌なのですか、父上」 「だってよ、数年前まで一般人だった俺が、なんで藤原の姫様の護衛なんかしなきゃなんねえんだ。公爵家だぜ、オイ」 「それはまた……」  藤原家。平安の世で栄華を極めた大貴族だ。道長の歌、「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」はあまりにも傲慢で、その権力は帝すら操った。  霊和の世でも、源平藤橘の四大公爵家として頂点に君臨する。  その姫の護衛は重責だ。逃げ出したくなるのもわかる。 (……まさか、な)  不穏な想像がよぎる。  藤原の姫の護衛に、元平民の秋房を充てる。まるで殺してくれと言わんばかりだ。 「まさかとは思いますが、父上……」  秋房の目が揺らぐ。彼もこの任務の異常さに気付いている。昼行灯のようでも、無能ではない。無能なら私がとうに見限っている。 「父上、これは罠かと。藤原家が父上を試すか、排除しようとしているやもしれません」  秋房が眉をしかめる。 「やっぱそうか? なんか変だと思ったんだよ。元平民に高位貴族の護衛なんて、普通任せるか?」 「然り。おそらく父上の実力を妬む者が仕組んだのでしょう。護衛に失敗し、姫に傷でもつけば……」 「首が飛ぶな、物理的に。よし、辞めるわ」 「それが許される状況ではございますまい」  任務を拒否すれば、貴族位を剥奪され、一族は路頭に迷う。藤原家に、国家に叛意ありと取られかねぬ。 「――九重」  式神の名を呼ぶ。 「お呼びですか、斗真様!」  狐耳と狐尻尾の少女が現れる。前世からの付き合いの式神だ。 「父上に付き従え」 「……またでございますか」  九重が不服そうに耳をぴくぴくさせる。  この時代、十歳の私がこのような式神を持つのは不自然だ。知られれば要らぬ疑いを招く。  故に、九重は表向き、秋房一等調伏官の式神として振る舞う。忠義深い彼女には不満のようだが、秋房とはそれなりに上手くやっている。 「承知しました。必ずお義父様をお守りいたします」 「頼むぞ、九重」  彼女の頭を撫でると、「ふにゃあ」と相好を崩す。 「じゃあ、行ってくるぜ。ったく……」  秋房は深いため息をつき、戦闘衣装で立ち上がる。憂鬱な表情だ。 「くれぐれもご油断なく、父上」 「わかってるよ。けど、藤原の連中といると肩凝るんだよな」  愚痴をこぼしつつ、秋房は九重を従えて去った (藤原家が関わるとなれば、単なる嫌がらせでは済まぬ)  藤原家は陰陽道の知識と影響力を保持し、命令一つで命運を左右する。  私の転生を道長の書が予見していた。一般人が閲覧可能な部分には簡略に記されていたが、私の生家がそれを知り対策していた以上、藤原家に知られれば危うい。  絶対に露見してはならぬ。 ◇ 「おにいさまー! ピクニック、ほんとに行けないの?」  机に向かい、術式を記していた私の脳裏に、昴の声が響く。  先日、術式通信で送ってきた言葉だ。九歳になっても、彼女の舌足らずな声は愛らしい。 「昴、父上の任務ゆえ仕方ない。次の機会を楽しみにな」 「うー、つまんなーい! おにいさま、昴のこと忘れないでね!」 「忘れぬよ。昴の術、だいぶ上達したな」 「えへへ! おにいさまにほめられた! 早くおにいさまと術の練習したいな!」  あの笑顔を思い出し、胸が小さく温まる  さて、私はパソコンに術式を刻む。科学の利器は実に便利だ。  懸念はインターネットなるものだが、回線を絶ったパソコンなら問題ない。  呪術が簡易に広まるのも、このような道具あればこそ。平安の世とは隔世の感がある。 「さて……どう動くか」  願わくば、平穏に過ぎてほしいものだ。 四話 「芦原調伏官殿、出立のお時間です」  玄関ホールで秋房が深呼吸し、「承知いたしました」と答える。鎧の裾が擦れる音と共に歩き出し、家族が見送る。 「気をつけてね」  茜が秋房の袖をそっと握る。 「何があっても生きて帰ってきて」 「もちろんだよ、茜」  秋房が微笑む。 「昴、いい子で待ってるんだぞ」 「うん! お父様、がんばって!」  九歳の昴が拳を握り、目を輝かせる。 「おにいさまも、昴と一緒に待ってるからね!」 「昴、よい子だな。父上が無事帰るまで、共に待とう」 「うん! おにいさま、約束だよ! 昴、いい子にするから!」  昴がぴょんと跳ね、指を絡める。  私が一歩進み出る。 「父上、くれぐれも油断なきよう。九重がついております、彼女を信じてください」 「ああ、わかってるよ」  秋房は頷き、振り返らず門を出た。 ◇  秋房と九重が藤原家の屋敷に到着すると、その威容に圧倒された。  広大な庭園に花が咲き乱れ、噴水の霧が陽光にきらめく。豪奢な衣装の侍従が「こちらへ」と二人を奥へ導く。 「すげえな、ここ……」  秋房が小声で九重に呟く。 「油断なさらぬよう」  九重が警戒し、狐耳をぴくぴくさせる。  私は九重の視覚を通じ、遠隔で様子を見る。屋敷は平安の御所を思わせるが、廊下の陰や襖の隙間から監視の気配が漂う。霊的なものに加え、監視カメラの冷たい視線。  霊和の世だ。だが、この虚飾は平安の貴族を模し、千年経ても変わらぬおぞましさだ。 (こういう因縁から逃れたくて、法師陰陽師となったのだが)  因果の糸は、死んでも断ち切れぬ。  案内された「白梅の間」は、畳の香りが漂う広間だ。御簾の向こうに、藤原の姫――藤原柚姫が控える。 「ようこそおいでくださいました」  侍女が御簾を上げ、十二単をまとった少女が現れる。十歳ほどの長い黒髪、桜色の唇、大きな瞳が清涼さを湛える。 「芦原秋房一等調伏官、さぞかしご多忙かと。お越しくださり感謝いたします」  鈴のような声に気品が宿る。だが、私は九重の視界を通し、即座に看破した。 (――式神だ)  多重の偽装術を施し、肉体すら実在に見える。だが、私の見鬼《けんき》に隠し通せるはずもない。  見鬼は霊視の基本。この時代、術者は見鬼を習得するだけで満足し、深めぬゆえ、式神の判別も術具や儀式に頼る。  柚姫の本体は他にあり、遠隔操作か、自律した意志を持つ式神か。あるいは、藤原柚姫など存在しないのか。  判断は時期尚早だ。 「この芦原秋房、命に代えても姫様をお守りいたします」  秋房が恭しく頭を下げる。 「頼もしく存じます」  柚姫が微笑み、九重を見やる。 「そちらの方は……」 「俺の式神でございます。名は九重、バーニング九重三号グレート炎《ファイヤー》と申します」  九重の額に青筋が浮かぶ。  秋房はふざけてなどいない。いや、盛大にふざけてはいるが、真の名を明かさぬ鉄則を守っている。  九重の本名すら仮初だ。真の名は魂に根ざし、術の誘導灯となる。術の基本だ。 (落ち着け、バーニング九重三号グレート炎) (斗真様! からかわないでください!) (冗談だ、すまぬ)  内心で謝罪する。少しやりすぎた。 「バーニング九重どのですね」 「九重にございます」 「愛らしいお名前ですのに」  柚姫が笑う。無垢な表情だが、式神なら演技か。見事なものだ。 「ありがとうございます。以後お見知りおきを」 「ええ、よろしくね」  柚姫が扇子をぱちりと開き、花の香りが漂う。  その瞬間、屋敷の空気が一変した。九重が身構える。 (魅了の術か)  呪具と香、所作で構築された無詠唱術式。この時代にこの技量は見事だ。貴人の護衛を洗脳する理にかなった策だ。  だが、秋房には効かぬ。私が鍛えた彼に、この程度の術は通用しない。 (斗真様)  九重の念話が響く。 (様子を見ろ。秋房は気づいてすらいない) (承知いたしました) 「ところで――」  柚姫が秋房に近づき、顔を寄せる。 「調伏官どの、強力な陰陽師から教示を受けたとか?」  瞳が妖しく光る。探る眼差しだ。 (やはりそう来たか)  元平民が数年で男爵位を得る異例の才。疑問を抱かれぬはずがない。  秋房の目が泳ぎ、背中に冷や汗が滲む。 (上手くとぼけろ、秋房) 「はい、実は俺の息子に教示を受けまして」 (は!?) (待て!)  咄嗟に念話で制止するが、遅い。柚姫の目が細まる。 「息子さんに? どのような方でしょうか」 「十歳でございますが、実に優秀で。陰陽師の才が抜群でございます」  馬鹿正直に話し出す秋房に頭を抱える。なぜこうも口が軽いのか。 「興味深いお話です」  柚姫の瞳孔が開く。獲物を見つけた獣の眼差しだ。 「さようで。俺の子ながら生意気なところもございますが、実に出来た子で。古い文献を読み、新たな術を発見する、その純粋さは見事でございます」 (斗真様、コイツ駄目です) (ああ、駄目だ)  九重と念話で同意する。秋房は親バカモードに突入した。 (斗真様の素晴らしさを語るには、この程度では足りませぬ!) (……お前も駄目だ)  自室で頭を抱える。この展開、先が思いやられる。  秋房の親馬鹿トークは、柚姫と侍従たちの冷ややかな視線の中、延々と続いたのだった。 五話  秋房の親バカ談義は十分ほど続き、侍従の咳払いでようやく止まった。  柚姫は上品に微笑み、 「それは素敵ですわ。私と同い年とか。ご子息にぜひお会いしたいものです」  爆弾発言を投下する。  秋房は顔を赤らめ、 「さようでございます! きっと喜びます!」  嬉しそうに答えた。 (何を言っているのだ、この男!)  自室で頭を抱える。藤原家が「芦屋道満の転生」を追っているのは明白だ。そこへ「賢い十歳児」の情報を投下するとは。我が義父、思った以上に迂闊だ。  こいつは陰謀劇に向かぬ。素直すぎる性質は強い面もあるが、今は失策だ。  まあよい。失策は取り返せばいい。  これから鍛え直す。平安式の地獄特訓で、骨の髄まで叩き込もうではないか。 「なんか背筋がぞわっとした……」  秋房が呟く。危機察知は悪くないな。 ◇  その夜、九重を介して秋房に念話を送る。柚姫が式神の可能性、藤原家が芦屋道満の転生者を狙っている可能性を伝えると、秋房は息を飲んだ。 (マジか……やっぱ罠だったのかよ) (然り。父上、迂闊すぎました) (……悪かったよ)  珍しく秋房が沈んだ声。普段の軽口とは裏腹に、真摯だ。 (だが、この状況を逆手に取れます) (どういうことだ?) (父上に任務を授けます) ◇  翌日から始まった柚姫の護衛任務は過酷だった。都内巡回の車列は高級車が連なり、武装した護衛官や陰陽師に囲まれる。監視の目が秋房を刺す。 「まるで檻の中の猿だな……」  秋房がぼやく。九重は無言で狐耳をぴくぴくさせ、警戒する。  私は自宅や学校から九重の視覚を通じ、状況を見守る。藤原家は私が芦屋道満だと確信しているのか、疑念の段階か。  私はまだボロを出していない。ゆえに疑惑だろう。秋房から探りを入れるつもりか。  ならば、秋房に嘘の情報を語らせ、藤原家の目を逸らす。  先日、念入りに言い聞かせた。念話で指示すれば、なんとかなる……はずだ。  信じるぞ、父上。 ◇  護衛の休憩中、柚姫が話しかける。 「芦原調伏官どの、ご子息はお元気?」  私が九重を通じて合図を送る。 (今だ、父上) 「はい、元気でございます。今朝も術式通信で、『父上、いつ帰る?』と待ちわびておりました」 「まあ、愛らしいですわね」 「さようで。実はうちの子、ちょっち特別でして」  柚姫の目が鋭く光る。 「特別?」 「古い時代の霊に好かれやすい体質でして。俺に教えた修行も、霊から聞いたらしいんです。憑依体質というやつで」 「ほう……どのような修行を?」  食いついた。情報は武器だ、簡単には渡さぬ。  秋房が躊躇う演技で口を開く。 「基礎修行のみでございます。素振りや瞑想の反復。俺みたいな凡人にはそれで十分でした」 「基礎ですの?」 「はい。息子曰く、『どんな高等術も土台がなければ脆い』と」  私はほくそ笑む。秋房、よくやった。基礎修行の言い訳は誰もが納得する。  次が本命の嘘だ。 「それから……」  秋房が視線を落とす。 「古の式神が封印された場所を、霊から教わったらしいんです。九重はその地で拾いました」 「式神の封印地?」  柚姫の目が細まる。当然だ。そんな場所は歴史の教科書にも載らぬ。 「正確な場所は……息子しか知らねえんですよ」  秋房が頭を掻く。 「では、どのように式神を?」 「俺が契約いたしましたが、連れてきたのは息子で。九重が証拠でございます」  柚姫が九重をじっと見つめる。九重は淡々と目礼する。 「ご子息は式神との交渉にも長けていると?」 「さようで。すげえ子でしょう、俺の息子」  秋房が胸を張る。 (大言壮語は控えろよ、父上) ◇  その夜、自室で報告書をまとめながら思案する。 「基礎修行」と「式神の封印地」の嘘は効果的だった。柚姫の反応から、芦屋道満への疑念が「封印地」へ逸れたのは確かだ。そしてそれは九重の存在が大きい。  九重の実力は、秋房が試験で見せつけた――いや、見せつけすぎた。  藤原家の陰陽師が雑魚すぎるのが悪い。あれでは童のようだ。  秋房の「え、俺、なんかやっちゃいました?」が彼らを激怒させたからな。「運で強大な式神を手に入れた凡才」と蔑むその嫉妬、利用させてもらおう。  九重レベルの式神が手に入る――その餌は藤原家を惹きつける。私の転生疑惑を薄めるには十分だ。  ただ、嘘を真実に見せる必要がある。 (斗真様、もしやあれらを解放するのですか)  九重の念話だ。 (まさか。それでは嘘が事実になるだけだ)  芦屋道満の式神は実在するが、渡せば私が道満とバレる。強力すぎて、連中では制御できまい。 (道満と無関係な式神を捏造する。奴の力を借りるのもいいだろう)  奴――安倍晴明。この霊和の世でも英雄だ。その名を借り、術式を模倣すれば、晴明ゆかりの式神と偽装できる。藤原家の名声も上がる嘘だ。 (斗真様、秋房殿です)  九重から念話が切り替わる。 (おい、斗真。藤原家が明日、『封印地』に案内しろってよ) (来たか)  予想通り、餌に食いついた。 「場所は息子しか知らぬ」と言ったのが効いた。私が呼ばれるのは必然だ。  だが、その必然こそ罠だ。 (準備をしよう、父上)  パソコンに向き直る。画面には術式の設計図が広がる。 (藤原家には悪いが、家族の平穏のため、芝居を打つ) (大丈夫か? いきなり明日だぞ) (問題ございません。一晩あれば式神を数体用意できます)  簡易な思行式なら数秒だが、藤原家が求めるのはそれではない。道満の気配がバレる思行式も論外だ。  ならば、妖怪邪霊を狩り、材料に式神を作ればよい。 「残しておけば楽だったんだがな」  転生して十年、邪霊を祓う機会は多かった。いくつかは秋房の訓練に使い、捕獲したが、今は手元にない。 (父上、九重。私はこれより材料調達に参ります) (斗真様、私も――) (お前は父上についていろ、九重。私だけで事足りる) (……仰せのままに)  九重が渋々了承する。過保護な奴だ。 「さて……久々の狩りだ」  立ち上がり、術を発動する。 「急々如律令」  私は跳んだ。 六話 「急々如律令」  詠唱が完了し、視界が歪む。水面の像が波紋に乱れるようだ。  刹那、足元の感覚が消え、無重力の浮遊感が全身を包む。都心の人工灯が遠ざかり、耳に響くのは荒野を渡る風の音だけ。 (跳躍、成功)  空間転移の術。霊和では不可能とされるが、平安の術師なら朝飯前だ。  目標は遠方の霊気の淀み。都市に紛れる邪霊の気配だ。  転移先は廃ビル街の一角。錆びた鉄骨が天を突き、割れたガラスが月光を鈍く反射する。人界と異界の境が曖昧な領域だ。 「来たか……」  黒い霧の塊がビルの影から立ち上がる。腐臭を放つ歪な人影が怨嗟の声を上げる。低級な邪霊だが、数は多い。  指先で印を切る。五芒星に追跡・封印を付加した光の網が邪霊を覆い、断末魔が響く。 「ふむ、質が低すぎるな」  百体狩っても素材としては物足りない。大気中の霊気が集まっただけの雑魚だ。  探査網を広げ、郊外の森に異質な霊気を探る。 「あれか」  深い森に隠された妖魔の気配。巧妙な隠蔽だが、道満の目には丸見えだ。 「急々如律令」  視界が揺れ、緑の樹海を抜け、崩れた社の前に立つ。千切れた注連縄、歪む虚空から不気味な笑いが轟く。 『人間……か。餓鬼か……腹の足しにはなるか』  漆黒の毛皮に覆われた四腕の狒々が実体化する。朱い眼光が爛々と輝く。  狒々。封印されていた妖魔だ。 『グォアアアアッ!』  巨腕が振り下ろされる。人間の反応を超える速度――だが。 「遅い」  回避と同時に掌に霊気を集め、紫の電光を放つ。 「五行木気雷衝」  電撃が狒々の胸を貫き、絶叫と共に倒れる。 「やりすぎたか……いや、まだだ」  微かな妖気が残る。膝をつき、額に触れる。 「封神符結界」  光が額に吸い込まれ、霊気が球形に凝縮。肉体は塵と消えた。 「一つ目」  森に意識を広げる。社跡一帯に封印の痕跡が散見される。強力な妖魔はおらぬが、ちょうどいい。 「……収穫は上々、だな。有効活用させてもらう」  封印符を取り出す。蟲毒の壺の代わりだ。ここに妖魔の霊気を集める。 「来やれ、急々如律令」  符が浮かび、青白い光を放つ。地中から怨嗟の声が沸き、霊気が渦を巻く。 「「ふむ……思った以上に溜まっているな」  符の光が次第に強くなる。集められた霊気は純度を増し、輝きを増していく。これだけの量があれば十分だ。 「毒父《どくふ》竜盤推《りゅうばんすい》、毒母《どくぼ》竜盤脂《りゅうばんし》、毒孫《どくそん》無度《むど》、毒子《どくし》竜盤牙《りゅうばんが》。若《も》し是《これ》蛆《うじ》、蛛《くも》、?螂《ふんころがし》、環《めぐ》り汝《なんじ》本郷《ほんごう》。?蟆《がま》、蛇蜴《とかげ》、環《めぐ》り汝《なんじ》槽栃《そうとち》。今日《こんにち》甲乙《こうおつ》、蠱毒《こどく》須《すべか》らく出《い》づべし。今日《こんにち》甲寅《こういん》、蠱毒《こどく》神《しん》ならず。今日《こんにち》丙丁《へいてい》、蠱《こ》|不行《おこなわず》。今日《こんにち》丙午《へいご》、環《めぐ》り著《つ》け本主《ほんぬし》。然《しか》れども不死《ふし》腰脊《ようせき》?拒《ろうこ》。 ――急々如律令」  蟲毒の術を唱える。   蟲毒。それは様々な生き物を狭い器の中で共食いさせる呪術の一種だ。蟲毒は古来より呪術師の間で重宝されてきた。それと同じことをここで行う。  集めた邪霊妖魔の霊気を蟲毒の術で統合させ、新たな存在を作り出す。それはもはや個別の存在ではなく、統合された霊気の集合体だ。  符は大きく膨れ上がり、内部の霊気が渦巻いているのが見て取れる。そして光が弾けた。符が空中で砕け散り、霊気が解放される。 符が膨れ上がり、内部で霊気が渦巻く。光が弾け、符が砕け散る。  現れたのは鋼の体毛、六本の巨腕、鋭い爪と牙を持つ獣。狒々より巨大で凶暴だ。 「急場しのぎにしては上出来か」  九重には及ばぬが、藤原家には十分すぎる。  精魂込めて作り上げた式を藤原家に持っていかれるというのも、つまらぬしな。 「汝に真名《まな》を与えよう」  これは式神であるという大前提を忘れてはならない。契約した式には名を与えるものだ。  名は存在を縛る鎖だ。 「汝は今より『黒骸』と名乗るが良い」 「黒骸」が唸り声を上げる。今、私と黒骸は契約で結ばれた。  最も、その契約は早々に破棄せねばならぬのだがな。これは藤原家への餌だ。故に私と繋がっていてはならない。  符を取り出す。これは先程作った封印の符だ。 「黒骸封印。急々如律令」  符に黒骸を封じる。 「契約破棄《けいやくはき》。子午流注《しごるちゅう》。天地《てんち》陰陽《いんよう》五行《ごぎょう》輪転《りんてん》、円環《えんかん》理《ことわり》変転《へんてん》。元始天尊《げんしてんそん》、玉皇大帝《ぎょくこうたいてい》、北斗《ほくと》に七星《しちせい》、南斗《なんと》に六星《ろくせい》。時《とき》巡《めぐ》りて朽《く》ちよ、急々如律令」  霊気の流れを断ち、封印した符ごと、千年の時を加速させる。結果、符は朽ち果てかけた姿になり、古代の遺物としての威厳を獲得した。  これで良い。この朽ちた符を藤原家に渡せば、彼らはこれを「古の封印符」と信じるだろう。そして黒骸が解き放たれれば、「古代の邪悪な妖魔を封じた悪行罰示式神」として扱われるはずだ。 「さて、どこに封じるか」  黒骸封印符を手に考える。藤原家に渡す前に、偽装の「古の封印地」を用意せねば。  自宅近くの裏山の神社が最適だ。人が訪れぬ寂れた場所、古の舞台に申し分ない。 「急々如律令」  転移し、鬱蒼とした木々に囲まれた神社に立つ。苔むした鳥居が佇み、霊気が澄む。  符を大地に埋め、結界を張る。「古の封印地」の気配を纏わせる。 「これでよし」  一息つき、ほくそ笑む。準備は整った。 「お兄様、夜なのにどこ行くのですか?」  脳裏に昴の声が響く。昴の念話だ。彼女も着々と成長しているな。訓練を真面目に行う姿勢は父親譲りか。 「昴、ちょっとした用事だ。よい子で寝ていなさい」 「はい、お兄様。でも、私はもう子供じゃりません」 「昴。我々は七五三を過ぎたとはいえ、元服前の子供だ。子供は良く学びよく食べよく寝るのが仕事だ。わかったらちゃんと寝なさい」 「はい、お兄様。ではまた明日」 「ああ、明日」  そう言って昴は念話を切る。  素直に育ったものだ。あの笑顔を思い出し、胸が温まる。家族の平穏のため、藤原家の目を逸らさねば。  決戦は明日。柚姫との対面は面倒だが、仕方あるまい。 七話  翌朝、藤原家の使者が邸宅を訪れた。  秋房の護衛任務に私が同行し、「古の封印地」へ案内する手はずだ。柚姫の安全確保を名目に、陰陽師たちが車列に付き従う。だが、その視線は監視そのものだ。 「芦原斗真殿、ご案内をよろしくお願いいたします」  使者が恭しく頭を下げる。私は静かに頷き、秋房の待つ車列へ向かう。  玄関で昴が見送る。九歳の瞳が落ち着きを湛え、微笑みが柔らかい。 「おにいさま、父上、どうかご無事で。昴、お留守を守っております」 「昴、よい子だ。父上が帰ったら、一緒に術の稽古をしよう」 「はい、おにいさま! その約束、楽しみにしております!」  昴が一礼し、軽く手を振る。その大人びた仕草に、微かな子供らしさが滲む。胸が締め付けられるが、今は集中せねば。 「よう、斗真。元気だったか。久々に会えてうれしいぜ。  あー、仕事じゃなかったらお母さんや昴にも会えたのになー、ちくしょう」 「会いたがっていましたよ。休日がもらえたら是非ともあってあげてください。団欒しましょう」 「だな」  秋房は笑う。  そのためにも気合いをいれねばな。 ◇  神社に到着すると、柚姫が車から降り立つ。十二単を簡略化した装束が風に揺れ、周囲の陰陽師たちが警戒を強める。秋房が私の肩を軽く叩く。 「お前、気負うなよ」 「父上こそ、油断なさいませぬよう。九重、父上を頼む」  九重が傍らで狐耳をぴくっと動かし、頷く。  さて……。  秋房が俺を連れ、柚姫の所へと歩く。  私は秋房にならい、膝をついた。 「お初にお目にかかります、一等調伏官芦原秋房の長男、芦原斗真でございます。藤原の姫君に置かれましては、ご機嫌うるわしゅう」  俺は礼をする。 「貴方が秋房殿の御子息、斗真様ですね。なんとも大人びた、礼儀正しい立派な方ですこと」  柚姫が扇を開いて笑う。  名の通りの柚の香が周囲に漂い、私の鼻腔をくすぐる。……魅了の術か。 「私など、多少霊と話が出来るのが取り柄の子供でございます。父上の助けにはなれど、力にはなれぬ若輩者」 「まあ、御謙遜を。秋房殿がここまで強くなれたのは息子のおかげだと、いつも」 「父は……親馬鹿ですから」  俺は苦笑する。これは事実である。 「ですが、九重殿を秋房殿のもとに引き合わせたのは、斗真様のご手腕とか。  その手腕、ぜひとも見とうございます」  柚姫が微笑む。ああ、それが本命だろうからな。 「御随意に」  俺は頷いた。 「封印地は境内の奥にございます。ご一同、参りましょう」  私が先導し、苔むした石段を上る。昨日埋めた符の霊気がかすかに漂う。柚姫の視線が私の背を刺す。 「して、斗真様。この場所をいかにして知ったのです?」 「古の霊から教わりました。詳細は……秘してございます。その霊との約束ですので」  柚姫の目が細まる。秋房が割って入る。 「姫様、さあ、早く参りましょう。俺の式神も待っておりますゆえ」  私たちは社殿跡に到着する。符を埋めた場所を指す。 「ここにございます。掘り返してください」 「わかりました」  陰陽師が土を掘っていく。するとすぐに朽ちた符を発見する。霊気が漏れ出し、ざわめきが広がった。 「本物の古封印符……!」  彼らはそれが本物の古い呪符だと信じている。昨日作り立ての千年物だがな。 「ここに、強大な式神が封印……」 「この符の文様……賀茂……いや、安倍……土御門か?」 「紙の質からして数百……いや千年はたっているな。よくぞこんな形を保って……」  陰陽師たちがざわめいている。よし、看破はされていないな。 「では式神契約の儀式を」  柚姫が促す。私は符を拾い上げる。 「契約者の指定はありません。どなたでも可能と思われます」  そして柚姫は一人の陰陽師の名を呼ぶ。その陰陽師の名は――。 「藤原家が分家、藤峰白水《ふじみねしろうず》に命じます。この式神と契約を結びなさい」 「はっ!」  陰陽師が一歩前に出る。白水という男はまだ若い。秋房よりも若いだろう、二十代になったばかりという感じか。その身に纏う霊力は決して弱くはない。が、まだ若い。経験不足は否めぬであろう。その実力もまた然りだ。 「式神解放の儀式にございます。我ら陰陽師も協力いたしましょう」  陰陽師たちが白水の周囲に陣を組む。複数人で強化した結界の中へ符を置く。準備は整った。  儀式が始まる。白水を主体とした陰陽師たちが陣を張り、呪文を唱える。 「「天皇皇霊、地皇霊神、陰陽調和、五行帰一。吾が魂魄、汝が真名を縛す。  霊気結び、契約成る。従え、仕えよ、永劫の鎖に。太乙玄門、開きて応ぜよ――  急々如律令!」」  符が光り、そして――黒骸が解き放たれる。 「おお……!」  陰陽師たちの感嘆が漏れる。  これでよい。ここまでは順調だ。  あとは白水が黒骸と契約を果たせばよい。 「我に従え、汝の真名は――黒骸なり!」  白水が叫ぶ。符に刻まれた名はこの式神の真名だ。それを唱えたものは、式神の魂を掌握できる。  後は単純な綱引きだ。雑霊を集めて作った急ごしらえの式神だ、藤原家が抱える一人前の陰陽師であるなら、容易に支配できよう。  そしてそれをもって、私に対する、芦屋道満の転生では無いかと言う疑念は晴れるというわけだ。他にも式神を知らないかと迫られるやもしれぬが、それはその時に対処しよう。  これでようやく――  その時だった。 「グォオオオオオオ!」  鋼の体毛、六本の巨腕、鋭い牙が唸る。突如、黒骸の霊気が膨れ上がり、制御を振り切る。 「うわああっ!」  巨腕が白水を薙ぎ払い、社殿が崩れる。  ――まさか、失敗したのか? あの程度の式神を支配できなかったというのか!? 「くっ、調伏しろ!」  陰陽師たちが騒ぐ。 「我秦広王に願い奉る、五行烈?、赫々たる光邪を焼き払え!  炎気応ぜよ、急々如律令!」  陰陽師たちが祭文を諳んじ、炎の玉を打ち放つ。  しかしその炎は黒骸の体毛に弾かれ、傷をつけられない。 「ガァアアアアアア!」  黒骸はその巨腕を振るい、陰陽師たちを吹き飛ばす。 「おいおいおいおいおいどうなってんだよこりゃあ!?」  秋房が騒ぐ。ああ、私が聞きたい。  まさか――藤原の陰陽師たちがここまで弱いというのか!?  黒骸の咆哮が社殿を震わせ、崩れた瓦礫が土煙を巻き上げる。藤原家の陰陽師たちが慌てて陣を組み直すが、足元が乱れる。 「我秦広王に願い奉る、五行烈?、赫々たる光邪を焼き払え! 炎気応ぜよ、急々如律令!」  炎が巻き上がるが、黒骸の鋼の体毛に弾かれ、かすり傷すら与えられぬ。 (雑魚すぎる……)  私は内心で溜息をつく。藤原家の陰陽師、九重の狐火にも及ばぬではないか。 「我秦広王に願い奉る、五行烈?、赫々たる光邪を焼き払え! 炎気応ぜよ、急々如律令!」  別の陰陽師が叫ぶが、炎はまたも無力。黒骸が巨腕を振り、木々が折れる。 「おい、どうなってんだよ!? こいつ、ただの式神じゃねえぞ!」  秋房が叫ぶ。秋房までそう言うとは――もしや千年ぶりで作り方を見誤ったか?  九重が狐耳を立て、身構える。 「斗真様、危険です! 退避を!」 「私は大丈夫だ。九重、父上を守れ!」  その瞬間、地中から新たな気配が蠢く。黒骸の霊気に呼応したか、蛇のような胴体に無数の眼が輝く妖魔が這い出す。なんだこれは。こんなものは――私は用意していない。 (黒骸が呼び覚ましたのか。計算外だ)  蛇眼の妖魔が陰陽師たちを睨み、尾が鞭のようにしなる。結界が一瞬で砕け、悲鳴が上がる。  そんな時、柚姫が扇を振るい、侍女に命じた。 「撤退の準備を。この式神、そして新たに現れた邪霊は強力に過ぎます。一度建て直さなくては」 「姫様、しかし――!」 「黙しなさい。藤原の名に泥を塗るつもりですか?」  柚姫の声は冷たい。ああ、彼女は賢明だ。この状況では、頼れるのは一等調伏官である秋房と、その強大な式神だ。  そして、芦屋道満かもしれぬ子供――その動きを注視している。  だが、今はそれを利用させてもらおう。  黒骸と、新しく現れた蛇の妖魔を調伏することは――容易い。  だがそれは決して、やってはいけない事だ。  それをしてしまったが最後、私への疑念は確信へと変わるだろう。  故に―― (九重、お前は蛇を調伏せよ。私は黒黒骸を使う)  私は黒骸に倒される。そしてその後で、蛇を調伏した九重が黒骸を調伏して私を助けるという算段だ。  黒骸は私の命令をも受け付けない暴走状態のようだが構わない。その方がより真実味が増すというものだ。  もとより、あの程度の式神に倒される私では無い。 「グォオオオオオッ!」  黒骸が叫び、私に迫る。  黒骸の巨腕が振り下ろされ、襲い来る。  これでよい。  そう、これでよかったたのに。 「斗真あああぁっ!」  秋房が飛び出し、私を庇う。巨腕が秋房を直撃し、その爪が深々と刺さり、 「――」  私の顔に、赤く熱い鮮血が――飛び散った。 八話 「――――え?」  阿呆な声が私の口から洩れる。  秋房の体が崩れ落ち、血が苔むした石に広がる。九重が叫び、蛇に狐火を放つ音が遠くに聞こえる。 「な……ぜ」  私の口からはそんな言葉しか出ない。  何が起きた。  一体何を、間違えた。 「よかっ……た、無事、か」 「ぶ……無事も、何も。私はあの程度の式に、倒される事など」  あり得ないのだ。  ああ、秋房なら……そのくらいわかっていただろうに。  だが、秋房は笑う。 「ああ、そりゃ……そうだよな。ああ、そりゃそうだ。だけどなんでかなあ……頭ではわかってたのに……気が付いたら、身体が……動いてた、わ」  秋房は力なく笑う。ああ、わかる。完全な致命傷だ。  私の顔に秋房の鮮血が滴る。  なぜこうなった。計算では、九重が蛇眼の妖魔を調伏し、直後に私を倒した黒骸を抑えるはずだった。だが、黒骸の暴走は想定を超え、蛇眼の妖魔は私の知らぬ存在。芦屋道満の知識をもってしても、見誤ったか。 「我秦広王に願い奉る、五行烈?、赫々たる光邪を焼き払え! 炎気応ぜよ、急々如律令!」  残った陰陽師が炎を放つが、黒骸に弾かれ、蛇眼の妖魔の無数の眼が嘲笑う。 「姫様、退避を急ぎます!」  柚姫の侍女が叫ぶ。柚姫は扇を閉じ、冷ややかに呟く。 「芦原調伏官、無念ですわね。斗真様……その真価、しかと見届けました」  あれは道満などではない、ただの子供だと。柚姫の冷ややかな瞳はそう言っていた。  ああ、成功だ。見ろ、私は藤原の姫の式神を欺いてやったぞ。  なのに喜びなど欠片も湧いてこない。何だこれは、何がおきているのだ。  柚姫は車列へ退き、木々の間に姿を消す。私はそれを視界にすら入れずに呆然と見送った。 「なぜ……なぜ……」  私の口から出るのはそんな言葉だけだった。思考が追い付かない。ぐちゃぐちゃだ。 「なんでだろう……な。やっぱ、親父って……そういうもんだから、じゃねぇかな」 「だって、私は……父上の……秋房の、子では……!」  そう。  ただの契約だ。偽の親子関係だ。仮初の家族だ。転生した私が、平穏に生きるために都合がよかっただけの。  ただの、道具だったはずだ、お互いに! 「……知るかよ、そんなこと」  だが、秋房は言った。 「血が繋がって……なかろうが。義理だかゴリだか知らねえけど、十年一緒に過ごしてきたんだ……ぜ。だったらもう、親子だろうが……」  血を吐きながら、秋房は笑う。 「楽しかったんだよ、楽しかったぜ……お前に助けられて、茜と結婚して、昴が生まれて、お前と過ごし……て、お前に教えて、お前にシゴかれて……  ああ、楽しかったんだ。  だから……」  ごぼり、と。秋房は血の塊を吐き出した。 「後は……頼むわ、母さんと、昴を……な……  芦原斗真……俺の、むす……こ…………」  そう言って。  芦原秋房は……動かなくなった。 「ち……ち、うえ……」  ああ……私は馬鹿だ。生まれ変わっても何も成長していない。一番の阿呆は、私だった。  人の心が解らぬから、人の心を掴めぬから、弟子たちの裏切りを許した。  生まれ変わり、弟子を信じぬと決めた。もはや己しか信用できぬ。今度こそ上手くやり、平穏な人生を生きようと。  その結果がこれだ。私は――父を失った。  私を愛してくれた、父親を。 (――やめろ)  私の心の奥底が、警鐘を鳴らす。  それを行ってはならぬ。ああ、確かに私にはそれが出来る。その力がある。才もあろう。  だけど、なぜ前世の、生前の私がそれを行わなかったか。 「――我、冥道の諸神に願い奉る」  代償があるからだ。それほどまでの大呪術である。  特に、己の寿命を延ばすといったものならともかく、それは。  それだけは。 「一に秦広王、二に初江王、三に宋帝王、四に五官王、五に閻魔王」  それだけはやってはならぬのだ。代償が必要だ。  理解しているのか、芦屋道満。  それは。  全ての霊力を失いかねぬのだ――! 「六に変成王、七に泰山王、八に平等王、九に都市王、十に五道転輪王」  それだけではない!  このような術を使えることが藤原ばれてしまえば、それは……全ての平穏を失ってしまう! 「斗真様!」  九重が叫ぶ。黒骸がその拳を、爪を振り上げる。  ああ、五月蠅い。黙れ、邪魔だ。  ――私の脳裏に、あの日の記憶が不意に去来する。 『そういや、お前、詠唱なしでも急々如律令は言うんだな』 『然り。あれは結び言葉。術を完成させる号令ゆえ、陰唱では済みません。』 『でも長いだろ? きゅうきゅうにょりつりょう、ってさ。意味がわかって自分に言い聞かせるのが大事なら、なるはやー、でいいんじゃね?』 『そのような言葉は使いませぬ。天地がひっくり返ってもありえません』  ああ、そうだ。  私は、俺は黒骸にただ腕を突きつける。その手に霊力を込めて。 「――急々如律令《ナルハヤ》」  瞬間。  黒骸の頭が吹き飛んだ。  ――どうでもよい。  もはや何がどうなろうと構わない。  俺が求めるのは、ただひとつ。 「閻羅王授記四衆逆修生七往生浄土巡り廻りて山登り、泰山府君に申し上げ奉る」  父を。再び、現世に蘇らせる。  あの暖かい家族。千年前には無かった、陽だまりのような日常。  それ以外に、もはや何もいらない――!! 「斗真様ぁーっ!」  蛇を調伏した九重の叫びが聞こえる。  霊気が急速に流れ出し、身体が震える。森が鳴く。大地がおののく。秋房の体が光に包まれ、倒れた陰陽師たちが息を飲む。  ここに――泰山府君祭は、成った。 ◇  数日後。  藤原家の、私への疑惑は晴れたようだ。私は憑依体質の子供と見なされ、父上は英雄として讃えられる。黒骸と蛇眼の妖魔は九重と陰陽師により調伏された。  何とも都合のよい事に、ちょうど柚姫が撤退し、藤原の陰陽師たちも半数が倒れていた。よって、九重の術で彼らの記憶を操作し、事なきを得る事が出来た。  だが、藤原柚姫は果たしてこれで何もなしに我々から手を引くのだろうか。そうは思えぬ。  芦屋道満の疑念が完全に晴れたとの保証はない。父上は相変わらず、一等調伏官であるし、ただ手放すとも思えなかった。  そして――やはり私は、霊力の大半を喪った。  その事に悔いはない。己の失態のつけを自分で支払っただけだ。  自室で昴が寄り添う。 「おにいさま、かなりの無理をなさいましたよね。私は怒っています。昴、もっとお力になりたかったです」  寄り添うというか、むくれているといすうか。 「昴、すまなかった。ああ、俺は反省してるよ」  本当に反省するばかりだ。もっと視野を広く、そして己を見つめ直さないといけない。 「……おにいさま、変わりました?」 「何がだ?」 「わたし、からおれ、になってますよ」  ……言われてみればそうだ。特に意識はしていなかったが。  だがまあ別に良い。問題は特に感じないしな。 「おーい、入るぞ」  父上が部屋に入ってくる。 「父上、あまり無茶しないでください。父上も死にかけていたんですよ」  実際には絶命していたが。 「お前が言うなよ。怪我はもう治ってるし、後遺症はお前の方がひどいんだぞ。無茶しやがって……」  父上は大げさにため息をつく。だけど父上に言われたくは無いよ。 「お互い様です」 「というか、どっちも言語道断です! 今回の事、九重は深く激怒しておりますゆえ」  九重がぷりぶりと頬を膨らませている。  そして俺と父上は――親子は互いの顔を見て笑いあった。  失ったものは確かに大きい。だが、守れたものはもっと大きい。  父の存在。母と妹の笑顔。そして式神。  俺の居場所が――ここにはある。  これから霊力を喪った俺は、新たな試練に直面するだろう。  千年前の知識だけでどう対処していくのか。霊力は戻るのか。その方法は。  そして藤原はどう動くのか。  芦屋道満を殺そうとしていた、俺の生みの親の家も気にかかる。  見通しはつかない。だが、不安は無い。 「おにいさま、昴も戦えます。おにいさまの力になります、もっと本格的な術を教えてください。お父様よりも役立って見せます」 「おいおいおい、昴お前まで俺をそんなふうに! 反抗期かよ!?」 「違いますおとうさま。昴はただ……」 「昴、お父さんたちを困らせちゃだめよ」  母上が入って来る。いつもの柔和な笑顔だ。癒される。 「昴、焦るな。まずは基礎を固めなさい」 「承知いたしました。ですが、おにいさまの側で学びたいのです」  俺は苦笑しながら頷く。霊力は失ったが、知識と家族が残っている。父上の笑顔、昴の決意、母上の優しさ。九重の忠義。  ――ならば、この芦屋道満、いや……芦原斗真。  恐れるものなど、あるものか。  俺は戦う。千年の後に手に入れた、この平穏を守るために。 九話  それから四年がたった。  十四歳である。来年には元服だ。来年と言うか、あと数か月である。  当初の想定では、元服を果たしたら仮初の家から立ち去ろう――などと阿呆なことょおこがましくも考えていたが、今はそんな気は毛頭ない。  というか、家を出てしまえば、この小僧の身では生きていけぬだろう。  五年前のあの日――泰山府君祭によって霊力を喪失した代償は想像以上に大きかった。  千年前の芦屋道満ならば当然のように操っていた式神召喚も、簡単な防御壁の形成さえ今の俺には困難である。もはや『最強最悪の陰陽師』と謳われた姿は見る影も無い。  だが――。 「斗真ァー! 飯だぞー!」 「はいはい、父さん」  階段の下から父さんの声が響く。 「お前ももう十五歳なんだから、もっとしっかり食べないと! 霊力減ってるんだから体力は重要だぞ?」  俺は肩をすくめてキッチンへ向かう。十五歳になった今でも、父さんは変わらない。軽口を叩きながらも俺を心底心配してくれているのが伝わる。それがこそばゆくて、なんだか嬉しい。  母さんは微笑んでテーブルに料理を並べる。いつもの和風メニューだ。父さんが大好物の鮭の塩焼き。昴が好きだと言う卵焼き。それと―― 「今日の味噌汁は斗真が好きなのね。大根と豆腐」 「母さんの味噌汁が一番だよ」  俺がそう言うと、母さんは照れくさそうに微笑んだ。 「そういえば昴は?」 「ああ、塾だよ。あの子、最近真面目でさ」  父さんは箸を手に取る。 「昴も十五歳になったら進路考えないとなあ。斗真はどうする? 霊力は戻ってきてるのか?」 「微々たるものだよ」  正直に答えると、父さんは眉をひそめた。  千年前の知識でどうにか補っているが、やはり足りない部分も多い。日々の鍛錬はもちろん続けているものの――あの日以来、大きな術は使っていない。 「父さん、心配しないでください。今の生活が気に入ってるんだから」  家族と過ごす時間が何よりも大切だ。それを守れるなら、霊力なんて惜しくはない。 「昴ももうすぐ帰ってくるだろうし、みんな揃って食べようか」 「ただいま帰りました」  玄関から落ち着いた声が響く。昴の声だ。扉の向こうで靴を脱ぐ音がする。 「おかえり、昴」  リビングに入ってきた昴は制服姿のまま。高校受験が近いからだろうか、普段より少し疲れた表情をしている。 「お兄様。今日は少しだけ遅くなりました、すみません。せっかくのお兄様との二人きりの団欒の時間を……」 「おーい娘よ、パパもいるぞー」  父さんが悲しそうに突っ込む。俺は昴に言う。 「気を使うなよ、昴。今日も頑張ったんだろ?」  昴は小さく頷いた。制服のスカートを軽く払いながら席に座る。 「昴ちゃん、まずはご飯食べてきなさい」  母さんが優しく促す。昴は丁寧に両手を合わせた。 「ありがとうございます。いただきます」  食事が進む中、父さんが唐突に話し始めた。 「なあ斗真。あと半年で卒業だよな」 「……うん?」  予想外の話題に顔を上げる。 「実は考えてることがあってな」  父さんは箸を持ったまま、真剣な目で俺を見つめる。 「陰陽師育成の学校の事だ。知ってるだろ? 陰陽寮付属如月学院高校」 「……国が運営してる学校のことですか?  四体公爵――藤原が関わってるって噂の」  その名前を聞いた途端、俺の胃がキュッと締まった。 「……まさか俺に通えって言うんじゃないだろうな?」  冗談じゃない。俺は平穏な暮らしを望んでいるのだ。ましてや力を失ったこの身でそんな所に行くなどと……。 「冗談で言ってるわけじゃない」  父さんの声はいつになく重い。 「斗真、お前の霊力は確かに衰えた。でもその知識は誰にも負けない。それを活かすべきじゃないか?」 「活かすも何も……」  昴が箸を止めて俺を見る。 「お兄様。私も進学について考えていました。もし学院に行くなら……私も一緒に」 「昴まで!」  思わず声を荒げてしまう。 「そもそもお前はまだ中二だろう」  だが昴は静かに続ける。 「あら。何のために私が頑張って好成績を収めたと思っているんですかお兄様。飛び級の資格はちゃんと取りました、その気になれば大学にだってもういけるんですよ、私は」  ……そうだったのか。確かに昴は頑張っている。前世の知識と記憶に引っ張られている俺と違いゼロからスムーズに学び智識を吸収しタコの妹は、確かに優秀だが……そこまでとはな。 「お兄様が一人で悩む姿は……もう見たくありません」  母さんが柔らかな声で言う。 「斗真。決めるのはあなたよ。でもね……」  母さんが俺の手に触れた。 「私たちがいつでも味方だってことを忘れないでね」 「斗真、聞いてくれ」  父さんが箸を置き、真剣な目で俺を見据えた。 「お前を危険に晒すつもりはない。だが、現実問題として……」  言葉を選びながら父さんは続ける。 「金が無い」 「……は?」  いきなり変な方向に話が転がって行った。 「一等、いや特等調伏官はエリートだろう。それがお金がないなんて……」  その言葉に。  尊敬し敬愛する我が父は、汗をかきながら目を泳がせ始めた。  ……おい、何をやった。 「父さん。正直に話してください。何をしでかした」 「いやっ! 大したことないんだ! ちょっとその……国の大事な施設っつーか遺跡をだな、ぶっ壊してさ……それで借金背負わされたっつーか……いや、俺は悪くねーぞ!? 悪いのは張り切り過ぎた九重だ! 俺は悪くない!」 「九重」  俺は九重を呼ぶ。 「はっ、ここに」  式神の狐少女が現れる。 「何があった」 「えーと……あいつらが悪いのです、芦屋道満様の名を騙り、なにやらしでかそうと企んでおりまして! ならばついつい気合いが入りすぎても致し方なし、でありましょう!」 「そうだそうだ!」  九重と父が声をそろえて言う。  ……この二人はまったく。 「で。それで家計が火の車なのと何が関係が」 「あー、いやそれでだな。陰陽師として実績や能力があれば、如月学園は学費免除されるんだよ」 「学費が無いなら俺は働きますよ。それでいいだろ」 「いーや、父として息子には自由に進学させてやりてぇ。しかし金がねぇ。だから学費免除の学校に行けばいい、という天才的な発想だ」 「流石ですな秋房殿! 斗真様の優秀さであれば学費免除どころか、あちらが大金を積んで来てくれと泣きつく事でしょう!」 「そうですね、お兄様は天才ですから! もちろん私もついていきます」  三人が盛り上がる中、俺は一人ため息をつく。  ……致し方あるまい。納得はいかないけど理解はした。 「お兄様?」  昴が不安そうに尋ねる。 「そういうことなら仕方ない、というかもうこの流れだと俺が何言っても無理だろう。じゃあ、如月学園行きを前向きに検討しますよ」  俺がそう言うと、三人は顔を見合わせて笑った。  その夜。  父さんと母さんは寝室に向かい、昴も勉強があると言って部屋に戻った。  静かなリビングで一人、俺は窓の外を眺める。 (藤原家が絡んでる学園に行くということは……)  考えたくはないが、必ず何かが起こるだろう。  前世の因縁が再び俺を襲うかもしれない。 (それでも……)  家族がいる限り、俺は戦う。  それが俺の選んだ道だ。  しばらくすると―― 「斗真様」  声がした。振り返ると、九重が立っていた。 「……やはり、不安でしょうか。しかし心配なさらずとも、この九重が斗真様をお守りいたします!」  九重はその小さな胸を叩いて言う。 「……頼もしいな」 「は、はひ! この九重、生涯を斗真様に捧げましたゆえ!」  その忠義は正直嬉しい。 「……ああ」  俺は小さく頷き、そのままベッドに倒れ込んだ。 (明日からまた新しい日々が始まる、か)  進学に進路変更だ。受験勉強に励まなくてはならない。  陰陽術、呪術の知識はいかようにもなろうが、新しい呪術知識は学ばねばならぬし、普通の学問もやらねばならぬ。  ……大変だな。  そう思った瞬間、自然と笑みがこぼれた。  この芦原斗真の人生、思ったより平穏無事にとはいかなそうてせある。 ◇ 「お兄様! 早く行きましょう!」  昴が玄関で叫ぶ。 「わかってる。父さんは?」 「先に行きましたよ。『現場確認』だって」  朝食を終えた俺たち兄弟は、試験会場の如月学園へ向かっていた。父は「調伏官として周辺偵察をする」と言い残して早々に家を出た。 「さて、行きますか」  昴と共に玄関を出る。春の日差しが心地よい。 「お兄様、この試験は学費免除がかかっているんですからね! 頑張りましょう!」 「ああ」  通学路から少し外れた住宅街を歩いていると── 「きゃああっ!」  悲鳴が聞こえた。路地裏の暗がりからだ。 「お兄様!」  昴が駆け出す。俺も続く。  路地の奥で小さな女の子が怪物に襲われていた。  巨大な全身が毛むくじゃらで蜘蛛のような脚が八本。口からは涎が垂れ、餓えた眼がギラギラと光っている──餓鬼蜘蛛だ。  十四――いや十五年前に、父が戦った最下級の五級邪霊とおなじものである。 「ああ……あ……っ」  女の子は腰を抜かし動けない。  餓鬼蜘蛛が大きく口を開け、鋭い牙で襲いかかる! 「九重!」 「はっ!」  俺が叫ぶと同時に九重が現れ、女の子の前に立つ。  そして女の子の身体を抱え、離脱した。 「昴! 女の子を!」 「はい!」  昴が九重に駆け寄り、怯える女の子を抱き起こす。 「お兄様!」  そして昴が叫ぶ。餓鬼蜘蛛がそのまま俺の所に突進してきたからだ。  餓鬼蜘蛛はその爪を振り上げ―――― 「――急々如律令《ナルハヤ》」  俺がそれより早く剣印を斬り、唱える。  その瞬間、餓鬼蜘蛛が吹き飛んだ。 「……ふむ」  俺は言う。 「五級邪霊餓鬼蜘蛛をなんとか調伏できる程度、か。回復には程遠いな」  これではやはり、前世や五年前のように上手く戦えない。色々と手段を探る必要があるな。 「……」  そんな俺を心配しているのだろう、昴が呆然と俺を見ている。  そして、口を開いた。 「さ、流石ですお兄様! ああ、やっぱりお兄様は最高です!」 「……御世辞はいい。それよりその子は大丈夫か」  九重が言う。 「ええ、斗真様。軽い擦り傷程度ですね、大事はございませぬ」 「そうか」  見知らぬ縁もゆかりもない子とはいえ、大怪我されては寝覚めが悪い。  そんな時、サイレンの音が聞こえてきた。 「警察か、調伏官か。関わってると試験に遅れそうだな、急ぐぞ」  俺は昴の腰に手をやり、 「臨兵闘者以下省略」  呪文を唱え、遁甲の術を発動する。遁とは色々と誤解と迷信があるが、その実は逃走のための術だ。  転移が出来ればよいが、今の俺ではなかなかに使うのが難しいからな。かつてのようにはいかない。 「わ、わあっお兄様っ!?」  昴が大声を上げるが気にしない。俺たちはその場から高速にて遁走した。 ◇ 「……これはひどいな」  現場に到着した調伏官の一隊は愕然とした。  地面には餓鬼蜘蛛の体液が飛び散り、八本の脚の一部が散らばっている。建物の壁には巨大な爪痕が深く刻まれていた。  そして残骸はゆっくりと消滅し始めている。 「被害者は?」 「女の子が一人です。今は救助隊が保護しています」  隊長格の女性調伏官がしゃがみ込み、床の痕跡を調つつ言う。 「目撃証言は本当なのか? 信じられんな。  たった一人の少年が、《《災害指定一級邪霊》》餓鬼蜘蛛を一撃で倒した……というのは」 ◇  はっきり申し上げます。  私の兄は、本当に素晴らしい方です!  私は芦原昴、成り上がり貴族と呼ばれる芦原家の長女です。  そして私には兄がいます。血の繋がらない兄が。  前世の記憶があるという兄は、かつては私達に遠慮がちというか、常に一線引いているようなそんな子供でした。  父との約束で、父や私に陰陽術の何たるかを教えていた彼は、最初からなんというか――特別でした。  それが特別で無くなったのはいつのころからでしょうか。いや、私にとっては今でも兄は特別だ。とても特別な、大切な人です。  それはともかく。  兄は、霊力を失った。父も兄もそう言っていました。  当時は何のことかわからなかったけど、勉強した今ではわかります。  父は一度死に、そしてそれを兄が生き返らせた。  泰山府君祭。  不可能とされている、死者蘇生の呪術を十歳の少年が成功させた。それだけでどれだけものすごいことかわかるでしょう。  あまりにもものすごすぎて、誰も兄がそのような術を使ったと、その場にいた人は誰ひとり認識していなかったようですが。  しかし――その代償は大きかった。  兄は、その膨大な霊力のほとんどを失ってしまい、兄は自分がもう最強と呼ばれた陰陽師ではなくなった、と言っていました。  血の繋がらない親のために、自分の霊力を捨て去る少年。なんてすごいのでしょう。  そこらの霊力自慢の陰陽師たちに、そんなことができるでしょうか。絶対にできませんね。  そう、私の兄はそういう意味でも本当にすごかった。  そんな兄を支えたくて、私は必死に勉強し、飛び級の資格を得ました。なぜ?  兄と同級生として、如月学園で傍にいるためです! 妹として、当たり前です!   さて、そんな兄は、とある学校――陰陽寮付属如月学院高校に通うため、受験することになりました。  なので、私も同行することにしたのです。私も一応受験はせねばなりませんしね。飛び級が認められたからといって、あくまでも受験する権利を得ただけですから。  そして受験日当日。  道すがらに小さな女の子が邪霊に襲われていました。  災害級と呼ばれる第一級邪霊の餓鬼蜘蛛。かつて、私が生まれる前に父が一度遭遇したと言われる、強大で強力な邪霊。  一流の陰陽師が数人がかりでようやく調伏出来るか出来ないかというほどの、恐ろしい邪霊――それが何故こんな所に!?  迷っている暇など無い――私と、兄の式神である九重ちゃんはすぐさま動き、女の子を確保。  しかし、餓鬼蜘蛛はあろうことか兄さんに牙を剥き――そして一撃で調伏されました。ええ、文字通り一瞬で吹き飛んでバラバラです。  霊力が無くなった、失った? とんでもない。それは兄が勝手に言っているだけなのです。  確かに力の大半を泰山府君に捧げ、失ったのは事実。  そう、例えるなら――  銀河を一撃でまっぷたつに出来る大きさの巨人が、地球をわしづかみで破壊出来る程度の大きさの巨人になってしまい、「俺はもはや普通の人間にすぎない……力を失った」と言っているようなものでした。  少しだけ大げさなのかもしれないが、まあそんな感じです。  無量大数が垓や京まで下がったところで十や百から見たらそんなんすごいのに代わりはないわ、というのと同じです。  そう、私のお兄様は強いし凄いのです、えっへん。 ◇  まあそんなこんなで、試験が始まりました。  まずは学科試験。国語、数学、英語に加え、呪術理論や陰陽史――これが難関です。なぜ? 教科書が間違っているからです! 兄の教える平安の真実――正しい術理や歴史――と、現代の教科書はまるで違います。  「教科書の術理は俺の前世と比べてなんというか……後退しているな。平均化された呪術は確かに便利であり広まったが、その対価としてレベルが下がっている」  と兄が笑ったのを、私は覚えています。  ですが、父が言いました。 「確かにそうだけどな。試験では教科書通りに書いとけ。教師は真実より教科書を信じるもんたがらよ。内心で笑いつつ、従っとけばいいさ」  全くその通り!  兄の知識は平安の叡智。現代の低レベルな教科書に合わせるのは、さぞ大変な事でしょう。お兄様はそういう方向には少し不器用なところめもありますしね。  兄の知る、兄の教えてくれる素晴らしい真実を皆が認めないという憤りはありますが、同時に兄の真実を独り占めできる喜びに、内心ほくそ笑みます。   そして学科試験は終わりました。 「どうでしたか、お兄様」  私の言葉に、 「駄目だ……なんとか平均点はとれてると思いたいが……」  兄はそう言って苦しそうな表情をしていました。  しかし私は知っている。  兄は、先程も言ったように自己認識がズレている。自分を人間サイズになったと思い込んでいる巨人なのです。  だからきっと大丈夫だろう。心配はありません。  もし落ちていても、その時は私も兄と一緒の学校にいけばいいだけなのですから! 「どんまいです、お兄様」  私は笑顔で兄の頭を撫でる。ああ、至福です。 ◇   次は霊力測定試験。公開で行われ、受験生の格付けが周知されます。  「受験番号0104号、芦原昴!」  私が呼ばれました。  測定用呪具に霊力を注入。その表示は、 「53000」  審査員が騒然とする。 「信じられん……一体どのような訓練をすればこれほどの値になるというのだ」 「彼女が飛び級の天才児だという話は聞いていたが……想像以上だぞ」  しかし53000か。もう一桁あれば、有名な漫画のボスキャラの戦闘力と同じになり、父がたいそう喜んだだろうに。ちょっと残念ですね。  私はあとふたつ変身を残している。この意味が解りますね? とか言うのです。  閑話休題。  そして続いてお兄様だ。 「受験番号0105号。芦原斗真」  お兄様が前に出る。 「では霊力を注入してください」 「了解しました」  兄は緊張している。大丈夫ですお兄様。あなたが霊力みそっかすだと思っているのはたぶんお兄様だけですから。  さあ、見せてあげてください、お兄様の実力を!  ――だが。 「……霊力値、0……」  表示されたのは、「00000」という数字でした。  ――そんなバカな、あり得ない!  ついさっき災害指定の一級邪霊を一撃で消し飛ばしたお兄様の霊力がそんなことあるわけがない! 「……ん?」  私はもう一度表示を見る。  そういえば、私の前の人の霊力値表示は、3500でした。 「03500」ではなく、「3500」だ。  ……これはあれですね。  霊力値1000000とか10000000とかだから機械で表示できず、「00000」になっているパターンです。  異世界ものの小説で読んだからわかります。  これが「00」だったら「∞」の表記ミスとかいう展開の奴です。 「……なるほど。お兄様の霊力が桁外れすぎるため、霊力測定器がパンク状態になっているわけですね。ふふっ。何ともお兄様らしい」  私は苦笑しました。  しかし、これをそのまま試験官たちに報告するべきか――  私は逡巡し、そして結論を出す。 「……やめておきましょう」  兄は凹んでいる。やはり自分の霊力は回復していない、と思っているのです。そして更なる努力と研鑽をつもうとしている、そんな顔。  ああ、ぞくぞくする。  私だけが兄の理解者です。そして兄を慰められる。兄の真価を今だけは独り占めできるし、その支えにもなれるのです。たまりません。 『……まあどうせ、斗真様の真価はすぐに愚民どもの目にも明らかになるでしょうが』  九重ちゃんが念話で言ってくる。彼女もこの光景を見ているます。  それに関しては私も同意です。兄の素晴らしさをいつまでも隠し通せるわけがない。流石九重ちゃん、よくわかっていらっしゃる。私の姉にして妹にして同志なのは伊達じゃないという事ですね。 ◇  ……続いた実技試験でも、兄は悉く好成績を出した。出し過ぎました。  そして霊力値判定の「00000」という先入観が尾を引き、ことごとくが装置のミス、不都合だろうと片付けられたのは、もはや笑うしかなかったけれど。  そうかー。不良品の式神だから一撃で破壊されてね仕方ないですわよねー。  そんなわけないのですけど。  うん、過ぎた実力と言うのは、目の当たりにしても理解されないものなのですね。  数日後、兄は補欠合格し、そして無事に入学が決定しました。  危なかった。でも結果オーライです。  そして始まる――私とお兄様の、ラブラブ学園生活が。 ◇  俺の名は芦原秋房。当年とって27歳のピッチピチのおにーさんだ。  気が付いた時、俺は妙な場所にいた。  どんな場所かっつーと、なんつーか……一言で言うと、古代中国の宮殿っぽい、荘厳な感じの空間だ。 「ここはどこだよ…………俺は確か」  息子を守って、それで…… 『然り。汝は魔物の凶爪に倒れた』  声が響く。見上げると、巨大な威容がそこに。  漆黒の法衣をまとい、人の三倍の巨躯。顔は深紅、眉は鬼火のごとく燃え、目は地獄の業火を映して爛々。口は耳元まで裂け、言葉一つで魂を裁く。「泰山府君」と刻まれた宝冠、右手の鉄杖、左手の生死簿。一睨みで罪業が暴かれる――まさにそんな存在。 「え、閻魔大王……!?」  どうしよう、めっちゃ怖えぇ! 『否。我は閻魔王にあらず。泰山王――泰山府君なり』 「…………あ、人違いでしたか。そいつぁ失礼しました」  俺は頭を下げる。  閻魔大王と泰山府君、習合されて同一視されることもあるし、俺は悪くねえぞ。 「…………で、俺は死んだってことですか?」  最後の記憶が魔物の爪だし、他に考えられねえよな。 「ま、死んじまったもんは仕方ねえ。十年前に死んでたはずだしな。色々あって息子もできた、娘も生まれた。いい人生だった。悔いは……まあ、孫の顔見たかったな。斗真と昴の子供、絶対可愛いだろ。あと、もう一人か二人子供欲しかったな。出世は……めんどくせぇからいいや」 『汝は死んではおらぬ』 「そうそう、死んでは……って、は?」  マジかよ!? 泰山府君が大仰に頷く。 『正しくは、一度死んだ。即死である。されど汝の息子、芦原斗真は泰山府君祭を執り行った』 「――は!?」  素っ頓狂な声が出ちまった。泰山府君祭……魂に干渉する大呪術だぞ! まさかあのバカ、俺を生き返らせた!? どれほどの代償を……!  まさか、あいつ…… 『否』  俺の懸念に、泰山府君が首を振る。 『芦原斗真は自らの命を対価とはせず、霊力を捧げた』 「れい……りょく?」  マジかよ。芦屋道満の転生体が持つ強大な霊力、あれを全部か!? それじゃあいつ、ただの知識すげぇ人間になっちまったのかよ。  そこまでして……俺を……。  くそっ。あのバカ、一発殴って、そんで抱きしめてやる! 『さて』  泰山府君が告げる。 『汝の息子は我に供物を捧げた。よって汝は生き返る。ただし条件がある。それは――禁術書の――』 「泰山府君☆サイコーって全裸で町中踊り歩け!? んなバカな条件、できるかボケぇー!」  俺は叫んだ。 「…………」  ちゅんちゅん、と雀の声。  目を開けると、俺の自室。隣で茜が寝息を立ててる。 「……なんだ、夢かよ」  あの時の夢だ。最後が変なことになってたけど、全裸で踊るなんてねえよ。  でも、斗真が霊力を捧げて俺を助けたのは本当だ。  あいつを殴る気だったが、抱きしめて泣いたよ。だって、そこまでして助けてくれたってことは、斗真が俺を本物の父親と認めてくれたってことだろ。  最初は契約家族だった。なのに、いつしか俺はあいつを本当の息子だと思ってた。そしてあいつもそう思ってくれた。  それが、むちゃくちゃ嬉しかった。 「……さて、今日も頑張るか」  茜の寝顔を見て英気を養い、ベッドから出る。   まずは朝の訓練だ。息子から課せられた基本修行メニューは毎日行っている。  基礎が大事だからな、マジで。 ◇    陰陽寮本部の執務室。俺、芦原秋房特等調伏官のデスクには、書類が山積みだ。 「ったく、雑魚妖魔の報告書ばっかで、目が滑るぜ」  そうぼやいていると、ドアがノックされ、部下の調伏官が二人入ってくる。俺の副官のの佐伯藤次、30歳の真面目そうなメガネ男。もう一人は新人らしい、緊張でガチガチの若造だ。 「芦原隊長! ご報告です!」  佐伯がビシッと敬礼。 「よぉ、佐伯。堅苦しいのはいいから、さっさと話せ」 「はっ。先日摘発した過激派陰陽教団『神影会』ですが、幹部から如月学園に関する情報を得ました」  俺は眉を上げる。 「如月学園? ウチのラブリーな子供たちが進学する予定の学校じゃねえか。どんな情報だ?」  佐伯が書類を差し出す。 「神影会残党が狙ってるのは、学園地下に封印された禁術書。平安時代に芦屋道満が封じた呪物で、藤原家がその封印を解こうとしてるという話です」  その言葉に、俺は内心の動揺を隠す。それは本当なのか? あいつ、そんなもん残してたのかよ。あとで聞いてみる必要があるな。  しかし、前々から藤原の姫さんはやたら「芦屋道満の生まれ変わり」に興味を持っていた。斗真への疑惑は晴れたが、しかしまさかそんなことになってたとはな。 「わかった。引き続き残党への監視は続けてくれ。学園の方には俺が当たってみるさ」 「了解しました。  そして隊長、そろそろ記者会見の時間です」 「あー……」  俺は頭を抱える。めんどうくせえ。ほんっとめんどうくせぇ。  俺はため息をつきながら、立ち上がり、記者会見室へと向かった。 ◇ 「先日の六本木地下街妖魔テロ事件においては――」  陰陽寮記者会見室。報道陣のフラッシュが一斉に焚かれる中、俺は冷静に説明を続ける。 「我々が確認した限り、犯行声明を出した過激派陰陽教団『神影会』は既に壊滅状態にあり――」  質問が飛ぶ。 『芦原氏は現場指揮を?』 「直接の現場指揮は行わず。ただし最終的な処理方針は私が決定しました」 『芦原氏の不倫疑惑ですが……』 「私は妻一筋です。ってなんだよオイ誰だその質問!」  会見場に笑いが起こるが、俺は真顔で睨み返す。やれやれ。まあ雰囲気が弛緩したのはいいことだけどよ。ふざけんじゃねぇぞ、茜よりいい女がどこにいるってんだ。 『神影会の裏に芦屋道満が関わっている、という噂があるようですがどうなのでしょうか』  ……。  芦屋道満。  我が息子の前世の名前。だけどアイツは絶対にそんなことはしない。 「芦屋道満を名乗る者は何人も確認されています。しかしいずれも模倣犯に過ぎないと我々は判断しています。真の芦屋道満の転生――それはあくまで噂だけでしょう。泰山府君祭は失われた秘術であり、平安の時代ならともかく霊和の現代では成功した者はいないのです」  俺の息子がそれで俺を生き返らせたけどな。  公には出来ねぇわ。  とにかく、そんなかんなで記者会見は続いた。  ああ、めんどくさい。 ◇ 「禁術書? ……記憶にないですね」  帰宅し、息子に聞いてみた。  そしたら知らないって言われた。  はいこの話はこれでおしまい。デマだったか。 「……ああ、いや。そもそも今の時代からしたら禁術に見えるだけかもしれないな」  何か物騒なこと言い出した。 「どういうことだ?」 「要するに、今の簡略化・平均化された術と、昔の術は違うってことですよ。昔では常識だったものが、今では違う。それで俺も苦労しましたし」  まあ平安時代からいきなり平正・霊和に生まれりゃカルチャーショックもあるわな。 「醍醐なんて今の霊和じゃ誰も作り方知らなかったですしね。それと同じです。まあ醍醐は当時も作り方は秘伝でしたけどね。  術も同じです。当時は普通に備忘録として記した術の基本が、今では秘伝秘奥義扱いされてる……という事かも。  父さんに伝えた術のいくつかは、現代の呪術書には乗ってなかったでしょう」 「ああ、確かにな」 「確かに俺はいくつかの手記は記した。例えば金烏玉兎集……」 「ん? それは安倍晴明が編纂した呪術書じゃねぇのか」  金烏は太陽に棲むとも太陽の化身とも言われる三本足の金の烏であり、太陽を象徴する霊鳥である。玉兎は月に棲むとも言われるウサギで、月を象徴する。すなわちこれは気の循環を知り、日月の運行によって占うという陰陽師の秘伝書ということだ。  唐の仙道である伯道上人から安倍晴明が譲りうけたものだと伝わっているが……。 「そんなふうに伝わっているんですね」  斗真は言う。それはでたらめだと。 「完全なでたらめでしないんです。俺と晴明が共に伯道上人に師事をしていたんですよ。あいつとは同じ釜の飯を食った仲と言う奴です」 「……マジかよ」  伝承では安倍晴明と芦屋道満は不倶戴天の仇敵だったはずだ。ある伝説では  道満と晴明の父親がライバルだったという話もあったな。 「千年も時が立てば事実は物語と迷信に置き換えられるし、真実は忘れられる。  俺が父さんに教えた権神術もどこの呪術書にも記載されていなかったし」 「確かにな」  あれは強力な術だった。 「金烏玉兎集は晴明と共著みたいなもんですね。ただまあ、こないだ書店で買って読んだけど、今流通している金烏玉兎集は色々と抜けてたり間違ったりしてる。千年の間に編纂された成れの果て、って感じですね」 「……待てよ。じゃあ、もしオリジナル、あるいは当時の写本なんかが見つかったら……」  俺の言葉に、斗真は言った。 「……確かに、今の陰陽師からしたら、禁術書といっても差し支えないものかもしれないですね」  なんてこった。  つまり道満の禁術書とやらは実在したって事か……  そしてそこに藤原の姫さんも関わってるかもしれない。  厄介な事にならなきゃいいんだがな。 ◇  入学初日。朝の如月学園は、桜並木がピンクに染まり、制服姿の生徒たちが騒がしく行き交う。校舎は近代的なビルにしか見えないが、陰陽寮直轄だけあって、敷地全体に結界の霊気がビリビリしている。さすがだな。 「お兄様! 遅いです! 入学初日に遅刻なんて、お兄様の名に傷がつきます!」  振り返ると、昴がぷりぷり怒りながら立っていた。 「俺にそんなたいそうな名は無いよ」  もう俺は芦屋道満ではないし、ことさら目立つ気も無い。今の俺は平凡で地味に生きる事が目標だからな。 「……はあ。お兄様、あなたは前世うんぬんを抜きにしてもですね。もはや国に十二人しかいない国家特等祓魔調伏官である芦原秋房子爵の長男にして、入学試験トップ合格した私の兄なんです。存在自体がそれはもう特別なんですよ」 「それは俺の力じゃないだろ」  父さんの出世も父さん自身が努力した結果だ。そりゃあ師である俺がよかったのかもしれないが、どれだけ師が良くても本人が非才で怠け者だとしたらどれだけ鍛えてもものにならない。  昴だってそうだ、幼いころから頑張ってきてるからな。  俺の自慢の家族だ。 「……全く。お兄様の自己評価の低さは何なんですか」 「客観的な事実だ」  霊力のほぼ全てを失ったことに加え、入学試験すら補欠という客観的事実がある。  芦屋道満が成績最下位、か。笑えるな。  まあ、それを卑下するつもりはないさ。新しく切り替えて再出発するだけだ。  平穏に、平和に、そして平凡に。新しい人生、そうやって生きるのだ。  というわけで、入学初日。 「霊力ファイブゼロの伝説をたたき出して合格たぁ、随分といい御身分だよなぁ、成り上がりの貴族様はよぉ!」  俺はいきなりクラスメートに絡まれていた。  野太い声が教室に響き渡る。声の主は荒上孝輔《あらがみこうすけ》――だったか。 「何やったんだ、お前。どう考えても霊力判定ぶっちぎりの最下位が入学できるなんておかしいだろ、ここは呪術陰陽術のエリートだけが入れる学校だぜ。  どれだけの連中が涙飲んだかわかってんのかよ、あぁ?」 「……なるほど」  俺は荒上に言う。 「つまり、お前は落ちた彼らのことを思い、その憤りをぶつけているというわけか」  なんともいい奴じゃないか。 「……はっ!? 何言ってやがんだてめぇ!」 「お前の優しさも憤りもわかる。だけど結果は結果だ。そもそも俺は補欠入学、辞退した合格者がいたから俺はここにいるんだよ。文句があるならその人に言ってくれ」 「……どうせてめぇのパパの貴族様が金詰むなり脅迫するなりして追い落としたんだろうがよ、成り上がりの芦原子爵様がよお!」  ……。  ……この男は、言ってはならない事を言った。 「今。お前、何と言った?」  俺は荒上を睨みつける。 「俺の父は卑怯者じゃない。取り消せ」 「ひっ……!?」  その言葉に、荒上は怯みあがった。 「な……なんだこいつの霊圧、こいつ本当に……ファイブゼロかよ……!?」  荒上の顔が一瞬で青ざめる。教室にいた他の生徒たちも、ざわめきながらこちらをちらちらと見始めた。  俺の霊圧などもはや微々たるものだが、父親を侮辱された俺の怒りがそう見せているのだろうか。 「お、お前……!」  荒上が後ずさりながらも、なんとか気勢を張ろうと声を張り上げる。 「霊力無しの分際で、なんだその目は! 舐めてんのか!?」 「舐めてるつもりはない」  俺は静かに、だがはっきりと答える。 「ただ、俺の家族を侮辱するのは許さない。それだけだ」  教室の空気が一瞬で張り詰める。昴が横から、 「そう、 お兄様の言う通りです!」  と援護射撃をしようとするが、俺は手で制した。ここは俺の問題だ。 「へ、へっ! 許さないって、何だよ! やる気か!?」  荒上が強がって拳を握りしめる。 「やる気はない」  俺は肩をすくめて一歩下がる。 「ただ、言ったことは取り消してもらおう。父の名誉に関わる。俺はそれだけを求めてる」 「はっ、ファザコンかよ! ああいいぜ、取り消して謝ってやるよ、ただし俺に勝てたらの話だがな!」  荒上は腰を低くして構える。  右手の拳を前に出しながらも、引いた左手には――呪符か。  周囲の同級生たちが机や椅子を片付け、場を作る。なんだか慣れているな、こいつら。 「貴族の坊ちゃんが、口だけでどこまでやれるか見せてもらうぜ!」  荒上が叫びながら、左手の呪符を素早く展開。指先で符を弾くように動かし、真言を唱えた。 「帰命三曼多伐折羅誕《ノウマク サンマンダ バサラダン 》旋陀摩訶羅闍多也娑訶多也《ンダンマカロシャダヤ ソハタヤ》、吽多羅多曼《ウンタラタ カンマン》!」   「ぐっ……!」  教室の空気が一瞬で重くなる。奴の霊力が符を通じて増幅され、目に見えない圧力が俺を押し潰そうとする。  不動金縛りの術か。  動きを封じるための基本的な陰陽術だが、こいつの霊力だと、結構な拘束力がありそうだ。だが……所詮は学生レベル。かつての俺――芦屋道満が見てきた術式に比べれば、隙だらけだ。  霊気の流れを読み、術式を見る。……やはり稚拙だな。荒々しい術式だ、嫌いじゃないが。  俺は一歩踏み込み、足に霊力を流す。陰陽術の基本、霊力の流れを読み、相手の術式を弾く技術、奇門遁甲術。方位方角を読み解く技術を霊的に応用したものだ。  これならば霊力の過多はあまり関係ない。言うなれば柔よく剛を制すの技術に近いものだからな。 「なっ!?」  荒上の呪符から放たれた呪力が、弾けるように霧散する。教室の生徒たちがどよめく中、荒上は目を丸くして後ずさる。 「てめえ、霊力ゼロのくせに……何!? 何したんだ!?」 「別に何も。ただの基本だ」  俺は服の埃をはたきながら答える。 「だったらこっちだ!」  荒上がさらに声を荒げ、別の呪符を取り出す。 「帰命全方位切如来一切時一《ノウマク サラバタタギャテイビャク》切処暴悪大忿怒尊《サラバボッケイビャク サラバタタラタ》一切障碍滅尽滅尽残害破障《センダマカロシャダケンギャキギャキ サラバビギナン 》吽多羅多曼《ウンタラタカンマン》!」  今度は不動明王火界咒の術式か。こいつ、ほんとに初日から派手にいくつもりだな。 「待ちなさい! 教室でそんな術式使ったら――」  昴が慌てて止めようとするが、遅かった。荒上の呪符が赤く光り、炎が渦を巻き、俺に向かって飛んでくる。教室の生徒たちが悲鳴を上げて机の下に隠れる中、俺は冷静に動く。 「――急々如律令《ナルハヤ》」  炎は俺の剣印ににからめとられ、水となってそのまま床に落ちる。 「なっ……!」 「水剋火。水は火を征する五行相剋の理、それをただ実行しただけだ。基本だろう?」  俺の言葉に、周囲がざわめく。 「そりゃ理論上はそうだけどよ……」 「ていうかあいつ、詠唱してなかったぞ」 「お前あれできるか?」 「無理だっつーの、術構築がどんだけ早いんだよ」 「なんだよナルハヤって……」 「霊力ゼロであれは無理だろ……」  そしてそのざわめきに、昴はひたすらどや顔をしていた。  まあそれはいい。  勝負ありでいいだろう。俺は荒上に…… 「勝負、あり!  この戦い、私、橘雛芽《たちぱなあやめ》が見届けましたわ! これにて喧嘩両成敗、一件落着!」  金髪の少女がいきなり張り上げたその言葉に、 (……誰?)  クラス全員の心の声が一致した。読心の術を使わずとも、それらいはわかる。  ……いや、本当に誰だ。 ◇ 「は、はぁ!? 何だよ、急に!」  荒上が驚きと苛立ちを隠さず、少女の方に振り返る。教室中の視線が一斉にその金髪の少女――橘雛芽に集まる。彼女は堂々とした態度で、腰に手を当てて胸を張っている。まるで自分がこの場を仕切っているかのような雰囲気だ。 「ふむ、自己紹介がまだでしたわね! 私は橘雛芽、陰陽寮の名門・橘家の次女をさせていただいておりますわ!」  橘家。  その名に周囲がざわめく。 「橘と言えば……」 「四大公爵家の?」 「その橘ですわ!」  橘がふんぞり返る。 「けっ、またお貴族様かよ」  それに対して荒上が吐き捨てた。 「どうせてめぇも金の力で入ってきたクチだろうが、威張ってんじゃ……」 「その通りですわ!」 「ほら……って、はい?」  その堂々とした言葉に、荒上はぽかんとした。 「私もそこの彼と同じく補欠入学組ですわ!」 「な……じゃあてめぇ、合格者を金で……!」 「そんなことしていませんわ!」 「じゃあ実家の力で脅して辞退させて……」 「そんなみみっちいこともいたしません! 大金を積んで合格人数を一人増やしてもらいましただけですわ!」 「金の力の規模が違う!」  ていうかそんなこと可能なのか。  すごいな四大公爵家というものは。いやむしろ公爵家の令嬢が普通に受験受けてた方がむしろ驚きだ。 「ふっ……大口スポンサーというのは存外好き勝手出来るものですのよ?  そう、この世はお金が全て!  金があれば見鬼の力が無くとも呪具のコンタクトで見鬼にもなれますし、霊力からっけつでも呪具フル装備で底上げが可能!  お金があればこの呪術界の頂点に立つことも可能なのですわ!」 「お、おう、そうですね」  荒上も圧倒されている。  この女、さらりと自分が見鬼でもなければ霊力も低いと自白しているのか。それともブラフなのか。ちょっと見通せないな。 「よろしいですわ!」  何がだろうか。どうしよう勢い強すぎてついていけぬ。平安にもこのようなものはいなかったぞ。 「さて、荒上孝輔。貴方の負けは明白ですわ。芦屋秋斗は霊力ゼロにも関わらず、貴方の術を完璧に破りました。陰陽術の基本を侮った貴方の落ち度です。さあ、約束通り、芦原子爵への侮辱を取り消しなさい!」 「ぐっ……!」  荒上は歯ぎしりしながら、拳を握りしめる。そして、息を大きく吐く。 「……くそ、わかったよ。少なくとも実力は本物だってのはわかった、そんな奴が親の七光でいんちき入学なんてやるはずねえな。  芦原子爵のことも、悪く言って悪かった。取り消す」  その言葉に、教室は再びどよめく。なるほど、この男は粗暴だが素直なタイプだな。嫌いじゃない。 「それでいい。もうこの話は終わりだ、荒上」 「ふん、覚えてろよ、芦原! だけど次は絶対に負けねえ!」  荒上が捨て台詞を吐きながら席に戻ると、雛芽が満足そうに微笑む。 「ふふん、さすがは私ですわね!」 「おめぇは何もやってねえだろうが!」  荒上が叫んだ。  しかし、荒んだ雰囲気がいきなり喜劇みたいになるとは…… 「あの橘家の御令嬢、天然か策略かはわかりませんが、中々ですね」  昴が言う。確かにその通りだ。  教室の空気がようやく落ち着き始めた。橘雛芽の派手な介入で、荒上孝輔との騒動は一応の決着を見た。だが、俺――芦原斗真の周囲には、まだ好奇心と挑戦的な視線がチラチラと集まっている。まったく、平凡に生きるつもりが、初日からこれだ。先が思いやられる。  その時、教室の後ろから別の声が響く。 「へえ、面白いね、芦原斗真。霊力ゼロでそこまでやれるなんて、ちょっと興味湧いてきたよ」  振り返ると、ポニーテールの少女が腕を組んで立っていた。 「お兄様へ興味を持つのは大変お目が高いことで喜ばしいですが、お兄様に話しかけるならまず私に話を通してくださいませんと」  昴が俺と彼女の間に割って入る。 「そうか失礼。君は入学式で見たな、成績トップ入学の新入生代表、それも飛び級だったか、すごいな芦原昴くん」 「すごいのはお兄様です。私はお兄様のおまけにすぎません」  話が微妙に成り立っていない気がする。 「それで、あなたは?」 「ああ、自己紹介が遅れたな。  私の名は弓削葵《ゆげあおい》。陰陽寮の名門、弓削家の長女だ。よろしくね、芦原斗真。それと、昴くんも」  ポニーテールの少女――弓削葵が軽く手を振って微笑む。  彼女の声は落ち着いているが、どこか挑戦的な響きがある。  弓削家といえば、陰陽博士弓削是雄を輩出したことでも有名な、賀茂家や土御門家と並ぶ陰陽術の名門だ。四大公爵家の一つではないが、術式の精緻さと実戦での実績では一歩も引かない名家。  だが千年後のこの時代では、没落していたと記憶しているが……。 「弓削葵……伯爵家御令嬢ですね。覚えておきましょう」  俺は軽く頷き、彼女の視線を受け止める。昴はまだ警戒しているのか、俺の前に立ちはだかったまま微妙に睨んでいる。 「お兄様に用なら、私を通してくださいって言いましたよね?」  昴の声には少し苛立ちが混じっている。葵はくすっと笑い、肩をすくめる。 「はいはい、わかったよ、昴くん。別にケンカ売りにきたわけじゃないって。  ただ、霊力ゼロであの荒上を圧倒するなんて、ちょっと気になっただけさ。  ねえ、斗真、さっきの術のカウンター、どうやったの? あれ、普通の基本じゃないよね?」  基本も基本なのだが。 「ただの読みとタイミングだよ。たいしたことじゃない」  俺はそっけなく答えるが、葵の目はますます興味深そうに光る。 「ふーん、謙遜? それとも本当にそれだけ? どっちにしろ、面白そうだから、今度模擬戦で試してみたいな。私、弓削家の術式、けっこう自信あるんだよね」 「だから、お兄様に話しかけるならまず――」  昴がまた割り込もうとするが、俺は軽く手を上げて制する。 「昴、構わない。弓削、模擬戦はまた今度な。今日はもう十分派手な目に遭ったから」  俺は苦笑しながら席に戻ろうとするが、葵はニヤリと笑って追い打ちをかける。 「逃げられないよ、芦原斗真。如月学園じゃ、目立った奴は放っておかれないんだから。覚悟しなよ」  確かに、教室のあちこちから視線を感じる。どうやら、この学校の生徒たちは騒ぎが大好物のようだ。まったく、平凡な生活を望んでいたのに、これじゃ無理そうだな。 その時、教室のドアが勢いよく開き、教師の声が響く。 「はい、みなさん! 席について! ホームルーム始めますよ!」  入ってきたのは、若い女性教師。袖に陰陽寮の紋章が輝く制服を着ている。彼女は教壇に立つと、軽く咳払いして教室を見渡した。 「私は担任の志波博美。よろしくね。  さて、初日からずいぶん賑やかだったみたいだけど、特に……芦原斗真くん?」  藤原先生の視線が俺に突き刺さる。教室中の目がまた一斉に俺に集まる。 「気のせいです」  俺は言った。  できるだけ穏やかに、波風立てないように。俺は関係ないし何も知らないのである。 「橘雛芽さんから報告がありました。教室で呪術戦をやったそうね」 「私は術比べを挑まれたので応じただけです」  俺は淡々と答える。 「それで不動明王火界咒を、詠唱も無しにいなしたと」 「奇門遁甲術と五行相剋の理を応用しただけです」  霊力を失った俺でも、技術と経験があればどうにかなるものだ。荒上の術式は単純でわかのやすかったからやりやすかったしな。 「ふーん。霊力ゼロでそこまでできるなんて……あ、ごめんね悪気があったわけじゃないわ。でも面白い子ね。まあ、初日だから大目に見るけど、次からは教室で騒ぎを起こさないでね。いい?」  志波先生は笑顔で言うが、その言葉には有無を言わさぬ圧がある。俺は頷いて席に戻る。 「さて、ではホームルームを始めるわよ。まずはクラスの役割分担から――」  志波先生が話を進め始め、教室はようやく通常の空気に戻る。だが、俺の背中に感じる視線はまだ消えない。荒上の悔しそうな目、弓削葵の興味津々な笑み、そして橘雛芽の謎の「ふふーんですわ」というどや顔。うむ、最期は意味がわからん。 「お兄様、大丈夫です。私がついていますから」  昴が小声で呟く。俺は小さく笑って答えた。 「ああ、頼りにしているよ」 『わ、私めもずっと傍におりますゆえ!』  九重も言ってくる。しかし九重、あの騒ぎの中でずっと口や手を出さずに耐えていたのは……中々に成長したな。父さんにつけていたのは正解だったようだ、この十五年で九重も色々とあったのだろう。  事実、あそこで九重が暴れてたにややこしい事態になっていただろうからな。  いや、もし俺が荒上の喧嘩を買わねば、九重が耐えきれずに出ていたのだろうか。  ……。  ありうるな。 『あ、ありませぬ』  うむ、確信した。絶対にそうなっていた、まさに紙一重であった。  やれやれ、初日からこれとは……先が思いやられるな。 ◇  如月学園の初日、騒々しいホームルームをなんとか乗り切った翌朝。  教室に差し込む朝日が、埃っぽい空気をキラキラと照らす中、担任の志波博美が教壇に立つ。彼女の制服の袖には、陰陽寮の紋章が誇らしげに輝いている。 「はい、みなさん! 今日から本格的に授業が始まりますよ!」  志波先生の声は明るいが、どこか有無を言わさぬ圧がある。  教室のざわめきが一瞬で静まり、俺――芦原斗真は窓際の席で小さく息をつく。昨日、荒上孝輔との騒動やら橘雛芽の派手な介入やらで、平凡な学園生活の夢はすでに木っ端微塵だ。  隣の席では、昴が「お兄様、今日も私がお守りします」と小声で宣言している。過保護すぎるぞ、昴。まあ確かに、霊力を失った俺は五年前より頼りないのかもしれないけど。 「まずは実技授業の班編成を発表します。陰陽術はチームワークが命ですから、仲良くやってくださいね!」  志波先生がニコリと笑いながら、ホワイトボードに班のリストを投影する。俺の名前を探すと――そこには最悪のメンツが並んでいた。  芦原斗真、荒上孝輔、橘雛芽、弓削葵、芦原昴。 「は!? またお前かよ、芦原斗真ァ!」  教室の前方から、荒上の野太い声が響く。金髪を振り乱し、俺を指差して吠える彼の目は、昨日負けた悔しさをまだ引きずっているようだ。 「ふふん、さすがは私の運命! この橘雛芽と同班とは、光栄ですわね、芦原斗真!感謝と光栄にむせび泣くがよいですわー!」   後ろの席から、雛芽が腰に手を当て、胸を張って高笑い。彼女の金髪が朝日にキラキラ輝くが、そのドヤ顔は正直意味不明だ。その自己評価の高さは羨ましい。 「へえ、面白い組み合わせだね。芦原斗真、昨日から目立ってるじゃん」  ポニーテールの少女――弓削葵が、腕を組んでニヤリと笑う。彼女の目は、興味と挑戦が半々といったところ。昨日、俺に「模擬戦で試したい」と絡んできた奴だ。面倒な予感しかしない。 「お兄様をこの問題児たちと一緒にするなんて…! 志波先生、編成のやり直しを求めます!」  昴が立ち上がり、声を荒げる。教室中の視線が一気に俺たちに集まり、俺は額を押さえる。昴、頼むから落ち着いてくれ。 「はいはい、昴くん、座って座って。班編成はもう決まったの。文句は実技の成績で返してくださいね」  志波先生が軽く手を振って昴を制し、話を進める。 「今回の実技授業は、学園近くの廃神社での『低級邪霊の調伏』です。  班ごとに協力して霊を封じ、チームワークと陰陽術の基礎を確認します。優秀な班には、特別資料室へのアクセス権を進呈! 貴重な術式資料が見放題ですよ〜」  特別資料室。その言葉に、弓削の目が一瞬鋭く光る。俺は彼女の反応をチラリと見つつ、内心で首を振る。あいつ、なんか企んでるな…。昴が俺の袖を引っ張り、小声で囁く。 「お兄様、あの弓削葵、怪しいです。昨日からお兄様をジロジロ見てます!」 「昴、落ち着け。ジロジロ見てるのはお前もだろ」  俺が苦笑すると、昴は言った。 「いつも通りですが。私が本気でお兄様をじろじろ見たらそれはすごいことになりますけれど。術も使ってしまいますよ」 「やめてくれ」  自制してくれていたらしい。その心遣いに俺は感謝した。 「では、班員たちで集まって班長を決めてくださいね」  先生のその言葉に。  俺以外の目が光った。  どうしよう、いやな予感しかしない。 「当然俺「当然! 私が班長ですわ!」  荒上の言葉をさえぎって橘が宣言した。 「四大公爵家の娘で! 美しくキュートで! 学業成績は上位の!  この私こそが班長にふさわしいですわ!」  橘雛芽が胸を張り、まるで王座に君臨するかのように宣言する。教室の空気が一瞬凍りつき、すぐにざわめきが広がる。 「さすが橘家…」 「いや、金で枠増やした奴が班長って…」 「傲慢すぎていっそ清々しいなオイ……」  とヒソヒソ声が聞こえる。俺はただ、額を押さえて小さく息をつく。こいつ、どこまで本気なんだ? おそら全力で本気だな。 「はぁ!? てめえ、金で買った枠の分際で班長だと? ふざけんな! 俺が班長だ!」  荒上が机をバンッと叩いて立ち上がり、橘を睨みつける。金髪同士の火花が散りそうな勢いだ。 「ふむ、荒上さん、吠えるのは結構ですけど、実力で示してくださいな。昨日、芦原斗真に完敗したあなたに、班長の資格なんてありませんわ!」  雛芽の言葉に、荒上の顔が真っ赤になる。 「なんだと、てめぇこそどんくらいの実力だよコラ!」 「まあまあ、二人とも落ち着きなよ。班長なんて、結局実力で決まるんだからさ。ね、芦原斗真?」  弓削がニヤリと笑いながら、俺に話を振ってくる。彼女のポニーテールが揺れ、挑戦的な目が俺を捉える。こいつ、わざと火に油を注いでやがるな。 「お兄様以外に班長が務まるはずありません。これは天地開闢から決まっている自明の理です」  それは言い過ぎだろう。俺が前世で法師陰陽師をやっていたころにすでに班長が決まっていたというのか。 「んだと! じゃあケリつけっかよ、一番強えぇ奴が班長だ!」 「それだと少なくとも芦原斗真に負けた君は最初に脱落だが」 「なんだとコラ!」 「昨日の今日で暴力沙汰は内申に響きましてよ。ここは平和的にお金で解決いたしませんこと!?」 「橘さん、さすがにそれは学生としてどうかと思いますけど。ここはやはり民主主義的にお兄様に」  ……。  収集がつかない。 「ここはもうくじでいいんじゃないのか」  俺はため息をつきながら言う。 「くじ!? 芦原、お前、ふざけてんのか!? 班長は実力で決めるんだよ!」  荒上が拳を握りしめ、俺を睨みつける。 「ふふん、くじとは面白い発想ですわ! さすが私が認めた男! でも、私が勝つに決まってますわ!」  橘が高笑いをする。 「へえ、くじか。意外と民主的だね、芦原斗真」  と弓削がニヤリと笑った。こいつは気づいているのか。 「くじですか。さすがですわね、お兄様」  昴も確実に気づいているだろう。  陰陽師が本気でおこなうくじびき勝負というのは呪術勝負である。  もちろん俺はここで本気を出して術を操るつもりはない。班長の座などどうでもいいからだ。  早速弓削と昴の二人は黙り込んでいる。おそらく脳内で必死に術式を編んでいるのだろう。  荒上と橘の二人は……ただ気合いをいれているだけだな。  さて。  結局、くじで勝ったのは橘だった。意外な結果である。  術式を必死に編んでいた弓削か昴のどちらか……昴は俺に勝たせようとしていたから、そのせいで俺になるかのどれかと思っていたが。  なお俺になりそうな場合、全力で回避する予定だった。 「ほーっほっほっほっほっほ! 私の大勝利ですわー!」  まあ衆人環視の中での呪術を仕込んだくじ勝負というのは存外に難しい。なにせ術を使っている事をバレてはいけないのだ。だからこそ隠形術の手腕手管が必須だし、呪文すらも唱えては駄目だからな。 「これでこの班は、四大公爵家の輝く星、橘雛芽の手に委ねられたのです! 感謝と光栄にむせび泣くがよいですわ!」   相変わらず橘が教壇の前で、まるで歌劇の主演女優のように両手を広げ、高らかに宣言する。  教室中の視線が彼女に集まり、ざわめきが広がっていた。 「はぁ!? くじで勝っただけで班長だと!? ふざけんな、橘! 俺が認めねえぞ!」  荒上が机をバンッと叩いて立ち上がり、橘を睨みつける。 「ふむ、荒上さん、吠えるのは結構ですけど、くじの結果は絶対ですわ! 運も実力のうち! 私の運は、四大公爵家の名にふさわしいのですから!」  橘の言葉に、荒上の顔が真っ赤になる。 「てめえ、運だけで班長になって勝ち誇って楽しいのか!?」 「ほーっほっほ! 負け犬の遠吠えですわ!」  高笑いで一蹴する橘。無敵だな。 「まあまあ、二人とも落ち着きなよ。くじで決まったなら仕方ないじゃん。ね、芦原斗真?」  弓削がニヤリと笑いながら、俺に話を振ってくる。 「そうだな、結果が全てだ」  弓削が何をいいたいのかはよくわからないが、答えておく。 「はい、はい、静かに! 班長は橘雛芽さんで決定! もう決まったんだから、後は実技の成績で示してね!  他の班の皆さんも班長を決めてくださいね、くれぐれも静かに、平和的にですよ!」 「そうですわ、私たちのように!」  ……。  鏡を見ろ橘綾芽。  まあいい。とにかくこれで平和的に…… 「では、次はクラス委員長を決めますね」  次の先生の言葉に。  俺はさらなる騒動を予感して、頭が痛くなった。 ◇ 「さて、委員長や班長も決まったところで、実技授業の詳細を説明するわよ」  なおクラス委員長は眼鏡に三つ編みをした女子生徒に決定した。無難である。それでいい。 「廃神社での低級邪霊の調伏は、チームワークが鍵。陰陽術の基礎をしっかり見せてもらうわ。失敗したら、単位が危ういわよ〜」  志波先生がホワイトボードに廃神社の地図を投影しながら、軽い調子で続ける。俺は話を聞きつつ、内心で首を振る。  現代の陰陽術の授業か…。  平安の時代に陰陽師として生きていた俺から見れば、陰陽寮の今の教え方はどうも物足りない。  平均化され全体が底上げされた弊害として、その過程でいろいろなものが失われている。それは進歩であると同時に退化だった。  だがそれはこの際どうでもいい。些細な事だ。  問題は……。 「で、班長さんよ、どうすんだよ、この実技。言っとくが俺はつまんねぇ命令は聞く気ねぇぞ」 「おーっほっほ、決まっていますわ! 全員私に従えばそれでよいのですわよ!」 「話聞いてねぇだろてめえ」 「私は私のやり方でやるから。橘雛芽、ちゃんとまとめられるんだよね?」 「お兄様の助言があれば、この班は完璧です!」  うむ断言しよう。まとまるものもまとまらない。 「ところで、志波先生。特別資料室の術式資料って、具体的にどんなものがあるんですか?」   弓削が突然手を挙げて質問する。彼女の声は平静だが、目には隠しきれない好奇心がチラついていた。  志波先生はニコリと笑って答える。 「さすが弓削家の長女、鋭いわね。特別資料室には、陰陽寮の古い術式書や封印された巻物が保管されてるわ。たとえば…『金鳥玉兎集』の断片写本とかね。興味ある?」  その瞬間、葵の表情が一瞬固まる。だが、すぐに「ふーん、面白そうですね」と誤魔化すように笑う。  俺は彼女の反応を見逃さなかった。  金鳥玉兎集……それは安倍晴明が編纂したと言われる呪術書だ。大きめの本屋に行けばどこにも売っている。  俺はチラリと弓削を窺う。彼女は教科書をパラパラめくりながら、平静を装っているが、指先が微かに震えている。  志波先生の「金鳥玉兎集の断片写本」の一言で動揺したのは間違いない。  わざわざ特別資料室な置いてあるくらいだ、古いものなのだろう。  弓削家の再興に、オリジナルが必要だとでも思ってるのだろうか。  だが父にも言ったように、あくまでもそれは当時の知識の記録に外ならない。言わば覚え書きだ。日記と変わらぬ。  貴重だろうが――しかしそれだけだろう。  そもそも禁術書だとかなんとか言われるようなものが、たかだか新入生が実技で好成績をとった程度で閲覧可能になるような場所にあるわけがないのだが……弓削の奴は果たしてそれに気づいているのだろうか。 「はい、はい、静かに! 打ち合わせは昼休みにやってね! 実技は午後からよ!」 志波先生が手を叩いて教室を制し、朝のホームルームを締める。  不安だ。  そしてその不安が解消されぬまま、午前の授業が始まった。 ◇ 「陰陽術の基本は五行相生と五行相剋にあります。  木は火を生じ、火は土を生じ、土は金を生じ、金は水を生じ、水は木を生ずる。これ五行相生の理なり、というものですね。  これは自然のあり方を説明したものであり……」  陰陽術概論の教師の説明が響く。  これは基本だ。流石に根本理論は千年前と変わらずに伝わっている。まあそれはそうだ。ここが間違っていたらそもそも術も成立しない。  しかし、現代の呪術理論は、「平均化された誰もが扱いやすくなった術を学び最低限の技術を得る」事を目的としているように感じられる。  無論、それが悪だとも愚策だとも言い切るつもりはない。  平均化されすそ野が広がる事により、術者の分母が広がる。かつての平安の頃と比べて、国民人口そのものが多くなったことも理由の一つだろうが――術者の数自体は驚くほど増えている。  分母が増えれば、そこから実力者が出て来る確率も高くなるというものだ。その方針は決して間違いではないだろう。  だがこれでは、此処の実力を伸ばすにはいささか足りない気がするな。  そもそも、俺もこの時代に生まれ変わってから小学校中学校と学校には通ったが、呪術については授業で軽く振れるだけ、そして部活動で扱うだけで本格的に学ぶのは高校からだと言っていい。  術は幼いころから叩き込むのが鉄則だ。  そういう意味では、この学校に通っている生徒たちは幼い頃から自分の趣味や親の方針で自己学習したり塾に通ったりした者たちばかりだろう。  高校に入る、元服の年齢でいきなり「俺は今日から術者を目指す!」と言い出してモノになるなど、よほど稀有な才能でもない限り……物語絵巻の主人公ぐらいしかあるまい。  さて……荒上や橘、弓削はどうなのだろうか。  まあそれは午後の実習ですぐにわかるだろう。 ◇  結論。  俺達の班はダメダメだった。失格だ。落第だ。  正しくは、調伏の課題自体は成功した。  五級どころかもはや等級を数えるのもばかばかしくなるほどに低レベルの雑霊だった。初心者向けに教師陣が作った人造の霊……式神だったが、まずそれに挑めというのは別に良い。勝利は当然だ。  だが、過程がひどかった。橘の派手すぎる呪具が式神を必要以上に刺激し、荒上が火炎術を乱射して神社の木々を焦がしそうになり、弓削は連携を無視して単独で術式を展開する。  足を引っ張り合い、式神に翻弄されまくる始末だった。  結局、調伏は昴が一人で成功させた。 「ふむ! 私の華麗な呪具がなければ、この調伏は成功しませんでしたわ! 皆さん、感謝しなさい!」  橘が廃神社の境内、焦げた木々の前で胸を張って高笑いをする。  なるほど、しかし無駄打ちしかしていなかったぞ。 「はぁ!? てめえのバリアが派手すぎて、式神が暴れたんだろ! 俺の火炎術がなけりゃ全滅だったぜ!」  荒上が橘に詰め寄り吠える。  お前は大呪術ばかり使おうとして後手後手に回っていただろう。 「まあまあ、二人とも落ち着きなよ。課題はクリアしたんだから、良しとしようよ。…ね、芦原?」  弓削がニヤリと笑いながら、俺に話を振ってくる。  お前はお前で色々と焦りすぎて独断専行が激しかったように見えたが。  特別資料室のアクセス権を狙ってるのは確かだが…ただの知識の記録にそこまで執着する理由はなんだ?  ともかく。  俺の感想では、昴以外はダメダメだった。  此処の素質は確かにあるのだろう。努力も欠かしていない。  そして彼らが今まで行ってきた、霊和の術式体系ではそれらを活かしきれていないのだ。  今日の実技を見ても、橘の呪具依存、荒上の大呪文任せ、弓削の単独行動――基礎がガタガタだ。  ……仕方ない。これも袖振り合うも他生の縁、という奴だ。 「本当にこれで良し、とするのなら俺から何も言う事はないが。本当にいいと、自分自身に言えるのか?」  その言葉に。  彼らはみな黙った。やはりわかっているのだろう、自分たちが無様だったと。そしてそれを素直に認められないのはプライド故か。  その自尊心、いや虚栄心は――きっと彼ら自身を殺す。  そうなっては、いささか寝覚めが悪い。 「うっ……そ、それは」 「うるさいですわ! 私に指図するつもり? 貴方こそ何もできていませんじゃないですの!」  橘が噛みつくように反論する。その顔には明らかな動揺が浮かんでいた。 「ハッ、そうだそうだ負け惜しみかよ。結局お前だって何もしてねぇじゃねーか」  荒上が挑発的に言い放つ。彼の額には焦げた前髪が張り付き、火炎術の乱射がどれほど暴走だったかを物語っていた。 「……芦原斗真」  弓削が初めて真剣な眼差しを向ける。普段のニヤケた態度が消え、その瞳には困惑と微かな怒りが混ざっていた。 「二人の言う通りだよ。君はさっきから偉そうにしているけど、やった事と言えば昨日に荒上の術を「解《ほど》いた」だけだ。それも疑似邪霊の調伏には何も関係ない。違う?」  彼女の指摘は的確だ。なるほど確かに俺は今回の調伏実技において具体的な行動は何もしていない。ただ傍観し、彼らの無様さを客観的に見届けただけだ。  傍から見たら妹に任せて何もしていない駄目兄貴にしか見えないだろう。事実その通りであるからぐうの音も出ない。 「ちょっと皆さん、いい加減に――」  昴が見かねて口を開くが、俺はそれを手で制す。 「なるほど、つまり改めて実力を見せろ、というわけか。そうだな、俺は今回の疑似邪霊の調伏実技において、何もしていない。確かにそうだ。  ならば改めて示そうじゃないか。俺の実力。そして俺に教えを請う価値があるか否かを」  霊力00000の烙印を押された。それは事実だ、霊力測定装置は嘘をつかないし、俺は父を救うため霊力の大半を喪った。  だが、それは戦うすべを失った事にはならない。 「見せてやろう、陰陽の真髄を」 ◇ 「見せてやろう、陰陽の真髄を」  廃神社の境内、夕暮れが迫る中で俺が静かに宣言する。  面倒だが、仕方ない。 「また大口を叩きますわね! ろくな呪具も無い霊力ゼロの凡人が!」  橘雛芽が眉を吊り上げた。 「吠えるな!この口だけ野郎が!」  荒上孝輔が歯を剥き出す。 「実技の続きでもやる気?無駄だよ」  弓削葵が冷静を装いつつ目を鋭く光らせた。 「行くぜ! 帰命全方位切如来一切時一《ノウマク サラバタタギャテイビャク》切処暴悪大忿怒尊《サラバボッケイビャク サラバタタラタ》――」  荒上が真言を唱え始める。また火界呪か。 「急々如律令《ナルハヤ》」  俺は唱える。その瞬間、水柱が荒上の足元から立ち昇った。 「ぐあああああっ!?」  水柱に呑まれ、荒上がそのまま吹っ飛ばされる。 「ぐえっ!」  そんな声をあげ、木の枝に墜落した。 「な――詠唱も無しで!?」 「いいえ、惑わされてはなりません! 詠唱無しで術を使う――つまり呪具ですわ! ソースは私! どやあ!」  弓削の言葉に橘が言う。しかし残念、そうではない。  単純に無詠唱なだけだ。この時代では無詠唱の術と言う概念自体がもはや途絶えているらしいな。父も同僚に驚かれたと言っていた。現代の術者は詠唱を絶対のモノとして捉えているらしい。 「今度は私が――」  弓削が刀を抜き放つ。その刀身には青白い霊光が宿っている。 「――金気より出でて風となせ、稲穂の金風! 風刃纏いし刃とならん、急々如律令!」  その言葉と同時に周囲の空気が凝縮した。  圧縮された空気が刃となり、俺の身体を包み込む。これは不可視の風の刃――空気を自在に操る術か。  だが。 「――急々如律令《ナルハヤ》」  俺の身体を炎が包む。  火剋金。  火は金を溶かすという五行の理。そして炎は上昇気流により風を逸らし、酸素を燃やし尽くして風という空気を消す。  その理の通り、弓削の放った刃は俺に届く事なく消えた。 「おっほっほ! 次は私ですわね、私の式神があなたのような半端者に破れるわけがありませんわ! ほんぎゃーと言わせてさしあげますわ!」  橘が高笑いと共にカードを取り出す。和紙で出来た符ではない。厚みのある金属のカードだ。それは銀色に鈍く輝いている。 「珍しいな。式神符ではなく機巧式神か」  式神にはいくつかの種類がある。大まかに分けて、  自分の意思と霊力で組み上げる思行式《しぎょうしき》。  符や人形代などに霊力を込めて作る形代式《かたしろしき》。  神獣や霊獣などを調伏して使役する降伏式《ごうぶくしき》。  この三つだ。なお例外として、かつて貴族たちから「目に入っても存在しないもの」とされた下人たちを使用人として使うのもまた式神とされた。実際に不可視なのではなく、無視された存在である。故に霊和の現代ではその式神は存在しないといっていいだろう。慣習として、人間を式として形式だけ契約する式人《しきじん》というものがあるらしいが、あくまでも形式的なものだ。  実際に人間と術式で契約する場合は、降伏式となる。  機巧式神、あるいは機甲式神はこの分類でいうと二番目の形代式に相当する。自然に生まれる付喪神を、人為的に作り出し式とする……に近いだろうか。  科学と呪術が生み出した新しい世代の式神で、源流は江戸時代のからくり人形、あるいは西洋の自動人形《オートマタ》から発展したものだ。  ちなみに九重は降伏式である。  彼女のかつての姿はそれはとても……いや言うまい。 「そうですわ! これが機巧式神、【雷鳴虎】!」  カードが発光し展開すると同時に、橘の前に雷を纏った小型の機械の虎が現れた。金属製の関節がぎこちなく動いているが、動きは精巧だ。 「さあ行きなさい!」  橘が命じると同時に、虎が電撃を放ちながら俺に向かって飛び掛かる。  しかし――。 「――それはもう知っている。  急々如律令《ナルハヤ》」  言葉と同時に雷鳴虎の動きがピタリと止まった。いや、動きを止めたのではない。  虎が橘に向かって向きを変えた。 「なっ――何を!?」 「制御を奪った。市販品の式神は楽でいい」  高価とは言え、市販されているなら買えるものだ。ましてや俺の父は特等調伏官である。市販品から特注品まで機巧式神は見せてもらった事があるからな。  機巧式神はある程度の術者なら誰でも扱え、セキュリティは真名の登録だけだ。  つまり構造式は容易に紐解ける。一流の術者なら真名以外にもカスタムを施すものだが、橘はそこまで考えが至らなかったらしいな。 「そんな……泥棒ですわ!」 「戦場ではそれは通用しない」  俺は雷鳴虎の頭を撫でる。 「NTRですわ〜!」  橘は叫んだ。  寝てはいないぞ。  まあいい。 「……行け」  俺は雷鳴虎に号令を下す。 「ほんぎゃーーーーー!!」  雷鳴虎の電撃を喰らい、橘が高貴な公爵家の令嬢と思えない悲鳴をあげた。 ◇ 「くっ、そぉ……っ」  息も絶え絶えで荒上が大の字に倒れて喘ぐ。 「あーーーーーー! 負けた負けたぁあーーーー!!」  やけくそのように叫ぶ。だがその顔はどこか吹っ切れたような爽快さも滲んでいた。 「まさか……本当に私たちを圧倒するなんて。どうやったの?」  弓削が呆然とした表情で立ち尽くす。 「あなた……呪具使いかと思いましたが……違うんですのね……いや、私の式神をNTRった手管はおそろしいものでしたが……」 「お兄様を寝取りチャラ男みたいに言うのやめてくれます?」  昴が橘に頬を膨らませる。  あれから数十分。  俺達の模擬戦は俺の圧勝だった。 「芦原……お前何者だよ?」  荒上が俺を睨みつけるが、その瞳にはもはや敵意は無い。 「つか、霊力00000つてぜってー嘘だろ」 「全くですわ。私も霊力値は低かったですが、私より低いなど到底思えませんわ」  二人が言う。 「……霊力の大半を喪ったのは事実だよ」  俺はかつて父を救うため霊力のほとんどを泰山府君に対価として捧げた。  それはまごう事無き事実だ。 「……それでこれかよ。生まれた素質にはかなわねー、ってやつか」  荒木がそう言った。しかしそれは訂正しておく。 「俺の父は……国家特等調伏官芦原秋房は、かつて五級邪霊にてこずり、殺されかけた……という話だ」 「は? マジかよ」 「嘘でしょう? あの芦原秋房が五級邪霊に?」 「本当だと聞いています」  昴が言う。 「父は兄……が物心ついたころに、兄が古い霊たちから聞いた訓練法で修業し、力をつけたとのことです」  俺はそういう設定である。  藤原の姫に芦屋道満の転生と疑われた時に父と示し合わせてついた嘘設定である。 「霊から聞いた訓練法……?」  弓削が食いついてきた。 「はい。かく言う私め兄に手取り足取り修行をつけていただいたおかげで飛び級入学出来る程になりました、全てお兄様のおかげです」 「それは昴が頑張ったからだろう」  昴が努力したのは事実だ。昴は母に似たのか、見鬼の力を持たずに生まれた、霊力も一般人並みの普通の人間だった。  それが努力でここまで育ったのだ。 「はっ……うまい事言うじゃねえか。要は努力で才能はひっくり返る……っつーことかよ」  荒上が起き上がる。 「……頼む、芦原。俺に……その修行法……教えてくれねぇか」 「あ、私も。負けたままだと悔しいし」 「わたくしもお願いしますわ。芦原秋房様も教わりましたのね。それほどの物ならば……是非!」  皆が手を合わせる。 『どうなさりますか、斗真様』  九重が聞いてくる。九重は俺の前世のことで心配しているのだろう。  かつて弟子たちに裏切られ、死に至った俺の事を。  だが、こうなる事は予想出来た。その上で彼らと戦ったのだ。彼我の力の差を見せられ心折れるならそれでよし。敵視してくるのもよいだろう。  だが、力を求め師事を乞うてくるなら……。 「よろしいです。あなた達がお兄様に負けを認め頭を垂れ反省した以上、もう遺恨は過去のものです」  昴が勝手に言い出した。 「あ、私も。負けたままだと悔しいし」 「わたくしもお願いしますわ。芦原秋房様も教わりましたのね。それほどの物ならば……是非!」  皆が手を合わせる。 『どうなさりますか、斗真様』  九重が聞いてくる。九重は俺の前世のことで心配しているのだろう。  かつて弟子たちに裏切られ、死に至った俺の事を。  だが、こうなる事は予想出来た。その上で彼らと戦ったのだ。彼我の力の差を見せられ心折れるならそれでよし。敵視してくるのもよいだろう。  だが、力を求め師事を乞うてくるなら……。 「よろしいです。あなた達がお兄様に負けを認め頭を垂れ反省した以上、もう遺恨は過去のものです」  昴が勝手に言い出した。  まあいいけど。どうせこういう流れになると想定していたしな。 「だが、厳しいぞ」 「構いませんわ! 私は橘を背負うためにも強くあらねばならないのです、ノブレスオブリージュですわ!」 「……俺はもっと強くなりてえんだ。そうしなきゃ、俺は……」 「……負けっぱなしは性に合わないし。それに……芦原斗真、貴方にはまだまだ興味がある」  三人が言う。  彼らにもそれぞれ背負うものがあるのだろう。その瞳は本気だった。 「わかった」俺は言う。「放課後から早速はじめようか」  そろそろ俺たち以外の班の調伏実技訓練も終わるころだ。 「……」  弓削が実技訓練の方角を眺めて残念そうな顔をしている。よほど特別資料室に行きたかったんだな。  まあ、詮索はすまい。彼女にも事情があるのだろう。 「ふふふ、お兄様。これから忙しくなりますね」 「俺は平和にいきたいんだがな」  ともあれ、平和に行くには周囲との関係を円滑にするのも大事だしな。  それに陰陽術を教えるのは慣れている。  ともかく、方針を考えないとな。さあ、忙しくなるぞ。 ◇ 「急々如律令《ナルハヤ》」  俺の言葉が響く。そして中空に生まれた炎が飛ぶ。 「うわわわわわっ!」  その炎弾を、クラスメート――荒上孝輔が必死に避ける。 「避けてはいけない。術で防ぐんだ。陰陽五行水剋火、基本だろう」  水は火を消し、弱らせる。五行相剋のひとつである。 「は、早いんだよお前の術! つか、前もそうだったけどお前なんで詠唱しねぇんだよ!」 「必要ないからかな」 「チートだろそれ!」  チート。今の言葉で、卑怯、いんちき、などといった言葉だったか。  失敬な。俺はそんな事はしていない。 「ふむ」  俺は術の行使をやめる。指を鳴らすと、炎弾がかき消える。 「はーっ、はーっ」  荒上は息をつき、その場にへたり込んだ。汗だくである。  橘や弓削も同じだった。 「では、休憩がてら座学にしよう。そもそも、何故術に詠唱が必要なのか」 「そっ、そんなこと言われても……常識っていうか……  術の詠唱は己と世界に働きかける力の言葉で……」 「その通りだ」  俺は言う。荒上の言葉は正解だ。  しかし、足りていない。 「己自身に、そして己を通じて世界に語り掛け、因果律に従い理を操り、天地自然の理、五行に従い様々な効果を引き起こす。それが陰陽術だ。  しかし、他者にならともかく、己自身に語るのになぜ言葉を口に出すのが必要なのだろうか」 「それ、は……」  秋房は口ごもる。そもそもそういう発想すらしていなかった、という顔だ。 「何をおっしゃるのやら。術とは例えるならプログラミングですわ。世界に語り掛ける正しい術式、それを精緻に再現することで術は発動する。  そういうものなのです。呪具などわ見れば一目瞭然ですわ」 「確かに、呪具使いの橘さんが言うと説得力あるね。呪具にはあらかじめ術が込められていて、そこに急々如律令の号令で発動する。  術を込められている呪具を使わない場合は、そのプログラムである詠唱を確実に行う必要がある、そういうものだよ」  そういうもの、と橘と弓削が言う。  そう、この時代にはその発想が無い。常識として、術とはそう言うものだとみな思っている。 「これは……もはや「咒《しゅ》」だな」 「咒……ですか?」  昴が聞いてくる。 「ああ。咒とは人を縛る言葉だ。言い換えると、洗脳、あるいは教育だな。  長い時の間に、術の理論が形骸化、迷信化され、それが定説となっている。なまじ起動するから正しいと思われてしまっているな」 「詠唱無しでも術が行えるという事実が、お兄様の理論の正しさを証明していますものね」  昴が胸を張る。  まあ、厳密にはどちらも正しい、といったほうがいいだろうか。  呪術とは存外に柔軟なものだ。だがその柔軟さを押し出していけば、それは逆に万人には向かないというのもわかる。  一般大衆は、感覚的なものよりも理論だてたもののほうが学びやすいものだ。  故に、荒上たちの言っている事も決して間違いではないのだ。 「確かに呪文の詠唱は必要だ」  俺は言い方を変えてみることにした。 「誰か、ひとつ術比べをしよう。  俺が術を放つので、それを防いでみてくれ」 「あ、ああ。じゃあ私がやるよ。だいたいパターンはつかめてきたしね」  弓削が立候補する。  俺は彼女に向かって詠唱を始める。 「五行の二。我、南天の諸神に申し奉る。地よりい出て天に上り、結びて成せよ火の柱。眼前の敵を焼き尽くしたもう」  俺はゆっくりと詠唱を重ねる。秋房は慌ててそれに対する術を汲み上げていく。 「――っ、五行の五! 我北天の諸神に請い願う! 天の恵み、荒ぶる流れを束ね、鎮め守護する盾となれ!」  そして互いの結びの言葉が重なる。 「急々如律令《ナルハヤ》!」「急々如律令!」  瞬間。  俺の眼前の地面が大きく動き、土がせりあがり弓削に襲い掛かる。 「な――えええっ!?」  弓削が叫ぶ。予想と全く違っていた光景だったのだろう。観戦していた荒上や橘も唖然とした声を上げていた。  土塊は弓削の創り出した水の盾を飲み込み、泥となり、そのまま弓削の身体に覆いかぶさった。 「――ひゃあっ!」  弓削はそのまま泥に呑まれる。想定通りである。 「え……? な、なんで……」  泥の中で弓削は混乱していた。さもありなん。 「これが詠唱の使い方だよ」 「な……? だって、今の詠唱は火の……」 「そう。俺の詠唱した言葉で、お前は火の術だと思い、水剋火の原理をもって正しく対応しようとした。それは見事だ。俺よりスタートが遅いにもかかわらず実にスムーズな詠唱で、結び言葉の時には追い付いていてほぼ同時発動だった。見事だよ。  だけどそれを想定できたからこそ、俺は火の呪術の詠唱を述べながら、その実、土の術を放ったんだ」  なお、あえて土の術を使ったのは、まともに当たっても大ダメージを負わないようにするためだ。柔らかい土をかぶせるだけならば大事には至らぬ。水とあわさり泥になり、たいそう見苦しい姿にはなってしまったけど。 「五行相生五行相剋の原理。これを理解し実践する術者だからこそ、そのリズムを崩されると弱い。  フェイントとは実に有効なんだ。  だからこそ、詠唱は大切であり、そして……その実、詠唱は不要。  平安の時代では、呪文|祭文神咒《さいもんかじり》の詠唱とは、術の理を知らない民草へのパフォーマンスだった……と、俺に教えてくれた霊が言っていたよ」  民の前で行う儀式で、詠唱も無しに術を行えば、それは「何もしていない」と思われる。故に必要だったのだ。 「そして、術者の前で詠唱を行えば、何の術を使うか容易に理解され対策を取られる。それを逆手に取り、別の術を陰唱、無詠唱で行う事で裏をかく事も出来る。  術比べとは本来、そういうものなんだ。いかに相手の裏をかくか。じゃんけんと同じだな」 「じゃんけんにそんな知略バトル要素ねぇと思うけどなあ……」  荒上が頭をひねりながら言う。 「そもそも、呪文とは己に聞かせるもの。別段意味を理解していれば、もけけぴろぴろぽんぽこぽん、という呪文でも術を発動させることは可なんだよ。やらないけど」 「やらねぇのかよ」 「非合理的だからな。自分のみの言語をわざわざ作るよりも、ただ詠唱を隠せばよいだけのこと。  まあともかく、みんなにはこれから、術を陰唱する癖をつけてもらう」 「無詠唱じゃなくて、か?」 「ああ。口の中、心の中でただ唱える。  己にわざわざ音声にして言い聞かせなくとも、思い聞かせる事でも術は発動する。  ただ、言い聞かせなければならないという常識、教育……「咒」にこの時代の人間たちが囚われているにすぎない。だからみな、詠唱をする、そういうものだと思っているから」  逆に言えば、それは俺にとってアドバンテージになるのだが。 「……わかったよ。口に出さずに心の中で詠唱する、だね?」 「ああ。それを意図せず出来るようになるまで続けてくれ。反復練習を重ねて、心身に覚えさせ、悟る。これが最も大事なんだ」 「それをすれば、無詠唱呪術が使えるのか?」  弓削が期待を込めて言ってくる、だがそれは無理だ。無詠唱は一朝一夕では出来ない。 「無理だな。無詠唱っていうのは、呪文詠唱と、その他の要素を組み合わせる事で、詠唱を使わずとも術を行う事だ。その訓練を最低でも十年以上は行わないと無理だ」  正しくは、イメージとサインと言葉の連関だ。術の基本であるその三位一体を完全に自身の心に覚えさせる人が出来れば、サインひとつ、言葉ひとつで条件反射的に術が発動するというものだ。 「むう……」  弓削が黙る。  ……こいつはどうにも結果を焦るきらいがあるな。 「お前たちは如月学園に入学できたほどの実力がある、将来有望な陰陽師だ」 「な、なんですの急に褒めて」 「だからこそ、基礎が大事だという事をよく理解してほしい」 「んだよ、基礎なんてもうとっくに……」  荒木の言葉に、 「あら、私は今でも毎日の基礎修行は欠かしていませんよ」  昴が言った。 「十年間欠かさず私は毎日基礎を行っています、そうお兄……父に言われましたから。その地味で地道なたゆまぬ基礎修行があったから今の私があります。  ええ、私もかつては霊力も人並みで、見鬼ですらありませんでした。私が見鬼になったのは七歳の時、お兄様に稽古をつけていただいた時です」  それは事実だ。昴は母に似たのか普通の人間だった。だが努力でここまで来たのだ。 「は? オイオイ嘘だろ、だって芦原妹は新入生トップの霊力値を叩き出したって……」 「というか聞き捨てなりませんわ、昴さんが見鬼ではなかった!?  あり得ません、見鬼……霊視能力の有無は生まれた時に決まる才能ですわ。例外は巨大な霊的災害に巻き込まれたり、邪霊に憑かれて生き延びたりした時の事故の時に見鬼になってしまう生成りで……」 「つか霊力だって生まれた才能だろ!? 鍛えたところである程度しか増えず、生まれた時の素質に左右されるって……」 「それが本当なら、君たちはどんな裏技をつかったというんだい!?」  三者ともに声を上げる。俺は彼らを手で制する。  少し落ち着こう。 「落ち着けよ、みんな。  基礎訓練が大事なのは事実だ。それを地味に続けることで、基礎の霊力は増大していく。  そうだな、荒上が言ってた、霊力は才能っていうのも事実ではある。例えるなら筋力と同じだよ」 「筋力?」 「筋肉繊維の数は人によって決まっていて、それが増える事は無い。それこそ移植でもしない限りな。だけど、筋肉繊維の絶対数は増えなくとも、栄養を取り負荷を与えて鍛える事で筋肉繊維の一本一本は太くなっていき、筋力は増大する。  それと同じだ。確かに霊力そのものは生来の素質に由来するけど、それは鍛える事で強く増大になっていくんだよ。  肉体と霊体はそのメカニズムは決して別物じゃない。ただ位相がズレているだけの、人間の身体だ。  肉体が鍛えて強くなれるなら、霊体も魂も鍛えて強くなれるのは道理だろう」 「それは……そう言われれば道理では……ありますわね。  ということは、私でも霊力を増大させる事は出来るんですの?」 「お前次第だ」  俺は言う。橘は自分で霊力も無く見鬼でもないと言っていた。つまりは常人並みということだ。それでも財力でカバーしたとはいえ、陰陽師のエリート養成学園に入れたのだ、努力を重ねてきたのだろう。  努力と研鑽は……己を裏切らない。 「努力と研鑽を重ねるなら……霊力は増えるし、そして……見鬼にもなれる」  その言葉に、 「そこのところ詳しく! ですわ!」  橘は喰いついて来たのだった。