朝の光がカーテンごしにこぼれ入ってくる。枕元においた植木鉢の影がななめに長くのびて、ベッドの半ばのあたりまでとどいている。 その眺めに、ほんのかすかな違和感を感じて、俺はまだ半分眠ったままの頭をぼんやりと回転させた。 「…………?」 何かが違う。何かほんの、とても些細なところが、昨晩見たものと違う。 思考がゆっくりと覚醒に向かう。俺はベッドに手をついて体を起こし、枕元へ目をやった。 小さな緑色の芽が、植木鉢の縁をこえてぴょこんと顔を出している。 ゆうべ寝る前には、数ミリ程度の双葉がやっとのことで土のかけらを押しのけているだけだった。それが今見るとすっかり葉が開き、茎も1センチ以上にのびて、先端には次の葉までほどけかかっている。 「どうなさいましたか~……?」 隣で寝ていたセレスティアがもぞもぞと動いた。起こしてしまったらしい。 「セレスティア、この植木鉢に何かした?」 「植木鉢? いいえ~」 たっぷりした乳房が背中に押しつけられ、金色の髪がさらさらと腕にふれる。俺の肩ごしにのぞきこんだセレスティアのまだ眠たげな目が、ふんわりと嬉しそうにほころんだ。 「あらまあ、一晩でこんなに育って~。春ですねえ~」 「…………春か」 そのありふれた言葉を、俺は口の中でゆっくり繰り返した。 それから二人でシャワーを浴びる間も、着替えている時も、その言葉は俺の頭の中でぐるぐる回り続けていた。 「朝ご飯の前に、ちょっと散歩に行ってきてもいいかな」 「はい? ええ、もちろんです。朝食を少し遅らせるよう、厨房に言っておきますね」 ちょっと意外そうに、コンスタンツァは微笑んだ。着替えてから朝食までのわずかな時間は朝一番の仕事タイムだ。ふだんなら他のことに費やしたりしないが、今日はなんだか、むしょうに外に出てみたい気分だった。 三月のリヨンの朝はまだまだ寒いが、街はもうすっかり目を覚ましていた。ジャケットの襟を立てたブラウニーやアクアが何人も、忙しげに通りを行き来している。見たことのない顔もたまに通りかかるのは、デルタの支配下にいたバイオロイドたちだろう。 「あっ、司令官!」 「おはようございます!」 俺に気づくとぴょんと飛び上がって敬礼してくれるみんなへ、手を振って小走りに通りをゆく。 デルタを仕留めてから一か月。ヨーロッパを平定した……などとはまだまだ言えないが、変革は着実にすすんでいる。オルカに合流してくれた共同体はすでに数十にのぼり、移住や見学の受け入れも始まった。オルカがどんな所であるかを見て、体験してもらうためのモデルケースとして、リヨン市街の整備は急ピッチで進んでいる。 デルタが本拠地にしていただけあって、インフラの状態はかなり良好だ。建物なども、ちょっと手入れをすればすぐ使用可能なものがたくさんある。いずれは隊員たちが自由に家を選んだり、店を開いたりできるようにもしたいな等と、いかにも商店街っぽい通りを眺めつつ考えていると、さっと視界が開けて冷たい風が吹きつけてきた。 川に出たのだ。大きな川だ。広々とした河岸の道路にそって、街路樹が規則正しく並んでいる。なんという木だったか、いちど教わったのに忘れてしまったが、緑がかった茶色のなめらかな幹がモザイク模様のようにところどころ白く抜けて、節くれだった枝は針金を撚ったようにぎゅっと細く縮こまっている。先週もこのあたりには散歩で来たし、そのとき見た風景と一見何も変わっていないようだが、なんとなく全体がほの淡く、けぶるように輝いて見える。 近寄ってよく見ると、枝の節々から小さい爪の先のような芽が出て、ほんのわずかにほころびかけている。淡い色をした葉や花びらがちょっぴりだけ見えていて、枝どいう枝の芽が全部、街路樹が全部そうなっているので、全体として見るとかすかに色づいたように見えるのだ。 「ああ、そうか。春が来るんだな……」 俺は思わず、声に出してつぶやいていた。それで初めて、自分がどうしてこんなに浮き立っているのかわかった。 何年もの間、俺はオルカで世界中を旅した。いろいろな土地を訪れた。それは春のことも、夏のこともあったが、俺にとっては暑い土地とか、寒い土地とかいうのと変わらなかった。季節の移り変わりを感じるほど長いあいだ滞在したことはなかったし、いずれにせよ旅の途中、かりそめに上陸しただけの場所でしかなかったからだ。 でも今、俺たちはヨーロッパを勝ちとった。俺はフランスで、このリヨンで暮らしている。この先も、何か状況が大きく変わらない限りは、そうする予定だ。 だからこれは俺の春、俺たちの春だ。上陸した土地がたまたま春だったわけじゃない。俺たちのいるここに、この街に、春がやって来たんだ。 「…………ははっ。あはは」 息を吸い込むと、冷たい空気が舌の上で甘く感じられる。そんな味がするはずはないが、そう感じた。 コンスタンツァが、突然笑い出した俺をちょっと心配そうに見ている。俺がどうしてこんなに嬉しそうなのかピンとこないらしい。まあ無理もない、彼女は歴戦のベテランで、春なんて何十回も迎えているはずだ。 俺は河岸をもう一度見渡した。市街の状態がいいということは、植栽や雑草の手入れもされているということで、つまりこれまで訪れた都市のように、そこらじゅうに草木が生い茂ったりはしていないということだ。 「なあ、この近くに緑の多いところはないかな」 「それでしたら、橋を渡って川上へ行くと大きな公園があったと思いますが……」 コンスタンツァが言い終わるのを待たずに、俺は走り出していた。 「……消費電力と室温ログからみておそらく、東ウイング空調システムの6号機に不調が生じていると思われます。6号機はいったん止めて、4号機と7号機でカバーしましょう」 〈了解しました。東ウイングはスプリンクラー配管の老朽化も確認されています。来週末のメンテナンスで重点的な修復を試みます〉 画面の向こうのスティンガーモデルがみじかい腕を器用に上げて敬礼に似た仕草をした。A級AGSであるスティンガーは自身のOSで直接ネットワークに接続できるはずだが、定期報告会では毎回こうして備え付けのカメラとマイクを使って参加してくる。彼女なりのこだわりなのかもしれないと、ムネモシュネは受け入れることにしていた。 「アクアランドの方はいかがですか」 〈相変わらす忙しいで~す〉キルケーが相変わらずのんびりと答える。〈先週そっちでも病院が開いたと聞いてますけど、そのわりにはご新規さんの入院がぜんぜん減りませんね〉 「レモネードデルタ体制下で健康を害したり、心身に傷を負った方が予想以上に多く、こちらの病院はすでに満床とのことです。まだしばらくはそちらにも医療業務を受け持っていただくことになると予想されます」 〈なるほど。遊園地に戻れるのはまだ先ですかね~〉 「お願いします。ほかに、報告事項のある方はいますか」 〈ヨーロッパエリアの情報サーベイで不完全な記録断片を発見しました。アルプス山脈西部に、建設途中で放棄された記憶の箱舟が残っている可能性があります。詳細は別途送信したレポートを参照して下さい〉 「確認します。必要なら私が実地調査に向かうことにしましょう」 その他こまごまとした連絡を終えて、ムネモシュネはデスクトップ端末のウィンドウを閉じた。窓を開けると、朝の風が街の音をはこんでくる。 スヴァールバルに残留したスタッフは予想以上によくやってくれている。一、二か月ごとに箱舟へ帰って点検する必要があるかと思っていたが、この分なら三か月……いや、半年に一度で十分かもしれない。 このあと午前中は中央官舎で打ち合わせだが、まだ少し時間がある。ムネモシュネは外出着のワンピースに着替え、いそいそと部屋を出た。 アパルトマン風の宿舎は、出るとすぐ広い道路に面している。旧時代にはベルジュ通りと呼ばれた道だ。行き交うバイオロイド達はみな厚手のジャケットやコートに身を包んでいるが、極地での活動も想定して設計されたムネモシュネにとってこの程度はごく快適な涼しさでしかない。箱舟で読み込んだ資料によればリヨンは霧の多い街だったそうだが、こちらに来てから一度も霧など見たことはない。人間活動が絶えたおかげだろうか。 ベルジュ通りの反対側には、マロニエの林が左右どこまでも続いている。道をわたり、林を抜けるとすぐに視界が開け、よく刈り込まれた芝生がなだらかに起伏しつつどこまでも広がっていた。 ここは旧時代の名をテット・ドール公園という。170ヘクタールの広大な園内に動物園、植物園、人工湖などを擁する、リヨン最大の公園だ。美観にこだわるデルタの都市整備のおかげで、この中央広場やバラ園など、いくつかの場所は旧時代と変わらない姿をたもっている。 旧時代には行楽客で賑わったであろう広場も今は訪れる人もなく、遠くに芝刈り用のドローンが一機だけ、ゆっくりと動いている.たんたんたん、という駆動音がかすかに聞こえる。足に伝わる、芝を踏む感触。木々の間を吹き抜ける風の音。その風が運んでくる、咲きはじめたマグノリアの香り。 通りすがりにマロニエの枝を見れば、冬芽がすでにふくらみ始めている。幹に手を当てるとひんやり冷たい樹皮の下に、ほのかな暖かさを感じる。植物のもつ熱エネルギーは動物に比べればはるかに小さな量でしかないが、冷気を操るムネモシュネには感じ取れるのだ。人々がコートに身を包み、首をすくめて通りすぎる朝にも、植物はたしかに春の息吹を感じとり、目覚めの力をたくわえ始めている。 スヴァールバル島にも季節の変化はあったが、それは岩肌を覆い尽くす雪が深いか浅いかの違いでしかなかった(少なくとも、箱舟から百メートル以上離れたことのないムネモシュネにとってはそうだった)。しかし、ここでは毎日あらゆるものが少しずつ変化していく。これが自然、ドームに覆われた生態保存区域ではない、小説や映像記録で何度となく目にし憧れたほんものの四季のある自然の風景なのだ。ムネモシュネは幹に手を当てたまま目を閉じ、うっとりと満足のため息をついた。 オルカの欧州侵攻が決まってからというもの、ムネモシュネは箱舟管理者代行としての権限と技術をフル活用してフランスの情報を調べまくった。デルタの本拠地がリヨンにあるとわかってからは、リヨンのことも調べまくった。今のムネモシュネの頭にはリヨンの地理と歴史,植生,野生動物,観光名所などなどの情報がぎっしり詰め込まれている。テット・ドール公園はムネモシュネがリヨンで訪れたい場所の堂々一位であり、ムネモシュネは毎日ここを訪れるのを日課にしていた。市街中心部からはやや距離がある今の宿舎を希望したのも、この公園のすぐ目の前にあるからだ。 今日はバラ園まで足を伸ばしてみよう。一昨日は早咲きのモッコウバラが咲いていた。今日あたり、シャルル・ド・ゴールが咲いているかもしれない。一度は実物を見たいと思っていた品種だ。 浮き浮きと足をはやめたムネモシュネは、 「あれ、ムネモシュネ?」 ふいにかけられた声に立ち止まって振り返った。その声を聞き間違えようはない。オルカの司令官……箱舟の現管理者であり、ムネモシュネを箱舟から連れ出して今のこの景色を見せてくれたその人が、手を振りながらこちらへ歩いてきた。 「管理者様、お早うございます。お散歩ですか?」 「うん、まあね。ムネモシュネは、ここで何を?」 小走りに駆け寄ったムネモシュネは、ハタと返答に困った。何をと言われると、何をしに来たわけでもないのだ。しかし、目的がないというのも違う。どうと言えばわかってもらえるだろうか。しばし頭の中で言葉を選んでから、ムネモシュネはゆっくりと答えた。 「春が……春が来るとは、こういうことなのかと、その印象を味わっていました」 すると意外なことに、司令官はみるみる満面の笑顔になり, 「そうだよな、そうだよな! あっはははは、春っていいよな!!」 ムネモシュネの肩を抱いてくるくる回りはじめた。どうしてそんなに喜んでいるのか、今ひとつ理解できなかったが、彼を喜ばせたのが自分ならこんなに嬉しいことはない。少し離れて付き従っているコンスタンツァが、よろしく、というように目配せをした。 「この公園に来るのは初めてなんだ。よかったら案内してくれないか」 「かしこまりました。ここは、旧時代にテット・ドール公園と呼ばれていた場所です。テット・ドールとは『金の頭』という意味で、黄金のキリスト頭像がこの土地のどこかに埋められているという伝説が……」 司令官の手を引いて、ふたたびムネモシュネは歩き出す。バラ園を見せたらどんな顔をするだろうと想像した。その顔がわずかにほころんでいることに、自分でも気づいてはいなかった。 つめたい風が長い耳をくすぐり、ホワイトゴールドの髪をなびかせて通り過ぎる。生命のセレスティアは誰にも聞こえない程度にちいさく鼻歌を歌いながら、上機嫌で石畳の通りを歩いていた。 司令官の寝室に上がった翌日は、全休がもらえるのが通例だ。明日の予定を気にせずゆっくり愛しあえるし、経験の浅い隊員は実際に一日ダウンして動けなくなることも珍しくない。もう何度も経験を重ねたセレスティアはそこまで消耗はしないが、せっかくなのでゆっくり余韻を反芻しながら朝寝を楽しみ、いま起きてきたところだ。 「久しぶりのお休み、どこへ行きましょうか~」 植物を操るセレスティアのナノボットは、言うまでもなく農業において絶大な力を発揮する。そのため、デルタを倒してリヨンを占領したあとも、セレスティアはフェアリーシリーズとともに周辺の農地の整備や復旧に引っ張りだこになっていた。欧州解放作戦が始まって以来、丸一日の休暇をもらったのは今日が初めてである。 「きれいな街ですね~。緑も豊富ですし」 当然、リヨンの街を散策するのも初めてだ。空気はまだまだ冷たいが、先週までよりも確実に暖かくなっている。並木のプラタナスの冬芽がほころんでいる。春が近づいてきているのが風の匂いで感じられて、セレスティアは嬉しくなる。春は彼女の一番好きな季節だ.グアムの妖精村はもう遠い昔のことのように感じられるが、思えばあそこには雨季と乾季があるだけで春も秋もなかった。 レモネードデルタは自分が住むこの街の美観についてとくに気を遣って整備していたという。そういう所はデルタに感謝すべきなのかもしれない……と、ものにこだわらないセレスティアはわりと屈託なく思ったりするのだが、そんなことをこの街でうっかり口にすべきではないということもわかっている。 (いつか、フランスの他の街も訪れてみたいですね~) などと考えつつとりとめなく歩いていたら、広場のようなところに出た。道の幅がぐっと広くなって、周囲を石造りのいかめしい建物が囲み、屋台らしきものがいくつか出てそれぞれに何かを売っている。 「ケーバブー、リヨン名物ケバブはいかがですかー」 その一つからうまそうな匂いがして、セレスティアはふらふらと近寄っていった。ジニヤーが声を張り上げている横では、ドラム缶を改造したらしいオーブンから大きな肉の塊が顔を出して、ジュウジュウと脂の焼ける音を立てている。セレスティアのお腹がくう、と鳴った。 「これは何のお肉でしょう?」 「羊です!」ジニヤーが元気よく答えた。「昨日シメたばっかりだから、新鮮ですよ」 「軍票で買えますか?」 「もちろんです!」 ジニヤーは長いナイフを取り出すと、炙られている肉の塊から大きな切れを何枚も削ぎおとし,大きな丸パンの中央を割りひらいたのへピクルスといっしょに詰め込んで,焼いたポテトを添えて渡してくれた.両手で持ってかぶりつくと、熱く香ばしい肉汁が口の中いっぱいに広がる。 「ん~~!」 セレスティアは口の中をいっぱいにしたまま、喜びの声を上げる。肉にはスパイスがもみ込んであり、エスニックな香りと辛味が鼻へ抜ける。 「とても美味しいです~。ケバブって、中東の方のお料理でしたよね? リヨン名物だとは知りませんでした~」 「実は、そう言ってるだけなんです」ジニヤーはちょっと恥ずかしそうに打ち明けた。「その方が売れると思って。あ、でも旧時代のフランスには本当にケバブ屋さんが多かったそうですよ! 移民のためなんですって」 「そうなんでふね~」 もぐもぐ頬張りながら会話をするうちにも、子供のバイオロイドが二人、とことこと駆けてきてしわくちゃの軍票を出す。 「ふたつください」 「はい、まいどー!」 二人ともオルカでは見ない顔だが,セレスティアはカタログで知っている.パブリックサーバントの農奴型と、清掃婦型のバイオロイドだ。PECSはコスト上の理由から、労働用モデルには子供型を好んで設計した。この街や周辺の村々に子供が多いのもそのせいだ。この子たちも,手伝いか下働きでもして軍票をもらったのだろう. 「ジニヤーさんは、外から行商にいらしてるのですか?」 「はい、西のモントルヴェ村から来ました。あの、オルカのセレスティアさんですよね?」 セレスティアが頷くと、ジニヤーはぱっと笑顔になる。「先週、雪腐病を治してくれてありがとうございます。あれ、うちの隣の村だったんです。おかげで私たちの牧場も安心して使えるようになりました」 「まあ、それはよかったです~」 「うちはみんなまだ迷ってますが、そのうちきっとオルカに合流すると思います! これどうぞ!」ジニヤーは赤いほっぺで笑いながら、セレスティアのパンに追加のポテトを盛ってくれた。 オルカがフランスを本拠地として腰を据えたことで、一番変わったのは食料事情だ。質や量ではなく、「幅」とでもいうべきものが変わった……セレスティアはそう思う。 これまでのオルカでも食べるものは十分あったし、質も決して低くなかった。酒や菓子などの嗜好品を買い求めることもできた。しかし、それらはすべて外部拠点から搬入している物資であり、広い意味ではオルカから「支給される」ものであった。 今、リヨン周辺にはオルカの直轄農地以外にも、バイオロイド共同体がいとなむ農村が多数ある。このジニヤーのように、かれらはいくつかの手続きをふめばリヨンで自由に産物を売っていいことになっており、市内のいたる所にそういった屋台が出ていて、いつでも好きな時に買うことができる。時間があるなら農村に直接出かけて買ってくるのも自由だ。ツナ缶がなければ、畑仕事の手伝いでも何でもして分けてもらえるだろう。本当にどうにもならなかったら、森に行って木の実や動物を狩ったっていい。 要するに、今や食料は「なんとでもなる」ものになった。これはとても豊かなことだと、セレスティアは思う。はっきり自覚している者はまだ少ないかもしれないが、この豊かさは皆の生きる活力の、そのもっとも深い部分を支えてくれる。それは必ずオルカをより強く、より健やかに、より逞しくするだろう。 「ごちそうさまでした。本当に美味しかったです~」 パンくずの一粒まできれいに食べ終えて、ていねいに礼を述べてから、セレスティアは散歩を再開した。 白や、クリーム色や、さんご色や、いろいろの石で組まれた壁が立ち並ぶ道を気の向くままに歩く.曲がり角があれば曲がってみる。入れそうなところがあれば入ってみる。橋があれば渡ってみる。あてどない散歩は昔から大好きだ。グアムでも、よくブラックワームを連れて森をそぞろ歩いたものである。 「……あら~?」 しかし、森の中と街の中では勝手が違うようだ。四つ辻でふと立ち止まったセレスティアは,自分が今どこにいるのか、まったくわからないことに気がついた。 前後左右のどれも同じような石畳の道に見える。宿舎は市の中心部にあったはずだが、どちらへ行けばその中心部なのか見当がつかない。ちなみにリヨンには「トラブール」と呼ばれる、一見建物の一部のように見えるが実は通路になっている小さな抜け道が無数にあり、そのせいで道に迷いやすくなっているのだが、もちろんセレスティアはそんなことは知らない。 「困りましたね~」 大して困ってもいなさそうにおっとりと右を見たり左を見たりしていたセレスティアは、ぱっと笑顔になった。交差点の角から見慣れた顔が現れたのだ。 「司令官様~!」 小走りに駆け寄ってから、後ろにいたムネモシュネに気づき、一歩引いてお互いぺこりと頭を下げる。寝室当番の翌日は司令官にあまりくっつかないのがマナーだが、この場合は不可抗力として許されるだろう。 「お散歩ですか~?」 「うん、ムネモシュネがこの街に詳しくてね。いろいろ案内してもらってたんだ」 「まあ、助かります! 実は私、道に迷ってしまって~」 セレスティアは今朝の出来事と、たどった道順を思い出せるかぎり二人に説明した。 「それで、広場で売っていたケバブがとっても美味しかったんですよ~」 「ケバブか、いいな」司令官がぺろりと唇をなめて腹に手をやる。「それ、どこの広場かわかる?」 「ええと、橋を渡ったのは覚えてるんですが~」 ムネモシュネがタブレットを取り出して地図を検索しながら、通りの向こうへ目をやった。「あちらの方角から橋を渡っていらしたのなら、リヨン2区だと思われます。2区にある主な広場は……」 「橋を渡ったのは二回だったかもしれません~」 「えっ」 「三回だったかも~」 「えっ」 結局、ムネモシュネのおかげで無事目的の広場は見つかり、屋台のケバブで舌鼓を打つことができた。 そしてそのまま一緒に司令官公邸に戻った三人は、朝食を作って待っていたソワンに氷のような目で迎えられ、平謝りに謝ったのだった。 End