「そいつを片付けてほしいの」
 九頭竜幹部、プーシャの右の頭が、左の頭に顎を乗せ、慈しむように頬をつける。とろりと眠たげな口調に反し、語る内容は残酷そのもの。
「確実に、くたばらせてほしいのよ」
 写真の男、シリョカ=ネモネーヨは、かつて非合法の品を仕入れ、流通させる商人だった。しかしある時突然、プーシャの魔薬を抱え込んだまま支払いを踏み倒し、ギャンブランドに高飛びした。
 賭博公国、ギャンブランド。強力な結界に守られたそこでは、賭博の結果ならぬ殺しは不可能だ。数年引きこもっていたそいつ、ほとぼりが醒めたと思ってか、近く首脳会談が開催される、コーモリウス共和国に現れるという。
「へ。そいつはあたしで構わないんですかい?」
 プーシャと同格の幹部、ヴルストラが、大きな体躯を震わせ、彼が決して示すことのない、おどけた調子で答えた。
「ギャンブランドに居るんでしょう?わざわざ殺しにしなくとも、賭博に持ち込んで吐き出させるとか」
 小柄な竜人、チキンディナーが、左右色違いの目で見上げる。
「キョンシーに変えてこき使うとか?」
 金貸しロンローンは、貼った相手をキョンシーに変える札を、ひらひらとたなびかせて見せた。
「要らないの、そういうの。金の問題じゃないの」
 プーシャの二つの頭が、顎を擦り合わせる。言葉の内容には相応しからぬ、甘く溶けた声音。
「私たち、あいつが生きてるのが嫌なの。あいつが今、息を吸って、吐いてるのが許せない」
「承知しました」
 ひょろりと痩せた、貧相な竜人の男が答えた。ヴルストラも、チキンディナーも、ロンローンも、この男が姿を変えていたのだ。
 九頭竜傘下、殺し屋ジャクソン。高度な変身魔術の使い手。体表の鱗が、奇妙な芸術作品のように色を変えた。
「念の為聞いておきますが、消すだけでよろしいんで?殺し方に指定は?」
「構わない、なんでも。死ねばそれでいい」
 プーシャは宙に視線を漂わせ、夢見るような口調で答えた。
「さようで。ありがたいことです」
 ジャクソンは、組織の求めるあらゆる殺しを請け負う。幹部に限らず、誰からもだ。依頼人は時として、訳のわからない殺し方を指定してくる。どう殺してもいい、というのは実にありがたいことだった……勿論、依頼そのものは簡単ではないのだが。

 この国は貧しい。富んだ地域にしか通されずとも、ヘルノブレスにはわかってしまう。
 たとえば異なる国の様式が入り混じる、どこかちぐはぐな建築物、たとえば輸入された物品だけから成る調度品。たとえば、他国の料理を正確にコピーした、晩餐会の食事のメニュー。
 すべてが一流の職人の手によるものであるだけに、歪さはなお、浮き彫りになった。コーモリウス独自の文化がどこにも見えない。そもそもが、多くの国や種族が集まってできた国であるというのに。
 こんなことを考えてしまうのは、晩餐会の席があまりに静かだからだ。交わされるべき会話が一切ない。微かな衣擦れ、わずかに食器が触れ合う音以外には、何も聞こえてこない。
 そっと、隣に座るダースリッチの顔を盗み見る。彼は普段通り、どこか苛立った顔つきで、黙々と食物を口に運んでいる。粘土と取り替えても気づかないのではないかという、食事内容への興味のなさだ。四天王勢揃いではないのは、エゴブレインとエビルソードには、国外との交渉など不可能だからである。
 彼の向かいに座っているのがズルムケリウス。その向こうに、サイラントの女王アイルノヴァ・サイラント。レンハート勇者王国ユーリン王は、王妃シュガーと仲睦まじく並んでいる。戦場でしか見えることのない、人族の王たちに対し、どう振る舞うべきか、ヘルノブレスには理解しきれていない。
 兄ならば、何ら戸惑いなくこの席についたのだろうか。王たちの視線を避けた目が、ウァリトヒロイ国王シュティアイセ・アンマナインに行き当たる。彼女はヘルノブレスのまなざしに気づき、指をひらひらさせて、微笑んで見せた。笑い返すことがどうしてもできず、ぎこちなく頷く。兄様。兄様ならどうなさいましたか。
 冷たい空気の中、グラスを優雅に傾けるのが、コーモリウス共和国国王カホール。蝙蝠の獣魔である彼の、尖った大きな耳は、絶えず細かく動いている。実際に国の舵を取るのは、その両隣に座す人魔の議員たちであって、彼は実権のないお飾りに過ぎない。土地の先住民であったこの種族に、国が敬意を払っていると広告する、それだけが彼の存在意義だ。
 獣魔。実にこの国の王にふさわしい種族。魔族からは獣魔、人族からは獣人と呼ばれる生き物たち。人族支配域には、彼らをヒトとして認めていない地域も多い。一方魔族にも、彼らを獣と蔑むものは少なくない。明確に人族とは異なる姿を持ち、多くは魔族ほど強力な魔力を持たない。彼らは人族と魔族、どちらでもあり、どちらでもない。
「ヘルノブレス様」
 カホールが口を開く。この晩餐会で初めての会話である。その声は甲高く、かなり耳障りだった。
「料理はいかがです。何分野卑の国でありますので、お口に合えばよいのですが」
「素晴らしいと思いますわ」
 王の目がまたたき、微かに微笑んだ。今の言葉がお世辞に過ぎないことを、理解しているのだろう。
「お褒めに預かり光栄です」

 コーモリウス共和国は、首脳会談を前にして、厳戒態勢に入っていた。道道に兵士が並び、海辺を武装船が巡回し、魚人の警備兵が水中に潜む。入国審査の物々しさといったら、滑稽なほどである。番犬のように尖った表情の入国審査官は、その手に握った剣を、今にも突きつけんばかりの剣幕で問う。
「入国目的は?」
「観光です。高名なレンハート王のお顔を、一目拝みたいと思いましてね」
 そこに、堂々と正面から入る。入国審査官が、ためつすがめつ身分証明書を確かめ、まさしく犬のように臭いを嗅ぎ、鼻を鳴らして判を押すまでの一連の様子を、ジャクソンは一点の曇りもない笑顔で見守る。変身は完璧だ。疑われるはずがない。
「入国」
「ありがとうございます」
 瞬時に興味を失った入国審査官に笑顔で手を振り、コーモリウスの街に足を踏み入れる。一歩建物を出れば、降って湧いた大きなイベントに、街は湧いていた。底抜けに明るく、しかしどこかに怯えを抱えて。
「バナナ!バナナバナナバナナ!」
「魔鯵だよ!一口で天上に昇る味わいだよ!魔界の外じゃまず口に入らないよ!」
 呼び込みの声かしましく、道のそこここに屋台が立ち、土着の民ではないであろう、華やかな服装の人々が行き交う。こんなにカモが集まっていれば、後ろ暗い連中だって、やってくるというものだ。そう、ジャクソンのような。
「花を買っていきませんか?」
「ああ、いいともいいとも……」
 差し出された手に小銭を渡し、花を帽子に差す。夕方には萎れて散るだろう。
 コーモリウス、掌返しの国。力弱い土着の獣族と、国を追われた魔貴族や魔族、元は小国を持っていた人族、そんな半端な連中が寄り集まり、いやいやながら手を組んでできた国。風向き次第で、魔族と人族どちらにもよろめきながら、国内にも国外にも火種を抱えたまま、ぎりぎりの独立を保っている。
 弱く、脆く、決して平和ではない土地。真に和平のための話し合いならば、国そのものが暴力を拒むギャンブランドか、永世中立を謳うドッティモで行うだろう。
 つまりこれは茶番だ。全滅戦争の前に、話し合いの意志があったのだと、周囲に、あるいは後世に示すためだけの。

 数人の護衛を連れて、ひょこひょこと歩く小男。鳥のように首を回して周囲を伺う様子は、まるで事情を知らぬ者からでも、後ろ暗いところがあると見抜かれるだろう。
「怪しい者はいないか」
「心配ありません、ブラザー」
 世界の破滅と、次の世界への旅立ちを願うという、邪竜教徒過激派の小男。破滅を望むくせに、やたらに不安がる様子は、なんとも滑稽だ。
「何も感づかれていないな」
「心配ありません、ブラザー」
 得られた情報は、この男がターゲットと面会するというところまでだった。どこから入ってきた話なのだろう、教団の長に納まっている、ペテン老師からだろうか。してみると、あの気位の高いプーシャが、他の幹部に借りを作ったのか?いやむしろ、ペテン老師が隠していたことを、プーシャが暴き出す方がありそうだろうか。
「尾行などされていないだろうな」
「心配ありません、ブラザー」
 どうでもいいことを考えながら、堂々と姿を晒して尾行する。決して怪しまれはしない。演技には自信がある、明日から大劇場の主役を張ってみせてもいい。怪しまれたとしても、姿はいくらでも変えられるのだ。
 男は護衛と共に、乗り合い馬車に乗り込む。ジャクソンは素知らぬ顔で、彼らの隣に座る。男らが馬車を乗り換える。姿を変えて後ろに座る。何度か馬車を乗り換えた後、男らは迎えに来ていた馬車に乗り込んだ。おお……。
 ジャクソンは子供に姿を変えた。視認されないよう、死角から車の下に潜り込み、本来の姿に戻って車体にへばりつく。壁に貼り付くのはジャクソンの特技だが、こうも揺れる場所に身を隠すのはちょいと応える。「竜は我慢しない」とは、九頭竜頭首、ザモの言葉だが、暗殺者は我慢の連続だ。

 走る馬車の下、石や障害物にぶつからないよう祈りながら(何に?神など信じてはいないが?)待った時間は報われ、ジャクソンはめでたく五体満足のまま、馬車を降りることができた。
 やはりきょろきょろと周囲を見回す男を、屋根の上から悠々と見下ろしつつ、その後を追う。自分にできないことは、他者にもできないと思い込んでいるのが、人族の愚かなところだ。
 古びた建物の扉が開く。中で待つ、人族と魔族の混成集団が見えた。人を見る目に優れるジャクソンは、その集団が、はっきりと二つに分かれているのを瞬時に見て取った。集団の片方は人族のみ、もう片方は魔族のみ。互いが互いに対して、深い憎悪を燃やしている。その中に所在なげに、ターゲット、ネモネーヨが佇んでいる。
 年取った人族の男が、急いだ様子で駆けてきて、扉の前をすり抜けようとした。魔族のひとりが無表情に銃を向ける。ぱすっと間の抜けた音。あらっ。
 邪竜教徒の男が、言葉もなく顎を震わせる。ネモネーヨが震える声で問うた。
「何故殺した?」
「コーモリウスでは、殺人は異常事態ではないのですよ」
 撃った者とは違う魔族が顎を上げ、せせら笑う調子で返答した。下っ端であろう若者が、建物から無言で出てきて、死体を抱え引きずってゆく。
「平和なギャンブランドでは、そうではないらしいですがね」
「ギャンブランドだって平和じゃない」
「少なくとも、誰にも顧みられない死体が、市街の道端に転がっていることはない。そうでしょう?この国は貧しい。魔族、人族、どちらの勢力とも手を組めないからです」
 今度は人族の女が答える。
「我々は魔族と人族の融和など、信じていないのです。二種族が並び立つことはありえない」
「そうだ。皮肉だが、その点だけは意見が一致している」
 なんだこいつら面倒くせえ。ジャクソンは、音を立てないように注意しいしい、顎の下を掻いた。
 屋根の縁にとまっていた、小さな黒い蜘蛛が毒牙を震わせる。ジャクソンの鋭い目すら、その存在には気づかなかった。ましてこの急ごしらえの混成集団が、気付けるはずはなかった。

 コーモリウス旧市街の一角、元繁華街、今は貧民街。古びて崩れかけた建物が立ち並ぶ。屋根の凹凸の隙間、道路からは死角になる位置に、異形の影がひとつ、うずくまっている。骨の露出したような身体を丸め、細長い腕を背に折り畳む姿は、その体本来の大きさに比して、異様に小さかった。
 ダースリッチ軍、ナイトスイーパー。魔王軍の掃除屋。その赤い八つの目には、街に放たれた使い魔たちの視界が視えている。蜘蛛の魔族である彼は、こうして蜘蛛そのものの如く、警戒の網にかかる獲物を、待ち続けているのだった。
 彫像のように不動だった彼が、わずかに身じろぎする。
「ダークシャドウ」
『はい』
「奇妙な集会がありました。場所を伝えます」
 通信魔術の回線の向こう側、柔らかく中性的な声が返答する。ナイトスイーパーは手短に、要件と場所だけを伝える。
「状況確認をお願いします。何かあれば報告を」
『了解しました』
 ヘルノブレス軍、ダークシャドウ。夜を切り取ったようなフードの姿が、暗闇から滑り出る。

「日時は……だ。離宮に各国の王族が集まる……」
 ふうん?
「そこで我々が突入し、殺す。全員だ」
 ほお。
「世界に混沌が訪れる……我々の手を伸ばす隙間も生まれるだろう」
 へええ。ジャクソンは天井裏に潜み、退屈しつつ話を聞いていた。内容にははっきり言って、全く興味がない。世界がいかに荒れようと、やくざ者の居場所がなくなることはない。もちろん、荒れなければ、全てが今まで通りだ。肝心なのは、ターゲットが、この後どこに行くかのみだ。
「言っておくが、私は武器の伝手を提供しただけだぞ」
「ええ。あなたの関与は誰にも知られません」
 あほらしい。ここまで首を突っ込んでおいて、口を拭って知らん顔で済むわけがないだろう。
「ところで、お約束のダハーカアジですが、蠟后会と交渉しました。我々が仲介しましょう」
「頼む。金はここだ」
 その見通しの甘さが、彼に死をもたらすのだ。あのプーシャに喧嘩を売って、無事で済むわけがない。ジャクソンは退屈しながらも、彼らの会議を最後まで聞いた。
 邪竜教徒の男が去り、魔族の集団のひとりが出ていく。続いてもうひとり。ジャクソンは屋根の上に這い出して、ターゲットを待つ。色を変え始めた空に対応し、鱗が地上からは見えづらい色に変わる。
 ネモネーヨが歩き出した。どこへ向かう?朝の迫るぼんやりとした闇の中、ゆっくりと後を追う。集団と離れ、護衛だけを連れて、路地を抜け、四つ角を曲がり、バラックの間を抜ける。さて、どこで殺すか。
 ふと、首筋に寒気を感じる。咄嗟に大きく捻った首に銀の糸が絡む。しゃがみこんで回避、体ごと転がるようにして、距離を取る。知らぬ間に真後ろに立たれていた。黒い体。白い顔に並ぶ八つの赤い目。蜘蛛の魔族。
「……」
 殺し屋は、初撃で相手を殺せなければ負けだ。その意味では、両者共に既に敗北していると言える。後は撤退戦だ。両手を上げ、降参のポーズを取ってみせる。
「よせよ、俺と戦っても何の意味もないぜ」
 ジャクソンは言うなり踏み込んだ。尾をカウンターウェイトに、強引に慣性を支配、横に出ると見せかけて後退し、一直線に壁面を駆け上がる。三十六計逃げるにしかず、この移動について来られるものはまずいない。
 だが蜘蛛男は対応してきた。細長い腕を伸ばして壁を掴む。腕を支点に瞬時に向きを変え、追尾してくる。
「ヒヒ、やーねぇ。この一発芸で飯食ってんのよ俺……!」
 屋根を蹴って、走る、走る。崩れかけていた瓦を見つける、蹴って破片をぶつけようとしたが、敵は腕立て伏せをするように、腕を伸ばして胴を持ち上げ回避し、迷いなく距離を詰めてくる。こいつは俺より上手だ。同等の動きをする敵と、戦った経験が何度もあるやつだ。
 こいつは、魔王軍だ。竜人は汗をかかないが、もし人間であれば、冷や汗まみれになっていただろう。ジャクソンの技術は隠蔽に特化していて、戦闘を専門とする相手には、直接戦闘力ではとうてい敵わない。
「チッキショー、ふざけやがって……弱い者虐めしちゃいけませんって、ママに教わらなかったのかよ」
 どこかへと追い立てられているのがわかる。人のいない方へ、いない方へ、おそらくその先にこいつの狩場が待っている。その意志に逆らい、人がいる方へ、いる方へと走ろうとする。壁を走り、屋根を跳び渡り、高速の鬼ごっこ、負ければ死が待っている。
 蜘蛛男が走りながら腕を振る。見えない何かが背にへばりつく。踏み出せない!糸かよこれ!ズルだろ!
 ジャクソンは息を吸い込み、首だけで振り向いた。開いた口から火炎が噴き出す、奥の手の一発芸、ブレスが糸ごと敵を焼き焦がす……いや、燃えたのは糸だけだ。本体は寸前で体を躱していた。
 長い指が素早く伸びる、ジャクソンはサブの一発芸を披露、体色を瞬時に迷彩に変更、距離感覚を狂わせながら後ろに跳ぶ。果たして伸びた手は空を切った。ジャクソンは落下する、運河へ、丁度訪れた、朝最初の船の屋根へ。落下しながら再び息を吸う。
「火事よおおお!」
 女の裏声で叫ぶ。騒がしくしていた成果が上がり、街の者たちは目覚めている。不安げな顔が窓から覗く。魔王軍、姿は見られたくないだろう?
 魔王軍の殺し屋は、無表情のまま、明け初めし街を見やった。建物の隙間を這って、たちまち姿を消す。俺の勝ち!
 ささやかな勝利を味わった後、大きな敗北に直面する。おいおい!ターゲット見失っちまったじゃねえかッ!

 上官たちが話を終えて、三々五々、散っていく。護衛の任務もようやく終わりだ。
 気が緩み、つい、警戒を怠った。煙草の火を点けようと、ポケットに手を入れた瞬間、闇から伸びた手が、首に絡みつき口を塞ぐ。
「魔弾銃ですね。珍しい武器です」
 背後の何者かが銃をむしり取る。両手を捉えられ、地面に拘束される。
「あなた方皆が、同じ武器を持っていますね。誰から手に入れたものですか?」
 耳元で、ひたすら穏やかな声が囁き続ける。
「勿論、貴方には黙秘権があります。しかしながら、早期に告白して頂いた方が、お互い苦痛を伴わず済ませられると思うのですが」
 そこで声はふと言葉を切った。くぐもった囁きが聞こえてくる。話す内容までは聞き取れないが、背中の後ろの返答はよく聞こえた。
「ええ。ええ。承知しました……」
 再び話しかけてきた声は、やはり穏やかに告げた。
「申し訳ありません。事情が変わりました。あなたには死んでもらいます」

「コーモリウスの反政府組織か。更に別の組織と手を組んでいると言うのだな」
 ダースリッチは問いかけ続ける。
「はい……死なせてください……」
 ゾンビはもがきながら答えた。
「どこから来た組織だ?何を目的としている?」
「……我々はより良き世界を……死なせてください……死なせて……」
「こいつ、これ以上は何も知らんようだな」
 ダースリッチは忌々しげに歯をきしらせた。
「そのようですね。別の者を捕らえてくるべきでした。私のミスです」
 ダークシャドウは頭を垂れる。
「未知の竜人とやらも捕獲できずか。最初から死体を持って来いと命ずるべきだったな」
「彼らのせいではありませんわ。むしろ、早期に気づいたことを褒めるべきです」
 ヘルノブレスはとりなす。ダースリッチはもがくゾンビを放置して、赤い目をぎょろりとこちらに向けた。
「問題は、この情報をどうするかだ。どう思う、ヘルノブレス」
「ええと……公開すべき、ではないかしら?コーモリウスとは友好関係にありますし、人族国も敵であるにしろ、今は交渉相手ですもの。知りながら放置したとあっては、魔王国の名に傷がつくでしょう。少なくとも、コーモリウス側には伝えなくては」
 急に問いかけられ、ヘルノブレスは少し焦りつつも答えた。この男と話すと、子供の頃教育係に質問をされた時のような気分になる。相手がとうに知っている、正しい答えを探している時の、決まりの悪い感覚。ダースリッチが、本当に意見を求めているのは、わかっているのに。
「しかし、我々が市街に暗殺者を放っていたことが明らかになってしまう」
「すべてを明かす必要はありませんわ。コーモリウスは深く追求して来ないはず。テロの危険があることだけ、伝えればいいでしょう」
「うむ……」
「我々も、大した事を知っているわけではありませんもの。疑う点もないでしょう?」
 ダースリッチは頷いた。
「わかった。コーモリウスと話そう」
 ヘルノブレスは息をつく。どうやら正解は出せたようだ。

「全く、とんだ一時休戦じゃのう!」
 シュティアイセは屈託なく笑顔になった。
 魔王国からの報告を受け、コーモリウスの高官たちは、情報の出処を伏せて、人族、魔族双方への情報共有を行った。
 コーモリウスは、貧しく、軍人も乏しく、テロ対策ノウハウにも欠ける。魔王国人類国共に、伴う手勢はわずかだが、この国よりは遥かに情報、武力共に優れている。彼らに国内での活動を許可する、コーモリウスに協力してほしい、とそういった内容が各国首脳に向けて伝えられたのだった。
 現時点で国にいる王族は多くない。まだ国に到着していなかった者の多くは、テロの報を受けて、通信のみでの参加に切り替えている。そうした状況でも他国に頼らざるを得ないほど、コーモリウスは力のない国なのだった。
「ということで、よろしく頼むぞダースリッチ殿。いやはや苦労してそうな顔しとるのう」
 女王はダースリッチにずいずいと近づくと、当たり前のように手を握った。
「ん?んんん……?は……いや……」
「そもそも休戦を視野に入れた会談ではないか。何を変な顔しとるのよ」
 シュティアイセは周囲を見回し、やはり屈託なく文句を言った。ダースリッチは実に珍しいことに、険の抜けた表情でぽかんとしている。自分も彼と同じに、間抜けな顔をしているだろう。
 呆然としているのは魔族だけではない、人族もだ。武闘派として知られる王、ズルムケリウス、アイルノヴァ、いずれも驚愕をもろに表情に出している。他国の王や大臣も、あからさまではないにしても、動揺した様子だ。
 それが当然だ。誰も和平が成り立つとは思っていない。人族にとって魔族は侵略者、魔族にすれば人族は領土を奪う敵だ。戦禍に身内を失った人族は多く、ヘルノブレス自身、最愛の兄を人族に奪われた身だ。今朗らかに振る舞うシュティアイセとて、腹の中ではどう思っているかわからない。しかしこの時ばかりは、彼女の持つ明るさが必要なのではないか。
 兄様。兄様ならどうなさったかしら。
「魔王国軍四天王、ヘルノブレスです。よろしくお願いしますわ」
 シュティアイセの手は思いの外大きく、剣だこがあり、力強かった。国を担う者の手なのだ。
「わはは。よろしくよろしく」
 彼女はその手を、子供のように、上下にぶんぶんと振った。

「反政府組織?竜人?どこから来た情報だ?」
『会談の日程をずらした方がいい。公開されていてはいい的だ』
『逆に会談を囮として、一網打尽にするのはどうだ』
 通信・対面双方で活発に議論が交わされる。コーモリウス王カホールもそこに座していたが、何の意見も求められなかった。ただ、そこにいるだけ。姿が見えている分なおのこと、彼が単なる飾り物であると、くっきりと示される。
「姿が見えない相手を、待ってるだけってのは性に合わない。本当はこっちから打って出たいぐらいだ。俺が冒険者だったらなあ……」
 ユーリンが忌々しげに口走る。シュガーがその様子をじっと見ている。
「魔族と人族でそれぞれ別の反政府組織がおるんじゃろ?どこかから情報は掴めんか?」
「国内の魔族有力者と人族有力者から、情報収集を行いましょう」
 シュティアイセの提案に、コーモリウス高官が答えた。彼女の言葉に、ヘルノブレスも案を思いつく。
「コーモリウスは魔王国と商取引を行っていますわ。そちらから追ってみましょう」
「その手もあるのう!わしも知り合いに聞いてみる!」
 ヘルノブレスの言葉を聞いて、シュティアイセがぱっと花咲くような笑顔になった。

「ワースレイ様、なんとお懐かしい。わしのことを覚えていてくださったのですな」
 商人ヅィオーク、人族よりも、そしてほとんどの魔族よりも、遥かに長寿な種族。彼は今、長い生の終わりを迎えつつある。鱗の肌は干からびて生気を失い、目の色は白く濁っている。
 かつて彼は魔貴族だったが、敗戦の責任を取って爵位を剥奪され、国外追放刑を受けた。この老人との面会は、ヘルノブレスの持つノブレス商会と、古き魔貴族ワースレイ翁、そして他の魔貴族に嫁いで国に残っていた、彼の娘の遺子の交渉によって成ったものだ。
「死に際にも逢えませなんだ。何もしてやれぬ親でした。それでもあの子は、わしを父と思ってくれていたのですなあ」
 老人はしみじみと、涙を含んだ声音で言った。ヘルノブレスに聞かせるというよりは、こみ上げる気持ちを声にせねば納まらないという雰囲気であった。目頭を指先で払い、小さく息をつく。
「折角お訪ねいただいて申し訳ないのですが、わしは商売人です。たとえこの国のためだとしても、客の情報を差し出すことはできません」
「おっしゃることはわかりますわ……けれども国が失われれば、商売どころではなくなってしまうでしょう」
 ヅィオークは答えず、立ち上がった。杖を取り、扉を片手で示す。
「少し歩きませんか。街を見ていただきたいのです」
 隠蔽と変装の魔術を重ねがけして、正体を隠してはいても、コーモリウス街を歩くのは不安だった。治安の良くない街特有の、生き物のの体臭とごみの饐えた悪臭が混じった臭いが漂う。
 魔族街は、魔王国より遥かに混沌としていた。国を追われた種族たちが、それぞれてんで勝手に自身の好む環境を作りたがるからだ。街並みの揃わぬ様子は、激しい貧富の差を伺わせる。
「汚い街でしょう。そこの館は、サウスヴェルナ海戦の時に造られたものです」
 示された館は造りは立派なものの、年月に打ちのめされたまま修理もされず、ひどく傷つき、崩れかけていた。
「これはエビソニグ戦時にできたばかりです。こう言ってはなんですが、戦争成金のこさえたものですな」
 大邸宅の壁は魔法できらきらと輝き、美しいというより、玩具の宝石のような下品さを漂わせている。
「ここは先の魔王国大敗戦時から、貧民街のままです」
 互いにもたれ合い、なんとか形を保っているぼろぼろの小屋は、それでも度々作り替えられているのか、形状や材料が異なる部分が、モザイク状に組み合わさっている。老いた魔族は、歩きながら語る。
「わしはこの国と、そこに住む魔族と人族の、いい時も悪い時も見てきました。いい時も悪い時も、この国自身が決めるのではないのです。人国が安定している時は人族が栄え、魔王国が強い時は魔族の羽振りが良くなります。すべてがどん底の時期に生まれ、一生をどぶの中で生きる者もおります。念願の子供を授かった翌日に没落し、乞食の身に落ちる者もおります。人も魔も皆が憎み合う、その理由がわしにはわかります、仕方がないのです。明日すべてを失うかもしれないなら、どうして隣人を愛せましょう」
 汚い格好の魔族の子供らが、我が物顔に道を駆け回る。時たまその中に人族の子が混じる。子犬のようにじゃれ合い、追いかけっこをするその子らも、いずれは憎み合うようになるのか。
 ヅィオークは歩調を緩めると、声をひそめてささやいた。
「しかし、不当に隣人を憎んでいる者は知っておりますよ。そこの邸宅をご覧下さい。わかりますかな、人喰いラパ=ラパの持ち物です。わしは客の名は流せませんが、奴が汚らわしい差別主義者だと、あなたに伝えることはできます」
 ヘルノブレスは目を見張った。
「……ありがとうございます」
 老人はいいえと小声で答え、歩きながら、更に何人かの魔族の家を示した。
「わしは長いこと、この国を見てきました。孫のようなものです、貧しくとも汚くとも、愛さずにはいられない。まことの孫には、一度もお目にかかったことはないのですがね」
 ヅィオークは、ふふ、と悲しげに笑った。
「さあ、わしがお役に立てるのはここまでです。高貴な方に随分な距離を歩かせてしまって、申し訳ございませんでしたな」
 老人は疲れた様子で、杖に寄りかかった。
「ありがとうございます。本当にありがとう」
 ヅィオークは頷き、うつむいて、少し口を閉じていた。そして躊躇いながら口を開いた。
「わしとあなたは二度と会わないでしょう。最後にひとつ、ひとつだけ。この老いぼれの愚痴を聞いて、そして忘れてはいただけませんか」
「ええ、わたくしでよろしければ、何なりと」
 ヘルノブレスは姿勢を正し、傾聴の態度を示した。落ち窪んだ、悲しげな眼が一度こちらを見て、再び伏せられた。
「コーモリウスはわしの国です。今更魔王国に帰りたくはありません。人にも魔にも、かけがえのない友がおります。ここに来ねば知らなかっただろうことも、ここに来るまで知らなかったのを恥じる物事も山ほどありました。わしはこの国を愛しています。しかし、しかし……」
 もう魔貴族ではない男は唾を飲み込み、2、3度喉仏を動かした。そして、血を吐くように言った。
「わしはあの時、ああなってよかったとは、どうしても言えないのです」

「どうじゃった?」
 戻ってきたヘルノブレスに、ハチロクの中のシュティアイセが話しかける。
「目星は付きましたわ」
「そうか!よかったわい!わしはこれからじゃが、一緒に来ぬか?」
 ヘルノブレスはたじろぐ。
「よろしいんですの?」
「もちろんじゃ!」
 シュティアイセは元気よく答えると、人族街の奥へ奥へと、どんどん入っていく。
「シュティアイセ様?」
「今はティアと呼んでくだされ」
「ティア様。この奥ですの?これではまるで……」
「盗賊ギルドに知人がおりましての」
 暗く陰気な路地を通り過ぎ、呪術の触媒が並ぶ店の前を抜けて、明らかに堅気向けではない構えの店が並ぶ区画へ、彼女はずんずんと突き進んでいく。
「つるつるぴかぴかの真っ白な国など、この世のどこにもありませんでしょう。暗い場所にしか住めない者も、明るい場所に行けなかった者もおりますわい。そりゃあ、悪人は処罰せねばなりませんがのう、きれいな場所だけ見ていれば良いとは、わし、思うておりませんのじゃ」
 シュティアイセは複雑な彫刻がある門の前に立ち、呼び鈴を鳴らした。
「宵の明星の紹介で参った者ですじゃ!ロータス珠子殿にお会いできますかの!」
「伺っております。こちらへ」
 漆黒のベルベット地に水辺の植物を刺繍した派手なドレス、肘まである長い指抜き手袋、年齢もわからぬ濃い化粧、朱に塗った唇、そして髪に差した蓮の造花。その姿は、一目見れば二度と忘れ得ない、強烈な印象をもたらす。
「あたくしがロータス珠子です。紹介がなければお会いしませんでしたわ」
 長い睫毛の下で、強い眼が二人を見た。ヘルノブレスが普段接しない人種だが、生まれついての性を、努力によって塗り替えた彼女の姿には、確かに大輪の花のような、人を惹き付けて離さない美があった。
「お座りくださいな。今お茶をお出しします」
 ロータス珠子は席を示した。シュティアイセがすとんと座ったので、ヘルノブレスも恐る恐る席につく。
「魔族に対して不満を抱いている者は、この街には無数におりますの。人族国が負ければ負けるだけ、人族の立場は弱りますから」
 爪が紅色に塗られた手が、ティーカップに茶を注ぐ。彼女の身体は一分の隙もなく、彼女の意志の通りに飾られている。
「この国も民も、辛いでしょうな。珠子殿も魔族を嫌っておいでですかのう?」
「あたくし自身は、いいえ。人族が勝てば魔族に、魔族が勝てば人族に、必要な物を売り捌く。それがあたくしです。でもね、国が潰れてしまえば、商売はおじゃんです」
 ロータス珠子は美しい爪の先に紙片を挟み、ぴしりと卓に置いた。
「蠟后会の紋章です。質の悪い薬物を流す、ちっぽけなやくざですわ。少し前から、ここがダハーカアジ麻薬を大量に輸入しておりますの。そのくせ市場に流す様子は見えませんでしてね」
 珠子は冷静に語りながら、眼に火を燃やしていた。彼女を満たす憤りは、口からは漏れ出さず、内側で燃え盛るだけだった。
「怪しんで覗いてみたら、妙な相手と取り引きを始めておりました。武器を随分仕入れて、まるで戦争でもするみたいな様子の連中。おかしいと思っていましたのよ。ティア様のお話を伺って、あたくし腑に落ちました。何か起きるとしたら、彼らが関わっているはずです」
「ありがとうございます、ロータス珠子殿。恩に着ますぞ」
「いいえ、おかまいなく。ここはあたくしの国です。盗られてたまるものですか」
 ヘルノブレスの口をついて、質問がこぼれ出した。なぜか、聞かずにはいられなかったのだ。
「あなたはこの国を、どう感じていますの?」
「ここまで歩いて来られたなら、おわかりになりますでしょ?どぶ池でしてよ、コーモリウスは」
 ロータス珠子は朱の唇に、ニヒルな笑みを浮かべる。
「しかし蓮はどぶの中から咲くものですの」

「やめてください、やめてください、許してください……」
 強烈な恐怖と絶望の臭いがした。ラパ=ラパが何よりよく知るものだ。
「何を謝る。すべては運だ。お前は運が悪かった」
 ごきっ、と骨の砕ける音。鮮烈な恐怖の臭いが、残り香に変わる。代わって強い血臭が立ち昇る。ラパ=ラパは無表情に、口だけをくちゃくちゃと動かした。
「人族に生まれたことも、このおれの目に止まったこともだ」
 人喰いラパ=ラパ、コーモリウスの凶獣。
 彼は週に一度、人を食う。
 うまいから食うのではない、確認のために食うのだ。彼を捕える絶望が、何ら瑕疵のない異種族にも、実に容易く訪れると。死は確率に過ぎず、生もまたそうだと。人族に生まれることも、魔族に生まれることも、この土地に生まれることも、全ては運なのだと。
 彼は生に絶望していた。
 無表情のまま、ごつりごつりと骨を食む。ひと噛みごとに、スプーンで掬うように、きれいな歯列の形の断面が残る。
 コーモリウス、泥濘の底。強大な魔族として生まれついたラパ=ラパにとって、この国は狭すぎた。誰もが弱々しく押しのけ合い、身を寄せ合いながら暮らすこの国の中、巨体を魔術で縮め、か弱い仮初の姿で日々を過ごした。弱々しい人間共が、彼に人間並みの生き方を押し付けた。
 若い頃は魔族領に出ていくことも考えた、だができなかった。彼に流れる追放された魔貴族の血が、魔族領に立ち入ることを許さなかったのだ。
「ラパ=ラパ様、邪竜教団から連絡が。術は予定通り進行中とのことです」
「よかろう」
 部下はラパ=ラパの視野に入るのを避けた。人族が溢れさせていたのと全く同じ、恐怖の臭いを嗅いで、ラパ=ラパは何も思わなかった。強者を避けて、こそこそと生きるのは、弱者に許された唯一の権利。そうであるべきなのだ。本来は。
「おれの運はどちらに向くかな」
 長年、息を潜めて生きた。抑圧の歳月のうちに、強すぎる体は歪み、心もそれを追って歪んだ。
 彼は人族を憎む。他に何も許されてこなかったからだ。
「楽しみだ……」
 ラパ=ラパは滅多に笑わない。しかし今はその裂けた口に、微かな笑みが浮いている。決行の日は近い。戦いはもたらすだろう、彼の望む二つのうちひとつを。世界の混沌か、彼の死を。

 待機するナイトスイーパーの側に、ダークシャドウが姿を現す。
「ラパ=ラパは現れましたか?」
「いいえ。ここにはいないのかもしれません」
 ナイトスイーパーは、魔族街、人喰いラパ=ラパ邸宅近くに、待機場所を移していた。邸宅前に蜘蛛の使い魔が貼りついており、ダークシャドウの分身の一つが正体を探っている。
「テロに関係しているかはまだわかりませんが、危険な存在には間違いありません。これほど残虐な魔族は、魔王国にも滅多にいません」
「魔王国にも?」
「!!」
「!?」
 魔王軍が誇る暗殺者たちは、突然現れた女にぎょっとして、危うく戦闘態勢に入りかけた。
「ナイトスイーパー、いけません。シュガー・ディ・レンハートです」
「レンハート勇者王国の……?なぜ?」
 ナイトスイーパーは、短刀にかけた手を戻しながら、冷静に困惑する。
「主は王だから出歩けない。私が代わりに情報収集する」
「主」
 ナイトスイーパーが、感情のこもらない声で呟いた。ダークシャドウは首を振る。
「どこにもそれぞれの事情がありましょう」
「そうですね」
「魔王軍が情報収集に当たっていると聞いた。私は彼らに関心がある。詳しい情報が欲しい」
 暗殺者たちは無言で目を見交わした。ダークシャドウが二言三言、上司たちと連絡を交わし、頷く。ナイトスイーパーがそれを受けて話し始める。
「……ラパ=ラパは追放された魔貴族の血筋ですが、マフィアとしてかなりの勢力を持っています。一方で、パーソナリティは、おそらく殺人鬼に近い」
 彼は一度言葉を切り、王妃の表情を伺った。彼女の顔には、何の表情も見て取れない。
「攻撃性はマフィアとしても異常です。敵対した者は、人族は勿論、魔族も、家族友人に至るまで殺害されています」
「それはなぜ?」
「恐怖は支配のツールとして有用なのですよ。逆らえば死ぬと理解して、反逆できるものは稀です。そして魔族は種間個体間での能力差が、人間よりも遥かに高いのです」
 シュガーの問いに、今度はダークシャドウが答える。
「つまりラパ=ラパは強い?」
「本来組織運営に、個体の戦闘力はそれほど重要ではありませんが、この場合はそう考えるべきでしょう」
 突然、ナイトスイーパーが首をねじった。
「ダークシャドウ。蠟后会側で何かが起きています」

 扉を開いた途端、なにかに顔面をべたりと覆われる。訝しく思う間もなく、首の骨が鳴る。顔の覆いが取れて、見えるのは今通ってきた扉。体は前を向いているのに?
 死体を脚にぶら下げ、ジャクソンは肩をすくめた。おお、やだやだ。仕事じゃない殺し、嫌いなのよね。おぜぜ出ないから。持ち物を抜き取った死体を、部屋に放り込んで施錠した。あの時の退屈なお話、聞いておいて良かったワ。
 ジャクソンはそのちんぴらに変身し、蠟后会の拠点へと向かう。ネモネーヨ、かつては王都に堂々と座を構えていたのだろうに、プーシャと手を切った時のような不義理を繰り返し、麻薬が手に入らなくなったのか。こんなしょうもないやくざ者にまで縋らねばならないとは、なんとも情けないこと。
「おはようございます」
 ジャクソンの挨拶に、やくざが頷いて返す。上層部の人間は、下っ端の顔を一々覚えていない。それに、人間、身近な者が、未知の存在に入れ替わっているかもしれないとは疑わないものなのだ。さてさて。
 ジャクソンは下っ端に紛れて立ち働きつつ、こっそりとモノの在り処を探り始める。ダハーカアジの精製粉末は、魔族向けの強力な麻薬の原料となる。人族向けに卸すことはまずないし、魔族向けでも大量には出回らない。魔王国から輸入され、行き先はおそらくギャンブランド。痕跡はどこかにないか。
 倉庫にモノはない。しかし拠点に麻薬を溜め込んでおくかどうか。帳簿を見れば、それらしきものの記載はある。麻薬は既に出荷されているようだ。やり直しかよ畜生……おや。帳簿と共に保存されていた品を見て、ジャクソンは目を細める。あれまあ。これはこれは。
「おい、何をしている?」
「あらやだ、俺ってばうっかりさん」
 不審げな顔に向けて、躊躇なく引き金を引く。反動で照準が大きくぶれた。一発目が耳をちぎり、二発目が頬を裂き、三発目がようやく眉間に命中する。安物だなこりゃ。
「ヒヒ。恨むんならこの顔、覚えといてくれよ」
 強い感情を抱いて死んだ者は、アンデッド化する場合がある。殺し屋は稀に、それに足を掬われる。しかし、誤った相手を殺害者だと思い込んでいれば、恨まれようが問題ない。
「何事だ!!」
 入り口の扉が音を立てて開く。
「お疲れ様ですッ」
 引き金を引いたが弾が出ない。安物は訂正だ。カスだぜこの銃。
「よいしょッ」
 ジャクソンは全身のバネを使って飛びかかり、銃口を口にねじ込んだ。跳んだ勢いのまま、相手の後頭部を扉の脇に叩きつけ、同時に銃口を奥に叩き込む。変な死に方だけど、ま、カスの銃使ってる舎弟を恨めよな。
 あ、二人も殺っちゃった。時間外労働手当出るかな。ジャクソンは途中見かけたやくざに姿を変えた。そして叫んだ。
「カチコミじゃあああ!!」

『ヘルノブレス様……』
 極めて珍しいことに、ダークシャドウはやや動転した様子だった。彼は蠟后会内部で生じた騒動に紛れ、ダハーカアジ麻薬取引対象の正体を調べていた。
「どうしましたの?」
『ダハーカアジ麻薬の取引履歴を発見しました。……取引先はコーモリウス国軍です』
 国軍……!?
 どうしよう。どうしようもない。ヘルノブレスはパニックに陥った。国軍が噛んでいるのなら、事態はまったく変わってくる。情報は筒抜けになっている。兄様ならきっと、こんな失敗はしなかったのに……。
「落ち着け。よく考えろ。なんとでもなる話だ」
 ダースリッチが宣言した。
「国のトップが入れ替わるだけのクーデターならともかく、首脳会談を狙うとなれば、世界が揺らぐ事態だ。世界全体が混乱すれば、まず最初にコーモリウスは消滅する。兵力差を一番理解しているのが軍だ、全軍がそこまで愚かしいはずはない。背いたのは一部と考えるべきだ」
「もし、軍が丸ごと敵対していれば?そうでなくとも、内通者とそうでない者の見分けがつきますの?」
 ヘルノブレスは泣き言を言った。ダースリッチの目が、ヘルノブレスの目を正面から捉える。
「考えろヘルノブレス。やることは変わらん。コーモリウスにはもう情報は渡せん。どこから漏れるかわからんからだ。ではどこと組む?」
「人族国……?」
「気は進まんがな。一応はコーモリウスも友好国だ。放置しては魔王国の沽券に係わる。仮にテロリストが成功したとしても、魔王国はまだ有利だな?四天王のうち二人は無傷であり、わたしはいずれ復活する。何よりモラレル様はご無事だ。人族共に比べれば余裕はある。すべきことをするのみだ」
 ダースリッチは横を向き、極めて苛立った口調で言った。
「貴様の兄は傑物だった。よく知っている、嫌になるほど思い知らされたからな。貴様が兄に届かぬと懊悩するのはわかる、だがいいか。今は貴様しかいないのだ。今の四天王は貴様だ。内心どうであろうと、四天王らしくしろ」
 ヘルノブレスは目を伏せる。
「申し訳ありません」
「違う。その態度をやめろと言っているのだ」
 ダースリッチは、苦いものを噛んで吐き出したような顔をしていた。その上更に、不味いものをいやいや口にせねばならないといった口調で言う。
「そもこの情報、貴様の部下がいなくば手に入っていなかったのだ。貴様の手柄だ。胸を張れ」
 ヘルノブレスは目をぱちくりした。
「励ましてくださっていますの?」
 ダースリッチはいつも通り、極めて不機嫌だった。しかし、その骸骨の顔には、わずかに決まり悪そうな表情が浮かんでいた。
「……おかしいか」
「……すみません、おかしいですわ」
 こらえようとしても、口の端がひくついてしまう。いつも不機嫌な顔のこの男に、不機嫌なまま励まされたのが、どうにもおもしろくて仕方がなかった。
「好きなだけ笑え」
 どうやらダースリッチは拗ねていた。それもおもしろくて仕方がなかった。

「国軍に内通者がいたというわけじゃの?」
「そうです」
 ヘルノブレスはまず、シュティアイセに話を持っていった。彼女が一番話しやすかった……敵国の王に、親しい気持ちを抱いてしまうのが、いいとは思えないけれど。
「他国の王族とも話をせねばならんな。わしらだけでは当然解決できん」
「会談を諦めてはどうですの?」
「ここまでこぎつけるのも一苦労じゃったが、それも道じゃの。コーモリウス国内の火種はくすぶり続けることになるが、他国が手を出すことでもないかもしれん。なんであれ、わしらだけでは決められんよ。皆と話そう」
 人族の王たちとの通信魔法回線は、シュティアイセが開いてくれる。情報収集は部下頼り、人族との情報交換はシュティアイセ頼り。ダースリッチはああ言ってくれたものの、やはり自分には何もできないのではないか。そうした気持ちが首をもたげる。
「ヘルノブレス殿、世界はな、ひとりで動かすものではないんじゃよ?」
 シュティアイセが微笑みかけてきた。
「ひとりで動かせんから、国があるんじゃよ。わしなんか国のみんなに頼りきりなんじゃよ。あ、わし、現状敵国の方にアドバイスしてしもた」
 シュティアイセはぺろりと舌を出しながら、通信回線を繋いだ。
『内通者か。いるかもしれないとは思っていたが』
「どうするかのう?」
『コーモリウスに伝えないわけにはいかない。我々は部外者だ』
『テロそのものの阻止は可能か?内通者がいるならむしろ、勝ち目がないことをわからせるのも容易ではないか?』
『とにかく!一つ言っておきましょう。戦闘に参加してはなりません!』
 通信の向こうの強い声に、少し議論が止まる。レンハートの大臣である。
『巻き込まれた場合の防衛は仕方がない、しかし積極的に手を出して、王族にもしものことがあれば、国同士の諍いに発展する可能性もあります!コーモリウスのことはコーモリウスに任せてください!』

 王たちとの通信を終え、出た部屋から少し離れた窓の前。ヘルノブレスは一歩後退った。コーモリウス王カホールが佇み、外を眺めていた。隠蔽の魔法をかけていたのだが、聞かれていたのだろうか。蝙蝠の獣魔は耳がいいとは聞くけれど。
「情けない国と思っておいででしょうね」
 カホールは答えを求めない口調で言った。
「わかっていますよ。この国は誰もが誰かを憎んでいます。そしてこの国自体も、多くの国に憎まれています。どこの国とも、真の意味では手を組むことができない」
 飾りものの王は、よたよたと歩いて翼を広げ、蝙蝠の筋張った体を晒した。翼と胸の筋肉のほかは骨と皮ばかり、戦う力などどこにもないような姿の獣魔。ただ先にここに棲んでいたというだけで、なんとか生存を許されている種族。
「この国は、魚を詰め込んだ水槽のようなものです。皆が酸欠と飢えに喘いでいる。しかしね、水槽の外には水がないのですよ」
 彼はただ、窓の外を見つめている。彼が本当は何を見ているのか、ヘルノブレスには推測すらできない。
「好む好まざるにかかわらず、我々が生きていく場所はここにしかない。真の平和が成る日が来るかはわかりません。真の平和などないのかもしれない。しかしこの国あってこそ、日々憎み合い、傷つけ合いながら、我々はどこの戦禍にも巻き込まれずに済んでいるのです、今のところはね……」

 駆け去っていこうとする、小さな背に話しかける。
「君、この包みは君のじゃないか?」
「あっ、本当だ。ありがとうございます」
 子供はくるりと振り向いて、駆け戻ってきて包みを受け取った。
「大事なものを落としちゃだめだ。気をつけなさい」
「ありがとう、軍人さん」
 子供に向けて振るその手で、今日、街に爆弾を仕掛けた。
 彼の計画が成功したならば、包みを忘れかけたその子も、毬を追いかけるその子も、戦禍に巻き込まれるだろう。民を巻き込むのは辛かった。だが、多くを救うためには、避けられない犠牲なのだ。
 平和に遊ぶ子供らから、目を背けて歩き出す。このまま変わらず国が続くならば、あの子供たちも自分と同じく、世界の闇の深さを知る日が来るのだ。
 剽軽な口上で人を沸かせる露店を、見ないふりをして、道を進む。暗い方へ、暗い方へ。
 物心ついた頃からずっと、この国は魔王国の影の中にあった。魔族共の羽振りのよさを、間近に見ながら育ってきた。軍に入り、民のために生きると決意しても、何かが間違っているという感覚は消えないままだった。
 ある時思いがけず、憎む敵が、自分の内心と同じ声で話しかけてきた。この国は滅びるべきだ。
 自分は悪魔の手を取ったのか。間近に他国の王族たちの姿を見て、そうではなかったと確信している。もうこんな国はたくさんだ。
 物思いに耽っていたためか。自室に戻り、椅子について、両手を拘束されるまで、侵入者の存在に気づかなかったのは。
「軍人というのに、不用心じゃあないか」
 聞き覚えのある声だった。
「特に国を吹き飛ばす企みをしているにしては、不用心すぎる」
 不気味に落ち着き払った声。自分の焦りようとは対照的だった。
「あんた、蠟后会と取り引きをしただろう?麻薬の送り先が知りたいんだ。既に関係は終わった相手じゃないか。あんたも困ることはないさ。話してくれ」
「こ、断る!私は信頼を……」
 両手の拘束がぎりぎりと締め上げられていく。
「できれば拷問はしたくない。慣れていないからな、うっかり殺してしまうかもしれん。早いうちに話した方が、お互い楽だと思うがね」
「貴様どこから来た!何者だ!」
「話すのか?話さないのか?」
 考える間もなかった。指があってはならない方向にねじり上げられる。
「は……話す!!」
 問われたこと、全てを話した。戦いが終わった後なら死んでも構わない。だが、この後の戦いには、自由に動く指が必要だ。
「ありがとう。おまえにはもう用がない」
 声音がふっと固くなった。殺される。ここで死んでなるものか。身をよじって振り向く。
「おまえは誰だ!?」
「知りたいのか」
 自分とそっくり同じ顔が笑った。
「知ってどうする?」

「国軍からの連絡が途絶えました」
「死んだか」
 裏切った、ということはありえない。ラパ=ラパはその男の憎悪を、誰より良く知っていた。人族のちっぽけな体から、なんと強烈な怒りの臭いが吹き上がっていたことか。
 部下は、どうする、とは問うて来なかった。ラパ=ラパの関心を引くのを、恐れているのだ。ラパ=ラパは心ゆくまで黙考する。
「……ふむ」
 奴が死んだならば軍は動かせない。軍が動かぬ、ということは、今まで通りの計画は不可能。奴は木っ端ではあったが、軍からの情報が手に入るのは大きかった。軍人の統率抜きならば、いくら武器を手にしているといっても、人族の反政府組織など所詮は素人集団だ。おそらく計画も漏れているだろう、当初の予定通り振る舞えば、罠の中に飛び込んでいくようなものだ。
「では前倒しで進めるしかないな。狙いを変える。コーモリウス王だ」
 部下は硬直し、目だけでこちらを見た。
「兵隊は二手に分ける。片方は陽動として市街を破壊し、市民を襲撃して混乱させる。人族共はそちらに回す、軍が動かずともまだ武器はあるな?その隙に本体が王宮に向かう。少なくとも国王の首は欲しい、官吏共も殺せるだけ殺す。他国の王の首は取れるまいが、人族は脆弱だからな、仲間の死に混乱して出てくる可能性はある。見かければ優先して殺せ」
 恐怖の臭いが鼻を刺す。怯えている。ラパ=ラパにはわかる。だがこいつは逃げない、ラパ=ラパの不興は死よりも恐ろしい。
 支配が得意だった。コツは、自尊心を粉々に叩き潰し、二度と否を口にできないまでに屈服させることだ。
「すべては運だ……」
 運が向いた。二度とはあるまい。ラパ=ラパはコーモリウスを出られない。破滅の火種は、すぐ手の届くところにある。これを逃がせば、出口のない絶望の中に留まるしかない。一度は救いの道を、目の前にぶら下げられたのに?
 逃すことはできないのだ、たとえその先に待つものが、死でしかないと知っていても。

『旧市街尖塔で爆発!』
『人族街時計塔が倒壊しました!』
 コーモリウス側から複数の報があり、同時に魔王軍暗殺者からの連絡が入る。
『市民を避難させてください。人族街、魔族街双方で戦闘が発生しています』
 窓の外、サイレンがけたたましく鳴り始める。市民たちが怯えて家に戻っていく、泡を食って右往左往するものは、帰る家が遠いのか、それともないのか。
『我々は市民の救助に当たります』
 ウァリトヒロイ衛生兵の声が響く。王たちは戦闘への手出しはしない、そう決めたのだ。そもそも戦闘に来たのではないのだ、兵士は護衛程度の数しかいない。
『奴らを殺せ』
『了解しました』
 一方ダースリッチの指示と、それへの答えは簡潔だった。魔族には、人族のような体面を慮る感覚が薄い。
『とんだ貧乏くじだ。何の手柄にもならん。行くぞヘルノブレス』
『……ええ!』
 鬱々としたダースリッチの声に、何かを覚悟したように答えるヘルノブレス。
『時計塔と連鎖してレオール氏旧邸宅が倒壊しました』
『魔族市民への殺戮が起きています。殺戮としか言いようがありません』
 次々に届く破壊の報に、王たちがざわつく。ユーリンは黙って拳を握っている。
「主、戦わないの?」
 シュガーは聞いた。
「戦えない。俺はもう冒険者じゃない。迂闊に戦いに行って、何かがあればコーモリウスにもレンハートにも良くないことになる」
「そう」
 シュガーは静かに答える。
「なら、私が行く」
「待てシュガー!」
 静止は一足遅かった。アサシンは、痕跡なく姿を消していた。

 煌めく剣が滑り、一人が倒れる。魔弾銃を向けた目の前で、その姿はすっと影に溶けて消える。と思いきや、建物の影から現れ、また一人を奪い去る。
 ダークシャドウは、分裂し、影に溶け、敵の集団を一方向に追い込んでいく。不用意に路地に駆け込んだ者の足元で、ぷつり、糸がちぎれる。ひゅっと空気を裂く音と共に、不運な魔族の足に銀の針が食い込んだ。先頭で上がった悲鳴に、集団の動きが止まる。頭上から伸びる長い腕。
「追い込み漁ですね」
 ナイトスイーパーがぼそりと呟いた。ダークシャドウは無言で首を振る。彼らは暗殺者。多数相手の戦闘もそれなりにはこなすものの、やはり本領ではない。
 ナイトスイーパーが顔を上げて方角を示し、無言で先に立つ。ダークシャドウが黙ってその後を追う。やがて足を止めたナイトスイーパーは、壁を這い上がって身構えた。ダークシャドウも影に姿を消す。
 二人の暗殺者は、獲物を見つけた豹のように満身に力を込め……音もなく敵が倒れるのを見た。
 見えない力が空間を薙いだ。影も足音もない。何が起きているのかは全くわからない、ただ棒切れを倒すように、敵が倒れていく。魔王軍の暗殺者たちはその様子に目を見張る。
「これは……」
「片付いた」
 シュガー・ディ・レンハート、レンハート王国妃が姿を現す。魔王軍が誇る、冷酷無比の暗殺者たちは、一瞬揃ってきょとんとした。次いで、ほぼ同時に顔を背けた。
「……」
「……」
「何?」
「いえ……ご助力に感謝します。我々はこれで」
 時間は無駄にできない、暗殺者たちは駆け出す……そこにシュガーが、当然のように並んだ。
「いらっしゃるのですか、王妃」
「うん」
「……その格好は、レンハートの民族衣装か何かですか?」
 ナイトスイーパーが口を開く。シュガーの目が鋭く光った。
「今の発言はレンハートへの侮辱?」
「価値観のずれではないようですね」
「彼に侮辱の意図はありません。衣服はお持ちでないのですか?」
 ナイトスイーパーの発言を遮り、ダークシャドウが穏やかに言葉を発する。何事もなかったかの如く、冷静な様子の二者。しかし彼らはそれぞれ、あさっての方向を向いていた。
「衣服は戦闘の妨げになる」
「そうですか。人それぞれ事情がありましょう」
 屋根を飛び渡り、飛び越え、先へ、更に先へ。ダークシャドウが問う。
「ところでナイトスイーパー、何か持っていませんか」
「余分な衣類を持ち歩く習慣はありません。今後は検討します」
 二人は不自然に視線を遠くに置き、平静な声音で会話した。シュガーがじっとその様子を見ている。
 聞き慣れない声が通信に入ってくる。
『シュガー!そこにいるのか!?』
「ユーリン・レンハート?」
『そうだが……』
「どうかと思います」
 ナイトスイーパーがぽつりと言った。
『……』
 通信の向こうで、ユーリンは少し黙った。ダークシャドウが静かに言葉を継いだ。
「ユーリン王、国王の立場にあらせられるお方ですから、迂闊な言葉は口にできないでしょう。ですのでご返答は結構ですが……私も同じ意見です」
『……すまない……』
「ご返答は結構です。今のお言葉も、聞かなかったことにしておきましょう」
 ダークシャドウは穏やかに答えた。

「旧離宮、人族区貧民地区、魔族区繁華街」
 ナイトスイーパーが走りながら、通信に敵の位置を告げる。どう世界が見えているのか、彼は高速で移動しつつ、使い魔の視界を認識し、それをダースリッチたちに伝えさえしていた。
 迷わず一行を先導してきた彼が、ふと足を止め、小声で囁く。
「ここで別れましょう」
「なぜ?」
 敵は近い。魔族の足音が聞こえてくる。蜘蛛男の腕の一つが、それとは別の方向を示す。
「ラパ=ラパです。そちらに行ってほしい。あなたは我々の中で一番強いからです。ダークシャドウ、場所を伝えます。先導を」
 ナイトスイーパーの多数の腕が、音もなくぞわりと広がった。ダークシャドウは問い返さず頷いた。
「幸運を」
「あなた方も」
 儀礼としての挨拶を交わす。どちらも運など信じてはいない。
 足音が近づいてくる。掃除屋は動き出す。
 最初の一人。糸に宙に吊り上げられ、声も立てられず絶命する。二人。首の後ろに針を刺し込まれ、もがく間もなく倒れる。三人。喉に深々と短刀が刺さる。ひたすらに無音の死は、誰にも気取られない。
「何者だ貴様ッ!?」
 五人目を手にかけたところで、ようやく叫びが上がる。ナイトスイーパーは背筋を伸ばし、すべての腕を広げた。シルエットが、傘を開いたように大きく膨れ上がった。
 声を上げた魔族が怯む。ナイトスイーパーは脚を踏ん張り、からくり人形のように腰から上だけを回転させた。振り回された六本の腕の先、短刀が鈍く光る。六人目から十一人目までが、急所を裂かれ、血を噴き出す。
「ひっ」
 最後の一人。巨大な蜘蛛は無表情に狙いを定めた。
「あんた……あんたも魔族なんだろう!?わからないか、我々の立場が!行かせてくれ!」
 ナイトスイーパーは懇願を無視し、がぶりと喉に喰らいついた。
「片付きました」
『次を片付けろ』
「承知しました」
 上司は冷徹に応答し、掃除屋は冷徹に返答した。

「まったく貧乏くじだ。こんなことこそ、エビルソードにやらせるべきなのだ」
 ダースリッチは苛々しながら、襲い来る魔族を鎌にかける。
「ヘルノブレス!支援が遅い!」
「申し訳ございません」
 ヘルノブレスはダースリッチの背に隠れるようにして、魔術で支援を行う。戦闘訓練は十分以上に積んできた、才能もある。だが、実戦はほとんど初めてといってよかった。
「どうやら狙いは王宮だな。王を狙うなら、今やらんでもよかろうに」
 どこにこれだけの数が隠れていたのか。わらわらと湧き出る敵の群れ。魔族もいれば、人族もいる。こんなに不満を抱えていた者がいたのだろうか……。
 野獣の咆哮が如きエンジン音が轟いた。猛スピードで迫る鉄の塊、圧倒的な質量の突撃に、魔族がボールのように跳ね飛ばされる。
「大変な事態じゃのう」
 ウァリトヒロイが誇る八六式高機動車、通称ハチロク。ドアを開けて颯爽と降り立ったのは、シュティアイセ・アンマナインである。
「な!??」
 ダースリッチとヘルノブレス、魔王軍四天王のうち二人が揃って目を丸くした。
「シュティアイセ様!?なぜ!?」
「わしがここで死んだとするじゃろ。実は困ることは、あんまないんじゃよ?」
 シュティアイセは秘密を伝える表情で言った。
「まーなんも困らんとは言わん、一時は混乱するじゃろ。でもイーンボウちゃんもみんなも優秀じゃし、立て直すじゃろ。周りがしっかりしていれば、王なんてそんなに大事じゃないんじゃよー」
 彼女はそう言いながら、飛びかかってきた鳥に似た魔族を斬り捨てた。
「言うてわし死ぬ気はないけども。ほれほれ乗っとくれ。王宮までドライブじゃよ」
 ヘルノブレスは魔術を行使し、敵を薙ぎ払いながら後退する。そのすぐ側に、ウァリトヒロイ国王がいる。
「わたくしが混乱に乗じて、あなたを暗殺するかもとは思われませんの?」
「そうなるなら、わしの人を見る目が間違っとったということじゃの。仕方ない仕方ない」
 シュティアイセはかっかっと笑った。
「我々はこんな訳のわからん相手と戦っていたのか……」
 ダースリッチが珍獣を見る眼差しを向ける。
「ほらほらシートベルトじゃよ、ダースリッチ殿。舌を噛むぞ?」
 シュティアイセは獰猛に笑い、ハチロクを発車させた。

「来ます」
 ダークシャドウが足を止め、影に姿を消す。最初から姿を隠していたシュガーが、どうしているかは見えない。
 微かな唸り声、重い足音。姿かたちも様々な魔族たち、彼らに向け、無慈悲に見えない剣が走り……
 巨体の魔族が、爪を振るった。
「シュガー陛下!」
 ダークシャドウが咄嗟に影から飛び出し、シュガーを庇い盾となった。シュガーごと跳ね飛ばされた体が、塵と化す。分身の消滅だ。
 血が地面に染みを作る。シュガーは攻撃を受けた瞬間、一刀を返していた。魔族は黙って自分の腕の傷を見つめ、顔が裂けたような、大きな笑みを浮かべた。
「人喰いラパ=ラパ」
 そいつは答えず、ゴルル、と喉を鳴らした。
「おれが殺す。とっとと行け。おれが追いついた時に居なかったやつは、魔族領に逃げていようと、追いつめて喰ってやる」
 がちりと歯が鳴った。部下たちが恐怖して駆け出す。影に潜むダークシャドウが身じろぎを……
「つまらん真似をするな」
 ばんっ!
 ラパ=ラパの尾が地を激しく打った。再び塵が飛び散る。
「殺すか殺されるかだ。おれの前では、それ以外の決着は許さん」
 ラパ=ラパは、にたりと鋭い牙を見せつけた。
「さあ、殺させろ!」
 ラパ=ラパの体が変形する。変形しながら鉤爪が振り下ろされる、骨格が広がり、手足が伸びる。受ければ血煙と化すであろう一撃を、シュガーは危うく避けた。
「厄介」
 二撃目が肌をかすめる。シュガーの認識阻害は、並みの存在には視認はおろか、気配すら感じられない。しかし、ラパ=ラパの狙いは驚くばかり正確だった。
「よく避けた。ますます殺したくなる」
 本来の姿を取り戻し、狂獣は伸び伸びと爪を振るう。六肢と赤いたてがみ、黄土色の毛皮に赤い縞模様、爬虫類のような長い尾。魔獣と言っても通るような姿。
「くくく」
 ラパ=ラパの目が愉悦に細くなる。
「臭うぞ」
 巨大な爪が走る。彼はシュガーの認識阻害を嗅ぎ当てる。影に潜む能力も、優位にはならない。ダークシャドウは姿を現し、大振りの攻撃を飛び越えた。爪の根元に短剣を突き立てる。
「つまらん小細工はよせ」
 ラパ=ラパは爪を横薙ぎに振り回した。ダークシャドウが影に溶けてかわす、シュガーが開いた胴を狙いに行くが、ラパ=ラパは体を捻って跳ね上がり、逆に中脚でシュガーを蹴りつける。シュガーは致命の攻撃を、後ろに跳ねて避けた。
「殺しに来い。殺させろ。おれを楽しませろ!」

 魔弾銃が魔力の弾を吐く。魔族の喉が炎を吐き出す。怯える市民たちが、家畜のように追い回される。
 破壊は皮肉にも、人魔協力体制で行われていた。比率としては人族が多い。魔族の多くが要人殺害を目指す一方、人族の暴力は市民に向かった。軍人の指揮を受けられない彼らに、まともな統率はない。しかし戦うすべのない者を殺すだけなら、殺意があれば十分なのだ。
 無論、軍と衝突すれば、彼らに勝ち目はない。しかし同時多発的に、少人数のグループで破壊を繰り返す相手は、軍からすれば捉えづらい。
 魔弾銃が怯える子供に向けられる。女が一人、銀髪をなびかせ飛び込んでくる。彼女の纏う見えない鎧が、弾を跳ね返す。
「いや困った!攻撃されてしまったではないか!」
 アイルノヴァ・サイラント、『呪わしき国』サイラントの女王。身につけるものが見えなくなる呪いをその身に宿す彼女は、見事な肉体を晒して叫んだ。
「困ったなあ!これでは反撃するしかない!」
 女王の拳が、襲撃者の顎を砕いた。サイラントの箱騎士、表情の読めないびっくり箱たちが、女王を囲み、武器を構える。
「正当防衛だ!いやいや困ったものだ!」
 女王。反応した魔族の巨体が、ぐしゃりと叩き潰される。
「サイラントは我が国の同盟国!女王の危機とあらば、お助けせねばなあ!いや困ったものよ!」
 ズルムケリウスが戦槌を構え、からからと笑った。
「戦闘には手出ししないんじゃなかったのか」
 呆れたような言葉を吐いたユーリンも、やはり戦場に出てきていた。
「だがやはり、この方が性に合っている!!」

「楽しいなあ。これまでこんなに楽しいことはなかった」
 ラパ=ラパは、肩に剣を深々と突き立てられながら笑った。爪の、尾の、牙の一振りごとに、それは身に負っていたものを、ひとつずつ脱ぎ捨てていくようだった。シュガーの剣を、ダークシャドウの短剣を、全身に受けて血を流しながら、勢いは止まらない。故にシュガーもダークシャドウも、致命の一撃を与えられない。怪物はその瞬間に、相討ちに死をもたらすだろうからだ。
 回避も防御もなく、身を守ることは考えず、ただただ殺すためだけに、ラパ=ラパはその全力を注ぎ込む。この瞬間、彼の全てを燃やし尽くそうとするように。
 ダークシャドウが囁く。
「シュガー陛下。私が隙を作りましょう」
「要らない」
 姿は見えず、答えだけが返ってくる。
「貴方は王妃です。貴方をユーリン王のもとに帰すのが、私の軍人としての義務です」
 ダークシャドウはあくまで穏やかに伝える。
「私は死なない」
「そうでしょうとも。私が死なせません」
 ダークシャドウは言葉を残し、影に溶けた。
 ラパ=ラパの尾が振り回される。ダークシャドウは影に溶けて、その軌道をすり抜けながら前進、再び実体化して剣を繰り出す。前脚が振り下ろされる、ダークシャドウは転がって体をかわす、その影から分身が滑り出て、前脚を斬り裂いた。対象の死ではなく、負傷を目的とした一撃。
「三下」
 血を流しながら、ラパ=ラパは楽しそうに牙を剥き出す。
「邪魔をするな」
 傷ついたばかりの前脚が、血を引きながら爪を剥いた。ダークシャドウはダンスを踊るようにくるりと体を躱し、その前脚を再び斬りつける。
「三下に何ができるかお見せしましょう。その脚をいただきます」
 ダークシャドウは宣言した。
「脚などいらん。死を寄越せ。貴様らか、おれのだ」
 シュガーを狙い続けるラパ=ラパを、ダークシャドウは見事に引き止め続ける。分身を犠牲に鉤爪を逃れ、影に溶けて尾をかいくぐり、執拗に脚を狙う。ラパ=ラパが跳躍する。すれ違いざまの五度目の斬撃、着地した脚が崩れ、攻撃は空を切った。
「脚はいらない?」
 シュガーが剣を突き立てた。胴体に柄まで刃が食い込む。
「命は?」
「いらん」
 牙が閃く。シュガーは剣を引く。顎が腕をかすめて閉じる。
「おまえの死の他には何もいらん」
 ラパ=ラパは深手を負っていた。にもかかわらず、動きは鈍らなかった。片方の前脚が深く裂け、全身から血を流し、いくつもの臓器も傷ついているはずなのに。
「おれの前で死ね!」
 ラパ=ラパが後肢で立ち上がり、シュガーめがけて跳躍した。前脚と中脚が閉じられる。しかしそれよりも一瞬速く、傷ついた前脚の下を抜け、シュガーの剣が喉を裂いていた。
「かかかか」
 血まみれの怪物は、巨大な口を開いて笑った。
「おれの運は尽きた。いや、今が絶頂なのか」
 巨体がどさりと倒れ伏す。死にゆく魔族は、死の苦痛に喘ぎながらも、なお笑っていた。笑いながら、独り言のような調子で言った。
「女。臭いがするな。獣の臭いだ。おれを殺すのは、やはり人族ではないのだな」
「種族などどうでもいい。レンハートは魔族も人族も差別しない」
「この国もそう言っているのだ、表向きはな」
 ラパ=ラパは末期の息と共に、楽しそうに呪いを吐いた。
「差別なき場所などない。人と魔が共にあるならば、貴様の国も腐るのだ」
 ゴロゴロと喉が鳴る。命尽きるその瞬間まで、ラパ=ラパは楽しそうに嗤っていた。
「これは予言だ。必ず、おれの言葉を思い出す日が来る……」
 ダークシャドウが、影からゆらりと立ち上がる。ローブは裂けており、本体も傷ついているのかもしれなかったが、その様子は見せなかった。彼は優しい声で言った。
「行きましょう」
「うん」
 シュガーが何か感じていたとしても、内心は外には現れない。

 王宮の前、傷だらけの人族と、魔族が数十人。他には何も……いや、妙に悲壮な顔をした、貧相な小男がひとり。
「ここで終わりだ、投降しろ」
 ダースリッチの宣言に、誰も口を利かない。黙ったまま、覚悟を決めた目で睨むばかりだ。
 ヘルノブレスは内心恐怖する。彼らには既に勝ち目がない。初めにいたのが何人かは知らないが、ここにいるのは元の数の四分の一にも満たないはずだ。その執念はどこから来るのか。
 いや、気圧されてはいけない。兄様も見ておられる。
 小男の喉仏が、ごくりと動いた。
「邪竜よ!我に力を!」
 叫ぶ男の骨格がきしんだ。輪郭が、ぶくぶくと泡立つように膨れ上がる。魔族の女がきつく目を閉じていた。人族の老爺は手を組み合わせ、何かに祈っていた。彼らを取り込み飲み込んで、小男だったものは膨れ上がっていく、巨大に巨大に。
「これは……!」
 変形してゆく姿、三つの首、二つの翼。その姿には見覚えがある……だが、これはオジ=ダハーカではない。
 姿を模しただけで、かの竜そのものとは関係がない。ただの変異魔術だ。だが、ただの魔術であろうと、術者自身の身を捨てて繰り出すものは、通常とは全く異なる効果を表す。
「滅びよ!我と共に!!」
 三つ首の怪物は吼えた。既に人族でも魔族でもないものが、歪んだ喉から無理やり絞り出した、崩れた声だった。
「ちっ」
 ダースリッチが掌を開いた。その手の動きと同期し、地面から手が這い出して怪物に掴みかかる……が、怪物の皮膚に触れた瞬間、その手は砕けて泥に返った。ヘルノブレスには、手を構成していた魔力が、怪物の皮膚に弾かれ四散するのが感じられた。魔術耐性だ。
「おれを……見捨てたな!!」
 怪物が不意に異なる声で叫んだ。喉が嘔吐するように痙攣する。燃える泥のようなブレスが吹きかけられた。危うく体を躱したダースリッチの前で、地面に撒き散らされた粘液が、じりじりと燃え続ける。
「誰も助けてくれなかった!!」
 ユーリンが剣を振るう。コーモリウス兵たちが矢を放ち、砲撃を浴びせかける。しかし、傷ついた皮膚はたちまち再生していくのだ。勝ち目がないとは言わない、無限の魔力などない。傷つけ続ければいずれは死ぬだろう……が、この怪物を仕留めるまでに、破壊はどれだけ広がるのか。
「私を見ろ!」
 高い声が戦場を貫いた。ひらりと翼を翻し、降り立ったのはコーモリウス国王であった。彼はか細い体を反らせ、あらん限りの声で叫んだ。
「コーモリウス王カホール!おまえたちを苦しめたのは私だ!おまえたちの敵はここにいる!」
 三つの頭のうち一つが振り向いた。人とも魔族とも竜ともつかぬそれが、強い敵意を示し吼えた。口を開いて王に迫る頭に、他の二頭も引きずられ、ずるずるとついてくる。
「逃げてくださいまし!」
 ヘルノブレスは走った。カホールは逃げなかった。目前に迫る死を見据え、雄々しく胸を張り、口を開いた。
 ぴいっ!
 可聴域ぎりぎりの高音が、大気をつんざいた。瓦礫片が、植物が、はげしく撹拌されちぎれ飛ぶ。この種の獣魔が、生まれついて持つ、音波攻撃だ。
「ぎっ」
 怪物が、音の波をもろに受けて転倒する。だが、一時的に平衡感覚が狂っただけだ。威力は児戯に等しい。そしてこの脆き王は、これしか武器を持たない。
「剣を!」
「おう!」
 ヘルノブレスは手を掲げて呼ばわる。シュティアイセが剣を投げる。ヘルノブレスはそれを空中で受け止めた。刀身に魔力を込める。兄様。兄様、力を貸して。
「ふッ!」
 魔力の輝きが光の軌跡を残す。ヘルノブレスの魔法剣が、分厚い皮膚を裂く。皮膚の護りを破り、破壊の魔法が体内を灼いた。
「おのれ……」
 怪物は吼えた。苦痛ではなく、憎悪の声であった。
「許さん……許さんぞ!!我々を見ないふりをしてきたくせに、声を上げれば殺すのか……!」
「ヘルノブレス!下がれ!」
 怪物がブレスを吐く。地面から伸びた影の手が盾となり、ブレスを受け止めて消滅する。ダースリッチの魔術だ。
「王をお願いしますわ!」
「任せていいのだな」
「ええ!」
 ダースリッチは頷き、カホールを伴って後退した。
「皮膚を貫けば魔術が通るんじゃの」
 シュティアイセが駆けてきて、手を差し出した。剣を返す。
「ヘルノブレス、わしと組んどくれ」
「はい!」
 シュティアイセが踏み込む。ヘルノブレスは愛用の扇を構えた。怪物がかっと口を開き、鎌首をもたげる。
「今じゃ!」
 シュティアイセの剣が光った。彼女は魔法剣の使い手、怪物の皮膚が裂けて血が流れる……すかさず傷口に魔術を撃ち込む。怪物は内側から破裂した。しかし止まらない。込み上げるブレスに、ゴボゴボと喉を鳴らしながら、怪物は吼えた。
「貴様らも死ぬのだ!!」
「馬鹿共が!」
 ダースリッチが鎌を振るう。ヘルノブレスは、咄嗟にシュティアイセを引き寄せた。鎌の創り出した見えない空間の裂け目に、ブレスが吸い込まれて消える。
「任せろと言ったな貴様」
「ええ……すみません!防御はお願いしますわ!」
 ダースリッチは不機嫌に鎌を構えた。
「気に入らんが、わかった」
 シュティアイセの剣が煌めく。ヘルノブレスも再び扇を振った。攻略方法を見出し、コーモリウス軍や王族護衛兵たちの攻撃にも力が籠もる。怪物が苦痛とも怒りともつかない声で吼え、再びのブレスを試みる。その口が何かに縫い止められる。
「排除する」
 シュガー・ディ・レンハート。姿は見えず、声だけが微かに聞こえた。
 次いで怪物の、十分に傷ついていた足がざくりと裂けた。巨体が斜めにかしぐ。影からの一撃、ダークシャドウの仕業。
「ヘルノブレス!」
「ええ!」
 シュティアイセが飛び込む。彼女に喰らいつこうと、崩れた体制ながら牙を剥きだした怪物の首に、銀の糸が絡みついた。ナイトスイーパーが追いついてきていたのだ。
 剣が長い首を裂いた。魔術がはじける。
「我々は……我々は……!」
 怪物は悲痛な声で呻いた。竜ではなく人族ではなく魔族ではない、既に何者でもないそれは、溶けるように崩れ去った。
「見事でしたのう、ノブレスちゃん……失礼。ヘルノブレス殿」
 真面目な顔で詫びたシュティアイセ。その顔に顔を寄せ、他の誰にも聞こえないように耳打ちした。
「過去や立場を抜きにして、個人的な感情だけをお話しますと、ノブレスちゃんで済む関係でしたら、どんなに良かったかと思っておりますわ」
 シュティアイセは少し悲しげな顔になり、しかし笑った。個人的感情で国は動かない。双方共にわかっているのだ。
「交渉はまだ終わっていませんぞ。融和の未来もありますじゃろう」
 ヘルノブレスも微笑み返した。多分自分も、彼女と同じような顔をしているのだろう。
 カホールがよたよたと歩み寄ってくる。
「ご無事ですか」
「無事です。すみませんが、通してください」
 彼は居並ぶ王たちの前を素通りし、死んだ怪物の前に膝をついた。
「あなたたちが苦しんでいたのを、私は知っている。知っていて、何もしなかったのだ。全て我々の責任だ。申し訳なかった」
 コーモリウスの力なき王は、もう動かないそのものに、頭を垂れて侘びた。

 彼らは失敗するだろう。そんなことは最初からわかっている。だが、私は無関係だ。
 安心しようとしきりに唾を飲み込む。自分は武器を提供しただけだ。品物は届く手筈が整っている。もう大丈夫、口をつぐんで逃げ帰ればいい。大丈夫、ギャンブランドは安全だ……。
 風呂場から手が突き出し、口を塞いで扉の中へと引きずり込む。鏡の中に見えたのは、自分と同じ顔。驚く間もないまま、湯の溜まった浴槽の中に顔を押し込まれる。叫ぼうとしても声は出ず、肺に湯を吸い込みながら、ネモネーヨは最後の一瞬まで混乱し続けていた。何が?何故?
 ジャクソンは、ミニバーから取り出した酒を死体に振りかける。服を剥ぎ取って裸にした死体を浴槽に沈め、酒瓶に残ったしずくを、少量舌の上に垂らしてうがいする。いい酒じゃないの。高いホテルだけあるさね。
 さて、細工は流流、仕上げを御覧じろ。ま、仕上げが見つかる時には、俺はここにはいないけど。ジャクソンはバスローブ姿になり、ホテルの従業員を呼んで、ぞんざいに水洗いした服を渡す。
「服を汚してしまった。クリーニングしてくれ」
 ボーイは頷いて服を受け取り、去っていく。その服の主が、既に命を失っているとは知らずに。
 それから数刻の後。死体を風呂場に置いたまま、ジャクソンは堂々とホテルを出ていく。