ヘミングウェイがその存在を確立したのは混沌の世界。神だの何だのが遥か頭上で大騒ぎしている間、ヘミングウェイは悪魔達の中で特異な力を見出した。 ヘミングウェイの力である『命令』は絶対であり、一度でもその力の及ぶ範囲に入ればどれほど凶暴な悪魔であれ意志を奪われた傀儡となってしまう。ヘミングウェイに逆らう事はまさに自分の存在を消しさるようなもの。どんな悪魔も屈服する他なかった。 ヘミングウェイはその力を存分に活かし、周囲の悪魔を虐げながら生きていた。虐げるというよりも、むしろ退屈を紛らわせるための遊びだったと言える。神の真似事をして権力争いに明け暮れる他の悪魔たちを尻目に、ヘミングウェイはその力で楽々と支配の頂点に立った。だが彼にとって支配とは単なる暇つぶしでしかなく、強者として君臨する事自体には何の価値も感じていなかった。 この世界において、ヘミングウェイは既に「知り尽くしている者」。頭上の神をはじめとした存在、魔術の理論、異形の存在が持つ秘密。彼が知らないことなど何一つなかった。新しい発見が皆無のこの退屈な世界に飽き飽きしていたヘミングウェイは、次第に時間を持て余すようになっていた。 そんなある日、偶然にも時空を裂いて異世界を覗き見る方法を発見する。それは単なる退屈しのぎの実験の中で偶然に生まれた成果だったが、それでも退屈な毎日を吹き飛ばすには十分な成果だ。 目の前に開かれた裂け目の向こうには自分が知るこの世界とはまったく異なる景色が広がっており、そこには見たこともない建築物、見たこともない生物、そして見たこともない言葉や文化があった。ヘミングウェイの胸に生まれたのは、驚きと歓喜、渇望。 「素晴らしい……我輩がまだ知らないものがあるというのか……!」 その瞬間、ヘミングウェイの存在意義そのものが変わった。知り尽くしたこの魔界よりも、知らないことだらけの異世界。他の悪魔を虐げる事よりも、異世界の知識を得る事に全てを注ぎ込むようになっていた。 ヘミングウェイは魔界の片隅にそびえる高い山の頂を選び、そこに一つの塔を作り上げた。その塔はただの建築物ではない。異界を覗き見るための装置でもあり、異世界から知識を集めるための巨大な倉庫でもあった。塔を築くためには膨大な資源と力が必要だったが、それすらもヘミングウェイにとっては容易な事だった。自らの力と知識を惜しみなく注ぎ込んで難なく塔を完成させたのだ。 塔の完成後、ヘミングウェイは異界から本や文献を集め始めた。最初に手に入れた本は彼が見たこともない文字で書かれており、そこには不思議な呪文や未知の言語が記されていた。その本を手にした瞬間、心の奥底から興奮が湧き上がるのを感じたヘミングウェイは塔の中でほとんどの時間を過ごし、異界を覗いては未知の知識を探し求める日々を送るようになった。 しかし、異界を覗く事には危険も伴った。覗き見た世界の住人がヘミングウェイの存在に気付いて攻撃を仕掛けてきたのだ。その攻撃は彼の塔を揺るがし、一時的に裂け目を閉じざるを得なくなるほどに。 だが、ヘミングウェイはそのような危険すらも楽しんでいた。 「面白い、面白いぞ!どこまでも我輩を楽しませてくれる……!」 そう言い放つ悪魔の瞳には明らかな高揚感が宿っていた。知識こそが唯一の価値であり、未知の世界こそがヘミングウェイにとっての全て。異界の知識を手に入れる事が生きる理由そのものとなっていたのだから、その未知の存在からの攻撃ですらヘミングウェイにとっては研究対象なのである。 いつしか魔界でヘミングウェイの姿を見かける者はいなくなった。その名前は恐怖とともに語り継がれる一方で、同時に「あの原初の悪魔ですら手に入れられぬものがある」といった噂が囁かれるようになった。その噂は、ヘミングウェイが異世界に向けた執着を物語っていた。 悪魔界の頂に聳えるその塔はいつしか「無限の知識を追い求める悪魔の住処」として伝説となった。その塔の中でヘミングウェイは今日もまた異界を覗き、未知の世界の秘密を手に入れるべく新たな文献を収集しているのだ。彼の目的は変わらない。『知らない事を知る』それだけだ。 それが、原初の悪魔ヘミングウェイの全てであり、永遠の探求の始まりだった。 _______ 深紅の古龍、クリムゾンノヴァは世界の頂点に立つ存在である。火の精霊と古龍の特性を併せ持ち、燃え盛る炎をまとった身体でこの世界に君臨していた。そんな存在と敵対しようなどと考える者は皆無であり、その名は畏怖と尊敬をもって語られていた。 ある日、クリムゾンノヴァは空間を裂いて現れる異様な裂け目を見つける。そこから漂う瘴気には邪悪さが満ちていた。クリムゾンノヴァは即座にそれを危険と判断し、雄叫びとともに灼熱の炎を吹きつけた。しかし、その炎はまるで障壁に阻まれるように弾かれ、裂け目の向こうへは届かなかった。 その異常事態に、この世界に干渉する存在がいるのかと初めての恐れにも似た感情を覚えた瞬間である。その裂け目はほどなくして消え去ったが、クリムゾンノヴァの中に残ったのは見えざる敵への警戒心だった。 それから百年。古龍にとっては短い時間だが、クリムゾンノヴァはその間も裂け目の再来を警戒し、あの忌々しい気配を忘れることはなかった。そしてその日、彼の直感は現実のものとなった。 再び裂け目が現れ、そこから一つの影がこちらの世界へと足を踏み入れた。邪悪な気配の源、それはヘミングウェイだった。 クリムゾンノヴァはその姿を見ると同時に口から膨大な炎を吐き出す。全てを焼き尽くす猛炎が空を切り裂き、眼前の敵を覆い尽くしたが、その炎はヘミングウェイの前で掻き消された。 「これで火を吹かれたのは二度目か……貴様なりの挨拶か?」 低く冷徹な声が響く。炎そのものを無に返されてクリムゾンノヴァは目を見張る。生まれて初めて自分の火を消されたのだ。 「なんだ貴様は……!」 クリムゾンノヴァは咆哮しながら、ヘミングウェイに迫った。しかしヘミングウェイは動じることなく、冷ややかな瞳で古龍を見据えて言葉を放つ。 『跪け』 その声には魔界全土をも支配する悪魔の威圧が込められていた。だがクリムゾンノヴァは微動だにしない。それどころか、逆にその威圧を吹き飛ばすように再び火を吹き上げた。 「俺に跪けなどと!」 ヘミングウェイはその瞬間、心の中に新たな感情を覚えた。命令が効かない。彼の力が初めて無効化されたのだ。そうだ、それでいい。そうでなくてはならない。我輩の『当たり前』を破壊しろ。我輩の『常識』を覆せとヘミングウェイは笑う。普段は闇に包まれ赤く光る目しか見えないフードの奥に、赤黒く裂けた口が満面の笑みを浮かべていた。 古龍の火炎と、悪魔の闇が激突する。クリムゾンノヴァの火炎は一撃で広範囲を焼き尽くし、ヘミングウェイの闇は空間そのものを斬り裂こうとする。火と闇がぶつかり合い、周囲の空間を歪ませていく。 クリムゾンノヴァはその巨大な爪が地面を砕き、尾が一閃すればそれだけで大地が割れる。ヘミングウェイは驚くべき俊敏さでそれをかわしながら、魔力を込めた一撃を放った。闇の刃がクリムゾンノヴァの鱗をかすめて黒煙が立ち上る。 「邪悪な存在の分際で楽しませてくれる!」 「貴様にとっては戦いが生きる楽しみか?」 ヘミングウェイの言葉にクリムゾンノヴァは笑いながら答える。 「当然よ!力こそが支配者の故!龍の頂に立つ俺の、何よりの楽しみだ!」 「……ああ、そうだ。我輩も同じだ。何かを知らぬ事が自身をこうも昂らせる。知識を知る事が我輩の何よりの楽しみだ」 ヘミングウェイの冷静さは戦闘中も崩れない。それに対し、クリムゾンノヴァの怒りは次第に冷めていく。 「知識だと?」 火を止め、その言葉の真意を探ろうとするようにヘミングウェイを睨む。 「この世界には……いや、あらゆる世界には我輩の知らぬことが多い。我輩は未知なるものを求めてここに来た」 「戯れ言を……俺を欺こうとしているのか?」 「欺く必要があるのか? 我輩はお前の世界を学びたい、それだけだ」 その冷静な言葉に、クリムゾンノヴァは拍子抜けしてしまった。今まで対峙してきた者は自分に恐怖するか、力でねじ伏せようとしてくる者ばかりだった。しかし、この悪魔はどこか違う。「戦いが目的ではない」と言い切るその態度に、嘘偽りの気配はなかった。 「……それほどの力を持ちながら、力尽くで押し通さんのか」 怒りが消え去ったクリムゾンノヴァは、ヘミングウェイを値踏みするように冷笑を浮かべてその場に腰を下ろした。 「いいだろう、聞かせてやる。ただし俺の気を損ねれば火だるまが出来上がるぞ」 ヘミングウェイもまたわずかに口角を上げた。そうして、二つの異なる存在による対話が始まる。火と闇がぶつかり合った後、互いの知識と世界観が交わる静かな時間が訪れたのだった。 _______ とある世界があった。 だがその世界はもはや死に絶えていた。 かつて繁栄を極め、文明が生み出した数多の輝きは今や塵と化して枯れ果てた大地とひび割れた空が破滅の記憶を静かに語るのみ。 嵐のように荒れ狂う風が舞い、砂と灰を巻き上げる中、たった一つだけ奇妙な光景が存在する。それは荒廃しきった景色の中にぽつんと佇む大図書館。まるで滅びた世界そのものがこの場所だけは侵さないように取り計らったかのようだった。 巨大なアーチの入り口から覗く内部はどこまでも整然と並ぶ書棚が圧倒的な存在感を放ち、天井に届かんばかりの高さにまで積み上げられている。 蔵書の膨大さは、この世界がいかに豊かな知恵を蓄えてきたかを物語っているようである。しかし、それを見る者はもういない。この世界で生きていたものはすべて滅び去り、ただ大図書館だけがその美しい姿を保ち続けていたのだ。 現在この大図書館に来訪しているのはヘミングウェイのみ。というよりこの世界に今存在する動くものはヘミングウェイとたった一人の配下を除いて誰もおらず、その配下も闇に姿をくらましている。ヘミングウェイは先ほど時空の裂け目から異界を眺めている時に偶然この大図書館を発見し、迷わず足を踏み入れたのである。 知識をこよなく愛する彼の目には風化しきった世界の中でなお清らかな状態を保つ大図書館が特別な輝きを放って見えたのだ。 ヘミングウェイはその長いマントをなびかせながら館内を眺めつつゆっくりと歩く。窓の外の荒れ模様など意に介さず堂々と在り続けるこの図書館の発見にご満悦のようだ。 彼の目は、次々と現れる書棚に並ぶ膨大な蔵書に釘付けになっていた。その中で特に目を引いた一冊の古びた本を取り上げて表紙をそっと撫でると、まるで眠りから覚めるようにその本はかすかな光を放つ。 机の上に一冊だけ置かれていたそれは、まるで誰かを待ち続けているかのようだった。 ヘミングウェイは手にした本を読み始めた。ページを繰る音だけが図書館の中に響く。本の内容は滅びる前のこの世界で何が起きたのかを克明に記録したものであり、その一文字一文字が彼の知的好奇心を刺激してやまなかった。 幾度となくページをめくる中で、ヘミングウェイは知った。この図書館が此処までの保存状態を保っているのは単なる奇跡ではなかった。この本に封じられた魔力が働いてこの場所を守っているのだ。 しかし見た限りではその力も永遠ではない。このまま放置しておけばやがて大図書館もこの世界と同じように崩壊してしまうだろう。 「……惜しい」 彼は静かに立ち上がり、図書館を見渡した。圧倒的な蔵書量に感嘆すると同時に、その限界をも感じた。本棚に入り切らずに床に積み上げられた本、すでに破損が進んでいるものも数多く見受けられたのだ。 「管理者がいないと言うならば、我輩が此処を譲り受ける……これを失うのはあまりにも惜しい」 ヘミングウェイは本を媒介にして魔力を注ぎ込むと、大図書館全体が更なる魔力の結界で覆われた。これで風化や外部からの影響を受けることはないだろう。 大図書館の中にはすでに膨大な本が収められていたが、それでもヘミングウェイにとっては不十分だった。ここを自分だけの図書館とするのならまだ足りない、もっと本を集めるのだ。 次なる知識を探すために時空の裂け目を創り出し、自身の塔だけでなく他の異世界へと繋げていった。異世界の中には、かつてこの図書館を有していた世界と似たような文明を持つ場所もあれば、全く異なる文化を持つ場所もあった。 ヘミングウェイは、裂け目を通じて新たな書物を発見するたびに、それを持ち帰り図書館に収めた。棚が足りなくなれば増改築を繰り返し、蔵書を整然と並べていく。膨大な作業量にもかかわらず、決して疲れることなくその作業を楽しんでいた。 彼にとって、大図書館で過ごす日々は至福そのものだった。本を読み漁り、未知の言語や文化に触れるたびに、彼の内なる探求心はますます燃え上がっていく。 ヘミングウェイは数百年ほどは滅びた世界の大図書館を守りつつ、異世界の知識を収集し続ける日々を送っていた。知識を集めることは単なる趣味を超えた存在意義そのものである。 いくつもの裂け目が宙に浮かぶ空間。そこに立つヘミングウェイの赤い瞳は、異世界の数多の景色を一瞥していた。それぞれの裂け目の向こうに広がる未知の世界は、彼の好奇心を掻き立てる。未踏の大地、理解し難い生命、異なる文化や技術。その全てが彼の探求心を満たす糧となる。 しかし、その時だった。鋭い感覚が彼の意識を捕らえる。遥か遠くから届く微かな魔力の波動。それはただの魔力ではなく、生命と魔力が混ざり合った特有の重みを持ったものだった。それを認識した瞬間、ヘミングウェイの眉間に皺が寄る。 「……我輩を召喚する儀式か」 ヘミングウェイにとってこうした干渉は何よりも不愉快だった。探索の最中に割り込まれるなど不愉快極まりないが、無視することができないものでもあった。 供物として捧げられた生命の存在とヘミングウェイ自身を召喚するに値するほどの膨大な魔力をも感じ取れる。こちらが用意した契約書に向こうはしっかりと必要な供物を用意した上での召喚。ヘミングウェイの意思では避けようのないものであった。 ヘミングウェイは遥か昔、裂け目を発見したばかりで知識への渇望に駆られていた時に自身の召喚契約書を無数の異世界へとばら撒いたのだ。自分を召喚できるほどの存在がいる世界ならばきっと素晴らしい知識がある。我が力を利用させる代わりに、召喚者の世界が有する知識や記録を対価として得るためのものであった。しかしそれが今、こうして探索の邪魔をする形で自分に返ってきている。 自らの決断を後悔するつもりはない。しかしその行為がもたらす不便さにはやはり苛立ちを覚えずにはいられなかった。 ヘミングウェイは裂け目の中央に立ち尽くし、しばしの間視線を彷徨わせる。 「……行かねばならぬか」 彼は深く息を吐き出した。憮然とした表情を浮かべながらも、ヘミングウェイはゆっくりと宙を漂う裂け目に手をかざす。その手元に暗黒の波動が集まり、やがて召喚の魔法陣へと意識が向かっていく。 「契約は契約だ、応じるしかあるまい……フォーメイト!」 ヘミングウェイが名を呼ぶと、山羊の悪魔が現れてその場に跪く。その悪魔はヘミングウェイの最も信頼する悪魔であり、その知性と忠誠心はどの悪魔とも比較にならないほど高い。 「我輩はこれより異界に飛ぶ。管理を任せた」 「かしこまりました、いってらっしゃいませ」 返事を聞き終わると同時にヘミングウェイの姿は徐々に薄れ、やがて完全に消え去る。そこにはもう何も残っていなかった。ただ、裂け目の中で煌めく異世界の断片だけが静かに漂い続けていた。 ヘミングウェイとってこの召喚は完全な無駄ではない。召喚者が有する世界の知識や文化、それらが記された書物が、また彼の大図書館を満たす新たな一頁となる可能性を秘めているからである。 ヘミングウェイが姿を現したのは想像していたよりも精緻に作り込まれた召喚の祭壇だった。石造りの大広間には、幾何学的な模様と複雑な紋様が描かれた巨大な魔法陣が中央を占めている。その中心、金色の十字形の装飾が施された専用のワンドを左手に握りしめ、原初の悪魔ヘミングウェイは静かに降り立った。 彼の赤い瞳は冷静に周囲を観察し、魔法陣の外側に並ぶ供物へと目を向ける。そこには精巧な衣装を身にまとった十人の遺体が無造作に横たわっていた。その顔には生前の知性と誇りが今なお残っているように見える。それもそのはず、その十人とはこの世界有数の学者たちであり、彼らが蓄えてきた知識の重みが周囲の空気にすら染みついているようだった。 ヘミングウェイは彼らを一瞥し、右手を翳してわずかに口元を歪めた。 「なるほど……」 彼はその遺体が持つ知識の全てを一瞬で脳裏に刻み込む。学者たちが書き記した膨大な研究、歴史、哲学、魔術理論――それらがヘミングウェイの無限ともいえる記憶に収められていく。その量と質に感心しつつも、同時にある種の期待が胸に生まれる。この世界に根付く独特の歴史や文化がこれほどまでに深いのならば、他の場所にはどれほどの宝が眠っているのか。 「……確かに召喚に値する代価は貰った。貴様の望みを言え」 言いつつもその思考は既に更なる知識の収集への興味に向かい始めていた。だが、その思索を中断する声が耳に届く。 「偉大なる原初の悪魔よ……我が主君、魔王様に貴方様の知識をお授けください」 緊張からか低く震える声でそう語りかけたのは召喚の儀式を執り行ったと思われる術者であり、恭しくヘミングウェイに傅いている。 しかしその言葉を聞いた瞬間、ヘミングウェイは軽く嘲笑を漏らした。 「我輩の持つ知識を……?」 彼の声は冷たく響き渡り、その声に術者は反射的に顔を上げる。 「それほどの力を手にできるほど、貴様が仕える者は頭が良いのか?」 その言葉に周囲の空気が急激に変化した。儀式の補助をしていた者たち、あるいは術者の配下であろう戦士たちが色めき立ち、緊張の糸を張り詰める。 「よせ!このお方を怒らせてはならん!」 術者は声を張り上げて怒鳴るが、もはやそれだけでは止まりそうにない。ヘミングウェイの発言に侮辱を感じたのか、剣や槍といった武器を構えて数人が一歩前へと踏み出して無礼だの何だのと騒ぎ出す。 忠誠心に基づいた行動ではあるだろう。自らの主君を侮辱され、それに黙っていられる者は少ない。その忠道は確かに大義と言えるものだが、ヘミングウェイにしてみればそれ以上に重要なものが欠けていた。 「……まずは目の前の存在に敬意を払え」 ヘミングウェイは冷然とその場を見渡して低く呟いた。 『静かにせよ』 しん、と一気に静まり返る室内。 遺体とヘミングウェイを除く全員が口を強制的に閉じられ、うなり声すら発せなくなる。 『跪け』 その一言とともに、広間全体を圧倒的な力が包み込んだ。見えざる力がプレッシャーと共に襲いかかり、武器を構えた者たちは次々と地面に叩きつけられた。その衝撃で石造りの床には亀裂が走り、壁が崩れ落ちる箇所すらあった。 叩きつけられた者たちはなんとか立ちあがろうとするも、力に逆らうことができない。圧倒的な力に押しつぶされながら地に伏すしかなかった。 「契約の履行をする。魔王とやらに会わせろ」 ヘミングウェイはそう言い放つと、身を翻す。 「我輩が見定めてやる」 彼の言葉に術者は慌てて頭を下げると、召喚陣の外で震える足取りながらも道を示す。 ヘミングウェイはゆっくりとその後に続き、重圧の中に静けさをたたえながら、広間を後にした。 ヘミングウェイが通されたのは、厳粛な王室を期待していた彼の予想を大きく裏切る部屋だった。豪華ではあるものの、その用途は明白で、赤子の世話をするための空間だったのだ。揺りかごやおもちゃが並び、暖炉には穏やかな火が灯っている。しかし、その場にいる者たちの様子は部屋の愛らしさとは正反対だった。 数人の女中と護衛の兵士たちはヘミングウェイの放つ重圧に恐怖で震えて誰もが張り詰めた表情を浮かべており、その顔には冷や汗が浮かんで目は怯えたように揺れている。 ヘミングウェイは部屋に足を踏み入れた瞬間から、彼の内に怒りの炎が静かに燃え上がっていた。そして、その一歩一歩が彼の苛立ちをさらに煽り、部屋中に漂う空気は次第に重く、圧倒的な威圧感が場を支配し始める。 「貴様……」 ヘミングウェイは低く、しかし冷たく響声で口を開いた。 「我輩に知識を授けろと言ったな?」 その声は、部屋にいる誰もが恐れを抱かずにはいられないほど冷然としていた。術者は顔を青ざめたまま一歩も動けず、声を発する事さえできない。ヘミングウェイはその返答を待つことなく、次の言葉を続けた。 「このものも言わぬ動物同然の存在に何が分かると言うのだ?」 彼が放つ言葉とともに、部屋全体が振動を始める。揺れる家具、震える床、壁の装飾がかすかな音を立て、ガチャガチャという音は震える鎧の音か歯の音か。何れもがヘミングウェイによる怒りの旋律となっていた。それを最も端的に表しているのが次々と気絶してその場に倒れ伏していく兵士や女中たちだった。 緊張感に満ちた空間の中、突如として場違いな声が響く。それは笑い声――赤子の純粋無垢な笑い声だった。 ヘミングウェイはその声に反応し、ゆっくりと振り返る。 大人が震え気絶するほどの重圧は赤子が耐えうるものではなく、簡単に死んでしまうほどの力がある。なのにこの赤子は耐え切るどころか笑う余裕まで見せていた。 ヘミングウェイは無言のまま、ゆっくりと手を動かした。赤子を宙に浮かせると自身の顔と同じ高さまで持ち上げ、額に指を当てる。 赤子の体がわずかに光を帯び、その瞬間ヘミングウェイは彼を感じ取った。 「当然だが……足りぬ」 赤子の持つ「器」は明らかに未熟だった。当然だ、まだ言葉すら話さない赤子にそれを求める事自体が酷だろう。それに知識を無理やり詰め込むことは可能だがそんなことをすれば耐えられず壊れてしまう。それでは契約を全うする意味もない。いや、それどころかヘミングウェイの重圧をものともしない逸材を無駄にしてしまうだけだ。 この赤子には可能性がある。その未来にヘミングウェイは興味を持ち始めていた。この赤子を自らの手で育て上げればどうなるのか。知識を授けるに相応しい「器」として成長させることができるのではないか。 「もとより契約は成されている」 ヘミングウェイは言葉を続ける。 「願いを叶えることができぬというわけではない。この子にも興味を抱いた。ならば」 彼は赤子をふわりと揺りかごへ戻すと、その場に跪く術者を見下ろして言い放った。 「我輩がこの赤子の成長を見届けて、順次知識を授ける」 ヘミングウェイはその場に倒れ伏している兵士たちを一瞥し、深いため息をついた。 「……だが、その王に仕える者がこれではな」 この状況では誰も頼りにならない。契約に従う以上、育児を放棄するわけにもいかないのに前途多難にも程がある。ヘミングウェイは右手をかざし、指先を縦に下す。するとその場所の空間が歪み、裂け目から一体の悪魔が姿を現した。フォーメイトである。 「お待たせいたしました」 「育児書を探してこい。確かいくつかあったはずだ、すべて持ち出せ」 「……育児、でございますか?」 フォーメイトはわずかに首を動かし、主の言葉の意味を図りかねたが命令を受けると同時にその場で裂け目へと戻り、素早く消えていった。 フォーメイトが戻るまでの間、ヘミングウェイはこの城とその状況を把握するための行動を開始する。 「この城が魔王の居城とは笑わせる。出来損ないのはりぼてだ」 調べを進める中で判明した事実は驚くべきものだった。魔王の両親は存在せず、この城自体も最近になって急ごしらえで建設されたものに過ぎなかった。さらに、赤子の魔王とともに働く人間たちはつい最近ようやく活動を始めたばかりであり、統率も教育もまるで成されていない。要するに、あらゆる機能が麻痺した状態であった。 「こんな有様で教育など話にならん」 ヘミングウェイは苛立ちを抑えつつ、どのようにこの状況を立て直すかを考え始める。そしてその時、空間が再び歪み、フォーメイトが育児書の束を抱えて戻ってきた。 「お持ちいたしました、ヘミングウェイ様」 フォーメイトは本を丁寧にヘミングウェイの前に浮かべる。内容は多岐にわたり、赤子の世話の基本から教育論まで網羅されていた。 ヘミングウェイは一冊を手に取るとフォーメイトに命じた。 「この城をまともに機能させろ、必要ならば我輩に声をかけてもいい。あらゆるものを存分に使え」 「かしこまりました」 フォーメイトは一礼し、すぐに行動を開始した。彼の知性と能力をもってすれば、時間はかかるだろうが機能不全に陥っている城を立て直すことも可能だろう。 ヘミングウェイとフォーメイト、二人の悪魔による赤子の魔王の育児と、そのための環境整備が始まったのである。未知の挑戦ではあるが、ヘミングウェイはそれを不可能とは思わなかった。むしろ、この状況を乗り越えた先に待つものに期待すら抱いていた。