「この村でも死者が……」  イザベラは背を丸め、苦しげに声を絞り出す。クリストはその背を、沈痛な面持ちで見つめる。 「あまり深刻にならないでください、イザベラさん。まだ原因があると決まったわけではないのですから」  クリストはそう言いながら、自分の言葉を信じていなかった。これだけ大量に、似たような形の偶然が生じるわけがない。 「……もし偶然だとしても、何かできることがないか考えてしまう」  イザベラはかすれた声で言った。最初は、家族の死の真相を探ってほしいという依頼を受けただけだった。雷に打たれての死だというそれを、クリストは内心、単なる事故だと思っていた。自然災害は防げない悲劇を引き起こす。時として魔物よりも理不尽に、理由もなく、災害は命を奪うもの。  しかし詳しく調べてみれば、その規模と頻度は異常だった。極めて小規模で、数が多い。そしてある範囲を移動している。 「偶然でないなら、なおさら何かしたい」  クリストはその瞳の輝きに、胸をつかれた。切なる願いと意志の力。仮になんの力もなかったとしても、この人は弱い者のために立ち上がっただろう。 「そうですね……」  クリストは目を逸らした。やはりあなたは勇者なのだ、と胸のうちに呟く。だって勇者ならぬ自分は、事件を追っている最中にもかかわらず、一瞬そのことを忘れ、あなたに見とれてしまったのだから。  点々と飛び散る死を追っていくにつれ、二人はいつの間にか、魔王国との国境付近に辿り着いていた。 「いや、郊外は空気がおいしいな」  魔界貴族キブーリは、川べりを歩きながら伸びをした。ディエックスが川の中から頭を突き出し、巨大な口を開いて欠伸をする。 「移動時間が長いですね。合法的休憩と思いましょうか」  デジタル総合調整課。よくわからない部署と言われがちではあるが、魔王肝入りの組織である。今回彼らは僻地への魔電波塔の建設のため、視察の旅に出ていた。 「あの……」  不安げな顔をする新人、エシャロットに、キブーリは朗らかに声をかけた。 「今は君にやってもらうことがないんだよ。こういう時は遠慮せずサボりなさい。見たまえモニテンバイツを」  芦毛の駿馬は、先ほどから道すがら、辺りの草木をむさぼり食っている。  魔王国東、人間国との国境付近。現在は非敵対関係とはいえ、国同士の関係は良好とは言えない。国境線周辺は事実上、どちらの国の領土とも言えず、どちらからも手出しがされない場所だ。建設予定地は魔王国の領土だが、人間側に影響が出ようものならば、最悪の場合、戦争に発展する可能性もある。  しかし任務の重要性に反し、一行は至ってのんきである。周辺の状況調査は、事前にほぼ済ませてあった。今回の旅の目的は、現地の有力者との打ち合わせと、実際に問題がないかの視察だ。 「天気も良くてよかった。これで雨でも降ってたら目も当てられないからね。ラッキー……」 「『らっきょう』……?」 「アッ」  キブーリは何を言う暇もなく捕獲された。 「今なんつったゴルァ!!!」  モニテンバイツは爆音に耳を伏せ、上司が土に逆さまにブチ込まれるさまを見届けた。エシャロットの必殺技、メテオストライク・パイルドライバーである。 「……ご、ごめんなさい……」  目を吊り上げて激昂していたエシャロットが、はっと我に帰る。ディエックスが哀しげに、土から生える上司の下半身を見下ろした。 「課長……なんて姿に……」 「いいんだ。特定のコマンドワードに反応する魔族は少なくないからね。私が不注意だった」  ディエックスの顎に脚を挟まれ、逆さ吊りになりながら、キブーリは鷹揚に腕組みして頷いた。 「新人のお前さんにはわからないかもしれんが、課長はこれですごい人なんだぞ」  ディエックスがエシャロットに小言を言う。キブーリはディエックスの頭の上によじのぼって、砂をはたきつつ、威厳のある態度を示す。 「ありがとうディエックス。これでというのがなければもっと良かったね」  再び一行は歩きはじめ、雑談に花を咲かせる。 「ところで君、昔の同僚の皆さんは今どうしているんだい」  ディエックスは半眼になり、こころもち頭を下ろして、キブーリを斜め上から見下ろした。 「自分は課長とは長い付き合いですので、もう気にしませんが、若い子にそういうことを言ってはダメですよ」 「待ちなさいディエックス。これは決してそういう意図で発した言葉じゃない。私は日常会話としてだ」 「じゃあ、自分がこの前の長期休暇で、ティアロトと泊まり込みのなると食べツアーに行ったと言ったら、どう思われます?」 「ムッ……」  キブーリの上体がやや傾いた。 「それは事実なのかい?」 「行っていないですよ。行っていたとしても課長には教えません。自分一人で済む話ならともかく、仲間を巻き込んでは申し訳ないですから」  キブーリは真剣な様子で、ディエックスの目を見つめる。 「ディエックス、君のそういうところを、上司としての私は非常に信頼している」 「ありがとうございます」  ディエックスは頷いた。 「でもキブーリとしての私は、日常にトキメキが欲しい気持ちがあるんだ」 「身近なところでトキメキを満たそうとするの、やめた方がいいと思いますよ」 「私はね、ディエックス。事実と妄想を混同したりしない。君のご友人に会う機会があったとしても、当人に妄想の内容を当てはめたり、ましてや妄想を漏らしたりはしないさ。だからちょっと妄想するぐらい、いいじゃないか」 「正直な話していいですか。課長が何言ってるか、全然わかんないんですよね」  上司二人はバカ話に熱が入り、とうとうと流れる川の音が、モニテンバイツの聴覚を妨げた。とはいえ、人間と鉢合わせるまで誰もその存在に気づかなかったのは、まったく注意不足だったと言わざるをえない。  人間二人と魔物の集団、両者は突然の遭遇にぎょっとし、咄嗟に戦闘態勢に入った。 「魔物……!」  クリストがイザベラを庇って前に出る。 「勇者か」  キブーリは低い声で呟いた。ディエックスがかっと口を開き、背びれを逆立てながら囁く。 「モニテンバイツ、エシャロットを頼む」  モニテンバイツは耳を伏せて警戒の表情を示し、勇者から目を離さないまま身を屈めて、エシャロットを背に跨がらせる。  クリストは、イザベラを背に隠すように守り、槍を構えた。一触即発の空気が満ちる。 「よおし!やめよう!」  唐突に、キブーリが両手を上げて叫んだ。両陣営がはっとして彼を見つめる。 「我々は確かに魔族!この魔界貴族キブーリ、多少腕に覚えはある。その気になれば君たちを叩きのめすこともできる!しかし考えてみたまえ、ここでの争いは、人間領と魔族領どちらにも飛び火しうる。状況によっては、かのバルロス事変のような事態を引き起こさないとも限らん。こんなことで歴史に名を残したくないよ、私は」  キブーリは芝居がかった仕草で首を振り、その場にどすんと座った。 「魔界貴族キブーリの名にかけて、我々は誰にも君たちのことを話さない。だから君たちも我々とは会わなかったことにする。これでどうだね」 「課長」  ディエックスが唸るように言った。 「自分は彼らをいなかったことにできます」 「ディエックス」  キブーリは極めて平静な声で答えた。 「君はこのキブーリの名に泥を塗るつもりか」  ディエックスはため息をつき、キブーリの後ろにとぐろを巻いた。モニテンバイツはさり気なく後退し、ディエックスの後ろから様子を伺う。 「……クリスト。やめて」  躊躇いながらも槍を構えたままのクリストを、イザベラが小声でいさめる。 「しかし……私はともかく、貴方に何かがあっては」 「やめようって言ってる」  クリストはゆっくりと槍を下げた。 「ありがとう。助かるよ」  キブーリは極めて真剣な様子で、立ち去る二人を見つめ、熱心に頷いた。  そこからまた歩き出して、しばらく後。モニテンバイツが小さく嘶きを上げた。 「どうした?」  知的な芦毛馬は、首を巡らせて一方を指し示し、先に立って歩き出す。 「おや、気の毒に」  崖下にひっそりと転がる遺体。モニテンバイツはその臭いを嗅ぎ当てたのだ。キブーリは首を伸ばして、周囲の様子を眺める。 「どうしたものかな。持って帰ることもできんが、放置すればシャドーウルフに食い荒らされるばかりだ。既に大分損傷しているし、これ以上の損傷は避けたいね。蘇生する誰かがいるかもしれん。とりあえずさっきの村に連絡入れてくれるかい、ディエックス」 「わかりました」 「モニテンバイツ、すまないがあそこまで下ろしておくれ」  モニテンバイツは脚を屈めた。上司をその背に乗せて羽ばたき、崖下まで降下する。 「これは……雷に打たれたのか?雨の降った様子もないのに……?」  後から降りてきたエシャロットが、小さな声で注意を引く。 「課長。この方荷物を二つ持ってたみたいです」 「前から思っていたが、君はなかなか肝が太いよね」 「諜報部志願でしたので。でもこっちは女性の荷物なのに……この服は男の……?」  キブーリは死体の様子をじっと見つめた。 「ディエックス。申し訳ないが、しばらく川の中にでも、姿を隠しておいてくれないか。必要な時はリモートで繋ぐよ」 「承知しました、課長」  ディエックスは何も聞かずに了解する。 「この犯人には、魔王城から討伐対象指定が出ている。ディエックスと私で退治する。本来の業務に穴が開かないよう、今から業務調整をする。モニテンバイツ、サポートを頼んだよ。余分な仕事分の費用は出す」  モニテンバイツは少し不服そうにして、蹄を鳴らしつつも頷いた。 「エシャロット。君にも予定より少し多めに働いてもらう。難しいことはない、先に大方の話は通してあるし、わからないことがあれば、モニテンバイツに聞いてくれれば大丈夫だ。彼はすこぶる優秀だからね」  エシャロットは不安そうに紫の瞳を見開く。 「あの……私は新人で……」 「心配しなくていい。何かあった場合は私が責任を取るから、焦らず不安がらずやってくれ。それにね、君は君自身が思っているよりずっと優秀だ。私は何も心配していないよ」  その夜。魔界貴族キブーリの宿の部屋に、目隠しと沈黙の魔法がかかる。主の呼びかけに応じ、忠実な影、ダークシャドウが姿を現した。 「突然呼び出して申し訳ない。資料は持ってきてくれたかい、ダークシャドウ」 「複写をお持ちしました。こちらが漆黒の勇者イザベラに関する、調査書となります」  キブーリは資料に目を通し頷く。 「なるほど。なかなかおもしろいね彼らは」  キブーリは資料をめくりながら、冷静な声で言葉を続けた。独り言なのか、ダークシャドウに聞かせているのかは区別がつきづらい。 「四天王に報告すれば、ダースリッチかエビルソードあたりから、討伐隊くらいは出るかもしれんな。だがこちら側の人間領と、関係がこじれるのはありがたくない、私も四天王に義理立てする立場でもないしね。やはり見なかったことにするのがいいだろう」  ダークシャドウは同じ姿勢のまま、主の次の言葉を待った。キブーリは立ち上がり、両手を後ろで汲むと、靴を鳴らして歩き始める。 「フム。しかし、女勇者。そして勇者じみてはいるが勇者ではない男……ダークシャドウ、『存在しない話』をしても構わないだろうか」 「問題ありません、キブーリ卿」  ダークシャドウは静かに頷いた。 「勇者に見えない勇者と誰からも勇者と認められる非勇者……コンプレックスに結ばれた奇妙な関係……どちらも互いこそが美しく、互いこそが勇者に相応しいと思っている!いいと思わんか君ィ」 「続けてください、キブーリ卿」  ダークシャドウは静かに頷いた。 「お互いへのコンプレックスはやがて憧れ、そして愛!に発展する……しかしそのコンプレックス故にだね、愛は発展しえんのだな。時に触れ合う手と手、交わす眼差しに確かな熱を感じながら……我が身の境遇への恥ゆえに!踏み出すことのできない二人!いいと思わんかダークシャドウ!」 「そういうこともあるでしょう、キブーリ卿」  ダークシャドウは静かに頷いた。 「堅物とはいえ彼とて男性だ、時にはふとした瞬間の彼女の姿が脳に焼き付き、モヤモヤとした気持ちになることも……しかしその堅物さ故に、彼は自らの健全な!愛情を……!むしろ嫌悪してしまうのだな!……彼のそんな姿を見た彼女は、自分が嫌われているのではないかと……ああ……媚薬を届けてあげたい!……私はそのために生まれたんじゃないだろうか!どうかなダークシャドウ!」  キブーリは力強くクッションを殴った。 「そういう発想は可能です、キブーリ卿」  ダークシャドウは静かに頷いた。 「次の魔ミケはこれでどうかな、ダークシャドウ」 「勇者モノは売れないかと、キブーリ卿」  ダークシャドウは静かに首を振った。 「売れるかどうかではない、パッションがあるかどうかだ」  キブーリはひとしきり語り終えて、満足の溜息をついた。 「それでだ。事故の方はどうだね?」 「はい。調査は中途ですが、ここ数ヶ月周辺の魔族領で、事故による死者が有意に増加しています。……生き延びたのは家族のうち一人、あるいは恋人の片割ればかり」  キブーリは深く溜息をついた。 「ありがとうダークシャドウ。個別の案件についての調査はもういい、各事件の起きた場所を調べてくれ。君には本当に迷惑をかけてばかりだ。いずれこの埋め合わせはする」 「いいえ。この程度のことは、迷惑のうちにも入りません」  ダークシャドウは、優雅に首を振る。 「しかしこれはチャンスとも言えるだろうな。ディエックスの力を借りれば、奴を封殺することも可能だ。申し訳ないが、引き続き君の力を借りるよ」 「承知しております。奴の討伐は卿の悲願」  キブーリは頷き、その後声を低くする。 「ところでその……『へるの☆ぱらだいす』の方はどうなっとるね、ダークシャドウ」 「用意してございます、キブーリ卿」  ダークシャドウは静かに頷いた。懐から資料を取り出す。キブーリは躍り上がって、その分厚い紙束を受け取った。 「サンプルまでつけて気が利くじゃないか!素晴らしいよダークシャドウ。君はやはり私の腹心だ」 「恐縮です、キブーリ卿」  ページをめくりながらキブーリは歓喜する。 「いいねいいね、やはりローベリアは最高だ。ヘルノブレスへの憎悪と哀れみと友情と親愛の混ざり合った重い感情……ンッ……ハァ……彼女はさり気なくメイドたちを遠ざけ……メイドたちもローベリアをそれとなく嫌悪する……いやねぇ、ここの関係も深くなってほしい、メイドとして仕える者たち……親友として側にいる者……愛憎……独占欲……しかし彼女らの愛する女はひとりしかいない!同じ女を愛するものとして、彼女らは心通わせ、やがては恋の芽が芽生える……満たされぬ気持ちが彼女らをより深く深く繋ぎ合わせ……心はヘルノブレスにあるままに……そういうことにならない?ならないかなぁ、なってほしいよ私は。……すまない、断りもなく『存在しない話』をしてしまった。しかし君……シャイン・ハーケンの描写が少しばかり甘いように見えるね。可能であれば、次はそちらにも時間を割いてほしい。彼女の任務と欲望の間で揺れる内心の葛藤、敵意で塗り潰した中に垣間見える愛情はたまらんものがあるよね」 「努力いたします、キブーリ卿」  ダークシャドウは静かに頷いた。  焚き火に照らされるイザベラの顔を見つめる。黒い髪とドレスは森の中の深い闇に溶け込んで、露出した肌を柔らかく縁取る。そうしていると、彼女はまるで、夜から生まれた女神のようだった。 「何を考えているんですか?」  沈黙に耐えられなくなって問う。黒い瞳を縁取る睫毛が震え、少し持ち上がる。 「……今ここで、何が起きているのか」  イザベラは焚き火に目を戻し、答えた。 「それは私に解決できるものかどうか」  この人自身がどう思おうと、この人は勇者なのだと、クリストは考える。手に触れたすべてを救おうとする、ひたむきさ。目に見えない敵と戦う意思。その折れない心こそ勇者のあかし。 「クリスト」  はっとイザベラが目を見開く。 「……誰か来る」  音もなく森の中からやってきた影。それは明らかに人間ではなかった。闇そのものを固めたような真っ黒なそれは、焚き火の数歩向こうで両手を上げ、敵意がないことを示した。 「攻撃しないでください。私は魔界貴族キブーリの使いの者です」 「……それで、私達に何の用です?」  それは中性的な、穏やかな声をしていた。真っ黒な体の表面には、影が落ちない。夜を切り取ってきたような魔物は、静かに言葉を続ける。 「あなた方は連続殺人事件を追っているのではないですか?そして、その死者は必ず、生きた恋人か家族を残している」 「なぜそれを……」  イザベラが答える。影は小さく頷き、ゆっくりと懐に手を入れた。 「我々はあれの正体を知っています。そして解決したいと思っている。あなた方と同じように」 「協力しようということ……ですか?」 「そうです」  影は手紙を取り出し、足元に置いて数歩分遠ざかる。 「これはキブーリからの伝言です」  イザベラが立ち上がり、手紙に手を伸ばす。影は身動きせず、ただじっと佇んでいた。 「我々の共通の敵について情報交換を行いたい。書状の内容を確認の上、興味があるようであれば指定の場所に来られたし」  指定された廃屋の中、魔界貴族キブーリと名乗った魔族は、机を前にして、一人で座っていた。 「ありがとう。きっと来てくれると思っていた」  ぱちん、と音がする。机に置かれた魔法陣の中に、シーサーペントの目だけが浮かび上がり、敵意を含んだ視線でこちらを見据える。 「彼はディエックス。私の部下だ。一度会ったことがあるはずだが、覚えているだろうか。今回の件には、彼にも参加してもらう」 「……ここには一人で来たということですか?」  イザベラの問いかけに、キブーリはなんでもないことのように頷いた。 「我々は残念ながら、敵対関係にある。誠意を示さねば、信頼はされまい」 「なぜそこまであなた一人、体を張る必要が?」  緊張を解ききれないままに、問いかけるクリスト。キブーリは両手を組んだ。 「これは魔族にとっても重大な問題だからだ。加えて言うならば、私個人の義務でもある。話が長くなる。罠など仕掛けていないので、よければ座ってほしい。無論、不安ならばそのままでも構わない」  キブーリが椅子を示す。二人は目を見交わし、無言で互いの意志を伺った。イザベラが先に腰掛け、クリストがそれに続く。 「ありがとう。信用に感謝する。単刀直入に言うが、イチャついてほしい。堂々と、二人きりでだ」  キブーリは日常会話のような調子で言った。 「えっ」 「なっ……」  予想外な事態に、二の句を継げずにいる二人。魔法陣の向こうのディエックスが、はっきりと哀しげな目をした。 『課長……なぜです……?』 「ディエックス!早とちりはよしなさい!君たちも聞いてくれ」  キブーリは机を拳で叩き、大声を出した。 「敵の名はクラウドモンス!生きた気象の怪物だ!」  彼は大きく息を吸い、語り始めた。 「君たちからすれば我々とて怪物だろうが、我々からしても奴は怪物なのだよ。奴は人魔を問わず恋人や家族連れを襲い、わざと生存者を残して、他は皆殺しにする。そうして悲劇を生む!」 「なぜそんなことを……?」 「わからん。人間に殺人鬼がいるように、魔物にも殺戮者は出る。そういうことだろう」  キブーリは組んだ両手に体重を乗せ、身を乗り出した。 「過去魔王軍から討伐隊が出されたこともあるが、奴は討伐の気配を察知して逃げおおせた。クラウドモンスの討伐において、厄介なのは奴の放つ稲妻や雹よりも、雲や風に姿を変える能力の方だ。自然の雲に紛れられれば、判別する術がない。しかし!このディエックスの能力をもってすれば、奴の逃走を阻止できるかもしれん」  語る声音が熱を帯びる。 「今、奴はまだ我々に気づいていない!千載一遇のチャンスなんだ。そこでだ。君たちには囮役を頼みたい」 「囮役……ですか?」  イザベラが問う。キブーリは熱心に頷いた。 「そうだ。先程も言った通り、奴は恋人に引き寄せられる。並みの人間相手に私もこんなことは頼まない。だが君たちならば、奴にむざむざ殺されはしないんじゃないか?奴を誘き出してさえくれれば、戦闘は私とディエックスが引き受ける。悪い話ではないだろう?」  長々と語り終え、キブーリは息をついた。 「どうだね。完璧なロジックだろう?私も趣味や嗜好で言っているわけじゃないんだ」  イザベラとクリスト、二人は顔を見合わせた。恋人。互いに憎からず思っている……気配はあった。しかし踏み込むことはできない。恋人。関係を確定させてしまう、その言葉は重い。イザベラの喉がごくりと動く。 「囮役……ですか……」  今度はクリストが言った。「恋人」の一言を、口に出す勇気は持てなかった。  キブーリの手が、古びた机を強く叩いた。 「もし引き受けてもらえなければ、私とディエックスがイチャつくことになる!」 『課長!?』  通信の向こうのディエックスの声が裏返る。 『課長!考え直してください!自分は……自分はイヤです!!!』 「安心したまえディエックス。私の首には無数の人格がある。女性に化身することも可能だ」  キブーリは、ディエックスの必死なまなざしを避け、顔を背けて宙を見つめる。 『性別は関係ありません!自分は課長を尊敬していますが……課長と恋愛関係になりうると認識すること、そのものがイヤです!!』 「聞きなさいディエックス。あらゆる存在は性別の一致不一致どころか、性別や生命、肉体の有無さえ関係なく、恋愛関係になりうるんだ……まあ、その話は置いておこう。私もまた君を尊敬しているし、部下として非常に信頼しているが、恋愛関係を持ちたいとは一切思っていない。まさかモニテンバイツには頼めないし、エシャロットはまだ新人だぞ。消去法で君を選んだだけだ」 『自分は……自分は……イヤです……理屈では曲げられないこともあります』  ディエックスの声が情けなく震える。キブーリが子供をあやすような調子でなだめた。 「落ち着いてくれ、ディエックス。本気で盛り上がろうと言っているわけじゃない。ちょっとそのフリをするだけだ。必要ならば、事後に信頼できる記憶術士を紹介してもいい」 『うぅぅうううう……』 「ディエックス」 『うぇぇええええ……』 「大の大人が泣くほどイヤかい」 「わかりました」  イザベラが毅然として答えた。クリストは、はっとして彼女の横顔を見つめる。 「引き受けます」 「ありがたい。実はね、引き受けてくれなかったらどうしようかと思っていたんだ」  キブーリは幾分ラフな姿勢に座り直した。 「私は奴に面が割れているから、ディエックスとイチャついても意味がないんだよね」 『……!!課長!?自分をオモチャにしたんですか……!?』  ディエックスが愕然として悲鳴を上げる。 「オモチャとは失礼な。彼女はきっと優しいから、君が嫌がれば庇ってくれると思った。生の反応を引き出したかったんだよ。ありがとうディエックス、いい嫌がりぶりだった。キブーリちょっぴりショックだよ」  イザベラがクリストに目を向けた。普段は薄暗い影を宿している彼女の目が、使命感に燃えている。 「危険ではないですか?」 「私達がやらなきゃ死ぬ人が増える。ならやらなくちゃ」 「しかし……もしもあなたが死ぬようなことがあれば私は……」 「私は死なない。心配しないで」  真っ直ぐな決意を浮かべていたイザベラの瞳が、哀しげに伏せられる。 「……それとも、私が嫌?」 「そ、そんなことは……」  二人が話す間、キブーリは強く両手を握りあわせて、静かに座っていた。 『課長、話の続きを』 「うん。そうだったね」  ディエックスに促され、キブーリは姿勢を正す。取り出されたのは、地図と、びっしりと文字の刻み込まれたロープの魔道具だ。 「これは魔界側の被害情報。君たち側の情報と突き合わせ、活用してくれ。こちらは『門』の魔術。人間界でも使われているはずだ、見たことがあるだろう。奴を見つけたら、こいつを起動してほしい。我々が駆けつける。すまないがそれまで奴を引き止め、後は退避してくれ」  クリストはイザベラが、その魔道具を受け取るのを見つめた。キブーリは何の魔法も行使せず、魔道具が炎を上げて彼女の手を焼き尽くすこともなかった。 「では話はここまでだ。屋外ではくれぐれも、二人が恋人同士であることを忘れないでくれ。奴はどこにいるかわからない」  二人は思わず目を見交わし、同時に頬を赤らめた。イザベラの手が動き、クリストの指に触れる。しかしそれ以上のことは何も起こらない。手は戻っていく。 「わかっています」  イザベラは頬を赤くしたまま、目に強い意思を宿して頷いた。 「頼んだよ。クラウドモンスは危険な相手だ。無理はしないように」  出ていく二人を見送り、ディエックスとの通信を終えた後、キブーリはかなり長い間、黙って座っていた。やがて机に肘をつき、両手で顔を覆って呟いた。 「興奮して涙出てきた」  廃屋からの帰り道、クリストは隣に並ぶイザベラの気配を感じながら、そちらを見られないでいた。 「……クリスト」  イザベラの手が、ついと服の裾をつまむ。 「恋人のふり……」  クリストはぎゅっと目をつぶった。イザベラの手が躊躇いがちに手に触れる。指と指が重なり合う。手が握りあった。 「……ふり、だから」  クラウドモンスに聞かれることを恐れているのか。その声はとても小さい。温かい掌は少し湿っている。恥じらいで汗ばんでいるのだ。 「わかっています……」 「……ちゃんと、演技しないと」  小さな小さな声だった。クリストは自分の肌が熱くなっているのを自覚する。心臓が早鐘を打つ。そうだ、これは恋人のふりだ。だからもっと大胆なことをしても、いや、そんなことはできない。イザベラは……。 「そうですね!我々は恋人同士です!」  クリストは握った手にぎゅっと力を込め、早足で歩きはじめた。  そのようにして三日ばかりが経つ。ごく短い期間のはずだが、クリストは一瞬一瞬が永遠とも思えるような葛藤の中にいる。 「恋人……」  イザベラが座っている。鼓動が聞こえるほど近くに。これは使命なのだ。死者も出ているというのに、何を躊躇っているのか。 「クリスト……」  イザベラの手が頬に触れる。これは怪物を退治するために、仕方なくやっていることだ。傷つく民を思え。不埒な気持ちなど持つ理由があるか?しかし意志とは裏腹に、胸は破裂しそうだった。 「私を見て」  黒い瞳がさざなみのように揺れる。その瞳の震えが、彼女もまた同じ葛藤の中にいるのだと伝えた。 「はい……」  吐息がかかる距離。顔と顔を近づけて、何も起きない。指で髪を梳ることも、唇が触れることもない。ただその大きな瞳に映る、自分を見つめるだけだ。  そうしてまた、永遠が訪れた。二人の他に何もない世界で、目の前の瞳が揺れる。 「来ないね……」 「そう……ですね……」  本当は、他に口にすべきことがあるのではないか、と思った。その一瞬後に、自分の考えを嫌悪する。なんて男だ、私は。イザベラの唇が動いた。 「……」  何を言おうとしたかはわからない。さわさわと草が揺れる。ぎいぎいと木々が悲鳴を上げる。ごうと大気が渦巻いた。 「来た!!」  一天俄にかき曇り、渦巻く雲がたちまち巨大な腕を形成する。雷雲の裂け目、閃く雷光が、曖昧な目と口に見えた。魔獣クラウドモンスが姿を現したのだ。  そのものは声なく咆哮し、闇の色の腕を振り上げた。最初の攻撃は、明らかに殺す意図でのものではなかった。それは暴力を楽しんでいるのだ。正確には、暴力によって生み出される恐怖を。 「これが……!」 「クラウドモンス!」  二人は手を強く握り合い、そして動き出した。イザベラは牽制の魔法を打ち込み、クリストが『門』を準備する。クラウドモンスは一瞬不審そうな様子で動きを止めたが、目の前の獲物に食いつくことを優先する。左右に雲の触手を広げ、逃げ場を奪おうとする。自身が逃げ場を失いつつあることを知らずに。 「イザベラさん!開けます!」 「お願い!」  『門』の反応に気づいたキブーリは、部下たちに指示を出しつつ、魔術を起動する。 「君たち!今日の業務は終了だ。宿に戻って待機してくれ。ディエックス!すまないが時間外労働だ!現地で合流するぞ!」 『承知しました』  キブーリが『門』を潜る。エシャロットとモニテンバイツは顔を見合わせ、一瞬躊躇った後に、上司に続いて『門』に飛び込んだ。 「馬鹿な!なんてことをするんだ!」  キブーリがぎょっとして悲鳴を上げた。 「諜報部の先輩には、エビルソード軍に行った人もいました!私にもきっとできることがあります!」  エシャロットが怯まず答えた。 「クソが!なぜ来たバカ共!!」  合流したディエックスも、業務上の丁寧語をかなぐり捨ててわめく。 「こんなバケモン相手に何する気だ!俺はお前たちを守る自信がねえ!」  クラウドモンスは罠に気づいた。アメーバのように体を膨らませ、ちっぽけな生物共を目掛けて雹を降らせる。  ディエックスが咄嗟に仲間たちを庇うも、その攻撃は彼らには届かなかった。イザベラの魔法が火炎を吹き上げ、雹を打ち消す。キブーリが礼の言葉を叫ぶ。 「申し訳ない!ありがとう!」 「この後ろに!絶対に出ないで!」  クリストが自らの盾を置き、そこに防護の魔法を刻む。結界が広がり、モニテンバイツとエシャロットの周りに見えない壁を作った。 「ここからは我々の業務だ、頼むディエックス!」 「了解!」  ディエックスが吼えた。まずただの振動があった。人間には聞き取れない低音は、やがて音として認識できるようになり、緩やかに振動しながら豊かなバス、バリトン、テノールへと移り変わり、また低音に戻って力強い旋律を生む。海の大渦が持つ力、そのものを音にしたならば、そんな響きかもしれない。空がたちまち荒れ狂い、猛烈な豪雨が降り始めた。 「すまないねディエックス。明日筋肉痛にならんといいが」 「エクササイズには丁度いいですよ。デスクワークは体が鈍りがちですので」  ディエックスはにやりとする。 「これは業務だよディエックス。奴を滅ぼすまでが仕事だ」  キブーリは真面目な顔で答えながら、身体を低く沈めた。衣服の下の肉体が溶けるように形を無くし、そののち五つに分かれ、大樹のように伸び上がる。 「我が名は魔界貴族キブーリ!またの名をデジタル総合調整課課長!しかしその真の姿は……」  五つの声が異口同音に唱える。 「無限竜樹キブリギドラ!」  クラウドモンスが、逃れようと、四方八方に触手を伸ばす。しかし逃げ場はない。ディエックスの支配下にある、自分の一部ではない嵐に閉じ込められているのだ。 「クラウドモンス!貴様の悪行も終わりだ!」  キブリギドラが首を反らせて咆哮した。 「数多の命を奪い!無辜の恋人たちを引き裂き死に追いやった報い!受けてもらうぞ!」 「なんで余計なこと言うんだろう」  ディエックスはぼやく。  クラウドモンスは逃走を諦め、ぐっと身を縮めた。膨らんだ身体の内側が激しく発光し、稲妻が噴射される。 「ぬぅ……!」 「課長!」  キブリギドラは仲間たちを庇い、自ら稲妻を受けた。 「問題ない。こんなもので私は死なない!」  キブリギドラは、その言葉と共に、ブレスを吐いた。雲の体の一部が、腐食の息に縮れて消える。クラウドモンスはダメージに一切頓着せず、ディエックスを狙って雹をばらまく。ディエックスはシューッと唸った。 「貴様!相手は私だぞ!」  キブリギドラは再びブレスを吐く。クラウドモンスの体が拡散して攻撃をかわし、凝縮して腕を形作ると、キブリギドラの首を鷲掴みにした。腕が激しく発光する。直接電撃を流しているのだ。  キブリギドラは苦しそうにもがき、雲の腕を噛み切った。クラウドモンスは高く空に浮き上がり、ディエックスを狙いながら逃走の機会を伺う。 「むう……!」  キブリギドラは空を見上げて唸った。 「落とせんかディエックス!」 「これ以上出力を上げると、周辺の被害がバカになりませんよ!それこそ紛争の火種になっちまう!」 「なら!私が行きます!」  イザベラがキブリギドラに駆け寄り、胴体に飛び乗った。首を駆け上がる。 「近寄ってはならん!離れるんだ!」  首の一つが叫ぶ。 「こいつの稲妻に打たれたら、君たちなど一撃で消し炭だ!」 「私は……勇者です!」 「……わかった!行きなさい!」  キブリギドラは頭を高く差し上げた。  イザベラが跳躍し、同時に浮遊魔法で浮き上がった。彼女の手から冷気が吹き出し、クラウドモンスの体を凍りつかせていく。嵐の中、危ういバランスで行使される浮遊魔法が、クラウドモンスの放つ突風に激しく振り回される。 「私も行きます!」 「行くのか!?勇者じゃないんだろ?」 「はい!彼女一人行かせられません!」  ディエックスは喉の奥をグルルルと鳴らし、尾を差し出した。 「俺は課長ほど優しかない!投げるぞ!」 「いつでも!」  ディエックスがクリストを乗せた尾を、投石機のように振り回す。シーサーペントの強力な筋肉が、クリストを砲弾のように射出した。  クリストは空中で防護魔法を発動、降り注ぐ雹を光の壁が弾き返す。イザベラが手を差し出す。クリストも応えて手を伸べる。魔法の力が二人を引き合わせる。手をしっかりと握り合い、二人は揃って降下した。 「ワオ……」  キブリギドラは頭の上に二人を受け止め、ひどく混乱した様子で、断片的なワードを口走った。 「やめてくれ。戦闘中に。死んでしまう。もっとお願いします。助けてッ」 「どうしたんですか!?」 「なんでもない……心臓痛くなっちゃった……」  魔法を受けたというのに、未だクラウドモンスは、余力十分だった。堕ちてくることなく天空を飛び回り、逃走の機を伺う。牽制に降らせる稲妻と雹、突風が、キブリギドラとディエックスを傷つけ、イザベラとクリストを翻弄する。  魔法の結界の内側で、その様子を見上げていたエシャロットが不意に叫んだ。 「モニテンバイツ……ねえ!モニテンバイツ!あいつさっき、私のこと『らっきょう』って言ったよね!」  モニテンバイツはニヒルに微笑み、頷いた。 「なッ……!」  キブリギドラが空を仰ぎ、息を呑む。 「ウソだろおい!」  ディエックスが悲鳴を上げた。  猛烈な嵐と豪雨の中、モニテンバイツが白銀の翼を広げる。速度と引き換えに頑健さを失い、「ガラスの脚」とさえ形容されるサラブレッド種。戦艦さえ沈める嵐の中で、その脆く力強い翼は、ふらふらと、だが誇り高く、彼を空の高みへと運んだ。嵐の中であまりに小さく見えるモニテンバイツ、その背からなお小さな影が飛び降りる。 「ッッッテメェ!!アタシのことなんつった!!!」  嵐を突き破る絶叫。エシャロットの手が、不定形のはずのクラウドモンスを「掴んだ」。 「『らっきょう』って言いやがったよなァ!!アァ!?」  エシャロットの必殺技、メテオストライク・パイルドライバーが、巨大な怪物を大地に叩き落とす。 「馬鹿野郎!何考えてんだ!俺らと違って、どこか折れたら死ぬんだぞお前!」  風に吹き流されるモニテンバイツを、ディエックスのとぐろが受け止めた。 「でかしたなどとは絶対に言わんぞ!危うく労災発生だ!」  キブリギドラの頭のひとつがエシャロットをひょいと咥え上げ、他の頭に乗せる。  クラウドモンスは地面に半ば埋まったまま、しばらく呆然としていた。クラウドモンスが動けなかったのは、ダメージよりもむしろ驚愕ゆえにかもしれない。その魔物の殺戮の生涯において、「投げ飛ばされた」のは初めてだっただろう。 「クリスト!」 「イザベラ!」  イザベラが叫び、その脇にクリストが並ぶ。使い手さえ焼き焦がしかねない、渾身のエネルギーを注ぎ込まれた炎の玉。放射される熱から、クリストの防護魔法が彼女を庇う。ほとんど密着した姿勢で、二人はそれぞれの魔術を全力で行使した。 「DAKEEEEE…………!!」  キブリギドラはかっと目を見開き、吼えた。 「DAAAKEEEEE!!!」  咆哮と共にブレスが吐き出される。  クラウドモンスは死を予感したか、逃げようとしたが、もう遅かった。魔法とブレスがその体に同時に襲いかかる。  悲鳴が聞こえた。クラウドモンスは長きに渡る血塗られた生を終え、蒸気となって大気に散った。 「さっきなんで名乗ったんですか課長」 「かっこいいじゃないか」  キブリギドラは首を巡らせ、イザベラとクリストに目を向けた。 「よくやってくれた。ありがとう」 「エッヘヘ……」 「いえ、こちらこそお世話になりました」  戦いを終えた途端、挙動不審になるイザベラ。代わってクリストが礼を言う。 「ところで、君たち……」  キブリギドラは二人にぐっと顔を近づけた。五つの視線が一箇所に集まる。 「媚薬とか興味ないかな……?」 「はい……?」  抜け駆けした頭に、周りの四つの頭が一斉に頭突きした。 「いたいっ」 「媚薬が嫌なら催眠魔法とか!」 「混乱の魔法でもいいよ!」  頭たちが先を争って叫ぶ。 「無限竜樹の持つ過去と未来すべての首にかけて誓う!毒なんか絶対入れないから!」 「あの……彼は単にそういう魔物なんで……本当に恥ずかしい、申し訳ない」  ディエックスが小声で詫びる。 「今ここで使えという意味じゃないんだ。持っておくだけでいい、可能性だけで我々は無限の夢を……いたいっ」  キブリギドラはモニテンバイツに前足で蹴飛ばされ、大げさに痛がってみせる。 「やめなさいモニテンバイツ。君のインテリジェンスは皆が知るところだ。君の暴力にアニマル特権は適用されないんだぞ」  モニテンバイツはもう一発蹴りを入れ、バカにしたような顔で、鼻を鳴らした。 「いたいよ。上司をなんだと思っとるんだね君たちは」 「私たちはそういうのじゃないです!」  先程までのきりりとした様子はどこへやら、下を向いておろおろしているイザベラを庇い、クリストが大声で叫ぶ。 「くっ……」  キブリギドラは、悔しいような嬉しいような顔で、口元をキュッと引き締めた。 「そういうのじゃないのかい?」 「はい!」 「本当に?彼女にもそう誓えるかね?」  キブリギドラは、恐ろしく無垢な目でクリストを凝視した。 「……」 「……!」  クリストは思わずイザベラの表情を伺った。視線が見開かれた目にぶつかる。その眼差しに息を呑む。唇が自然に彼女の名を紡 「課長!」 「課長、やめてください。恥ずかしい」  キブリギドラの五つの首、十の瞳が、二人の様子を猛烈にガン見していた。 「握手をして別れたいところだが、今変身すると少々センシティブな見た目になってしまうものでね。申し訳ないが、この姿のままで失礼させていただく」  キブリギドラはウインクした。エシャロットが不審そうな顔をする。 「キブリギドラにはなれるのに?」 「脱ぐより着る方が難しい。いくつの穴にいくつの部品を通さねばならないか、わかっとるかね」  イザベラがそっと手を差し出した。キブリギドラは頭を下げる。プラントヒドラの巨大な鼻先に、漆黒の勇者の手が触れた。 「我々は軍人ではないから、次会う時は敵同士などとは言わん。次会うとしたら、魔族と人間の間に和解が成った時だろうな」  クリストも竜の上顎に手を添えた。焼け焦げのできた巨竜の皮膚を、二人の手が撫でる。キブリギドラは目を細めた。 「もしもその時が来たならば、魔界貴族キブーリを訪ねたまえ。結婚祝いは弾むぞ」  イザベラは目を丸くして、次いでその目をつむり、額に皺を寄せ、頬を真っ赤に染めた。クリストはイザベラの様子を見て、遅れて真っ赤になった。キブリギドラはそれを見てにんまりとした。  魔界貴族キブーリの自室。部屋の隅の影から、するりと人型の存在が立ち上がる。 「やあダークシャドウ。待っていたよ」  キブリギドラは首をくねらせて、忠実な配下を迎えた。 「まずクラウドモンスについてだ。私の知る限り、ここ最近奴の出現情報はない。ヘルノブレスの周りの貴族共は、何かそれらしい話をしていなかったか」 「いいえ。今のところは何も」  キブリギドラは、鋭い目つきで部下を凝視する。 「奴はしぶとい。生きている可能性も否定できない。引き続き警戒を頼む」 「承知しております」 「頼んだよ。ところでこの前のアレだが……」  キブリギドラは真剣な表情を崩し、そわそわとして、ダークシャドウをじっと見つめた。 「出来上がっております」 「やったっ」  ダークシャドウは現像された写真のアルバムと、記録媒体を差し出す。キブリギドラは素早くページをめくると、赤くなったイザベラの写真を見つめて熱心に頷き、たどたどしく触れ合う手と手の写真を目にして、反り返って声なき悲鳴を上げた。 「ハーッ!たまらんね!やはり君は最高だよダークシャドウ!」 「ありがとうございます、キブーリ卿」  ダークシャドウは静かに頷いた。キブリギドラは興奮のあまり無意味に動き回り、首同士をねじれ合わせて三つ編みになった。 「危険な囮役を頼んでおいて、放置するのは道義に反する。しかも彼らは勇者!潜在的には敵対関係だ、監視がついていても、何らおかしな点はない!ふっふっどうだね私の采配は。完璧なロジックだ」  三つ編みの中から、逆さまになった首が喋る。 「さすがです、キブーリ卿」  ダークシャドウは静かに頷いた。 「毎度君を煩わせては申し訳ないから、『存在しない話』は我々同士で済ませておくとしよう。無理なことばかりさせてすまない。たまにはわがままを言ってくれてもいいんだよ」  キブリギドラは三つ編みのままで、威厳のある表情を作った。他の二つの首は並んでアルバムを覗き、きゃあきゃあと騒いでいる。 「問題ありません、キブーリ卿。それからこれを」 「アッ!!?おいみんなすごいぞ見ろ!シャイン・ハーケン特集号だ!!ダークシャドウ!!君は我々を興奮で死なせる気かね!?!蘇生はマズル・ド・ケベスではなく、ソセイグマギルドに頼んでくれたまえ!!!」  キブリギドラは三つ編みのまま身を乗りだそうとして、自ら首を締め上げ咳き込んだ。