ヴィタボケ怪文書



その日は何も特別な日ではなかったと思う。少なくとも自分にとってはという注釈が付くが。
いつものように朝起きて、いつものように仕事をして、いつものように友人と会話をしていたら、急に襲われてしまい敗北した。
芽衣と定期的に訓練は積んでいたが、流石娑と同等の力を得ただけはある。剣技やブラフなど技術が通用する強さではなかった。


「君が僕に負けるのは2度目だよ」


赤く上気した顔で少女、ヴィタが僕の腰に跨っている。
抵抗を試みるも既に勝敗は決した後、多少身体を動かすこともかなわずされるがままだ。
そう二度目。一度目のセントソルトスノーの時と同じように、僕は彼女に敗北して無様を晒している。


「今回は見逃して貰えないけど何をされると思う?」


彼女の右手が僕の首筋に添えられる。
もう殺すつもりはないと思っていたので少し驚いてしまうが、その反応をあざ笑うかのように彼女の指は首筋から伝い、僕の胸に掌を乗せた。
何のために僕を襲ったのか、考えられる一番の可能性はいつものように、僕を揶揄って楽しむつもりのはずだ。
そう、そのはずなのだが・・・。


ヴィタは今も、僕の胸に右手を当てたまま感じ入っているようだった。
いつものように弧を描く口元、興奮したように朱に染まる頬。
そして、様々な感情に揺れる宝石のように綺麗な瞳にはいつも吸い込まれるように惹き込まれる。
今の彼女の瞳の奥にあるのは、多くの興奮と怒りと少しの恐怖、僅かばかりの期待。
ただ揶揄うだけが目的の彼女にしては普段のような愉悦が見えない、混ざり合いながら揺れる瞳の前にいつもと同じという結論を出せない。


「さっぱりだね。でも、暴力なんて非文明的な手段に訴えるなんて君もらしくないな」


どれだけ思考を続けても答えを導き出せない。彼女は確かに悪戯好きで困った人だが、いつもの行動は彼女なりのコミュニケーションなのだ。
言葉や身振りで積極的に揶揄っては来るが、今回のように暴力的な手段を伴うことはない。ただ一度、代理人として再度邂逅した時を除いて。

それほど追い詰められているのか。友人の変化に気付けない自分が不甲斐ない。
すまないヴィタ。君も知っているように、僕は人の心を察したり思いやりを掛けたりするのが苦手なんだ。


「ふむ、僕の考える事は君に筒抜けだが君の顔を見るに想像とは違うみたいだ」


観念して、彼女に告げる。
彼女は自分の胸に当てていた左腕を降ろし、まるで慰めるかのように僕の頬に沿える。
その顔に笑みは消えていないが、少し悲しそうに見えるのは気のせいではないはずだ。
 
君のその顔を見ると、こちらも胸が締め付けられるように痛く辛い。
お互いに、自分たちがよく似た存在だと知っているからこそ、君の悲しみは僕の悲しみのように感じてしまう。


「じゃあ、始めるよ~」


 何をという疑問が浮かんだまま、僕は徐々に近づいてくる彼女の顔を眺めるだけだった。





◆◆◆


初めて彼に出会った時は、諦観だった。


いつものように僕の皆に愛される演技に騙されて、助けに来たんだと思っていた。
おしゃべりで好色なんて珍しい刀だから展示品に加えようとして手にしたはいいけど、デリカシーはないし、言ってることは嘘くさい。
正直不快感を感じ始めていたが、この程度のことは我慢できた。僕が娑のために費やした長い長い歳月は、忍耐力を鍛えてくれていたからね。




次に出会った時には困惑した。


虚数側の駒を削るため、のこのこ僕に付いてきた彼を始末するため、与えられた権能で彼の考えを読む。
どんな低劣な思考で僕を邪魔したのか楽しみにしていた。そういう考えで覗いた彼の心は、もうほとんどの部分が欠けているように思えた。
さながら壊れかけの機械人形だ。動くのに大事な歯車は噛み合わず、手足を動かすワイヤーは千切れ、外を見渡すカメラに光は灯っていない。
一番致命的なのは自覚がないことだ。彼は今自身がどのような状態なのか、欠片も理解できていない。いや、理解できないほど壊れてしまっているのかも。
それでも、彼の心は動いている。
何のためか?自分ではない誰かのために。


理解できなかった。そんな有様で考えることは他者のことばかり。友人、恋人、知り合い、そして僕のことを思い遣る。
そう彼は、僕のことを考えていた。どうやら早い段階で僕があくまで娑の駒であることを見抜いていたらしい彼は、こちらの目的を把握しながら心配していたのだ。
彼の態度は今も変わらず、薄っぺらな嘘を吐いているように見える。でも心を見透かせば、そこにあるのは純粋な僕への気遣いだ。
もしかしたら、今までの態度も僕を心配していたからかもしれない。ねじ曲がりすぎでしょ。


・・・少しだけ嬉しかった。代理人と僕を理解していながら、いつものように僕に接するばかりか、僕の目的まで応援してくれた。
初めてだった。どんな嘘を纏った僕でも、受け入れながら寄り添ってくれる人と出会った。態度は最悪だけど、心を読めれば些細なものだ。

だからだろうか、彼を殺せという娑の命令に危険を承知で無力化程度に留めた。
どんな人でも目的のために犠牲にして生きた僕が、初めて自分を省みずに他者を生かすことを選べた。
そんな自分が馬鹿らしくて、でもなぜか誇らしく思った。




その後に出会った時は安堵した。


ポロスで僕はいくつもの出会いと、大きな別れを経験した。
尋常な精神状態ではいられなかった。体中を言い表せない感情がのたうち回り、心が悲鳴を上げるくらい苦しい。

誰にも打ち明けられない激情を打ち明けたい、寄り添って欲しいと願った。

だからだろうか、天慧の目を手に入れて無意識に彼を見てしまった。
彼はなんとまあ酷い理由で檻に入れられているのが滑稽だったけど、その後話しかければ返してくれるのが嬉しかった。
他愛もない会話をしても、彼の心を読めば刀だったころとは違う。本当の彼に触れることが出来る。
話すことが楽しい。発する言葉と心中のギャップで面白いし、僕のことを友人として扱ってくれる。


彼に奥さんが二人いたことは驚いたし、知った時は正直なにか得体のしれない感情が湧いたのを覚えている。
だってこんなに面倒くさくておかしな人を好きになる人なんているなんて。


こればかりはしょうがないよね。
彼とずっと一緒に居られないのは仕方ないけど。彼の愛を手に入れられないのは辛いけど。
最初から、もう手に入らない物だったんだ。
だから、彼の友人として傍に居たい。彼の短い寿命を一緒に過ごして、この寂しさを少しでも埋められればそれでいい。


そうしたら、そうしたら____________




______僕はどうなるの...?




永劫にも等しい時を、また一人きりのまま過ごせばいいの?
もう自由なんだから、彼のように僕を愛してくれるかもしれない人を探せばいいの?
いいや、無理だ。彼は僕が数億年待っていた。気が遠くなるような苦痛の中で唯一出会えた、僕を照らしてくれる光。
寄り添い、笑い合うことのできる唯一で対等な関係。
そんな人と出会う都合の良い奇跡なんて、二度も起こるはずがない。


嫌だ・・・そんなの嫌だ・・・!
彼を失うのなんて耐えられるはずがない。彼の命が刻々と削られていくのなんて見ていられない。
力ならある、僕の権能なら彼を僕と同じ時を歩めるように出来る。でも、人として生きることを彼は選んでしまう。
じゃあどうすればいいっていうんだ。この体を暴れまわる想いを、どうすれば鎮められるの?


『聞いてよヴィタ~、アナがさあ___』


ずっと僕の名前を呼んで。


『ヴィタ~、新作できたからテストプレイしてくれないか?』


ずっと僕のそばに居て。


『そういえばヴィタとも長い付き合いになるね。記念にどこかランチにでも行こうか』


ずっと僕に笑いかけて。


『どうして君と一緒に居られるかって?風邪でも引いたのかな・・・僕らは友達だろ。それ以外に理由がいるの?』


ずっと・・・ずっと僕だけを見て、僕だけを、僕を、愛して・・・。



彼と過ごす時を重ねるごとに、いずれ来る別れのことで心を削られていく。
その後のことが頭の中を過るだけで苦しい、痛い、心中を抉り穿っていく恐怖に耐えられない。
あんなに楽しみだった旅も、待ち焦がれた自由も彼と居ないと心に穴が開いたように物足りない。


どうして僕だけがこんな目に遭わなければいけないのかな・・・。
僕が悪い人だから・・・目的のためになら子供のような存在も犠牲にしてしまえるような女への罰なの?
でも、そんな存在でも、誰かに愛されたいんだ。愛してるって叫びたいんだ。
なんで僕が・・・僕だけが・・・失うことを、愛することを我慢しなければいけないんだ・・・。






そうだ、なんで僕が我慢しなければいけないんだ。
罰なんて笑わせる。誰が僕に罰を与えるというんだ、娑の権能を引き継いだ、量子の海では神にも等しい僕に。


彼の奥さんがどうしたっていうんだ。彼女たちに何が出来るというの?
僕のように彼と同じ経験もしないで、同じ苦しみも絶望も味わっていないのに、彼を理解できるはずない。
そう、僕だけが彼の絶望も幸せも分かち合える唯一の存在なんだ。
だから遠慮する必要なんてないよね。


そもそも彼も悪いと思うな~。
僕みたいに可愛い子と10年も一緒に居るのにそういう感情を一向に抱きそうもないし。
下世話な感情抜きでずぅーっと僕と一緒に居てくれるとこも好きなんだけど、いい加減我慢の限界だよね~。
心を覗いてるのことも普通に受け入れて一緒に居てくれるし、友達だと本心から言ってくれるし、やっぱり彼も僕のこと好きだから仕方ない。


そろそろ出会って10年になる。今まで悩み続けたのが馬鹿らしい、全部あの親愛なるクズが悪いよね~。



「グレーシュと作った子供居るらしいけど未練とかないのかな?」


ヴィタちゃんたちに思うことが無いわけじゃないけど、今日は僕と君の記念日だよね?今日言うことがそれなんて僕は悲しいよ~。


「僕のところにいつまでも顔出すより奥さんとか大事にしたらどうだい?」


これはグレーシュのことかな。うーん、僕と居るのに他の女の名前を出すなんて許せないよね~。


やっぱりこの男は自分に向けられる感情に対して非常に鈍感だ。
自分が他者から感情を向けられる程の存在だと思っていないんだよね。かわいそうに。
でも、安心してね。僕はそんな君も好きだから、言葉じゃない方法で分かりやすく伝えてあげるよ。



「どうして記念すべき10周年に水を差したのかな」



一歩、彼に向って進む。僕の言葉に怪訝な顔をしてるけれど、反応が遅い。
元諜報員にしては反応が遅いのは現場を離れたブランクによるものじゃなくて、僕を警戒していないからだ。
僕に心を許してくれていることの表れだね、嬉しいよ~。


「自分に子供出来て立派になった気なの?」


もう一歩、彼の元に。もう手が触れるところまで来た。

君は僕と出会った時と何も変わってない。
前と同じようにデリカシーもないし、風情も解さない。
それでも僕は好きでいてあげる。僕ってなんて優しいんだろうね。きっとここまで君を思ってくれる子なんて僕以外いないだろうね。


「へー…君はグレーシュと僕がそんな関係だと思ってたんだ」


僕は彼女を友達と思ってた。けど、彼女はそう思ってくれない。
ゼーレも、他の人たちも、みんな僕を遠巻きに見ているだけ。僕のことを理解しようとしたのに、すぐ諦めて、離れていってしまう。
僕がどれだけ寂しいのか分かってくれない。

君だけなんだよ?
今まで僕とずっと一緒に居てくれたのは。
僕がどんなことをしても友人として接してくれるばかりか、僕に心を開いてくれる。
10年間も僕のそばを離れなかったのは君だけ、君だけが僕の唯一無二。


だから、絶対離れるものか。


最後の一歩を踏み込む。
僕と彼の距離がなくなる。お互いの息づかいが届く程近くまで来た。
彼は未だに困惑している。ここまで来ても、彼はこれから起こることに予想が付いていないようだ。
それはそれで好都合。彼の力で僕に抵抗できないことは知っているが、早く無力化できるならその方が良い。


「ヴィタ・・・・?」


僕は答えない。彼に思いを伝えるには言葉は無駄だ。
両手を彼の腰に回して、離れられないように抱きしめる。彼の体が強張るのが分かる。
反射的な行動かそれとも何かを察知したのか、僕から離れようとするけどもう遅い。


彼の顔が近づき、その瞳に僕の顔が映るまで迫る。
そして、僕と彼の影が重なった。



◆◆◆




「うん。君はそうやって這い蹲るの1番似合ってるよ」


この気持ちを何と呼ぶべきだろうか。
初めて、そう、人生で初めて心が満ち足りている感覚がする。まるでぽっかりと空いていた穴が埋まっていくようだ。


彼は疲れて寝てしまったみたいだね。普通の人間だから仕方ない、むしろここまでの回数を重ねられたのが凄い。
最初はされるがままだったけど、最終的には彼も求めてくれたから合意だよね。


穏やかな寝顔を眺め、湧き上がる感情にも今こそ向き合う時だ。


ああ、やっぱり僕は______



「君を愛してる。この宇宙の誰よりも」


だから逃さない。誰にも譲らない。
他者からも時間からも運命からも、他のどんなものにも君を渡さない。


「だから、これからよろしくね」


もう一度彼を抱きしめ、その鼓動を感じながら僕は安らかな眠りにつくのだった。