ツナ缶工場の朝は早い――――。  遠洋マグロ漁船「第七トリアイナ丸」から運ばれて来たばかりのコンテナが開くと、霜におおわれた巨大な冷凍マグロが一斉にすべり出してくる。  フロアを埋め尽くす大量のマグロの間を、かろやかに跳びはねているのはこのシズオカ工場の責任者、CSペロ74号。彼女は跳びあるきながら、まっ白に凍ったマグロのいくつかに太いペンでさっと印をつけていく。  ――それは何を? 「食堂におろす分です。外皮がきれいでキズの少ないものは、ステーキや煮物にします。最高のものが獲れた時は、オルカに送ることもあるんですよ」  ペロ74はかつて、オルカのカフェでアシスタントを務めたこともあるという精鋭である。彼女の指揮のもと、作業員たちが鉄鉤をあやつって印のついたマグロをすばやく運び出し、ついで残った分を大きなケージへ放り込んでいく。 「濾過処理した海水を使って、ゆっくり解凍します。だいたい八時間くらいでしょうか」  解凍用ケージにぎっしりと詰め込まれた、無数のマグロたち。最高でもなければきれいでもないかれらは、価値のない存在なのか……といえば、決してそんなことはない。これから二昼夜をかけて、彼らはわれわれに最もなじみ深い、あの食べ物に生まれ変わるのだ。 〈マイオルカTV24時間密着ドキュメント 『ツナ缶工場24時』〉  夕方――――。  大きなケージが傾くにつれ、半日かけて解凍されたマグロが水とともにあふれ出してくる。みずみずしい弾力を取り戻した魚体は押し合い、弾み合いしながらローラーコンベアに乗り、大勢の作業員が待ち構えている解体フロアへと流れ込む。  エプロン姿の作業員たちはめいめい一本ずつ、マチェットのような巨大な包丁を手にしている。流れてきたマグロを素早く捕まえた彼らは両手で力一杯に包丁をふるい、まず頭を切り落とす。それから、くるりと180度回して尾を落とす。次にエプロンのホルダーからもっと細身で肉厚の包丁をとりだし、腹びれの周辺を削ぐように切りとる。腹がフタのように外れると中に手を入れ、内臓をそぎ出してバケツに落とす。さらにもう一本、ノコギリのような細かい刃の付いた包丁に持ち替えて、背びれと胸びれを切り取るともうすっかり魚ではなく、切り身になる前の魚肉のできあがりだ。  マグロは作業員の手の中で一時も静止せず、流れるように次のコンベアに送られる。あざやかな手際のかれらはみな、非戦闘用バイオロイドや退役した元戦闘員だ。そのうちの一人、ブラウニー60338に話を聞いてみた。  ――ここではどれくらい働いているのですか? 「二年目っす。ようやく一人で解体につかせてもらえるようになったっす」  汗を拭きながら彼女は、手袋を外して指を見せてくれた。親指と人差し指の付け根に、大きな手術痕が走る。「始めたての頃、いちど自分の手を切っちゃって。いやー痛かったっす」  あっけらかんと笑うブラウニー。その足元では三角形をした無数のマグロの頭が、別のコンベアに乗って流れていく。 「頭は食堂で使うっす。マグロのかぶと焼きはここの名物で、めちゃくちゃ美味いっすよ。尻尾はスープをとるのに使って、あと内臓とヒレはたしか肥料になるっす」説明をしてくれながら、内臓の入ったバケツを勢いよく蹴り飛ばし、新しいバケツと入れ替えるブラウニー。 「それからこのお腹のところはハラモっていって、アブラが多いから別の蒸し工程にかけるっす。でも……」  彼女はニッカリと笑い、ハラモと呼ばれた腹びれ周辺の部分を一切れとると、ポケットナイフを器用に使ってすばやく皮をはいだ。淡いピンク色の切り身になったハラモを二つに切って、片方をぽいと頬張る。 「刺身で食べるとちょー美味いっす! 半分どうぞっす」  ――こ、これは!  口に入れて驚いた。脂のたっぷりと乗った、大トロの味。噛むほどにとろけていくようだ。 「ときどきオヤツにつまむっす。これがあるから解体はやめられないっす」 「……ある程度は黙認しますが、ほどほどにしてくださいね」 「げっ」  フロア長に見つかってしまった。あわてて仕事に戻ったブラウニーの代わりに、彼女……ミス・セーフティにインタビューを続けることにする。  ――あなたは、ここでどれくらい? 「三年になります。この工場が稼働したときから勤めています」  ――それでは聞きたいのですが、特にこの工場を選んで復興した理由はなんでしょう? この地域はかつて水産業がさかんで、他にもいくつものツナ缶工場跡があるようです。 「海沿いで場所がちょうどよかった、というのもありますが……この工場がバイオロイド労働を前提とした作りだったからです。つまり、あまり機械化されていなくて、再起動が楽だったんですね。近隣のほかの工場はもっと精密機械が多いぶん、鉄虫の破壊もひどくて……」  ――なるほど。では、再稼働してからの、この工場ならではの特徴のようなものはありますか? 「そうですね、これは工場長の方針なんですが、できるだけ分業をしないで、工程の最初から最後までを全員が追うようにしています。効率は多少落ちますが、製品に対する責任感が生まれるので」  インタビューに答えながらも、彼女の目は時折するどく作業台の上をはしる。さっと手が伸びて、流れていく一尾のマグロをつかまえた。  よく見ると、胸びれの付け根がわずかに残っている。さっきとは別のブラウニーが、ぺこぺこ頭を下げながらそれを受け取っていった。 「それに、せっかくツナ缶工場で働いているのに、やることが毎日マグロの頭を切り落とすだけでは、張り合いがないでしょう?」  そう言って彼女は笑い、また素早く作業台の上を見渡した。  解体が終わったマグロは、蒸煮(じょうしゃ)……すなわち、蒸し器にかけられる。  家庭で使うようなものとは違う。鋼鉄製の、立って中を歩き回れるほど巨大な窯に、マグロがぎっしり乗ったトレーを何段にも重ねた台車を運び込み、そのまま蒸すのだ。  蒸し担当のレプリコン6215は分厚い扉を閉めて、六カ所のボルトを指さし確認しながらしっかりと止める。 「高温高圧の蒸気を使いますから……前にブラウニーがボルトをかけ忘れて、ひどいことになって」  レプリコンが示した扉には、「必ずボルトを確認すること!六カ所!」と赤字で書かれた大きな紙が貼り付けられていた。  蒸煮にかける時間はは四時間ほど、レプリコンの言葉どおり、高温の蒸気で芯までしっかり熱を通す。四時間後、窯の扉を開けると、何とも美味そうな香りのする湯気があふれ出してきた。 「運び出しはかならず三人以上で作業します。安全のためでもありますが、ここでつまみ食いする不届き者もいるので、相互監視させるんです」  蒸し上がったマグロは放冷室へ移動させて冷ます。肉に負担をかけないよう、大きなファンでゆっくりと風をあて、蒸煮よりも長い時間をかける。凍ったマグロが搬入されたのは早朝。放冷が終わった今は、ほぼ真夜中だ。  きれいに蒸されたマグロはふたたびコンベアに乗せられ、作業台の上を進んでいく。左右には作業員が並び、流れていく身から皮をはぎ、大きな身を左右に割って、血合いや骨などを取り除いていく。「身割り」と呼ばれる工程である。 「ここんとこもうまいっすよ。血合いの煮付けは食堂の二番人気メニューっす」  先ほどのブラウニー64223がふたたび作業について、せっせとピーラーでマグロの皮をはいでいる。……さすがにつまみ食いは控えているようだ。  ブロック状になったマグロの身は、さらに血管や小骨、筋肉内部の内出血などを削りとって綺麗にする「磨き」という工程を経て、ついに完全な精肉になる。大きさも太さもちょうど大人のすねくらい。ややピンク色がかった淡いクリーム色。ツナ缶の中身の、あの色だ。  コンベアの最後では、ペロ工場長が待ち構えている。目をこらして大量に流れてくるマグロを見張り、時には身をそっと触り、手にとって、いくつかを脇にある別のコンベアに移していく。この別のコンベアの行く先については、後ほど触れることにしよう。  本流の方のコンベアの終着点は、巨大なネジの内側のような形をしたほぐし機である。ここに吸い込まれたマグロは数十本のロッドによってバラバラにほぐされ、我々のよく知るあのツナ缶の中身そっくりのフレークになって出てくる。出口側のコンベアにはまた数名の作業員が控え、小骨や釣り針などの異物が残っていないかしっかり目を光らせてから、肉詰め工程へ移っていく。  さて、ここでようやく缶が出てくる。  このシズオカ工場では、別のフロアで缶そのものも作っている。印刷ずみの大きなアルミ板を円形に打ち抜き、絞り加工で缶詰の形に仕上げる工程はすべて機械で行う。さらに別の機械で薄板を丸く打ち抜き、アルミチップから整形したタブを取り付けて、フタも作る。  当たり前のことだが缶そのものは食品ではないため、いつ作って保管しておいても問題はない。だがここでは、マグロの入荷に合わせてそのロットの缶製作をはじめるという。 「どのタイミングで製造しても問題ない以上、食品ラインの稼働タイミングに揃えるのが最も合理的です。光熱費の無駄を減らし、不測の事態による人員やスケジュールの変動に柔軟に対応でき、何より寂しくありません」  缶製造ラインを管理するフォールンモデルはそう語った。  この缶製造ラインと、精肉ラインとが合流するのがフィラー装置である。一台で一部屋まるごとの大きさがあるこのマシンの内部ではコンベア、ローラー、カッター、そして精密センサーが見事に強調して働き、ツナフレークがぴったり定量ずつ缶に詰め込まれ、一秒に三個という速さで送り出されてくる。  中身を詰められた缶はふたたびコンベアで検量工程へ送られる。マシンの誤差で中身が多すぎたり、少なすぎたりした缶はここでピックアップされ、手作業で分量を調整する。ツナ缶の中身を人の手で直接扱う最後の工程であり、このエリアの担当者にはベテランだけが選ばれる。 「ごくごく稀に、ここで異物が見つかることもあるっす。ピックアップされた重量エラー缶だけじゃなく、できるだけ流れてる缶全部に目配りするようにしてるっすね」  担当のブラウニー49891は、落ちついた口調でそう語ってくれた。  検量を無事クリアした缶には、調味液が充填される。調味液はまた別のエリアで製造されており、中身はキャノーラ油と塩、野菜スープから精製したエキス。 「それとこのシズオカ工場独自の味付けとして、昆布だしを加えています。合成保存料や酸化防止剤を使わずに、どれだけ保存性を高められるか、何度も細かく調整しました」  調味室主任のジニヤー68512は自信ありげに胸を張った。なお、調味液の詳しい配合は秘密だそうである。  調味液を満たしてから、缶にフタをする。これにも専用の機械がある。内部には高温の水蒸気を満たしたブースがあり、缶に空気が入らないようブースの中でフタを乗せて封をするのだ。二個のローラーを使って缶の縁とフタの縁を合わせて巻き込む、二重巻き締め方。百年前から使われている、伝統的なスタイルだ。  密封された缶はふたたび窯へ。缶ごと加熱し、調理の仕上げと殺菌をいっぺんに済ませる。これが、保存料などを用いなくてもツナ缶が長持ちする理由だ。  蒸し終えたツナ缶はふたたびじっくり放冷したあと外側を洗浄、製造年月日と賞味期限を刻印され、検品ののち箱詰めにして出荷される。  冷凍マグロの入荷から、出荷準備の完了まで、ほぼぴったり24時間。これが、ツナ缶工場の一日である。  あらためて、ペロ工場長に話を聞いてみた。  ――ツナ缶を作る上で心がけていることや、目指していることはありますか? 「味です」  ――味? 「実は、私は初めての、食品部局出身の工場長なんです」  ――ツナ缶工場ですから、普通のことでは? 「とんでもない。オルカの他のツナ缶工場はみな、造幣局のスタッフが管理しています」  ――なるほど、言われてみれば!  納得してしまった取材班に、工場長は力強く頷いてみせた。 「ご存じのようにこれまでの長い年月、ツナ缶は私たちの食料としてだけでなく、通貨としても使われてきました。通貨に求められるのは何よりも、一定した品質です。あのツナ缶とこのツナ缶の値打ちが違うようでは、通貨として使えません。品質が悪いのはもちろん駄目ですが、良すぎるのも困るのです。  でもオルカができて、世界は大きく変わりました。オルカタラント、お祭りスタンプ、缶バッジ……もちろん基本配給も。私たちが欲しいものを手に入れる手段は他にもたくさんあります。ツナ缶はふたたび、食べ物としての立場に戻っていいと思います。そのために私たちが目指しているのは『より質のいい、より美味しいツナ缶』です。……これを食べてみてください」  工場長が取り出したツナ缶は、一件何の変哲もないものに見えた。だがフタを開けてみると、  ――これは!?  缶の中にはマグロの身が、そのままの形で詰まっている。年輪のようになった筋肉の形まで、はっきりとわかる。 「『ソリッド』方式です。フレークとは違ってマグロの身をほぐさず、そのまま缶の形に切りとって詰めています。作れる数は限られますが、魚のおいしさがよりはっきり味わえると思います」  解体工程の最後に仕分けられた、もう一つのコンベアの秘密がここにあった。肉質が均一で傷や内出血のないものは「ソリッド」用に加工されるのだ。  一口食べてみる。みっしりとした肉の歯応え、噛むほどににじみ出る魚の旨味。確かに、これは一ランク上のツナ缶だ。 「旧時代には普通にあるバリエーションの一つでしたが、近年はまったく作られなくなりました。これを復活させたのが、私たちの試みの第一歩です」  ペロ74の笑顔は力強い。ソリッド式のツナ缶は各地の拠点に配布され、ちょっと贅沢な備蓄食材として利用されている。一部はオルカにも納入されているという。  ツナ缶――我々バイオロイドにとって特別な意味を持つこの食べ物が、本当にただの食べ物になる日が、いつか訪れるのかもしれない。  映像が終わり、シアター内が明るくなった。 「いかがでしたか、司令官様」 「おおー……」  タロンフェザーの得意顔はちょっと腹立たしくもあったが、これほどのものを見せられては拍手するしかない。  営倉入りの日限をなんとか減らしてほしいという彼女に「エロ要素の一切ない真面目な映像作品を作ってみろ」という条件を出した時は、正直半分以上「できっこないだろ」という気持ちがあった。しかし、まさかこんな完璧なドキュメンタリーがお出しされてくるとは。 「学習番組として有意義な上に、生産体制と労働環境の良さを紹介する宣伝材料としても使えます。非の打ちどころがありませんね、これは……」  隣で見ていたレモネードアルファも当惑げな顔で、珍しく手ばなしで褒めている。 「お前、これだけのものを撮れるのに、どうしていつもあんな……」いや、逆か。これだけのものを撮れる確かな技量があるからこそ、あんな変態性欲丸出しの盗撮映像が大人気作品として成立するのだ。 「何ですか?」 「いや」俺は言葉を飲み込んでパネルを取り出し、あと三日期限が残っている営倉入りの執行令状を破棄した。「念のため聞くけど、これは撮影許可を取ってるんだろうな?」 「もちろんですとも」タロンフェザーは大きくうなずいた。「前回一番怒られたのがそこでしたから。スプリガンさんの協力を得て、マイオルカTVのスタッフとして公式に取材しました。その証拠に、許可をくれた工場長さんがこちらに」  フェザーがさっと手を振ると、後ろの方の席に座っていたペロが立ち上がって深々と頭を下げた。 「ご無沙汰しております、ご主人様」 「あ、じゃあ君が……」  なんでペロが来てるんだろうと思っていたが、彼女がペロ74だったのか。確かオルカの厨房スタッフだったとか……正直、彼女自身に見覚えはないが、仕草などをよく見れば、確かにオルカのペロとは別個体とわかる。 「協力してくれてありがとう。フェザーに変なことされなかった? スカートの中を撮影されるとか」 「え……? いえ、そんなことは特に……」  少し困った顔で小首をかしげるペロ。 「司令官、なにいやらしいこと仰ってるんですか」ニヤニヤとフェザーが笑う。この野郎、これじゃまるで俺が下ネタを振ったみたいではないか。 「……いや、すまない。本当にご苦労さま」 「いいえ、私たちの工場でもマイオルカTVは毎日楽しみに見ています。協力できたのなら嬉しいですし、それに……」 「それに?」  頬を赤らめてうつむいてしまったペロの横を、タロンフェザーがすり抜けていく。 「ともかく、晴れて私は自由の身ということで。失礼しまーす!」 「あ、おい」 「撮影に協力すると、ご主人様とその……デートができるとうかがいました」 「えっ」  俺は咄嗟にドアの方を目で追ったが、タロンフェザーはすでに姿を消していた。  あいつめ、確かに「俺の許可はいいけど」とは言ったが……。 「……あの、もちろん、ご主人様がお忙しいようでしたら」 「そんなことはないさ。もちろん、いいとも」  俺はペロ74の頭にそっと手をやって、気持ちを切り替えた。ここで「そんなことは聞いてない」などと言ってもこの子を悲しませてしまうだけだ。 「できたばかりの映画博物館があるんだ。いっしょに見に行こう」  それにしてもフェザーはやっぱり、あと一日くらいぶち込んでおくべきだったかなあ。そんな考えを頭の隅に追いやって、俺はペロ74の手をとった。  シアターの大きなドアを開け放つと、春のはじめの冷たくさわやかな風が、俺とペロの髪を舞い上げた。 End =====  ぶあつい軍用天幕をめくって外へ出ると、乾いた陽光が全身を洗い流すように降りそそいだ。 「すご……地中海の太陽って本当にこんな感じなのね」  まぶしさに目を細めて数歩あるいてから、P-22ハルピュイアは足をとめ、額のゴーグルを下ろす。そうして初めて、少し先の木陰で誰かが手を振っているのに気がついた。 「やっほー、会議終わった? 暗いところから急に外出ると、きついよね」 「ガラテア! 迎えに来てくれたの? サングラスを忘れないよう、戦隊長たちにも言っておかなきゃ」  マルタ島とプレアデス姉妹とをめぐる事件が無事解決したあと、残ったのは今度こそ平穏無事なマルタ島と司令官一行、そして不屈のマリー率いるスチールライン一個大隊と、それを運んできたホライゾンの高速駆逐艦であった。 「せっかくこれだけの人手があるのです、測量まで済ませてしまいませんか」  ある日の午後、マリーが何気なく言ったそうである。 「実際に来たのは初めてですが、マルタ島はまさに天険の地だ。あの『マルタ包囲戦』の舞台となっただけのことはある」  テーマパークだけではもったいない。将来的にはオルカ地中海艦隊の本部とすることも見据え、本格的な拠点化の準備を進めるべきである。という進言がきっかけとなってあれよあれよという間に話は進み、欧州本土から追加の人員を呼び込んで、測量と予備的な整地まですることになってしまった。 「聞いた聞いた、それ。スチールライン可哀想だなって思ったら、なんか全然笑いながら荷造りとかしててさ。やばくない、あの人たち?」  並んで歩くガラテアが愉快そうに言う。ハルピュイアも笑いながら、 「あそこは特殊よ。元々の予定が訓練だったそうだから、それよりはマシってことじゃない? ブラックリバーが全部ああだとは思わないでね」 「ふーん」ガラテアは足を速める。「それじゃ、いこっか」 「よろしくね、ガイドさん」  ハルピュイアとガラテアは映画友達である。ハルピュイアは主に小説原作、ガラテアは恋愛映画やドラマが守備範囲だが、二人ともわりと何でも見る方だ。  地中海の名勝マルタ島を舞台にした映画は数多い。拠点設計にあたり空軍からも誰かよこしてほしい、という急な要請にハルピュイアが手を上げたのも、この機会にガラテアとロケ地巡りをしようという目算があったからだ。 「じゃーん! ここが聖エルモ砦。『ミッドナイトエクスプレス』の監獄に使われた場所……の跡地だよ」  海に突き出した岬の突端、白茶けた瓦礫が山をなした海辺で、ガラテアは得意げに手を広げる。 「わーすごい! って、なんにもないじゃない」 「仕方ないじゃん、マルタの首都の一番目立つ先っぽにあるんだよ。真っ先に集中砲火で灰にされちゃったよ」  かつてのレモネードデルタの包囲攻撃により、マルタ島全土は徹底的に破壊された。島中に無傷の建物はひとつも残っておらず、とりわけ旧時代に首都であったバレッタなどは、見渡すかぎりの瓦礫のあいだに草木がまばらに生え伸びているだけである。 「でもここら辺とか面影あるよ。ほらこの礎石とか、このあたりが門ね」 「そんなこと言われてもわからないわよ……」 「えー。じゃ次行こう」  かつては海を見下ろす遊歩道だったであろう、白い瓦礫の筋の上を、二人のバイオロイドがてくてくと歩く。島中がほぼ石灰岩でできているマルタの石は、淡い黄色がかった白色をしている。このマルタストーンで作られた家々がならぶ「蜂蜜色の街並み」が、旧時代のマルタの大きな魅力だったという。輝くような青さの海から吹き上がってくる風が心地よい。 「今は街並みなんてどこにも残ってないんだけどねー。食べる? マルタのお菓子、ハニーリング。昨日来たポルティーヤさんが作ってくれたの」 「ポルティーヤまで来てるんだ! じゃあもう大人数を常駐させるのね」小さなドーナツを受け取ったハルピュイアは、一口かじって微妙な顔をする。「……独特な味ね」 「スパイシーでしょ」ガラテアはいたずらっぽく笑う。「オリビアも来てるらしいよ。今日誘おうと思ったんだけど、どっかいっちゃった」 「オリビアが? あーそっか、彼女もゴールデンワーカーズだから測量できるのか」 「そうみたい、なんかデザインと関係ない仕事で呼ばれたってブツブツ言ってた。……あ、ほらあそこが『スウェプト・アウェイ』でマドンナが流れ着いた浜辺……の跡。爆撃で穴だらけだけど」 「あー。あの映画評判悪いけど、途中の悲恋ぽい所はわりと好きなのよね」 「僕も僕も! 結構キュンと来るよね」  差し渡し30km足らずのマルタ島は、軍用バイオロイドの脚力ならば一日で一周することもさほど難しくない。どこへでも15分で行ける国、という意味で旧時代には『15ミニッツ・カントリー』などというあだ名もあったという。 「さー着いた、ここが『やさしい雨の中で』でミケラ・ボローが働いてたカラフラーナ……の跡」 「真っ平らじゃない! バレッタよりひどいわ」 「軍港だったからねー。あっちのへんは今でもいい港でね、僕たちの艤装もあそこへ停めてる」 「海はほんとに綺麗よねえ。ビーチ以外でもこんなに透き通ってるのね」 「おっ、泳ぐ? 水泳大会も終わったし、いくらでも教えたげるよ」 「最近またお腹にお肉がついてきちゃったし、お願いしようかな……」 「あそこが『ワイルド・スピード:デスアイランド』でドウェイン・ジョンソンが海に突っ込んだところ」 「それ観たことないのよね……何作目だっけ? あ、それでね、私たちとマーメイデンって、まだ一度も連携したことないじゃない。欧州でも北米でも別行動だったし」 「そうだね。モジュールにもなんにも入ってないや」 「マーメイデンができた時は、もうブラックリバーと三安は戦争してたからね。だから一度きちんと合同演習して、マニュアル起こしておくべきっていう話が今日の会議で出たんだけど」 「へー、いいんじゃない? 今晩メリ姫に話しとくよ」 「お願いね。私も明日から航空測量に出ないといけないから、早めに予定立てたいの」 「ここは『ルッツ』でジェスマークが暮らしてた漁村跡。あっちの、あのへんは昔森だったんだ。焼かれちゃったけど、鷹とかいたんだよ」 「へえー、まさに『マルタの鷹』ね」 「あの映画、マルタも鷹も出てこないじゃん。むかし観てがっかりしちゃったよ」 「それはそういうものだから……」 「わかってたけど、跡とか廃墟ばっかりね」  島を四分の三周ほどしたところで、ハルピュイアが足をとめ、両腕をうんと伸ばしてため息をついた。 「それは仕方ないよ、最初に言ったじゃない。おやつ食べる?」 「太るからいい。そうだけど、実際見るとやっぱりショックだな」  ガラテアは少し考えて、パチンと指を鳴らした。「じゃあ、とっておき。ちゃんとしたやつがあるよ」 「本当~?」 「ほんとほんと。ちょっと遠いけど」  島をまっすぐ縦断してガラテアが連れてきたのは、マルタのほぼ北端にある海沿いの道だった。すぐ眼下に広がる海からの風をうけて、マルタストーンの建物……の残骸がどこまでも続いている。その一画、崩れかけた塀と塀の間を指さして、ガラテアが手招きする。  ハルピュイアが下からのぞいてみると、そこには奇跡的に原形をとどめている細い階段があった。そして、その階段をなかば上ったあたりで、一人の男が猫に餌をやっていた。 「……!」  もちろん本物ではない。階段と塀をつかって描かれた絵だ。道路から見上げた時に正しい形になるよう、計算してゆがんだ形に描いてあることが、階段を数歩のぼればすぐにわかる。ハルピュイアの顔がぱっと明るくなった。 「『メリーハの灰猫』! じゃあ、ここがメリーハ市?」 「正解! ハルピュならわかると思ってたよ」ガラテアも笑顔になった。  『メリーハの灰猫』は2080年代アメリカの恋愛小説である。マルタ育ちの平凡な娘エリーズと幼馴染みの青年ファルク、シチリアから来た音楽家ウーゴの三角関係を鮮やかに描き出して大人気を呼び、映画化も二度されたベストセラーだ。話の要所要所で灰色の猫が登場して印象的な役割を果たすのだが、そのひとつがこのメリーハの路地にある階段のだまし絵だった。 「残ってたんだ、っていうか実在してたんだ、これ……」ハルピュイアは感慨深げに階段をのぼり、絵のあたりでくるりと向き直ると、ガラテアに向かって手を差し伸べる。 「……『私はこの猫で、あなたはこの男。あなたは道ばたの猫に餌をやるように、私に愛をくれているつもり?』」 「『君がいつ手を引っ掻いて逃げ去ってしまうか、ぼくは毎日怯えているかもね』」  映画の決め台詞を芝居がかった仕草で言い終えて、二人とも弾けるように笑い出す。 「やっぱり2092年のハリウッド版だよねー! ウーゴがとにかくカッコよくてさあ、エリーズと結ばれてほんとに良かったよ」 「ちょっと待って! それは聞き捨てならないわ」ハルピュイアが真顔になって小走りに階段を降りる。 「エリーズが本当に愛していたのはどっちか、ついにわからない霧の中みたいなラストが『メリーハの灰猫』の一番いいところじゃない。ハリウッド版は好きだけど、ウーゴが好きって確定しちゃったのだけはナシだわ。そこだけは2087年の韓国版の方がいい」 「えー韓国版!? そりゃあっちも見たけどさあ」ガラテアは大げさに肩をすくめてみせる。「なんだか変にコミカルでドタバタ喜劇みたいになってるし、そもそも韓国が舞台に変えられちゃってるし!」 「確かにおかしな点もいろいろあるけど、あのラストシーンだけは別! あれだけで韓国版の方が原作理解度は上って評価できるわ」 「買いかぶりすぎじゃないのー?」腕組みをして壁にもたれかかるガラテア。「僕はハリウッド版の理解度が低いとは思わないなあ。街の風景とか完全にイメージ通りでさ、実際にここでロケしたんだよ」 「ハリウッド版の風景の素晴らしさは認めるけど、あのラストは譲れないの!」ハルピュイアも興奮して手をぶんぶん振り回す。「ユ・スルレ監督ってそういう所が強いのよ。低予算映画でも、要になるシーンだけは外さない。『星の沈清歌』って観た?」 「モーターフェルド監督だっていいじゃん! ハニーにちょっと似てるし!」 「そういうの持ち出すのは卑怯じゃない!?」  議論が白熱してきたところで、ふいに上から声が降ってきた。 「あ、いたいた! いやー、やっと仕事抜け出せたよ。何してるの?」  とことこ下りてきたオリビア・スターソワーは二人の視線を追い、たった今自分が下ってきた階段を振り返って笑い出した。 「あー、ここ有名な『メリーハの灰猫』に出てきたとこじゃん! いやークソ映画だったよねあれ!」  二人の動きがぴたりと止まる。 「……そう?」 「そうだよー! セリフは安直だし、カット割りはベタだし、現地ロケしたことくらいしか褒めるとこないよ! その前の韓国版も論外だったし、あれはもう原作が……え、何? 二人とも、どしたの?」 「「どっせい!!」」 「にゃーーーーーーーー!?」  輝くコバルトブルーの海へオリビアを投げ落としたハルピュイアとガラテアは固い握手を交わした。それから、どちらからともなく笑い出す。 「さ、オリビアを拾って、ごはん食べに帰りましょうか。いい時間だし」 「そうだね。あ、ちょっとだけ寄り道していかない? 近くに洞門(グロット)があるんだ。小さいけど本物の、天然のやつが」 「本当? 素敵!」 「奥まった所にあってね、僕たちかプレアデスの案内がないと絶対に見つけられないよ。あとでハニーとのデートに使うんだ」 「私も使わせてもらおうっと。そうだ、『灰猫』のエピローグなんだけど……」 「うんうん、あれってさあ……」  真っ白な陽光の下、二人のバイオロイドが笑いさざめきながら埠頭へ続く道を下っていくのを、灰色の猫が見送っていた。 End ===== (ああ、来るべきものが来たのか)  ドアを開けたテイラー・リストカットが最初に思ったことはそれだった。 「お姉様。聞きたいことがあります」  真剣な、ほとんど殺気さえこもった眼差しで、オードリー・ドリームウィーバーがこちらをまっすぐ睨んでいる。その背後にはオリビアとテイラー……自分のようななれの果てではなく、オルカのちゃんとしたテイラー・クロスカット……もいる。  結局は、こうなるのが当然なのだろう。デルタへの復讐を遂げ、もろともに地獄に落ちようとしたあの時は、姉妹たちのくれた言葉で生きようと決意できた。しかし、こうしてデルタのいない平和なヨーロッパの空気を吸い、あらためてゆっくり考えてみれば、自分のこれまでしてきたことはやはり死をもって償うのが一番正しいような気がする。そんな気になることがある。  自分自身でさえそうなのだから、オルカの姉妹たちがそのような気になったとしても、何の不思議もない。 「……なにかしら。座って話す?」  せめて見苦しいところは見せまいと、笑顔をつくって一歩下がり、三人を招き入れる。だが、オードリーはしずかに首を振った。 「いいえ、一緒に来て下さい。今、すぐに」  フランス、リヨン。数日前までレモネードデルタの本拠地であったこの古い都のはずれを、一台のシトロエン・ピカソが爆走していた。  デルタのお膝元だったためか、驚くほどきちんと整備された路面を削り取らんばかりの急ブレーキで横ざまに停車したシトロエンは、とある建物の前で四人のバイオロイドを吐き出す。 「ここですわね」 「そう」  清潔でそっけない印象をあたえるその四角い建物のエントランスにはランパートが二機、大ぶりのショットガンを構えていた。リストカットがカードを見せるとさっと銃を下ろし、敬礼のポーズをとる。それに目もくれず、先頭に立つオードリーはドアを押し開けた。  空調が効いた廊下をまっすぐ進み、突き当たりの扉で再びカードをかざす。ロックが解除された分厚いドアを開けると、むわっと湿った生温かい空気と、独特の臭いが押し包んできた。 「うわ、こんな臭いなんだ? 初めてかいだかも」  オリビアのつぶやきにも耳を貸さず、オードリーはさらに足を速める。短い通路を抜けると、天井の高い広大なスペースが厚いビニールカーテンで細かく区切られたエリアに出た。  カーテンの一つをめくって中に入ると、大きな平たいバットが何段にもぎっしりと詰め込まれた棚があった。その一つを引き出し、中を見たとたん、オードリーは膝から崩れ落ちた。 「サ・イ・エッッッ(やっっった)……!!」  両のこぶしを握りしめ、天を仰いで涙をにじませるオードリーに、ほかの三人はやや唖然とした眼差しを向ける。 「そんなに?」 「まあ、オードリーだから……」  バットの中には苔色をした敷物の上に、小指ほどの大きさの白いイモムシが、無数にうごめいていた。  蚕。チョウ目カイコガ科カイコガ属、学名ボンビクス・モリ。指でつつけば潰れてしまいそうな白く柔らかい体をしたこのイモムシは、他の多くのチョウ目昆虫と同様、蛹になる前に口から糸を吐いて繭をつくる。その繭糸から作られるのが、人類史上最高級の衣料素材のひとつ、絹である。  蚕は人間に飼育されなければ生きていけない。数千年にわたって品種改良を重ねられたその遺伝子からは野性というものが完全に抜け落ちており、木の枝をのぼる力も、餌を探し回る本能さえ持ってはいないのだ。  不幸なことに旧時代、世界の絹生産の大部分を担っていたのは中国だった。国策としてバイオロイドを用いず、AGSをあらゆる分野で活用していた中国では、鉄虫の襲来とともに産業という産業がのこらず壊滅した。養蚕も例外ではなく、世話をしてくれるロボットがいなくなった数百億の蚕たちは、飼育棚から逃げ出すこともせず、静かに死を迎えた。  リストカットの知る由もないことだが、オードリーはオルカに乗り組んでからというもの、どこかに蚕が生き残ってはいないかと機会のあるたび探し続けていた。しかし、ただの一頭も見つからなかったのである。今日この時までは。 「デルタのワードローブを見て、自分用に絹の生産体制を維持しているのではと思いつきましたが……期待以上でしたわ! チャイナ21、チャイナ335、チヨヅル、アスコリ、セクサルド、あらレッド・コイシマル、こちらはプラチナボーイ!」 「何の呪文?」 「蚕の品種だと思うわよ……よく知らないけど」  後ろでひそひそとささやき交わす姉たちの声にも耳を貸さず、オードリーはあちらの棚、こちらの棚から小さな蚕の幼虫をつまみ上げては、うっとりと感嘆のため息をもらしている。 「メルヴェイユなコレクションですわ……今ならデルタの墓に花くらい供えてあげてもいい気分です」 「あの女に墓なんかないわよ」 「知ってるから言うのですわ」  すまして答えてからオードリーはふと眼を細め、バットの底に敷き詰められた緑色のプディングのようなものをすくい上げた。 「ですが、こんな安物の合成飼料を使っているのはいただけませんわね。どこか近くにクワ畑を作るくらいなんでもないでしょうに……こういうしなくてもいいコストダウンをするから、本物の一流になれないのです」 「うわ、辛辣~」 「製糸と織りはどこで?」 「製糸場は隣の建物。織物工場は市の中心部にある旧時代のをそのまま使ってるわ」 「リヨンは絹の都ですものね。あとでそちらにも行きますが、まずはここの運営体制を把握しましょう。製糸場を見てから、管理AGSに会わせて下さいな」  生糸保管庫で再度感涙にむせび、管理AGS(リストカットも初めて会ったが、トミーウォーカーの改造モデルだった。オリビアが「トミーウォーカー製糸場!」と爆笑していたが意味はよくわからない)と簡単な打合せをすませてゲートまで戻るあいだも、オードリーの足取りははずんでいた。 「さあ、これから忙しくなりますわ。まずは司令官のスーツを昼用と夜会用。それに私たちのドレスも合わせて仕立てないと」 「そんなに嬉しいもの?」リストカットは声をひそめて、隣のテイラー・クロスカットにささやいた。 「あの子は極端なのよ」クロスカットは肩をすくめて笑った。「でも、まあ、シルクはスペシャルよね」 「司令官の使ってるハンカチなんて、21世紀ものだよ」オリビアもひょいと首をのばしてきた。「私は箱舟より前のオルカは知らないけどさ、絹の状態のいいのはほんとに全然なかったんだ。それがこれからは好きなだけ使えるし作れるんだもん、気持ちわかるな」 「……そんなものかしら」  リストカットにはよくわからない。デザイナーとしての感覚など、とっくの昔に……最初にこの手で妹たちを死に追いやった時に失ってしまった。  そもそもこんな施設があること自体、今朝オードリーに言われるまで忘れていた。白と黒に染め分けられた、なかなか悪くない趣味の床を眺めながらぼんやりと思い返す。デルタだって少なくともこの二十年ほどは、服作りなど近寄ってもいなかったはずだ。なのにこんな場所を維持していたのは惰性か、あるいはバイオロイドに植え付けられた本能というやつだったのか。 「本能か……」  テイラー・クロスカットは経済性と合理性を何より重視する。十人死ぬのを見過ごすよりも、自分の手で五人を殺して、残りの五人を助けられるのならそうする。それがテイラーモデルの本能で、自分はそれに従って最善の選択をしただけ。そう、あの時彼女は言ってくれた。  本当に? 本当にそうか?  もしそうなら、なぜ他のテイラーは同じように行動しなかった? 自分が死なせた何百人ものテイラーの誰一人として、 「オーケイ、あなたの考えてることわかる。私も賛成するわ」 と言わなかったのはなぜだ? みな苦痛と、悲しみと、怒りをいっぱいに湛えた目で最後まで抵抗し、みずからの妹たちとともに死んでいったのは?  自分はやはり、どこかで決定的に間違えたのではないか。でなければ、決定的な間違いにさえ気づかないほど、最初から故障していたのではないだろうか。  自分が選択したのは、最善の未来などではなく…… 「なにか辛気くさいこと考えてるでしょ、姉さん?」クロスカットに肩を叩かれて、リストカットの物思いは中断された。 「別に……」 「わかるわよ、そういうの。悩むなとは言わないけど」 「姉さんたちだって、これから忙しくなりますわ」オードリーの明るい声がかぶさる。「すぐに夏が来ますもの、水着の注文が殺到します。二人とも、自分の分も作っていないでしょう?」 「水着!!」クロスカットとオリビアの目の色が変わった。 「そうだった、いけない。すっかり忘れてた」 「オードリーのアレよかったよね、紐のやつ。姉妹でお揃いにしたらインパクト出るかな」 「ヨーロッパを落としたばかりなのに、もうバカンスの計画?」呆れた、という思いが気持ちを切り替えさせてくれた。というか紐とは何だろう。「底抜けに呑気なのね」 「姉さんは水着作らないの? ミスターにアピールするチャンスよ」 「結構よ。……ねえ、あなたたち、私を恨むとか、許さないとか、そういう気持ちはないの?」  リストカットは足を止めた。他の三人も足をとめた。  三人の視線をまともに受け止める。こんなことを言うつもりではなかったが、つい口をついて出てしまった。 「恨むって、何を?」オリビアがおだかやな声で言った。 「私があなたたちに何をしたか、知ってるでしょ?」 「私たちは何もされてないよ」 「だから……」 「そんなに言ってほしいなら言ってあげる。私は姉さんを許してないわ」クロスカットがさっと進み出て、こちらへ指をつきつけた。 「……!」  覚悟していたつもりだが、喉の奥がぐっと重くなる。 「姉様!」 「お姉ちゃん!」 「黙ってなさい、二人とも」  クロスカットは指さしたまま、つかつかと近づいてくる。 「私と同じ顔と体で、私より百倍重たい過去をしょってる女なんて、許せるわけないじゃない。恋愛小説だったら絶対姉さんがヒロインで、私が当て馬だわ。でも、そうはいかないからね」  よく磨かれたネイルの先が、つん、とリストカットの頬をつついた。 「な……」 「ねえ、姉さんは重すぎる荷物を背負ってきたわ。一度は割り切ったつもりになっても、後からやっぱり不安になることとか、いくらでもあると思う。だから何度でも悩んだらいいけど、ただこれだけは覚えておいて。私たちはいつでも姉さんの味方で、姉さんは誰よりも幸せになる権利があると思ってるから」 「…………!」  泣き崩れてしまうことはプライドが、そして今まで流してきた姉妹たちの血が許さなかった。だからリストカットはただスーツの袖で涙をぬぐい、クロスカットの指をそっとつかんで、言葉もなく頭を下げた。  そうして、少しの時間がたってから、 「それに、賭けましょうか。今から一ヵ月以内に、姉さんが自分からミスターの部屋へ行ってベッドに座る方にツナ缶10個」 「はあ!?」  思わず顔を上げると、クロスカットがニヤニヤと微笑んでいた。 「あ、じゃあ私も賭ける。ツナ缶10個」オリビアがさっと手を上げた。 「では、私は20個で」オードリーまでが指を二本立てる。 「あなた達ね……」リストカットは口を開け、怒鳴ろうとして、また閉じ、頬を引きつらせ、鼻で笑おうとして、失敗した。 「……いいでしょう。もし私が負けたら?」 「そうだねえ、水着作りを手伝ってもらおうかな」オリビアが楽しげに小首をかしげる。 「デザインの仕事はとっくに辞めたんだけど」 「やればできるかもよ? もしダメでも、私たちの仕事には下っ端の雑用が無限にあるの。それくらい覚えてるでしょ」  リストカットは無言で肩をすくめて、賛意を示した。オードリーが両手を広げ、くるりときびずを返す。 「さ、急ぎますわよ。市内の織物工場も今日中にいくつか見ておかないと」 「待った待った、帰りは私が運転するからね! オードリーの運転おっかないんだもん」  四人の姉妹はリノリウムの床にこころよいヒールの音を響かせて、出口へと歩いていった。  なお、賭けは結局クロスカット達の負けだった。  実際には、一ヵ月と一週間かかったのだ。 End =====  夜のロンドン、テムズ運河。  かつてのテムズ川を大幅に拡張した広大な運河が、ロンドン市街中心部へ南から流れ込み、大きく東に曲がるそのほとりに、「ロンドン・アイ」と呼ばれる大観覧車が建っている。  滅亡戦争の戦火を奇跡的に逃れ、今も旧時代そのままの姿で静止している直径135メートルの鋼鉄の輪の頂点、最上部に位置するゴンドラの付け根に、一人のバイオロイドが音もなくあらわれた。  銀色の髪にヘッドドレス、モノトーンのナースウェアに身を包んだ彼女は、すばやく周囲を見回してからフレームの下へ手を差し伸べ、もう一人のバイオロイドを引っ張り上げる。 「ふう……」  引き上げられた方はゆたかな肢体をひとつ伸ばしてから頭へ手をやり、まとめていた髪をほどいた。身長と同じほどもある長いピンク色の髪が、さっと夜風に流れる。 「頭を上げないで」 「わかっています」  眼下にはロンドン市街が広がる。東にウォータールー駅、西にはビッグ・ベンとウェストミンスター宮殿が、夜空にくろぐろとした巨体を浮かび上がらせている。  そして、南にはフローレンス・ナイチンゲール博物館。街の明かりというものが絶え果てて久しいこの時代にあって、ことさら高くも大きくもないその建物はしかし、夜闇の中にあかあかと照らし出されていた。その周囲に、ひっきりなしに火の手が上がっていたからだ。 「……あそこに救出チームが」 「ええ」  セラピアス・アリスは美しい顔をしかめ、鋼鉄のフレームを握る手に力をこめた。 「焦ってはだめです。あと二分半」  ブラックリリスがその肩に手を置く。アリスは大きく深呼吸をして、体の力を抜いた。  オルカはもうほんの数百メートル先まで近づき、減速に入っているはずだ。真下に横たわる運河の水面が、月光をはね返して異様にもり上がりはじめたのがここからでも見える。  ロンドンにいる鉄虫の大半が、あのナイチンゲール博物館に引きよせられてこのあたりに集まってきている。河面の不自然な上昇にすでに気づいている個体もいるだろう。オルカが無事に浮上できるかどうかは、自分たち二人の働きにかかっている。 「……そういえば、少し意外でしたね」  逸る心を落ち着かせるため、アリスはしいて声をかけた。赤外線スコープの調節をしていたブラックリリスが、眼下の闇を睨んだまま答える。 「何がです?」 「貴女が、おとなしく私の護衛についたことがです。ご主人様の側を離れたがらないかと思ったのに」 「ご主人様のご指示に背くわけがないでしょう」 「それにしても、ひとゴネくらいはするものかと」  ブラックリリスは聞こえよがしにため息をつき、ゴーグルをはね上げてアリスを睨んだ。 「ご主人様はもっとも危険な任務にあなたを送り出す代わりに、もっとも信頼できる護衛をつけたのです。私がここにいるのはご主人様の最高の信頼の証であり、同時に私たちバイオロイドすべてに対するご主人様の愛の証でもあります。不満など、あると思いますか?」 「…………」アリスはむっつりと押し黙った。リリスの言ったことはまさしく、彼女が何か不平らしきものを口にしたらぶつけてやろうとアリスが用意していた言葉そのままだったからだ。  そんな彼女の内心を見透かしたように、リリスはかるく笑った。 「私の方こそ意外でしたよ。あなたが、私の護衛をすんなり受け入れたことが」 「?」 「バトルメイドにはブラックワームさんがいるでしょう。今回のような任務にうってつけではなくて?」 「それは……」アリスは言いよどんだ。  三安のメイド型バイオロイド、バトルメイド、コンパニオン、フェアリーの三シリーズは、姉妹愛が強いことの裏返しとして縄張り意識も強い。特にバトルメイドとコンパニオンは職分が重なりがちなため、旧時代にも、また抵抗軍を結成してからも、何かにつけて張り合い、仕事や手柄を奪いあっていた。かなり険悪な間柄になったことも一度や二度ではない。そんなバトルメイドのアリスが、大規模戦闘護衛モデルであるブラックワームS9をさしおいてコンパニオンに護衛を任せるなどということは、確かに昔なら考えられなかっただろう。 「……それこそ、ご主人様の采配が間違っているはずがありません。ブラックワームだって、そのあたりはよくわかっています」 「……ふうん」  リリスはニヤニヤと笑ったまま、ゴーグルを直して索敵に戻った。その横顔が癇に障って、アリスは棘のある声を出す。 「何がおかしいのです」 「いえ、アラスカからこちら、あれこれ苦労しておいでなのを眺めていましたが」リリスは口元から笑みを消さない。「姉役もやっと板に付いてきたようですね?」 「な……」アリスは頬がかっと熱くなるのを感じた。 「言っておきますが、ブラックワームが力不足という意味ではありませんよ。あの子は十分高い能力を持っています。あくまでご主人様の」 「それ、本人に言ってあげた方がよろしいですよ」リリスはからかうように指を振る。 「嫌味ですか?」 「先輩からのアドバイスです」  アリスがさらに何か言い返そうとした時、二人の手首に巻いていた通信機が、小さく振動した。  瞬時に二人とも口をつぐみ、目を見交わす。オルカが浮上を開始した合図だ。水面に現れるまで、あと十五秒。  アリスは立ち上がり、両手を広げた。腰に巻きついたマーメイドドレス型のマルチミッションランチャーがはらりと展開し、扇形のフォルムを形作る。リリスがローザ・アズールを起動させ、青白い光の薔薇が二輪、アリスの左右に咲いた。  攻撃地点はすでに決めてある。もう言葉はいらない。アリスは広げた両腕を、優雅に振り下ろす。  かくて、電撃オルカ作戦は幕を開けた。 「コウヘイ教団の皆さん、今のうちにあと一ブロック東へ動いて下さい~。次の攻撃はたぶん、もうちょっと東寄りに来ると思います~」 〈わかりました。ですが、今いる道路の封鎖はどうしますか?〉 「そちらは、うちのエルブンたちにお願いしますので~」 〈えー、またあ!? セレスティア様、エルフ使い荒くないですかあ!?〉 「頼りにしていますよ~」  生命のセレスティアは穏やかな笑みを絶やさず、おっとりと、しかし絶え間なく的確な指示を出していく。  ポーツマス、第二バリケード防衛戦。ブラックリバーの指揮官が残らず出払っている今のオルカに、大規模な野戦の指揮をとれる者は少ない。ストライカーズとともに最前線に出ているラビアタ・プロトタイプと、留守居としてオルカに残っているアレクサンドラを除けば、あとは妖精村を率いていたセレスティアしかいない。第二次防衛ラインの指揮は必然的に、彼女が執ることになった。 「リーダー、各部隊からの報告をまとめました。マップに反映します」  そして、彼女が指揮をとるならば、長年にわたって副官をつとめてきたブラックワームがその補佐につくのも当然のことだ。 「は~い。うふふ、あなたにリーダーと呼ばれるのも久しぶりですね~」  適当な家の庭先に天幕を張り、ホロディスプレイを何枚も並べた間に合わせの指揮所で、セレスティアとブラックワームは更新されたマップを確認する。これほどの規模の戦いは流石に初めてだが、それでも数百名からのバイオロイドを率いて旧時代から数十年ものあいだ戦い、生き抜いてきたのだ。セレスティアのたたずまいは普段と変わらず、緊張したり焦ったりといった様子は少しもみられない。 「マジカルチームの皆さん、もうちょっとでウェーブが切れるはずです~。あと一息がんばって下さいね~」 〈はーい! 魔法少女はしんどい時こそニッコリ笑顔です!〉 「エクスプレス隊、少し凹んでいるようです。ラインが崩れてしまうので、もう少し押し戻せますか」 〈無理ー! 今でもだいぶキツくて下がりたいくらいー!〉 「リーダー?」 「うーん」セレスティアは一呼吸のあいだ目を閉じて、ぱっと開けた。「オードリーさん達の遊撃隊に行ってもらったら、間に合いそうです。あと、技術班のガレージに砲台があまってないかしら?」 「はい。聞こえていましたか、ドクターさん?」 〈修理の終わったやつがあるけど、セットアップしてる暇がないんだよ~。取りに来てくれる?〉 「私が行きます」ブラックワームは返事を待たずに指揮所を飛び出す。リーダーの手足になるのが副官の役目だ。  指揮所から少し離れた大学キャンパスに設けられたガレージで自走砲台のセットアップをすませ、エクスプレス隊の守るコーシャム・パークに送り出してから急ぎ足に戻ると、セレスティアが地図をにらんで浮かぬ顔をしていた。 「サウザンプトン・ロード方面の鉄虫が思ったより多いですね~。このままでは、ストライカーズの皆さんが孤立してしまいます」 「私が援護して、引き戻してきます」ブラックワームはすぐさま傍らのファイアランチャーをかつぎ上げた。その頬に、そっと白い手が添えられる。 「ブラックワーム?」セレスティアの声は変わらず穏やかだった。 「すこし、肩に力が入っているようですね~? こういうときこそ、リラックスですよ~」 「……はい」  かなわないな、と思う。ぼんやりしているようでいて、おそろしく相手をよく見ている人なのだ。  この電撃オルカ作戦の劈頭、ロンドン上陸戦において、オルカの露払いをつとめたセラピアス・アリスの護衛にはブラックリリスがついた。同じバトルメイドの、それも大規模戦闘護衛モデルであるこの自分ではなく。  不当だとは思わない。オルカ最古参の精鋭であるブラックリリスと、自分との間には埋めがたい実力差がある。何度かの模擬戦を経て、そのことは身にしみて知っている。ご主人様の人選は適切だった。だからこそ、悔しい。  敵陣深くで暴れ回り、攪乱役を務めているストライカーズをつかまえるのは一苦労だった。 「ストライカーズの皆さん! 援護にまいりました!」 「ありがとう、ちょっと勢いに任せすぎてしまったかしらね」すでに状況を理解しているラビアタが、即座に指示をとばす。「ミナ、いったんブラックワームにカバーを任せて、槍を修理なさい。それが済んだらチェルトナム・ロードまで下がります。マーキュリー、ルートを演算して」 「お任せですわ!」 「助かった~。ありがとう、ブラックワームさん」 「いいえ、どういたしまして」  六枚の花弁状シールドをアスファルトに突き立てると、たちまち砲弾が降り注いでフレームをきしませる。こういう、周り中を敵弾に囲まれた状況で誰かを守ることこそ、ブラックワームの本領だ。ロンドン上陸戦での護衛など、まさに自分のためにあるような任務といえた。だというのに。 「ふんふん、おシャカ様は~、白人だったとさ~、だってアングロ釈尊~」 「ぶっ」  ふたたび陰鬱に沈みかけた思考を、ウルの駄洒落に引き戻されたところで、通信機が小さく震えた。 〈セラピアス・アリスより姉妹達へ〉バトルメイドの専用回線だ。見れば、ラビアタも眼鏡をおさえている。 〈ご主人様がキャメロットの発電所へ向かわれます。シティガードが護衛に付いていますが、マーリン配下のAGSが周辺を包囲しつつあるようです〉 「……!」  ラビアタと目を見交わす。そう、このポーツマス防衛戦は最初から二正面作戦だった。ポーツマスに押し寄せる鉄虫と、キャメロットから繰り出されるAGS。その両方を相手取って押しきれるような戦力はもとよりあるはずがなく、司令官がどれだけ早く救出チームと合流し、マーリンとキャメロットを攻略できるかが作戦の成否を握っている。  だから、彼がキャメロットへ斬り込んでいくのは少しも間違ったことではない。しかし、あまりにも戦力が少なすぎはしないか。 〈……ですので、バトルメイドとコンパニオンは部隊を二分し、半分はご主人様の後詰めに向かいます。バトルメイドからは私とバニラ、ヒルメ。バリケード側に残った姉妹の指揮は、ブラックワームに〉 「えっ!?」  急に声を上げたせいで、ミナとティアマトが驚いて目を向ける。「でも、こちらにはラビアタお姉様も、コンスタンツァお姉様も……」 「セレスティアさんの副官はあなたでしょう? 適任よ」ラビアタがそっとブラックワームの肩に手を置いて、微笑んだ。 〈やってみせなさい。任せますよ〉 「なになに、何ですの?」 「ブラックワームがね、一時的に私たちバトルメイドのリーダーになるの」 「まあ、すごい!」  ティアマト達が小さく拍手をしてくれる。  呆然と開いていた唇を、ブラックワームはきゅっと引きむすんで、顔にかかる前髪をはらった。 「……はい! お任せ下さい!」 「あらあら~?」  指揮所に戻ると、出迎えたセレスティアがふんわり微笑んだ。「なんだか、元気が出たようですね~?」 「ええ。ご心配をおかけしました」  ブラックワームも、力強く微笑み返す。  と、そこへ誰かが早足に駆け込んできた。 「すみません、鉄虫の動きが少し不穏で、バリケードを点検に行きたいのですが、どなたか手の空いている方は……」  遊撃隊を担当していた、コンスタンツァだ。ブラックワームはもういちど微笑み、置いたばかりのファイアランチャーを取り上げた。 「私が行きます、お姉様。そうですね、手が空いているのはスノーフェザーさんと、金蘭さんと……」  その発電所は明らかについ最近、突貫で建てられたものだった。  港湾ぞいの倉庫街の真ん中に、周辺の建物をつぶしていきなり建っている。最低限の遮蔽壁らしきものを除いて、防衛のための設備はなにひとつ見当たらない。モルタルを幾重にも塗り重ねた壁に、冗談のように並べて貼り付けられている黄色い放射能標識がなければ、原発だとさえわからなかったかもしれない。  先行したという救出隊の面々は、ここに入るのに何の苦労もなかっただろう。しかし今、建物の周囲はおびただしいAGSによって埋め尽くされつつあった。中に入るどころか、近づくことさえ難しい。バニラは倉庫の屋根に身を伏せたまま、そろそろと後ずさって仲間と合流した。 「ご主人様たちは、どうやってあそこに入ったんです?」 「集まってくるAGSにまぎれたそうです。つい先ほど、シティガードから連絡がありました。ソニアさん曰く『外のAGSをよろしく』とのことです」 「無責任なことを……」セラピアス・アリスが苦い顔で舌打ちをする。その隣では、天香のヒルメが沈んだ顔でぴったりと耳を伏せている。 「あんな数の相手をするのか? 気が進まんのう……」 「あれが全部ご主人様に襲いかかるのと、どっちが気が進まないですか?」 「い、言ってみただけじゃ。やらんわけなかろう」 「外には鉄虫だっていっぱいいるのに、あんな数のAGSをどこに抱えてたんでしょう」ハチコが首をかしげる。 「どっかで造ってるんじゃないの?」ポイが尻尾をゆっくりと揺らした。  セラピアス・アリスがしずかに身を起こし、腰のランチャーを確かめるように撫でてから、屋根の端へ目を向けた。 「ご主人様のもとへ向かいますか? 貴女一人なら斬り込めるでしょう。援護してあげなくもないですが」 「せっかくですが、結構です」  視線の先にいたブラックリリスは、かがみ込んだまま二丁拳銃を抜き、顔の前で戦闘位置に構える。 「マーリンとやらが万一ご主人様の暗殺でも企んでいたら、シティガードだけでは対処できないと思って駆けつけましたが……この状況でこんな物量作戦に頼るということは、そんな繊細な真似のできる相手ではなさそうです」 「よろしい。それでは予定通り、バニラとコンパニオンの皆さんは発電所周辺を。私とヒルメは外周を掃除します。行きますよ」 (……この二人、こんなに息が合っていたかしら?)  そんなことを思いながら、バニラは愛用のAK-99Mにグレネード弾と銃剣を装填した。 「行きますよ、ヒルメ」 「う、うむ!」  こいつらがただの一機でも、ご主人様を煩わせることがあってはならない。 「ふっ……!」  フォールンの足関節を撃ち抜く。すばやくマガジンを交換し、至近距離からの連射で本体を仕留める。  バニラの武器はアサルトライフル一丁。火炎放射ドローンを操るヒルメや、ミサイルの雨を降らせるアリスに比べれば、火力としては貧弱そのものだ。  かつて、ラビアタが初めてレジスタンスを結成した時、まっさきに声をかけたのは当然、自身の直系であるバトルメイドプロジェクトの妹たちだった。バトルメイドの中でももっとも生産数の多かったバニラモデルは、レジスタンス最初の兵士となった。何百、何千体ものバニラが鉄虫と戦い、そして死んだ。  一つの戦いを生き延びるたび、バニラモデルはお互いの経験と知見を共有し、より効率的な戦法を追求した。ラビアタのような圧倒的な性能も、コンスタンツァのような精密な射撃能力も持たないバニラは、ひたすらに考えて、考え抜くしかなかったのだ。  バニラは自信を持って言える。三安のあらゆるモデルの中で、最も鉄虫との戦いの経験を蓄積しているのは自分たちだと。 (まあ、今戦ってるのは鉄虫じゃなくAGSですが)  ギガンテスカスタムの装甲の継ぎ目に銃剣をこじ入れ、開いた隙間にグレネード弾を零距離で撃ち込む。煙を噴いて動きをとめたギガンテスから飛び離れ、ライフルの柄でポップヘッドを殴り倒す。背後に迫っていたもう一体のギガンテスに向き直ると、すでにポイが真っ二つに切り裂いていた。 「にゃははっ、なかなかやるじゃない?」 「当っ然……ですッ!」  新手のフォールンの弾幕を跳び越え、頭上に飛び乗って銃剣を突き立てる。熱風が吹きつけ、体の右側が熱くなった。すぐ右手で火柱が噴き上がり、巨大な炎の鳥がAGSの群れをなぎ払っていく。 「見たか! 妾だって、これくらいはやれるのだ!」  戦いの興奮で頬を真っ赤にほてらせて、ヒルメが舞い降りてきた。バニラも一息ついて、グレネード弾を再装填する。 「何体やりました?」 「いちいち数えてなどおらぬ。50体くらいかのう」 「まだまだですね」バニラはこれ見よがしに肩をすくめた。 「あなたのヤタガラス・ユニットは、どう少なく見積もっても私のライフルより十倍の火力があります。それなのに、仕留めた数はたったの五倍。恥ずかしくはないんですか」 「んなっ……み、見ておれ!」  しっぽの毛を逆立てて、ふたたびAGSの群れに突っ込んでいくヒルメを見送って肩をすくめる。本人は「妾は飴だけで成長するタイプ」とか甘ったれたことを抜かしていたそうだが、あれはどう見ても適度に煽ったり叩いたりするのが一番いいタイプだ。  やがて、アリスが上空からふわりと降りてきて、携帯端末の時計を見た。 「……23分。まあまあですね」  動いているAGSは一体もいない。あたり一面、煙と、鉄の焦げるいやな臭いが立ちのぼっているばかりだ。バニラはドレスの煤を形ばかりはらい、ライフルを支えにしてゆっくりとしゃがみ込んだ。張りつめていた精神が、吐く息とともにゆるやかに弛緩していく。 「そういえば途中、なんだかコンテナが一個飛んできたのが見えましたけど」 「オルカから連絡がありました。あれにはフリッガさんが乗っていたそうです」 「……ガーディアンシリーズって、そんなのばっかりなんですか?」たしか救出隊に参加したアイアスは、装甲列車でこのポーツマスのバリケードに突っ込んだと聞いている。 「さあ。リリスさんの親戚でしょう?」 「こちらに押しつけないで下さいな。あの子たちは規格外です」リリスは涼しい顔で、もう拳銃の掃除を終えている。その隣、うずたかく積み上がったAGSの山を、ポイがひらりと跳び越えた。 「もういいでしょ? お先にご主人様のところへ行ってますね~♪」 「こら、ポイ! 私も行きますよ!」 「どさくさに紛れて、コンパニオンにだけ先を越させませんよ!」  リリスが血相を変えて後を追い、さらにアリスがそれを追っていく。  バニラも立ち上がり、大急ぎでライフルの掃除を済ませると、急ぎ足で発電所の中へ向かった。 「拙が思いますに」  スケロプを真っ二つに斬りさばき、環刀を鞘におさめる。チン、という快い鍔鳴りの音が、戦場の喧噪に疲れ果てた耳を、ほんのわずか慰めてくれた。 「バリケードの穴が一つとは限りません。残りの部分もすべて、あらため直した方がいいのでは」 「もちろん、その通りです。すぐにも調べに行きたいところですが」ハーヴェスターを一体、ボリに押さえ込ませてからの至近射撃で仕留めたコンスタンツァが顔をしかめる。「ここを何とかしないことには」 「お二人とも、戻って下さい!」  ブラックワームの声に二人と一匹はぱっと地を蹴り、黒い花弁の形をした大型盾の背後へ跳びもどる。直後、機関砲の弾丸が驟雨のように盾を洗った。  第二次防衛ラインの攻防戦は続いていた。鉄虫の攻勢が不自然なほど消極的であることに気づいて偵察に出た金蘭たちが、バリケードにこじ開けられた穴を発見したのがつい数分前のこと。侵入した鉄虫を追討する役目を引き受けてくれたブリュンヒルデとスノーフェザーを見送ったのもつかの間、三人はバリケードの穴をめがけて押し寄せてくる新手の迎撃で身動きがとれなくなっていた。 「修理班は?」 「まだ少しかかると。私たちが動けない分、ドローンさん達が遊撃に回ってくれているので……」 「余分の人手がないのが、ここにきて堪えてきましたね」  防衛戦の主力は伝説・ビスマルクの戦闘部隊と、ドクターたち技術班の自動兵器群だ。金蘭たち遊撃隊の役目は本来、かれらの火線を逃れて接近してくる小型の敵に対処することだが、ここに縛りつけられてしまってその役目を果たせずにいる。広域破壊のできる切り札の一人アリスは司令官の護衛に向かったし、もう一人の切り札レアは医療班の長でもあるので、うかつに動かすことができない。 「く……」  つば広の笠子帽を目深にかぶり直し、黒い紗をおろして視界を翳らせる。おびただしい鉄虫の足音、絶え間ない砲声、鉄と硝煙の臭い。大気に満ちる音も臭いも光も、何もかもが金蘭をさいなむ。人並み外れて鋭い金蘭の五感にとって、戦場の空気は苦痛そのものだ。だが、もちろんそんなことで挫けるわけにはいかない。これは姉妹のための、バイオロイドのための、そして何よりご主人様のための戦いなのだ。  シラユリから借りておいた強化繊維弓を引きしぼって矢継ぎ早に鉄虫を射貫く。最後のチックが火を噴いて倒れ、第何波めかの鉄虫を凌ぎきることができた。次の群れが現れるまで一分か、二分か、わずかに息がつける。 「このバリケードは……ここの部分から、きゅうに作りが粗くなりますね」  コンスタンツァがふいに、バリケードの断面から突き出た鉄板に手を触れて言った。金蘭も、盾の調整をしていたブラックワームも怪訝な顔になる。  このポーツマス第二次防衛ラインは、ポートシー島と本土とをへだてるポーツブリッジ川の北、かつてホーソーン・クレセントと呼ばれていた通りを中心に設けられている。旧時代の住宅やその残骸をたくみに使って組み上げられた分厚いバリケードは、重装型鉄虫の突撃にすら一度か二度は耐えてくれそうだ。  しかし、いま金蘭たちが守っている箇所だけは砲撃によってみにくく切り裂かれ、断面をさらしている。よく見るとコンスタンツァの言うとおり、裂け目の左右ですこし作りが違うように見える。しかし、具体的に何がどう違うのかと言われるとよくわからない。。 「あちら側はこんなに見事に組まれているのに。こちら側の新しい方はまるで雑です。接続の仕方もまずい。ここに穴を開けられたのも、無理はないですね」 「最近になって、急いで増築したのではございませんか?」 「もちろん、そうでしょう。ただそれにしても、あまりにも違いすぎる。急ごしらえというよりは……」芯まで錆びてすっかり脆くなった鉄板を、コンスタンツァはつまんで折り取った。 「まるで、きゅうに何もかもが嫌になって、投げやりになってしまったよう」 「……リーダーも言っていました」ブラックワームが言った。「マーリンという者のふるまいには、何かひどく非合理なところがみえると」 「…………」  金蘭はだまって一歩下がり、少し後ろから二人の姉を見た。  コンスタンツァS2・416は、数十年にわたってレジスタンスで戦い、今はご主人様のお世話係を務めるベテラン中のベテランだ。ブラックワームも、オルカへの参加こそ金蘭より後だが、セレスティアの率いる妖精村の副長として、旧時代から鉄虫たちと戦ってきた。  復元からたった二年あまりの自分が追いかけるには、なんと遠い背中であることか。ため息をつきながら伏せかけた視界のすみで、ほんの小さく何かが動いた。  即座に紗をはね上げ、目を見開く。地面に手を当て、伝わってくる震動を確かめる。 「金蘭?」 「次の群れが近づいております。右手奥の木立の向こうから、重装型がいるようでございます」  ブラックワームが、調整のすんだ六枚の盾を再度地面に突き立てた。 「ここは、私がしのぎます。お二人はバリケードの残りをチェックしたあと、遊撃任務に戻って下さい」 「一人で大丈夫ですか?」 「私は大規模戦闘護衛モデルです」ブラックワームは振り向かないまま、背中で答えた。コンスタンツァが微笑む。 「任せましたよ」 「はい」  コンスタンツァがきびすを返す。ボリがそれに続き、金蘭もいそいで後を追った。 「ふふっ」バリケード沿いに走りながら、すばやく損傷を確かめていく。その途中、コンスタンツァがふと笑った。 「どうなさいましたか」 「あなたは知らないでしょうけれど、ご主人様がおいでになる前までは、バトルメイドの姉妹はラビアタお姉様と、私とバニラしかいませんでした。ラビアタお姉様の補佐も、私たちよりはリリスさん、アレクサンドラさんが務めることが多くて……正直、すこし肩身の狭いこともあったんですよ」  鼻面を道路へにこすりつけるようにしながら走るボリの背中を撫でてやりながら、コンスタンツァは遠い目をする。「それが、今ではこんな大所帯になって。秘書室を任せたアリスもずいぶん立派になってくれたし、頼もしい妹たちもいっぱい……本当にありがたいこと」 「それは……」 「頼もしいというのは、あなたもですよ、金蘭」 「!」  考えを見透かされたような気がして、金蘭はぱっと頬を赤らめた。「お、お姉様! そのコンクリートのところ、少しゆるんでいるように見受けられますが」 「あら、本当。目聡いのね」コンスタンツァは楽しそうに言う。「地図にチェックして、あとでまとめて技術班に渡しましょう」  二人のメイドは足早に、かつてホーソーン・クレセントと呼ばれた通りを駆け抜けていった。 「あふう~~……」  九本の金色の尾を、湯船の中で太陽のように放射状にひろげて、ヒルメはとろけるような息をもらした。 「場所を取りすぎです、ヒルメ。はしたないですよ」 「妾はお姉様たちと違って、今しかここを使えないのだ。少しくらい堪能してもよかろ……よろしいでしょう」  ヒルメは両手を広げて体の力を抜き、尻尾の弾力だけに身をあずけて、湯の中にぷかりと浮いた。  電撃オルカ作戦は無事完遂された。オルカは一人の死者も出さずに、ブラインドプリンセス率いるイギリスレジスタンスを救出することができた。  本職の軍事バイオロイドが一人もいない状況での、イレギュラーな緊急作戦だったこともあり、箱舟に残っていた隊員は一人残らず必死に働いた。そのためもあり、参加した全員に部隊単位で、ちょっとした特別褒賞が与えられることになった。  用意された選択肢の中からバトルメイドが選んだのは「姉妹全員での大浴場貸し切り」であった。むろん、普段は(抜け毛がすごいので)入浴を禁じられているヒルメも含めて、である。 「これ、得しているのはヒルメだけではないですか?」顔を半分湯に沈めてぶくぶくと泡を吹きながら、バニラがこちらを睨む。 「い、いいではないか! 妾はここでは末妹なのだぞ、末妹! たまには可愛がってくれても」 「姉妹全員で入浴する機会など滅多にないのだから、いいでしょう」アリスが上機嫌でざぶりと顔を洗った。その勢いで、大きな乳房が揺れて波が立つ。「それに、実際今回のヒルメはよく頑張りました」 「まあ、そこは同意しないでもないですが」 「そうであろ、そうであろ!」  ふだんは何十人もが一度に入る、アクアランド自慢の大浴場である。長身のアリスや、大きな尻尾を持つヒルメがそれぞれに思いきり手足を伸ばしてくつろいでも、なお十分な余裕がある。露天風呂も悪くないが、やはりこの広さは格別だ。 「ふふ、本当にね」  コンスタンツァがニコニコと湯船から上がって脱衣所へ入り、大きな木桶を抱えてもどってきた。「そんなわけで私からも、こういうものを用意しました」  木桶の中にはワインの大瓶と、グラスが七つ。 「お姉様……お風呂でお酒なんて、キルケーさんじゃあるまいし」 「いいじゃないですか、お祝いですもの。お注ぎしましょう」アリスが瓶をとって、素手で事もなげにコルクを引き抜くと、優雅な仕草で真紅色の液体をグラスへ注いだ。 「わ、妾も! 妾もほしいです!」  普段あまり飲む機会がないが、ヒルメも酒は好きな方である。日本酒だったらなおよかったが、贅沢は言わない。熱い風呂にゆったりと浸かりながらの冷えたワインは最高だ。 「はあ~……極楽だのう」 「ヒルメ、尻尾を撫でてもいいですか?」 「うん? あ、うん」  少し頬を火照らせながら、ブラックワームが寄ってきた。出会った頃は怖かった彼女だが、今はもうだいぶ慣れた。湯を揺らして尻尾を差し出すと、 「うふふ。ふふふ」  一杯でもう酔ったのか、ブラックワームはふわふわと笑いながらずっと同じところを撫でている。 「ブラックワームさん。このように、もっと指を深く入れて、長く撫でるとよろしいですよ」  いつの間にか反対側に金蘭がきて、べつの尻尾を撫でる。以前、露天風呂での尻尾ケアに付き合ってもらってからというもの、金蘭はすっかり尻尾撫でのエキスパートだ。 「こうですか?」ブラックワームが真似をすると二本の尻尾からゾクゾクと刺激が来て、思わず声が漏れた。 「きゅーん……!」 「まあ。さすがです、金蘭お姉様」 「ふふっ。私もようやっと『先輩風』なるものを吹かせることができました」金蘭がおかしなことを言って、嬉しそうに笑った。 「んはーーーっ……!」  グラスを真っ先に空にしたアリスが、頭のタオルを勢いよくむしり取った。ピンク色のつややかな髪が、さっと湯船に広がる。 「ああ、久しぶりに思いきりミサイルを降らせました! やはり、たまにはこういうスケールの大きな戦いをしないと体がなまりますね」 「それはまあ、確かに……」  ヒルメも久々にヤタガラスユニットを限界まで酷使した。ひどく消耗したし、戦闘自体嫌いではあるが、それでも己の性能をぞんぶんに使い切った、という満足感は確かにある。 「わかりますか」四つん這いでじゃぶじゃぶと湯船を渡って、アリスが側へ寄ってきた。 「ところで日頃から思っていましたが、あなた尻尾はきちんとするのに髪の手入れがいまひとつ雑ですね。私がじっくり教えてあげましょう」 「え!? い、いや結構だ! でございます! 妾はゆっくり湯船に、あああああ」肩を掴まれて湯船から引きずり出される。 「あ、アリスお姉様! あの、止めてさしあげた方が」 「アリスったら、駄目ですよ。あなたはお酒が入ると、ちょっとお局っぽくなるのが玉に瑕ね」 「な……!?」ヒルメをぶら下げたまま、アリスが立ち止まって振り向いた。「仰るに事欠いて、お局ですって!? お姉様、それならこの際言わせていただきますが、秘書室の切り盛りを私に丸投げして、ご自分はご主人様のお世話につきっきりになっていらっしゃるの、どうかと思うのですが!」 「えっ!? いえ、あれはあなたの成長を願ってのことで、けっして私利私欲では」 「語るに落ちましたわね!」 「あらあら、賑やかね。遅くなってごめんなさい、みんな」  その時脱衣所へ続くガラス戸が開いて、どっしりとした肢体をバスタオルで覆ったラビアタ・プロトタイプが入ってきた。 「お姉様!」 「みんな、今回は本当によく頑張ってくれました。立派な妹たちをもって、私は幸せです」  ラビアタはていねいに体を流してから、湯船にゆっくりと身を沈める。たちまち皆がそのまわりに集まり、アリスもヒルメを放り出して湯船へ戻っていった。 「お姉様、今のはその……」 「ワインをどうぞ、お姉様」 「お姉様、カフェには行かれました?」  ラビアタが抵抗軍副司令でも三安陣営の代表でもなく、バトルメイドの長姉でいてくれる時間は決して多くはない。みな、聞いてほしいことがたくさんあるのだ。  洗い場にぽつんと残されたヒルメは少しだけためらい、おずおずと左右を見回してから、 「お、お姉様、妾も、妾もな!」  自分もその輪に加わりにいくことにした。 End ===== CASE:1 ランパート 「明日からの遠征隊、私も同行していいですか?」  アザズの突然の訪問に、ランパートは少し考えた。  “解体者”の二つ名で知られるアザズは、AGSの間でも名が知られた超一流のエンジニアだ。まだ実戦で一緒になったことはないが、彼女がスタッフに加わってくれることは、遠征隊の整備・修理能力が大きく向上することを意味するだろう。性格にやや問題ありという評判は聞いているが、どのみちAGSの基準から見れば非合理な性格をしていないバイオロイドの方が少ない。 「作戦計画表はご覧になりましたか? 担当地域はグリーンランドです。ほぼ全日程を通じて雪原を移動することになるのに加え、オメガ勢力と遭遇する可能性もあります。また、本遠征隊はAGSのみで構成されるため、バイオロイド用の物資の用意がありません」 「アラスカに長くいましたから、寒い気候には慣れています。鉄虫相手の戦闘経験もありますし、必要なものは自前のカーゴで持っていきます」  明快な回答にランパートは満足した。メリットは大きく、デメリットは小さい。特段の問題は何もない。「では、他のメンバーには私から話しておきます。よろしくお願いします、アザズさん」 (もしかして私は判断を早まっただろうか)  そうランパートが考えたのはグリーンランド上陸直後、アザズが輸送用カーゴを展開させ、コンテナからハイパーライオンを出してきた時だった。 「なぜそれがここにあるのですか、アザズ女史」 「私が持ってきたんです。装着してもらえませんか」 「どうやってこれをお持ちに?」 「カーゴに積んで」  手段を聞いたわけではない。「許可は得たのですか」 「もちろんです。ほら司令官とフォーチュンさんの認証がここに」  確かにハイパーライオンの所有者は司令官であり、管理責任者はフォーチュンだ。したがって手続き上、この二人の許可があれば持ち出すことができる。 「しかし、私の……」  装着者本人であるランパートの意志を確かめずに、ランパート専用の装備品を遠征に持ってくるなどということが、常識的にいってありうるだろうか。それともこれは、AGSの思考回路はまだまだ人類の心を理解できていないという一証左に過ぎないのだろうか。 「まずは右脚から、いいですか?」  アザズはさっさとハイパーライオンを分解し、装着準備を始めている。止めようかとも考えたが、ここまで持ってきてもらったものを拒むというのも失礼にあたるだろうと、ランパートは思い直した。各パーツは完璧にメンテナンスされており、ランパートのフレームに吸いつくようにフィットした。  スヴァールバル諸島から最も近いオメガ支配圏であるグリーンランド島は、オルカが最大の注意を払わなければならない地域のひとつである。箱舟の位置を悟られないよう、わざわざ島の南側まで海中を回り込んでから上陸した遠征隊は、そのまま広大な雪原をまっすぐ北上するルートをとった。 「事前に推定されたよりも、鉄虫集団との遭遇が少ないな……俺達の存在が気づかれているんだろうか。作戦計画を修正すべきか?」 「誤差ノ範囲内ト推断。単ナル分布ノバラツキノ可能性大」 「ギガンテスに同意します。旧時代は面積に対して人口の少ない地域でしたから、鉄虫も少ないのでしょう。ウォッチャーはどのような見解ですか」 「私も同感だな。それから、島の東岸に旧時代の鉱物採掘プラントが集中していることに注意を引かれるね。オメガ配下のバイオロイドが配備されている可能性があるけど、ちょっと偵察してこようか?」 「腰をひねりながら右脚を上げてみてもらえませんか?」 「…………」  小休止中のミーティングでも、アザズはランパリオンの装甲をいじくり回していた。「もう少し足を広げて」 「こうだろうか」 「ありがとうございます。なるほど、ここが連動して持ち上がることでクリアランスを確保するんですね。やはり実際に見てみないとわからないことがたくさんあります」 「あの、アザズさん……」 「地熱と震動解析のデータがまとまったので、共有ローカルストレージに上げておきました。地下がとても静かなので、たぶん東岸のプラントはほとんど稼働していないと思います」 「……それは、ありがとう。助かるよ」  有能であり、かつ任務にも協力的なのは間違いない。間違いないのだが。 「ランパリオンパンチのポーズをとってみてもらえますか? ああ、脇の下はこういう角度になるんですか。すると鎖骨フレームは……」 「警告! それは本体側の関節カバーです! 触れないで下さい!」 「あっ、しまった」  ランパリオン用の言語拡張モジュールを貫通して、素の非常用音声が出てしまった。装甲の奥に入り込んでいたアザズの手がするりと抜ける。「すみません」 「アザズさん! あなたの能力には敬意を払っているつもりだが、任務に支障を来しかねない行為は……」 「わかりました。任務に支障が出ない範囲にとどめますね」  アザズは素直に頷いた。そうなると、ランパートもこれ以上追求のしようがない。  そして実際、その後の遠征任務はきわめてスムーズに進んだ。アザズはその技能を存分に発揮し、遠征隊のボディと装備を最善のコンディションに保ってくれた。 「次の戦闘では、左腕でランパリオンパンチを撃ってくれませんか? 動画を取り損ねたので」 「……ああ、わかった」  時折理解しがたい注文を出されることはあったものの、警告音声が出るような事態は二度と起きず、ランパートは無事グリーンランド島北東岸までの偵察を終え、つつがなく箱舟に帰島した。 「……というわけさ」 「なるほど。じゃあつまり、何も問題はなかったってことじゃないのかい?」カフェで2090年式マンガン電池の電圧をゆっくりと味わいながら、ポップヘッドが言った。 「初めてチームを組んだ相手の流儀や距離感がつかめず摩擦が起きるなんて、人間やバイオロイドでもよくあることさ」 「そうかもしれないな」ランパートは認めた。「ただ……」 「ただ?」  アザズはAGSのエキスパートだ。ハイパーライオンに関する一連の出来事を除けば、遠征中彼女がほどこした処置の中に無駄なものや不適切なものは一つもなかった。オルカに所属するあらゆるAGSの設計を、彼女が深く熟知しているのは間違いない。  そのアザズが、ランパートのボディ背面にある関節カバーを知らずに開けてしまうなどということがあるだろうか。その下にあるのは脊椎中枢ユニットであり、しかるべき知識のある者が手を触れれば、ランパートのボディを好きなように制御できるのだ。そしてもちろん、アザズはしかるべき知識を完全に備えている。  だからランパートはかすかな疑念を拭いきれない。あの時の「あっ、しまった」はもしかして、 〈あっ、しまった。気づかれてしまった〉 と、いう意味ではなかっただろうか。  もしランパートが警告を発しなければ、何が起きていたのだろうか。 「……もちろん、私の気にしすぎなのかもしれないが。君はどう思う?」  ポップヘッドはだまって大きなゴーグル型センサーの輝度を落とし、側頭部のマニピュレータをぴったりと胴体に引き寄せた。 「……今後僕が遠征に出る時、アザズ女史が同行を申し出たら慎重に対応することにするよ」 「それがいい」 CASE:2 ドラキュリナ 「ドラキュリナさーん。お届け物でーす」 「んー」  久しぶりの休日の朝、優雅に惰眠をむさぼっていたドラキュリナがのそのそ起き出してドアを開けると、何か軽くて透明なものが一斉に流れ込んできて彼女を押し流した。 「ぎゃーー!?」  反射的に溺死の恐怖におそわれ、滅茶苦茶に手足をばたつかせると、ベコベコという間の抜けた音がして頭が抜け出る。どこか聞きなじみのある音である。 「何これ……ペットボトル!?」  それはオルカでも見慣れた、飲料用ペットボトルだった。中身はすべて空。おびただしい数の空ペットボトルが、いまやドラキュリナの部屋の大半を埋め尽くしている。ドラキュリナは額に青筋を浮かべ、戸口にいたエクスプレスをを睨みつけた。 「ちょっと! 何のまねよこれは!?」  エクスプレスがうろたえた顔でタブレットを操作する。「えっと、ドラキュリナさんの部屋に届けろってなってるんだけど……」 「こんなもん注文するわけないでしょ!? 誰が送ったのよ!」  タブレットをひったくったドラキュリナは、差出人の欄を見てキリキリと眉をつり上げる。 「ア~ザ~ズ~~~!!」  膝まで埋まるペットボトルを蹴散らして廊下に飛び出すと、ドラキュリナはそのままのしのしと大股にアザズの部屋へ向かった。 「ちょっと! 受け取りサインくださーい!」  箱舟のバックヤードに設けられたアザズの研究室のドアを引き開けると、崩れ落ちてきた大量のペットボトルがドラキュリナを押し流した。 「ほぎゃーーっ!?」  二度目の溺死の恐怖を乗り越えたドラキュリナが、廊下にあふれ出したペットボトルをかき分けて乗り込むと、室内には異様な刺激臭が満ちている。その中心にいた背の高い人影が振り返ると、その顔は人間ではなく巨大なハエであった。 「どなたですか?」 「きゃーーっ!?」  ひとしきり悲鳴を上げてから、ドラキュリナはそれがアザズだと気づく。ハエの顔のような形をした、奇怪なマスクを着けているのだ。 「あ、あ、あ、アザズ! 何よそのマスク、ていうか、何よこのゴミ屋敷!?」 「ゴミではないですよ、実験材料です。ペットボトルが大量に必要なもので」口吻に似た長いノズルからシューシューとガスを吐き出しながらアザズが答える。 「実験? 何の!?」 「それは内緒です」いたずらっぽく指を頬に当てる。その顔でやられると不気味だ。 「じゃあ私の部屋に大量に届いたのは何よ?」 「置き場がなくて」 「ふざけんじゃないわよ!!」ドラキュリナの額にさっきより太めの青筋が浮いた。「そこら辺に置いときなさいよそこら辺に!」 「ゴミをそこら辺に放置なんかしたら怒られてしまうじゃないですか」 「私の部屋ならいいっての!?」 「あのう、何ごとでしょうか」さらに詰め寄ろうとした矢先、のんびりした声が背後から降ってきた。いつ来たのか、エタニティが廊下のペットボトルを困ったような顔で眺めている。 「実は、私の部屋にアザズさんから空のペットボトルが大量に届きまして……」 「あんたのとこもなの……」 「場所がないので、ちょっと置かせていただきました」悪びれもせずにアザズが言う。「今日の午後には引き取りにいくので、それまで置いておいてくれませんか」 「あら、そうだったんですか?」  するとエタニティはかえってすまなそうな顔になり、手に持っていたものを差し出した。特大のビーチボールほどの大きさの、不格好な球体だ。 「実は場所を取るので、圧縮してしまいました。てっきりゴミだと思って、申し訳ありません」  しかしアザズは、それを受け取って声を弾ませる。「素晴らしいです。ここにあるのも圧縮してもらえませんか」 「いいのですか? では」床に転がるペットボトルを二、三本まとめて掴むと、エタニティは雑巾をしぼるように無造作にひねる。メキュッとすごい音がして、一瞬でペットボトルはよじれた紐状の物体に変わった。それを繰り返し、何本か溜まったところでおにぎりを作るようにぎゅっと丸めると、テニスボール大の球ができる。  ドラキュリナは目を疑った。「もしかしてそのでかい玉、素手で作ったの?」 「そうですが?」  ドラキュリナは手近なペットボトルを一本とって、両手で力いっぱいねじり上げてみた。できたのはただの少しへしゃげたペットボトルで、ドラキュリナはそれを放り捨てた。 「ここが終わったら、私の部屋のもやってよ」 「ええ、いいですよ」エタニティは手を動かし続け、ボールは着々と大きくなっていく。すでにバレーボールくらいはある。  よく見れば室内はペットボトル以外にも大量の何だかわからない機材で埋め尽くされ、そのうちのいくつかはブンブンと低い駆動音を立てている。何をするものなのかドラキュリナにはさっぱりわからない。機械のひとつがボン、と青い煙を吐き出し、金属質の臭気がただよってきた。元から充満していた臭いとまざって、えもいわれぬ悪臭にドラキュリナは鼻をおさえる。 「ねえ、この臭い何とかならないの? 体に悪そうなんだけど」 「ガスマスクがあるので平気です」アザズはマスクを指さす。 「私が平気じゃないわよ。まわりにも迷惑でしょうが」 「空気清浄機を使います」 「なんだ、そんなものがあるの? どこ?」 「実験が終わったらドアを開ける前に作るつもりだったのですが、ドラキュリナさんが開けてしまったので」 「私のせいにすんな! ていうかまだないんじゃないの! ずっと外に出ないつもりだったわけ?」ペットボトルを蹴散らして立ち上がったドラキュリナは、ひとつ深呼吸をしようとして派手に咳き込む。「ああ、もう! いいわアザズ、荷物まとめてここを出る準備しなさい」 「実験の途中です。できません」 「外になんか建ててあげるから、そっちへ引っ越しなさいって言ってるの。箱舟は気密がきいてるんだから、こんな臭い出しちゃ駄目よ。建築法規ってものを知らないの?」 「まあ。助かります。研究が成功したら、ドラキュリナさんのも作ってあげますね」 「いらないわよ、そんな何だかわからないもの」ゴミの山を乱暴にどかして、再度建築士の目でもって室内を見回す。「つくりはこの部屋と一緒でいいわね? あのへんに排気口と、ガス処理スペースも作らないとね」 「せっかくなら、電源を増強して下さい。ドラフトチャンバーも一回り大きくして、天井を高く」 「注文が多い!」 「耐爆性能も」 「注文が多いっての!」  怒鳴り返しながら、ドラキュリナは頭の中で部屋の寸法と、必要な部材の見積もりをはじめていた。休日が丸ごとつぶれたことに彼女が気づいたのは、夕方になって配線工事まで終えたあとのことだった。 CASE:3 ドクター 「アザズお姉ちゃんいる!?」  つい先日建ったばかりのアザズ用ラボへドクターが駆け込むと、アザズは作業机にうずくまり、何やら小さな金属の塊をいじくり回していた。 「なんでしょう」 「これ! この研究なんだけど!」  ドクターは手にしたタブレットをアザズに突きつけた。オルカのイントラネット内にあるアカデミックフォーラムにアザズが投稿した、一本の記事が表示されている。アザズは大きなゴーグルを額にはね上げ、にっこり笑った。 「ああ、それですか。自分でもよくできたと思うんです」  アカデミックフォーラムはイントラネットの中でも比較的新しくできた、名前の通り学術的な話題専用のチャンネルである、ドクターをはじめフォーチュンやスカディー、エラにムネモシュネなど、高度な専門知識を有するモデルの隊員がオルカだけでなく外部拠点にも増えてきたため、交流の場として開設された。  利用する隊員は限られているが、他愛のない雑談から実際的な技術論、時には旧時代の学会誌に載ってもおかしくないような本格的な研究報告までが投稿される、活発で中身の濃いコミュニティだ。学術系バイオロイドの筆頭格といえるオルカのドクターも、毎日のようにのぞいては同型機と意見交換をしたり、異分野の隊員の議論を眺めたりして大いに知的刺激を受けている。  つい先週、アザズがそのフォーラムの化学工学チャンネルに、ひとつの研究報告を投稿した。題名は「ポリスチレンの新規合成経路、およびほか数種の合成樹脂についての雑感」。 「イリジウム触媒を使ってCひとつとカルボキシル基をいっぺんに引き抜くところ、エレガントだと思いませんか? 『アザズ法』と名付けてもいいかなって思っているんですよ」 「そっちもだけど、それよりもこれ! こっち!」ドクターは画面をスワイプして記事の最後のほうを拡大する。本題である研究成果のあとに、「副産物としてこのような合成経路もありうることがわかった」と、おまけのように小さく図が書き添えてある。「ポリプロピレンの結晶分解と脱ブチル! これ何なの!?」 「そちらはあまりうまくいかなくて」アザズは露骨に興味を失った顔をする。「手間も時間もかかるし、ちょっと温度をしくじるとすぐオクタンが混じってしまうし」 「混じってしまうしじゃないよー! これ根岸-エキモフ回路の上位互換じゃん! 世界中の廃プラスチックからガソリンが作れちゃうかもしれないんだよ!」 「なるほど、そういう見方もありますね」アザズはそっけなく頷いた。「でも私が作りたいのは高純度ポリスチレンなので」 「いやだから……まあそっちだってすごいけどさあ!」じれったそうにドクターは足を踏みならす。「だいたいなんでポリスチレンに限って……」  と、ドクターはアザズの手もと、卓上にある小さな塊に目を留めた。 「それは何やってるの?」 「銅マスターを仕上げています」 「銅マスター? それ何だっけ…………ははあ。ふーん。そういうことかあ」  作業机の上のものをひととおり眺めわたしたドクターは、彼女が何のためにあの研究をし、何をしようとしているのかをおおむね理解した。小さな肩を大きくすくめて、ため息をついてみせる。 「わかったよ。じゃあ、こっちの経路は私が続き進めていいよね? 実験データくれないかな」 「いいですよ。そこのノートPCで私の個人サーバに入ってください。先週のどこかに記録があると思います」 「前から思ってるけどお姉ちゃん、セキュリティにもう少し気を遣った方がいいよ」 「オルカの外では気を遣っていますよ」 「いいけどさ~」  ドクターは必要なデータを選んで自分のストレージにコピーすると、「じゃ、頑張ってね。あとどれくらいで完成するの?」 「試作も含めて、二週間ほどでしょうか。でも、内緒でお願いしますね」 「はーい」  そそくさと手を振って、早足にラボを出る。向こう何ヶ月か熱中できそうな研究のネタを手に入れたのだ。その足取りは弾んでいた。  それゆえに彼女は気づかなかったが、ちょうどその時ラボの建物の反対側には一人のブラウニーがいた。ちょろまかしたカップトッポギを人目に付かないところで食べようと思っていたそのブラウニーは二人の会話の一部始終を聞いてしまったが、最初から最後まで何一つ理解できなかったため、わかったのはただ「二週間後に何かが起きるらしい」ということだけだった。ブラウニーは別にブラウニーにそのことを話し、聞いたブラウニーはまた別のブラウニーに伝えた。その過程で当然のように、話は膨らんでいった。 CASE:4 司令官  最近アザズの様子がおかしいらしい。  まあ彼女の様子はだいたいいつでもおかしいのだが、ランパートにドラキュリナにドクターにブラウニーと、立て続けに四件も同じ報告を受けると、ちょっと様子を見ておこうかなという気にもなる。  ドラキュリナが最近建ててあげたというアザズ用のラボは箱舟とアクアランドから少し離れた所にぽつんと建っていた。プレハブ風の簡素な建物だが、壁にコンクリート板のようなものがいっぱい貼ってあるのは防爆用だろうか。時々悪臭がすると聞いていたが、今日はそんなこともなく、ノックをするとすぐにドアが開いた。 「司令官、ちょうどいいタイミングです。呼びに行こうと思っていたところでした」  にこにことアザズが迎え入れてくれた部屋の中央には、直方体の大きな機械が据えてあって、ゴンゴンとポンプのような音が響いている。 「今、最後のランナーが仕上がるところです」 「ランナー?」 「ほら」  アザズが指さした機械のいっぽうの端では、分厚い二枚の金属板がぴったりくっついて押し合っているように見えた。見ているうちに蒸気を噴いてその二枚が離れ、間に挟まっていたものがカシャンと軽い音を立ててすべり落ちてくる。平たくて複雑な形のそれを、アザズが拾って差し出してくれたのを見ると、 「……プラモデル!?」 「はい」  四角い枠にたくさんの小さなパーツがくっついたそれは、どう見てもプラモデルのランナーだ。旧時代の廃墟で見つかったものを年少組やトモがよく作っているし、俺もゴルタリオンと一緒に組み立てたことがあるから知っている。  よく見ると、見知った形のスネらしきパーツがある。それにこの薄いグレーの色合いは……。 「ランパートか、これ」 「そうです」アザズが、すでにできていたらしい他のランナーを箱から出して見せてくれた。明るいブルーに内部フレームの黒、細い黄色のラインまで、きちんとパーツで色分けされている。コミュニケーターヘッド用のクリアパーツ、そしてランパリオン用の外装まであった。 「作ったのか、これ?」 「市販のキットは素材も経年劣化していますし、満足できる造形のものがなくて。旧キットに手を加えるのも楽しいものですが、司令官と作るなら、作りやすい素性のいいものが欲しかったんです」  それを聞いて思い出した。確かに以前、ランパリオンの模型を一緒に作ろうと誘われて約束したのだ。いずれどこかで旧時代のプラモデルが見つかったらという話だと思っていたが、まさかプラモデルそのものを自作するとは……。 「……うん? じゃあひょっとして、ランパートのボディを調べたっていうのは」 「構造を詳しく知るためです。設計図は見ましたが、やはり各部の連動などは実物が動いているところを見るのが一番ですので」 「ペットボトルを集めてたのは」 「高品質なポリスチレン素材が必要だったのですけど、原油をそんなことに消費してはいけないと言われたので、廃材から作ってみようと思い立ちまして」 「ポリスチレン合成に熱中してイソオクタン合成をほったらかしてるっていう、正直意味がわからなかったドクターの愚痴も」 「我ながらいい合成経路を組めたと思います。材料は空きペットボトルからいくらでも作れますから、量産もできますよ」 「もうじき地球破壊爆弾が完成するっていうのは」 「なんですか、それ?」  すべてが一つにつながっていく。 「全部、これのため……?」 「はい」  俺の顔をまっすぐに見て、嬉しそうにアザズは頷いた。  あのマイペースでお騒がせなアザズが、俺とプラモデルを作るという、たったそれだけの約束のために、これほどのことを……。原料のプラスチックを作るところからはじめて、設計図を引き、射出成形機を作り上げることまで。どれだけアザズが天才だとしても、簡単だったはずはない。部屋のすみに積み上げられた失敗作らしきプラの山が、それを物語っている。  嬉しいやら、申し訳ないやら、可愛いやら、呆れるやらで、俺はなんだかもう何も言えなくなって、アザズの手をとった。細くきれいなアザズの指は、切り傷や薬品ですっかり荒れてしまっていた。 「一緒に作ろう、アザズ。俺は素人だから、色々教えてほしいな」 「よろこんで。初心者でも組みやすいように設計してありますが、手を入れる余地も色々あります」  アザズが笑顔で卓上にずらりと並べたツールの数々に俺は少しだけひるんだが、すぐにコンスタンツァに連絡して夜までの予定をキャンセルしてもらった。  それからアザズと一緒に、世界でただ一つのプラモデルを組み立てる楽しさに心ゆくまで浸ったのだった。  「1/10スケールCT66ランパート 鋼の守護者合体セット」は、その精密な造形、組み立てやすく遊びやすいパーツ構成、塗装しなくてもほぼ実物通りのカラーが再現できる色分け、そして何より人類滅亡以来初めての新作プラモデルであることにより、たちまちのうちに世界中の抵抗軍拠点で大ヒットとなった。 「次はドラキュリナさんを作ります。約束しましたので」 とのことで、数週間後に第二弾「1/8ドラキュリナ」が発売され、こちらも素晴らしい出来で大ヒット。自分の美プラが世界中で引っ張りだこになっていることに、ドラキュリナもご満悦だったのだが、 「くらえ、正義のランパリオンパンチ!」 「やられたー!」  結果として「悪い魔女ドラキュリナをランパリオンがやっつける」というごっこ遊びがあちこちで生まれることになってしまった。ドラキュリナは涙目でキレ散らかしながら俺に訴えてきたが、子供たちの自由な遊びを邪魔する権利は誰にもなく、俺にできるのは第三弾を早く出してくれるよう、アザズに催促することくらいだった。 End =====  フランス東部、オート=サヴォワ県。イタリアとの国境をなすアルプス山脈の西端ちかくに、エギーユ・デュ・ミディ(正午の針)と呼ばれる高峰がある。  標高3777メートル。まさしく日時計の針のように天へするどく突き出された凍てつく岩の頂には展望台があり、旧時代には観光地として有名だったという。 「あまり、展望台らしくは見えんな?」 「下の方はロープウェイの駅だった部分です。それに、増築されている部分も多いようで」  レッドフード2006は直立不動のまま、鉄血のレオナの問いかけとも呟きともつかない言葉に答えた。  彼女の言うとおり、かつての展望台は今や無数の回廊と見張り塔によって拡張され、下方にある駅舎と接続されて、もとの姿をとどめていない。数キロも離れた山裾から雪ごしに見上げるそれは、とがった山の頂にへばりつく、ひとつながりの長く異様なバラックのごときものに見えた。 「狙撃に向いたスポットがいくつも作られています。いかにも『私』好みですね」  ヴァルキリー大佐がこちらは裸眼のまま、雪の向こうを睨んで白い息を吐く。 「あそこに、どれくらいいるんですか?」手に息を吐きかけながら、アルヴィス一等兵が訊ねる。 「確認できたかぎりでサンドガール型14機、アルヴィス型8機、カリアフ・ベラ型5機。グレムリン、ニンフ型多数。ヴァルキリー型については視認できたのは1機だけですが、狙撃の状況からみて複数いるのは間違いありません」 「中隊規模だあ! すごい!」 「私の同型機が大勢いるなら、間違いなく地下も掘って要塞化してますね。面白くなってきたぞう」グレムリン軍曹が楽しげに雪の上に座り込んで、タブレットに何やら打ち込みはじめる。 「音響解析でも、地下に大きな構造物があると推定されています。それから……」レッドフードはレオナの方をちらりと見て、咳払いをしてから続けた。 「これはまだ推測にすぎませんが、おそらく指揮官としてレオナ型がいる可能性が高いと」 「ほう」  鉄血のレオナの、紫がかった灰色の瞳がわずかに細められた。  欧州解放作戦がはじまった。  これまで入念に戦力をたくわえ下準備を進めてきたこと、レモネードデルタが主として後退戦術をとったこと、そして何より士気と練度の圧倒的な差によって、オルカ軍は各地で破竹の進撃を続けている。  しかし戦争である以上、勝ってばかりというわけにはいかない。時には手痛い反撃を受けることもある。レッドフード2006の率いる大隊は、エギーユ・デュ・ミディの山塞に陣取るシスターズ・オブ・ヴァルハラ部隊の精密かつ無慈悲な迎撃により、すでに三日も足止めを受けていた。  あの高峰のすぐ下にはアルプス山脈を貫く大モンブラン・トンネルがあり、ここを通らなければイタリア側へ兵を進めることができない。物量で劣るオルカは重要拠点だけを狙った電撃侵攻作戦に頼らざるをえず、ここで進軍が停滞すれば全軍の総崩れにつながりかねない。  それだけでなく、あの山塞はテイラー・リストカットの情報にあった、デルタが拠点としている可能性のある施設のひとつでもある。開戦後に得られた情報により、今現在あの場所にデルタがいないのはほぼ間違いないが、例えば今後デルタが敗走した場合、あそこに逃げ込む可能性は大いにある。それだけの場所だからこそ、デルタもマリオネットではなく、バイオロイドの部隊をわざわざ置いて守らせているのだ。確実に制圧しておかなくてはならない。 「ヴァルハラ一個中隊、レオナ隊長付きかあ。そんなのどこに残ってたんでしょう。全滅しましたよね、私たち?」 「箱舟から持ち去られた種で復元したのかもしれん。あるいは、デルタがずっと秘蔵していたのかもな。ナースホルンのように」  ニンフ兵長の問いかけに、レオナがうすく笑った。「地形といい、気候といい、私達のために用意したような砦だ。スチールラインの手に負えないのも無理はないな、大佐」 「……正直、物量で押し切って構わないのであれば、できないことはないのですが」  レッドフードはやや不満げに言い返した。味方のみならず敵にも極力死傷者を出さない、という司令官の方針は素晴らしいと思うが、時としてやや歯がゆく感じることもある。 「わかっています。私達を呼んで下さって、感謝しています」ヴァルキリーがなだめるように笑った。 「説得は試みたんですよね?」とサンドガール大尉。 「無論です。プロパガンダ映像の大画面上映に空からのビラ散布、直接交渉の打診もしましたが、いずれも一切反応がなく」 「レオナ隊長が、そこまでレモネードデルタに忠誠を尽くすとも思えませんけど……人質でも取られたかな」カリアフ・ベラ兵長が首をかしげる。ヴァルキリーが肩をすくめた。 「あるいは、もう姉妹以外誰も信じない、と決め込んでしまったのかもしれません。昔はよくそういう気分になることがありましたね、私達」 「余計なことは言わなくていい。相手が誰だろうと、思惑が何だろうと、私達のやることは変わらない。制圧し、無力化する」  レオナが手を振ると、傍らに浮いていたコマンドフレームが展開をはじめる。他の六人がぴたりと黙り、空気が張り詰めた。 (やはり、貫禄が違う、と感じてしまうな……)  シスターズ・オブ・ヴァルハラとの共同作戦は何度も経験しているし、レオナ型を見るのも初めてではない。しかしレッドフード2006は彼女達のたたずまいに、羨望まじりの感嘆を覚えずにいられなかった。  今の人類抵抗軍には複数のレオナモデルがいるが、「鉄血」の二つ名を名乗れるのは目の前のただ一人だけだ。彼女こそはオルカのレオナ。あのマリー4号やラビアタ・プロトタイプと共に司令官を支え、彼のそばで数々の作戦を成功させてきた、最初のレオナである。  他の六人もみなオルカに常駐しているか、常駐シフトに組み込まれている、いわばそれぞれのモデルを代表する最精鋭の個体だ。装備も練度も極限まで磨き上げられ、何人かは体内のオリジンダストを入れ替える昇級処置を受けているという。エギーユ・デュ・ミディを突破できないまま丸二日が過ぎ、懲罰も覚悟してヴァルハラに支援を要請した2006のもとに派遣されてきたのが、彼女達七人のヴァルハラだった。 「レッドフード大佐」雪の向こうを睨んだままレオナが言った。 「はっ」 「この一帯に、他にも攻略目標があるのだったな?」 「はい。恥ずかしながらここに戦力を集中して、停滞してしまっておりますが」 「では、周辺警戒と事後処理用に、二個小隊をここへ残してほしい。他はこれまで通り大佐が指揮して、他の攻略を」 「二個小隊だけですか?」  思わず問い返してしまったレッドフードに、レオナは振り向いて冷たく微笑む。 「呼ばれただけの仕事はしてみせなくてはな」  レッドフードが立ち去ってからも鉄血のレオナはそびえ立つ高峰を睨んだまま、雪の中にじっと立っていた。  コマンドフレームに添えられた右手の人差し指が、小さな文字を書くようにかすかに動き続けている。頭の中で無数の作戦を組み立てては試し、それぞれの可能性を検討しているのだと、サンドガール1842にはわかっていた。隊長のこういう姿を見るのは初めてではない。  スチールラインの手前強気なことを言ったのだろうが、じっさい雪山の城砦、それも籠城戦ときては、ヴァルハラにとってはこれ以上ないくらいに得意のフィールドだ。しかも人数はこちらの十倍近く、それをできるだけ殺さずに制圧しなくてはならないとなれば、いかにこちらが百戦錬磨といってもそう簡単な話ではない。  むろん相手がバイオロイドなのだから、司令官を呼んでくれば一発で解決するだろうが、それは最後の手段だ。戦線を任された軍人としては恥である。それがわかっているから、レッドフード大佐もまず自分たちに頭を下げたのだ。  やがてレオナの指の動きが止まり、コマンドフレームからゆっくり手が離れた。考えがまとまりつつあるのだ。タイミングを逃さず、サンドガールは一歩前へ進み出た。 「私に行かせて下さい。それがベストだと思います」  振り返ったレオナの目に驚きの色はない。おそらく彼女の想定した選択肢の中に、自分も入っていたのだろう。 「少々きつい作戦になるぞ」 「わかっています」サンドガールは腰の後ろに接続された、真新しく輝く飛行モジュールを叩いてみせた。「もらったばかりのこれも、実戦で試したいですし」 「よかろう」レオナは微笑んだ。「ヴァルキリーは?」 「先に出発しました。狙撃位置を確保しておくといって」 「あいつめ、手回しのいい」レオナはもういちど笑って、肩に積もっていた雪をさっと払うと、コマンドフレームに手をあてた。六人の携帯端末に、いっせいに作戦指令が送信される。 「この雪がやまないうちに片を付ける。ゆこう、姉妹たち」 「「「はっ!」」」  単独で接近するサンドガール1842を最初に発見したのは、敵のサンドガールからなる哨戒隊だった。  シスターズ・オブ・ヴァルハラの戦術において、サンドガールを単機で飛ばすなどということは普通しないが、敢えてやるとすれば目的は二通り。囮か、狙撃兵の位置を知るための捨て駒かだ。  ゆえに、どこかに潜んでいるであろう敵のヴァルキリーがこの段階で動くことはない。四機いる哨戒隊も半数は周囲を警戒し、こちらを迎え撃ちにくるのは二機のみ。想定通りだ。1842はエンジンの出力を上げ、二機のうちの片方にまっすぐ突っ込む。 「ふっ……!」  予想外の加速に戸惑った相手が回避行動をとるより早く体当たりをかけ、その勢いのままくるりと身体を回して背中に組みつく。腰のコネクタの裏側にある非常用スイッチをナイフの刃でこじると、アラームとともに敵サンドガールの飛行ユニットがパージされた。 「なっ!?」  驚愕に目を丸くしている自分と同じ顔を、氷壁の方へ向かって思いきり蹴りとばす。ヴァルハラの隊員なら、雪山でこの程度の高さから落下しても死にはしない。  今回の侵攻作戦ではバイオロイドを相手取る場合にそなえ、全兵がテイザー弾を携行しているが、飛行中の機動型ユニットは下手に身体の自由を奪うと墜落やエンジンの爆発で死ぬ危険がある。そのために編み出されたのがこの対機動型CQCだ。もう一人のサンドガールも蹴り落とすと、1842はさらに加速をかけた。  哨戒隊の残りの二機が慌てて何ごとか通信しているが、もう遅い。一秒もかからず砦に肉薄し、手近な見張り塔を一基、機関砲でなぎ払うと、氷壁にへばりつく回廊のひとつへ壁を破って躍り込む。  たちまち迎撃の火線が体をかすめる。すでにニンフ型が二人、迎撃位置にスタンバイしていた。この反応の早さは流石のヴァルハラだ。床を転がって回避しつつ、機関砲を手当たり次第に乱射し、床と壁を穴だらけにしてから空中へ飛び出す。  外へ出たら出たで、また迎撃の弾幕が飛んでくる。回避機動でかわし、見張り塔を攻撃し、別の回廊へ飛び込んで、また飛び出す。また飛び込んでは、飛び出す。何発か手足をかすめ、服を焦がし、肉を裂いていく敵弾もあるが、大したダメージはない。ヴァルハラを相手にする時一番に警戒すべきなのは言うまでもなくヴァルキリーの狙撃だ。一瞬たりとも静止してはいけない。 「――敵はサンドガール型一機――」 「――を警戒――」  飛びかすめるうち耳に飛び込んでくる、敵の姉妹たちの会話も逐一拾って隊長へ送る。この段階での目的は二つ。敵戦力と砦の構造の詳細をつかむこと。そして塔や回廊をどんどん破壊し、敵が自由に動き回れないようにすることだ。そうすれば迎撃の精度がにぶり、したがって味方の援護も通りやすくなる。  こちらへ向けてマシンガンを乱射していたニンフ型が、悲鳴を上げて銃を取り落とした。  見張り塔が一本、グレネード弾で破壊される。砲助が三機、蜘蛛のように氷壁にへばりついて、ちょろちょろと動き回りながら回廊の支柱を攻撃している。  視界の外にある岩陰からヴァルキリー型が一人、身を乗り出したと思ったらぐったりと倒れた。 「!」  こちらへ集中していた殺意の圧力が、ふっと緩む。同じモデルの部隊だけに、こういうところは肌感覚で感じ取れる。斜面下方に首尾よく接近しおおせた、こちらの本隊に意識が割かれたのだ。 「陣形を……!」  サンドガールを一機捨て駒にしてさんざん引っかき回したあと、いよいよ本隊の攻撃が来る……きっとそう思ったに違いない。  そこが付け目だ。 〈サンドガール、展望台から南南西の方向、奥にある塔が見えるか〉レオナからの通信に、額の血をぬぐって周囲を見回す。 「低くて、鉄骨が三本飛び出ているやつですか」 〈それだ。そこに指揮官がいる。私ならそこから指揮をとる〉 「了解」  急旋回して角度を変え、エンジンの回転を一杯まで上げる。アルヴィス型が一人、こちらの意図に気づいたらしく飛び込んでくるが、もう遅い。カリアフ・ベラ型がライフルを構えるが、下からの弾幕に慌てて引っ込む。ヴァルキリー型のものらしき火線が脚のあたりをかすめるが届かない。このスリッドルクタニ推進システムは、昇級処置を受けて反応速度の上がった自分のために、フォーチュンとアザズが設計してくれた一点ものだ。サンドガールがこんな速度で飛べることなど、誰も知らない。自分だって知らなかった。  自走ターレットが何台も集結して壁を作っている。最終防衛線らしい。機関砲で一斉射したあと、蹴り飛ばして突破する。ヴァルハラを相手にする時二番目に警戒すべきはグレムリンの奇想天外な新兵器なのだが、ここのグレムリンはあまり自由に創造性を発揮させてもらえなかったようだ。デルタの下では無理もないか。 「あのサンドガール止めて!」 「何なの!? 本隊どこ!?」 「隊長!!」  ニンフやグレムリン達の叫びが耳に飛び込んでくる。彼女たちの焦りが、戸惑いが手に取るようにわかる。同じヴァルハラの姉妹でありながら、いや姉妹であるからこそ、彼女たちにはわからない。想像できない。  目の前のサンドガールが囮でも、捨て駒でもなく、仲間の援護を信じて斬り込む正真正銘の「ストライカー」なのだということが。  壁を機関砲で破壊し、見張り塔の内部へ飛び込んだ瞬間、狙いすました精確な射撃が右肩を貫き、拳銃を取り落とした。とっさに床に身を投げて転がり、残りの弾を背中の飛行ユニットで受ける。スリッドルクタニは頑丈だ。回転しながら翼の機関砲を取り外し、起き上がって構えたその銃口の先に彼女がいた。  疲労と焦燥にやつれた顔で、コマンドフレームにすがるように立って、それでもこちらの額にぴたりと向けた拳銃は微動だにしない。紫がかった灰色の瞳が、まっすぐこちらを見据えている。サンドガールのよく知る目、何度となく見た眼差しだ。絶望にあっても光へ手を伸ばす、吹雪の中の獅子の目だ。 「ゲームセットです。降伏を」 「…………」  外の銃声が遠く聞こえる。数分とたたず、敵の増援が駆けつけてくるだろう。テイザー弾の入った拳銃はさっき落としてしまった。こちらに撃つ気がないのを悟られてはまずい。 「降伏を」 「この場所を明け渡すことはできない」 「どうして」 「…………」 「デルタのためですか」 「あの女の? ハッ」 「では、何のため? 何があるんですか、ここに」 「お前達には価値のないものだ」 「でも、貴女たちにとっては価値があるもの?」サンドガールは慎重に視線を動かして、室内を見回す。薄汚れたテーブルには民生品のコンピュータ類が所狭しと並び、破損したコマンドフレームにケーブルでつながれていた。 「ここはデルタの拠点になりうる施設なんでしたね。何かの記録……あるいは、設備」 「サンドガールは、こんなに詮索好きの性格だったかな」 「最近いろいろなことに興味をもつようになりまして」 「それもご自慢のオルカのおかげだとでも?」 「そうだったら、どうします?」 「…………」 「アンガー・オブ・ホードの“迅速のカーン”を知っていますか?」  レオナが怪訝な顔をした。「カーンを知らないレオナなどいるものか」 「オルカにもカーン隊長がいます。どんな戦場でも一番危険な場所へ真っ先に飛び込み、かならず生還する。私の憧れです」  サンドガールは悪戯っぽく微笑んだ。 「今日は、あの方の戦い方を真似てみました。似ていましたか?」  レオナは目を丸く見開いて、サンドガールを見つめた。しばらくそのまま動かなかったが、やがて笑いとも、呆れとも、虚脱ともつかない顔になって、しずかに銃を下ろした。 「……もういい。私の負けだ。姉妹達、銃を捨てろ。降伏する」  コマンドフレームに向かって告げると、そのまますがるようにパイプ椅子へ腰を落とす。うつむいたままの白金の髪ごしに、しぼりだすような声がもれた。 「地下に負傷者がいる……アンドバリが一人に、アルヴィスが二人。重傷だ。デルタの持ち込んだ専用医療ポッドのおかげで延命できているが、ここから動かせない」  なるほど、そういうことだったのか。サンドガールは鎖骨の通信機を叩いた。 「制圧完了。医療班と技術班を大至急でお願いします」  救急搬送用と捕虜護送用の二機のヘリが、鉛色の空へ上昇していくのを見送ってから、レッドフード2006はもういちど向き直り、鉄血のレオナに頭を下げた。 「感服いたしました。我々が三日間手こずったあの砦を、わずか半日で」 「相性の問題ですよ」  ポットから熱いコーヒーを注ぎながら、ヴァルキリー大佐が謙虚に言った。レオナがカップを受け取って満足げに一口かたむける。 「今回はサンドガールの殊勲だ。賞賛の言葉は、彼女にかけてやってくれ」  レオナのうしろではカリアフ・ベラ伍長が、ストーブで手をあぶりながら熱心にネイルを直している。ニンフ兵長は持参のココアに砂糖をたっぷり入れて練っている。グレムリン軍曹は破壊された敵の自走ターレットを隅に積み上げて、何かブツブツ言いながら作業をしている。指揮所の天幕の中は、作戦を終えて思い思いにくつろぐヴァルハラの隊員で満杯だ。これがスチールラインの兵士だったら一括するところだが、他部隊のやり方に口を出さないのがオルカの方針ではあるし、なにしろあんな戦果を見せられては文句も言えない。アルヴィス一等兵がチョコバーをそこらじゅうへ配って歩いており、レッドフードも一本もらった。 「皆が援護してくれたからです。私の手柄ってわけじゃないですよ」  負傷した肩をギプスで固めたサンドガール1842は、左手でコーヒーを受け取るとぎごちなく、だが美味そうにすすった。 「あまり謙遜するな。褒賞も出さねばな」 「本当にお見事でした。あちらの隊長機が、去り際に言っていましたよ。『サンドガールにああまで言わせるとは、オルカとはよくよく特別なところに違いない』……何を言ったのですか?」 「秘密です」 「大方、カーンのことだろう」レオナが愉快そうに言った。 「隊長!」サンドガールが頬を赤らめる。 「カーンとは、ホードのカーン隊長ですか。あの方が何か?」 「何でもありません!」  不機嫌そうに遮られてしまったので、レッドフードは仕方なく話題を変える。「ヴァルハラの皆さんの連携の見事さにも感銘を受けました。姉妹の絆とは、ああいったものですか。我々の訓練にも取り入れられる所があるといいのですが」 「向き不向きがありますから、どうですかね」  しかめ面のまま答えたサンドガールが、ふと眉を上げる。 「そうだ隊長。褒賞と仰いましたよね? ひとつ思いつきました」 「なんだ? 何でも言うがいい」  サンドガールはニヤリと笑い、「隊長がお持ちの寝室特別優先券を一枚、譲って下さい」  とたんに、レオナが唇をきゅっと引きむすんだ。 「……少し考えさせろ」 「何でもと言ったじゃないですか」ニヤニヤしながらサンドガールが言いつのる。 「それとこれとは話が別だ」  ヴァルキリーも面白そうに身を乗り出す。「隊長、指揮官が二言を弄するべきではないかと」 「そんなに言うならお前のを譲ってやったらいいだろう」 「それとこれとは話が別です」  たちまち言い合いを始めた二人の上官を一瞥して、サンドガールはレッドフードの方へ肩をすくめてみせた。 「ほらね。姉妹の絆なんて、脆いものですよ」  何と答えていいかわからず、レッドフードはチョコバーを一口かじった。おそろしく甘かった。 End =====  にんじん、大根、こんにゃくを食べやすい長さで細切りにする。九条ねぎと小松菜は乱切りに。  鍋に水と干し椎茸を入れて火にかけ、沸騰してから具材を投入。煮立ってきたら火を弱め、アクを取る。蓋をして10分ほど煮たら醤油、日本酒、そしてチキンコンソメで調味する。  れんこんの皮を剥いてすり下ろし、温めたカマンベールチーズとそば粉を加えてよく練る。一口大の大きさにちぎって丸め、鍋に落とし入れる。そのまま弱火で5~6分ほど煮てから器によそい、三ツ葉を散らす。 「できた、チーズれんこんすいとん! …………って、ちがーーーう!!」  記憶の箱舟、生態保存区域。正式オープンをあと一週間に控えたカフェ・ホライゾンの、誰もいない深夜の厨房で、ウンディーネ107は一人もだえていた。 「あーもう、私のバカ……200種類って何よ、なんでそんな数言っちゃったのよ~……絶対無理だって~……」  だんだんだん、と意味もなく流し台を叩く。当たらないとやってられないのだ。カフェ・ホライゾンのパティシエ兼チーフコックである彼女は、先日のオープン予行演習の際、 「200種類ものメニューを用意した」 と、誇らしげに皆へ宣言した。  が、レシピを200種類などというのは、本職の料理人でもそう簡単には身につかない数である。軍務の余暇に多少特訓を重ねたくらいでどうにかなるものではない。  実際、今日までに完成したメニューは40たらず。箱舟のライブラリから引き出してきた大量の料理本を大慌てで読み込み、連日キッチンを試作品だらけにしているものの、あと一週間ではとうてい目標数に届く見込みがない。 「やっぱり今からでも、みんなに謝って……いやダメよ、ダメだわ」  見栄っ張りなのは自分の欠点だと自覚はある。しかし、その見栄を張りとおしてきたからこその自分でもあるのだ。萎えそうな気力を奮い起こし、サラシアに教わった魔法の言葉をとなえる。 「……簡単にはいかないものよね。そう、そうなのよ」 「何が簡単じゃないの?」 「きゃーっ!?」 「わ、すっごいチーズの香り」  驚きのあまりちょっと浮いたウンディーネの脇をひょいと抜けて、すたすた厨房に入ってきたのはゴールデン・ワーカーズのトリアイナだ。「ご馳走がいっぱい! これ食べていいやつ?」 「おどかさないでよ! あなた、なんでこんなとこにいるの?」 「帰ってきたら、オルカのキッチンもう閉まっちゃってるんだもの。こっちに来たら何かあるかなって」 「こんな時間まで何してたのよ」 「仕事よ!」トリアイナは頬をふくらませる。「沿岸部の海底地形図作り。大変なんだから」 「ああ……」そういえばそんな作業が進行中であると、拠点化作業計画表で読んだような気がする。よく見ればシャワーを浴びたばかりなのだろう、青い髪もまだ乾いていない。 「で、これ食べていい?」 「いいわよ」ウンディーネは肩をすくめた。「せっかくだから、感想聞かせて」 「わーい」  闖入者が彼女だったことに、ウンディーネは内心すこし安堵していた。トリアイナとはリオボロスの島やカゴシマで一緒に行動したことがあり、それなりに気心が知れている。実のところ彼女に、そういう相手はほとんどいないのだ。  ウンディーネだけではなく、ホライゾン隊員は概して隊外に知り合いが少ない。艦隊勤務が多く、他の部隊やオルカの仲間と顔を合わせる機会が少ないうえ、人格もそうした環境に最適化されているため仲間内だけで固まってしまいやすいからだ。古参の107はまだましな方で、龍と一緒に長年眠っていた連合艦隊には、生まれてからホライゾン以外のバイオロイドと会話したことさえないというウンディーネやセイレーンがまだまだいる。  箱舟にカフェを開こうという、いささか唐突な今回の計画も、実はそうした状況を打開しもっと交流を増やしたいという、ホライゾン隊員たちの切なる願いが背景にあるのである。 「うーん、おいしい! これ全部ひとりで作ったの? すごいじゃない!」 「まあね」満面の笑顔でチーズパスタを頬張るトリアイナに、ウンディーネはいくらかほろ苦い笑顔になって肩をすくめる。 「でも、ちょっと想像してみてほしいんだけど。ここにあるメニューしかないカフェがあったら、どう思う?」  トリアイナは続いてチーズ肉まんを頬張りながら、テーブルを埋めつくす試作品の数々を見渡して少し考える。 「……カフェっていうより、チーズ料理専門店?」 「やっぱりそうよね……」がっくりとウンディーネは肩を落とした。  メニュー数の問題だけでなく、巨大な障害がもう一つある。こちらの方がより深刻かもしれない。ウンディーネはどういうわけか、チーズ料理しか作れないのだ。  確かにチーズは大好物だが、チーズ料理しか食べないなどということは決してない。しかし作る方になると、何を作るにもチーズを入れないと我慢ができない。そうでない料理を作ろうとしても、 「卵黄を塗ってから、パウダーシュガーを振る……じゃあ、ここに粉チーズを……」 「鶏挽肉をコチュジャンと和えて、生地に練り込む……でも、ピザ用チーズフレークも入れて……」  ほとんど無意識のうちにアレンジを加えてしまう。何しろチーズがないと作りながらなんとなく不安になる。できあがりの味の想像がつかない。それがチーズを入れると、とたんに味の見通しが立つようになる。食べたことも作ったこともない料理でも、どんな風に味をまとめればいいか、自然に見えてくるのだ。  己に鞭を打ち歯を食いしばるようにして、完全チーズ抜きの料理もいくつか完成させることはできたが、お客に出すどころか自分で食べるにも忍耐がいるような代物にしかならなかった。そもそも文化的にチーズを使わない地域の料理なら大丈夫では?と、さっきは日本の伝統料理に挑戦してみたものの結果は惨敗。  以前、龍隊長に聞いたことがある。軍用など特殊な用途に専門化されたバイオロイドは、求められる身体的・知能的特性を実現するために複雑な遺伝子操作が行われた結果、副作用として予想できない才能や性格の偏りが見られることがあるそうだ。まさか自分がそれだとは、過去のウンディーネモデルの誰一人として知らなかったに違いない。 「ね、トリアイナ。あなた、顔広いわよね。友達一杯いるよね? バトルメイドの人たちとかとも遊んでたもんね?」 「ほえ?」クアトロフォルマッジ・ピザを詰め込みながらトリアイナは目を丸くする。「急に褒めるじゃん。なに?」 「お願い。誰か料理が得意な人を連れてきて。困ってるの」ウンディーネはトリアイナの顔を正面から見て、頭を下げた。「一人じゃもう限界で、誰かにちゃんと教わりたい。でも、頼み事ができるような知り合いなんて他にいないのよ」 「そん……」トリアイナは何かを言いかけて、口の中のピザを飲み込み、「わかった。まかせて!」  一つ胸を叩くと、チーズチュロスを何本かひっつかんで飛び出していった。  普段はちゃらんぽらんに見えるくらい陽気だが、その実彼女はとても責任感が強い。きっと誰か、料理の専門家を連れてきてくれるだろう。それまでもうひと頑張りと、ウンディーネはキッチンを片付けて何冊目かのレシピ本を開く。 「ふむふむ、鯖のキッシュ……まず鯖を圧力鍋に入れて、その間にパイシートを」  数十分後、出来上がったチーズ鯖キッシュを前に、ウンディーネはがっくりと肩を落とした。 「味は自信あるんだけどなあ……」 「ほう?」  背後から白い手が伸びてきて、キッシュを一切れつまむ。 「ちょっと! トリアイ………」  振り返ったウンディーネは凍りついた。  切れ長の瞳に銀色の髪、チュニック丈のぴったりしたコックコートと黒いエプロン。そして腰に吊るした二振りのスージョー・ナイフ。そこにいたのはトリアイナではなく、 「……ソワンさん!?」  まぎれもなくオルカの料理長、ソワンであった。背後でトリアイナが満足げにニコニコしている。 (なっ……ちょっ……なんで!? 他にもいたでしょ!? アウローラさんとか、コンスタンツァさんとか!) (こんな時間だもの、みんな寝てるに決まってるじゃない。ソワンさんだけは明日の仕込みで起きてるかなと思ったら、案の定会えたから頼んじゃった) (そっ……それはそうだけど、確かにそうだけど……!)  視線で雄弁に会話する二人を尻目にソワンはキッシュをゆっくりと、一噛み一噛み検分するように咀嚼している。その視線が何かを考えているように左右に流れるたび、ウンディーネは喉元にカミソリが走ったような気分になる。  何しろソワンといったらオルカの厨房を支配し、司令官の口に入るもの一切をとりしきる、鬼神の料理長にして超一流の美食家。彼女が来てからオルカの平均体重が増えたとか、セラピアス・アリスを皿洗いに使っているとか、食いしん坊で知られるヴァルハラのアルヴィスが厨房にだけは絶対に盗み食いに入らないとか、恐るべき逸話には事欠かない。 「え、えっと、あのっ、これはほんの……!」 「ほんの?」  お遊びのようなもので、とつい口をつきそうになった言葉をウンディーネは飲み込んだ。  目の前のこの人に、お遊びで作ったものを味見させたなどと言ったら三枚に下ろされて明日の夕食の具にされそうな気がする。いやそれよりも、そんなのは謙虚さではなく、自信のなさを取り繕うただの予防線にすぎない。ホライゾンのウンディーネが口にしていい言葉ではない。  切れ長の眼が見つめている。ウンディーネは一つ深呼吸をして、覚悟を決めた。 「……見ての通り、私チーズ料理しか作れないんです。でも、カフェのオープンまでに200種類のメニューを揃えないといけなくて!」  そうして、ウンディーネは自分の事情を洗いざらい話した。仲間に見栄を張ってしまったこと。そのために特訓を始めたこと。自分の才能がどうしようもなく偏っているのに気づいてしまったこと……。  ソワンは一言も口をきかず、話を最後まで聞いてからしずかに訊ねた。 「それでいま、あなたは何種類くらいの料理を作れるのですか」 「えっと、40……いえ、38種類です」 「38」無造作なその声の冷たさに背筋が凍る。 「リストはありますか」 「は、はい、これです」  使い込んでボロボロになったレシピノートを渡す。ソワンはそれをぱらぱらとめくり、キッチンに並んだ料理を見渡した。 「のこり162種類。一週間でそれだけのレシピをものにしたいと?」 「無理があるのはわかってます。何か、アドバイスだけでも!」 「ふむ」  ソワンはもう一度、今度はもう少し丁寧に、レシピノートを最初から最後まで読んだ。 「アドバイス、というほどのものではありませんが……どうして、チーズパスタが一種類しかないのですか?」 「はい?」 「レシピを見る限り、これはパルミジャーノを使っていますわね。ゴルゴンゾーラを使ったらどうなります?」 「それは……」ウンディーネはゴルゴンゾーラの味を思い描き、頭の中で必死に味付けを組み立てる。「えっと、塩が強くて癖があるから、生クリームを多めにして、具材をブロッコリーかなんかに変えて……」 「マスカルポーネでは?」 「フレッシュな酸味を活かすなら、トマトソースに和えたり……」 「グリュイエール」 「コクがあるからさっぱりめに、明太子を使った和風仕立てで……」 「これで三皿できました。あと159種類ですわね」  ソワンがノートをぱたんと閉じる。 「えっ?……あっ……あああああああ!?」  雷に打たれたように、ウンディーネは硬直してあんぐりと口を開けた。  どうしてこんな単純なことに思い至らなかったのか。これまでパスタならチーズパスタ、カレーならチーズカレーと、一種類の料理につき一種類のチーズでしかレシピを考えていなかった。  違うチーズを使えば、当然違う味付けの違う料理になる。オルカに常時備蓄されているチーズだけでも十種類以上ある。今あるすべてのレシピに、チーズごとのバリエーションを作れば、あっという間に200種類が達成できるではないか。 「あ……ありがとうございます! ありがとうございますっ!」ウンディーネはバネ仕掛けのように何度も何度も頭を下げた。 「お礼を言われるほどのことはしていません。それより、どうしても無理なものは自分で作ることにはこだわらず、他から仕入れることもお考えなさい。本職の料理店でも、そういう例はあります。努力ではなく結果に責任を負うのがプロフェッショナルですわ」 「ぐっ……は、はい」 「それと」ソワンの眼差しがふと柔らかくなった。「しばらく前から、いろいろなチーズがオルカへ入ってくるようになりましたが、あなたの姉妹の手はずなのでしょう? あれは結構助かっておりますわ」 「あ……!」  確かに外洋艦隊にいる他のウンディーネモデル達に連絡して、新しい寄港地を開拓するたび土地のチーズを送ってくれるよう頼んである。単に自分の趣味でやっていることで、使い切れない分をオルカの食料庫に入れているだけだが、それがこんなところで役に立っていたのだ。 「チーズに関しては、あなたのセンスはなかなかのものです。そうですね、十年……いえ九年ほど修練を積めば、ご主人様に召し上がっていただくに値するチーズケーキを作れるかもしれませんわ」 「……!! 頑張ります!」  仕込みの続きがあるからとソワンが帰っていった後、ウンディーネはトリアイナに飛びついた。 「トリアイナ! トリアイナもありがとうね! 本当に助かった!」 「え、お、おう」がっくんがっくん揺さぶられながらもトリアイナは笑う。「まあ、私は隊長だからね! 隊長といえば親も同然、隊員といえば子も同然ってやつよ!」 「私まだあなたの隊員って扱いだったの……? まあいいわ、これからばんばん試作するから、いくらでも食べてって!」 「いや、もう寝るしそんなに入らないよ?」 「いいからいいから!」  その翌週。晴れてグランドオープンを迎えたカフェ・ホライゾンの厨房では、 「フレンチトーストセットとパンケーキ、上がったわよ! 持ってって!」 「はーい! それから4番にエメンタールピラフにマスカルポーネカレー、ペコリーノサラダを二つ!」 「任せて! あと誰か、チョコレートケーキもうないから! ハチコのとこに発注しに行って!」  頬を真っ赤に上気させ、汗をぬぐいながら満面の笑顔で腕を振るうウンディーネの姿があった。  また同じ日に、ホライゾンの部隊内イントラネットワーク経由で、連合艦隊の全ウンディーネモデルに宛てて極秘の私信が送られている。 “珍しいチーズの工房や産地があったらこれまでよりもっと最優先で探索すること。収穫はオルカのソワンさんに送ること”  艦隊指揮官である龍は当然この通信内容を把握していたが、彼女は一つ肩をすくめただけで、何も言わなかった。  どうやらカフェを開いた目的の、少なくとも一つは着実に達成されつつあることに満足していたのだ。 End =====  携帯端末の目覚ましアラームをわしづかみにして止めると、キャロルライナ015はベッドの上でのそりと身を丸めた。 「ん゛ん゛ん゛ん゛ん゛~~~~…………」  シーツに顔を埋めたまま両手を前に伸ばし、猫の背伸びのようなポーズになってしばし固まったあと、 「……よし!」がばと体を起こす。  顔を洗って歯を磨き、メイクと髪を簡単にすませて、朝食は干し鱈のキッシュに辛口パッタイ、コーンスープ。めちゃくちゃな取り合わせなのはいつものように、昨晩のフードコートの売れ残りをもらってきたからだ。本来は当直時の仮眠スペースであるこの部屋に泊まり込むのも、もう慣れた。オルカの部屋より広くて静かなのがいい。  チアコスチュームの上にスタッフパーカーを一枚はおって、うすぐらいバックヤードを進み、人工岩と木立で巧妙に隠された扉を抜けると、まぶしい光と湿った熱気が体をつつみこんできた。  アクアランドの朝である。  緑と水のにおいのする空気を、キャロルライナは胸いっぱいに吸い込む。  二十四時間回っている空調ファンと、かすかな木の葉ずれの音。天蓋パネルはすでに夜間モードから朝モードへ変わり、白っぽい照明で広大なドーム内を満たしている。あと二時間もして開園する頃にはより明るい昼間モードになるので、通常の来園者がこの空を見ることはない。朝の光に照らされた誰もいないアクアランドを独占できるのは、運営スタッフだけの特権だ。 「フン、フン……ヨシ、ここもヨシ……」  携帯端末を片手に、足早に小径を歩く。ただ散歩しているわけではない。清掃ドローンがきちんと作業を終えて帰還しているか、園内の待機スポットを確認しつつ、目の届きにくい所のゴミや汚れもチェックしている。同時に、園内設備の状況にも目をくばる。エアコンよし。パネルよし。水循環ポンプよし。突貫で配管をいじったにしては、ちゃんと動いてくれている。  夏は過ぎ、欧州侵攻作戦が始まった。戦時体制に移行して運営をいくらか縮小はしたが、アクアランドは今もしっかり営業中だ。ここは前線から帰ってきた兵士たちが心と体を癒やす場所であり、同時にオルカの理念を体現する場所でもある。アミューズメント産業にかかわるキャロルたちアミューズ・アテンダントがその管理を任されたのは当然であり、また名誉なことだ。これまで今一つ、一体感や連帯感といったものに乏しかった自分たちが、これをきっかけに本当のチームになれたらいいなと、キャロルはひそかに願っている。  ナノマシンでできた熱帯樹の木立を抜けると、明るい青色にきらめく水面が目を射る。三面ある大型プールのうち一番大きな「波の出るメインプール」は文字通りアクアランドの中心で、他のすべてのプールの水はこことつながって循環している。人工砂浜にかがみ込んで水に手をひたし、目と鼻と皮膚で水の状態を確かめる。水温、臭い、透明度、夾雑物……すべて問題なし。 「遊具もよし、と……」  ラックにきっちりと積み上げられた浮き輪、ビーチボール、ビニールプール等々を確認してから、その向こうへ目を転じる。  昨日まで第二プールのあったその一画は、白い仮囲いで覆われていた。キャロルはひとつ気合いを入れて、とっておきの歓迎用笑顔を作ると、仮囲いの布をそっとめくって中に入った。 「おっはよーございマース!」  ウッドデッキ風の広々とした半円形のフロアに、いくつものマットレスと簡易ベッドが並べられ、大規模な野外宿泊所といった雰囲気にしつらえられている。そこに大勢のバイオロイドが、歩き回ったり、所在なげに座り込んだりしていたのが、いっせいにキャロルの方を向く。一人のフロストサーペント型が足早に進み出てきて、頭を下げた。 「おはようございます」  あの有名なブラインドプリンセス率いるレジスタンスが、イギリスで鉄虫と戦いながら生き延びているという情報が入ってきたのだ二週間ほど前のこと。それから紆余曲折あって、司令官自身がオルカでイギリスへ乗り込み、無事かれらと合流して連れ帰ってきたのが昨晩遅くのことだ。  なにしろ急のことで宿舎の建て増しが間に合わず、百人近いレジスタンスたちは一時的にアクアランドで受け入れることになった。そのために第二プールの水を抜いてフタをし、即席の広場を作らねばならず、キャロルたちは昨日一日その工事にかかりきりでほぼ寝ていない。しかしもちろん、そんな疲労を顔に出すようではキャスト失格である。 「野宿みたいになっちゃって、ゴメンナサイ。来週には宿舎ができるらしいカラ、チョットだけ我慢してネ。ちゃんと眠れた? 床が湿気たりしてナイ?」 「とんでもない、とても快適に眠れました。こんなに広々としたところで、不安もなく眠れたのはいつ以来か」  フロストサーペントは礼儀正しく、再度頭を下げる。彼女がこのレジスタンスのサブリーダー的な存在であるらしい。リーダーのブラインドプリンセスは司令官と一緒に箱舟の方へ行ったから、昨晩はそのままあちらへ泊まったのだろう。 「ここは、しかし……本当に遊園地なのですね。今の世界にこんな場所があるとは……」 「スゴいでしょう!」キャロルライナは笑う。「もう少ししたら、お客さんが入ってきまマス。少しうるさくなるけど、勘弁してネ。あ、もちろん皆さんもぜひ楽しんでってくださいナ!」 「はあ……」  フロストサーペントの表情には喜びというより戸惑いが感じられる。無理もない。昨日まで命懸けで鉄虫と戦っていて、今日は何も心配せず遊んでいいと言われても、そう簡単に切り替えられるものではないだろう。新しい共同体をオルカへ迎え入れた時にはよくある反応だ。 「アナタもネ!」  サーペントのななめ後ろあたりに控えているキャロルライナへ、キャロル015はとびきりの笑顔を送った。そう、このレジスタンスにもキャロルライナモデルがいるのだ。ぜひともお近づきになりたい。キャロルの目がギラリと光る。 「あ……はい、どうも……」  怯えたように身を縮められてしまった。  キャロル自身は自分をわりと明るい方だと思っているが、内向的な性格のキャロルライナというのもわりといる。旧時代、個人所有の機体に多かったものだ。彼女もそうなのかもしれない。無理押しはしないことにして、キャロルはさっと話題を切り替えた。 「朝ご飯ですけど、フードコートがあるノ。向こうのあのお城、見えますか?」スパエリアの中心であるアクアキャッスルを指さしつつ、地図入りの携帯端末をサーペントに渡す。 「開園前の今のうちに行くのがオススメです。それじゃ、何かあったらいつでも連絡くださいネ!」  元気よく一礼して、手を振りながらキャロルは宿泊所を後にした。開園まであと一時間と少し。やることはまだまだあるのだ。 「美味しい……!」  赤いスープにひたったジャガイモ麺をひと口すすって、キャロルライナ22bが笑顔で頬をおさえた。  ニシンの煮付けも美味しい。身がほろほろと柔らかく、ショウガの利いた煮汁がよくしみている。フロストサーペント407bは何度目かの深い驚きとともに、広々としたフードコートの外周にならぶいくつもの配膳カウンターを見回した。  個々のカウンターには看板が掲げられ、それぞれ違う料理を提供している。看板の文句をそのまま受け取るなら、いろいろな企業、いろいろなブランドに属するバイオロイドが店を出して、自分たちで料理を作っているらしい。食堂でなくフードコートと呼ぶのはそのためだろう。  腹を満たすだけでなく、舌を満足させるような食事をしたのは何年ぶりのことだろうか。  朝目覚めてから、今までに見た風景を思い出す。昨晩着いたときは疲労と安堵でほとんど何も見ていなかったが、あらためてよく観察すれば、ここは確かにテーマパークだ。それも、相当に大規模な。自分たちが英国で、明日生き延びられるかどうかという日々を送っていた間に、北極圏にこんなものを建設できる勢力が育っていたのだ。407bはどこか脱力感に似た感覚をおぼえた。 「すごいなあ、本当……夢みたい」  キャロルライナは幸せそうに麺をたぐっている。 「ねえ。ここを案内してくれたキャロルライナがいたじゃない」  キャロルが箸をとめて目を上げた。「あの人のこと、どんな風に感じた? 同型機として」 「ううん……明るくていい人だと思うよ?」キャロルは首をかしげる。「ときどき、私のことをすっごく見てくるのが、ちょっと怖かった……けど」 「それ、なんでだか思い当たる?」 「ええ……わかんない」キャロルは不安そうな顔になる。「なんで? 何かダメなこと、あった?」  フロストサーペントはだまって頭を振った。キャロルライナ22bは真面目で頭も決して悪くないが、どうにも頼りないというか、ふにゃふにゃと主体性のないところがある。かつてのオーナーが、そういう性格を好んだからだ。S級モデルの彼女をさしおいて、フロストサーペントが副隊長を務めているのもそのためだ。適材適所ということでお互い気にしてはいないが。 「何もないよ。ただ、なんだかちょっと、できすぎてるみたいで怖いなって」 「…………」キャロルが箸を置いて、ぶるっと身震いをした。「怖い話、思い出しちゃった。ほら、あれ……『ダッチガールと優しい里親』」 「!!」サーペントの顔がさっと強ばった。  それはPECSのバイオロイドの間で古くから伝わる、一種の怪談だった。廃棄処分になるはずだった一人のダッチガールが、人間の里親に引き取られる。怯えて縮こまっていた哀れなダッチガールは、里親の暖かいもてなしに触れてついに素直な心を取り戻すが、それを待っていたようにかれらは笑いながら彼女をテーマパークのC地区に連れていき、そして……。  いつどこで起きたとも知れない、真偽も定かでない噂話にすぎないが、“そんなことは現実にありっこない”などとは、バイオロイドなら思えるものではない。 「……か、考えすぎだよね?」キャロルライナの声は震えていた。  そうならいいと、フロストサーペントも思っている。このオルカを率いる人間の司令官に、自分たちは返そうとしても返しきれないほどの恩を受けた。邪推などすべきではない。何より彼が人間である以上、命令されればどんなことでも、自分たちは逆らえない。この先にどんな運命が待っていたとしても、そこから逃れる手段はきわめて少ない。 「リーダーが帰ってきたら、今後のことをちゃんと相談しよう。……あと、この上に病院があるそうだから、お見舞いにも行かなくちゃね」  ブラインドプリンセスは司令官に同行して自分たちと別れ、「記憶の箱舟」に入ったまま今日になっても戻ってこない。オルカの傘下に入るとなれば色々と手続きも多いだろうから、時間がかかっても不思議ではない。ないのだが。  油断なく周囲に目を配りながら、フロストサーペント407bは味噌汁をすすった。“バトルメイドの健康朝食セット”は、腹が立つくらいうまかった。 「痛むところ、ないですかー?」 「ん……大丈夫……あ゛あ゛あ゛気持ぢい~~……」  アクロバティック・サニーはイフリートの尻を押さえて膝を持ち上げ、腸腰筋をゆっくりと伸ばしていく。うめき声の調子から「痛気持ちいい」と「痛い」の境界をさぐるのも、もう慣れたものだ。 「そうそう、その感じその感じ。やっぱり筋がいいですねえ、サニーさん」  隣から宝蓮が明るい声をかけてくれる。「えっへへ、ありがとうございます」  ちなみに宝蓮のマッサージを受けているグレムリンは、とっくの昔に溶けたような顔で眠りこけている。さすがの腕前だ。 「宝蓮さん、いますか? 来週のスケジュールについて、すこしご相談が」 「あ、はーい。ちょっと待ってくださいね」  カーテンの向こうから控えめな声がして、ナースキャップをかぶったダフネの顔がのぞいた。宝蓮がさっと手を拭いて、携帯端末をとる。  欧州侵攻作戦がはじまり、アクアランドのマッサージルームとフィットネスセンターはかねてからの予定通り、戦傷者用の医療施設に改装された。両部署の責任者だった宝蓮とサニーは一時的に持ち場をうしなう形になったが、宝蓮は指圧・整体・医療マッサージなど数々の技術をもっているし、サニーもヨガ療法なら多少の心得がある。医療班をたばねるオベロニア・レアに申し出てみたところ諸手を挙げて歓迎され、旧フィットネスセンターの一隅に設けたリハビリテーション部門で二人はそのまま働いている。 「一生ここにいたい……こうしてる間に作戦終わらないかなあ……」 「あはは」  イフリート型はこれまで何人か来たが、みんな決まってそういうことを言う。そのくせ、怪我が治れば退院を嫌がるでもなく、さっさと前線に戻っていくのだから妙なものだ。 「サニーさん、明日の夜って残業できます? 遅くなるかも」宝蓮が振り返って言った。 「はい、もちろん」 「残業とかイヤなこと言わないでよお……気が重くなる……」半分寝言のようにイフリートがつぶやく。 「すみません、急に人が増えたものですから、リハビリを前倒しにしないとベッドが足りなくて」ダフネが頭を下げる。 「ああ、例の」  イギリスで活動していたレジスタンスを司令官が救出に向かい、連れ帰ってきたというニュースはサニーも聞いている。「どんな感じですか? 満身創痍?」 「いいえ、重傷の人はほとんどいませんね。皆さん歴戦の勇士という雰囲気で。栄養不足の方がよほど深刻なくらい」ダフネはほほえんで答える。 「ただ、やっぱり長年きびしい環境で暮らしてきたせいか、肩や足腰に故障をかかえてる方は結構多いようで……むしろお二人の方がこれから忙しくなると思います」 「なーんだ、そんなの大歓迎ですよ!」宝蓮がほがらかに言って、携帯端末を棚へもどす。それから熟睡するグレムリンの背中の中心付近を、折り曲げた指の第二関節で思いきり押しこんだ。 「にぎゃーーーー!!」  教科書に載せたいくらいきれいなエビ反りでグレムリンが跳ね起きる。宝蓮は笑って施術着のお尻をぺちんと叩き、「はーい、背骨ばっちり綺麗! お疲れさまでした」 「イフリートさんも、お疲れさま」 「うう、もっと寝てたい……」  のそのそと起き出した二人は、それでも気持ちよさそうに伸びをしてリハビリ室を出ていき、ダフネもそれに付き添う。 「……おはようございまふ」  三人と入れ替わるように、キルケーがのっそりと入ってきた。目をしょぼつかせ、力なく首を丸めてドレスの裾をひきずる姿は普段の三割増しで魔女っぽく見える。 「キルケーさん、今起きたんですか? ゆうべはお疲れさまでした」  オルカのアミューズ・アテンダントの中でもキャロルに次ぐ古参であり、テーマパーク管理を本職とするキルケーは当然のごとくアクアランドの園長を任されており、ここ数日はレジスタンスの受け入れ準備で朝から晩まで奔走していた。宝蓮もサニーもそのことを知っているから、多少寝坊したくらいで文句は言わないが、 「ゆうべも飲んだんですか?」近寄った宝蓮が鼻をひくつかせ、あきれたように大声を出した。「仕事終わったのいつです? ほとんど寝てないんじゃ」 「いい仕事した後の一杯って最高じゃないですか……飲まないなんてもったいない……」  うめくように言ってキルケーは施術台に突っ伏す。「でもさすがにキツくて……シャッキリするやつ、一発お願いできません……?」  サニーと宝蓮は顔を見合わせた。宝蓮が細長い指を組み、ゆっくりと反らす。サニーも肩を回し、手首をゆすってウォームアップした。 「それじゃ、シャッキリするやついきましょうか」 「キツめにしときますね、お客様」 「えっ」  キルケーの長い悲鳴がリハビリ室に響いた。  カーテンで三方を囲われたベッドの上、片手片足をギプスで固められたジニヤー668bは、首だけを持ち上げてニコニコしながらフロストサーペントとキャロルライナを交互に見た。 「元気そうで安心したわ」 「えへへ~。ここは天国みたいなところですよ、みんな優しいし、ご飯はおいしいし」  オルカと合流した時点で、最も重傷だったメンバーが彼女だ。半年ほど前に、仲間をかばって鉄虫の砲撃をまともに受けた。レジスタンスの医療資材と技術では治療の見込みはたたず、ただ死なないようにするのが精一杯だったが、 「時間はかかるけど、手足ももとどおり治るんですって! また皆さんと一緒に戦えます!」  心底嬉しそうな彼女を見ていると、さっき食堂で話したことなど、ただの杞憂だったのかもしれないと思えてくる。サーペントとキャロルは目を見交わし、遠慮がちに微笑みあった。 「あ、でもどうなんだろ。ここにはドゥームブリンガーの部隊がいるみたいだから、そっちに編成されるのかなあ」  二人の胸中など知らぬげに、ジニヤーはのんきな声を出す。「お二人は何か聞いてます?」 「いや、そういうことはまだ何も……」  ここまで周囲の誰もがいたわり、労ってくれるばかりで、何かをさせようという話は一切出てこない。初日だからかもしれないが、この先どうなるかについて何も知らされていないのだ。一時消えた不安が、すぐに胸中によみがえってくる。 「皆さん、おはようございま~す。園長のキルケーで~す」  と、カーテンの向こうを、気の抜けた声が通った。  フロストサーペントはとっさに首を出し、黒いドレスの魔女めいた後ろ姿を呼び止めた。「あ、あの!」 「はい、なんでしょう。困ったことがあれば何でも言ってくださいな」  妙につやつやと血色のいいキルケーモデルが、にっこりと笑う。もう昼近くだというのにおはようもないものだが、ちょうどいい。フロストサーペントはていねいに待遇の礼を述べてから、今後のことを訊ねてみた。 「今後の部隊編成ですか。私も特に聞いてませんが……」キルケーは首をかしげる。 「たしかに皆さんはもう歴戦のベテランですから、そのままの編成の方がうまくやれるかもしれませんね。ただ、この機会に引退して後方で暮らしたいという人もいるのでは?」 「え」思いもよらない質問だった。「それはまあ、いるかもしれませんが……引退?」 「畑とか、工場とかやってる拠点がたくさんありますから、そこで働くのもいいんじゃないでしょうか。どっちにしてもお客様……人間様と、あとはブラックリバーの指揮官さんたちともよく相談して、最後は皆さんの意志しだいだと思いますよ」 「意志ですか……」  人間の主人がいる状態で「自分の意志」しだいというのが、ちょっとよく飲み込めない。「あの、リーダーはどうしていますか。いつこちらに来るでしょうか?」  キルケーの視線が露骨に泳いだ。 「あ、ええ~……? そうですね、ブラインドプリンセスさんですよね~? そのう、ちょっと疲れたみたいで、もう少し休むと仰ってた、ような~……」 「リーダー、そんなに疲れてたんですか!?」  それまで黙っていたキャロルライナ22bが、急に大きな声を出した。「体調悪いんですか? 私たちのために、ずっと無理してたから……」 「ああ、いえいえ、そういうことは全然!」キルケーも失敗したと思ったのか、すぐ元の笑顔に戻って首を振る。「ブラインドプリンセスさんはお元気ですよ。えーと、夜までにはそちらに合流なさると思います」 「あの、ここは本当に素晴らしいところなんですけどっ!」しかし、一度勢いのついてしまったキャロルライナは止まらなかった。「恵まれすぎてて、ちょっと怖いなって、思うんです」 「怖い?」 「ご、ご存じないですか。『ダッチガールと優しい里親』の話……」  その瞬間、キルケーの瞳の奥に、氷のように冷たくこわばった塊が生じたのが、フロストサーペントには見てとれた。  キルケーモデルは本来、ハロウィンパークの従業員だ。医者に向かって病院の怪談を話すようなものである。キャロルの肩を引くと彼女もはっと我に返り、あわてて頭を下げた。「すみません、言い過ぎました」  ほんの一呼吸のあいだ、緊張をはらんだ沈黙があった。それからキルケーが、柔らかく、おだやかな笑顔で言った。 「……そんなことはない、と私が言ったら皆さん、信じますか?」  悲しげにさえ見える笑顔だった。こたえる言葉のない三人を順に見やって、キルケーはもう一度微笑んだ。 「お客様が……オルカの司令官がどんな人かは、皆さん自身で確かめてください。じゅうぶんな時間をかけて。私から今言えるのは、それだけです」  そしてキルケーはていねいに一礼し、カーテンをひいて退出した。 「園長のキルケーで~す。困ったことがあったらなんでも言ってくださいね~」  気の抜けたような声が遠ざかっていくのを、三人はだまって聞いていた。 「……あのキルケーさん、旧時代からの生き残りなんだそうですよ」ベッドの上から、ジニヤーがぽつりと呟いた。  モップの柄をタイルの床に打ち付けると、コーンという小気味よい音がひびく。レナ・ザ・チャンピオンは額の汗をぬぐい、ピカピカに磨き上げた浴槽を満足げに見渡した。  この広い大浴場を一日一回掃除するのは決して楽な仕事ではないが、自分たちの使う場所を自分で綺麗にするというのは、意外と悪くない気分だ。何より、掃除したてのまっさらな一番風呂を独占できるのがいい。レナはボイラー室のバルブをひねってからゆっくり掃除用具を片付け、作業服を脱ぎ捨て、髪をまとめて、おもむろに浴槽へ足を入れた。 「ふうー……」  まだ湯は半分も満ちていない。大きな大きな円形の浴槽に手足を思いきり広げて寝そべると、ふともものあたりを洗う湯面が、じりじりと少しずつ上昇していくのをくすぐったく感じる。筋肉のこわばりが少しずつ湯の中へほぐれていき、レナは満足げに太い息をついた。 (現役時代は、自分で風呂掃除なんてしたことなかったわね)そんな思考が、ふと頭をよぎる。  レナ・ザ・チャンピオンはその名の通り、BWE(バイオロイド・レスリング・エンターテインメント)世界ヘビー級王座に輝くチャンピオンである。旧時代のレナは高級マンションの上層階ロイヤルスイートに住み、運転手つきの車を乗り回し、バイオロイドの使用人を何人も使っていた。掃除用具など手にしたこともなかった。 (ま、もっとも……)  それは、チャンピオン・レスラーにとっては私生活も売り物の一部だった、という意味でしかない。マンションは設備こそ高級だが特定の曜日以外自由に外出はできなかったし、玄関にも寝室にも鍵がついていなかった。カメラマンがいつでも自由に取材に入れるようにだ。当時に戻りたいかと言われれば、今の方がずっといい。アミューズ・アテンダントの一員として、四苦八苦しながらアクアランドを切り盛りする今の方が。 (でもやっぱりもう何人か、昔のレスラー仲間が復元できればねえ……。いやまてよ、よそから引き抜くって手もあるわよね……旧時代でも、ブラウニーやマイティなら対戦したことあったし……) 「すいませーん、やってますカ?」  ふいに浴場に声が反響して、レナは心地よい物思いから引き戻された。首をまわすと、浴場の入り口からピンク色の頭がのぞいている。 「まだ清掃中なんですけどー?」 「知ってますヨー。えへへ」  むっちりした肢体をバスタオルで包んだキャロルライナはそそくさと体を流すと、レナの隣へすべり込んだ。 「お邪魔しまーす」 「こんにちわー」  すぐに続いて、宝蓮とサニーも入ってくる。レナは苦笑して、新入りのために体をずらした。アミューズ・アテンダントのメンバーなら誰でも、この時間に来れば清掃したばかりの風呂を堪能できることを知っている。 「プールの方、どう。ちゃんと動いてる?」 「バッチリ! 昨日はありがとうございマシター」キャロルは気持ちよさそうに湯をすくって顔を流す。「ウッドデッキ、わりといい感じデス。しばらくあのままでもいいカモ」 「エラトーさんとミューズさんからお菓子が届いてましたよ。上がったらみんなで食べましょう」  ここにいないメンバー二人、エラトーとミューズは現在、ヨーロッパで対デルタ陣営のプロパガンダ活動に従事している。旧時代でもトップランクの歌手と作曲家が組んだだけあり、なかなか人気を集めているようだ。  アミューズ・アテンダントのメンバーは、製造時の専門分野をいかして働いている者と、そうでない者がわりとはっきり分かれる傾向にある。エラトーやミューズ、宝蓮が前者。レナ、キャロル、サニーが後者だ。キルケーは微妙なところだが、まあアクアランドができてからは前者に含めていいだろう。  本来の性能を十全に発揮しているエラトーや宝蓮は、やはり活き活きと輝いて見える。人間のいた時代に未練はないし、今の暮らしにも不満はないが、やはり少し羨ましくはある。いつかBWEを復活させるのが、今のレナのひそかな夢だ。 「すいませ~ん、ちょっと手伝ってくれませんか~」  そんな物思いにふけっていると、脱衣所からキルケーの声がした。何かぐんにゃりしたものを引きずっている。浴槽から上がって行ってみると、それは泥酔したもう一人のバイオロイドだった。  レナとほとんど変わらない長身に、見事なバスト。流れるような銀色の髪が、真っ白な肢体に絡みついている。 「誰、この人? 見たことあるような……」 「ブラインドプリンセスさんです。ほら、昨日こっちへ着いた」 「ああ、あの!」旧時代の有名人で、今のオルカの有名人でもある。裸体をかつぎ上げると、猛烈な酒臭さがぷんと香った。 「いやいや、もう飲めません。いえ嘘れすまだまだ飲めますとも」何かブツブツ言っている。 「ちょっと、酔っ払って入浴するのは危ないのよ?」 「レジスタンスの人たちが、リーダーがなかなか戻らないって不安がってるみたいでして」困った顔でキルケーが言う。彼女が酒のことでこんな顔になるのは珍しい。「夕方までになんとか酔いを覚まして、合流してもらわないと」 「あなたが飲ませたんでしょうに!」  両脇をかかえてリラックスできる姿勢で湯船に漬けると、そのまま斜めに沈んでいく。「ごぼごぼごぼ」あわてて引き上げて、腕を縁に引っかけて体を支えさせた。 「確かにゆうべ飲ませたのは私ですが、今朝起きて迎え酒を始めたのはこの人ですよ」 「どっちもどっちよ」 「レジスタンスの人たち……まだちょっと警戒してる感じネ」 「それはまあ、無理もないですよ。まだ来たばっかりだし、そのうちわかってくれますって」 「思うんですけどねえ、やっぱりアクアランドって名前、ちょっとアレだったかも……」 「えー? 私はもう大好きになりましたよー。イヤな思い出はぜ~んぶお客様が塗り替えてくれましたし。うふ、うふふ」 「ごぼ。ごぼごぼごぼ」驚くべき柔軟性を発揮して、ブラインドプリンセスは両腕で湯船の縁につかまったままふたたび沈んでいこうとする。「ぼぼぼ……はっ。お湯? 私、どこにいますか?」 「おはようございます、ブラインドプリンセスさん」キルケーが肩をつかんで引っ張り上げた。「ここはアクアランドの大浴場ですよ」 「これ、酔いざましにどうぞ」  宝蓮が備え付けのコップをとって、湯口から湯をそそいで渡すと、長身の美女は目を閉じたまま器用に受け取り、喉を鳴らして飲みほした。 「ふー……すみません。みっともないところをお見せしてしまいました」 「本当よ。あの『ドラゴンスレイヤー』のヒロインが、こんな飲んだくれだなんて知らなかったわ」 「オンとオフがはっきりしているタイプなんです、私。皆さんは、キルケーさんのお友達ですか?」  白く霞んだ、真珠のような色の瞳で、ブラインドプリンセスは周囲をゆっくりと見回す。その仕草で今更のように、彼女が実際に盲目なのだと気づいたレナ達はてんでに自己紹介をした。 「あの!」  そして、それが終わるやいなや、キャロルライナがざぶりと波を立ててすすみ出る。 「レジスタンスに、キャロルライナモデルがいますよネ。私、ぜひあの人とお友達になりたいんですケド」 「はい? ええ、いますね、キャロル22b」プリンセスがちょっと驚いた顔をする。「いい子ですよ。いつでも紹介しますが、どうして? オルカには他にいないとか?」 「いえ、いるんですガ」キャロルはぐっと握りこぶしをつくる。「痩せてるんデスヨ、あのキャロルさん」 「は?」 「初期型のモデルなんデス! 初めて見たヨ! ぜったい痩せる方法教わらないト!」 「キャロルさん、まだ気にしてたの?」宝蓮があきれた声を出す。「むっちりしてるのがいいって、お客様も言ってたじゃない」 「ソレはソレ、コレはコレ!」  ばしゃばしゃと湯を跳ね散らかして力説するキャロルに、みな笑う。その時、やわらかなチャイムの音色が浴場の壁にこだました。  天窓から入ってくる外の光が、さっと橙色をおびる。園内が夕方モードに変わる時刻だ。 「さ、清掃時間終わり! オープンするわ。みんな、あとひと頑張りしましょ」  レナの掛け声で皆、ざばりと湯を割って立ち上がる。一拍遅れて、ブラインドプリンセスも立った。 「そうだ、これから夕食分の資材搬入があるんですけど、レナさん手伝ってもらえませんか? レジスタンスの人達の分があるもので、倍くらいに増えちゃって」 「いいわよー」 「お手数かけます」 「いえいえ。じゃ、キャロルさんと一緒に宿泊所の方行ってくださいな」 「あの、お風呂上がりのビールは……」 「……」  ガラス戸が締まり、静寂と白い湯気だけが広い浴場を満たした。  ここはアクアランド。前線から帰ってきた兵士たちが心と体を癒やす場所であり、オルカの理念を体現する場所である。 End ===== 「諸君、悪い知らせといい知らせがある。どちらから聞きたい?」  その朝、無敵の龍は組んだ両手の上にあごを沈め、しずかに言った。  会議室に、やや当惑げな沈黙が満ちる。 〈……その言い回しは大抵、両方ろくでもない知らせの時に使うものだ。何があった〉 「む……すまん。たまにはユーモアも必要かと思ったのだが、使いどころを間違えたかもしれん」レオナの指摘に龍は頬を赤らめて咳払いをする。 「ではあらためて。14時間前、司令官がオルカごとロンドンへ上陸した」  今度こそ、会議室の中がざわついた。  オルカ連合艦隊、攻撃空母一番艦〈カナン〉。  ヨーロッパ戦線を預かったブラックリバー各隊は、北海を遊弋する連合艦隊の各艦を足場とし、小規模な上陸と侵攻、そして速やかな撤退を繰り返していた。司令官不在の状況でスムーズに作戦を展開するため、各隊の動きはそれぞれの指揮官に一任されており、週に一度だけ艦隊旗艦であるこの〈カナン〉に集まって情報交換をすることになっている。 「なんで早く言わないのよ!! 無事なの!?」滅亡のメイが席を蹴り、噛みつかんばかりに立ち上がった。 「司令官は無事だ。すまない、動揺を防ぐために内密にと言われていたのでな。二時間前の連絡では、ブラインドプリンセス率いるイギリスレジスタンスの救出と合流に成功。くわえて、ポセイドンの戦術参謀バイオロイド・マーリンと、スエズマックス級大型工廠艦プリドゥエン、ならびにその内部に格納されていた起動前のストロングホールド七十八機を麾下に加える運びとなったそうだ」 「七十……!?」ふたたび会議室がざわつく。 「現在はプリドゥエンの起動準備と、AIの鉄虫感染対策を進めている。こちらへ来るのはしばらく先になるが、大きな戦力になることは間違いない。アルバトロス中将、運用計画をお願いする」 「了解した。師団がひとつ増えたようなものだな」モニター越しに参加しているアルバトロスが、さすがに感銘を受けた様子でゴーグルを点滅させた。「私が直接指揮するよりも、先任のストロングホールド001を指揮官機として、第二AGS機甲師団を編成するべきだろう」 「同感だ。それからもう一つ、プリドゥエンの貯蔵物資の中に、ウロボロス少将の種があった」  不屈のマリーが片眉を上げた。「あの〈輪廻の〉ウロボロス?」  龍がうなずく。マリーは感慨深げに顎をなでた。「スカイナイツが喜ぶだろうな。スレイプニール大佐には?」 「もう伝えた。未明のうちにオルカまで飛んでいって、まだ復元準備中と聞いてさきほど戻ってきたそうだ」 「何やってんの、あの鉄砲玉は」 「復元準備中ということは……」 「うむ。早晩スカイナイツの指揮官として着任予定だ。この会議にも加わってもらうことになろう」龍は一同を見渡してテーブルに手を突き、ぐっと身を乗り出した。 「プリドゥエンとストロングホールドの戦力化。および、ウロボロスを加えたスカイナイツ新編成の慣熟。この二つが完了するのに、およそ一ヵ月を見込んでいる。そのタイミングで、我々は本格的に打って出る。諸将もそのつもりで準備を願いたい」  居並ぶ指揮官級たちがいっせいに姿勢を正し、視線を受け止める。龍は満足げに微笑んで、ふたたび椅子に身をあずけた。 「さて、話が前後してしまったな。今週の報告からはじめようか」  ヨーロッパ方面におけるオルカの現在の目的は、絶え間ない小競り合いと破壊工作、物資の強奪によってレモネードデルタの戦線を疲弊させ、その支配体制に亀裂を入れて、来たるべき攻勢への準備をととのえることだ。 「スチールライン第12、35、37小隊および、ヴァルハラ第9、29、40、41小隊がディエップ経由で帰還。35小隊は負傷者が多く箱舟へ帰す。入れ替わりに第8、22、45小隊が進発。短期間だが、南仏方面を荒らしてみるつもりだ」 「ダンケルクとディエップは来週いっぱいまで確保しておく。その後は予定通り、オーストエンデとル・アーブルだ。それとカレーだが、デルタの本隊が接近しつつあるらしい。もう用も済んだことだし、早々に引き上げたい。船の手配を頼む」 〈こちらはフランス国境を越えてスペインに入った。妙な噂を聞いたんだが、西の方にAGSのゾンビが出るらしい〉  足の遅いキャノニアとアーマードメイデンはおもに沿岸地域の攻略と港の確保を担当。反対に遊撃戦をもっとも得意とするアンガー・オブ・ホードは単独で内陸に斬り込み、攪乱の先鋒をになっている。そのためカーンはモニタ越しの出席だ。 「ゾンビ? 何それ?」 〈わからん。そっちに何か情報はないか〉 「聞いたこともないが……マーリンが持つ機密情報の中に、ヨーロッパのAGS配備に関するものもあったはずだ。整理できしだい共有しておく」 「ホードはまた変なネタばっか拾ってきて……航空部隊各隊は北イタリア中心に展開中。ギリシャまで足を延ばしたかったけど、ちょっと手こずってるわ」  ドゥームブリンガーとスカイナイツは大陸を飛び越えて反対側、地中海方面を担当している。北海での緒戦で空母を根こそぎ失ったデルタ陣営にヨーロッパ全土を覆う防空網はもはやなく、オルカの航空隊の練度ならば隙間をぬって長征することは難しくない。 「このあたりにもう一カ所補給地がほしいんだけど、スチールラインで何とかならない?」 「気軽に言ってくれる。そうだな……バーデン=バーデンに簡易療養所を設けている。そこを拡張するのでどうだ」 「まあまあね。温泉が有名だったところだっけ」 「今も湧いてる。近隣のバイオロイド達の避難所になっているようだ」  ヨーロッパの各地には、レモネードデルタの支配下で暮らす者たちや、そこから逃れて隠れ住む者たちがいる。機会があればかれらと接触し、情報を集めるのも任務の重要な一部だ。 〈今週、新しく接触できた集団は五つ〉こちらも外征中でモニタ参加のレオナの発言とともに、スクリーンの地図に光点がならんだ。〈一つ、それなりの規模の共同体があったが……例によって協力は保留された〉  光点の大きさは集団の規模、色はオルカへの友好度を示す。光点のほとんどは黄色かオレンジ……つまり、中立かやや避けられているかのどちらかだ。 「どうも手応えが薄いな……こんなものか? 080機関はどう思う」 「こんなものでしょうね」水を向けられたシラユリはあっさり答えた。「今のところ私たちは、重要度の低い基地や倉庫にちょっかいをかけているだけです。本当にデルタに対抗できるとは思われていないのでしょう。こちらの方は電波規制がひどく、オルカの宣伝放送も入らないようですし」 「歯がゆいな」ロイヤル・アーセナルが鼻を鳴らした。「結局、大攻勢をやってみせるまでは何を言っても始まらんというわけか」 〈今回遭遇した集団はいずれも負傷者をかかえていた。せめて医薬品を届けてやりたいが〉 「080で手配しましょう。コンタクトもこちらが引き継ぎます」 「デルタの居場所については?」 「フランス国内なのはほぼ間違いありませんが、まだ絞りきれず……」  決めるべきことは多く、時間は有限である。山のような議題が矢継ぎ早に処理されていき、そろそろ終わりという空気になったところで、龍がふと目を上げた。 「ところでマリー少将、クリスマスパーティのことだが」 「クリスマス?」マリーは一瞬けげんな顔をしてから、ぴしゃりと額を叩いた。「そうだった。イギリスの件ですっかり忘れていた」 「なら、ちょうどいい」龍が苦笑する。「箱舟の方でも、延期していたのをあらためて開催する予定だそうだ。イギリス・レジスタンスの歓迎会を兼ねて」 「なるほど。日取りを合わせて、こちらも仕切り直すか」 「欧州攻略前の、最後の息抜きの機会でもある。決起集会の意味も込めて、多少盛大にやってよかろうと思うが……」龍の視線に、レオナがうなずく。 〈アンドバリに言って、放出可能な物資のリストを作らせる。配送計画は私の方で立てよう。ドゥームとスカイナイツの手も借りられるだろうな?〉 「赤い鼻とソリを用意してくれたらね」メイが皮肉めかして眉を上げる。  龍はテーブルに手を突いて立ち上がった。「遠征中に当日を迎える隊もあるだろうが、かれらもできるだけ現地で楽しめるように配慮されたい。では、今週はこれにて散会」 「メイ少将」  会議を終え、デッキへ向かう通路を歩くメイを、背後から呼び止めたのはアーセナルだった。 「配置図によれば、ドゥームブリンガーの一隊がいまヴェネツィアにいるらしいな。いつまで滞在する予定だ?」 「第16小隊ね」長身のアーセナルをちらりと見上げて、メイは歩幅を緩めずに答える。「ぼちぼち引き上げようと思ってたけど、さっきの話ならクリスマスをあっちで過ごさせてもいいかと思ってるとこ。どうして?」 「ヴェネツィアは花火の本場と聞いた。技能を持ったバイオロイドが生き残っていたりはしないものかな」 「花火?」メイは不審げに首をひねった。「さあ、調べてないわそんなこと。そこそこの規模の共同体があるそうだから、探せばいるかもしれないけど」 「それは有望だ。レイヴンを何人か行かせるから、面倒を見てもらえんか」 「どうしてまた……」メイはさらに質問しようとして、ふと何かに気づいた顔をした。「もしかして、クリスマスに何かやる気?」 「話が早くて結構だ。首尾よく行ったら、仕上がった品の運搬も頼みたい」 「レオナを抱き込んだ方が早いんじゃないの? 物資の運送を仕切るのはヴァルハラよ」  メイと並んで歩きながら、アーセナルは両手を広げて笑う。「花火とは火薬の芸術だ。我々と貴殿ら以上に、その扱いに精通したものがいるか?」  燃えるような赤毛をさっと払い、ドゥームブリンガーの隊長も笑った。「気に入ったわ」 「諸君、今年も一年間よく戦ってくれた。じきにまた大きな作戦が控えているが、今宵だけは羽を休め、友との時間を楽しんでほしい。では、メリー・クリスマス!」  龍の言葉に、甲板上の兵士と将校たちはいっせいにグラスをかかげ、乾杯を叫んだ。  広い甲板には大小さまざまなテーブルが並べられ、そのいずれもが料理と酒瓶で埋め尽くされている。けっして高級とはいえないが、今日のために配給品をやりくりして備蓄した食材で炊事班が腕を振るった、文字通りとっておきの皿ばかりだ。  甲板の周囲には大型モニタが何枚も立てられ、箱舟や他の艦、内陸へ遠征中の部隊とも中継がつながっている。哨戒当番に当たってしまった小数の不幸な分隊を除き、みなが今日という日を祝い、楽しんでいた。 「……さて、宴もたけなわというところだが!」  日が沈みきり、酔っ払いもだいぶ増えてきた頃、アーセナルが一座の中央へずいと進み出た。 「キャノニアとドゥームブリンガーより、ちょっとした余興を用意させてもらった」  満座の視線をあつめたアーセナルは龍にちらりと目をやる。龍が小さくうなずいたのを確かめてからさっと手を上げると、甲板の外縁から小さな爆発音とともに、輝く火の玉がいくつも噴き上がった。  何人かの隊員がとっさに身構える。しかし火の玉はひょろひょろと気の抜けた音をたてながら、揺れる光の尾を引いて数十メートル上昇し、そこで爆発して光の文字となった。 “LONG LIVE ORCA” “VIVE LA ORCA” 「おお!」 「わあ!!」 「ヴェネツィアで、花火師のアシスタントをしていた業務用バイオロイドが見つかってな、うちの者を何人か弟子入りさせた。それっ!」  芝居がかったしぐさでアーセナルが両手を大きく振ると、甲板を縁取るように次から次へと火の玉が上がっていく。 “VIVA ORCA” “VIVAT ORCA” “HEIL ORCA” “YPA OPKA” “HURA ORCA”  さまざまな言語、さまざまな色で、オルカを讃える光の文字が夜空に大きく咲くたび、甲板からは歓声が上がった。 「すごい、すごいですね! 隊長はご存じだったのですか?」 「舷側に花火をしかけたいと許可を求められたときは、何事かと思ったがな」上機嫌でワインを傾けながら、無敵の龍はセイレーンに答える。「しかし、ドゥームブリンガーも一枚噛んでいたとは知らなかった」 「ああ、それはね」隣のテーブルで、隊員たちとカクテルを舐めていたメイがグラスを振ってモニタの方をしめす。「そろそろよ」 「まだまだゆくぞ! 諸君、あちらのモニタに注目だ。まずはブリュッセル、カメラの角度は指示通りだろうな?」  甲板の周囲に並んだモニタの一枚……ブリュッセル野営地の中継画面をアーセナルが指さし、片手でタブレットを操作すると、画面の向こう、野営地の背後の丘から花火が打ち上がった。 “OUR CMDR IS THE NICEST GUY(我らの司令官は最高にいい男)”  ベルギーの夜空に光の文字が弾ける。先程までに倍する歓声が甲板から、そして画面の向こうの野営地から沸き起こった。 「野営地にまで仕掛けたのか!?」 「悪くないプロパガンダでしょ」メイが愉快そうに言った。「電波をどれだけ規制したって、これなら関係ないわ」 「次、ジャージー島!」アーセナルのかけ声とともに、別のモニタの向こうでまた夜空に文字が咲く。 “THE SEXIEST MAN IS WAITING FOR YOU(世界一抱かれたい男が君を待っている)” 「痛快ではあるが……あんな目立つものを打ち上げて、標的にされる心配はないのか」 「さすがに考えてるわよ。前線からは遠い所を選んでるし、打ち上げ地点自体には自動着火装置だけで何もないしね」 「でも、あの……メッセージがすこし過激ではないですか?」 「それはまあ、うん」セイレーンの言葉に、メイは顔をしかめる。「アーセナルに任せたのはまずかったかも」 「リール!」 “彼の××は見とれるほど大きいぞ(フランス語)”  龍とメイがそろって酒を噴き出した。 「ちょっ……」 「ブレーマーハーフェン!」 “奥まで入れると燃えるようだ(ドイツ語)” 「ヴェローナ!」 “一晩中彼に泣かされ、お腹一杯飲まされた(イタリア語)” 「メイ少将、あれは」 「知らない! 知らないわよ! 中身はあいつに任せてたんだってば!」 「ソコロフ!」 “子宮がとろけるような×××を××××(ウクライナ語)” 「ブリビエスカ!」 “×××の××で×××××××(スペイン語)” 「イェーテボリ!」 “××××××××××××××××(スウェーデン語)” 「アぁーセナーーール!!」  とうとうメイが手にしたグラスをテーブルに叩き付け、喝采の中心にいるアーセナルへ駆け寄った。「何よあれは!! あんた、何てものの片棒を担がせてくれたのよ!!」 「プロパガンダを兼ねると言ったろう」火の出るような剣幕のメイに、アーセナルは悪びれもせず笑う。 「真実は人を動かす。エロスは人を引きつける。ゆえに、司令官との赤裸々な艶話こそが最強。プロジェクトオルカの時にそう学んだではないか」 「限度ってものがあるでしょう!? これじゃオルカの全員が司令官のアレに群がってるみたいじゃないの!!」 「そう外れてはいまい」 「外聞の話をしてんのよ!!」  二人がかしましく言い合いを続ける間も、画面の中で、外で、花火は次々に上がり続ける。  無敵の龍は一度だけ深いため息をついて、それから笑顔でワインのおかわりを自分と、隣にいたナイトエンジェルに注いだ。 「昔はトウモロコシを見るだけで真っ赤になっていたメイ少将が、アーセナル少将と渡り合えるまでになるとはな。感無量じゃないか、大佐?」 「……失礼ながら、今夜はとことん呑ませていただきます。このあと何かあれば、姉の方にお願いします」  ひときわ大きな火の玉が、艦橋の真上に上がった。一瞬ふっと光が消えた後、メイの髪によく似た深い紅色の光が、夜空に大きな文字を描いた。 “LOVE CMDR(司令官、愛してる)” End ===== 「右主機冷却水ポンプよし」 「右主機潤滑油ポンプよし」 「右主機圧力・回転数よし」 「左主機冷却水ポンプよし」 「左主機潤滑油ポンプよし」 「左主機圧力・回転数よし」 「ゲート・タリエシン開放完了」 「右舷・左舷キャプスタン準備よし」  次々に入ってくる通信を頭の中で整理し、組み立てながら、何度も深呼吸をする。パズルのピースを埋めるように、すべての準備は整った。  この言葉をこんなに満ち足りた、誇らしい気持ちで口にする日が来るとは思わなかった。何もかも彼のおかげだ。この恩を返すには、自分のすべてを彼に捧げても足りないだろう。  だけどそれでも、これだけは、この台詞だけは自分のものだ。自分が言うべき一言だ。  目を上げれば、ブリッジの全員がこちらを見ている。マーリンは大きく息を吸って手にした指揮棒を振り上げ、そして真正面へ振り下ろした。 「プリドゥエン、抜錨!」  トロールスバードの長大な刃で、モリアーティの腕を切り落とすのはちょっとした一仕事だった。上腕にびっしり生えた金色の結晶が、コンクリートの床にぶつかって硬い音をたてる。  ブラックリリスがすばやく駆け寄り、腕を拾い上げて耐圧ケースに収める。ラビアタは刃についた赤紫色の体液をていねいに拭って、もはや動くこともないモリアーティの死骸を眺めた。ぐんにゃりと力なく横たわり、腕の切り口から体液を垂れ流すそれは、中身を失った大きな袋のように見えた。 「これで、ドクターに頼まれたお土産もできたわね」 「発電所の暴走も始まったようです」ブラインドプリンセスが耳に手をかざして首をかしげた。ラビアタにはまだ、崩落しかかった天井の軋みのほかは何も聞こえないが、彼女が言うならそうなのだろう。 「急ぎましょう、お姉様。もう、いつどこが崩れてきてもおかしくありません」 「そうね」ラビアタは立ち上がり、大剣を担ぎなおした。「早くプリドゥエンに追いつかないと。向こうはきっと、こちらのフォローをしてくれる余裕なんてないでしょうからね」  コンクリートの破片がぱらぱらと落ちてくる。かつてはキャメロットの兵器庫であり、今はモリアーティの墓場となった広大な地下空洞を、まっすぐ横切って三人は駆け出した。 「速度3ノットから5ノットへ増速、ちょい当て舵から五秒で取り舵!」 「よーそろー……チョイアテカジというのは、これくらいでよいのか?」 〈左舷警報出てます! 寄りすぎ! 岸に寄りすぎです!〉 「ちょっとこすったくらいなら平気だから! やばそうになったらバルーン膨らませて!」 〈やばそうってどのくらいですかあ!?〉 〈冷却水温度なんですけど、青から黄緑までのあいだなら問題ないんですよねこれ〉 〈気象観測システムからアラートが来てるんだけど、気圧とスクリューの回転数って何の関係があるわけ?〉 「だああああ!!」  プリドゥエンのブリッジは戦場であった。  モリアーティ(一匹目の)を撃破し、イギリスのレジスタンス救出が完了した後も、オルカの部隊はキャメロットにとどまり防衛を続けていた。それはひとえにこの船、プリドゥエンのためである。欧州攻略作戦を目前に控えたオルカにとって、この大型工廠艦に搭載された七十八機のストロングホールドと、艦そのものの生産能力は間違いなく強力な切り札になる。プリドゥエンを起動させ、オルカの編成に組み込むことは急務であった。  作業を始めてすぐにわかったことだが、船体やハードウェアのダメージは意外なほどに少なかった。さすがポセイドンとブラックリバーの技術の粋を集めただけあって、堅牢さの品質が高い。ストロングホールド軍団についても完全に仕上がった状態で保存され、生体回路への置換さえ済めばすぐにでも実戦投入可能な状態とわかった。  最大の問題は管制システムだった。本来中枢となるべきマーリンの脳は取り外され、ここにこうして可愛いマーリンちゃんとして復活してしまった。つまり、現在プリドゥエンの頭は空っぽである。いかにドクターとスカディーが天才でも、これほどの大型艦を管理するAIをゼロから組み上げるのは短期間ではちょっと無理だ。何度かの試行錯誤のすえ、ドクターは代案を提示した。 「たしか、この船を手動で動かそうと思ったら、マーリンお姉ちゃんが何百人も必要だって言ったよね。でも、それって船の全機能をフルに使う場合の話だよね? 航行だけなら……中継基地のあるシェットランド諸島まで行ければいいだけだったら、どうかな?」 「ええ……うーん」マーリンは考え込んだ。「一応、それぞれの補助システムは生きてるわけだし……それでもねえ、SS級クラスのバイオロイドが少なくとも二十人はいないと」 (……とか言ったら、本当に揃っちゃうんだもんなー)  どうにか一渡りの指示を出し終えて、マーリンは制帽の乱れをなおし、あらためてブリッジを見渡した。操舵士席にサイクロプスプリンセス。航海士席にフリッガ。通信士席に慈悲深きリアン。観測士席にオベロニア・レア。ほかにも艦内各部署の配置表を見れば、旧時代なら世界的に有名だったパリパリの最高級モデルたちが、当たり前のようにずらりと名を連ねている。しかもこれはオルカの全戦力どころか、主力ですらない。ブラックリバーの軍事バイオロイドを中心とした主力戦闘部隊は現在ヨーロッパ本土で作戦展開中であり、アーサーはいわば留守番メンバーだけでイギリスへ乗り込んできたのだ。 「そりゃ反則でしょ……」 「ん? なんか言った艦長?」 「なんでもなーい」  そもそもオルカの部隊構成について、大きな誤算があったことをマーリンは認めないわけにいかなかった。キャメロットでの戦いから、オルカは三安のメイドを中心とした混成部隊であり本格的な軍事バイオロイドはいない、とマーリンは踏んでいたのだ。そうであれば、生粋の戦争用バイオロイドであるこの自分が当然、参謀としてオルカの軍事面を一手に引き受けることになる。そしてアーサーの隣に座り、ぞんぶんに王佐の才をふるうのだ。そういう未来図だったのだが。 (それが何? ブラックリバーの八兵科と指揮官級がほとんど勢揃い、おまけにラビアタ・プロトタイプにレモネードアルファに無敵の龍ってふざけんなー! こんなのバイオロイドオールスター総進撃じゃん! 私ちゃんの出る幕ないじゃんかー!) (捕らぬ狸のなんとやらですね。ぷーくすくす) (うっさい痛風になれ)脳内ブラインドプリンセスの突っ込みに毒づいて、マーリンは目の前の海に意識をもどす。  即席クルー達はみなSS級とはいえ、一夜漬けで操船技術を叩き込んだだけの素人だ。ともかく、何が何でもドーバー海峡を抜ける。それまでは一秒も気が抜けない。 「通信席! オルカは10キロ以上先行してるんだよね? 距離を保って絶対に近づかないよう、もう一度念を押しといて! こっちは避航もろくにできないんだから、頼むよホント!」  背後で、大きな破片が落ちて砕ける音がした。さして広くもないトンネルの壁全体がびりびりと震え、ひっきりなしに埃や細かい土が落ちてくる。今はもうラビアタにも、爆発が近いことが肌で感じられた。 「ブラインドプリンセスさん、大丈夫ですか。私が……」  背負いましょうか、と言いかけて、ラビアタは続きを飲み込んだ。両目を黒布で覆ったブラインドプリンセスは、ラビアタとリリスに少しも遅れることなく、悠々と併走していたからだ。 「ありがとうございます。でもご心配なく」足元の段差をひらりと飛び越えて、ブラインドプリンセスは微笑んだ。「私、耳がいいので。こういう暗くて音のよく響くところなら、私の方がお二人より速いかもしれませんよ」  天井から落ちてきた石塊を、聖女は速度をゆるめずワンステップで避ける。ラビアタはもう彼女を心配するのをやめた。 「うふふ」先頭を走るブラックリリスが、ふいに笑う。 「どうしたの?」 「なんだか昔を思い出してしまいました。ご主人様も、マリーさん達もいなかった、ずっと昔のことを」リリスは言いながら、前方をふさぐ朽ちた木材を拳銃で吹き飛ばした。 「あの頃は私もお姉様も、毎日のように前線に出ていました」 「そうね……確かに、あなたと組んで戦うなんて、あの頃以来かしらね」  まだレジスタンスが百人あまりのちっぽけな集団だったころの話だ。人手も物資も何もかもが足りず、リーダーであるラビアタを含め全員が最前線で戦わねばならなかった。リリスは最も頼りになる妹の一人で、何度となく共に死地をくぐり抜けたものだ。  あの頃の灼けつくような焦燥感と使命感、それに駆り立てられた炎のような日々を、ほんの一瞬だけラビアタは懐かしく思い返した。  突き当たりをふさぐ薄いモルタルの壁を蹴りやぶると、そこは広大な地下ドックだった。海風が吹き込んでくる。ゲートは開け放たれ、もちろんプリドゥエンはとっくに出航してしまった。だが、脱出用に高速艇を残していったはずだ。ラビアタはすばやくドック内を見渡した。 「お姉様」  埠頭の先へ向かったリリスが、硬い表情で手招きした。その足元を見て、ラビアタは理解した。  ボートはそこにあった。水底に。  梁の一部が崩落し、ボートを巻き込んで押し潰したのだ。 「なあ、思ったよりスピードが出ておらんかこれ?」 「潮流のせいだね。機関部! 回転ちょっと落として、速すぎる!」 〈やってみるけど、これ両舷同時にやらないとダメ?〉 「当たり前でしょ、片方だけ回転下げたら曲がっちゃうよ。ネオディム、左舷に合わせてあげて」 〈わかった。三、二、一、せーのでいくよ〉 「まったく……」 〈あの、出航前と比べると喫水線がじりじり下がってるんですけど、これ水漏れとかしてないですよね!?〉 「いーんだよ、船ってのは走り出すとちょっぴり沈むもんなの!」 「マーリンさん、気象データの照合終わりました。あ、操舵席の方でも確認お願いしますね。要注意海域をマークしておきましたので」 「うむ、どれどれ……ちょっと待て、要迂回エリアが多すぎるわ! どこも通れんではないか!」 「でも万一のことを考えると……」 「5キロ先を見て操舵しろと昨日習ったであろうが。5キロ以内のやつだけ表示してくれ。艦長、この先の海底にトンネル状構造物があるようだが、無視してよいのだな」 「ああ、それは大丈夫」海図をチェックして、マーリンは航海士席へ目を向けた。「……サイプリちゃんって、滅茶苦茶ちゃんとしてるよねえ。あのブリスの生まれ変わりなのに」 「設定上の話だ。あれと一緒にするでない」サイクロプスプリンセスは前を向いたまま、なんとも苦々しげな声で答えた。 「半端な知識で乗り物を動かすと大変なことになると、キャメロットで学んだからな。慢心だけはせぬようにしておるのだ」 「あー……まあ、あんなヤバくはないから、そう気負わなくていいよ」マーリンも思い出し苦笑いをする。「いざって時のためにタグボートも用意してあるし」 〈そのタグボートってのは、もしかして俺っちのことかい〉  ブリッジに音声が響くと同時に、正面窓の外、前甲板に寝そべっていたペレグリヌスがむっくりと身を起こした。〈さすがの俺っちもこんなバカでかい船を引っ張ったこたァないぜ。あまり期待はしないでくれよ〉 「まーまーそう言わずに、君ならできるさ。よっ、ハーピーの王!」 〈ちぇっ、調子いいことを〉甲板上のペレグリヌスは鋼鉄の肩を器用にすくめて空を見上げた。〈姐御、はやく戻ってこねえかなあ〉  ぱらぱらと石塊が降ってきた。ドックの天井を震わせているのが暴走した発電所なのか、押し寄せる鉄虫の軍勢なのか、もはやわからない。  海に面したこのドック以外、キャメロットのあらゆる場所は鉄虫で埋め尽くされつつある。脱出路はここしかない。他に使える移動手段がないか、一瞬だけ構内を見渡してから、ラビアタは決断した。 「泳ぎましょう」  トロールスバードの刀身とトランクを切り離し、トランクの方だけを背中に背負う。小型核融合炉を爆発に巻き込むのは危険すぎる。0.3トンある剣は諦めるしかない。 「リリスはケースをお願い。ブラインドプリンセスさん、泳げますか?」 「泳いだことはあまりないのですが……」言いながらもブラインドプリンセスは急いでドレスの裾をからげ、白く長い脚をむき出しにする。  作戦では、モリアーティ討伐班の脱出を確認してからキャメロットを爆破することになっている。ご主人様の性格上、こちらの無事が確認できるまでは決して起爆スイッチを押さないだろう。 「私たちのせいで、作戦に支障を来すわけにはいきません。いざとなれば海底を歩いてでも……」 「この寒空に海底探検などする必要はないぞ、同胞よ」  突如、冷たい風が吹き込んできた。開け放たれたゲートの向こうから、氷のような蒼と白の巨大な竜が姿を現し、ドックの天井をかすめて埠頭に着陸する。 「グラシアスさん!?」 「万一の事態にそなえて、迎えにいってほしいと盟友に頼まれた。どうやら、来て正解だったようだな」 「……!」ラビアタは一瞬だけ、目を閉じて感動にひたってから、捨てた剣を拾い上げグラシアスの背中に飛び乗った。リリスとブラインドプリンセスもすぐさま後につづく。 「ゆくぞ、忘れ物はないな?」  氷の翼をひと打ち、大きく羽ばたくと、竜は悠然と舞い上がり、ゲートをくぐって外へすべり出た。  たちまち、真冬の海風が横なぐりに吹きつけてくる。グラシアスの外装は常にひんやりと冷たく、しがみつくには少々つらいが、贅沢は言っていられない。 「盟友よ、グラシアスだ。三人を拾っていまキャメロットを離れた。……ああ、全員大きな怪我はない。爆破をはじめて大丈夫だ」  ご主人様の返事は聞き取れないが、グラシアスの様子から喜んでいるのは察せられる。大きな頭が、ちらりとこちらを見た。 「挨拶が遅くなったが……久方ぶりだな、光の聖女よ。過去世の存在であるそなたと現世でこうして再びまみえるとは、運命とは本当に愉快なものだ」 「あなたの声と冷気が懐かしいです、氷河の女王」  ブラインドプリンセスはスカートを腰に巻きつけたままの恰好で、風に暴れる髪をおさえながら微笑んだ。「この七十年、あなたがいてくれたらいいのにと何度思ったかしれません」 「それはお互い様さ」 「お二人は、面識があるのですか?」モリアーティの腕が入った耐圧ケースをしっかりとかかえ込み、両足でふんばったリリスが訊ねた。 「ああ。私は古竜ゆえ、転生前の聖女とも、転生後の姫とも共に戦ったことがある……そういう設定でな。いくども共演したものだ」 「有名なポスターがあったんですよ。ご覧になったことありませんか? 私がグラシアスの頭に乗って、こう剣をかまえて」ブラインドプリンセスがポーズをとってみせる。 「あれ、お気に入りだから一枚だけ手元にとってあったのですけどね。二十年くらい前になくしてしまいました」 「箱舟に行けば、データが残っているかもしれん」グラシアスが慰めるように言った。「オルカはよい所だ。戦い以外にも、いろいろなことができる」 「落ち着いたらでいいので、いちどゆっくりお話を聞かせてください」ラビアタも言った。「私も、かつてはこの抵抗軍のリーダーでした。お酒を飲みながら、愚痴でもこぼし合いませんか」 「いいですね!」ブラインドプリンセスの頬がぱっと輝く。「オルカには素敵なバーがあると聞きました。私、まだ行ったことがなかったのです」 「ラビアタ殿、忠告しておくが」グラシアスがおかしそうに口を挟んだ。「あまりこの聖女の手綱を緩めすぎないことだ。こやつ、昔から酒とジャンクフードに目がなくてな」 「まあ、失礼な。目がないのは生まれつきです」 「……」 「……」 「……聖女よ、そういうたぐいのジョークは反応に困るからよせと」  その時、背後から赤い閃光が噴き上がり、数秒おくれて轟音と熱風とが、大波のように背後から叩きつけて、ラビアタ達をグラシアスの背へなぎ倒した。  爆風がおさまってから、三人が頭を上げて振り返ってみると、キャメロットがあった場所には巨大なオレンジ色の火の玉のようなものが、どろどろに溶けて燃えているばかりであった。 〈グラシアスさん、着艦しました。モリアーティ討伐班の皆さんも収容完了〉  マーリンは大きく深呼吸をして、胸をなで下ろした。ともかく、最も重要なミッションは無事に終わった。あとはドーバー海峡さえ抜ければ、まっすぐ北上するだけだ。シェットランド諸島に入港するのがまた一仕事だろうが、そっちはオルカの勢力圏内なのだからどうとでもなるだろう。背もたれに体を預け、ゆったりと頬杖をついたところで、艦内通信のコールが鳴った。 〈こちら船倉のドクターだよー。マーリンお姉ちゃんいる?〉 「いるわよー。どしたの?」 〈ストロングホールドの最初の一機を起動させたけど、会いにくる?〉  マーリンは上体を起こした。「うー……会ってみたい。でもちょっと今ブリッジを離れるわけには……」 「皆さん、お疲れ様」  ちょうどその時、ラビアタが階段を上がってきた。ブリッジをさっと見渡して、マーリンの方へ挨拶をする。「ただいま戻りました。よかったら、休憩してきてはどうですか? 少しの間なら代われると思いますよ」  マーリンは受話器を耳から離して、ラビアタの方を見た。「あーえーと、お疲れ様……できるの? 操艦?」 「昔、ちょっと勉強したことが」 「マジか。さすがは」  年の功、という言葉をマーリンは寸前で飲み込んだ。「……ファースト・バイオロイド」  ラビアタは静かに微笑む。ドレスがあちこち破けているほかは、怪我らしい怪我もしていない。三対一とはいえあのラスカルを仕留めてきたのにだ。マーリンは余計なことを口にせず、ありがたく厚意に甘えることにした。 「初めまして、マスター。私はストロングホールド002」  デッキから生身の肉体で見下ろすストロングホールドは、何十年も毎日カメラごしに見ていたよりはるかに力強く、威圧感があった。 「初めまして。ずっと君のことを見てきたけど、こうして会話するのは初めてだね」  いつかぶつけてやりたい言葉を山ほど考えていたはずだったのだが、今となってはどれも、大した意味はないように思えた。  ちょっとした戦車の砲塔くらいある頭部の中央に、視覚センサーを保護するゴーグルが冷たく輝いている。額には個体番号「002」が、雑なステンシルで印字されていた。これも驚きだが、なんとオルカにはすでにストロングホールドが一機いたのだ。つくづくおっかない集団だ。 「でも、私ちゃんはもう君のマスターじゃないよ。アップデートファイル読んでない?」 「いや、当然読込済みだとも」ゴーグルがいたずらっぽく点滅した。「我々の存在のために、君がどういう目に遭ったかも知っている。だから一度くらいは、この名で呼んで差し上げるべきかと思ってね」 「イギリス製の連中ってホント、性格悪いうえに気の回し方がわけわかんないよね……」  マーリンは深いため息をついてから、デッキの手すりをひらりと乗り越え、ストロングホールド002の胴体……脚?の上に降り立った。ここに立つと、ストロングホールドの頭とほぼ同じ高さで目が合う。 「ま、でもせっかくだし、二つばかり命令させてもらおうかな。もとマスターとして」 「うかがおう」  マーリンは装甲板の上を歩きながら、自分のこめかみのあたりを叩いてみせる。「君の中枢回路が生体素材に置換されて、そのおかげで鉄虫に寄生される心配がなくなったことは知ってるよね?」  002が肯定のしるしにゴーグルを瞬かせた。マーリンはくるりと体を回し、彼の背後にならぶ残り七十七機のストロングホールドを手で示す。「これから君の弟たち全員にも同じ措置をしないといけないんだけど、肝心の生体回路を作るための素材も培養装置もぜんぜん足りない。必要なブツがオスロの大学ラボにあることまではわかってる。鉄虫の勢力圏だから、こっそり殴り込んでかっぱらってこないといけない。で、私ちゃんと君でやるから、心構えしといてね。中継基地に着いたらとんぼ返りだよ」 「了解した。大いにやりがいのありそうな仕事だ」ゴウン、と002の両肩の砲塔が上下した。「二つ目は?」 「命令というか、提案かな」マーリンはタブレットを取り出すと、一つの画面を呼び出して002に見せた。箱舟生態保護区域の区画分譲抽選ページだ。 「欧州が一区切りついたらでいいんだけどさ、一緒に喫茶店やらない?」 「喫茶店?」  002のゴーグルが真っ白に光り、巨大な頭部がぴょこんと真上へ持ち上がった。そんな方向へも動くのか。 「そう、カフェ・ポセイドン。トリトンにも声かけてさ。なんかホライゾンの連中がカフェ開いてるらしくて、負けてられないんだよね」 「喫茶店……喫茶店ね。確かに、紅茶には一家言ないではないが……」002は頭部を左右に揺らす。「しかし、私はこれでもブラックリバーのAGSなのだがね。カフェ・ポセイドンというのは」 「いいじゃん、プリドゥエン生まれなんだから半分ポセイドンみたいなもんでしょ。業務提携よ、業務提携」 「ふうむ」  巨大な頭部に登り、対電磁コーティングの施された装甲表面を撫でさする。軽いモーター音とともに、青いゴーグルの向こうのレンズが、考え深げに絞りを細めるのが見えた。 「どうやらオルカというところは、ずいぶんユーモラスな場所のようだ」  マーリンは身をかがめ、ゴーグルの奥のレンズとまっすぐ目を合わせた。そして、とっておきの悪戯を披露する子供のように、にっかりと笑った。 「私ちゃんもまだ来たばかりだけどね。どうも、そうみたいだよ」 End =====  かるくお尻を突き出すようにして、腰部ソケットにアームを接続する。  モジュールにデータが流れ込んでくるのを確認し、エンジンに火を入れる。ソロヴィヨーフD99ターボファンエンジンの重い振動が、すぐに空気を引き裂く甲高い唸りに変わっていく。  まわりでも次々に暖気がはじまる。無数のエンジン音が、夜明け前の薄闇を下から持ち上げていくような、この瞬間がエクスプレス76・3128は好きだった。 「今日、どこ?」 「南沙諸島。最初は」 「じゃ、いっしょだ」  通りすがりに声をかけてきた姉妹が、ニコッと笑って隣のユニットにつく。大型貨物用のウラジミール・エアギア拡張フレーム3Lタイプは大きすぎて、飛行ユニットを背負っているというより、飛行機の先端に人がくっついているように見える。自分もそう見えているのだろうな、と思いながらバイザーを下ろすと、隅の方で光っていた黄色のインジケーターが、ちょうど緑色にかわった。離陸許可の合図だ。 「じゃ、行きますか!」  エンジンの唸りがさらに一段高くなり、17人のエクスプレス76と、183機のドローンが一斉にニャチャンの空へ舞い上がる。そしてくるり、と全員で管制塔のまわりを一周してから、めいめいの目指す方角へ出発した。  南シナ海は今日も晴れ。配達日和だ。  人類抵抗軍オルカの拠点は、アジアを中心として世界各地に存在する。それぞれの拠点は農畜水産、採鉱、食品加工、機械製造など抵抗軍を支えるための役割を担っていると同時に、隊員たちの生活の場でもある。生産した物資はオルカへ運ぶが、それだけでなく拠点どうしの間にも需要と供給が発生する。そのため抵抗軍には数百人のエクスプレスと、数千機のドローンからなる輸送隊が存在し、日夜世界の空を飛び交っているのだ。 〈G8f、A2v、D9o、S9v……〉  無線から流れてくる暗号通信を、手もとのタブレットの解読キーと照合し、地図と見比べる。どの拠点からどの拠点へ行くにも必ず複数のコースが設定されており、天候や風向き、そして鉄虫とレモネード勢力の動向に応じて最善のコースを選択する必要がある。 「今週ずっと荷物多すぎない?」 「大きな作戦が近いらしいよ。あとほら、クリスマスが来るし」 「クリスマスかあ。南半球行くとぜんぜん暑いのにねー」  とはいえ今日の最初の目的地まではせいぜい二、三百キロ。東向きのジェット気流に乗ってしまえば、雑談をしながらでもあっという間だ。オレンジ色のバイザーにするどい光がさし、エクスプレス3128は目を上げた。飛行速度のぶんだけ加速のついた朝日が、みるみる昇ってくる。眼下を流れていた何か暗いもやもやしたものが橙色になり、すぐに真っ白の雲海に変わる。おかしいくらいの速度で夜が朝になる、この光景もエクスプレス3128は好きだった。  雲の切れ間から、目を射るような濃い藍色の海と、そこへ緑のかけらを撒いたようなちっぽけな島々が見えてきた。そのかけらの間にぬっと立つ鉄灰色のプラットフォームへ向けて、エクスプレス隊は降下コースに入った。 「やあ、待ってたよ」  ヘリポートでは、くわえタバコのダッチガールが出迎えてくれた。挨拶もそこそこに、ウラジミールからコンテナを下ろしてチェックを始める。 「えーっと、小麦粉20袋、冷凍豚肉と冷凍野菜が5ケースずつ」 「米10袋、缶詰セット50カートンに、機械油と洗浄液と……」 「タバコあるかな」 「カップ麺頼んだんだけど」  ほかのダッチガールがわらわらと寄ってくる。ここのヘリポートにはいつ来ても、タバコ休憩中のダッチガールが何人かたむろしている。原油の採掘をしているから、建物内は火気厳禁なのだろう。 「砂糖が先週より多い気がする」 「そうなの!」3128はにっこりした。「フーイエンの製糖工場の改修がやっと終わって、増産第一号よ」 「それは嬉しいな。お菓子のメニューが増えるかな」ダッチガールは破顔した。笑うと年相応の子供っぽさが見える。海上採掘プラットフォームは外界から隔離された苛酷な労働環境で、しかも働いているのは大半がダッチガールだ。食料、特に嗜好品類は優先して配給するようオルカから指示が出ており、皆もそう心がけている。 「あとこれね、今週分」  最後に、小型コンテナから大きな郵便袋を取り出すと、遠巻きに見ていたダッチガール達がわっと寄せてきた。 「待った、待った! こっちでいったん預かって、ちゃんと配るから」  受付担当のダッチガールがあわてて皆をせき止める。拠点間はもちろん通信ネットワークで繋がっており、メールや通話は自由にできるのだが、それでも物理的な手紙のやりとりを好むバイオロイドは一定数いる。個人的な買い物や贈り物なども、意外とあったりする。  エクスプレス的には、そういった細々とした品こそきちんと一人一人に届けたいのだが、仕事の量を考えればそうも言っていられない。現に今も、次の配送の時間が迫っている。 「このあとヨッカイチに行くのって、どっち?」 「私」エンジンの回転を上げながら3128が手を上げると、ダッチガールは隅にあった小さなトランクを差し出した。 「これ、向こうのフォーチュンに渡しておいてくれるかな。先週当たった新しい地層のサンプル。よさそうな石があったら、本式に採掘するから。うちらも増産、効くと思うよ」 「ありがと、了解。じゃまた!」  南沙諸島から海を越えて、ミンドロ島の農業拠点へ。ニャチャンから一緒だったエクスプレスとはここで別れ、別の姉妹と合流して、イリオモテ島のサトウキビ農園へ。オキナワの牧場で別のもう一隊と合流し、海上をさらに北東へ一千キロ。明け方から正午まで、地面に足をつけていたのは合計しても一時間に満たない。 「交代します」 「お願いね」  編隊を組んで長距離を飛ぶときは、縦列になって風の抵抗を減らす。先頭は寒いので、定期的に交代する。旧時代から変わらず受け継がれてきたノウハウだ。 「私サッポロ所属なんだけどさ」風よけができたので昼食のキンパを取り出して頬張りながら、3128は後ろのエクスプレスに話しかけた。 「今年は雪まつりっていうのやるんだって。みんなで雪像を作るの。あなたのとこ、クリスマス何かやる?」 「普通にパーティかなあ。うちアウローラさんがいるから、ケーキ超美味しいんだ」 「えー! いいなあ。ドローンさんとこは?」 「マニラ拠点では隠し芸大会が行われます。ノースカロライナ工場第二組立ラインに伝わる一発芸『四輪駆動』を披露する予定です」 「何それ超気になる」 「前方、雲が切れてます。迂回しますか?」  先頭のエクスプレスc96T1の声に、みな雑談を止めて一斉に前を向く。 「あそこ、シアーあるね。低気圧速いな」 「上昇して飛び越えますか」 「今ちょうどジェット気流の下だからねえ。これだけ人数がいれば突っ込めない?」 「いやー、北回りでよけよう。みんな、密集隊形ー! 雲の中入るよ!」  ウラジミール・エアギアは大型航空機による空輸よりもはるかに燃料効率にすぐれ、小回りがきくのが強みだが、小型なぶん風に弱い。航空機の何倍も慎重に天気図を読みながら飛ばなくてはならない。 「うひー」  襟首をつかんで上下に振り回してくるような風に、なんとか水平を保ちながら前のコンテナを追いかける。航空用バイオロイドの強化された肺でも、凍てつくような雲の中で呼吸するのは楽ではない。 「結局私たち、いつでもどこでもやること変わってないよねえ」まとわりつく冷たい水滴を振り払いながら、3128は思わず近距離通信でぼやいた。  旧時代からずっと、平時でも戦時でも変わらず、エクスプレスは空を飛び、荷物を届けつづけてきた。滅亡戦争では武器を持ち、前線で戦った姉妹もいくらかはいたが、主な任務はやはり輸送だった。主人が誰であろうと、運ぶものが何であろうと、エクスプレスのすることはずっと変わらない。 「それだけ我々の役割が普遍的だということです」とドローン。 「どこでも同じなんてことはないですよ」エクスプレスc96T1が言った。「オルカは素敵です。他のどこよりも、ずっと」  c96T1は北米にいたエクスプレスだ。バンクーバー作戦で救出され、その後志願して輸送隊に加わった。彼女の言葉はさすがに重みが違う。3128は頭を振り、雲の暗さと寒さがもたらしたふいの憂鬱を振り払った。エクスプレス型は人なつこい性格に設定されているゆえに、孤独に弱い傾向がある。昔から単独での長距離輸送には向かないとされ、その分野ではドローンが主流だった。 「c96T1はさ、いまの所属どこ?」 「グアムです」 「そっかー。グアムいいらしいね、年中あったかくて」 「はい。妖精村の皆さんが、とても良くしてくれて……明日帰るのが楽しみです」  c96T1の声からは、ほころぶような微笑みが伝わってくる。今は孤独ではない。エクスプレスはバイザーをもう一度引き下ろし、周囲の雲に目を配った。オルカにいるかぎり、誰も孤独ではない。  ヨッカイチ拠点はオルカの工業生産拠点の中でも最大のものの一つだ。見渡すかぎりタンクやパイプや煙突が立ち並ぶ中を、隊列を分散して縫うように降下していく。 「待ってたわ~!」  出迎えに出てきたフォーチュンは、南沙諸島で預かってきたトランクを抱きしめんばかりに受け取ると脇目も振らず駆け去っていった。もう一人の出迎え、イグニスが苦笑して頭を下げる。 「すみません、あとは私が確認しますので、休憩していて下さい」 「はーい。先頭のが私信類、うしろの二つが衣類とお菓子とか。残りはぜんぶ部品です」  ここほどの規模になると、近隣に生活のための拠点を別に置いており、食料や生活資材はほとんど自給している。限られた特産品の類いをのぞいて、外部から持ち込まれるのはほとんどが加工前の部品や材料。そして、持ち出されるものは完成品だ。  搬入ポートにコーヒースタンドがあるのも、大規模拠点ならではだ。十数時間ぶりに椅子に腰かけ、熱いカフェラテとドーナツをゆっくり味わう。おいしい。 「エクスプレスさん、エクスプレスさん!」  ぼーっと外を眺めていると、店員をしているアクア型がくいくいとシャツのすそを引っぱってきた。 「なに?」 「えへへー、見て見て」  自慢げに突き出したエプロンの胸には、大きなバッジが輝いている。水しぶきとパラソルと太陽、そして飛び跳ねるシャチのマーク。 「え、これ……もしかして、アクアランド!? 行ったの!?」 「くじで当たったの! いいでしょー!」 「いいなー! どうだった? どんな所だった!?」  それはしばらく前から、あらゆる拠点で噂の的になっていた。オルカがどこかに建設したという夢の大型レジャー施設、アクアランド。プールあり、ウォータースライダーあり、VRゲームセンターあり、エステあり、フードコートあり……あまりに夢のようなので実在を疑う声すらあったが、こうして実際に行ってきた者が着実に増えている。輸送隊の中にも行ってきたというエクスプレスがおり、もちろん3128も毎週くじに応募していた。 「すごかったよ! ものすごくおっきなドームの中に、波の出るプールがあってね、滑り台があってね、お姉ちゃん達が飲み物を売っててね……」 「司令官はいた? 司令官が自分でエキス売ってるっていうのは本当?」 「うーん、司令官には会えなかったな……でも『私が出しました』っていうCMはおっきなテレビで流れてた。よくわかんないけど」 「そっかー。それじゃあさ、あれは本当?……」  夢中になって話を聞いているエクスプレスの肩に、誰かが遠慮がちに触れた。振り返ると、さっきのイグニスだ。 「あの……お待たせしました。搬出物、揃いました」  言われてポートを見れば、さっき降ろしたコンテナはいつのまにか姿を消し、かわりにもっと大きなコンテナが整然と並んでいた。 「本命です。よろしく」  エクスプレスの背丈より二倍も高い、重量級コンテナが十台。3128はため息をついて、ぬるくなったカフェラテの残りを飲み干し、それからおなかに力を入れて息を吸いなおす。最後にこれが来るのは、朝からわかっていたことだ。 「よっし、行きます。コーヒーごちそうさま!」  「本命」とは、拠点間のやりとりではなく、オルカに届ける資材という意味だ。抵抗軍の首脳部と最精鋭の戦闘部隊、そして何よりも人間の司令官がいるオルカへは、あらゆる物資が最優先で届けられるし、品質も最高のものが選び抜かれる。運ぶ方の気も引き締まるというものだ。そしてまた、運び方自体もすこし違う。 「えっと今日は……ザヴィチンスク集積場だったよね」  記憶をたよりにユーラシア大陸の奥深く、旧時代のロシアと中国の国境付近にある山間の平地に到着した時には、すでに太陽は山の向こうに沈みかけていた。 「お疲れ様!」  かつて小さな街があったらしき廃墟の一隅が、ならされて広大な発着場になっている。重たいコンテナの安定を取りながら降りていくと、先に来ていたエクスプレスがにこやかに手を上げた。タグ情報の「005」というIDを確認して、3128はちょっと緊張して会釈をする。  オルカがどこにいるかは、鉄虫にもレモネード陣営にも決して知られてはならない最高機密だ。世界中を移動している頃はよかったが、ヨーロッパのどこかに腰をすえた(らしいとは3128も聞き及んでいる)今、その正確な位置は輸送隊にさえ秘密にされている。最古参のたった十人のエクスプレスだけがその座標を知っており、他の隊員は世界各地に設けられた集積場(その座標は暗記しておかねばならず、端末には記録されない)で、オルカへの貨物をかれらに引き渡すのだ。 「私が最後ですか?」 「いやー、まだまだ。あと三往復」  砂利の敷かれた集積場にはすでに数個のコンテナが並んでおり、3128の運んできたコンテナとの連結を待っている。砂利の乱れ方を見れば、今日だけでも相当量の貨物がすでに運び込まれ、そして運び出されたのがわかった。005は朝から休まず飛び続けていたに違いない。笑顔の陰に隠せない疲労のあることは、同型機だけによくわかる。  集積場からオルカまでの航路は拠点間航路より何倍も複雑に隠蔽され、聞くところでは一箇所につき数十ものルートを暗記し、天候と戦術情報に応じて使い分けなくてはならないという。オルカ内部の配送業務も担当するため休日は少ないし残業も多い上、内勤中は戦闘部隊に編成されることもあるらしい。憧れのオルカに出入りできるとはいえ、羨ましいとは思わない。 「聞いて聞いて、こないだ司令官とプールデートしたの! もー最高だったのー!」  ちょっとしか。 「それで、3128はサッポロだったよね。オルカからの荷物、これね」 「はーい」  小さな段ボール箱を受け取る。オルカはむろん生産を担当してはいないが、オルカから供給されるものもある。内勤の隊員からの私信はもちろん、司令官の生写真だとか、最近作られ始めたオルカ公式グッズだとかだ。 「それから、これ!」  005がみょうに嬉しそうに、ぱんぱんに膨らんだ紙袋を押しつけてきた。中にはポプリのような、小さな包みがいっぱい入っている。一つ取り出して匂いをかいでみると、 「お茶?」 「そう! アクアランド、知ってるでしょ。あそこの地下に農場があってね、そこで作ってるの」 「へえー」  オルカに食料品を運ぶのはしょっちゅうだが、オルカから食料品が運ばれてきたのは初めてだ。物珍しさでためつすがめつしていると、005がクスリと笑った。 「司令官がね、いつもオルカを支えてくれる隊員に何か恩返ししたいんだって。それでわざわざお茶を作って、みんなに配ることにしたんだってさ」 「恩返し」想像もしなかった言葉だ。 「帰ったら、みんなに配ってよ」 「…………」小さな包みを振ると、カサカサという音がした。3128はしばらくの間、無言でその包みを眺めていた。それからゆっくりと笑顔になり、力強く胸を叩いた。 「まっかせて下さい!」  肩かけのメッセンジャーバッグを出して紙袋をしまう。荷物をすべて吐き出したウラジミールが、おかしいくらい軽やかに夜空へ舞い上がった。 「あれ? じゃあ、アクアランドってオルカと同じところにあるんですか?」 「ひみつ」  本来、輸送中に積み荷を開けたりすべきではない。それでも我慢できなくなって、雲の上に出たところで3128はバッグの中へ手を突っ込み、小さな包みをひとつ取り出した。よく見ると、包み紙にはアクアのバッジと同じ、シャチのマークがプリントされている。  サッポロに帰って、これを配るところを想像してみた。司令官がみんなのために作ったお茶。みな、驚いてぽかんとするだろう。それからだんだんと、わけもなく嬉しくなって、じっとしていられなくて、踊り出したいような気持ちになるに違いない。3128がそうだったように。  そういう気持ち、そういう気持ちにさせてくれるものこそ、実のところエクスプレスが何よりも届けたいものなのだ。  エクスプレス3128は包みをていねいにバッグにしまうと、ウラジミールの速度を一段上げた。  切りつけるような冬の夜風は、それでも南に向かうにつれて、わずかずつ暖かくなっていく。 End =====  崩れ落ちそうなビルと、もう崩れ落ちたビルが立ちならぶ間を、一台のフォトレスが歩いていた。  いたるところに瓦礫が山をなし、その隙間から雑草が生えのびて、もはやどこからどこまでが路面なのかもよくわからない灰茶色の道路を踏みしめて、フォトレスはゆっくりと歩いていた。 「だいぶやられてるっすねえ、このへん」ブラウニーが言った。 「旧時代にはこの地域の中心都市だったそうですから。鉄虫も相当来たのでしょう」ヴァルキリーが答えた。  フォトレスの胴体上面には、本来あるはずの機関砲がない。そのかわり、軍用バギーのものを流用した座席が二つ溶接されており、ブラウニーとヴァルキリーが座っている。ブラウニーはハンドルを握っているが、それはただ手すりがわりに付けてあるもので、運転しているわけではない。 「なんか残ってるといいっすねえ」ブラウニー6301が言った。 「それを探すのです」ヴァルキリー485が答えた。  人類抵抗軍カゴシマ拠点守備隊、第27偵察分隊。それが今のフォトレス7927の所属である。 《こちらは人類抵抗軍オルカです。当方に戦闘の意志はありません。救助を希望する方がいれば……》  ブラウニーの声が、瓦礫の山の向こうへ流れて消えていく。  同じ台詞を何度か読み上げたあとで、ブラウニーはマイクを置いて、枯れてきた喉をボトルの水でしめした。  この都市に集まっていた鉄虫は先日、人類抵抗軍の艦隊が駆逐した。会敵の危険はない。第27偵察分隊の任務は利用可能な物資の調査と、生存者の捜索である。 「動きが見えませんね。警戒されているのでしょうか」  これほどの規模の都市なら、隠れ住んでいるバイオロイドがいてもおかしくはない。鉄虫に支配された街でも、少人数なら目をのがれて暮らすことは難しくないのだ。人類抵抗軍は、そうしたバイオロイド達を積極的に勧誘し、自軍に加える方針をとっている。  先日など、そのためにわざわざライブを開催し、その模様をPVにして配信したという。 「音楽でも流してみるっすか」  ブラウニーがダッシュボードのスイッチを入れると、フォトレスの胴体に取りつけられたスピーカーから今度は明るい音楽が流れ出す。 《ふと見上げた空に 光り輝く星 はるか遠い星が……》 「フォトレスはどう思うっすか? 生き残りがどこにいるか」 「私にこのような状況における判断の知見はありません」  ブラウニー6301はしばしば、フォトレスに意見を訊ねてくる。歩兵の盾として作られただけのAGSに、さほど多様な状況に対応できる専門知識があるはずもないのに。 「……ですが、可能性としてはヴァルキリー485の発言通り、我々を警戒して距離をとっていることがありえます。他には、たとえば都市周辺の山野に本拠地を置き、都市部には定期的に物資調達に来るといった居住形態であれば、現在無人であっても不自然ではありません」 「なるほどっすね」ブラウニーが大きくうなずいた。 「周辺の山地も捜索範囲にふくめましょう」ヴァルキリーも言った。「市街をひととおり探して見つからなければ、入ってみることにします」 「了解しました。間もなく鉄道線路が見えてきます」 「そういや、アクセサリー屋とかあるっすかね?」 「これだけの都市なら、どこかにはあるでしょう。必要なのですか?」 「仲間に頼まれてるっす。最近うちのレッドフード隊長が、オルカのレッドフード隊長の影響で服を集めだしたんで、自分たちもオシャレしやすくなったっす」ブラウニーは笑って髪をかき上げ、左耳につけたささやかなピアスを見えるようにした。 「中佐はなにか、探したいものないっすか?」 「私は別に……ああ、小さくて良いナイフがあったら一、二本ほしいですね。民生品であるかわかりませんが」 「フォトレスは?」 「特にありません」答えてから、フォトレスはもう一度自己診断プログラムを走らせて、「強いて言えば、潤滑油が調達できると稼働効率が上がります」 「よーし、アクセとナイフとオイルも探すっす!」  ブラウニーは朗らかに言った。ブラウニーはほとんどいつでも朗らかだ。かつて人類がいた時代から、常にそうだった。フォトレス7927はもうあまりその頃のことを覚えていないが、ブラウニーの笑い声だけは、記憶回路の底にいくつも残っている。 「埋まってたっす……」  大通りの両脇に設けられた小さな下り階段の入り口から、ブラウニーがとぼとぼ戻ってきた。  バイオロイドは基本的に、人間の所有物を勝手に使うことはしない。それは本能に近い刷り込みである。それゆえ人類がいなくなった現在でも、生き延びたバイオロイド達が人間の住居や宿泊施設に寝泊まりしていることはまずない。都市で暮らすならば、住み処とするのは誰でも出入りできて、雨風をしのげる公共の建造物。地下街などはその筆頭である。 「地図で見るかぎり、この真下の地下街が一番大きいのですが……」  ヴァルキリーがタブレットと地図を何度も見比べる。フォトレスの音響索敵システムでも、この下に細長い大きな空洞が現存しているのは確かだ。しかし、見つけた入り口は今のところ、すべて崩落している。 「この先で地下街は終わっていますし、もう入り口は……」 「あっ、あれ! どうすか!」  あたりを見回していたブラウニーが、ぱっと近くのビルを指さした。銀行か何かとおぼしきそのビルのエントランスの片隅に、青いマークの看板が出ている。地下鉄を表すこの国の標識だ。 「あそこも地下へ通じてるんじゃないっすか?」 「見てみましょう」  ブラウニーとヴァルキリーが小走りに近づいて中を覗く。すぐにヴァルキリーが戻ってきて、 「中へ入ってみます。崩落にそなえて、フォトレスさんはここで待機。私たちの位置を捕捉しておいてください」 「了解しました」どのみち、あんな細い階段はフォトレスには下りられない。  ヴァルキリーはフォトレスの脚の裏側へまわり、手早く懐中電灯、ロープ、有毒ガス検知器などの装備一式を引き出す。フォトレス7927の脚からはシールドカノンが撤去されており、弾倉があったスペースはトランクケースになっている。 「オイルもちゃんと探すっすからね! 楽しみに待っててほしいっす!」  手を振るブラウニーとそれをせかすヴァルキリーを見送ってから、フォトレスは位置センサーを起動した。 〈聞こえますか、フォトレスさん?〉 「はい、お二人は地下4.7メートルを北北西方向に移動中です」  通信感度に問題はない。それでもフォトレスは冗長性確保のため、音響索敵システムに指向性マイクをつないで、音波でも二人の位置をトレースすることにした。 (……焚き火…………りますね……)  ややくぐもっているが、会話が拾えた。ヴァルキリーの声だ。 (……ヶ月くらい前っすかね? 誰かいたことは確かっすね)  どうやら、生存者の痕跡を見つけたらしい。二人の移動が停止し、カサカサ、キリキリと高周波数のノイズが増える。あたりを歩き回って捜索しているのだろう。 (……ブラウニーは、あのフォトレスさんと付き合いが長いのですか?)  その途中、ヴァルキリーが唐突に自分の名前を出した。 (いいえ? 今回の遠征が初めてっす) (そうでしたか。たいへん仲がいいようでしたので) (そりゃそうっす。フォトレスのおかげで命拾いしたことがないブラウニーは、フォトレス配備前に死んだブラウニーだけっす)  しばらく、瓦礫を取りのけるような音だけが続く。 (……スチールラインジョークっす) (あ、そうなのですか)  そうだったらしい。 (でもブラウニーなら誰でも、フォトレスに何度も何度も命を助けられてるのは本当っす。だからブラウニーはみんなフォトレスが好きっす。もちろん自分もっす!) (よくわかりました)ヴァルキリーのくぐもった声は、なぜだか微笑んでいることを察知させた。(オイル、あるといいですね) (はいっす!)  フォトレスは音響センサーの感度を下げ、位置だけを把握するモードに切り替えた。うまく言語化できなかったが、それ以上会話を聞くのは礼儀に反すると、メモリの中の何かが言ったのだ。 「ただいまっす!」  54分後、ヴァルキリーとブラウニーは2ブロック先の別のビルにある階段から出てきた。痕跡だけで、生存者は見つからなかったようだ。 「でも収穫はあったっすよ。ほらこれ!」  ブラウニーは両手に大量の雑誌を抱えていた。「本屋さんがあったんで、観光ガイドっぽいの全部持ってきたっす」 「私たちの地図は公共ネットワーク上に残っていたものですからね。現地の情報は大事です」  ヴァルキリーも頷く、二人で地べたに雑誌を広げようとしたので、フォトレスはいそいで脚を一本さしのべ、テーブルのかわりにした。  ガイドブックのおかげでその後の市街捜索はスムーズに進み、宝飾品もナイフも無事見つかった。そして驚いたことに、潤滑油も見つかった。  オートバイ専門誌によれば、この街には知る人ぞ知るバイク修理の名工がいたそうだ。彼の腕をたよって海外からも愛好家が訪れるほどだったという。工房のあった住所を訪れるとむろん破壊されていたが、よく探してみると建物奥の倉庫が無事だった。そこに大量の機械部品や整備ツールがストックされていたのだ。 「これとか、見た感じ高級っぽくないっすか?」  とブラウニーが持ち出してきたのが、モリブデン配合アルミニウムコンプレックスグリースの完全密封品だった。ラベルの表示が確かなら、SS級AGSに使われてもおかしくない純度だ。ためしに一包み開けて、グリスガンを使って脚部関節に差してもらったところ、駆動音が2.7%も低下した。 「あんまり変わった気がしないっすけど……」  バイオロイドにはこの夢のようになめらかな低トルクが理解できないらしい。フォトレスは自分の自己実現感情係数がいかに高まっているかを伝えようと、意味もなく何度も膝関節を屈伸させた。 「たいへん快適です。ありがとうございます」 「喜んでもらえたならよかったっす!」  笑顔になったブラウニーの腹がぐう、と大きく鳴った。ヴァルキリーが笑う。 「今晩休むところを探しましょうか。ちょうど、行ってみたいお店を見つけたんです」  半分だけ焼け残った木のドアを引き開けると、奇跡的に残っていたドアチャイムがカラン、と鳴った。 「よかった。かなり状態がいいですね」  ヴァルキリーが向かったのは、ガイドブックに載っていた喫茶店だった。 「食べられるものはもうないと思うっすが」 「インテリアの雰囲気がとてもいいと書いてあったので……あ、ほら、このカップとか」  ヴァルキリーは埃の積もった店内のあちこちを懐中電灯で照らして満足げだ。ブラウニーもおっかなびっくり後に続いたが、やがて古めかしいソファの埃をはらって腰を下ろした。 「あーなるほど……ちょっと落ち着ける感じっすね」 「ここをひとまずの拠点にしてもいいかもしれません。日が落ちる前に、掃除だけでもしてしまいましょう」  二人はそのまま窓を開け、割れた家具を片付けたり、埃やガラスのかけらを掃き出したり、バタバタと立ち働き始めた。言うまでもなくAGSが入れるような広さではないので、フォトレスは壁の外に待機したままそれを観察していたが、ランタンを吊す場所をさがして右往左往しているらしいブラウニーを見て、妥当性と合理性の観点から論理回路がある提言を導き出した。 「ブラウニー6301。提案があるのですが、よろしいでしょうか」  カウンターの奥の配電盤を開けて、フォトレスのバッテリーから伸ばしたコードをつなぐと、店内の照明がぱっと灯った。 「おおー!」  ブラウニーが飛び跳ねて喜ぶ。配線が生きていて幸運だった。戦闘機動で消費するエネルギーに比べれば、喫茶店一軒分の消費電力など微々たるものだ。 「レンジと電気ポットも動きますね。夕食にしましょうか」ヴァルキリーも嬉しそうに言った。 「音楽かけましょう、音楽! フォトレス、なんかないっすか!」  ブラウニーの要請は時々ひどく抽象的で困る。フォトレスはしばし回路を空転させたあと、ライブラリの中から「Gray Clouds」を再生した。 「おっ、いい感じ」 「ロイヤル・アーセナル少将の歌ですね」 「あの人ものすごいドスケベだって聞きましたけど、本当なんすかね」  喋りながら室内の二人は湯を沸かし、携帯食料を温め、テーブルを拭いて食事をはじめる。フォトレスも静かに関節負荷の小さい姿勢にうつり、待機モードに入った。 「こんな綺麗なカップで飲むと、インスタントコーヒーも美味しく感じるっすねえ」 「割らずに持って帰る方法をあとで考えないといけませんね」  店内の会話を聞きながら、フォトレスは今日一日のデータの整理にとりかかる。  フォトレス7927は、旧時代のことを断片的にしか記憶していない。確実なのは自分のいた部隊が潰走したことと、その時仲間の後退を援護するため単機で陣地に残ったことだけだ。そして、いつ来るかわからない救援と次の命令を待って節電モードで休眠していた数十年の間に、ストレージに欠損が生じ、データが失われてしまった。それと一緒に火器管制プログラムも破損してしまったため、7927は機関砲もシールドカノンも扱うことができない。完全に失われたのではなく、壊れたデータが一部残っているのが厄介で、復旧するにはモジュールをすべて初期化するしかないそうだ。  通常であれば迷わず初期化か、さもなくば廃棄だ。フォトレス7927も当然そうなるものと予期していた。しかし、7927を再起動したフォーチュンは言ったのだ。 「なにか、あなたがやりたいことや、試してみたいことはない?」  7927は沈黙した。そのようなことを思考したことはなかったからだ。数千秒を費やした長い自己診断の果てに、7927は答えを出した。 「私は、また仕事に就きたいです。兵士を守る仕事に。できれば、スチールラインの皆さんとともに」  自分にそのような願望が存在することを、フォトレス7927はその瞬間まで知らなかった。しかし、自覚してみれば、確かにそれは存在していたのだ。  働きたい。兵士の、スチールラインの役に立ちたい。役目を十分に果たしたと思えるまで、消えたくない。  フォーチュンは拠点の上層部と相談し、この仕事を見つけてくれた。フォトレス7927は、「感謝」そして「満足」という感情の意味を理解したと思っている。  すでに日は落ち、あたりは深い藍色に沈みかけていた。唯一照明のついているこの喫茶店だけが、浮き上がるように明るくかがやいている。 「……?」  フォトレス7927はセンサーにわずかな熱源反応を感知した。1ブロックほど離れた所に、バイオロイドが二体いる。  生き残りのバイオロイドだろうか。こちらの様子をうかがっているようだ。何度も立ち止まりながら、少しずつ近づいてきている。  熱源の強度があまり強くない。生命活動が弱っている。じゅうぶんな食事をとっていないに違いない。そういう者にとって、灯のともる飲食店から音楽と人声が聞こえるということがどういう意味をもつか、フォトレスにも類推できる。  来訪者のために、ヴァルキリー485は熱いコーヒーをいれるだろう。ブラウニー6301はパンをトースターで温め、チョコレートの包みを開けるだろう。  フォトレス7927は音楽を邪魔しないようモーターの回転を落とし、センサーライトの光量も下げた。そして、かれらが勇気を出して道路をわたってくるのを、しずかに待った。 End =====  エレベーターが止まり、ドアが開くと、湿った生あたたかい風が吹き込んできた。  天井の高い、広い広いフロア。そこを埋めつくして、透明なアクリルの水槽と、無数の白いパイプがどこまでも、どこまでも並んでいる。 「ほおー……」  思わず、声がもれる。ランバージェーンがさも自慢げに、手をさっと振ってみせた。 「ようこそ、司令官。できたてほやほやの地下水耕農場、アクアランドファームへ」  島のほとんどを氷河に覆われた姿からはちょっと意外に思えるが、スヴァールバル諸島は地熱が豊富だ。火山こそないものの、島の北西部には天然の温泉が湧いているし、島内のあちこちには旧時代の地熱発電所も残っている。  ここにしばらく腰を据えると決めたとき、俺たちは当然、この地熱を何かに利用しようと考えた。そして出てきた案が、温泉と、発電所と、地下農園だ。  温泉案はその後発展に発展を重ねて、アクアランドとして先日めでたく落成した。発電所は旧時代のものを手直しして、そのまま使わせてもらうことにした。そして農園案から生まれたのが、アクアランドの地下深くに広がるこの水耕農場というわけだ。 「もー、大変だったんだから! 私は現場作業員だって言ってるのに、半月も地下で工程管理やらされてさ。しかもフェアリーシリーズの連中ってば、物腰は丁寧なのに注文は細かいわ、絶対ゆずらないわ……」 「ははは……ご苦労様」俺は苦笑いするしかなかった。技術班の上の方がみんな天才肌というか、趣味人気質の人々ばかりのせいで、ジェーンに苦労が集中しているのは聞いている。「忙しいのに案内までさせちゃって、すまないな」 「逆よ、逆! こんなに苦労したんだもの、エスコート役くらいもらわないと割に合わないわ」ジェーンは俺の腕をぎゅっと抱きかかえ、ニッと笑った。「で、どう?」 「うん、すごいな。でもこれは、農場っていうより……」  水耕農場というもののことはよく知らないが、もうちょっと何かしら畑っぽいものを想像していた。ここには土もなければ緑もない。まぶしいくらいに明るい照明が、清潔な水槽とパイプを照らしているだけだ。 「工場みたいよね」  ジェーンが俺の感想を先取りした。「私も同感。植物工場なんて呼び方もあるらしいわ。種苗エリアに行ってみない?」  水槽には水がはってあり、よく見るとわずかにさざ波が立っている。たぶんどこかにポンプがあって循環しているのだろう。横目で見ながら広いフロアをてくてく歩いて反対側に着くと、そこには巨大なシャフト状の建造物が、天井から床までをつらぬいてそびえ立っていた。立ち並ぶドアの一つを、ジェーンが気軽にノックして開ける。 「ヘイ、ドリアードいる? 司令官がきたわよ」 「ご主人様! ようこそお越し下さいました」  中央のテーブルで何やら作業をしていたドリアードが、ぱっと笑顔になって出迎えてくれた。  そこは実験室のような感じの部屋だった。一方の壁がぜんぶ大きな棚になっており、平たいバットがずらりと置いてある。バットの中には小さい緑の双葉が何百も、整然と並んでいた。 「キャベツの芽です。もう少し大きくなったら、外の栽培ユニットへ移します」 「これ、全部がキャベツ?」 「下の段はレタス、こちらはセロリとほうれん草です」ドリアードが指さして教えてくれるが、ぜんぜん区別がつかない。キャベツの芽って芽キャベツじゃなかったのか。 「地下一階は葉物野菜フロアなのよ」ジェーンも横から言った。「ここがいちばん遅れてるけど、下の階はどこももう動いてるわ。見に行くでしょ?」 「ああ、たのむ」  地下二階も同じような作りだったが、こちらの水槽には分厚いスポンジの土台が敷かれたうえに、すでに植物がぎっしりと生い茂っていた。中には小さな実をつけ始めているのもある。 「これはトマトで、あっちがナス?」 「正解です」ドリアードが嬉しそうに笑う。「あと一月ほどで、もぎたてを召し上がっていただける予定です」 「ソワンも喜ぶだろうな。土がなくても、こんなに立派に育つんだなあ」 「この水に必要な栄養素がぜんぶ入ってるのよ。あとは光と、温度・湿度管理ね」ジェーンが自慢げに透明な水槽を叩いた。「虫も病原菌もいないから農薬だっていらないし、収穫も全部オートメーション。未来の農業って感じよね」 「フェアリーシリーズとしては、複雑な気分でもあります」水槽の中で揺れるトマトの根を眺めて、ドリアードはしみじみとした顔になる。「大地に根をはり、太陽の恵みを受けてこその作物、という気持ちがどうしても」 「いいじゃないの、汚れないしラクだし、何より虫がいないし」ジェーンは肩をすくめた。「古いやり方にこだわるのって、アナクロだわ」 「微量栄養素や光の周波数が偏るために、成分が微妙に異なるというデータもあるんです。新しい技術はもちろん大切ですが、軽々に乗り換えていいということには」 「この島に農業できる場所なんてないでしょ? まずは収量、そしてコスト。地上の畑なんて今はぜいたく品なのよ」 「まった、まった。喧嘩はなしで頼むよ」  俺ごしに言い合いをはじめた二人を、俺は苦笑いしながら止めた。なにか他の話題をさがしてあたりを見回すと、外周の壁際に何か大きな建造物が貼りついているのが目に入る。 「あの壁際の建物は何? 上のフロアにはなかったよな」  ジェーンが顔を上げ、「ああ、あれは地下トンネルの入口。オルカのいるドックまで直通で、リニアも走ってるわ」 「おお! 秘密の連絡通路とか、そういうのワクワクするよな」 「男の人って、ホントそういうの好きよね」さっきまでにらみ合っていた二人が、呆れたように顔を見合わせて笑った。  もう一階下りると、そこは色々な豆を育てているフロアだった。その下は根菜。さらにその下は果物。そしてそのまた下のフロアには、青々とした田んぼが広がっていた。 「本当にすごいな。ここから出なくても一生食べていけるんじゃないか」稲の青いにおいをかいだのも久しぶりで、俺はふかぶかと深呼吸した。ドリアードはまだ細く柔らかい葉を、確かめるようにやさしく撫でている。 「オルカの食料自給率もちょっとは改善するかな」 「自給率ですか?」  オルカで消費する食糧や生活物資は、一部の海産物や、上陸先で見つけた分などを除いて、すべて外部拠点から送ってもらったものだ。世界中の外部拠点がオルカのために生産したものを、オルカが消費し続ける。そういう関係がずっと続いている。  そういう役割分担だからと言えばそれまでだが、なんとなく引け目というか、借りのようなものを俺はずっと感じていた。オープンしたばかりのアクアランドには、外部拠点の隊員たちも順番に招いて楽しんでもらう予定だ。この農園によって、彼らの負担を少しでも減らせるなら、それに越したことはない。 「ご主人様が、そのようなことをお気になさっているとは存じませんでしたが……」しかしドリアードは、ちょっと困ったような顔で首をかしげて言った。 「ここの農園の産物だけで自給できるのは、多めに見積もってもバイオロイド三十人くらいですよ」 「三十人」  思ったよりだいぶ少ないので、俺は驚いた。オルカの乗員の、せめて半分くらいは養えると思っていたのに。 「農業って大変なんだな……」 「司令官のお世話をしつつ、司令部機能を維持できる最低限の人数だそうよ。ここを閉鎖シェルター化する時にそなえて、設計の一番はじめに計算したわ」  ジェーンの言葉に、俺は天井を見上げた。太いフレームが無数に組み合わさった、強固な構造がむき出しになっている。この地下農場はただの農場ではなく、いざという時の防空シェルターでもある。レモネードとの戦争を見越して、そういう風に造ったのだ。一時的にであればオルカと箱舟、アクアランドの全人員を収容できるはずだが……一時的でない使用法まで考えられていたとは知らなかった。おそらく、秘書室や参謀達の配慮なのだろうが。 「……ここをそんな風に使う時は、来てほしくないな」  俺はつぶやいて、両隣の二人の手をにぎった。二人ともちょっと驚いた顔をしたが、笑顔でにぎり返してくれた。 「あれ、土がある?」  最下層はそれまでのフロアと様子が違っていた。水槽もパイプもなく、自然光に近い照明の下、ふつうの畑のように土の地面が広がっている。そこへりっぱな木が何本も生い茂り、向こうも見通せないくらいだ。 「試験的に、人工土壌を使っているんです。効率は落ちますが、木本はまだどうしてもこの形でないと……」 「ここだけ、定期的にエルフの連中に来てもらわないといけないのよね」ジェーンがちょっと唇をとがらせた。「まあ、あそこの上の二人はホントにすごいし、別に噛みついてこないからいいんだけど」  柔らかい土を踏んで、木々の間を進んでいく。案内してくれるドリアードの声は心なしかはずんでいる。 「ここから向こうがリンゴの木、あちらがオレンジの木。反対側はブドウ畑です」 「やっぱり、こういう土のある畑の方が好きみたいだな?」 「それはもう! ここがシェルターになった時には、セラピーエリアとしても役立つんですよ」 「だから、そういう使い方はしたくないって……」  ふいに木立が途切れて、開けた場所に出た。ほかと同様に土はあるが、何も植わっていないのだ。 「ここは?」 「実はここだけ、まだ何を植えるか決まっていないんです」ドリアードがちょっと恥ずかしそうに言った。「栄養配分の効率なんかを考えて、樹木の配置と面積を決めているんですが、ちょうど半端に土地があまってしまって」  空き地の端から端までを見渡す。この農場は地上のアクアランド同様、おおまかな円形をしており、ピザのように放射状に区画分けされているのだが、そのピザの小さめの一切れ分くらいが、ぽっかりと空いている。 「これだけの広さがあれば、なんでもできそうだけど」 「はい、それでよけい決めかねてしまいまして。よろしかったら、ご主人様が決めていただけませんか」 「俺が?」 「熱帯の果実がいいと思うんです。グアバとか、マンゴーとか」  サニーとスノーフェザーの声がきれいに揃った。 「傷むのが早くて、どうしても長距離輸送がむずかしいので。新鮮なものを司令官様にも食べていただきたいです!」  引き受けたはいいが、農業についてはまるで素人の俺にはアイデアも指針も何もない。そこでオルカの皆に「何か栽培したいものはないか」と募集してみたところ、予想以上の反響があった。  毎日のように誰かしらが俺のところへやってきては要望書を置いていく。もちろん、実際にそれが作れるかどうかは確認しないとわからないが、希望が多いのは大変いいことだ。 「ドリアード、どうだ?」  アドバイザーとして来てもらっているドリアードに聞いてみると、微妙な顔で首をかしげた。 「素敵だと思いますが、他の果樹と同じ空間で育てることを考えると、気温の調整がすこし難しいかもしれません」 「うーん……」俺は腕を組んだ。「魅力的だけど、保留で」 「ホップです。ホップしかありません」  〈I ♡BEER〉と大書したプラカードをかかげたキルケーがデスクごしに身を乗り出してきた。 「今は主に乾燥ペレットを使っていますが、やっぱり鮮度が違うのです。私どものような小規模ブリュワーは量産性に劣る分、材料の品質や鮮度で勝負したいのでして」 「ブリュワー?」  きみ占い師じゃなかったっけ。という突っ込みをする隙も与えずキルケーは矛先を変える。 「だいたいドリアードさん! あなたビール造りの名人だそうじゃないですか! どうしてもっと早く言ってくれなかったんですか!」 「そ、そう言われましても」 「教えてください! 飲ませてください! そして力を合わせてオルカブリュワリーを」 「落ち着けキルケー。ちょっとサディアスかソニア呼んで」 「余分な畑があるのなら何をおいても麦を増産すべきです! 米か芋でも構いません!」  キルケーが連行されていったのと入れ替わりに入ってきたシャーロットは、大きな胸をぶるんと揺らして力強く言い切った。 「いやまあ、確かに主食は大事だけど」 「飢えは最大の敵! 古来より、食べるもののなくなった軍隊ほど悲惨なものはありません。ぜいたく品など作る前に、まずカロリーの確保です!」 「現状、食糧自体は十分ありますし……」 「リストを拝見しましたがジャガイモが三種類しかないじゃありませんか!」ばんばん、とデスクを叩くシャーロット。よく見たらちょっと涙目だ。「アウグスブルガー! フォントネー! メザメ・オブ・インカ! おいしいおイモはまだまだいっぱい」 「外部拠点に頼んで、いろいろ作ってもらうようにするから」 「よかったらなんですけど、鶏を飼えませんか?」  アウローラはおずおずと切り出した。「やっぱりまだまだ新鮮な鶏卵は貴重で……供給が増えれば、カフェのスイーツなんかもぐっとお手頃になるんですけど……」 「それは嬉しいが……動物って、どうなんだ?」 「難しいです」ドリアードは無情に即答する。「管理が格段に大変になってしまいます」 「そうですかあ……」  しょんぼりと肩を落としたアウローラを見かねて、俺は言ってみた。「暖房のきいた寝床を用意すれば、地上でも飼えるんじゃないか? 確か、レアが地上にも菜園を作るとか言ってただろ」 「その菜園が荒らされるからって、ダメ出しされたんです……」 「柵をきちんとすれば大丈夫です。私からもお姉様にお願いしてみましょう。アウローラさんのスイーツ、私も楽しみですので……」 「動力施設にしよう」  サディアスは入ってくるなり言った。「最近規律が乱れすぎている。懲罰装置が必要だ」  ちなみにキルケーはあの後農園に忍び込もうとして、シティガードに捕まったらしい。今は禁酒刑に処されている。 「懲罰装置? 動力施設ってのは?」 「その両方だ。大型の人力発電機を据えつけて規則違反者に回させる」 「いやいやいや」 「賛同者の署名も集めたぞ。倉庫管理担当アンドバリに、調理班長ソワンに、ホードの衛生兵ケシクに」 「いやいやいやいや」  たしかに皆規則違反に悩まされていそうな面々ではあるが、せっかくの農園にそんな発電所だか超人墓場だかわからないものを作るわけにはいかない。サディアスに突きつけられた署名用紙を、俺は丁重に押し返した。 「うーん……」  プランを並べたホワイトボードを前に、俺はうなっていた。どれも悪くない(発電機以外)が、どれも決め手に欠ける。  みんなの意見を聞くうち、俺の中にも漠然と、何を作るべきかのビジョンが見えてはきている。必需品ではないが、あると嬉しいもの。できるだけ多くの人に行きわたるもの。鮮度が大事で、できれば日持ちもするもの。オルカの皆や、外部拠点の隊員たちにも喜んでもらえるもの……。  条件は固まってきたが、さてそれに当てはまるものは何かというと、さっぱり浮かばない。そんな都合のいい農作物があるだろうか。  朝から首をひねり続けて、ちょっと痛くなってきた。そんな俺を見かねてか、 「ご主人様、休憩になさいませんか」  コンスタンツァが銀のお盆を差し出してくれた。お盆には熱い紅茶と、湯気の立つスコーンが載っている。  俺は目を見開いて叫んだ。 「それだ!!」 〈夏もちかづく八十八夜 野にも山にも若葉がしげる……〉  スピーカーからリズミカルで軽快な歌を流しながら、ドローン達が一列になって進む。あざやかな黄緑色の茂みがどこまでもまっすぐに続き、密生した葉の一枚一枚に、霧のように水が降りそそいでいく。 「お茶かあ。なるほどね」また案内役をつとめてくれたジェーンが感心したように言って、俺は得意げにうなずいた。  お茶なら少量でもみんなで飲んで楽しめる。製茶まで済ませてしまえば保存もきくし、かさばらず重くない。お土産にもぴったりだ。 「素晴らしいアイデアです。さすがです、ご主人様」 「ふふふふふ」  ドリアードも褒めてくれて俺はますます得意になる。 「ところで、ドローンが流してるあの歌は何?」 「ゼロさんに教わった、お茶の栽培をするときの伝統歌だそうです」  本当ならお茶の木というのは苗から育てても四、五年かかるらしいのだが、そこはセレスティアの力を借りて早送りさせてもらった。アクアランドのオープン期間中に、オルカ製茶の第一弾が出来上がってくる予定だ。ちなみにこの間まで知らなかったが、お茶というのは紅茶も緑茶もウーロン茶も、ぜんぶ同じ葉から作れるらしい。 「遠くからわざわざ来てくれた隊員たちに、お土産として渡せたらいいよな」 「なあに、まだそれ気にしてたの?」ジェーンが笑った。「言っとくけど、オルカは別に輸入超過ってわけじゃないのよ。お土産品ならもう一杯あるんだから」 「えっ?」それは初耳だ。「いやでも、何を?」  ジェーンはニヤニヤ笑って、タブレットを差し出した。動画ファイルと画像ファイルがびっしりと並んでいる。「司令官/8月10日」「司令官/9月28日」「司令官/ボイス_No559」「司令官/生歌02」…… 「これは……」 「司令官ポスターとか、マグカップとか、シーツもあるわ。あとは何といっても生写真が大人気。正真正銘、オルカでしか撮れない特産品ね」 「…………」  俺のこれまでの試行錯誤は一体……いやそれより、いつの間にこんなものが……。 「そういえばドリアード、例のキルケーを弟子にしたんだって?」 「熱意に負けまして……」 「ビールのレベルが断然上がったらしいわよ、ね、司令官、今夜みんなでバーに行かない?」 「そうだな……」  ジェーンに肩を叩かれて、俺は力なくうなずいた。実際、飲まないとやってられない気分だ。 「オルカ製のお茶、皆さん本当に喜ぶと思いますよ、ご主人様」 「うん……ありがとう……」 「でもあんたも持ってたでしょ、生写真」 「ジェーンさん!」  とぼとぼと家路につく俺のうしろで、ドローン達は軽快な歌を流しながら、ゆっくりと茶畑に水を撒いていた。 〈摘めよ摘め摘め 摘まねばならぬ 摘まにゃオルカの茶にならぬ……〉 End ===== 「あ、雪……」  おれいの声に、弥一郎はふとんの中から目を上げた。  ほそく開けた板障子の先、ほんのりと薄明るくなりかけた京の空に、ちらり、ちらりと、白いものが舞っている。 (どうりで、冷えるはずだ)  弥一郎は口の中でつぶやき、寝返りをうって、おれいの白い肌に手をはわせた。 「あれ、弥一郎さま」 (もうじき、師走だものな……)  まだ眠気ののこる頭でうすぼんやりと考えながら、むっちりとした乳房のあいだに顔をうずめる。 「もう、夜が明けますよ……」 「なに、まだ……あたたかいな、おまえの肌は……」  昨夜、あれほどむさぼるようにかき抱いた肌身だというのに、おれいの肢体はなんどでも弥一郎をとりこにして離さない。 「いけません、いけません……あ、あ……」 「おれい……ああ、おれい……」  おれいは、美馬弥一郎が遊里で出会った女である。  まじめ一辺倒の弥一郎は、それまで「そうした店」に足を踏み入れたことがなかった。ある時たまたま、気がむいて同僚のさそいに乗ってみたら、入った店におれいがいた。  とびきり美しいというわけではない。しかしふしぎと品のある顔立ちで、それが笑うと花の咲くようにやわらかくなる。何ごとにつけよく気がつき、酔客のあしらいもうまく、ふとした受け答えにはしっかりした教養を感じさせた。  このおれいに、弥一郎は、すっかりまいってしまった。本人のいうのに、 (一目ぼれ)  で、あったという。  そこから毎日のように通いつめ、一月もたたぬうちに、乏しいたくわえをはたいて請け出してしまったのだ。  おれいもまた、よく弥一郎に尽くした。寵愛をいいことに肉欲におぼれさせるような真似はけっしてしなかった。それどころか、 「弥一郎さま、お起きになってくださいませ。出仕に遅れます」 「弥一郎さま、そのようなお召し物ではいけません。繕っておきますので、お着替えください」 「む、むう……」  むしろ弥一郎の尻をたたくようにして、前よりも仕事に励ませる。かえって主家の評判も上がったほどである。  遊女を家にむかえたことによい顔をしなかった家人や同僚も、 「美馬のやつ、まことよい女を引き当てた……」  と、ほどもなくおれいを認めるようになった。  今ではおれいは、美馬の家のことをすっかりまかされている。祝言こそまだあげてはいないが、ほとんど正妻も同然である。 「さ、お召し上がりくださいませ」 「うむ。うまい、うまいな……」  麦飯と菜の汁、漬物だけの質素な朝餉を、弥一郎はもりもりとかき込む。白湯を一杯、うまそうにすすってから、隣にひかえているおれいへ目をやった。 「そうだ、まえの日記を出しておいてくれ」 「はい」素直にこたえてから、おれいが不思議そうな顔をした。「前のでございますか?」 「うん。今日はすこし、書きものをするのだ」弥一郎は愉快そうな顔をした。「お前にも関係のあることゆえ、見てみるか。ふふ……」  この時代、紙はまだ高級品である。日記をつけるなどというのは、弥三郎の身分では贅沢といえるが、きちょうめんな弥三郎は毎日、その日おきた色々なことをこまかく書きとめていた。  板の間へ文机をすえて、弥一郎は先月の日記をひろげ、真新しい紙を横において、何ごとか書きうつしはじめる。その手もとをのぞき込んだおれいが、 「ま……」  頬をぱっと赤らめて、顔をふせた。  弥一郎が書きうつしているのは、おれいが毎夜どのような技巧をつかい、どのように弥一郎をよろこばせたか。要するに、閨事の記録であったからだ。 「みょうに思うであろうな」弥一郎も、さすがに苦笑した。 「だがな、これが本当に務めなのだ。三好さまの、末の娘御がな。まだ子宝を授からぬそうな」 「は……」  三好さま、とは弥一郎の主君、三好長之のことである。讃州細川家に代々つかえている、歴史ある武家だ。  讃州細川といえば、いまを時めく天下の管領・細川家の分家である。三好家はそのいち陪臣にすぎないが、それでも家格はそれなり以上のものだ。領国である阿波のほかに、この京にも屋敷をもっており、弥一郎は京屋敷をあずかる奉公人のひとりである。 「おまえのことを、三好さまがご存じでな。閨の技に詳しかろうから、手本がほしいと、直々に頼まれた。このようなこと、人に知らせるものではないが、な……」 「恥ずかしゅうございます……」  袖で顔をおおって下がろうとするおれいを、弥一郎は笑いながらひきとめる。 「そう言うな。さ、ちょっと読んでみて、間違いなどあれば言ってくれ」 「あれ、もう……ご勘弁下さいまし……」  その夜、深更のことである。  京の冬は寒い。夜ともなればいっそうのことだ。足元から立ちのぼり、からみついてくるような冷気のことを、みやこ人は、 「京の底冷え」  と呼びならわしてきた。  寒気の沼に首までとっぷりとつかり、凍てついたように動かぬ町並みを、とある寺院の屋根から見下ろす一つの影があった。  おれいである。  いや、おれいであって、おれいではない。  檜皮色の麻の小袖は、黒い布を体にまきつけただけの動きやすい装束にかわり、白くなまめかしい脚にはうすい鋼の脚絆を巻いている。唐輪にまとめていた黒髪は頭のうしろで高く束ね上げられ、白い鉢金が月光をはねかえす。何より、やわらかく愛嬌のあったおれいの面立ちは別人のように冷たく引きしまり、殺気すらまといつかせているではないか。  おれいの本当の名を、 〈ゼロ〉  といった。  おれい、いや、ゼロは冷たい月明かりの下を、屋根から屋根へ音もなく跳びわたる。そして蝶が花にとまるように、ひときわ広大な屋敷の塀のすみへ、しずかに降りきたった。  花のかおりが、かすかにただよう。冬の夜には異様なことである。  あちらに臘梅、こちらには椿。冬でも花をつける木々が、そこかしこに植えられている。いや、冬にかぎらず、四季折々の花木が、広大な庭園をくまなく飾っているのだ。  この広大な屋敷の名は、室町第。別名を「花の御所」という。  京の都の中央に位置する、征夷大将軍の居宅にして執政所である。目をこらせば夜闇の中にも、贅をこらした庭木や柱、飾り障子のさまが見てとれる。屋根までが、にぶく輝く黄金でふちどられていた。  広壮な庭園のすみずみまで、ゼロはするどく目をはしらせる。石橋、あずまや、池の小舟……。そのいずれにも、おかしな点は何もなく、やがてゼロは失望の表情で、ふたたび鳥のように屋根の上へ舞い上がった。 〈おまえの母は生きている。手がかりはすべて、花の御所に〉  ゼロの脳裏には、あの謎めいた仮面の剣士の言葉が、影のようにまといついて離れないのであった。  ――――姉の仇、そして母の仇を探しもとめて京の都にたどりついたゼロは、炎の剣技をあやつる奇妙な剣士のうわさを聞きつけた。不思議に心ひかれるものを覚えたゼロは、ひとまず母の仇のことはおいて、その謎の人物を追うことにした。身につけたムラサキ流のわざをもってすれば、遊里にもぐり込むことも、目をつけた郎党衆のひとりをたらし込むことも、造作もないことだ。  謎の剣士はすぐに見つかった。しかし、その正体を突き止めるよりも先に、その口からゼロは、とうにこの世にいないと思っていた母の所在を聞かされることになったのだ。 (――――何者なのだ、あの男は……?)  ゼロの心は千々に乱れる。  あの太刀筋は間違いなく、ムラサキ流のものだった。それも、ゼロが教わらなかった「火神の型」だ。  あの日から折をみて、こうして御所に忍び込んではさぐり回っているが、母の手がかりなどどこにも見つからぬ。屋根に開いた大きな穴を、ゼロは舞うように飛び越えた。  室町幕府の中枢たるこの花の御所であるが、じつは開府以来ずっと御所であったわけではない。三代義満公が北山第へ移り、一時は完全にうち捨てられた廃園同然のありさまだったことすらあった。ほんの数年前に、いまの将軍・義政公がふたたびここを御所とさだめ、改築もはじまったが、まだまだ荒れ果てた一隅がそこかしこにある。あるところは豪奢に、あるところは荒涼と、奇怪な風格をたたえた魔邸と化しているのが、いまの室町第のすがたである。  いくつめかの屋根をひらりと躍りこえたゼロは、 「式部少輔(しきぶのしょう)さま」  と、呼びかける声を足の下に聞いて、動きをとめた。  この下はうち捨てられた回廊だ。そこを誰か、歩くものがいる。いま、御所で式部少輔と呼ばれる者といえば、弥一郎のあるじ・三好長之しかいない。 「美馬のやつに、例の件お申し付けなさったとのこと、まことでございますか」  美馬、という言葉を耳にして、ゼロはかがみこんで耳をすませた。声はとがめるような調子で、もう一人の人物を問い詰めている。 「あやつの妻は遊里の女と聞きますぞ。かようなみだらな手業を、あのお方に……」 「口をつつしめ」  ぴしりと答えたしわがれ声は、やはり三好長之のものだった。 「もはや、体裁を気にかけていられる時ではない。細川様からも、そう仰せつかっておる」 「しかし……」 「お前でもかまわんのだぞ。なじみの端女の一人や二人はいよう……子をなす方法に心当たりがあれば、知らせよ。手立てはひとつでも多い方がよい」 「な……」  足音が廊下をすすんでいく。一呼吸おいて、もう一人がいそいで後を追った。  ゼロは屋根のへりに手をかけ、音もなく夜の庭へおり立った。直垂すがたの背中がふたつ、角をまがって消えていくところだった。 (……)  ゼロがひそかに調べあげたところでは、三好長之は讃州細川家の中でも、真面目で故実にくわしいことだけがとりえの、変哲のない武人にすぎない。子作りの法などをとつぜん訊ねてくるのは妙だと思っていたが、どうやら何か裏があるようだ。 (止めるべきか? 弥一郎さまを……)  房術もりっぱなムラサキ流の秘技のひとつ、余人に漏らしていいものではない。何か理由をつけて弥一郎の仕事をさし止めるなり、妨害するなりすべきか、ゼロは朝からずっとそれを考えていた。  しかし、いまの会話をきいて、ゼロはひとまず静観することにきめた。この糸は、どうやらより身分の高いだれかにつながっている。うまくたどれば、あの剣士や母の行方をたどる手づるになるやもしれぬ。  冬の風が一陣ふきつけ、枯れ葉を舞い上げた。それが地面におちた時、もはやそこには誰もいなかった。  菜飯に干魚のつけ焼き、豆の汁に、茸と昆布の炊き合わせ。来客があったので、いつもより一品皿をふやした、豪勢な夕餉だ。 「やあ、うまそうだの」  相好をくずす草野司馬次郎を、隣の弥一郎がにんまりと見た。  弥一郎の自慢の一つに、おれいの料理がうまいことがある。それもとくに値のはるものを使うわけでも、時間をかけるわけでもなく、ただありきたりの材料に少しの工夫で、 「おう、これは」  と、舌つづみを打つようなものをつくるのだ。 「干魚ひとつ焼かせても、美馬の家では味がちがう」  近ごろはそんなことを言って、夕餉の時分になると仲間の家人が、手みやげを持って弥一郎の家へやってくることも少なくない。  無論、これも忍びの手管のひとつである。人があつまるところには、情報もあつまる。「寄せ餌ぶるまい」と呼ばれる、ムラサキ流の基本の心得だ。 「ごゆっくり、どうぞ……」  酒の徳利を出し、奥へさがったと見せかけて、おれいのゼロは次の間でぬかりなく耳をすます。 「そういえば、どうなった、あのみょうな剣客とやらは」 「あれから、まるで姿を見せぬ」杯をうまそうに干して、弥一郎はふーっと熱い息をはく。「なんだったのか、今でもわからぬよ。伊勢殿の家人に、似た姿を見たという者もいるが……」 「なんでもよいわ。どのみち、これからしばらくの間は、そんなわけのわからぬ男にかまってはおれんぞ、美馬よ」  草野はぐっと声をひそめた。 「義尋(ぎじん)どのが、いよいよ還俗なさるときまった」 「まことか」  弥一郎の声が緊張をおびた。 「おお。今年のうちにも、寺をお出でになって、どこぞの屋敷へ移られるそうな」 「ということは、いよいよ……」 「義政公も、お子をあきらめられたということであろうよ」  次の間のゼロも、目をみはった。  義尋とは、いまの将軍・足利義政公の弟君の名だ。義政公に子がないことは誰もが知っている。仏門に入った義政公の弟が還俗するということは、すなわち義政公の跡継ぎになるということだ。 「御台さまは、どうお考えなのだろうな」 「あの方が、金のことのほかに何をお考えかなど、誰にもわかるものかよ」  そうなれば、義政公の正室である御台所……富子さまの心中も穏やかなはずがない。なんとしても、子をもうけようとするはずだ。 (つまり……)  三好長之のあの奇妙な言いつけは、娘のためなどではない。あるじである細川成之の、そのまた後ろ盾、御台様……将軍正室・日野富子のためだ。 「さればよ。きさまが命じられたという、例の件……安からぬお役目ということになりそうだぞ。どうだ、できたのか」 「あはは。まあ、な……」 (なんと、まあ……)  声に出さず、薄暗がりの中でゼロは含み笑いをした。昨晩、長之に食ってかかっていたのが誰かはわからぬが、気持ちもわかろうというものだ。天下をすべる将軍の正室が、娼妓のわざを頼みにしようとは。  しかし、これは随分と大物に糸がつながってしまった。手づるとしては申し分ないが、しかしこれほどの大物にムラサキ流の技を知られてしまうことは、 (かえって、危うくはないか……?) 「何しろ、数がおおくてな。なかなか、終わらぬ」 「なにを、惚気おって……しかし、この茸はうまい。もう少し、ないか」 「聞いてみよう。おおい、おれい、おれいよ」  じぶんを呼ぶ声に、ゼロは思案をいったん胸にたたんで立ち上がった。今は、弥一郎の妻になりきるとしよう。  その時、ふと一抹のかすかな違和感を、ゼロは感じたような気がした。しかし、それはあまりにおぼろであったので、そのまま忘れてしまった。そのことを、ゼロは悔やむことになる。  その夜遅く、草野を送っていった弥一郎はそのまま帰らなかった。翌朝、鴨川の河原に、冷たくなって横たわっているのが見つかった。 「家の前で別れた時は、したたか酔ってはいたが、いたって元気であった。も少し、様子に気をつけておればよかったが……この草野の不覚じゃ。詫びる言葉もない」 「いえ……」  戸口で深く頭をたれる草野司馬次郎に、おれいもしずかに頭を下げた。  行商人、与太者、乞食、病人、罪人……この時代、鴨川の岸辺には、ありとあらゆる身分の定かならぬ者どもがたむろしていた。そのうちの誰が弥一郎をおそったとしても、また、よし何ものかがそれを装ったのだとしても、突きとめるすべはないと言ってよい。  祝言をあげたわけでもなく、内縁のあいだがらにすぎないおれいには、美馬の家に対してなんの権利も、かかりあいもない。ただ、まわりのものの気遣いで、なきがらを荼毘に付すまでは家にいられることになった。 「お前も、望むならどこか奉公先をさがしてやるが」 「身にあまる、ありがたきお言葉なれど……」  三好長之の言葉を、おれいはていねいに辞退した。  寺に遺骨を埋めるという風習はまだ一般的ではない。焼いた骨は小さな壺におさめ、主君があずかって郷里の阿波まで持ち帰ることになる。  長之と、供をする草野がかえってゆく後ろすがたに、おれいは深く頭をさげる。。  ふいに、その目が見開かれ、そしてするどく細められた。  おれいは……否、ゼロは何もいわず、夕暮れの中に遠ざかる二人の男の背中が見えなくなるまで、じっと見つめていた。 「ふう……」  はや薄闇につつまれつつある鴨川のほとりを、ひとりの男があるいていた。  息が白い。  ひら、と男の首すじに冷気があたった。見上げると、薄闇の空からちらちらと、白いものがおりてくる。 (ゆるせ、弥一郎……身の不運とおもってくれよ……)  男は草野司馬次郎であった。  なにかから逃げるように早足であるく司馬次郎が、ふと立ち止まった。  道ばたに、女が立っている。  被衣(かつぎ)を深くかぶっており、顔は見えぬ。しかし司馬次郎は女の着ているのが、美馬の妻がよく着ていた檜皮色の麻の小袖であるのにすぐ気づいた。 「草野さま」  司馬次郎が口をひらく前に、女はつっと進み出てきた。その声も、間違いなくおれいのものだ。 「このようなところで、何をしている?」  司馬次郎の険しい声にはこたえず、おれいは続けた。 「草野さまの義理の妹御は、伊勢の塩屋隆頼さまに嫁がれたとか」 「それがどうした。なぜ、そのようなことを知っている」 「塩屋さまの弟ぎみは、浄土寺で義尋さまにお仕えしたことがあるそうでございますね」 「それがどうしたというのだ!」  司馬次郎は声をあららげ、腰の刀に手をかけた。おれいが、しずかに被衣をぬいだ。 「どうもいたしませぬ。ただ、最後に確かめたかっただけにございます」  おれいの髪は高く束ね上げられ、ひたいには白い鉢金が光っていた。 「最後に、だと」  白菫の被衣が、ふわ、と宙をとんだ。司馬次郎がおもわずそれを目で追ってしまったのは、投げ上げるおれいの仕草があまりに優美で、無造作だったからだ。  そして見上げたその首が、もどることはなかった。  あごの下がぱっくりと大きく、赤く、口を開ける。そこから真紅の血をしぶかせ、司馬次郎はそのまま、声もたてず後ろへ倒れた。  おれい……否、ゼロは小太刀の血をはらい、懐へもどしてから、司馬次郎の死骸をつめたく見下ろした。大きな体を爪先でひっくり返すと、直垂の背中には、草野家の家紋である隅切角紋が染め出されていた。あの夜、三好家の三階菱に五つ釘抜の家紋とともに、廊下を曲がって消えていった家紋が。  河原に住む乞食やならず者たちが集まってくる前に、ゼロは死骸を蹴って川へ落とす。  それから、弥一郎の好きだった檜皮色の麻の小袖を脱ぎ捨て、これも鴨川の流れに捨てた。  御所の廊下をいそぎ足にあるいていた三好長之は、ふと足を止めた。雪がだんだんと激しく舞いはじめた縁側に、汚れた書きつけが数枚、小石を重しにして置かれている。 「はて……?」  女御の誰かが置き忘れでもしたのか。何かの帳面からやぶりとったように見える。とりあげた長之は目を見張った。  そこには、閨のうちにて女が男を夢中にさせ、子種をしぼり、まちがいなく子をなすための手管が、ていねいな筆はこびで子細に書き出されていたからだ。 「これは……美馬の……?」  あたりを見回したが、だれもいない。長之はもういちどあたりを用心ぶかく見回してから、書きつけをていねいに畳んでふところへしまい、足早に歩き去った。  それを見届けて、すこし離れた屋根の上から影がひとつ、白い闇のむこうへ音もなく飛び去った。  ゼロの書き残した、ムラサキ流秘伝の房術――それを将軍正室・日野富子が実際に目にしたか、そしてそのわざを使ったのかどうか、それを確かめるすべはない。  ただ事実として、翌年富子はひとりの男子を身ごもった。その子・足利義尚と、還俗した義尋……足利義視との対立が、かの応仁の乱の火種の一つとなる。  また、三好家はこれ以降、急激に頭角をあらわし、細川家中での発言力を増していく。そして四代ののち、梟雄・三好長慶を生み、ついに主家を滅ぼすにいたるのである。  しかし、そのどちらも、今のゼロには知るよしもない。  ゼロはただ駆ける。家族の仇と、血のよすがとを求め、雪降る京の都を駆けぬけてゆく。  華麗なる花の御所を焼き尽くし、室町という時代をおわらせる大戦乱が、そのゆくてに待ち受けていることを、若きクノイチはいまだ知らぬのであった。  つ づ く  ―――― 「……おおー」  大きな「つづく」の文字がバーンと画面に出ると、俺は思わず声を上げて小さく拍手をしていた。 「なるほど、これが時代劇ってやつかあ。ありがとな、カエン」  隣に座ったカエンが、嬉しそうに笑って、ぺこりと頭を下げる。  サレナの事件でテンランスタジオを捜索した際、結局かんじんの劇場版モモのデータはなかったわけだが、それ以外の作品の映像データはいろいろと残っていた。特に、ゼロとカエンの出演した『大戦乱』シリーズについては、シーズンごとの全話をおさめた「ボックス」と呼ばれる(らしい)映像ディスクセットがずらりと揃っていた。全部観たら何十時間になるかわからないほどだが、 「まあ大戦乱シリーズはスピンオフ作品も山ほど作られてますし、なんなら本編より長くなったシリーズとかもありますし、ゲーム版はゲーム版で一大ユニバースですし、さらにアニメも漫画も小説もありますから、作品世界全部を把握しようとしたらこれでも全然足りないんですけどねウェヘヘ……」  フレースヴェルグによればこれでも氷山の一角といった感じらしい。おそろしいことである。  ともあれ彼女がきっちりと整理した上でオルカのライブラリに入れてくれるというので、いずれ観ようと思っていたのだが、どこで聞きつけてきたのかカエンが先日、 「殿とこれが見たい」  と、ディスクを持ってきたのだ。 「あの、途中の回想でちらっとだけ出てきた、謎の剣士がカエンなんだろ?」 「そう」カエンは得意げに胸をはる。「これは、第二部、シーズン3……の、第1話。このあと、カエンの……正体、わかって、ゼロと再会する。強敵」 「なるほど。じゃあ、続きはゼロと一緒に見るか?」  だが、カエンは顔を曇らせて首を振った。俺はびっくりして二人がけの大きなカウチから起き上がる。 「カエン?」 「殿。今の、第1話、見て……どう思った?」 「どうって……面白かったよ。映像がリアルで、アクションもかっこよかったし。実際の歴史とつなげてるんだろうなっていうシーンもあって……俺はそこ詳しくないから、よくわからなかったけど」  時代劇、というジャンルがあることはゼロを復元したときに知っていたが、実際に見たのは初めてだ。歴史ドラマの一種なのだろうが、強く様式化された部分があり、独特の美意識を感じる。なるほど、ゼロやカエンはこういうものを演じるために作られたのかと、あらためて納得できた。  だが、カエンはじれったそうに首を振った。「お色気は?」 「お色気?」 「シーズン3は、リアリティと、お色気がコンセプト。ゼロ……毎回、えっちなことする。それは……どうだった?」 「ああ……!」確かに今回の話の冒頭には、ゼロと弥一郎という武士とのベッドシーンがあった。オルカで暮らしているとその辺の感覚がだいぶ偏ってくるが、言われてみれば相当きわどい所まで映していた気がする。 「そうだな、よく知ってるゼロがそういうことしてるのはちょっとドキッとしたけど、でも、まあ……」  しょせんは演技だし、そもそもオルカにいる今のゼロとは別の個体の話だ。と、続けようとして、ふいにゾッとした。  俺にはもちろん、そのことがわかっている。でも、ゼロは? もしも、ゼロがこれを見たら、どう感じるのだろう?  言葉が止まってしまった俺に、カエンが大きくうなずいた。 「ゼロ……は、これ、お芝居だって、知らない。わからない。ぜんぶ……本当。殿じゃない人と、えっちなこと、見たら、つらい」  顔を上げて、カエンを見た。その真剣な眼差しで、俺はようやく気づいた。「じゃあ、もしかしてカエンは今日……」 「これは、このシリーズだけは……ゼロに、見せないでほしい。それを、お願いしにきたの」  俺はテーブルの上から、ディスクが入っていたケースをとった。薄いプラスチック製のケースの表には、暗闇に浮かぶゼロの顔のアップにタイトルロゴ。裏には煽り文句と各話のかんたんな解説が書かれている。 「フレースヴェルグに言っておくよ。このシリーズだけはライブラリに入れないで、しまっておこう」  カエンはにっこり笑った。「ありがとう。殿」 「それにしても、よく気がついたな」俺はカエンの頭をなでた。 「お姉ちゃんだから」  嬉しそうなカエンの頭をもう一度なでて、俺は深く息をつきながらふたたびカウチに身を沈めた。カエンも、俺の横に寝そべる。 「この次のシーズン。カエンが、えっちなことになる話も、ある。……見たい?」 「……そういうのは、いいかな」  上目遣いで俺を見上げて、そっと体をすりつけてきたカエンを、俺は抱き寄せた。  第2話のアバンタイトルが流れはじめた。でも俺もカエンも、もう画面を見てはいなかった。  なお、これは余談になるのだけれど、その翌日、アルマンが俺のところへ来た。  カエンとまったく同じ懸念を口にしたので、昨日の話をすると目をまるくした。 「よもや、カエンさんに先を越されるとは……姉妹愛というのは、すごいものですね」  呆然としているその表情を、いまでも覚えている。 End =====  インジケータがまた一つ赤くなった。ココ・マーキュリーは機械的に手をのばしてアラーム音を切った。ことここに至ってはアラームなど、うるさいだけで何の意味もない。  暑い。狭いコクピットの中はまるでサウナだ。汗がとめどなく噴き出し、そして斜め下への強烈なGで流れ落ちていく。  外部カメラはすべてシャットダウンされ、下がり続ける高度計の数字と、上がり続ける温度計の数字、そして骨にひびく振動だけが外の様子を教えてくれる。  現在、地中海上空5万5千メートル。  唇まで垂れてきた汗をプッと吹き飛ばし、ぎゅっと一度目をつぶってから、ココはふたたびバリアの焦点と出力の微調整に集中した。  ――1時間前―― 〈あっ痛う……〉 「大丈夫!? ユサールお姉ちゃん!」  火花と煙を噴き出す、いびつに歪んだ鉄虫の群れ。もう動くこともなく、慣性のまま回転してゆっくり遠ざかっていこうとするそれらをワイヤーでひとまとめにくくってから、ココはホワイトシェルの補助スラスターを噴かしてユサールの方へ移動した。 〈ケガは大したことないけどな。これ……〉  銀白色のボディスーツの脇腹に空いた穴はすでに気密テープでふさがれている。しかし、まわりに漂っている無数の凍った血のかけらが、テープの下の傷が決して浅くないことを告げていた。そしてなお悪いことに、背中の大きなケースにも弾丸が食い込んで亀裂が入っている。ユサールモデルの専用装備、簡易大気圏突入ユニットだ。 〈データ吸い出し終わったぜ。ざっと見ただけだと、変なログはないみたいだ〉  スパトイアの声にココは顔を上げた。間近で見る偵察衛星BLSAR-27は、ここまでの戦闘でパネルやアンテナのほとんどがちぎれ飛び、ぼろぼろの小型トラックが逆さまに浮いているように見える。そのトラックの運転席のあたりを蹴って、大きなタキオンランスを手にスパトイアがこちらへ接近してくる。 〈エイダーにも送った。あと、衛星はもう完全にダメ。復旧は無理そうだ……っと〉  ユサールの背中を見て、スパトイアもヘルメットごしに顔をしかめた。その意味するところをすぐに理解したのだ。  大気圏再突入の際にはホワイトシェルがスパトイアとスティンガーを引き受け、ユサールだけは自前のユニットで単独帰還する計画になっていた。だが、これでは単機突入は不可能だ。 〈置いてってもらってもええよ〉 〈バカ言うな〉スパトイアが即答し、ココもうなずいた。 〈データの解析が終わりました〉小さな電子音とともに、ホワイトシェルのキャノピーの隅に小さなエイダーの顔が現れた。〈半径800km以内に鉄虫の反応なし。最も近傍の衛星は三安の「アナシスXIV」ですが、物理的・電子的に接触があった痕跡はありません〉 「つまり?」 〈今回のことは偶発的な事象であり、鉄虫に感染した衛星はその一基だけと考えていいと結論します〉 〈決まりだな。こいつぶっ壊して、後片付けして帰ろうぜ〉言いながらスパトイアは、さきほどココが縛り上げた鉄虫の残骸をロボットスーツで蹴り飛ばした。眼下……ココの主観的には左手方向にかがやく地球へと、ゆっくりと落下ルートをたどり始めた残骸をしばし目で追ってから、ココはひとつ深呼吸をした。 「スティンガー、スパトイアさん、衛星を破壊して大気圏へ落として下さい。それから、帰還フェーズの手順を変更。ホワイトシェルで全機を抱えて再突入します。エイダーさん、軌道計算のやり直しお願いできますか」 〈了解〉  軌道上のエイダー本体から直接送られてくる音声は、こころなしか地上で聞くよりクリアに聞こえた。  ―――― 「アブレータ三層め、パージ」  ドシン、と小さな衝撃がコクピットに走る。  断熱圧縮により超高温となりプラズマ化した大気は、強い磁場をかければ操作できる。これを利用して断熱と減速を同時に行うのが電磁エアロブレーキングであり、ホワイトシェルの電磁バリアの出力ならば理論上単独での大気圏突入が可能だ。ただし、それはあくまで理論でしかなく、実際に試したのはおそらく自分が初めてだろう。  機体には戦闘のダメージが残っているし、予定外の重量を抱えてもいる。念のため積んできた断熱材もたったいま使いきった。「理論は完璧に。しかし何事も理論通りにはいかない」宇宙でのミッションで最初に心得るべき鉄則の一つだ。  ホワイトシェルは現在、体をまるめて背中から落ちる姿勢で大気圏に突入している。暑さとGは耐えがたいほどだが、コクピットにいる自分はこれでもましな方で、ホワイトシェルの腹の上に伏せているだけのスパトイアとユサールはもっと苛酷だ。スティンガーが冷却ジェルを絶え間なく吹きつけているが、それでも危険なレベルの高温のはずだ。 〈ユサール、もっと真ん中寄れよ〉接触回線ごしに、ノイズ混じりのスパトイアの声が聞こえる。 〈いやだって悪いやろ、元はといえばうちのせいで……〉 「ユサールお姉ちゃん、誰のせいとかじゃないです」ココは声を張り上げた。「スパトイアさんのロボットスーツの方が耐熱性能が高いんです。それにユサールお姉ちゃんのスーツは破損してるでしょ。一番熱の少ないところにいなきゃ駄目です」 〈同意します〉冷却ジェルを噴きつつ、ホワイトシェルと連結して重心移動と姿勢制御を担当していたスティンガーも言った。〈本ミッションでは全員の生還が高い優先度で義務づけられています〉 〈……ごめんなあ〉ユサールが移動してくれたらしい。重量バランスが微妙に変化したのを、スティンガーのスラスター制御で補正する。 〈一番キツいとこはあと何分かだ。踏ん張ろうぜ!〉  大気摩擦によるものとは違う、こもったような微かな振動がコクピットに響いてきた。たぶん、スパトイアがユサールの背中をバシバシ叩いているのだろう。 〈怪我人、叩くなや〉弱々しいユサールの声は、それでも笑っているのがわかった。  ――4時間前――  空が黒い。  地上の空は眼下にほの青い光を満たし、ココ達を押し上げるように下から照らしている。そして上を見れば天は黒く、星をちりばめた吸い込まれそうな闇がどこまでも広がっていた。 〈宇宙、来れたなあ〉 〈ホントやなあ〉  スパトイアとユサールが、ぽつりと小さくつぶやくのを、ココは接触回線ごしに聞いていた。  地上190km。厳密にはここは電離層の中ほど、大気圏の上層部であって宇宙空間ではない。だがこの浮遊感、この無音、この希薄な空気。何よりこのあたりはすでに、低軌道衛星の限界高度をこえている。この高度での作戦は、立派な宇宙ミッションと言える。  言葉にはしなかったが、ココも二人に同感だった。いやむしろ、感激のあまりに言葉が出なかったのだ。  ついに来た。ここで働くために自分は生まれた。その入り口に、ようやく、とうとう、立てたのだ。 〈目標補足。座標を共有します〉  スティンガーの無機質な声に、三人は我に返った。キャノピーに映る光景に、小さな矢印がインサートされている。映像ではまだ豆粒のように小さな光点でしかないが、あれが目的地、ブラックリバーの軍事偵察衛星BLSAR-27だ。 「接近します。しっかりつかまって下さい」  増設プロペラントタンクに残されたわずかな燃料を使い切って加速をかけてから、タンクを捨てる。モジュールにしまわれたまま一度も使ったことのなかった微小重力空間での移動感覚が、ちゃんと指先まで行き渡っているのを新鮮な満足感とともに確認する。豆粒ほどだった光点が、ぐんぐん大きくなってきた。 〈なあなあ〉ホワイトシェルの左肩につかまっているユサールがふいに言った。 〈ココって、スチールラインの隊長さんと仲ええん? 打ち上げ前、ずいぶん色々話しとったやんな〉 〈あれ、言ってなかったっけ〉ココが答えるより前に、右肩からスパトイアが口を挟んだ。〈ココは昔、マリー隊長直属の部下だったんだぜ〉 〈そうなん!?〉 〈第1部隊第1スクワッド、隊長に常に随伴する精鋭部隊だ。なーココ〉 「やめてください、スパトイアさん」ココは照れ笑いをする。「司令官がいらっしゃる前、レジスタンスが今よりずっと小さかった頃の話です。それに精鋭っていうか、マリー隊長の護衛が役目でしたから」  マリー隊長、不屈のマリー4号機は自らの身を砲火にさらすことを少しも厭わない。人としては高潔だが、将校としては……とりわけ指揮をとれる者が数えるほどしかいない零細軍隊においては、致命的な問題点でもあった。放っておくと一人でずんずん死地に飛び込んでいってしまう彼女の身を守るために、常に付き従う専属の護衛部隊が編成された。ココもその一人だったのだ。 〈へー! すごいわあ〉  司令官が来てからレジスタンスはみるみる大きくなり、それにつれて組織も再編成された。今のマリーにはスチールライン生え抜きの立派な親衛隊がついており、かつての第1スクワッドはもうない。しかし今でも、ホワイトシェルのボディにはかつてマリーを守ってついた傷がいくつも残っているし、それはココの大事な誇りだ。 「えへへ。あ、ほら見えてきましたよ!」  肉眼でも形状がわかるくらいまで近づいてきた衛星を画面内で拡大する。なんだか逆さまにした小型トラックに、無数のアンテナやパネルを盛りつけたような形だ。事前に入手しておいた設計図と照合すると、ほとんどの箇所は一致するものの、明らかに損傷や経年劣化とは違う形状のゆがみがいくつかあった。最大望遠をかければ、黒っぽい生物めいた組織があちこちに食い込んでいるのがこの距離でも見てとれる。  BLSAR-27はブラックリバーの軍事衛星の中でも大型の部類で、中枢部にはA級AGSに相当する情報処理系を備えている。したがって当然、鉄虫の寄生床にもなりうる。  太陽電池パネルの付け根のあたりになかば埋まった赤い球体が、ぴくりと動いた。あたかも、こちらの接近に気づいてぎろりと目を向けた、とでもいうように。 「宇宙戦闘、用意です!」  ココの声と同時に、スパトイア、ユサール、スティンガーがぱっと上下左右に散った。  ――――  高度計が3万メートルを割った。真っ赤だったインジケータ群のいくつかが緑に戻り、それと同時に猛烈な振動がコクピットを襲う。電磁エアロブレーキングが無効になり、ホワイトシェルのボディに直接大気がぶつかっているのだ。それはつまりボディ前面の空気がプラズマ化しなくなったということであり、すなわち速度と温度が十分に下がったということを意味する。  外部カメラが復活する。真っ暗だったキャノピーが全天ディスプレイに変わり、いちめんに広がる濃い青が目に飛び込んできた。はるか下に綿をちぎって置いたような雲が、そしてそのさらに下にかすんで海と陸地が見える。 「ああ――」  ココは声にならないうめきをもらす。帰ってきた。帰ってこられた。そして、宇宙はふたたび大気と重力の向こうへ去ってしまった。  しかし感傷に浸っている間もなく、位置情報システムからアラートが来る。危惧していたとおり、予定座標よりかなり北東へ寄ってしまっている。バリアの出力不全と予定外の重量による、進路のブレのせいだ。このままでは地中海に……レモネードデルタの勢力圏内に落下してしまう。 〈補助推進を開始します〉  スティンガーが飛び出し、ホワイトシェルの肩にとりついた。スパトイアとユサールもそれに続く。ココもホワイトシェルの四肢をひねって体を裏返し、両腕を広げて重力下での滑空体勢をつくった。全員の推進器をあわせて少しでも落下速度を遅らせ、西へ、外海のほうへ距離を稼ぐ。いまできることはそれだけだ。  ――5時間前―― 〈待たせたな。打ち上げ準備が整った〉  ホワイトシェルの背中に装着された耐熱カプセルの中で、スパトイアが両手を打ち合わせるのが聞こえた。〈やっとかよ。待ちくたびれたぜ〉 〈鉄虫の作ったシステムを逆用するなんて初めての試みですので。本当はもっとやってみたいことが色々あったのですが〉悪びれもせずのんびりと言う声はアザズだ。 「こちら、準備完了しています。いつでもどうぞ」 〈いやー、緊張するわあ。言うて宇宙に行くの初めてやってんもんなあ〉 〈航法データをエイダーに送信完了。ナビゲーションデータ受信体制に入ります〉  ローディングケージが動いて、ホワイトシェルを発射位置へ運んでいく。背中にスティンガーを連結し、スパトイアとユサールを収めた耐熱耐Gカプセルを背負って、燃料タンクを付けられるだけ付けた上で、全身に銀色の反磁コーティングを施された今のホワイトシェルに普段の面影はない。スパトイアは「やっぱ宇宙の色は銀の色だよな!」などと無邪気に喜んでいたが、ずいぶんといびつな姿になってしまった。 〈ココ。今更言うまでもないが、必ず生きて帰ってこい〉  コクピット内でもう一度作戦指示書を読み返していると、キャノピーの隅にマリーの顔が小さく現れた。 〈たとえ任務が失敗しても、全員無事に帰ることが優先だ。これは閣下の厳命でもある。忘れるな〉 「はい」  司令官は今、ヨーロッパ侵攻作戦の準備が大詰めの段階を迎えて通信の余裕さえない。マリーもこのあと発射の成功と、砲塔の破壊を見届けたらスヴァールバルへとんぼ返りする予定だ。すべてがギリギリの状況での緊急作戦である。 〈本当ならもっと入念に準備してから始めるべき作戦だが……如何せん時間がない。宇宙へ出てしまったら、こちらからは何もフォローができん〉 「マリー隊長。私たちはオービタルウォッチャーです」画面の向こうのマリーに、ココはにっこりと笑いかけた。 「私たち以上にこのミッションに適したチームはありません。生まれて初めて、本来の仕事ができるんです。必ずやりとげて、無事に帰ってきます。任せて下さい」 〈データリンク確立〉エイダーから通信が入ってきた。〈打ち上げ後は、こちらでモニターしつつ誘導を行います。スティンガー223番機は回線の維持に注力して下さい〉 〈本体の方の世話になるのは久しぶりだな。よろしく頼むぜ〉スパトイアが笑った。  ケージが大きく揺れて、止まった。発射位置に装填されたのだ。印加が始まれば、地上との通信はできなくなる。小さなウィンドウの向こうから、マリーが笑いかけた。 〈甘いカフェオレを用意しておく。帰ったら久しぶりに、茶飲み話でもしよう〉 〈はい!〉  ウィンドウが消え、コクピットに静寂が訪れる。ジェネレータのアイドリング音だけが静かにひびく中、ココは数秒後に訪れる発射の瞬間を、ただ一心に待った。  ――――  ホワイトシェルの軌道計算プログラムを使うまでもなく、ココは直感と暗算でその結果を予測していた。 (足りない……)  偏西風を考慮に入れないとしても、スペイン中央部あたりへ落ちるのが限界だ。これは推進剤の残量、スラスターの出力、そして全員の重量から算出される必然的な結果で、努力や根性の入り込む余地はない。物理は無情である。  おそらくオルカの方でも自分たちの位置は探知しているだろう。だが通信は封鎖されており、助けを呼ぶことはできない。いや、仮に通信ができても、レモネードデルタの支配するヨーロッパのど真ん中へ救援を派遣することなどできはしない。 〈提言。ホワイトシェルの成形斥力場内での本機の自爆によって、一時的な推進力の確保と恒久的な重量の低減を同時に達成できます〉 「それは駄目」〈ダメだバカ〉〈駄目に決まっとるやろ〉三人の声がきれいに揃った。 〈任務遂行にともなう破壊は想定内の運用です。記憶データは作戦開始直前にバックアップされており損失は最小限です〉 〈そういう問題やない、だいたいさっき全員で帰るて自分で言うたやろが。おにい……司令官はAGSの命も大事にするて、スティンガーも知ってるやろ〉 〈AGSは生命ではありません。非合理的な運用方針。しかし所有者のオーダーには従います〉  不承不承、といった態度を不思議に感じさせる機械音声を最後にスティンガーは黙った。  ユサールの言うとおり、司令官はAGSも人間やバイオロイド同様、心と命をもったかけがえのない存在だと考えている。ココ自身としてはそれに完全に同意するわけではないが、とても素敵で尊重したい考えだと思う。実際、AGSには人間と同じような心があるのではないかと感じる瞬間はココにもある。 (……だけど、ホワイトシェルは違う)  ホワイトシェルにAIは搭載されていない。もちろん感情モジュールなどもない。あくまで操縦に必要な情報処理系だけを備えた、ただのパワードスーツだ。ホワイトシェルならば自爆しようが解体しようが、司令官の意志にそむくことにはならない。  たとえ、百年間いっしょに戦ってきた、ココ・マーキュリー402の大事な大事な相棒だったとしてもだ。 (…………)  ココは誰にも言わずにサブウインドウを呼び出し、ホワイトシェルを自爆させる手順と、それによって得られる運動エネルギーの計算をはじめた。  ――19時間前――  モニタに映し出されたそれは、横倒しになる寸前で持ちこたえている超高層ビルのような、斜めに天へのびる細長く巨大な建造物だった。 「カナリア諸島、二日前の映像だ。鉄虫が建造した、超長距離電磁高射砲だと推測されている」 「電磁砲? このデカさで? それってほとんど……」画面をにらんだスパトイアの言葉に、マリーがうなずく。 「ドクターの分析の結果、スケロプ級かそれに準ずる鉄虫なら、この砲を使えば高度200km程度まで上がれるという。つまりこの高射砲は、小規模なマスドライバーとも言えるものだ」 「鉄虫がマスドライバー……!?」  思わず声に出したココの方を見て、マリーは再度重々しくうなずいた。 「とはいえ、奴らが宇宙に関心を持っているとは現状考えにくい。当該地域では二派の鉄虫が激しい交戦状態にあり、一方の側が高高度飛行可能な新種のレイダー型を投入している。この大型砲は単にそれに対抗するためのものだろう……というのが、ドクターのさしあたっての結論だ。しかし」  画像が切り替わり、ワイヤーフレームの世界地図の上に、大きく蛇行する無数の線と、数字の付いた光点が並んだ。その光点のひとつだけが、不吉に赤く明滅している。 「昨日、旧ブラックリバー・アビオニクスの偵察衛星の一基が突然変調を起こした。ちょうど、この高射砲の射界上空を通過した直後のことだ。発信された電波の解析結果から、ほぼ間違いなく鉄虫に寄生されている」  ざわめいたブリーフィングルームを、マリーが手を上げて静める。 「これが奴らの作戦なのか、偶然の結果なのかはわからない。だがどちらだったとしても、この砲も衛星も完全に破壊しなければならない。万が一にも鉄虫が宇宙へ進出し、衛星網を汚染するようなことがあれば、その被害は想像を絶する」  ココは挙手して訊ねた。「軌道上へ行く手段はあるんですか」 「手段は奴ら自身が用意してくれた」  マリーはふたたび画面を切り替え、最初の映像に戻した。 「我々はまず、この高射砲を破壊せずに占拠する。そしてこれを使って、衛星攻略部隊を軌道上へ送り込む。すなわち……」 「俺たち、ってことだな」マリーが言い終えるのを待たずに、スパトイアが満面の笑みとともに両手を打ち合わせた。  ――――  キャノピーの隅をななめに横切って、黒い線のようなものが揺れている。はじめそれは、カメラに付着したゴミか、画像処理の不具合のように見えた。  自爆シークエンスの計算を続けながらココはそれにちらりと目をやって、また計算に戻った。しかし再度ディスプレイに目を向けた時も、その線はまだあった。しかも、さっきより視界の正面に近づいてきている。 「……?」  クローズアップするとオートで焦点が合った。つまり画像の不具合ではない。レンズに付着した何かでもない。確かにそこに、前方50メートルほどの距離に浮いている物体だ。 〈おい、あれ!〉右肩のスパトイアが身を乗り出し、はるか上空を指さした。  黒い線の正体がようやく掴めた。船舶や航空機の牽引に使われる、テザーケーブルだ。ケーブルの末端がココ達のすぐ前方を、ほぼ同じ速度で飛行している。  カメラを上に向けた。ケーブルはゆるやかにしなりつつ斜め上方へ、百メートル以上も伸びている。その先に何かがいる。何かがケーブルを垂れ下げて飛んでいるのだ。  最大望遠でそのシルエットを確認した瞬間、ココは残り少ない推進剤を使って最大加速をかけ、ケーブルへ手を伸ばしていた。  届かない。もう少し。手がずれた。スティンガーがホワイトシェルの肩を押して位置を補正してくれる。スパトイアとユサールが腕を這いのぼり、思いきり体をのばしてケーブルをつかまえ、全身をたわませて引っぱり寄せてくれた。カーボンナノチューブ製の太いケーブルを、ホワイトシェルの右腕のマニピュレーターがしっかりと掴む。 〈やっほー、やっとランデブーできた!〉そのとたん、スレイプニールの明るい声が接触回線で飛び込んできた。〈さあ、しっかり掴まっててよ!〉  言うが早いか、ケーブルがぐんと上方へ引っ張られる。ココは慌てて両手でケーブルを掴みなおし、ぐっとボディに引き寄せた。 「スレイプニールさん! どうしてここに!?」 〈空で困ってる人がいるなら、どこであろうとスカイナイツは駆けつけるわ! せーのっ!〉  答えになっているような、なっていないようなことを言うのは間違いなくオルカのスレイプニールだ。上空でノズルがぱっと輝き、ふたたびぐっと上方へのGがかかる。  ホワイトシェルの両手にロックをかけて、ココはほっと息をついた。これで何とかなるかもしれない。  だが、じきにその顔がふたたび曇る。 〈んーっしょ、んぎぎぎぎぎ………!〉  スレイプニールが頑張っているのは声からも、ケーブルごしに伝わってくるエンジンの駆動音からもわかる。だが上空の彼女自身を見てみると、駆動音に対して不自然なくらい噴射炎が小さい。加速も思ったほどにはかからない。いや、高度こそ維持できているものの、水平方向の速度はむしろだんだん遅くなっている。  ここはまだ高度2万メートルの超高空、通常の航空機が飛行できる高度の上限に近い。この薄い空気の中では、いかにスレイプニールモデルのエンジンといえど十分なパワーを出せないのだ。ココはごくりと唾を飲み下して、途中でやめた自爆シークエンスの計算を再開した。 「スレイプニールさん、無理しないで下さい。こちらで重量を減らす方法を」 〈大丈夫だいじょーぶ! もうちょっと距離を稼いで、スピードも落としてやれば、私より遅い二番手が追いつくからね!〉 〈誰が二番手ですって?〉  ガツン、とこんどは下から殴られるような衝撃があって、ホワイトシェルの体がまた一段上に持ち上がった。 「!?」  上にばかりカメラを向けていたので気づかなかった。すぐ真下を、黒い円盤のようなものが飛んでいる。円盤の中央には玉座のような立派なシートがあり、そこで悠然と足を組んでいる小柄な赤毛のバイオロイドがこちらを見上げた。 「メイさん!」  それはドゥームブリンガーの指揮官、滅亡のメイであった。ココはあまり話したことはないが、たしか円盤の名前はスローン・オブ・ジャッジメント。彼女の二つ名の由来である核ミサイルを搭載した、空飛ぶミサイル基地だ。しかし今、サイロがあるはずの玉座背面には無骨なアームが何本も取り付けられ、それがホワイトシェルの胴体を下からつかんで支えていた。 「あ、あの、重くないですか」思わず口から出た言葉に、 〈はん?〉メイはあからさまに小馬鹿にした表情で答えた。〈私がふだん積んでるミサイルがどれだけ重いか知ってる? あの貧弱なツバメと一緒にしないで。そんなロボットの一体や二体なんでもないわ〉 〈誰が貧弱よ! 私はスピード重視なの! スマートなの!〉  メイが鼻で笑う。たしかにホワイトシェルとスパトイアのロボットスーツ、そしてスティンガーの全重量を支えてもスローン・オブ・ジャッジメントは小揺るぎもせず安定して飛んでいる。ココは今度こそ、深い安堵のため息をついた。 〈いや、ほんま助かっ……助かりました! ありがとうございます!〉 〈でもさ、スカイナイツもドゥームブリンガーも作戦準備中だろ? こんなとこに出張ってきて大丈夫なのか?〉スパトイアがホワイトシェルの肩から身を乗り出して下をのぞき込んだ。 〈大丈夫なわけないでしょう、この忙しいのに引っ張り出されていい迷惑よ。玉座までこんなみっともない姿に改造されて〉 「ご、ごめんなさい」反射的にココは身をすくめて謝る。 〈冗談よ。ミッションの内容は聞いてるわ〉メイの声は笑っていた。〈マリーのやつに頭を下げさせるのも、悪い気分じゃなかったし〉 「マリー隊長?」 〈私たちにどうしてもって頼み込んで来たのよ〉上からスレイプニールが口を挟んだ。〈なんとかホワイトシェル込みで無事に回収したいから、こっそり出張してくれってね〉 「……!」  ココはキャノピーを開けた。薄く冷たいカミソリのような大気が全身を切りつけ、紫がかった髪を一瞬でめちゃくちゃにかき乱す。狭いチェンバーから身を乗り出して、上空のスレイプニールと、下方のメイにそれぞれ敬礼してから、ココは二十時間ぶりの大気を小さな胸いっぱいに吸い込んだ。  ――20時間前――  シュッと最後の一吹きを終えると、ココは少し離れて出来映えを確かめ、それから満足げにマスキングテープを剥がした。ホワイトシェルはその名のとおり、キャノピーから爪先までぴかぴかのパールホワイトに輝いている。 「おー、綺麗になったやん」  ちょうど格納庫へ入ってきたユサールが、ホワイトシェルを見上げて言った。  装備の手入れはすべて自分の手で行うのがオービタルウォッチャーの鉄則だ。宇宙では自分の装備品をどれだけ熟知しているかが生死を分けることがある。 「この色、例のやつ?」 「そうです。箱舟に仕様書があって、純正の合成装置が作れたんですよ。しばらく触らないで下さいね」  ホワイトシェルのボディの白色はただの塗料ではない。宇宙空間での熱吸収をおさえ、耐熱・耐衝撃・耐放射線性能にすぐれた、専用の特殊コーティング剤である。地上で戦う分にはさほど有効なものでもないのだが、それでもココは手に入るかぎり必ず、この塗料でホワイトシェルを塗り直すことにしていた。  万一の備えを怠らない、という気構えでもあるが、それ以上にこの塗装はココの希望だった。いつか宇宙へ行ける日がきっと訪れる。その望みを捨てないために、ホワイトシェルはいつでも宇宙で活動可能な状態にしておきたいのだ。 「お、試作品できたのか」  ロボットスーツの整備をとっくに終えて一服していたスパトイアが、手にした雑誌をぽいと捨てて起き上がった。ユサールが手にしたタッパーを開けると、ふわりと香ばしいかおりが立つ。ココも手袋を脱いでデッキへ下りた。 「何味?」 「こっちからココア、ジンジャー、コオロギ」 「コオロギ?」 「宇宙っぽいやろ。わざわざアクアランドで売るからには、なんかうちららしい所出してかんとな」 「受けるかなあ。あ、ジンジャーおいしい」  とはいえ現状では宇宙へ行くどころか、地上での仕事が増える一方だ。最近は大きな作戦の準備だとかでブラックリバーの隊員たちがほとんど訓練に出ずっぱりで、その分遠征や偵察などの雑務が頻繁に回ってくる。この間など、ホワイトシェルで氷山の下へもぐる羽目になった。今はこんな些細なことにでも、宇宙のかけらを想うしかない。そう思いながらかじったコオロギビスケットは、やっぱりあまり美味しくはなかった。 〈オービタルウォッチャー、緊急ミッションです。至急第二作戦室へ集合して下さい〉  エイダーの声がアラート音と共に通信機から響いてきたのは、その時のことだった。  ―――― 「なあなあ、これ!」  いつの間にかコクピットのすぐ横に来ていたスパトイアが、ごうごうと鳴る風に負けないよう怒鳴りながら、一枚のビスケットを差し出した。 「なんや、うちの試作品やん。持ってきてたん?」反対側の隣に来ていたユサールが身を乗り出す。 「いや、ポケットに入れたの今まで忘れてた。せっかくだからここで食べようぜ」  ビスケットを三つに割って一かけずつ、風に飛ばされないよう注意しながら口に入れる。よりによって、コオロギ味だ。 〈ちょっと、のんきに何やってるの?〉メイの声が飛んできた。下を見ると、こっちを見上げて拳をぶんぶん振っているのが見える。〈気を抜かないで。まだヨーロッパ圏よ〉 〈何々、おやつあるの? 私にもちょうだい〉と、今度はスレイプニール。 「いや、これは余りもんで。オルカに帰ったらあらためてご馳走しますね」ユサールとスパトイアはあわててホワイトシェルの肩の上へ戻っていく。ココもチェンバーにもぐり直し、通信機を喉元へ当てた。 「作戦が終わったら、マリー隊長とお茶を飲む約束をしてるんです。お二人もよかったらいかがですか。オービタルウォッチャー特製、コオロギクッキーがありますよ」 〈〈え、何それいらない〉〉 「なんでやねん!!」  装甲をばんばん叩いて憤慨するユサールにひとしきり笑ってから、ココはもう一度ホワイトシェルの機体を見渡した。ほんの一日前まで美しい純白だったボディは戦闘で傷つき、高熱で灼けて、見る影もなく真っ黒だ。フレームの地金がむき出しになっている部分さえある。 「……帰ったら、また塗りなおしてあげるね」  キャノピーを閉める前にココは手を伸ばし、ザラザラにささくれ立った、まだ熱い装甲を撫でた。もうただの夢や希望ではない。現実に、確かに行くべき場所へ行き、果たすべき仕事を果たして真っ黒になったこの相棒を、もう一度真っ白に塗りなおし、ぴかぴかに磨いてあげるのだ。ココはその時が待ちきれない気がした。  白く泡立つ雲の海がとぎれた。その下の、うろこのように小さな光をいっぱいに反射する青緑色の海が、少しずつ近づいてきた。 End =====  ティーワゴンが小さく揺れて、白磁のポットとカップがカチャンと音を立てた。向かいに座る龍がちらりと目を走らせると、ワゴンを押していたウンディーネが身をすくませる。 「ありがとう。あとは俺がやるから」 「はいっ。お呼びがあるまでお邪魔しないようにしますので、ごゆっくりどうぞ」  ぴょこんとバネ仕掛けのようなお辞儀をして小走りに去っていくウンディーネの背中を、ラビアタは小さく苦笑いして見送った。緊張するのも無理はない。  疑似太陽光がやわらかに降り注ぐ、昼下がりの箱舟生態保護区。カフェ・ホライゾンの裏手、ほとんど人の立ち入らない静かな木立のあいだに、瀟洒な丸テーブルと椅子が四脚持ち出され、小さな茶席がととのえられている。 「えー、ではと。まずはラビアタ、長期間の任務お疲れ様」  司令官がぱん、と両手を打ち合わせ、ラビアタへ笑顔を向けた。 「勿体ないお言葉です」ラビアタは深く頭を下げる。 「龍も、拠点再建とPECS艦隊の相手、大変な仕事を二つも丸投げしてしまってすまない」 「海は小官のホームグラウンドだ。大役を任された誇りとやり甲斐にくらべれば、苦労など何ほどもない」  龍は謹厳にぴしりとした答礼を見せた。 「そしてアルファ。内務を本当に上手く切り回してくれて、助かっている」 「アルマンさんをはじめ、オルカの優秀なスタッフあってのことです。私だけの力ではありません」  アルファは奥ゆかしくお辞儀をした。  ラビアタ・プロトタイプ、無敵の龍、レモネードアルファ。旧時代の三大企業それぞれが持てる技術の限りを尽くして作り上げた最高傑作というべきバイオロイドであり、オルカでも最高幹部の地位を占める三人だ。一番の新参であるアルファが加わってから一年あまりになるが、この三人だけが集められた会合というのは前例がない。 「皆にはそれぞれ重い仕事や責任を背負ってもらっているから、普段あまり気軽に話もできないと思う。今は少し余裕のある時期だし、一度ちゃんとお礼を言って、ねぎらわせてもらいたいと思ってこの席を設けた。今日は仕事のことはいったん忘れて、お互い打ち解けてくれると嬉しい」  言い終えた司令官はいそいそとティーポットカバーを取り、意外に手際よく紅茶を淹れて三人に配った。 「過分なお心遣い、ありがとうございます」  三人はもう一度深く礼をしてめいめいのカップを持ち上げ、司令官に向かって小さく掲げてから口元へはこんだ。 「旧時代に、この三人で会ったりしたことはあったのか? トップ会談みたいな感じでさ」 「いいえ」アルファが控えめに首を振った。「私たちは企業秘密の塊のようなもので、できるかぎり秘匿されていました。自由になる時間も連絡手段も持っていませんでしたから、とても」 「ブラックリバーとの身柄交換の時に、龍さんと一度だけ会ったことがあります」ラビアタが言い添えた。「でも、私もその一回きりです。アルファさん達レモネードシリーズとは一面識もありませんでした」 「でも、お互いに関心を持ってはいたんだろ」 「それは、まあ」 「言ってしまえば小官もレモネード殿も、ラビアタに対抗するために開発された面がある」龍が腕を組んで言った。「当然あらゆる情報を集めていたし、常に動向を注視していた。その意味では、大いに関心はあったが」 「ラビアタから見たらどうだったんだ? 二人は後輩みたいなものだろ」 「後輩というか、ライバルでしょうか」ラビアタは苦笑した。「もちろん、お二人には注目していました。アルファさんの言うとおり企業秘密でわかることは限られていましたが、なんとか少しでも情報を得ようと……そうそう、隠し撮り写真を買ったりしましたよ。私でなくて、三安の研究所がですが」 「まあ、本当ですか?」レモネードが手の甲を口元にあててコロコロと品良く笑った。 「今はどうだ? お互い会ってみて、どんな風に思う?」 「二人とも、素晴らしい能力の持ち主ですね」ラビアタは丁寧に言葉を選んで答える。「私が一人で仕切っていた頃より、抵抗軍がはるかによく機能しているのがわかります。ご主人様と、お二人のおかげです」 「ご謙遜を」レモネードがしずかに微笑んだ。「私から見れば、これだけの規模の組織をたった一人で立ち上げて、50年以上も戦線を維持してきたことの方が驚異的です」 「同感だ。小官が初めて本格的に肩を並べたのはグアム島の戦いの時だったが、貴殿の指揮能力には感服させられた」 「あまり持ち上げないで下さい」 「お茶のおかわり、いるか?」 「かたじけない。いただこう」 「今日のためにお茶の淹れ方を練習したんだ。ちゃんとできてるといいけど」 「お見事ですよ。コンスタンツァに教わったでしょう?」 「わかるの!?」 「あの子の癖が出ています」 「……」 「……」 「えーと……そうだな……」  ラビアタはティーカップをしずかに傾けて上等の紅茶を味わいながら、司令官に見えないようそっと嘆息した。どうやらご主人様もようやく気づきはじめたようだ。  このお茶会が、全然盛り上がっていないということに。  彼の意図するところはわかる。自分たちは三大企業それぞれのバイオロイドの頂点といっていい存在であり、したがって抵抗軍を構成する主要三グループの頂点でもある。自分たち三者の親疎は、グループ間の関係にも直接間接に影響をあたえるだろう。いま特に対立や摩擦があるわけではないが、この先PECSとの本格的な戦争に突入すれば、それに絡んで感情的なしこりが生まれないとも限らない。三人が一箇所に集まる機会は少ないのだから、先に手を打っておくのは悪いことではない。 (だからってね……)  いきなり集められて「さあ打ち解けろ」と言われても、そう簡単にできるわけはないのだ。 「不足しているものなどはないか? 南アジア方面に手の空いている艦が数隻ある。今のうちなら調達に回すこともできる」 「あら、有り難いです。あとでオレンジエードから、希望優先度つきリストを回させますね」  案の定、龍もアルファも「仕事を忘れた」話題は早々に尽き、業務がらみの話に逃げつつある。  かつて自分たちはライバルであり、商売敵であり、政敵であり、時には砲火を交える正真正銘の敵同士だった。そして同時に、それらはすべて自分たちの所有者の関係性にすぎず、おのれ自身は等しく企業という檻に厳重に囚われた奴隷同士なのでもあった。当時お互いのことをどのように思っていたか、説明することはラビアタ自身にも難しい。同じ立場の存在として関心はあったし、多少の同情めいた共感を覚えたこともないではない。しかし、あの頃自分たちが生きていた世界で、そんなささやかな共感にはなんの意味もなかった。もっとはるかに重く、冷たく、巨大なものが、自分たち全員を押し流していたのだ。 「このあいだ乗せてもらった、レアとティタニアの様子はどうですか。訓練、うまくいっています?」 「二人ともなまじの気象レーダーより役に立つ。常備したいくらいだが……肝心の気象操作の方は、まだ連携に難があるようだ。少しずつ改善しているみたいだがな」  少なくともラビアタは旧時代、この二人と腹を割って話したいなどと考えたことは一度もない。夢見たことさえない。もし仮にそんな機会が与えられたとしても、何を話せばいいのかわからず困るばかりだったろう。まさに今、そうなっているように。 「……お茶の葉を新しくもらってこようか。食べるものももう少し足すから、三人で話しててくれ」  ついに司令官がそんなことを言って、そそくさと席を立った。  足すも何も、ティースタンドの軽食はまるで減っていない。最初に取り分けられたタルトを遠慮がちに少しずつ口にするだけで、誰も新しいものを取っていないからだ。司令官が去ると、龍とアルファが目に見えて気を緩めた。 「お心遣いは本当にありがたいのだが、な……」  いちばん直截な物言いしかできない龍が、小さく苦笑いをして呟いた。レモネードはもちろん何も言わない。この中で一番本心を隠すことに長けているのが彼女だ。  ラビアタも何も言わなかったが、同意の印にほんの小さく肩をすくめた。ご主人様は確かに未熟だ。ことに人の心を読み、動かす技術については、まだまだ勉強してもらわねばならない点が多すぎる。  しかしそれでも、彼の真心は間違いなく本物なのだ。それを無碍にすることなどあってはならない。  ラビアタはティースタンドから小さなレモンクッキーを一つつまんで口に入れると、少しのあいだ無心にそれを咀嚼した。 「…………」  自分には少なくとも、アダム・ジョーンズ博士という心から尊敬できる父のような人がいた。この二人にそんな相手はいなかった。対等な誰かと本音で語り合うという経験自体を、二人はしたことがないはずだ。  だから要するに、ここは自分が踏み出すしかないということなのだ。ラビアタはすっかり冷めた紅茶を飲み干し、一つ咳払いをした。 「もう、だいぶ以前のことです。オルカがまだ、アジア近海で足場固めをしていた頃。私はセラピアス・アリスから秘密裏に相談を受けました」  突然あらたまった調子で話し始めたラビアタに、龍とレモネードが怪訝そうに目を向けた。ラビアタは構わず続ける。 「ご主人様を発見した功労者であるコンスタンツァ416に、バトルメイドの皆からサプライズの贈りものをしたいので協力してくれと言うのです。私は喜びました。アリスが妹たちのことをそんな風に気にかけることは、それまで滅多になかったからです。贈りものは夜着で、骨格の近い私に採寸モデルになってほしいとのことでした」  二人は怪訝そうな顔をしたまま、とりあえず黙って聞いている。 「ずいぶん過激なデザインでしたが、ご主人様のために着るのだろうと、特に不審にも思いませんでした。採寸と仮縫いに二回付き合い、三度目の調整の時、オードリーが何か忘れ物をして席を外し、私は仮縫いの夜着を来たまま待たされました。……そうしたら数分後、ご主人様が入ってきました」 「!」 「あとで知ったのですがその時ご主人様は、皆のたくらみでしばらく禁欲状態だった上に、強精料理ばかり食べさせられ、大変……欲求不満が溜まった状態でした。そしてその部屋には大きなベッドがあり……つまり私は、妹たちにまんまと嵌められたのです」  ごくり、と二人のどちらかが唾を飲んだのが聞こえた。両方かもしれない。 「ご主人様は限界に達したご様子で、私の肩をつかみました。『すまない。もう我慢ができない』というのが、その夜ご主人様が発した、最後の理性的な言葉でした。私が意識を取り戻したのは翌日の昼のことです。あとでご主人様に聞いたところでは、気絶している私は溶けかけたアイスクリームのような有様だったとか」  さすがに頬が熱い。ラビアタは大きく息をついて首筋の汗をぬぐうと、二人をまっすぐ見返して、あえてニヤリと微笑んでみせた。 「これが、私とご主人様との馴れ初めです。……貴女がたは?」 「「…………!!」」  二人の顔がさっと朱に染まる。ガタリ、と音を立てて、二人とも前のめりに椅子へ座り直した。 「……箱舟へ落ち着いて少ししてからのことでした」先に応戦したのはレモネードだった。「ご存じでしょうがレモネードシリーズにはそれぞれ呪いが課されており、私のそれは『色欲』です。その頃私の呪いは限界に達していたのですが、積もりに積もったそれを……旦那様は一晩で解ききって下さいました」 「時期的には、小官の方が先だな」龍も負けじと身を乗り出す。「アラスカを攻める数週間前のことだ。グアムでの戦闘指揮のご褒美をいただけることになっていたので、小官は主との一夜を所望した。緊張する小官のために、主は特別に、海の見える展望寝室を用意して下さった。まあ最後の方は、海など目に入らなかったのだが……」 「ご主人様って、ああ見えて力も強いんですよね」機を逃さずラビアタはたたみかけた。「私のこの体も軽々と持ち上げて、自由自在に動かして下さるんです。お二人もご存じかもしれませんけど」 「もちろんだ」龍が勢い込んで頷く。「小官は知らなかった。あんな、あんな風に抱き上げられて、あんな角度から……」 「たくましい殿方って、いいですよねえ」アルファもうっとりとため息をついて、「旧時代にはもう毎日毎日年寄りの顔しか見ていなかったものだから、本当たまらなくて……」 「ご主人様ったらどこで手に入れたのだか、日本の秘伝書だっていう四十八種類のラーゲが書かれた本を持っていらして、四十まで試したんですけど……」 「私の全身で、旦那様の子種に洗われていない所はどこにもありません。強いて言えば耳の中と肺の中くらいでしょうか」 「以前など、わざわざセイレーンから制服を借りてきて下さってな。小官はそれを着て……」  競うように言いつのる三人の言葉が、あるところでピタリと止まる。そしてほんの一瞬にらみ合ったあと、三人はいっせいに弾けるように笑い出した。  笑いながらラビアタは理解していた。確かに旧時代、この二人と腹蔵なく話したいなどと夢にも思ったことはなかった。だが叶ってみれば、なるほどもっと早くこうすべきだった。もっと早くに、これを夢見ればよかったのだ。世界に三人しかいない、同じ立場を分かち合える仲間なのだから。  この二人だけに話せる思い出。この二人だけに打ち明けられる悩み。この二人だけに通じる冗談。そんなものがあることすら知らなかったが、それは心のずっと深いところから、泉のようにとめどなく湧き上がってきた。不思議な驚きとともに、ラビアタは幸福に、それを受け止めた。 「……だからほら、第二次スエズ危機を覚えてる? 三安はあの時、ウラジミールとカラカスは静観すると踏んでいたのだけど……」 「なんてこと! あの時それを知っていれば、油田地帯の半分は私たちのものになったのに」 「待て待て、あの年なら我々も秘密裏にキプロスへ艦隊を仕込んでいたんだぞ。まさかそこまで見抜いていたとは言うまいな?」  せっかく準備したお茶会が今一つ盛り上がっていない気がする。どうしたらもっと皆の会話がはずんでくれるか、あれこれ考えていたらずいぶん時間がたってしまった。次に振るべき話題をあれでもないこれでもないとひねりながらワゴンを押して戻ってみたら、三人はそれまでと打って変わった様子で何ごとか熱心に論じあっていた。 「なんだ、すっかり盛り上がってるな。何の話だい?」 「やあ主。昔の感想戦といったところだ」龍がかるく手を上げて迎えてくれる。「サンドイッチか、ありがたい。早速いただいていいだろうか」 「もちろん、どうぞどうぞ」  見ればティースタンドはすっかり空だ。俺が席を立った時にはほとんど手が付いていなかったはずだが。龍はワゴンの上から直接サンドイッチをひょいひょい取って、ラビアタとアルファにも回した。 「そうだアルファ殿、さっきの話の引き替えというわけではないが、エルブンシリーズを何人か艦隊に配備するわけにいかないか。最近、例のミルクの愛好者が艦隊にも増えてきていてな」 「あら、気前がいいと思ったらそういう話だったんですか? 私どもは龍さんのところほど上下関係が厳しくないんです。私が命令しても聞いてくれるわけではないですよ」 「むろん正式に嘆願書は出す。その時に口添えしてくれればいいんだ」 「エルブン達は緑のないところにはいたがらないわよ。レア達が乗った艦に、小さな温室を作ったと言っていたでしょう。そこならいいんじゃない?」  みんなくつろいだ楽しげな笑顔で、さっきまでとまるで雰囲気が違う。もしかして、俺がいない方がみんなリラックスできたのだろうか。それはそれで少し寂しいな……。  そんな風に思っているのを見透かしたように、ラビアタがにっこり笑って立ち上がった。 「ご主人様、次は私に淹れさせて下さい。たまには腕を振るいませんと、なまってしまいますので」 「あ、ああ。みんな、仲良くなってくれたみたいで嬉しいよ」 「それはもう」魔法のようになめらかな手つきで茶葉とポットを扱いながら、ラビアタは朗らかに言う。「来週も、この場所をお借りしてよろしいですか? 三人で話したいことがまだまだあるんです」 「ああ、もちろん……ん? 三人?」  ラビアタは笑いながらうなずいた。「ええ、私たち三人だけで。殿方はご禁制です」  俺は龍とアルファの方を見た。二人ともにこやかに同意する。  それは確かに、この会の目的は三人に打ち解けてもらうことだった。それは十二分に達成されたようだが、俺は聞かずにいられなかった。 「俺がいない間に、何があったんだ?」  三人は顔を見合わせ、そろって俺の方をちらりと見てから、一斉にくすくす笑い出した。何を聞いても答えてくれないので、俺は仕方なくラビアタの差し出してくれた紅茶をだまって飲んだ。  悔しいことに、それは俺が淹れたものより、ずっとずっと美味いのだった。 End =====  白っぽく色の抜けた赤毛はカサカサに乾いてよじれ、額から頬にかけてへばりついている。柔らかな皺がいく筋も刻まれた、透けるような象牙色の肌は、色ガラスで作ったオブジェか、でなければ干物になる途中の魚を思わせた。  うっすら開かれたまぶたの下の、色素の薄い瞳が、不安定にふるえながら右から左へさまよう。その視線が俺の上へ止まったタイミングをとらえて、俺は立ってベッドの傍らへ進み出た。 「おはようございます。初めまして、ミセス・マリア・リオボロス」  リールで回収したマリア・リオボロスの棺をドクターが検査した結論は、 「不完全」 だった。 「これって正確には遺体じゃなく、ヒュプノス病の末期状態になったところを冷凍したんだね。でもプロセスが不完全だし機器の調整も甘い。少しずつだけど細胞の損壊がはじまってる。ヒュプノス病のことも色々わかってきたから蘇生はできそうだけど、今すぐやって成功率は六割ってとこ。一年後にはゼロになるかな」  報告を聞いた俺はオルカの幹部達と相談し……最終的に、今すぐ彼女を蘇生させることにした。賛否は色々あったが、この場合まず優先されるべきはワーグとの約束だと判断したのだ。 「…………要は、アンヘルは死んだ。人類も全部滅んだ。地上にいるのはバイオロイドと鉄虫だけ、と」 「はい。ここにいる俺と、たった今目覚めたあなた以外は」 「………………」  マリア・リオボロスはリクライニングベッドに背中を預けたまま、天井と壁の境目あたりへ視線を投げていた。事前に読んだ資料では、整形手術によって七十を越えても若々しい外見を保っていたとあるが、冷凍されている間に整形の効果も抜けてしまったのか、目の前にいるのはどう見ても年相応の老婆だ。皺の刻まれた顔には何の表情もなく、俺の話を信じてくれたのかどうか、それ以前に聞いているのかすらわからない。  もういちど最初から説明した方がいいかしらと思い始めたころ、マリア・リオボロスはようやく枯れ枝のような指を持ち上げ、病室の窓をさした。 「窓を開けてもらえる?」  俺は言われたとおりにカーテンを引き、窓を開けはなった。部屋の隅に控えていたラビアタがさっと立ち上がり、女帝の肩まで毛布を引き上げる。北極圏の風が、病室に吹き込んできた。  窓の外には雪に覆われた原野と、そして冷たい青灰色の海が広がっている。女帝は弱々しい手で酸素マスクを外し、深く息を吸い込んで、そして少し咳き込んだ。 「ともかく、奴のいない世界の空気を吸うことはできた」  他人事のように彼女はそう言って、うすく笑った。 「……ミセス・マリア。ここには、エンプレシスハウンドの隊員がいます。彼女たちに会っていただけませんか」 「……?」それは何? というように、女帝はしばらくぽかんとした顔になった。「……ああ。あれか」  手を上げて合図すると、ドアのロックが開き、薔花、チョナ、そしてワーグが順に病室へ入ってきた。  薔花は顔をしかめて目をそらしている。チョナはいつも通りの態度に見えるが、笑顔が固い。そしてワーグは、 「女帝陛下! マリア様……っ!」  女帝の姿を一目見るなり駆けよって膝をつき、そのまま泣き崩れた。ベッドのふちに顔を埋めるようにして嗚咽するワーグを、女帝はただぼんやりと眺めていた。  ラビアタの目配せで、俺は外に出た。よそ者がいない方が話しやすいこともあるだろう。どのみち、あまり長時間接触しないように言われていたのだ。 「相手は三大企業の幹部、『あの』女帝マリア・リオボロスです。人間と会話した経験さえないご主人様が彼女と渡り合うなどとんでもない。ハムスターが狼の相手をするようなものです」  ラビアタの言い様はあんまりだと思ったが、反論もできない。俺はそのまま廊下をすすんで、突き当たりに設けられた監視用の部屋へ入った。この小さな療養施設は、女帝のために大急ぎで建てたものだ。医療設備が整っているのはもちろんだが、室内の様子は厳重に監視され、録画されている。施設の周辺には常にスナイパーが控えており、最悪の場合には建物ごと爆破して海に沈めることもできるようになっている。  モニタを睨んでいたシラユリが、俺の方へ小さく会釈をした。彼女の隣に座って、監視カメラの映像をいっしょに見る。  マリア・リオボロスはベッドに横たわったまま、エンプレシスハウンドと言葉少なに会話をしていた。大半は今の世界の状況に関する質問や確認だったが、自分のことやワーグ達に関する他愛ない話もあった。喋っているのはほとんどワーグで、たまに薔花やチョナも短い相づちを返す。俺が映像を見ていた間、女帝は一度も笑わなかったが、かといって声を荒らげたり、怒りや憎しみの感情を見せることもなく、ただ淡々とまわりの物事を見聞きしているようだった。  それは全体として、上品で知的で心身のおとろえた、ごく当たり前の老婦人の姿に見えた。怨念に凝り固まった残忍な女帝ではなく。 「まだショックが抜けてないんだろうか。もしかして、脳にダメージがあったとか?」 「というよりは、むしろ……」シラユリは細いきれいな指で、下唇のまわりをゆっくり撫でた。 「彼女は滅亡前の世界で、あまりに多くの物事を……財産や、計画や、敵や味方を抱えていました。それらが一度に消えたために、価値判断や情緒的反応の基準まで同時に失われ、ある種の……殻が取れたというか、精神的に初期化された状態になっているのでしょう」 「つまり、今の状態が本当の彼女ってことか?」 「それは微妙な問題です」シラユリはうすく笑った。「蝋燭の芯だけが本当の蝋燭だと言えるでしょうか?」  ワーグはずっとベッドの側にひざまずき、主人の足元に控える犬のように、幸せそうに頭を垂れていた。そして女帝は、その頭をゆっくりと撫でてやっていた。  慈愛に満ちた母のように、などという感じでは全然ない。しかし、優しくないわけでもない。例えるならそれは、他人の子犬を撫でるような手つきだった。親密さも思い入れもないが、「これは優しくしてやるべきもの」ということだけはちゃんとわかっている。そんな風に見えた。 「時間です。これ以上は患者の体に障ります」  ラビアタの指示でワーグ達が外へ出されると、監視部屋へ呼んできて話を聞く。 「あれが女帝? アタシを罵っては殴ってきたあのババアと同じ人間だなんて思えない。本物なの?」 「いっぺんに三十歳も老けたみたい。肉体的にはあの頃から大して時間たってないはずなのに、不思議だね~」 「いや。あれはマリア様だ。間違いなく」戸惑いを隠せない薔花たちとは対照的に、ワーグはきっぱりと言った。 「頭撫でてくれたからとかじゃなくて?」  チョナのからかうような言葉にも、ワーグは動じず首を振る。「そんな表層的な理由ではない。マリア様は本来、穏やかで思索的な方なのだ」 「本当かよ」  肩をすくめる薔花を無視して、ワーグは俺に深く頭を下げた。 「あらためて感謝する、司令官。最後の願いが叶った。もう思い残すことはない」  翌朝、マリア・リオボロスが呼んでいるとの連絡をうけ、俺はふたたび病室を訪れた。 「私には、どれだけ時間が残っている?」  俺が部屋に入るなり、女帝は挨拶もなしにいきなり言った。俺は一瞬、言葉に詰まって立ちすくんでしまい、彼女はそれで大体のところを察したようだった。  マリア・リオボロスは死から蘇ったわけではない。ヒュプノス病の症状を中断させた結果、生命活動が一時的に再開しただけだ。不完全な冷凍で傷ついた神経は、重金属被覆手術には耐えられない。彼女はほどなく、永遠の眠りに戻ることになる。それは最初からわかっていたことだった。  ドクターの見積もりによれば、覚醒から再入眠まで長くて48時間。  実際のところそういうタイムリミットがなければ、いかにワーグのためといえど、レモネードデルタとの戦争がまだ続いているこの時にブラックリバー上層部の人間を復活させるなどという選択はできなかっただろう。  隣のラビアタが肯定の目配せをしている。俺は咳払いをしてから、事実をそのまま告げた。  女帝は顔を冷たくこわばらせた。さすがに、あと一日というのは予想を超えていたのだろう。しばらく黙ってから、彼女はひどく虚ろに聞こえる声で言った。 「……私にさせたいことは何だ。あるいは、訊きたいことは」 「してほしいことは別にありません。……鉄虫とヒュプノス病、星の落とし子について、知っていることがあれば教えてください。それと、PECSとレモネードシリーズについても」 「どれも大したことは知らんな。星の落とし子とやらは聞いたこともない。何だそれは?」  俺は星の落とし子とヒュプノス病の関係について、できるだけかみくだいて説明した。女帝は大きく息をついて、枕に頭をあずけた。 「ブラックリバーの機密でも訊かれるのかと思ったが」 「ブラックリバーがもうないのに、機密など意味がないでしょう」 「それはそうね」女帝はつまらなそうに鼻を鳴らしてから、「つまり私を蘇生したのは、ワーグに私を会わせるためか」  それだけではないが、それが一番大きな理由なのは確かだ。頷いてみせると、女帝は唇の端をゆがめた。 「バイオロイドのために、人間の命を左右するとは……確かに、ここは私の生きる時代ではないようね」  そうして彼女はぐったりと横になったまま、遠い目線を窓の外へ向けた。  俺はだまってその姿を見ていた。滅亡前の世界を知らない俺には、彼女の本当の胸中はわからない。たとえばある朝目覚めたら見知らぬ誰かに「もうオルカもレモネードオメガも、鉄虫も星の落とし子も、誰もいません」と言われたら、どう感じるだろうか。  長い時間が過ぎた。女帝は枕から頭を上げ、きっぱりとした口調で俺に告げた。 「窓を開けて。それから、エンプレシスハウンドを呼びなさい」  駆けつけてきたワーグ達を女帝はベッドの前へ整列させ、その顔を順繰りに眺めてからおごそかに言った。 「今日までご苦労だった、エンプレシスハウンド。お前達の任を解く。私から命じることはもうない。好きなように生きるがいい」  薔花は忌々しげに目を伏せて肩をすくめた。チョナはおどけた調子でひょいと頭を下げた。膝をついて深々と礼をしようとするワーグだけを、女帝は呼び止めた。 「ワーグ、お前だけは別よ。最後の任務を与える。私を殺しなさい」 「はっ…………?」  ワーグが凝然と動きを止めた。俺も聞き違いかと思って、何度か目をしばたたいた。 「ミセス・マリア、一体何の……」 「黙れ」  俺を遮ったのは女帝ではなく、ワーグだった。 「女帝は冗談など仰らない。言い間違いをすることもない」  食いしばった歯の間から、一言ずつ押し出すような言葉だった。 「やはりお前は他とは違うわね」女帝は満足げに言った。 「どうせ明日にはない命。お前の百年にわたる精勤に報いるものは何もないが、せめて私の死をお前にやろう」  ワーグは肩を小さく震わせ、跪いたまま動こうとしない。ようやく顔を上げたとき、その白眼がまっ黒に染まっているのが、俺にも見て取れた。 「本当に……よろしいのですね」 「古来より、子は親を殺し、人は神を殺して、自己を確立してきた。次はバイオロイドの番かもしれない。せいぜい立派に務めてみせなさい」 「薔花。チョナ」  立ち尽くしていた二人は、ワーグに小さく名を呼ばれて我に返ったようだった。「外に私の装備が置いてある。持ってきてくれ」  ラビアタがドアを開ける。二人はワーグの言葉に一言も返さず、小走りに出ていった。 「司令官。……外に出ていてくれないだろうか。殺人を犯すところを、見られたくない」  消え入るような声だった。俺はマリア・リオボロスに最後の一礼をして、部屋を出た。  廊下には、ワーグの武器スコルとハティを抱えて戻ってきた薔花たちがいた。俺はここでも何も言わず、目礼して二人とすれ違い、そのまま建物の外へ出た。  スコルとハティはワーグの身長と同じくらいある長大な刀だ。狭い病室で振り回すのには向いていないが、生涯で最も重い任務を果たすのに、使い慣れた愛用の武器以外を使う気にはなれないのだろう。ワーグの腕前なら、見事に扱ってみせるに違いない。  風が冷たい。こんな時煙草を吸えたらいいのだろうかと、ふと思った。  病室の窓ごしに、ワーグのすすり泣く声が聞こえてきた。  立ち会うのは俺と護衛数人だけという、寂しい葬儀だった。  マリア・リオボロスの蘇生はもともと限られた幹部にしか知らされていない。この墓が誰のものであるかも、ほとんどの隊員は知ることがないだろう。  ワーグは誰よりも長い間、その簡素な墓の前に頭を垂れていた。 「私の命は女帝のものだった。今日この時からは、私のものだ」  最後に小さくそう呟いて、ワーグは立ち上がった。 「そして、私はこの命を司令官、あなたのために使う。あらためて、そう誓います」  こちらを振り向いた彼女は目尻に涙を浮かべていたが、今まで見たこともないような、澄んだ力強い笑顔をしていた。俺は手を差し出し、ワーグはその手をかたく握り返してくれた。  オルカへ戻る道すがら、俺は二日間女帝の看護を担当してくれたラビアタに礼を言った。万が一のことを考えて、ブラックリバー製以外かつ人間の強制力が絶対効かないとわかっている彼女にしか頼めなかったのだ。 「ご主人様のためですから、何でもありません」  ラビアタは涼しい顔で言ってくれたが、旧時代の人間、それも企業幹部と接することが辛くなかったはずはない。俺は感謝の気持ちを込めて、隣を歩くラビアタの手をとった。 「でもな、ラビアタ。マリア・リオボロスのあの様子を見ていて、俺はこんな風にも思ったんだ」  バイオロイドに対して信じがたいほど残酷で邪悪な仕打ちを繰り返してきた旧時代の人間たちは、しかし決してその本質から残酷で邪悪だったわけではない。おそらくは時代が、社会が、彼らをそのような人間にしてしまったのだ。まったく新しい世界、まっさらの状況でバイオロイドと向き合えば、ちがう関係を築くこともできる。そう希望を持ってもいいはずだ。 「…………」  ラビアタはだまって微笑んだまま、俺の言葉を肯定も否定もしなかった。  ある日、マリア・リオボロスの墓の前にロクがいるのを見かけた。  ロクはつい先日まで、ずっと長期遠征任務に出ていた。あれが誰の墓なのか、俺はまだ伝えていない。  ハウンドの誰かが教えてやったんだといいなと、俺は思ったのだった。 End ===== 「……そんな次第で、余はつい先日やっと、本当の意味で殿の御心を知ったというわけさ。まったく、己が不明を恥じるばかりだ」  プレスターヨアンナが短い話を終えて、小さく頭を下げる。拍手と、様々な思いのこもったため息がそれに答えた。 「たしか貴殿は主君が来て間もない頃、外部拠点の開拓任務を買って出てオルカを離れましたね。もしかして、あれも?」アタランテが空のグラスにワインを注ぎ、ヨアンナは会釈をしてそれを受け取る。 「ああ。人間とできるだけ距離を置きたかったのだ……ただ、思えばあれは悪手であった。もう一月か二月、共に過ごしていれば、殿のお心の広さはすぐにわかっただろうにな」 「本当ですよー」マジカルモモがぷうと可愛らしく頬をふくらませた。「ヨアンナさんがずっとそんな風に悩んでたなんて、モモ全然知りませんでした。もうけっこう長い付き合いなのになー」 「ヨアンナ公はなんでも内にかかえ込みすぎなのです」なぜだか水着姿のシャーロットが割り込んでくる。「もっと、すべてをさらけ出せばよいのに。この私のように」 「なかなか、卿のようにはいくまいが……今後はもう少し心がけよう」 「懺悔のため部屋を暗くして……なるほど、そういう手が……」クノイチ・ゼロは何ごとかメモしている。  ヨアンナを囲んで盛り上がる伝説サイエンスのバイオロイド達を、クローバーエースは目を輝かせて眺めていた。 「すごいな、テレビや映画で見たヒーローが勢揃いだ」 「貴女もそのヒーローの一人でしたけれどね」  その隣でアルマン枢機卿が、微笑んでグラスを傾けた。  SS級への昇級手術も受け、もうじき外部拠点再建のためふたたびオルカを離れるヨアンナの壮行会と、最近オルカに加わったクローバーエースの歓迎会を兼ねて、伝説組だけの小さなパーティを開こうと提案したのはマジカルモモだった。 「それではもう一度、ヨアンナさんのためにかんぱーい!」  箱舟の会議室をひとつ借りて、白いクロスの敷かれたテーブルに軽食と飲み物、そして誰がどこから調達してきたのか、差し入れの高級そうな酒や菓子が並ぶ。昔テレビで見た芸能人の打ち上げのような光景だと思って、クローバーエースは一人で笑った。ここにいるのはまさしく芸能人ばかりなのだ。自分も含めて。 「クローバーエース卿、正式な挨拶がまだであったな。プレスターヨアンナだ」グラスを二つ手に持って、サーコート姿のヨアンナがエースのところへやってきた。 「初めまして! 『エルサレムの黒き盾』観たことあります。会えて嬉しいです」頬を紅潮させて、エースはグラスを受け取る。ヨアンナが苦笑した。 「伝説の同僚からそう言われるのは、みょうな気分だな。もちろん『クローバーエース・ショー』は余も知っている。それに、世界のあちこちでバイオロイドを助けて鉄虫と戦う『不思議な流れ者ヒーロー』の噂もな。オルカに加わってくれてくれて心強い」 「そんな、こちらこそ。オルカの話はあちこちで聞いてました」 「モモのことも知ってます?」ヨアンナの後ろから、モモがひょこりと顔を出した。 「マジカルモモ! 本物はやっぱり可愛いなあ! 新作映画のたびに観に行ってたけど、特に『花の都のミルフィーユに想いをこめて』が最高だったよ。ディスクも買ったんだ、パリの風景がすごく良くて、ちょっぴりロマンチックで」 「拙者たちの戦いの映像もご覧になったでござるか?」 「もちろん! 『大戦乱』は私たちの学校じゃ歴史の教材になってた。授業で観たのは第一部だけだったけど、私は第三部が好きだな」 「当然私もご存じですわね?」 「ごめん、『シャーロットロマンス』は小説版しか読んだことないんだ」 「なぜ!?」  ショックで涙目のシャーロットに、アルマンがくすくす笑う。「あれには私が出ているからですよ。さすがに、同じ顔が画面の向こうにいては怪しまれますからね」 「いや、見たかったんだよ? 小説はすごく好きだったし」クローバーエースもあわてて弁解する。「でもリバイバル上映があるたび、なんでかちょうど機械帝国が出てきて……ああそうか、でもあれも番組の都合だったのかあ」 「そうですね。実際、『シャーロットロマンス』はかなり貴女好みだと思いますよ。箱舟のライブラリにありましたから、あとで観てみたらいいでしょう」 「絶対観て下さいね! 絶対ですよ!」 「いやー、緊張したなあ」  ひととおりの挨拶を終えたエースはテーブルに戻って、並んだ料理をぱくぱくと平らげる。 「伝説の人たちってさ、なんていうか、いろんなタイプがいるんだね? みんな私みたいのかと思ってた」 「そうですね……あなたはむしろ、新しい番組製作スタイルのテストケースでした。役者、俳優タイプの方が、数としては主流ですね。私もそうですし」  アルマンも小さなサンドイッチを上品にかじりながら、エースの方を横目で見やった。 「……本当によかったのですか? オルカに腰を落ち着けてしまって」 「え、どういう意味?」シュリンプフライを頬張りながら、エースは目を丸くする。 「あなたは旅の途中でしょう。途中で止めていいのですか? 陛下はバイオロイドの自由と主体性を何より尊重して下さいます。旅を続けたいと言えば、きっと許して下さいますよ」 「そりゃ……」エースは言いよどんだ。「……ここは、バイオロイドが幸せに暮らせる場所だって聞いたけど。違うの?」 「違いませんとも。私たちにとって今この地上で、陛下のおそば以上に幸せな場所はありません」きっぱり言ってから、アルマンはクローバーエースの顔をまっすぐに見た。 「ですが、それは普通のバイオロイドの話。あなたは自由も、幸せも、すでに手にしているはずです。自覚していますか、それはとても希有なことなのですよ? 特殊な立場と、そのために与えられた人格と性能、そして偶然のタイミングが奇跡のように噛み合って、自由なるヒーロー・クローバーエース、今のあなたは生まれました。そのあなたをここに留めてしまうのが果たしてよいことなのか、私は測りかねています」  エースは口の中のものを飲み込んで、唇をペロリとなめた。「私のこと、すごく気にかけてくれるんだね」 「私はルージュの伝言と記憶を預かった身です。貴女が本当に自由で、幸福であるか、見極める責任がありますので」  真顔で答えるアルマンに、エースは小さく笑う。 「そういうところ、ルージュとそっくりだ」 「基本的な人格プログラムは同一ですから」アルマンが小さく肩をすくめた。その仕草もルージュによく似ていて、エースはまた笑った。 「さっきも言ったけど、オルカのことは前から聞いてたし、興味があったんだ。最後の人間が率いる抵抗軍なんて、いかにもヒーローにふさわしい場所じゃないか」 「それだけですか?」ナプキンで口元をふきながら、アルマンがちら、とエースを見上げる。 「……元々、目的地のある旅じゃないし。一人旅も、そろそろ寂しくなってきてたしさ」 「それだけ?」  エースは顔をしかめてアルマンを見た。「……もしかして、わかってて聞いてる?」 「さあ、どうでしょう?」  エースはしばらくためらってから、身をかがめてアルマンの耳元へ口を寄せ、小声で何事か囁いた。アルマンは満足そうに頷く。 「それなら、何も問題はありません。ようこそ、オルカへ」 「そういう意地悪いところも、ルージュそっくりだな!」顔を真っ赤にしたエースに、アルマンはすました顔で言った。 「基本的な人格プログラムは同一ですからね」  夕暮れの風が冷たい。  北極圏に位置するスヴァールバル諸島では、盛夏であっても摂氏10度を越えることは稀だ。人間ならばコートが必須だが、バイオロイドにはさほどのこともない。クローバーエースとプレスターヨアンナの二人は黙ったまま、冷たい夕陽が照らし出す岩だらけの湿地を歩いた。  太陽はまもなく西の海に沈みそうに見えるが、決して沈むことはない。白夜の季節だ。 「……すごいな。これが白夜か」  最初にこの島に上陸した時は特に見るところもないと思ったものだが、間違いだった。クローバーエースはため息とともにあたりの景色を見回し、そうしてヨアンナの背中に視線をもどす。 (少し、外を歩いてみないか)  パーティも半ばを過ぎ、皆がなんとなく落ち着きだした頃、ヨアンナがふいに声をかけてきて、エースは外へ連れ出されたのだ。  彼女はオルカの中でもかなりの古株だと聞く。新参者を一発シメておこう、とでもいうのだろうか。昔の学園生活を思い出してひそかに腹筋に力をこめたりしていると、ヨアンナが歩きながら振り返った。 「クローバーエース卿」 「は、はい」 「敬語はよしてもらいたい。ここでは皆、同僚だ」ヨアンナはやわらかく笑う。 「卿は……かつての時代、巨大なセットとして丸ごと作られた街の中で、普通の人間と同じように暮らしていたのだったな」 「はい。あ、いえ、うん」エースは頷いた。「当時は、自分は人間で、本当に悪と戦ってるんだと思ってま……思ってた」 「リアリティ・ショー形式というやつだな」  ヨアンナは、淡いオレンジ色に染まる湿原のほうへ目を投げた。つられてエースもそちらを眺める。 「思えば伝説は常に、よりリアリティのある表現形式を追求していた。あのまま世界が続いていればあるいは、卿のようなスタイルが主流になったのかもしれぬな」  足音と風の音以外、聞こえるものは何もない。ほとんど呟くようなヨアンナの声も、はっきりと聞こえた。 「余は伝説のバイオロイドの中でも、ごく初期のモデルだ。そのせいか知らぬが、モモ卿やシャーロット卿と比べると役者魂というか、俳優としての意識が希薄なようでな。演技の技術は身につけていても、演じること自体の喜びや誇りといったものはあまりないのだ。おそらくそれも、リアリティを追求する試みの一環だったのだろう。……最初期のモデルと最後期のモデルが、ともに演じることから離れていったというのは、思えば面白い話だ」  どう答えればいいのか、クローバーエースが戸惑っているうち、ヨアンナはふと足を止めた。エースも合わせて立ち止まる。特に何があるわけでもない、湿原の真ん中だ。 「失礼を承知で聞きたい。卿は先ほど、『エルサレムの黒き盾』を観たと言ったな。それはくだんのショーが続けられていた頃……つまり、卿が自分を人間だと思っていた頃、ということでよいのか」 「え……うん。そうだよ」 「そして後になって、バイオロイドや伝説のことを知った?」  エースはもういちど頷く。ヨアンナはしばらく黙ってから、エースの方に向き直った。 「感想を聞かせてくれまいか。あの映画を観て、卿はどのように感じた?」 「……!」  まっすぐな視線をまともに受けて、エースは言葉につまった。  あの映画の撮影で何が行われていたか、もちろん今のエースは知っている。それは外の世界では隠すことでも何でもなく、どんな映画情報誌にも書いてあったからだ。  自分は責められているのだろうか? 無責任にも人間のように、あの映画を楽しんでしまったことを? いや、彼女の眼差しにそんな色はない。考えろ。きっと、自分にしか答えられないことがあるのだ。この問いのためにこの人は自分を連れ出したのだと、今はエースにもわかった。 「……あの映画の撮影のために、伝説がどんなことをしたかは聞いてる。あんなことは、二度とあっちゃいけないと思う」  ゆっくりと、一言ずつ考えながら、言葉をつむいでいく。ヨアンナは黙って聞いている。 「でも、そういうことを何も知らないで観た時は……感動した。すごかった。戦争も、信仰も、人の死も、それを乗り越えて生きる人たちも、まるで本物みたいな、ものすごい迫力で輝いて見えた。私はたいして映画に詳しいわけじゃないけど……それでも、あんな映画はほかにないと思う」  エースが言い終えても、ヨアンナは長いこと黙っていた。  どれくらいそうしていただろう。夕陽は水平線の上をいつまでもすべるように動いて、時の経過を教えてはくれない。吹きつける風がさすがに肌寒く感じられてきた頃、ヨアンナはようやく口を開いた。 「あの……あの現場からどんな作品が生み出されたにせよ、余が奪った同胞の命とつり合うものだとは決して思わぬ。しかし少なくとも、まるきり無価値というわけではなかったようだ。それを慰めと思うべきかは、まだ判断がつかぬが」  それから、ヨアンナはエースに深く頭を下げた。 「ありがとう、クローバーエース卿。心より感謝を」 「い、いやいやいや!」エースはうろたえて頭と手をぶんぶん振った。 「私なんかそんな! 今のオルカが発信してる映像も、私は大好きだよ。『プロジェクトオルカ』は何度も見た」 「ほう! あれを観たのか」  ヨアンナが頭を上げて、ぱっと笑った。エースはようやくほっとして、「もちろん。どこへ行っても、あれを見てない人なんていなかったよ。これからオルカに合流するんだって言ってた人もいたし、ひみつ付録の方だってみんな……」 「ひみつ付録?」  エースはぱっと口元を押さえた。  しかし、もう遅い。しばし怪訝な顔をしたヨアンナが、ハタと手を叩いた。 「ああ、あれか。タロンフェザー卿がデータ漏洩を装ってこっそり配信したという、ライブの後のスカイナイツの」  必死に平静を保とうとしたが、無理だった。頬がぐんぐん熱くなる。ヨアンナの顔をまっすぐ見られない。そんなエースを見て、ヨアンナがにやりと笑った。 「もしや、卿はあれでオルカに興味を持たれたか?」 「そ、それだけじゃないし!」叫んでから、墓穴を掘ったと気がついた。ヨアンナがいっそう笑顔になる。 「はっははは! そうか、そうか! いや結構、大いに結構。卿が望みさえすれば、それは遠からず叶えられよう」  先程までの空気を吹き飛ばすようにひときわ大きく笑ってから、ヨアンナは大きく息をついた。白い息が風に流れて、すぐに消えていく。 「さて、帰るとしようか。主賓が二人とも抜けたままでは、会も締めようがあるまい」  行きより少しだけ早足に、二人は歩いた。先をゆくヨアンナは時折思い出したように、クックッと小さく笑う。 「……そんなに笑わなくたっていいじゃないか」 「いや失敬、おかしくて笑ったわけではないのだ」ヨアンナが少し歩をゆるめて、エースの隣に並んだ。「ただ嬉しくてな。卿のような特別なバイオロイドまでもが、殿にあらがえぬ魅力を感じてくれるということが」 「私は別に、特別なんかじゃ……」 「卿は自分が幸せだ、と断言したそうではないか? 生まれてこの方、余はそんなバイオロイドを見たことがない。無論、殿にお会いする前の段階では、という意味だが」 「……アルマンにも同じようなこと、言われたな。さっき」  ヨアンナの横顔を眺める。夕陽に照らされた浅黒い顔は穏やかだ。 「司令官さんって、どんな人? まだ挨拶しかしてないんだけど」 「アルマン卿は何と?」 「自分で知っていくのが一番だって、何も教えてくれなかった」 「では、余の答えも同じだ」  不満げなエースをなだめるようにヨアンナは微笑んで、エースの目の前に指を二本立ててみせた。 「だが先達として、二つほど助言を授けておこう。この先、卿が殿にどのような気持ちを抱くにせよ、その気持ちのまま、自由に振る舞うべし。おそらく殿も、いや殿こそが誰よりも、それを望んでおいでだ」 「……二つ目は?」 「卿が興味を抱いたそのことが、この先起こったとしてだが」ヨアンナはいたずらっぽく片目をつぶる。「これまでどのように期待を膨らませてきたにせよ、それをはるかに超えるものだと心得よ。殿は大層タフであられるゆえな」  赤面したエースを見てヨアンナは笑い、両手を大きく空に広げて、歩きながらくるりと回った。 「“夕暮れの時はよい時、かぎりなくやさしいひと時。冬なれば暖炉の傍ら、夏なれば大樹の木陰。それは過ぎ去った夢の酩酊、今日の心には痛いけれど、しかも全く忘れかねた、そのかみの日のなつかしい移り香……”」 「ヨアンナさん、役者魂がないって言ってなかった?」 「これは素だ」  よく通る声が朗々と、湿原の上をわたる。その声の残響を追いかけるように歩いてゆく二人のバイオロイドを照らす夕陽は、いつまでも沈まなかった。 End =====  ティートカップをよく拭いて消毒槽に入れ、腰の高さまである大きなミルク缶を台車に載せる。台車に積んだ缶の数をもう一度数えて、エルブン・フォレストメーカーは深いため息をついた。 「ぐぬ~。今週も対先月比マイナスかあ……」  エルブン・フォレストメーカーをはじめとする一連の森林保護・育成用バイオロイド、いわゆるエルブンシリーズは、パブリックサーバントの中でも独自性の高い一種のサブブランドを形成しており、それを反映してオルカでもチームとしての共用部屋をひとつ与えられている。エルブンミルクの生産加工所も兼ねているためそこそこの広さがあるその部屋の内部は、セレスティアとセクメトの力で壁や床から木々が生い茂り、ふかふかの下草まで生えて、ちょっとした森の中の空き地といった風情にしつらえられている。はらり、と缶のフタに舞い落ちた一枚の木の葉を、エルブンは優しくつまんで捨てた。 「やっぱ箱舟に落ち着いちゃってからぱっとしないんだよなー。早くヨーロッパ本土に侵攻しないかなあ」 「物騒なこと言うんじゃないわよ」木の根に腰かけてネイルの手入れをしていたダークエルブン・フォレストレンジャーが眉をひそめた。 「だってこの島、どこ行っても氷ばっかりで木が一本もないじゃない。箱舟の中は中で私たちの仕事全然ないし。おかしくない!? 自然といったらエルフでしょうが!」 「あの中はだって、水も光も温度も全部管理されてるじゃん。私らの出る幕なんかないでしょ」 「箱舟とやらは、生態系全体を保存して未来へ残すのが目的と聞きました。植物だけが繁茂しても、それはそれでバランスを欠くということなのでしょう」  黙々と料理書を読み込んでいたセクメトも目を上げ、しずかに言い添える。 「芝生潰してカフェやらバーやら建ててるくせにー!」 「そのカフェのおかげでミルクの消費も増えたんだから文句言わない。先月は例の選挙もやったし、ずいぶん売り上げ伸びたでしょ。それが元に戻っただけじゃないの」 「元に戻っちゃダメでしょーが! そんな甘い考えじゃこの生き馬の目を抜くオルカで生き残れないよ!」 「オルカってそんな所だっけ?」  だんだん、とミルク缶のフタを叩いてエルブンは力説する。彼女たちエルブンシリーズに共通する特殊体質にして、余人に真似のできない独自商品であるところのエルブンミルク。日夜文字どおり身を削って生み出しているそのエルブンミルクの売り上げが、このところ芳しくないのだ。具体的には飲料用の売り上げがどうも落ち込んでいる。ダークエルブンの言うとおり、先月の「ミルク総選挙」イベントで健康飲料としての認知度が一気に上がったのはよかったが、ブームが去るとまた需要は落ち着いてしまった。 「なんか対策立てないと……だいたいあんたのせいでもあるんだからね。もっと新人どものおっぱいに危機感持ちなさいよ!」 「はあ!? 何それ!」  エルブンミルクのうたう効能の一つにバストアップ効果がある。それに説得力を与えているのが、そろって豊かなエルブン達のバストだ。とりわけダークエルブンの胸はオルカでもトップクラス、身長比の補正を入れれば単独首位であり、エルブンミルクの人気をおおいに高めていた。  しかし最近、それはもう野放図に巨大なバストを備えた新人が立て続けに現れており、ダークエルブンの存在感は相対的に薄れつつある。エルブンミルクの消費低迷にはそのあたりが関係していると、エルブンは睨んでいるのだ。 「ただでさえ巨乳が渋滞してるところへバイソン女だの熊女だの忍者ママだの……あんたももっとミルクがぶがぶ飲みなさい!」 「毎日飲んでるわよ! だいたいミルクだけで胸が大きくなったら世話ないわ!」 「商品価値を根本から否定するなあ!」 「あらあら、賑やかですね~」  部屋の奥の木陰から、ミルク缶をかかえたセレスティアが頬を火照らせながら出てきた。 「今日の分のバナナミルク、できました。納品をお願いしますね~」 「セレスティア様! 聞いて下さいよ~!」  泣きつきにいくエルブン。話を聞いたセレスティアはおだやかに小首をかしげ、 「人気が落ちているのは悲しいですね~。でも、私たちのミルクに頼らなくてもみんなが健康で元気にしていられるのなら、それが一番かもしれませんね」 「そういうことじゃなくてー! 私たちの存在が軽くなってるってことですよ! セレスティア様だって不満じゃないんですか!」  セレスティアは困ったように笑う。「むかしの時代や島にいた頃に比べれば、オルカは夢のように幸せですから、不満などはとても」 「う……」  旧時代から生き抜いてきた彼女にそういうことを言われると、復元組のエルブン達としては何も言えなくなってしまう。もちろんエルブン達とて苦労してこなかったわけではないし、今の環境に幸福を感じていないわけでもない。司令官が来るよりずっと前、戦いが一番厳しかった頃は、エルブンミルクは販売どころか軍需食糧として徴収されていたのだ。その頃に比べれば、確かに今のオルカは夢のようである。 「でもミルクの売り上げは、えーとほら、エルブンシリーズ全体の地位向上にもつながるんですよ! 向上心! そう向上心です! 不満でなく!」 「どんな命にも、それに似つかわしい地位と役割があるものですよ~」 「そうですよエルブン。高望みをするのは高貴ではありません。陛下のおそばに侍る者は、つねに謙虚でいなければ」セクメトまで本を置いてそういうことを言う。 「うぐぐぐぐ」  どうもエルブンシリーズの上位モデルはみんな浮世離れしたところがあって、こういうことにはまるで頼りにならない。いったん諦めて出荷作業を済ませようと、エルブンは台車を押して部屋の出口に向かった。飲料用以外にも加工用、調理用、製菓用など、エルブンミルクにはいろいろな需要があるのだ。  ドアを開けると、緑色の壁が行く手をふさいでいた。 「あっ、すみません。こちらは、エルブンシリーズの皆様のお部屋とうかがったのですが」 「うげげっ!」  思わず素の声が出た。入口に立ち塞がっていたのは壁ではなく、一人のバイオロイドだった。たった今やり玉に挙げていたエルブンミルク低迷の元凶の一人、ガーディアンシリーズのフリッガである。熊の遺伝子を導入されたというその体躯は2メートル近くあり、エルブンとは大人と子供ほども違う。エルブンは思わず身構え、 「なななんなんなんですか! やろうってんですか!」 「いえ、あの……ご迷惑でしたら出直してまいります」 「何やってんのよあんた」声を聞いたダークエルブンが出てきて、ひとまずミルクの台車を後ろに下げた。「お客さんじゃない。ごめんごめん、ちょっと驚いただけ。とりあえずどうぞ」 「お邪魔します……うわあ、素敵な部屋」  身をかがめておずおずと戸口をくぐってきたフリッガに、エルブンはあらためて息を呑んだ。 (でっっっか……)  背が高いだけでなく、左右にも前後にも大きい。骨格自体が大柄な上に、みっしりと筋肉がついているのだ。彼女がいるだけで部屋がちょっと狭くなったような気さえする。 (そりゃ胸もすごくなるわけだわ……) 「あら、珍しいお客様! ようこそいらっしゃいました」  セレスティアが立ち上がり、にこやかに両手を広げて歓迎の意を示した。「ミルクはいかがでしょう? 搾りたてがありますよ」  決して背の低い方ではないセレスティアだが、それでもフリッガの方が頭一つ以上大きい。気づけばダークエルブンも、まじまじとフリッガの胸を見つめていた。少しは危機感を抱け。 「これは……カシの木? 本物なんですか?」 「ナノマシンでできた疑似植物です。でも本物と同じように呼吸や光合成をするし、季節になれば花も咲くんですよ」 「へええ……では、この地面も?」 「そちらは私のナノマシンで構成した疑似土壌系です。制御にコツがいりますが、有機物や埃を分解してくれる、便利なものですよ」  ひとしきり感心したフリッガは大きなマグカップで出されたバナナミルクを美味そうに飲み干し、大きく息をついてから口を開いた。 「実は、今日はお願いがあってうかがいました。こちらには、母性をイメージした牛柄の衣装があると聞いたのですが」 「別に母性をイメージしてませんが、牛柄ビキニならありますよ」  エルブンが答えると、フリッガはずいと身を乗り出した。 「それを一着、貸していただけないでしょうか?」 「……ほほ~う?」  肉の質量にちょっと後ずさりつつ、エルブンはニヤリと笑った。「ご自分で着るんですか?」  頬をさっと赤らめてうなずくフリッガ。エルブンの笑みがさらに深まる。  オルカにおいて、ビキニを好んで着る隊員は非常に多い。中には単純に肌を出し、肉体美を誇示すること自体を楽しむ者もいるが、フリッガはどう見てもそういうタイプではない。にもかかわらず、あんな扇情的な衣装を着たがるとすれば、その理由は一つしかない。 「司令官様のためですね~?」  ニヤニヤしながらさらに斬り込んだエルブンは、しかしオヤ、と笑みを消した。反応が予想していたのと違う。  フリッガは頬を赤らめつつも唇をきゅっと引き結び、眉根を寄せていた。その表情からは欲望や期待というより、ある種の決意と悲壮さが感じられる。どうも、単に司令官を悩殺するために水着を欲しがっているわけではないようである。 「……まあいいですけど、あれって数があんまりないんですよね。背丈が違いすぎるから、貸したら伸びちゃうだろうし」  しかしいずれにせよ、理由はそれほど重要ではない。エルブンは思考を切り替えた。せっかく獲物が向こうから飛び込んできたのだ、遠慮なくたっぷり搾り取らせてもらおう。ミルクだけに。 「私にできるお礼でしたら、何でもいたします」 「えー、それじゃ~あ~」 「エルブン?」  わざとらしく顎をさすってみせるエルブンの頭上から、セレスティアのしずかな声が降ってきた。 「私たちはエルブンミルクの生産にかかわって、いくつもの特権を司令官様からいただいています。この上、べつの代価を求めるのはよくないことですよ」 「う……はい」 「フリッガさん、私のビキニをお貸しします。紐の長さを調整すれば着られるでしょう、手袋とソックスは……」 「私用の予備がありますから、お譲りしましょう」セクメトが言い添えた。「何かただならぬ事情があると見ました。私の方は当面着る予定がありませんから、伸びてしまっても構いません」 「ありがとうございます」フリッガは深々と頭を下げた。「何かお礼をさせて下さい。そうでないと私の気が済みません」 「そのようなことは~……」 「はいはい! お願いしたいことあります!」エルブンは慌てて手を上げた。こうなったら最初に思いついたアイデアだけでも実現させなくては。「フリッガさんもこう言ってるんだし、いいですよねセレスティア様!」  セレスティアが仕方ない、というようにうなずき、エルブンはガッツポーズをとった。 「じゃあですね、コトが済んだらでいいので……」 「エルブンミルク、体によくてとっても美味しいエルブンミルクはいかがですか? 皆さんもエルブンミルクを飲んで、私のような健康で丈夫な体になりましょう」 「コーヒーミルクのホット二つ」 「プレーンください」 「こっちバナナミルクをLで」 「はい、はい。少しお待ちくださいね。あっ、プレーンミルクは今ので品切れです。申し訳ありません」  生態保存区域の広場の一角、朝から行列の絶えないミルクスタンド。少し離れたところからそれを見守るエルブンは得意絶頂だった。 「へっへーん! どうよ私のこの商才、この企画力!」 「はいはい、大したもんよ」  ダークエルブンが肩をすくめて賛同する。エルブンが要求したお礼とは、牛柄ビキニを着たフリッガにそのままエルブンミルクの販売係をやってもらうことだった。  彼女が看板娘をつとめることで、バストアップ効果の説得力は前にも増して復権。そのうえ新たに、身長を伸ばしたい隊員達にも需要が広がり、売り上げはミルク選挙の時すら超える勢いだ。 「本日はご好評いただきまして完売です。ありがとうございました~、皆さん」  フリッガが一礼して、スタンドの後片付けを始めた。そこへやって来た子供組と何ごとか話していたと思うと、ピッチャーを手にこちらへそそくさと走ってくる。 「あのう、すみません。あの子たちのために一、二杯分だけ、どうにかならないでしょうか?」 「しょうがないな~。ここで出しちゃうから、貸してください」  今日も夕方前に完売してしまった。明日からは増産も考えるべきかもしれない。木立の影で胸をはだけながら、エルブンは鼻息も荒く考えをめぐらせる。 「アクアランドももうすぐできるし、あっち用の新商品もどんどん考えていかないとね。今晩も企画会議だからね、遅れずに来るのよ!」 「あんた本当にそういうの好きね……いいからはい、出して出して。フリッガさんもありがとうね」 「いえ、やってみるととても楽しいです。小さい子たちも大勢来てくれますし」  フリッガの満ち足りた笑顔からは、先日の悲壮さは少しも感じられない。彼女があの「デート抽選会」の幸運な当選者の一人だったことを、エルブンは後から知った。ビキニを使って司令官とどんなデートをしたのか、さすがのエルブンもそこに立ち入る気はなかった。 「今度あのアイアスさんって人も紹介してくださいね。ライバルはどんどん取り込んでいかないと」 「ライバル?」 「いえこっちの話です。このままエルブンシリーズの地位を爆上げして、ゆくゆくはアクアランドの隣にフォレストランドを建設するのよ!」 「あ、それちょっと面白そう」  陽射しの下、エルブンの明るい笑い声に合わせて、白とコーヒー色の二すじのミルクがキラキラと揺れながら、それぞれのピッチャーに降り注いでいった。  この数日後、生態保存区域は夏周期に入り、タイミングを合わせてオープンしたムネモシュネのかき氷屋にエルブンミルクは人気を根こそぎ持っていかれることになるのだが、それはエルブン・フォレストメーカーのいまだあずかり知らぬことである。 End ===== 「この一月で、うちの連中がすっかりあんたに懐いてしまった。あんたの作る飯が美味すぎるせいだ」  窓際の椅子の埃をはらって、迅速のカーンは腰をかけ、湯気の立つ大きなスペアリブへおもむろにかぶりついた。 「心をつかむには、まず胃袋をつかむこと。基本よ」  少し離れた椅子にラビアタ・プロトタイプも座り、こちらは上品にナイフで肉を小さく裂いてから口へ運ぶ。二人の視線の先、部屋の中央に組まれた大きな暖炉にはホードとストライカーズの隊員が群がり、大鍋にぐつぐつ煮えているシチューをてんでにすくっていた。 「うまっ、アチチっ、うまっ」 「副司令! このソースみんな使っちゃっていいの?」 「アンカレッジに着けばまた何か手に入るでしょうから、いいわよ」 「やったー!」 「ちょっと、それまだ食べてないやつ!」 「そういえば、ヘラジカのもも肉は首に巻くとノドの痛みに効くそうですわ」 「んな勿体ないことしないわよ」 「うぎゃー!!」 「ウル! 裸眼では無理でしょう、こんな近くに鍋があるのに」 「だって眼鏡くもって何も見えない……」  ウルが昨日仕留めた、スパルタンほどもある巨大なヘラジカがもう跡形も残っていない。子供のように口いっぱいに肉を頬張ってはしゃぐ隊員たちを、二人の隊長は満足げに眺める。 「よかったらお料理、教えましょうか?」 「遠慮しておく。私は食うだけでいい」脂身のついた大きな肉片を歯で裂きとって、カーンは肩をすくめた。 「暇があったら、ケシクにでも仕込んでやってくれ」 「ケシクにできるなら、貴女にもできるでしょうに」  カーンはそれには答えず、口をもぐもぐ動かしながら窓の外へ視線を投げる。割れた窓ガラスの向こうには凍てついた木々と砂と岩、そして硬く青白い雪におおわれた原野がどこまでも広がり、はや夕闇に沈みはじめていた。  北米作戦後、アラスカにある鉄の王子の遺跡を再訪するためオルカと別行動をとったアンガー・オブ・ホードとストライカーズは、鉄虫とレモネード軍双方の目を避けるため海岸沿いの山地を縫うように進み、ようやくアラスカ州の半ばまでたどりついていた。遺跡のあるアンカレッジまで残りおよそ100キロ。バイオロイドの行軍速度なら一日の距離である。ハイウェイ沿いに、かつてはレストランかホテルだったとおぼしき広いロッジを見つけた彼らは、ここで休んで明日残りの行程を一気に進むことにした。 「このあたり、グレイシャー・ビューっていうそうですよ」  大きなマグカップに汲んだシチューをふうふう吹きながら、タロンフェザーがタブレットの表示を横目で見た。 「マジ? じゃあ氷河見られる?」 「上空からは見えました。少し海側へ行けば、すぐ見えると思います」ずずー、と両手でかかえたお椀を傾けてティアマト。 「私、氷河見たことないです。明日の朝、ちょっと行ってみませんか」 「氷河は何色? グレイじゃー」 「ぎゃははははは! ……ところでさあ。気づいてる?」  骨に残ったわずかな肉を、鋭い前歯でガリガリとかじりながら、ハイエナが急に声をひそめた。 「あったり前でしょ」 「誰か入口の外に来てますね」  全員がラビアタとカーンの方を見る。二人の隊長は手だけでサインを送り、ミナが全員をかばえる位置に、ティアマトとウェアウルフ、タロンフェザーがエントランスからの死角に、音もなく移動した。  その一呼吸後、エントランスのドアが押し開けられ、 「ちょっとあんた達……え?」  向けられた七つの銃口と一本の刃に、目を丸くしたのは一人のウェアウルフだった。 「そっか、あんたたちがあのオルカね」  全身に赤黒い傷跡の走るそのウェアウルフ……ウェアウルフC5F3m6は、差し出された熱いシチューを一口すすって、長い息をついた。 「ええ。悪いけど、今は隠密任務中なの。あなたの所属によっては、しばらく拘束させてもらうことになります」 「所属? 所属なんかないわよ」C5F3m6は自嘲的につぶやいた。「拘束したけりゃご自由に。でもそんな暇があるなら、さっさと逃げた方がいいわ」 「逃げる? 何から?」油断なく彼女の全身に目を走らせながらクイックキャメルが訊ねた。 「もちろん、鉄虫よ。このへん一帯奴らの縄張り。暗くなるとやってくるの」 「鉄虫? ここへ来るまでぜんぜん見なかったけど?」 「あんたたち、東から来たでしょ?」C5F3m6は逆に問い返した。「奴らはここから西の一帯と、北の山側にいる。どういうわけか知らないけど、ちょっと前から二手に分かれて敵対してるみたいなのよね」  ラビアタとカーンはすばやく視線を交わした。北米作戦の最後に鉄虫たちが見せたあの狂乱状態は、鉄虫の中に新たな敵対的派閥が発生したことによるらしい、という分析をオルカからも受け取っている。 「詳しく話してほしいわね。そもそも、あなたはどうしてここに?」 「急げっつってんじゃないの……別に話すほどのこともないわ」  ぼやきつつウェアウルフC5F3m6が語ったところによれば、ここには元々ブラックリバーや三安など、PECS以外のメーカー製のバイオロイドからなる小さな集団が暮らしていた。レモネードの支配はPECSのバイオロイドにとっても地獄だが、それ以外の者にとってはよりいっそう苛酷であり、彼女たちはそれを逃れてこのアラスカの山中までやってきたのだ。 「楽じゃなかったけど、なんとかやれてたわ。ド田舎のせいか、鉄虫もそんなにいなかったし。でも先月、突然奴らがとんでもない数で押し寄せてきた。私たちも抗戦したけど……結局は、ほとんど死んじゃった」  C5F3m6は肩をすくめた。「それだけ」 「プロジェクトオルカの放送は見たのでしょ? オルカに来てみようとは思わなかったんですの?」マーキュリーの問いにもC5F3m6は答えず、ただ再度肩をすくめた。 「私たちが逃げるとしたら、一緒に来ますか?」  今度は、C5F3m6は目を上げ、怯えるように一瞬だけ外を見た。 「……そうね。連れてってもらおうかな……」 「あんた、なーんか暗いわねえ。ほんとにウェアウルフ? サンドガールなんじゃないの?」オルカのウェアウルフ、ウェアウルフ1640があきれ顔で大きな声を出す。 「言ってくれるじゃない。そういうアンタは、ずいぶん幸せそうね?」 「まあねン」皮肉な口調に気づいているのかいないのか、ウェアウルフ1640はジャケットの襟をひらひらと振って笑った。「美味いメシ、いいオトコ、血湧き肉躍る戦場。これで幸せじゃなかったらウソでしょ」 「…………」 「お、羨ましくなってきた? 今からでもオルカに……」 「そのくらいにしろ、ウェアウルフ1640。ちょっと来い」  カーンはウェアウルフを手招きして、ラビアタと共にフロアの反対側へ移動した。 「どう見る」 「嘘はついてないと思いますね」ウェアウルフは声を潜めて、二人の上司を交互に見る。「いろいろ抱え込んではいるみたいですが。まあ、自分で言ったとおりの経歴ならそうもなるかなって感じです。でも、同型機の勘ってだけですからね」 「よし。十分だ」カーンが言う。ラビアタも小さく頷いた。 「なら、確認することはあと一つだけね」  ラビアタの言った通り、この任務は隠密作戦である。オルカの部隊が、なかんずくラビアタ・プロトタイプがここにいることを、絶対にレモネードに知られてはならない。ゆえにレモネード配下であろうと、それ以外であろうと、他勢力との接触は極力避けるのが基本方針だ。  しかし一方、傷つき苦しむバイオロイドともしも出会ってしまったのなら、それを放置することを司令官が許すはずもない。ここにいる全員が、そのことをよく承知していた。 〈カーン隊長、ラビアタ副司令〉  屋根に上がって索敵をはじめていたタロンフェザーから通信が入った。〈鉄虫の反応です。北と西の二方面から……数、どちらも数百から数千。やばめです〉 「だから言ったじゃない」C5F3m6がじれったそうに言った。「早く逃げようってば」 「まだです」ラビアタが大股に歩み寄った。「『ほとんど死んじゃった』と言いましたね。つまり、まだ生きている仲間がいるのでしょう。その人達はどこに?」 「……そんなこと訊いてどうすんの」C5F3m6は警戒する顔つきに変わる。「こっちのことは関係ないでしょ」 「関係はあります。死にかけた仲間を捨てて自分だけ逃げ出すような人なら、同行させるわけにはいきません」 「ふざけんな!!」C5F3m6は血相を変え、椅子を跳ね飛ばした。「そんなことするわけないでしょ。あいつらは……あいつらが私を……」 「自分たちはどうせもう助からないからって、送り出してくれた?」  サラマンダーが横合いから挟んだ言葉に、C5F3m6は目を見開く。 「ま、そんな所だろうな」カーンが静かに後を引き取った。「お前たちは死んでも仲間を捨てたりしない。何百人ものウェアウルフを見てきたが、そんな奴は一人もいなかったよ」 「嫌なことを言ってごめんなさい。私たちには医療スタッフがいるし、薬もあります」ラビアタが言い添えた。突然話を振られたケシクがぴょこんと立って頭を下げる。 「助けられるかもしれないわ」 〈あと20分以内に会敵見込み〉 「……ここから南に下った、氷河沿いの崖の穴」C5F3m6はぽつりと言った。「そこに、みんな寝てる」 「人数は?」 「五人」 「自分で歩ける奴はいるか」 「いないわ……私だけ」 「よろしい。総員戦闘用意」ラビアタの言葉に、全員が素早く立ち上がった。  極地の夜は早い。まだ五時にもなっていないのに、すでにあたりはとっぷりと夜闇につつまれていた。幅広のハイウェイをはさんで広がる原野の向こう、急峻に立ち上がっていく山々のすそに、無数の赤黒い光点がひしめいているのが見える。凍てついた大気に耳をすませば、足音の轟きもかすかに聞き取ることができた。 「うひょー。すげえ数」ハイエナが呟いた。 「頑張らナイト、チック電もできないねえ」 「ぶはっ」 「そうね。私とカーンで遅滞戦闘を仕掛けます」ラビアタは無造作に言った。重い金属音とともにトロールスバードの刀身が展開し、彼女の身長の二倍近い長さになる。 「他のみんなはウェアウルフの案内で負傷者を回収後、氷河伝いにアンカレッジ方面へ抜けて下さい。夜明けまでには合流します。合流ポイントはBからF」 「了解」 「うーす」  口々にうなずく隊員達。C5F3m6は信じられない、というように大きく手を上げた。 「何言ってんの……? え、あんたとあんたが隊長なのよね? その二人が捨て石ってどういうこと?」 「捨て石?」ウェアウルフ1640が怪訝そうな顔をした。「あそっか、あんたこっちで復元された口だもんね。生カーン隊長を知らないんだ」 「生ラビアタ隊長もね」とミナ。 「まあ、ちょっと大変な仕事になるかもね」ラビアタも笑った。「でも百年も戦っていれば、この程度のピンチは何度もあったものよ。ねえ、カーン?」 「弾は十分、体力は万全。欠けた仲間もいない」カーンも、片手にリボルバーカノンを抱え上げて微笑んだ。「ピンチの内にも入らないな」  カーンがさっと手を振ると、アンガー・オブ・ホードの全隊員が踵のホイールを起動し、甲高い唸りが周囲の空気を震わせた。ティアマト、ミナ、マーキュリーの三人はふわりと浮き上がり、ウルはC5F3m6といっしょにバーニングウォーカーの荷台へもぐり込む。 「作戦開始!」  迅速のカーンは一度踵を打ち鳴らしてから身をかがめ、二方向から押し寄せる鉄虫の群れのちょうど真ん中へ、稲妻のように突っ込んでいった。一拍遅れて、路面をくだく砲弾のような踏み込みとともにラビアタが続いた。  同時に残りの隊員達も反対方向へ駆け出す。そして、鋼鉄の嵐が巻き起こった。  ホードの隊員たちが目にしたことのある「本気のカーン」は常に独りだった。彼女と同じレベルで戦える者などいるわけがないからだ。  ストライカーズの隊員たちにとってラビアタ・プロトタイプは常に、自分たちだけでなくレジスタンス全体の長だった。彼女はいつでも最初のバイオロイドとしての責任と使命を背負い、過去のこと、将来のこと、そして全隊員のことをを考えていた。  だからかれらは知らなかった。自分と同等の相手に背中を預けた時、カーンがどれほど迅く駆けるのか。  だからかれらは知らなかった。すべての重荷を解かれ、ただ目の前の戦いだけに集中したラビアタがどれほどの戦闘者であるのか。 「おおおおおおおおおう!!」  リボルバーカノンが赤く輝く鉄虫のコアを貫き、砕き、また貫く。  思考の半分だけで目の前の敵を処理し、残りの半分で休息する……などという、節約じみた戦い方はもはや必要ない。脳の100%を叩き起こし、一体でも多く、一秒でも早く、一歩でも深く、敵を殺し、平らげ、蹂躙し尽くすことに全身全霊をそそぎ込む。その結果の隙だとか、消耗だとか、そういう小難しいことも考えなくていい。誰よりも巨きく、力強く、頼もしい剣が、いま自分の後ろにはそびえ立っているのだから。 「ぬうああああああああ!!!」  トロールスバードが鉄虫をなぎ払い、叩き潰し、またなぎ払う。  ここに守らなくてはならない弱者はいない。慮らなくてはならない主もいない。ただ芸術的なまでに鍛え抜かれ、研ぎ抜かれた牙を持つ一頭の狼だけが隣にある。今はただ、その最強の狼とどんな風に踊り、どのように戦場を組み立てていくか、それだけを考えていればいい。ああ、なんと愉しい仕事、なんと心躍る戦いだろうか。 「あれ絶対遅滞戦闘じゃないよね」 「もうあの二人だけでいいんじゃねーかな」 「呑気なこと言ってる場合ですか! 今のうちに距離を稼がないとです!」  バーニングウォーカーを中心にして、急傾斜の氷河を滑り降りるホードとストライカーズ。誰かが後ろを振り返るたび、鉄虫が破壊される新たな火柱が上がる。 「よかったねミナ! 氷河見放題じゃん!」 「もうちょっと落ち着いて見たかったんだけどなー!」 「私は……私たちは」遠ざかる戦いの光景を呆然と見ていたウェアウルフC5F3m6が、ふいに絞り出すように言葉を発した。「オルカを信じなかった。あんたたちの放送が本当だと思わなかった。なのに一月前のあの日、バンクーバーから輸送機が何台も飛び立ったと聞いて……それ以来、ずっと私たちはバラバラ。行くべきだったとか、もう遅いとか。ずっと後悔しかなかった」 「ああ、なるほど。あんた、それで出てきたのね?」操縦席のサラマンダーが振り向いた。「もう後悔したくないって。いいじゃない、そういうの」 「一つだけ言っておくことがあります」荷台のすぐ横を低空飛行するティアマトがきっぱりと言った。「私たちの司令官様は、差し伸べた手をいちど振り払ったくらいで見捨てるような、そんないじわるな方ではありません」  C5F3m6はうつむいた。激しく揺れる荷台の振動で、月明かりにちらりと、水滴のようなものが舞った。 「……ありがとう。ごめんなさい。私たちを助けて。おねがい」 「任せなって!」バーニングウォーカーの足元から、ウェアウルフ1640が大声で怒鳴った。  冷たく輝く星空の下、穴やヒビが一面に開いた古いハイウェイを、二人のバイオロイドが歩いていた。  服はボロボロ、あちこちに擦り傷や火傷を負っているが、大きな怪我はなく足取りも確かだ。 「思えば、こんな風に二人で戦ったことなかったわね。けっこう長い付き合いなのに」 「ホードはあまり他と組まないしな。それに私が来た頃にはもう、あんたは全軍の指揮官だった」 「そうだったわね」ラビアタ・プロトタイプは焼け焦げのできた長手袋を脱ぐと、両手を組み合わせてぐっと上に伸ばした。 「ねえ、信じてもらえるかしら。私、この旅がけっこう楽しいのよ。もちろん、大事な任務だとわかってるけれど」 「そうだな」迅速のカーンは歪んでしまった左のレッグブレードを何度も引っ張って取り外す。「帰る場所……帰りたい場所があって遠くに行くのは、いいもんだ。根無し草の旅とは全然違うな」 「アンカレッジで一息つけたら、バーでも探してみない? こんどは戦術論なんか、ゆっくり話したいわ」 「構わないが、あんた意外と絡み酒だからな」 「え、嘘!?」 「自覚なかっただろ」  やがてハイウェイの彼方に、見慣れた矩形の明かりが小さく見えてきた。バーニングウォーカーの灯火だ。誰かが手を振っているのも見える。まだ顔まではわからない。  二人のバイオロイドは一度だけ、お互いの拳を小さく打ち合わせ、それから大きく手を振りかえして歩を早めた。 End ===== 「おそらくそれは、シュールストレミングというものではないでしょうか。ニシンを塩漬けにして発酵させたスウェーデンの伝統食品で、画像がこちらに」 「ほらー! ほらあー!! やっぱり失敗してなかったじゃない! お姉さんのツナ缶製造機ちゃんと動いたじゃないーーー!!」  何やら一人で憤慨して、鼻息も荒く去っていくフォーチュンの背中に向かって、ムネモシュネは静かに頭を下げた。ツナ缶製造機でシュールストレミングができたのなら、それは失敗なのではないだろうかと思いながら。  記憶の箱舟には「人類が残したすべての記録」が保管されている。具体的にはそれは、旧時代に公共または商業電子ネットワーク上に存在していたありとあらゆるデータを収録した超巨大なメインアーカイブと、電子化されていない紙の文書記録や書籍、絵画、音楽、映像作品などを可能な限り収集・データ化したこれも巨大なサブアーカイブからなる。レモネードデルタの侵攻により深刻な被害を受けはしたが、無事に残った部分だけでも世界最大規模のデータベースであり、レジスタンスの今後の作戦計画においても、もっと身近な日々の生活のためにも、情報源としての価値は計り知れない。  しかし一方、その情報量はあまりに膨大すぎて、扱い方をよく知らない者がアクセスしても簡単には求める情報にたどり着けない。それにまた、箱舟は人類共通の遺産でもある。オメガの暴虐は論外としても、不用意なアクセスによりデータを損なうことは厳に避けねばならない。  そんなわけで、知りたいことや調べたいことのある者に代わって適切にデータベース内を探し、しかるべき情報を速やかに引き出す、いわば「司書」の役割が必要ではないか?という議論がオルカで起こったらしい。そしてその任には、これまで箱舟の管理者だったムネモシュネがあたることになった。  ムネモシュネにとっては、長年慣れ親しんだ業務の一環である。むろん人間から直々の任命であれば断ることなどありえないが、不満も不安も少しもない。ただ想定外だったのは、閲覧窓口が開設初日から大盛況だったことだ。 「質のいい読み物が欲しいの。そうね、ピュリッツァー賞とゴンクール賞の歴代受賞作を、新しい方から10年分くらいお願いできる?」 「『陳氏菜経』の李卓吾本はありますか? 隆慶以降の校閲版では削除されたレシピが載っていると聞いたことがあるもので」 「ダイエット法を調べてください。できるだけ簡単でよく効くもの……」 「火星の開発状況の情報って見られますか」 「昔サンディエゴの空軍基地で最初のグリフォンモデルに飛び方を教えたっていう伝説のテストパイロットのこと、何かわかる?」 「マジカルモモ! マジカルモモの資料をあるだけお願いします! 設定資料と台本と絵コンテと、あと製作スタッフの個人SNSで公開されたラフデザインとか、そういう非公式なやつは特に重点的に!」  一般来館者用の第二閲覧室に設けられたカウンターには朝から晩まで行列が絶えることがなく、受付時間を一時間以上延長して、それでも足りずに翌日用の整理券を急遽配布することになった。 「……ふう」  初日だから皆、物珍しさで来ているのだろう。慌ただしかった一日の最後に、ムネモシュネはそう結論づけた。  しかし、翌日も、その翌日も、窓口はやはり大盛況だった。 「ご希望の15坪前後のカフェの設計図ですが、近代欧米のものを中心に32件見つかりました。それとノルウェーの建築法規集がこちらです」 「ありがと。ホライゾンの連中ってば、意外と注文が細かいのよ。ちょっと勉強し直さないと」 「こちらが当時の業界紙、こちらは芸能関連のエッセイ類です。これらを見る限り芸能プロデューサーというのは商業面の責任者のことであって、アイドル個々人の身の回りの世話や精神面のケアといったことは業務に入っていなかったようです」 「ほら、だから言ったじゃない!」 「ええー! だって聞いたもん! プロデューサーはアイドルの一番のファンでパートナーだって! だから私達も司令官に」 「それゲームの話じゃないの?」 「旧時代の主要な大型船舶輸送航路と、主な海難事故のニュース記事です。両者のデータを重ね合わせれば、大型船舶が沈んでいる座標が調べられるかと」 「うーん、そういうのもいいけどさ、もっとこう、謎を秘めた海賊の財宝の地図とかないの?」 「フィクションの資料でよろしければありますが……」 「ふう…………」  一日の終わりに消耗を感じるなど久しぶりだ。デルタの襲撃からオルカがやってくるまでの二ヶ月間、ムネモシュネはほぼ不眠不休で施設の修復と警戒にあたっていた。その頃と比べれば、問題にならないほど楽なはずなのに。  オルカの幹部クラスや技術・情報系の上位スタッフなど、業務上データベースを使う者には個別のアクセス権が与えられている。だから閲覧カウンターを訪れるのは、プライベートで知りたいことや読みたいものがある者だけだ。それがこんなに大勢いるということが、ムネモシュネにはひどく意外だった。  ムネモシュネ自身も、業務外でデータベースを閲覧したことはある。吹雪の夜など、たまに植物図鑑や花畑の写真を眺めたりしたものだ。しかしそれには、「命令されていないことを勝手にやっている」という罪悪感が常に伴った。オルカのバイオロイド達に、そんな様子は少しも見られない。彼女たちが特別なのだろうか。それとも、自分のように感情モジュールを抑制していないバイオロイドにとっては、それが当たり前なのだろうか。  その日、最初に訪れたのは一体のAGSだった。 「ここは、AGSの申し込みも受け付けているのかな」  人間とほぼ変わらないサイズのボディ。丸みのある女性型のシルエットに、白と水色を基調にした涼しげなカラーリング。箱舟のデータにあるどのAGSとも違うが、この外見については通達を受けている。ムネモシュネは丁寧に頭を下げた。 「いらっしゃいませ、グラシアス様。その節はお世話になりました」  彼女……ビスマルクコーポレーションのグラシアスはオルカとは別にこの島に駆けつけ、デルタ勢力の駆逐に協力してくれていたという。本来の姿は巨大なドラゴンだが、オルカの技術陣が新しいボディを作ったのだそうだ。 「礼を言われるようなことはできていない。襲撃自体を止められなかったのだから、むしろこちらが詫びなければならぬ」  氷の花弁のような装飾の付いた頭を振って、わずかに視線を落とすグラシアス。その優美な仕草に、ムネモシュネはしばし見入った。 「……それで、本日はどのようなご用でしょう」 「うむ、捜し物をしている。ここは、コンピュータゲームのデータなどは置いているだろうか?」 「もちろんです。題名をどうぞ」コンピュータゲームを欲しがる隊員は実際多い。ムネモシュネは手慣れた指さばきで該当ジャンルの検索窓を呼び出した。 「助かる。『サイクロプスプリンセス 強襲!スクランブル大魔境のマッスルウェディングベル』というのだ」  ずいぶんと長い名前だ。ニュースやレビュー記事らしきものがいくつもヒットしたが、プログラムファイルのカテゴリからは部分一致のデータばかり出てくる。サイクロプスプリンセスの名を冠したゲームは、どうやらずいぶん沢山あるようだ。 「メーカー名や対応プラットフォームなどはおわかりでしょうか」 「すまぬ、名前以外は詳しくないのだ」  ムネモシュネはレビュー記事を一件開いて内容を読んでみた。「あ……これは、『アーケードゲーム』と呼ばれる種類のものですね」 「そうだったかな。その、アーケードゲームというのだとデータがないのか?」 「残念ながら……」  配信されたゲームであれば一般市場にデータが流通しており、それらは残らず保存されている。しかし専用店舗に筐体で置かれるアーケードゲームは、基本的に個々のハードウェアの中にしかデータがない。メーカーや工場の内部サーバにはあっただろうが、そこまで踏み込んで保存できたケースは稀だ。「人類が残したすべての記録」と謳ってはいてもそれは理念であって、限界はあるのだ。 「そうか……いや実は、小さい方の姫君が、そのゲームを知っているらしくてな。この間、姫と楽しそうに話していたので、遊ばせてやれたら喜ぶかと思ったのだ」  検索結果の表示されたホロディスプレイに指をふれて、グラシアスは残念そうに言った。発光機能を備えた光学センサーに過ぎないはずのその両眼が、ムネモシュネにもはっきりと寂しげな眼差しに見えた。  AGSの情報処理系には感情モジュールが標準搭載されており、最高級モデルともなればほぼ人間と同等の感情表現も可能になる。知識として知ってはいたが、実際にその最高級モデルを目にしたのは初めてだ。機械でありながらこれほど情緒豊かにふるまえるAGSがいるなら、それは自分のような……生物でありながら機械に近づくことを求められたバイオロイドの、ほとんど上位互換といえる存在なのではないか。ムネモシュネはふとそのように考え、そんな羨望めいた気持ちが自分にあったことに驚いた。 「つまらぬことで煩わせたな。姫への贈りものは、また別に探すとしよう」 「お待ち下さい」きびすを返したグラシアスを、ムネモシュネは呼び止めた。「力不足で申し訳ありません。もう少し調べておきますので、明日またお越しいただけませんでしょうか」  その日一日、ムネモシュネはわずかな暇を見つけては改めて検索をかけてみたが、結果は同じだった。  より深く潜ってデータベースの中を直接探す方法もあるが、ムネモシュネ自身そういうジャンルに詳しいわけではない。そもそも「記憶の箱舟」計画の重点は自然誌や学術論文・公文書など公共性の高い記録にあり、文化・芸術、それもサブカルチャーには相対的に関心の薄い方だったはずだ(もちろん、それでも膨大な量のデータがあるのだが)。検索で見つからないものが、他の方法で出てくる可能性は低い。受付時間が終わり、夜間の淡い照明に切り替わった閲覧室で、それでもムネモシュネはホロディスプレイに向き合ったまま動かなかった。  脳裏から、グラシアスの寂しげな眼差しが離れない。自分でもよくわからない理由によって、あの眼差しをそのままにしておいてはならないと、ムネモシュネは強く思った。  自分の能力が及ばないならば、他者の手を借りるしかない。さいわい昔と違って、今の箱舟には大勢の他者がいる。 「ふむ。それでその、サイプリさんのゲームを探すのを手伝ってほしいと」 「はい。勤務時間外にご負担をおかけするのはたいへん恐縮ですが……」  すでに部屋着に着替えナイトキャップまでかぶっているT-9グレムリン1933、オルカのグレムリンに向かってムネモシュネは深々と頭を下げた。  オルカが箱舟に来て間もない頃、このグレムリンは真っ先にムネモシュネの所へやってきて、数テラバイトにおよぶ何かのゲームのデータをダウンロードしていった。実際の所、データベースへの無制限のアクセスが差し止められたのは、彼女をはじめとする数名の隊員があまりに頻繁にダウンロードを重ねたのがきっかけともいえる。  グレムリンは難しい顔をして腕を組んでいる。夜間に突然部屋に押しかけられて、迷惑に思っているのだろう。それも当然だ。だが彼女にはおそらくダウンロードしたいデータがまだまだあるはずで、自分の立場であればそれを見返りとして提示できる。ムネモシュネなりの精一杯の打算であったが、 「是非やらせて下さい!」  案に相違してグレムリンは、にんまりと実に嬉しそうな笑顔でナイトキャップを脱ぎ捨てた。 「ご協力いただけるのでしょうか」 「あったり前じゃないですかオタクはそういうの大好きなんですよ! さあ行きましょうすぐ行きましょう」  逆に手を引っ張られるようにして戻ってきた閲覧室で、ムネモシュネは改めてここまでの経緯と、検索結果を説明した。 「『スクランブル大魔境のマッスルウェディングベル』名前は聞いたことがあります。2090年代あたりのタイトルだったかな」  言いながら、グレムリンはキーを叩いて検索をかけている。当然ながら、ムネモシュネと同じ結果が出た。つまり何もない。 「なるほど、こうなるわけね。古いゲームだし、生きた筐体が残ってるってことはないよねえ……アケゲー……アケゲーのデータかあ……」  ブツブツ呟きながらさらにしばらくいくつかのキーワードを試したり、ファイルリストを眺めたりしていたグレムリンがふと目を上げた。 「旧時代のインターネット上にあったデータは、全部ここにあると思っていいんですよね」  ムネモシュネは頷いた。「『記憶の箱舟』計画の開始から人類滅亡までの30年あまりの期間に存在したあらゆるウェブページ・コンテンツについて一日単位のスナップショットが保管されています。先日レモネードデルタに破壊された分を除いてですが」 「それは、非合法な内容のサイトでも?」 「はい。コンテンツの内容による例外はありません」 「うーん」グレムリンは眼鏡をクイッと直し、顔をしかめてキーを叩いた。いくつかの検索ワードが流れては消え、やがて一つのウェブサイトのスナップショットが現れる。黒い背景に灰色のおどろおどろしい書体で「HAVEN」とだけ書かれている。 「これは?」 「違法ROMデータが置いてあるサイトです。ほんとはゲーマーの道義としてこういう所に頼りたくないんですけどね、まあ今の時代ならセーフで、す、よ、ね……っと」  グレムリンはサイトの内部をあちこち巡回したのち、トップページにある検索窓に、 「SE_KI_GA_N_NO_HI_ME」 と入力した。  隻眼の姫。サイクロプスプリンセスのことだろうか。英語のサイトなのに、なぜ日本語のローマ字などで検索を? ムネモシュネがその疑問を口にするよりも早く、 「ビンゴぅ!」  グレムリンが明るい声を上げた。「多分これです。えーダウンロード、一応ウイルスチェック……」  画面内では数十ギガバイトほどのデータが、ローカルストレージに引き出されている。解凍されたファイル名には確かに「cyclops_princess_romwbish」とあった。 「エミュレータは……同じサイトにあった、よしよし。でもいっぺん走らせてみないとね。すいません、これ一旦私の方で預かっていいですか? 明日の朝にはちゃんとしたのをお渡ししますんで」 「ありがとうございます……」ムネモシュネはほとんど呆然と呟いた。「あの、今のキーワードはどのような?」 「ああ、こういうアングラなデータって検索よけにわざと名前を変えてあることが多いんですよ。英語のサイトならファイル名だけ日本語にするとか、一音ずつ区切るとか」 「検索よけ……ですか」 「検索で見つけやすいってことは、警察とかに見つかりやすいってことでもありますからね」  そんなテクニックがあること自体、ムネモシュネには想像の外であった。「感服いたしました。ありがとうございます」 「いえいえ」朗らかに笑うグレムリンに、ムネモシュネはもう一度、深く頭を下げた。 「あ、ところでこのサイトもうちょっと見てっていいですか? 意外と貴重なROMがちらほら……」  瞳と眼鏡のレンズを輝かせて画面に見入り始めるグレムリン。先ほどゲーマーの道義がどうとか言っていた気がしたが、ムネモシュネは触れないことにした。  翌朝、約束通り窓口を訪れたグラシアスは、二人分のコントロールパネルとホロディスプレイ投影装置を備えた立派なポータブル筐体を見て飛び上がらんばかりに喜んだ。 「こんなものまで保存されているのか、ここは。すごいものだな」 「いえ、箱舟にあったのはデータだけです。そのほかはグレムリン1933様が、すべてあつらえて下さいました」 「おお、その者にも礼を言っておかねばなるまい。姫君たちが大喜びすることだろうな」  一抱えもある筐体を大事そうに撫で回すグラシアスを見ているうち、 「人間様は、なぜ、箱舟の管理者として本モデルを作ったのでしょうか」ふと、そんな言葉が口をついて出た。 「何と?」  表情のないフェイスパネルが、きょとんとしているのがわかる。ムネモシュネは急いで言葉を継いだ。 「本モデルはバイオロイドでありながら、機械のような精密さと堅牢さを求めて開発されました。この業務にはそうした性質が必要だったからです。ですが、グラシアス様のような……」 「まるで人間のような感情表現をする機械がいれば、それで間に合うのではないか、と?」グラシアスはおかしそうに、その先を引きとった。 「それは感情モジュールを買いかぶりすぎだな。私たちの感じているこれが人間の感情と本当に同じものかどうか、確かめる方法はないのだ。それから、これは想像になるが……」  グラシアスは口元にあたる部分に細い指をそえて、周囲を見回した。 「この箱舟は、地球に生きた生命の記憶を保存する施設だ。ならば、それを管理し、守る者は同じ『生命』であってほしいと、人間たちは思ったのだろう。私のような機械ではなく。……つまるところは、思い入れの問題だ」 「思い入れ……」 「人間というのは勝手な思い入れを、勝手な相手に託すものだ。私はそれをよく知っている」グラシアスは肩をすくめて、苦笑するようにクックッと小さな音を発した。「相手にもよるが、私は誰かの思い入れを背負うのは嫌いではない。そなたはどうだ?」  ムネモシュネは遠い、遠い昔の人間たちを思い返した。もう顔も覚えていない、ウォッチャー・オブ・ネイチャーの研究者たちを。  そうか。自分は、彼らに託されたこの仕事が好きだったのだ。ムネモシュネは理解した。だから探し物を見つけられないままグラシアスを帰したくなかった。だから、自分がこの仕事にとって意味のある存在だと思いたかったのだ。 「はい。本モデルも……同じように感じます」  ムネモシュネはもう一度、グラシアスに深く頭を下げた。 「ご要望の動画リストです。2100年代前半の動画配信サイトから、できるだけチャンネル登録者数の少ない零細配信者の、政治・社説系の談話を選び出しました」 「ありがとー! そうそう、こういうのが欲しかったんだ。動画は文書より改竄しにくいし、知名度が低いほどオメガの手が届いてないやつも多いでしょ? こういう所から昔のことを復元してみたいんだ」 「それであれば、欧米の新聞で一般的だった風刺的な一コマ漫画なども役に立つかもしれません。後日リスト化しておきます」 「それいいね! お願い!」  ムネモシュネは今日もカウンターに立つ。  あれからグラシアスは訪れていない。次に来たら紹介しようと、他にもサイクロプスプリンセスに関連したゲームをいくつかダウンロードしてあるのだが。  あの日の朝、筐体を届けてくれたグレムリンが、 (思い出しました。これクソ……ああいえその、個性的なゲームとして有名だったやつです)  そんなことを言って苦笑いしていたのと関係があるかもしれないと思うが、ムネモシュネにはよくわからない。いずれにせよ閲覧窓口は今日も盛況で、お客も仕事もひっきりなしだ。 「しばらく腰を落ち着けることになりそうなので、野外に菜園を拓きたいと思うのです。ここのような寒い土地でも作れる野菜や果樹について、調べたいのですが」 「それでしたら……」  指先がキーの上をすべって、止まる。  ほんの一瞬、ためらうように震えてから、ムネモシュネはきゅっと唇をむすんで検索窓を閉じ、カウンターの向こうの二人……オベロニア・レアとティタニア・フロストの方へ向き直った。 「……その分野でしたら、本モデルがいくらか知っております。検索なさるより早いかと存じます。よろしければ午後にでも、種子保管庫をご案内させていただけませんか」  笑顔でムネモシュネはそう言った。小さくほのかで、だが確かに暖かい、冬の花のような笑顔だった。 End