0 我らは武器。 主の命を遂行する弾丸に他ならない。 硬すぎれば砕けてしまう。 壊れる道具は不良が常。 柔すぎれば捨てられてしまう。 目的を果たせぬは不要が常。 熱く熔けろ。何も失わずに済むように。 鋭く冷えろ。敵を必ず撃ち抜けるように。 1 「ごめんなさい!!!ごめんなさい!!!ごめんなさい!!!!!」 けたたましい叫びで私の眠りは妨げられました。 誰にも使われていない廃虚に響き、耳を劈く悲痛な音の出所は、目を向けるまでもなくわかっていました。 それでも見ないわけにはいきません。目を逸らすわけにはいきません。 頭を抱えて膝を曲げ、丸まりながら身体を震わせ、あらん限りに喉を震わせて許しを乞うているのは、私たちと一緒に横で寝ているミサキさんなのですから。 「もう二度と失敗しません。もう二度と逆らいません。もう二度と望みません。もう二度と欲しません」 祈るように、願うような、ミサキさんの姿は、私の姿でした。私たちの姿でした。 アリウスで上官たちから折檻を受けていた時の姿そのものでした。 この世が苦しく、虚しいことを知らしめるための躾でした。 「出してください!ここから出してください!!怖いんです!!!頭がおかしくなりそう!お願いします!お願いします!!」 叫びは苛烈を極め、もはやうなされているという段階ではありません。 恐慌状態に近いフラッシュバック。典型的なPTSDのそれでした。 周囲の状況などまるで理解できず、眼球は今は亡き過去を写し、脳髄はかつての危機が喉元過ぎることを許容させたくないがために、苦痛を再演します。 コンクリートの床に打ちつけられる頭では、ヘイローが壊れかけの蛍光灯のように点滅しています。 「大丈夫だよミサキ。もう誰もあなたを閉じ込めたりなんてしないから」 見てられず声をかけようとした私よりも先に動いたのは、同じく叫び声で目を覚ましたであろうアツコちゃんでした。 アツコちゃんは優しく手を握り、頭を撫でてあげます。 「狭い!暗い!いやだいやだいやだ!助けて姉さん!ここはダメなの!」 髪をかきむしり、床に身体を擦り付けるように悶えるミサキさんに、まるで動じることなく、アツコちゃんは語りかけます。 「平気。平気。あなたはもう外に出ているから。みんなもそばにいるよ。怖くない。怖くない」 「姉さん!サオリ姉さんどこなの!?」 パニック状態でパニック状態の記憶を想起した姿はまさしく会話不能で、こちらの声が聞こえているのか、そもそも意識があるのかどうか。 一向に収まる気配がありません。 「ヒヨリ、ごめん手伝ってくれる?」 「えっ、あっはい!」 こちらに向かい微笑むアツコちゃん。 私ははっとして駆け寄り、狂ったように喚き散らすミサキさんを抱え起こして床に座らせます。 その間も狂声は止まりませんでしたが、幸か不幸かミサキさんはやはり意識の無い夢うつつのようで、私の手を払われることはありませんでした。 サオリ姉さんもアズサちゃんもいない今、もし力強く抵抗されたら、傷つけずに抑え込む自信はありません。 その間にアツコちゃんはリュックから手早く錠剤と水を取り出すと、己の口に含みました。 そしてそのままミサキさんを正面から抱きしめて、口移しで薬を流し込みました。 側から見たら色気のある絵面なのかもしれませんが、そんなことを言っていられる状況でもなければ、そもそもコレが初めてというわけでもありませんでした。 ミサキさんがパニックを起こした際には薬を飲ませてあげなければいけないのですが、本人が飲めない状況が大半なので、アツコちゃんはよくこの手段を取ります。 「怖くない。怖くないんだよミサキ。あなたの家族はここにいるから。ヒヨリもいるし、サオリも、アズサも、ここにいるよ。一人じゃないから、何も心配しなくていいよ」 「やだ、助けて、死にたくない、死にたい、こんな世界いやだ、こんな身体いやだ」 嘘です。今の私たちは三人きりです。アズサちゃんがいれば、リーダーがいれば。そう思っても、私たちは今この形なのです。 トン、トン、と子をあやすようにミサキさんを抱きしめて背中を叩きながら、アツコちゃんは優しく語りかけ続けます。 落ち着いた声で、安心を与えるように。 しばらくそうしていると、疲れ果てたのか、薬が効いたのか、アツコちゃんの声で不安が薄れたのか、ミサキさんの声はだんだんとボルテージを下げていきました。身体の力が抜け、そのまま崩れ落ちるミサキさんをゆっくりと寝かせると、私たちは小さく一息つきます。 「ありがとうねヒヨリ」 「いえ……私なんて何もしてませんし……アツコちゃんに任せっきりで……」 私はこういうことが苦手でした。 じゃあ何が得意なのか言われても困りますが、少なくとも『これ』は苦手です。 誰かに安堵を与えるということが、私にはできないようです。 対して、アツコちゃんは手馴れていました。 昔からミサキさんを宥めるのはサオリ姉さんかアツコちゃんの仕事でした。 サオリ姉さんは、どちらかというと力ずくで正気に戻す、という感じでしたが。 「…………最近、ミサキさんの『コレ』増えましたね」 「そうだね。海に行ってからかな」 散発的に発作を起こすのは昔からでしたが、ETOの事件以降は、PTSDの原因であるアリウス自治区から離れたことで鳴りを潜めていました。それなのにここ最近になって毎晩のようにミサキさんはこうなってしまいます。 寝てる間の出来事なので、本人が記憶していないらしいのがせめてもの救いです。 こんな無様(ミサキさんはそう思うでしょう)を晒し続けていることを知れば、なおさらストレスを感じてしまうはずですから。 「でも、海楽しかったですよね?」 けれど、その原因がこの間のビーチなのはおかしな話です。 確かにタイミングは合致していて、ほかに思い当たるものもありませんが。 「うん、私も楽しかった。…………楽しかったから、思い出しちゃったのかも」 人生で一番楽しい時間だったから、人生で一番苦しい時間と比べてしまった。 世界で一番眩しかったから、一番暗かった世界を思い出してしまった。 予想なので否定はできませんが、やっぱり違う気もします。 なによりもあの素晴らしい出来事のせいで辛いことが起こってるなんて、私は認めたくありません。 「先生に相談した方がいいんでしょうか……」 あまりご迷惑をかけたくはありませんが、これ以上ミサキさんを苦しめるのもよくありません。 記憶が残っていないにしても、最近の彼女は細かな傷が肌に増えていて、喉も枯れ気味です。筋肉痛なのか、身体の調子が悪そうにしている姿も見ました。 薬だって、サオリ姉さんが貰ってきたものなので、もうあまりストックが無いはずです。 私の睡眠不足はまあ、お昼寝をすればいいんですけれど。 「やれることをやってからでもいいんじゃないかな。それに、あまり他の人に教えたくないし」 「そう……ですね」 いつでも頼っていい、というのは、つまり後で頼ってもいい、ということでもあるでしょうし。 先生といえど、ミサキさんの恥部(ミサキさんはそう思うでしょう)を勝手に話すのは少しためらう気持ちもあります。 なら、もう少しだけ原因を探ってみましょう。 ミサキさんも眠ってしまったので、私たちもそのまま床につきました。 時間に縛られる生活では無くなったので、起きる時間に誓約が無いことにありがたみを覚えながら、私は目を閉じました。 2 「第一回、ミサキぐっすりおねんね会議を開始します」 翌日、私を待ち受けていたのはやけにノリノリな姫ちゃんでした。 伊達眼鏡をかけ、チョークを持ち、壁を黒板に見立てているようです。服装もプロテクターとジャケットを外して、少しばかりラフな雰囲気。 姫ちゃんは時々こんな感じでとんでもないことを言い出します。 これそういうテンションでやっていいことなんでしょうか?この件で一番働いているのがアツコちゃんなのであまり強く言えませんけれど。 普段ならミサキさんがツッコミを入れるんですが、そのミサキさんは外出中です。そうでもなければこんなこと話せません。 「会議と言っても何を話せばいいんでしょうか?」 「いい質問だねヒヨリ」 伊達眼鏡をクイと指で持ち上げて得意げに笑う姫ちゃんはとても可愛らしかったです。 それはそれして本当にノっていますね。 「もちろん、今のミサキの夜泣きの原因を突き止めるのも大事だけど、そもそもの目的はミサキが夜眠れるようにすることだから。原因だけじゃなくって、寝つきが良くなる方法ならなんでもいいよ」 「あれ夜泣きでいいんですか?」 赤ちゃん扱いです。先生に相談することよりこっちの方がミサキさんの逆鱗に触れそうです。少なくとも私が言ったら絶対しばかれます。姫ちゃんならともかく。 「いいよ」 姫ちゃんがいいなら仕方ないですね。 ミサキさんに見つからなければ問題ありませんし。 それにしても熟睡に必要なもの、ですか。 「…………くまさんのぬいぐるみとか、でしょうか」 「私も同じこと思った」 当人は隠しているようですが、ミサキさんがくまさん大好きなのは周知の事実です。なら抱き枕くらい大きなくまさんをプレゼントすれば、不安なんて吹っ飛んで眠りにつけるかもしれません。 姫ちゃんは壁に『くまさん』と板書すると、こちらを振り向いてニコニコしています。 彼女の顔は何かを催促しているようで、そのまましばらく沈黙が続き……。 「…………えっこれまさか私が全部案出すんですか?」 「だってヒヨリしかいないし」 2人組で一人が進行役をしたらそうなりますよ。会議の体を成していません。 「私だけじゃ出るものも出ません!ずるいです!順番こ!順番こにしてください!」 「むぅ……じゃあ、ふわふわのベッド」 私たちが普段寝ているのは硬いコンクリートの床の上です。布を敷いたり寝袋を使うこともありますが、最優先されるのは起床時の動きの迅速さ。 完全に安全とは言い切れない一時拠点では劣悪な就寝環境であることが大半です。 そこに柔らかく沈むようなベッドがあればどれほど深い眠りにつけることでしょう。 雑誌にもベッド一つで人生が変わると書いてありました。 さすが姫ちゃんです。目の付け所がシャープです。 私も負けていられません。 「暖かい飲み物を飲むといいと雑誌に書いていました!」 「完徹後は泥のように眠れるって先生が」 「ストレッチをするとか」 「催眠術効くかも」 「いっそ睡眠薬なんていいんじゃないでしょうか」 「お風呂に入ってると眠くなるよね」 「難しい本を読んでる時もですね」 「子守唄歌ってあげよう」 「私は背中ポンポンしてあげます!」 次々に出てくる案がひたすら壁に書き込まれていきます。 三人寄れば文殊の知恵と言いますが二人でもそれなりの知恵にはなるようです。 気づけば合わせて30は出たでしょうか。 姫ちゃんの手が届く範囲はすでにチョークで真っ白で、彼女の手もただでさえ白く綺麗なのに粉で汚れてしまっています。 同じ白なのに綺麗だったり汚かったり変な話ですが。 「でもこうしてまとめて見るとお金かかりそうなのもありますね」 ベッドに枕、寝具系はピンキリですが、どうしても場所とお金がかかります。 いっそどこかに定住できればよいのでしょうが、私たちの立場からすれば困難です。 「うん。そういうのは最後の手段にして、まずは手頃なものから試してみよう」 ミサキも眠れるといいね。 そう言って笑う姫ちゃんの顔は、子供を可愛がる母親のような、それでいて姉妹をからかう少女のような不思議な顔をしていました。 3 「これは……なに?」 帰ってきた私の第一声はこれだった。 正確にはただいまの一言も言ったし、ここに至るまでに様々な困惑も口にしたので、第十声というのが適切なのかもしれないけれど、わたしが口にした意味のある、意図のある言葉は、これが一つ目だった。 なぜブラックマーケットの小間使いで疲労した肉体を休めようとするやいなや、無理やり服を脱がされ、お湯を浴びせられ、今度はお湯を飲まされ、果てにボロ布で固められた台に叩きつけられ(比喩ではなく本当に姫に肉体を投げられた)なければならなかったのか。 そして今私の前に差し出されている古雑誌はなんなのか。 まるでわからなかった。『匂い』が同じだから今目の前の少女が長年連れ添った家族だと断言できるけれど、そうでなければ彼女たちに化けた何者かが私を陥れようとしているのだと疑いたくなるほどに、意味不明で意図不明だった。 「なにって、雑誌……ですけど」 「それは見ればわかる」 私が聞きたいのは、帰宅早々この仕打ちはなんなのだということだ。 というか服を返して欲しい。 「安心してミサキ。このまま眠らせてあげるから」 「大丈夫ですよミサキさん!このまま意識を落として差し上げます!」 ヤケにウキウキしててテンションの高いアツコに、こちらはヤケクソでウジウジがなくなっているようなヒヨリ。 なんだこの子たち。眠り?意識? 私は大きくため息をつく。 可能な限り、怒気を込めて、怒りが伝わるように。 「ヒヨリ、説明してもらってもいい」 「え!?私ですか!?姫ちゃんじゃなくって!?」 「がんばれヒヨリ」 「いや別にアツコが言ってくれてもいいけど」 あからさまに動揺するヒヨリとヒヨリに説明責任を押し付けようとするアツコ。 正直この挙動を見るだけでだいたい原因はわかる。 おおかたアツコが何か変なことを言い出して、ヒヨリがそれに付き合った形だろう。発起人はヒヨリかもしれないが、ならば悪化させたのは間違いなくアツコだ。 正直今の感情は、激情よりも呆れの方が強いのだけど、ヒヨリに口を割らせるにはこちらの方が都合がいい。 「え、えっとですねえ……ここ最近その……ミサキさんが眠れていないとのことで……今日は快眠をとってもらおうと……アツコちゃんが……」 「あっヒヨリひどい、私のせいにしてる」 「だっ!だって!最初に言い出したのはアツコちゃんじゃないですかあ!」 「へえ……そういうこと言っちゃうんだ……ふーん……」 「えっ、怖い怖いです姫ちゃん。前門のミサキさん後門の姫ちゃんです!」 二人の漫才は放っておく。 快眠?さっきもそんなことを言っていたっけ。 別に眠れなかった記憶などない。 悪夢くらいは見るが、そんなの今更だ。そのせいで夜中目覚めるなんてこともない。 むしろここ最近は夜寝れば起きた時はいつも朝だから健康的になってしまったなんて思っていたくらいだし。 「心配してくれるのは嬉しいけど、余計なお世話だから」 「ミサキがお礼を言った」 「これ文句じゃないですか?」 相変わらずやいやい言い合うアツコとヒヨリを見ると怒る気力も失せてくる。 「じゃあミサキ、最後に一つだけ、試してみてもいい?」 だけどアツコはまだ諦めていないようで、ワクワクした顔を隠そうともせず迫ってくる。 「…………なにがじゃあなのかわからないけど。何するの」 そうなってしまえば私は断れない。アツコの頼みは否定できない。 アツコもきっとそれをわかっているから、こうやって真正面から頼んでくるのだ。 「じゃーん!」 アツコが見せてきたのは『やさしい催眠術』と書かれた本だった。 なにこれ。 「ヒヨリと練習したんだ」 「あまり効きは良くなかったですけどね……」 「むう、ヒヨリが抵抗するのが悪い。催眠術は受け入れる心がないと成功しないって書いてあるよ」 「だって目覚めなかったらなんて思うと怖いんですよぉ!」 ぎゃいぎゃい騒ぐ二人にもう本当に疲れてきた。睡眠不足などではないけどとっとと休みたいのは本音だった。 「やるならさっさとやって」 そして終わらせて欲しい。 4 どこを見ているのかわからない虚ろな目。全身から力が抜け弛緩した肉体。一定のペースで浅く繰り返される呼吸。 つまり、今のミサキさんは催眠状態でした。 「こんなに上手くいくものなんですねえ…」 正直完全に眉唾だと思っていました。そうでなくとも素人ができるものではないものとばかり。 本当に易しい催眠術だったなんて。 「だから言ったでしょ、ヒヨリが素直に受け入れないだけだって」 姫ちゃんは得意げに鼻を鳴らします。こういう姫ちゃんは結構珍しいです。あまり周りの目を気にしない子なので。 「じゃあ試しに一つ聞いてみようか。ミサキ、『大切なものは?』」 「………………くま」 くまさん!それはミサキさんがひた隠しにしている(隠せていない)趣味です! それをあっさりと吐露してしまうならこれはもう完全に間違いなくかかっています! 「この状態なら何聞かれても答えてしまうんですね」 「本当に嫌がることはできないらしいけどね。じゃあ本題行こうか」 そうでした。催眠状態は睡眠状態ではありません。 ミサキさんのPTSDがなぜあんな急に悪化したのか、その原因を取り除くのが最も手っ取り早い安眠方法です。 「ミサキ、『海は楽しかった?』」 アツコちゃんの端的な質問に、ミサキさんは抑揚の無い声で答えます。 それは私が思いもしなかった思考で、それはミサキさんの中身を覗き込むことで。 答えなんて、聞かなければよかった。 5 「エデンが終わって、私たちは自由になった。 「誰からも命令されないし、誰からも罰を受けない。 「指名手配として追われてはいるけど、そんなの形ばかりで。自由の身と言って差し支えない身体になった。 「だから、私は私がどうなればいいのかわからなかった。 「これまでは言われたことをやっていればよくて、やりたいことなんてなくて。ただ命令されるだけの兵士だった。猟犬だった。 「リーダーはそれがわかってて私に代理を押し付けたんだと思う。 「私のやるべきことが消えないように。タスクを課したんだと思う。 「実際それは正解で、私はしばらくアツコとヒヨリを守るために忙しなく動いた。 「動いている間は、感情が紛れるから。機械でいられるから。 「でも、私の時間はそんなに少なくなかった。 「そう経たないうちに私は慣れた。自分の今の境遇について、自分の未来のビジョンについて、考える余裕が生まれてしまった。 「考えたことなんかなかった、私の未来。 「まず思い浮かべたのはアズサだった。 「アズサは変わった。元々『ああ』だったのを隠していただけかもしれないけど、とにかく見違えた。 「あんな笑顔を見せる子じゃなかった。あんな明るく過ごす子じゃなかった。 「変革が成長で、進歩だと言うのなら、あれほどの変化は知らない。 「仲間を得て、居場所を得て、あまつさえそこを守るために命を懸ける。 「命を繋ぐために戦ったスクワッドからしてみれば、まるで道理に合わない行動だった。 「考えた。 「薄ぼんやりと、考えた。 「社会のことなんて知らないし、未来のことなんて想わなかった。それでも、なりたい自分について、私は考えた。 「でも、考えれば考えるほどに私は今が好きだった。 「未来は何も見えなくて、過去は鮮明な闇の中で。 「だったら、私は今を失いたくなかった。このまま三人で逃げ回りながら、たまにリーダーと顔合わせて、先生に力を借りて、遊んだりなんかもして。 「もしかしたらアズサとまた会えるかもしれない。もしかしたら私たちも学校に行けるのかもしれない。 「それでも、今より良くなるとしても、今を失いたくなかった。 「私は、家族をこれ以上減らしたくなかった。 「同じでいたい。 「いつか離れるとしても、今は一緒にいたい。ひとりぼっちは寂しい。まだ離れてほしくない。 「だから、アツコとも、ヒヨリとも、同じでいたかった。 「アリウスに殉ずる猟犬ではなく、スクワッドという家族でいたかった。 「でも私はあの時、海でアツコが銃で狙われた時、咄嗟に叫んだ。 「『姫、危ない』なんて。 「私は未だ、アリウスの呪縛から離れられていない。 「大切な家族だから守ったんじゃなくて、ロイヤルブラッドだから守った。 「私の身体に染み付いた奴隷根性は、決して落ちてなんかいなかった。 「私は、アリウスの武器だった。 「家族じゃないのは、私だった。 「命令を実行し続ける、忠実な兵士でしかなかった。 6 聞かなければよかった。 いいえ、"聞かせなければ"よかった。 いくら家族と言っても、踏み込んでいい領域には限りがあるだのなんだの理屈を付けて、私一人でやればよかった。 こんな答え、アツコちゃんに聞かせてはいけなかった。 だって、誰も悪くなんてないのです。 道を見つけようと足掻く姉さんも、懸命に前に進もうとするミサキさんも、そのそばにあってなお、しるべたらんとする姫ちゃんも。 私だって、悪くなんてない。精一杯頑張っているかはわからないけれど、もしかしたらこの事態を防げたかもしれないけれど、それでも、悪いなんて、とても思えません。 噛み合いが、あるいは間が、悪かったのです。 姫ちゃんは誰よりも責任感が強いです。 自分がミサキさんの不調の原因の一端だなんて知ったら、姫ちゃんまで去ってしまう可能性は十分にあります。それを、私の力で止められる気がしません。 そっと横を見ます。 綺麗な横顔は唖然とした表情で、小さく口と目を開けています。 なんと言えばいいのでしょう。 『姫ちゃんは悪くない』?『ミサキさんが深く考えすぎてる』?『これで原因がわかりましたね!』? どう言えば、彼女は私たちの元を離れないでくれるでしょう。 どうすれば、私たちの姫は、私たちの側にいてくれるのでしょう。 「私、お姫様じゃないの?」 何と声をかけるべきかわからないまま、それでもせめて何か言わなければと口を開きかけた私より先に発された声は、『ごめんね』でも『私のせい』でもありませんでした。 信じられない事実を耳にした子供の声でした。 サンタクロースなんていないと聞かされた子供の声でした。 「ひ、姫ちゃん……?」 「ヒヨリ」 私の方を向いた姫ちゃんの顔に色はなく、そこから感情を読みとることは叶いません。 「私、お姫様だよね?」 「え?は、はい」 しかし、だんだんと、徐々に、姫ちゃんの整った顔が歪んでいきます。歪んでも綺麗なのはさすがなのですけれど、顔色もどんどん赤く色付いていきます。 これは、羞恥などではなく────。 「先生も、サッちゃんも、ヒヨリも、私のことお姫様って呼んでくれるもん。私、お姫様だもん」 頬を膨らませるその姿は自責というよりも不満、悔恨というよりも不平、謝罪というよりも怒り。 姫ちゃんは手に持った5円玉を放り捨てると、ミサキさんの座っている椅子を勢いよく蹴り付けました。 「えいっ」 当然椅子は吹っ飛び、そこにいた催眠状態のミサキさんは抵抗もできずにしたたかに尻を打ちます。 「たぁ!?」 私は何も言えずに立ち尽くしたままです。姫ちゃんの稀に見る癇癪と予想外の出来事への困惑を前にしては私などただのカカシです。 お尻をさすりながらきょろきょろと見回すミサキさんは、自分の状況を理解しきれていない様子でした。 しかし、姫ちゃんはそんな様子を一切斟酌せず、憮然とした表情のまま見下ろします。 「ミサキ」 冷たい声でした。 たまにしか、本当にたまにしか聞かない声です。私が姫ちゃんの分のチョコレートを食べちゃった時の声です。 「ん………何、アツコ」 「私、お姫様なんだけど」 「……………………は?」 「私、お姫様なんだけど」 「そう……?」 「私、お姫様なんだけど」 「なに?何が言いたいの。ねえヒヨリ、アツコのこれどうしたの」 「私!お姫様!なんだけど!」 もはや同じセリフを繰り返すだけの楽器と化した姫ちゃんの声量はどんどん上がっていきます。 ミサキさんも普段は理不尽には慣れているなんて嘯いていますが、これは理不尽というよりも不条理なのでまるで対応できていません。 末っ子の駄々です。私が末っ子ではないことがこれで証明できました。 「そ、そりゃ、姫は姫でしょ」 「もう一回言って」 「はあ?」 「もう一回、私のことを呼んで」 「…………姫」 ミサキさんはとうとう姫ちゃんの圧に押されて回答します。 多分、海ぶりに。 秤アツコにそう呼びかけます。 「も一回」 しかし姫ちゃんは一回じゃ満足しないようで、しゃがみ込んでミサキさんに目線を合わすと、まだまだ要求を繰り返します。 これまでミサキさんが自重していた分まで取り戻さんという勢いです。 「姫」 「もっかい」 「ひーめー」 「まだ言って。私のことを、呼んで」 「姫」 もはやミサキさんは理解を諦め、ただひたすらに姫ちゃんの言葉を聞くだけの機械になっています。 いいえ、機械というよりも、多分これは兵士とか猟犬とか、あるいは忠臣と言うのが相応しいように思えました。 意味すら考えず、意図すら汲まず、意向すら慮外の、ただ命ざれる言葉に従うだけの姿はどこか滑稽でしたが、同時にとても穏やかそう。 無理に気を張ってリーダーをしていましたけれど、ミサキさんはこうあるのが楽なのかもしれません。 きっとそうなのです。変わらなくてもいいのです。 私たちは私たちのままあればよくて、無理に形を変えなくてもいいんだと。 姫ちゃんが意識しているのかまではわかりませんけれど、私にはそう思えました。 7 結局、アレ以降ミサキさんのフラッシュバック(姫ちゃん曰く夜泣き)は鳴りを潜めました。 リーダーに連絡しようかとも思いましたが、やめました。 何か変わったのならともかく、何も変わっていないのです。 私たちは依然として身を隠しながら逃亡者生活を続け、少しずつ、お金を貯めていつかの海を夢想する。 そういう生活のままです。どうしてもこの生活に無理があれば、それはその時考えればいいです。 ただ、少しだけ、ほんの少しだけ違いを挙げるとするのなら。 「ミサキ、それ欲しい」 「はいはい、姫、あーん」 「あーん」 ミサキさんがこれまで以上に姫ちゃんを甘やかしていることでしょう。 いやさすがに食事まで任せるのはやりすぎじゃないですか?ミサキさんいない時は普通に食べてますよね? 「ふふっどうしたのヒヨリ、ヒヨリも食べれば?」 しかし当のミサキさんがこれまで見たことがないくらい安定しているので文句も言えません。気持ち悪いくらいです。そんな笑顔見たことないです。 なんでしょう、これ、すごい不健全な気がします。 雑誌で読みました。きっと共依存とか洗脳とかそういうのです。 こんなにだるだるどろどろの関係を続けては、きっとお互いダメになってしまいます。 どうにかして改善しなければ行き着く先は破滅です。 ケータイ小説のバッドエンドでそういうのがありました。 なんで私が前を向かないといけないのでしょう。そういうのは姫ちゃんとかアズサちゃんの仕事のはずです。 もしかして私たちは入ってはいけないルートに入ってしまったのでしょうか。 「でも、いいのかもしれませんね」 何か行き詰まったら、その時はその時です。 ミサキさんがグジュグジュになっても、姫ちゃんが尊大になっても、私たちは私たちで、間違ってしまったとしても、きっとまた、やり直すことができるんですから。 それはそれとして、先生にこっそりモモトークで相談を送ったのは、二人には内緒です。