抜けるような青と緑、そして白い太陽。 いつになくいい天気だったので草原に寝転んでいたら、日を遮る影が差し込んできた。 鳥型……にしては少し大きすぎる、それがパロットモンの巨体であると気づくのにそう時間はかからなかった。 そして、 「あ、あぁぁぁーーーーーーっ!!!??」 その嘴に摘ままれた小さなデジモンが悲鳴をあげているのも、こちらまで聞こえてきた。 まったく面倒くさい、せっかくいい天気だったのに。 上空、パロットモンは羽ばたくことなく悠然と空を滑空する。 口に挟まったデジモンがジタバタと暴れたところで、全く意に介さない。獲物はいいとこ成長期程度の大きさで、今すぐにでも丸呑みに不自由のないサイズ差が巨鳥にはある。 このまま獲物が疲れたら着陸して昼飯にしよう……などと考えていたのかもしれない。しかし、その目論見は次の瞬間に崩れ去った。 「―――?」 丁度眼球の手前を掠めて火の玉が飛ぶ。威力は大したこともない、しかし、異物が入るのを嫌がったパロットモンは反射的に飛翔の軌道を変える。 その拍子に、嘴に引っかけておいていた昼飯が外れてしまったのだ。追いかけると高度が下がる、どうせ食い足りない大きさだし、パロットモンはその飯に執着することに飽きたらしい。 旋回して去っていく鳥の影から、小さな黒い影が森の奥へと吸い込まれて消えていった。 「―――うぅぅん……」 高所からの落下だったが、木の枝に捕まって命拾いしたようだ。先程火の玉を吐いたデジモンが、森の中に落ちたデジモンをそのように確認した。 森で拾った果実を二つ。そのうち一つを齧る彼は、成長期の小さな体を黒い毛皮で覆っている。あまりこの辺りでは見られない色をしていた。 「あ、ありがろぅね……たすけてくれて……」 「マヌケなヤツ、どれだけボーっとしてたらあんなデカいのに捕まンだよ」 落ちたデジモンの眼が覚める。肌の感じは爬虫類型のようだが、彼と同じくあまり見られない黒い色遣い。弱弱しく感謝を述べたそのデジモンに、毛皮のデジモンは突っぱねるような態度を取る。 デジモンは樹から降りようとしたが、腹の虫の音が鳴るとまた動きが止まる。 「その、何か食べるものはないかな〜……ずっと空にいて何も食べてないぃ……」 「助けたヤツにタカンのかお前?別にそこまで面倒見る気は無い」 「あ、ちょっと待ってぇ。助けて〜……」 うんざりした視線を残して、毛皮のデジモン、黒いガブモンが去っていく。本気で見捨てられたと気づいた黒いアグモンは再び枝を揺らし始めた。 その樹の下に果実が一つ置いてあることに気づいたのは後の話である。 「構築完了しましタ。こちらが情報記録用の部屋になりまス」 図書館の内部に作られた扉を抜けると、そこは書斎のようにやや狭まった小部屋となっていた。物理的な書籍……ではないが、それを想起させるサーバーのような設備が壁に敷き詰められている。 「で、具体的には何すればいいのボク達?ていうかボクやることある?」 案内役を務めるスプシモンに対して、招かれた少年のシュヴァルツが話しかける。 事の発端は彼のデジモンのアスタモンにある。元々、彼らは依頼を通じてこの図書館……嘘か真か異世界も含めたデータの記録保管庫に足を踏み入れることになった。 そして、その主が丁度図書館に襲撃があることを予見していたので、何でも知ってるならとアスタモンが交渉を持ち掛けた。データを一つ取らせる代わりに、自身を防衛戦力として雇わせると。 いちいち書き記すには冗長となる交渉を経て図書館の主、正確にはそのアバターは快諾。早速データの検索が始まった……のだが、 「ん〜、無い。ない、無いわねぇそれのデータ。それ本当に実在したの?」 「まァ存在しなかったっつゥか、多分存在しないことになる領域に落ちてったっつゥか……」 この始末である。安易にそんなとこ落ちるんじゃないわよ。と言いたげに図書館の主は顔を顰めた。しかしアスタモンは涼しい顔で、 「そいつァ、逆に存在があればその記録は何でも引き出せるって解釈でいいですかねェ?少なくとも私は覚えてますんで」 要するに、先に記録だけしておけばデータの方が蒐集されるのではないか、という話だ。無論現実の直感を離れた挙動ではあるが、少なくとも情報に関しては此処は多少の無理は通る。 他の来客が賑やかになり、そちらの対応もあったため主は端末のスプシモンに以後の対応を任せることとした。そして時計の針は現在へと戻る。 「アスタモン様と共に入室後、データを一度解体して記憶から"本"を生成しまス。シュヴァルツ様はその存在性を保証するための観測視点……つまり読者となっていただきまス」 「解体ねぇ。なんか危なそうだけど大丈夫アスタモン?やっぱりやめて饂飩食べに行く?」 「そりゃあなたが食いてェだけでしょうが。デジモンは元から進化なりなんなりで身体をバラすのは慣れっこなんで、大丈夫ですよォ」 「それに今回といい今後といい、コレが残り少ない方が問題でしょうが、やれることはやっときませんと」 そう言って、アスタモンは懐から小さな欠片を取り出す。半ば内部のデータが消滅しかかったデジメモリが、彼が今必要としているものだった。 「準備完了。アスタモン様入室お願いしまス」 「ハイハイ、今行きますよォ」 スプシモンに返事を返して、アスタモンは脚早に書斎に入っていく。何か違和感がある、アスタモンの態度に少し引っかかるものを感じながら、シュヴァルツは後を追っていった。 「それでハ、ダイブ開始……」 「"ブラックウォーグレイモン"に関する記憶を、再生しまス」 ブラックウォーグレイモン。 アスタモンがかつてロイヤルナイツの騎士、オメガモンズワルトであった頃の―――今はいない、相棒の名だ。 足音。 足音、足音、足音足音足音……とてもじゃないが数えきれない。それは波涛のように大地の荒野を駆けて、土煙を上げていく。 しかしその波は青でなく緑色で―――水ではなくトゲモンの群れであったが。 「うわぁぁぁぁぁ逃げろ逃げろ逃げろぉぉぉぉぉ!!!!あっごめん無理これガルルモンちょっと背中乗せて背中!!」 「誰が載せるかよこの野郎ォォォ!!何だてめェいきなりトゲモンの中に突っ込んでいきやがってェ!?ちょいとでも敵うとでも思ったかァマヌケがァ!!」 そして緑のトゲモンウェーブに今にも呑まれそうな中を走り続ける哀れなデジモンが二体。青い肌の竜と黒い毛皮の狼。グレイモンとガルルモンの姿があった。 最初の邂逅からしばらくして、結局黒いアグモンは黒いガブモンについていくようにして旅を始めた。共に過ごす仲間は二人にはいなかった、生まれつき色が他と違っていたから。 とはいえ成熟期に進化したガルルモンからの評価は御覧の通り。向こうも進化したってのに毎回面倒ごとを増やしてくれる。何度このまま捨てようと思ったか。 「別にケンカ売ったんじゃなくて向こうが急に……とうっ!!」 「先に足元に潜り込んだのはてめェだろうが……ぐェェ!!」 「そのまま真っ直ぐ行って!メガフレイム!!」 隙を見てグレイモンが背に飛び乗る。一瞬背中が沈んだがガルルモンは再加速し、背のグレイモンは集中して火炎を吐き出した。荒野を舐める火にトゲモンの群れの進行が押しとどめられる。 「よし!このまま振り切ろう!」 「振り切るっつったってなァ!この先は……」 ガルルモンが怒鳴り返そうとした瞬間、両者の身体が浮遊感に包まれる。というか実際浮いていた。踏み締める地面が途切れていたから。 「崖なんだよォォォォォ!!!」 「それ先に言ってよぉぉぉぉ!!!!」 二体分の悲鳴と共に、黒い影が二つ崖の下の森へと落ちていった。 「いだだだ……前もこんなことあったよねぇ。ボクが空に攫われてて……」 「ほんっとてめェは考え無しで……もう我慢ならねェ……!」 今度は不時着ではなく、ちゃんと狙って森に落ちた。枝と蔓に身体を引っかけながら着陸に成功した二体だったが、当然ながらガルルモンの怒りは収まりそうにない。やっぱコイツ置いていこう。 そう思い始めた矢先に、グレイモンの角の影から何かが動くのが見えた。 雪玉のように白い、小さな幼年期のデジモン。少し土に汚れた姿は茶色く変色している。怒りに満ちたガルルモンの姿に怯えたのか、小さなデジモンはすぐにまた角の影に隠れてしまった。 「……ソイツは?」 「さっき見つけたんだ。色が土の色と混じっちゃって、トゲモンに踏まれそうになってたから助けようとしたんだけど……」 「―――チッ。そいつを先に言いやがれよ」 竜らしくない締まらない笑顔を浮かべたグレイモンに、ガルルモンが悪態をつく。こんなトラブル続きの中で不本意にも二人の旅は続いていき、そして彼らは成長していった。 不毛の砂漠を獣が駆ける。しなやかな豹の体躯、豊かな黄金の毛、広げられた翼は、その獣が他のデジモンとは一線を画す存在であることを表している。 彼はただ一直線に視線の先にある集落を目指していた。そこで近年デジタルワールドで取り沙汰される"ウィルス狩り"が行われると情報を掴んだためだ。 ワクチン種のデジモンで構成されたグループとウィルス種で構成されたグループが、ここ一帯の地域の中を争っている。最初は小さな諍いから始まったそれは、 互いにワクチン種であるから、ウィルス種であるからと生まれによる偏見に拗れて大規模な争いとなり、今はより規模の大きいワクチン側がウィルス側の集落を次々と攻め落としているという。 愚かなことだ、豹のデジモンは心中で唾棄する。所詮生まれは生まれに過ぎず、それを卑しいと否定したとして、ただ感情だけがこの地の利権の奪い合いに利用されているに過ぎない。 その混迷を正すべく"我々"が存在する―――しかし今は発足したばかりの存在。まだ力が必要だ。共に肩を並べ、このデジタルワールドに秩序を齎す騎士が。 目標は多勢側のワクチン勢力の撃退と、ここまで戦闘が長期化した要因の一つと目される、ウィルス勢力のリーダーの排除。仲間が先行して殲滅にあたり、自身は後詰という算段だった。 前者に関しては、彼一体でカタをつけられるだろう。その豹の騎士の予想は確かに当たっていた。しかし、後者については――― 「―――マグナモン、これは……?」 「ふぅっ……!来たかドゥフトモン。粗方は片付けたが、このリーダー"達"は、なかなかやる」 黄金の鎧に身を包んだ竜人のような騎士、マグナモンが豹の騎士ドゥフトモンへと密かに語りかける。向き直った彼の視線の先には、黒い姿のデジモンが二体膝をついていた。 「ウィルス種のグループには逃げられた。いや、最初から戦っていたのは、彼らだけのようだったがな」 「そうか……逃げたデジモン達のことは良い。彼らを討ってこの戦争の終止符とする」 「ハァ……ハァ……無事みんな逃げれたみたいだね……ガルルモン……」 一体は黒い鎧を纏う竜の戦士。ウォーグレイモン。 「で、私らは年貢の納め時ですかねェ……あの金ぴか野郎が来るぐらいなら、ザコどもの軍団のがまだマシでしたよォ……」 もう一体は黒い装甲で武装した狼。メタルガルルモン。 更に長い時の旅を経て仲間を見つけ、それらを護るための戦いに明け暮れた。その繰り返しの中で成長した彼らの姿は究極体に至った。 それでもなお、争いそのものを踏み潰す任を帯びて降臨したマグナモンには届かない。鍛えぬいた武器のいずれもが彼の無敵の装甲に阻まれてしまう。 しかし、 「投降したら許される雰囲気じゃあなさそうですねェ。こっちも被害を出してたワケですし?流石にこりゃケツまくって逃げた方が良さそうですがァ……」 「ダメだ。僕たちが逃げたら彼らは必ず追ってくる。逃げ込んだ先を巻き込むわけにはいかない……ここで倒すしかない」 「倒すったってどうすんです?私らにゃもうアイツに効く武器は……」 「諦めない心がある!……昔聞いて、ずっと考えてた手段がある。賭けてみないかい?」 ウォーグレイモンがメタルガルルモンの方を向いてにやりと笑った。お互い鎧は砕け武器は折れ、幾つも逃げる道を考えたが、まだ勝利に一縷の希望を失っていない。 相変わらず、こいつの蛮勇はどこから来るんだか。狼はそう溜息をついた。 「どうせやられんなら……乗りますよォ。相棒」 「よし、僕と君で心を一つに……一緒に、行こう!!」 一歩ずつマグナモンが迫る。その先に、一つの光が生じた。 「……?」 それが何なのかを理解するより速く、光は球状に膨らみ、二体のデジモンの姿を包み込んでいく。 「これは、まさか……!?」 その様を崖の上から見ていたドゥフトモンの眼が、驚愕に見開かれた。デジタルワールドにおいて既に幾例かが確認されていたが、この土壇場で、彼らが目撃したのは初めてのことだった。 光の中から、一つの影が現れる。メタルガルルモンよりも、ウォーグレイモンよりも細身の二足歩行の姿、角を伸ばした兜、そして、両者の頭を繋いだような両腕。 白い閃光が閉じると、その姿は漆黒の―――騎士の姿に変わっていた。 「―――!」 「何……!?」 一息に、黒い騎士が距離を詰める。瞬きよりも遥かに速くい突進を前に、鍛え抜かれた経験と勘がマグナモンに反撃の一撃を振るわせる。一発で致命となり得るその攻撃を、まるで待ち受けていたかのように黒騎士は身を翻した。 左腕の竜の顎が開き、巨大な剣が現出する。対応が後手に回ったマグナモンに向け、その剣を最高速で叩きつけた。 これまでと次元の違う、重い一撃。想定を上回られたマグナモンの足元が僅かに揺らぐ。その揺らぎを黒騎士は狙っていた。 今度は狼の口から大砲が現れ、足元に向けて青白い光線を放つ。地面が一瞬で凍結した後、均衡を崩したマグナモンのデータ重量が過負荷となって崩壊した。 足元を崩された格好で、マグナモンの姿勢がさらに転げていく。何とか地面を求めて藻掻く彼の、鎧に生じた一瞬の防護の隙間。 鋭い切っ先が隙間に突き入れられ、初めて鎧の下を傷つけた。 「ぐあっ……!」 ダメージが入った。この機を逃すわけにはいかない。黒騎士は冷静に、徹底的に、目の前のデジモンを倒すための思考を加速させる。剣を引き抜き、大砲の照準を傷口に定めたその瞬間。 「待て」 超高速で突きこまれた剣の投擲と、それによって跳ね上げられた岩盤によって阻まれた。 飛び退いた黒い騎士の目の前に、同じ二足歩行へと姿を変えた豹の騎士、ドゥフトモンが舞い降り、自身の剣を引き抜いた。 「これ以上戦闘の意思は我々には無い……不服であれば、"降参"と受け取ってもらっても構わないが」 「……言葉の形は気にしていない。お前たちがこれ以上私に、危害を加える気が無いのであれば、私が戦う理由もない」 「いいだろう……無事か、マグナモン」 「すまない、ドゥフトモン……私が守勢にて不覚を取るとは、これは鍛え直しだな……」 今度は自身が膝をつく側となったマグナモンの姿は、誇りたる守りを崩された屈辱に震えていた。それは同時に、騎士の力量への賞賛でもあった。 万全に防護に徹していれば、尚も勝ちの目は無かったかもしれない。その決着を勝利に導いたのは、僅かな揺らぎを基点として組み立てられた戦術、実行するポテンシャル、そして完遂した胆力の賜物だろう。 「改めて名乗ろう。私の名はドゥフトモン、そして彼の名はマグナモン……共に、このデジタルワールドの秩序を守る、"ロイヤルナイツ"の一員だ」 そう言った騎士の礼には一分の隙もない、完璧な所作だった。確かに只者ではなさそうだ。と黒い騎士は彼に向き直る。 「ロイヤル、ナイツ……聞かない名だ。この広大な世界を、お前たちが守り切れるというのか?」 「それを使命としている。ならば後は、やり遂げるまでのことだ……全てに共感しろとは言わん、元々我々もまた、個別の意思と信念によって戦っているのだからな」 ドゥフトモンの背から、立ち上がったマグナモンも語りかけてきた。彼らはチームのようであって、スタンドプレーの集まりでもある。時にぶつかり合い、時に支え合うものという自覚の上で成立する、姿を変える正義の集団。 「故に、私たちは正義を掲げる新たな騎士を求めている……君にはその席の一つに座ってもらいたい」 ドゥフトモンが手を差し出す。黒騎士の脳裏にあったのは、多くが斃れたこの戦争のこと。後僅かに互いが手を取り合うことができたならば、混迷を切り開く秩序があれば、犠牲は最初より無かったかもしれない。 そして、そんな戦いはこれで終わりではなく、果てなく続いていく。ならば、今自分にできることは。 「―――いいだろう。私もまた、正義のための刃となろう」 「ならば、ここに誓いを。ウォーグレイモンとメタルガルルモンであった黒き騎士よ、君の新たな名を教えてくれ」 「オメガモン。私の名は、オメガモンズワルトだ」 オメガモンがドゥフトモンの手を取る。 それはロイヤルナイツの黎明期。現在まで続くデジタルワールドの守護者の始まりであった。 白い。 景色はどこまでも白く、どこにも色遣いはない。 すべて燃え落ちて、灰に変わってしまったから。 白い世界にただ一つ、漆黒の騎士が立ち尽くしている。彼が守らんとした世界の成れの果てが、灰と瓦礫の山には面影すら残っていない。 「また、こうなるか……」 オメガモンズワルトが独り言ちる。 ロイヤルナイツが生まれ、デジタルワールドには再び秩序が敷かれる兆候は確かに見えた。しかし、それ以上にデジモンの多様化は進んでいき、その中には悪性と呼ぶべき存在も確かに存在した。 彼らの強欲、そして悪意は留まるところを知らない。僅かな心の隙間からも染み入って、容易に心を狂わせる。それが大きな悲劇を幾つも生み落として、その度にそれらを焼き払った。 特に、ロイヤルナイツの主たるイグドラシルを狙った野心は徹底的な排除の対象となった。絶対的な権限を有するが故に、それが万が一汚染された時の被害は想定もできない。 そのためには騎士たちは死神にもなった。戦い、戦い、戦い続け……騎士たちはただデジモンにとって恐怖の象徴であり続けた。 そして途方もない戦いの果てに―――また一つ悲劇が生まれ、徒労に終わっていった。 「オメガモン、先の任務の件だが……命じられたのは殲滅のはずだった。違うか?」 拠点へ戻るオメガモンの姿を呼び止めたのは、かつて彼を誘ったドゥフトモンであった。オメガモンはゆっくりと彼に振り返る。 「イグドラシルの命令に対して、我々は盲目的にあってはならない。個々の解釈の元で正義を為すべきだ」 「正義―――それが正義か?オメガモン。生き残らせたデジモンを回収して、貴様は一体何をやっている」 ドゥフトモンは明らかに睨みつける視線をオメガモンに送った。排除の対象となったデジモンを、オメガモンはトドメを刺さずに連れて帰った。そして、拠点から生きて出たものはこれまで存在しない。 「私は"悪"を調べている。この世界にそう呼べるものは山ほど存在するが……私が求めているものはその源泉、つまり、我々にとって悪とはどこから生じたものかをだ」 「ドゥフトモン、このまま対処療法を続けたところで終わりはない。我々の戦いはいずれ悪を為した者から"そう疑わしき者"へと変わっていく。我々はデジタルワールドを護る前に自ら滅ぼしていくかもしれない」 「そうなる前に、根源を、悪意の火種から消さねばならない。そのために私は―――」 「デジモン達のデータを解剖している。そうだろう?」 「……」 黙り込んだオメガモンに、ドゥフトモンは眼前へと回り込んだ。 「正気に戻れ、オメガモン。今貴様が行っていることと、我々が戦う相手と何の違いがある?源泉など見つかると確信があるのか?果て無き戦いに摩耗するとしても、けしてその道を外すような真似は、私が許さん」 「……」 「……しばらく休め、貴公に与えられる任務は私が引き受ける」 その言葉を最後に、ドゥフトモンは姿を消した。 『……ガルルモン……』 静かになった胸中に、ウォーグレイモンが語りかけてくる。 『問題ないです。十分に材料はそろったので、決行するとしましょう。これで世界を変えられる』 『僕は……これを為すべきこととは思えない。この先にあるものを、僕たちは……』 『……行きましょう』 今更、後戻りなどできない。これまで積み上げてきた犠牲と、無為に喪われた命を想えば。 何故デジモンが罪を犯すのか、悪意とは何故生じるのか―――デジタルワールドに闇を齎した存在は、何か。 その原初の混沌に足を踏み入れる術を、オメガモンズワルトは既に掴み取っていた。 それが、彼の罪であった。 世界が裏返り、闇が天を冒していく。 その姿を、どのように形容すればいいかわからない。 それは七つに分かれ行く原罪か。 悪意ある抹消者の、その始まりか。 あるいは、全てが悲劇を愉しむ舞台の上に過ぎなかったのか。 砲も剣も役に立たない、立つはずもない。ただ、この領域には存在すら許されない。 意識が遠のいていく。身体が暗闇へと消えていく。全てが消失していく。そして――― 「行ってくれ、ガルルモン」 切り離される衝撃と、身体に浮遊感が生じた。 何が起こったのかわからない。最初に自身を冒す終わりの感覚が抜け、現実の感覚が欠損した身体を苛んできた。 そして視線の先、急速に収束して……いや、自分が落ちることで遠ざかっていく"闇"の向こうに……黒い竜の姿があった。ウォーグレイモンが。 手を伸ばそうとして、届かない。そもそも左半身が残っていない。遠く、消えていく。彼が。 相棒が。 「―――――――――」 「お目覚めですカ。シュヴァルツ様」 スプシモンの声に咄嗟に跳ね起きた少年が、次いで周囲の状況を確認した。全身の体温が凍りそうなほど下がっていて節々が痛む。そして、 「アスタモン!!」 記憶の主であるアスタモンが、書斎から倒れ伏していた。即座に駆け寄って彼の肩を揺らす。 「しっかりしてアスタモン!スプシモン、状況は?何が起こったの!?」 「参照不可能なエラーにより、アスタモン様の接続が切れましタ。A級インシデントとしてアスタモン様のサルベージを優先し、致命的な欠損なく回収に成功しましタ」 「ですが、アスタモン様の求めていた情報については……再び情報が消失したため回収が行えませン」 スプシモンが小さく頭を下げたのと同時に、意識を取り戻したアスタモンが呻きながら起き上がった。 「あァ……一応まだ死んではいねェみてェですね……酷ェモン見た」 「アスタモン!大丈夫……?」 「身体は五体満足、ですかねェ。ただ……」 図書館の壁を背にもたれて座りながら、アスタモンが左手を開く。 「―――!」 「流石に怒られましたかねェ?無理に起こすなら、もう一緒には、行けねェって……」 彼が手に持っていたデジメモリ、相棒のデータが籠った最後の形見が……灰となって消えていった。 「……君はやっぱり、デジメモリを回復させるだけじゃない、ブラックウォーグレイモンのことを……」 「えェ、まァ。やれるかどうか半信半疑ってとこでしたが、ね……自分の不始末でああなったモンを、取り返せるなら、取り返したいと……」 自嘲気味に笑うが、その笑みすら弱弱しい。獣の被り物を隠すように手を重ねる。 「ですがまァ、この図書館に縋ってもこのザマってことで、一つはっきりしましたよォ。やっぱり、罪を無かったことにはできねェみたいでして」 「そう、一つ分かった……ずっと、どっかで誤魔化そうとしていた」 「―――アイツはもう、帰ってこないんだ……」 その姿は、顔を覆って泣いているように見えた。 「……もう時間もねェ、例の作戦の決行に行きましょう。シュヴァルツ」 「さっきのことは気にしねェでください。結局俺には、罪と向き合う勇気なんざなかったってことです」 そう言って、左手で傍らのオーロサルモンに手を伸ばそうとする。 そのアスタモンの手を、シュヴァルツが止めた。 「―――勇気ならあるでしょ」 「シュヴァルツ……?」 「罪が消えないなら、思い出だって無かったことにはできない。それはずっと自分の中に降り積もっていくものだ」 「君の記憶を、本を読んだよ……ブラックウォーグレイモンのこと。いつも勇気に満ちていた、君の相棒のことを」 「そう、アレは君の記憶から生まれた。だったら、記憶の中にこそデータは残っているんじゃない?」 座り込んがアスタモンと視線の高さを合わせるように、屈んだシュヴァルツはアスタモンと眼を合わせる。黒く光る眼が、彼の獣の顔を覗き込む。 「データを受け取ったからリプレイができる。アスタモン、君の言う勇気ってものは、既にウォーグレイモンから受け取っていたんじゃないかな」 アスタモンが視線を下に外す。 「だから、全く無いなんてことはない……だってあの時、ボクを拾ってくれたでしょ?」 下に外そうとして、その言葉に向き直させられた。 紅い眼がシュヴァルツの顔を捉える。あの時、実験室の中で出会った少年。あの頃よりは幾分か血色が良くなったように見える、と反射的に認識した。 「アレは……ただの成り行きです。会社がダークエリアに顔を出したんで、ちょいと挨拶をしようと潜り込んだだけでして」 「クラースナヤに負けた後、BVまで連れて行ってくれたよね?アレは?」 「……他にマシな引き取り手も思いつかねェんで、消去法です。いやホント、もっといい選択肢はあったんでしょうがねェ……あなたには随分迷惑かけちまった」 思わず話がシュヴァルツの処遇を巡った方向に転び、アスタモンが頭を掻く。もう少し聡明な判断か、迅速な行動、あるいは勇気があれば。先に彼を闇の世界から連れ出す方法があったかもしれない。 だというのに、彼が敗北を知るまで止めることはできず、成り行きで今も暗部の組織に属させている。結局それも、アスタモンにとっては自身の不実だった。 やっぱり自分は、アイツのように何かを助けることなんてのは、 「そして、彼女を助けたいって願った時。君は剣を抜いてくれた」 左手が強張った。 「記憶を見たからわかった。アレが君にとって、思い出したくもないぐらい怖いことで……それでも君はやってくれたんじゃないか」 「それで勇気が足りないなんてことボクは思わない、君の相棒に縋っている必要なんてない」 「少なくとも、ボクは変わっていったよ。これまでに出会った人、話し合った人に一緒に戦った人……殺してしまった人、好きになった人。その全部がボクの中にある」 「君もそうだよ。アスタモン……君達の勇気と友情は、今もずっと一緒にあるんだから」 シュヴァルツがアスタモンに笑いかける。その表情が、どこか懐かしく、暖かく感じた。 「……全く、どこでどう育ったんだか、一丁前なこと言うようになりましたねェ」 「親代わりの教育の賜物だと思うけど?……じゃ、行こう。もう時間だ」 「そうですねェ。さっさと……」 左手に力を込めて、立ち上がる。自身のテイマーと並んで立ち、アスタモンは書斎から離れていった。 『―――行っておいで、相棒』 そんな声が聞こえた、気がした。 振り返らずに、彼らは歩き去って行く。その姿が悪魔の背中から、黒い騎士の姿へと変わるのを、残されたスプシモンが見守っていた。