『来週、我が領地近くにも電子花の庭が築かれる。それを記念し汝にも一輪の花を手向けようではないか。かの時の白き花の礼、期待して待つがいい』 デジヴァイスに届いたメールは相変わらず装飾過剰だったが、今回はそこまで解読に手間取ることはなかった。 「……まだ覚えてたんだね。てっきりもう忘れたのかなって」 口ではそんなことを呟きながら、返信のメールを打つシュヴァルツの口角は上がり、柔らかく微笑んでいた。 彼がアルケアに白い花を手渡してから―――それなりの時間が経過していた。その間もプールで再会したり、好みの漫画を勧められたり、ぽつぽつと彼女との間に交流自体はあった。 その中で、花の贈り物に返礼を贈る。という旨のアルケアのメールのことは暫く記憶の底に沈んでいた。 花のやり取りと言ってしまうと童話を読むような気恥ずかしさがないこともない。しかしベッドの上、タンクトップとハーフパンツの部屋着でうつ伏せに転がる小柄な体躯は、つい脚をぱたぱたと動かしてしまう。 「シュヴァルツー。失礼しますよォ」 「っ!?……どうしたの、アスタモン」 後ろから投げかけられた声に、頭を飛び上げながら慌てて振り返る。ドアを背にもたれかかって立つアスタモンがひらひらと手を振った。 「いつものお仕事の話ですねェ。例のアルヴェアーレの件ですが、どうにも関係各所の口が固ェ。こりゃ決行当日の動きを察知して直に押さえるしか無さそうでして……私らが片付けることになりました」 「あっそう……嫌だな。予定被るんじゃない?」 "アルヴェアーレ"、リアルワールドの欧州で名を通す犯罪グループ。歴史は長いが、デジタルワールドを法の抜け穴とする新規事業ではメキシコマフィアに遅れを取り、巻き返しを急いでいるという。 欧州のマフィアでも、日本のヤクザでも悪徳企業でも、デジタルワールドではそれを抑える法整備は殆ど進んでいない。だからこそ、法に縛られない迷惑事は法に守られないやり方で潰していく必要がある。 が、その取引の場に殴りこむ日が未定なまま、アルケアとの予定とブッキングしそうと知ると、シュヴァルツの表情は途端にうんざりとし始める。それを見てアスタモンは大体の状況を理解した。 「あらまァ、プレゼントが来るからってはしゃいじゃってねェまったく」 「……別にはしゃいでないよ。開店祝いに珍しい花も来るって。それだけ」 アスタモンの笑みを、シュヴァルツはむすっと口を尖らせてでそっぽを向く。 考えてみれば、主題はもう一つの方だ。セイントモール内の花屋はアルケアの拠点からはネットワーク的に距離があったのだが、最近になって近場にも新しい店がオープンしたという。 開店祝いの期間は珍しい花も取り扱われるとのことで、アルケアの興味の本質はそこだろう。良い花を見つけたら贈るというのは必ずしも本題ではない。 いくらなんでも花一輪で浮かれるようなロマンティックな頭はしていない。それをわかっているのなら、アスタモンも少し茶化しすぎたと反省の色を見せた。 「……ところで、飾る場所ってどこがいいのかな。育て方の注意とかは……」 「あらまァあらまァ。そういうのは花ァ来てから改めて調べましょうねェ」 いや、この有様はもう少し茶化しても問題ないだろう。 BVに参加した当初は何も置かれていなかったシュヴァルツの机が、今は漫画のメディアファイルで乱雑に散らかっている。そのファンタジー漫画も誰からの勧めで読み始めたものだったか。 それを忙しなく片付け始める浮かれた少年の姿に、アスタモンは苦笑を隠せなかった。 『ありがとう。ただ、直接受け取れないかもしれないから花は指定の場所に郵送して』 ディーテクターに届いた返信は簡素で、良い言葉が思い浮かばなかったのだろうという不器用さを感じ取れた。 ふむ、と黒曜将軍オブシディアナ・アルケアは鼻を鳴らして思案する。デジタルワールドのデータ圧縮郵送であれば、よほど特殊な種類でなければ花も送ることができたはずだ。 「では、彼の部屋を飾るに相応しい花を探し出すとしよう!シュヴァルツよ、汝が喜び打ち震える様が眼に見えるようだぞ……!」 「そこまでオーバーな反応は目指さなくていいんじゃないかな……」 傍のプレイリモンのツッコミを無視して、天蓋付きのベッドに腰かけたアルケアは、タブレットを展開しオープン予定の店のパンフレットを呼び出した。 色鮮やかな花々の画像と名前、それぞれに込められた花言葉、何より現実の花の美をデジタルの世界に落とし込むあらゆる工夫が緻密に紹介されている。 その内容に興味深く食い入りながら、アルケアは花の贈り相手、褐色の肌と濡羽の黒髪、暗い黒色の眼の少年の姿を脳裏に思い描いた。 「……そういえば、もう結構経つんだっけ」 鉄火場の中の偶発的なエンカウントを思い出す。それから、花屋で買ってくれた白いブーゲンビリアと、プールで着せてくれた水着。 他にも、埋蔵金や宝石を発掘しようとしたり、好みの漫画を紹介したり。気が付けば、シュヴァルツとはそれなりに長い期間交流を重ねる間柄にはなっていた。 起こしていた上体をぼふりとベッドに傾ける。何も言葉を交わさなければ、ちょっと神秘的だけど話しかけにくそうな相手で終わっていたのかもしれない。 それが、話してみると意外と子供っぽいところがあって。こちらから近づくと狼狽えるけれど、こちらを見つけたらすぐにやってくるのが興味深くて。 ……そして、少し安心して、格好良くあろうと気を張らずに、素のままの自分の顔を見せてしまう。 それらをひっくるめて、何かの言葉に表現できれば、花言葉に乗せて贈るのが正解なのだろう。けれどもアルケアには的確に纏めることは叶わなかった。 「―――む、む、むむむぅ……!」 ただ、パンフレットから想いを伝える花言葉を辿っていくと、内容は過激になる一方で。途中で顔がオーバーヒートして耐えきれなかった少女は、顔にタブレットの画面を押し付けることで直視を避けた。素足をもじもじと動かし、ベッドの上の皺を増やす。 「とりあえず、実際の花を見てからでもいいんじゃないのかな?」 「う、うん!そうしよう!」 プレイリモンの提案に乗り、一旦過熱した思考とタブレットの画面をオフにして、アルケアは明日の出発までシーツに包まっていった。 件の花屋は、商業施設のデータから作られた入り組んだ地形の中にひっそりと建てられていた。この手の自然の地形を利用するのは珍しいことではないが、他が無人だといかにも穴場という空気を醸し出している。 例によって角を隠せる帽子を被った(比較的)目立たない私服で訪れたアルケアは期待に胸を膨らませていたが、プレイリモンは周囲の閑散に少し不安げに周りを見渡しながら、揃って店内へと入っていった。 以前訪れた花屋程の凝った内装ではないが、内部は第一印象に反して整理が行き届いており、情報の通り、普段見られないような種も棚に飾られていた。 その一つ一つのパッケージファイルの情報を眺めながら、アルケアは集中した面持ちで花を吟味していく。棚を二つ見終えて、三つ目の中間に差し掛かった辺りで、新しい客が来店した。 「……?」 無意識に扉の方を見て、来客の印象にアルケアはもう一度彼らの姿に視線を向けた。男が二人、服装は至って平凡な市民といった体だが、片方は日焼けした肌と筋肉質な太い腕をシャツの袖から晒し、もう一人は見るからに瘠せ型の猫背。 外見で人を判断するのもどうか、と制止する理性はあった。しかしアルケアの脳裏は、彼ら二人が本当に花を買いに来た客なのかを疑う直感的なイメージに引っ張られていた。 男たちは店主に話しかけると、老店主は少し困ったように顔の皺を深め、自分たちに視線を向けたように見えた。そして、倉庫と思われる方向へと三人で消えていった。 「……どうしたの?葵」 「外に出よう、あの来客二人、何やら怪しい……」 確かに怪しくはある。だが、その先に何があるのか、自身はどう対処するべきであったか。少女にはそれを想像する力が足りていなかった。 「ぬ、ぐ……狭いではないか、プレイリモン……」 「下手に穴を広げると後で誤魔化せないから……多分、この先が地下だと思う」 一度退店してから、プレイリモンの穴掘りで店の倉庫……の先にある、地下の水循環通路の方へとアルケアは進んでいった。後で証拠を隠滅するために、掘れる穴の径は最小限。必然的に彼女の体格では色々な箇所が詰まり気味になる。 私服が汚れるのは諦めて、身をよじりながら進んでいくと、薄暗い地下通路の壁から頭だけ出る格好になった。少し頭部を潜めて目を凝らすと、件の男二人の姿と、その会話が聞こえてきた。 「……さっさと運ぶぞ」 「そう急ぐなって、まったく花だってのに重いったらありゃしねぇ。最初からデジモンだけに任せてりゃいいだろこんなもん」 寡黙そうな声は筋肉質の男。軽薄そうな声は猫背男のものだ。 「デジモンの指揮は必要だ。いざという時の用心棒もな」 「用心棒ったってなぁ、デジ対がこんな辺鄙なとこ見つけて来るもんかね」 大量の荷物を、水路に浮かべたボートに運び込むようだ。中身は……会話から察するに、花が詰まっているらしい。彼らの足元を二体のファンビーモンが動き回り、花のコンテナをボートへと積み込んでいく。 問題は、彼らの言う"用心棒"。ファンビーモンの他にもう一体。ワスプモンが周囲に眼を光らせている。どう考えてもただの花の輸送には不釣り合いな警備だった。 何かがおかしい、と心臓を跳ねさせたアルケアは更に二人の会話に聞き入り、その予感は現実のものとなった。 「かったりぃ、俺もちょいと花貰ってこうか?」 「バカな真似はするな。今回の依頼主はこれまでとは違う、遊んでいたらそこに沈められるぞ」 「遊んでんのは向こうだろ?リアルワールドでもそりゃヤクで稼いでんだろうが……花に仕込んでバラまくなんざ、洒落てるというか悪趣味というか……」 薬、撒く。その単語に眼を見開いた。あのコンテナの花の中身が本当にそうだとして、目的は取引を偽装するためか、あるいは―――市井を染めるためか。 「―――っ」 「あっ待って!葵!!」 プレイリモンに引っ張られそうだった脚を振り払い、アルケアは穴から飛び出していった。 「待て!!」 「あぁ?誰だよアンタ」 「……今は仕事中だ、子供は立ち入るな」 「可憐なる花に薬を混ぜ、何も知らぬ者に渡すことが汝らの務めか!?悪の道であっても、下劣な行いは我が許さん!」 「ッチ……だから何モンだって聞いてんだろうが、あぁ!?」 唐突に現れた少女の姿に、二人の男は怪訝そうな顔を見せる。彼女の口から、先の会話が聞かれていたと察したのだろう、すぐに大男が口を滑らせた猫背男を睨みつけた。 視線から眼を逸らした猫背男が、苛立ちながら少女を怒鳴りつける。 汚れた私服を掴み、翻すと、黒と白で構成された衣装と、頭頂部の二本の角が露わとなった。 「我が名は―――ネオデスジェネラル、"黒曜将軍"オブシディアナ・アルケア!!」 見栄を切って叫ぶ。何を言われたのかわからない、といった表情で、二人の男の動きが一瞬止まった。 その一瞬に、アルケアの思考が走る。わかっている、成長期二体に成熟期一体、恥を飲んで言えば、自分には十分に分の悪い相手といって差し支えない。 だが、私はネオデスジェネラルだ。黒曜将軍だ。悪を誅するなんて漫画の主人公がやることだけれど、こんな悪ですらない非道まで見過ごすのは私の憧れたネオデスジェネラルらしくない。 何より、黒曜将軍は花を弄ぶ者を許しはしない―――そう自分に課した言葉だけが、彼女を奮い立たせていた。 「デジコード、ロード!!」 男たちが虚を突かれた隙を突く格好で、ダークネスディーテクターを構える。プレイリモンは姿を見せていない。パートナーデジモンすら連れていない格好のアルケアに対して、その対応は後手に回った。 無理もない、彼ら二人は非合法なストリートクラッカー崩れのチンピラでしかなく、デジモンやツールに対する知識も十分に持ち合わせてはいなかった、ましてや、 「機鰐の壊矢(テムサーフラキエータ)!!」 「あっ……なぁっ……!?」 デジモンの身体の一部を、自分のものとして呼び出すテイマーなど、前代未聞だったであろう。 以前にデジコードセーブしたデッカードラモンの背部兵装。無骨なデッカードランチャーを背中から展開する。そのまま内蔵されたミサイルを一斉に撃ち放った。 火のついた鉄槍が四方八方に飛んでいき、猫背男とファンビーモンの悲鳴が通路内を木霊する。その多くは最脅威目標であるワスプモンへと殺到していった。 「―――!」 しかし、狙いが甘い。ワスプモンは男たちの戦闘指示を必要ともせず、デッカードランチャーの攻撃を上下左右に回避していく。ダークネスディーテクターの力を持ちながらも戦闘経験の未熟なアルケアに対して、 依頼主からの"借り物"であるワスプモンは、この仕事に就くまでに既に幾度かの戦闘に慣れがあった。そのまま反撃のレーザー砲をチャージしていく。砲に蓄積される光が頂点に達した、その瞬間。 「てやぁあーーーっ!!」 ワスプモンの横の壁から、存在しないと踏んでいたパートナーデジモン、プレイリモンが飛び出してきた。穴を掘り進めてきた鋭利な爪の一撃を、ワスプモンはすんでのところで回避する。 だが、それが致命の隙となった。穴から飛び出してきたのはプレイリモンだけではない。……一斉発射したデッカードランチャーのうちの一発が、穴から飛び出してくる。 爆炎。全身を炎で包まれたワスプモンが水路へと落下していく。そしてその様子を見たファンビーモン二体は、蜘蛛の子を散らすようにその場から逃げ出していった。 「っ!待て!!」 大男の静止にも聞く耳を持たない。昆虫を模したデジモン、特に蜂のそれは上下関係がはっきりと分かれている。上位の個体が倒されるようなことがあれば容易く統制は崩れる。 「デジコードロード、恐鳥の走脚(ディアトリマトレケイン)!!」 いける、全て狙い通り。デジモンの庇護を失った男二人を取り押さえて、あの花を全て処分させる。このままいければ――― その確信を胸に、アルケアは加速した脚力でまずは猫背男に迫ろうとした。 だが、 「ヴェスパモン」 突如として響いたその声に頭が凍りつき、次いで、身体が宙を舞った。 視界が逆さまに、そして回転していく。その視界で捉えたのは、吹き飛んで壁に叩きつけられるプレイリモン。そして、人型のサイボーグに改造されたような姿をした、雀蜂のデジモン。 ヴェスパモン―――不意打ちでダメージを与えられたワスプモンより更に格上の、精鋭のデジモンであった。 鈍い音を立てて、アルケアの身体が地面に落下する。衝撃を受けた骨が軋み、一瞬止まった呼吸が血を混じりながら咳き込んだ。 「う゛っ ゲホっ……!」 「葵!!」 プレイリモンの悲鳴が響く。だが、その体もすぐにファンビーモンに取り押さえられて拘束された。ワスプモンも水の中から浮かび上がっている。ヴェスパモンの登場によって、彼らの統制は完全に回復していた。 そして、通路の向こうから三人目の男が現れた。一目見て上物と分かるスーツで身を固めた、丁寧で品格を感じさせる―――だからこそ、本能が危険を察知させる男。 「何を手間取っている……仕事はどうした」 「……すみません、邪魔が入りました、デジモンに変身するおかしな小娘です」 「デジモンに?大した脅威ではなさそうだったが」 スーツの男に問い詰められて、寡黙な大男がどっと汗を噴き出しながら釈明する。その中の、デジモンに変身する娘という言葉に興味を引かれたのか、スーツの男がジロリとアルケアを睨みつけた。 「顔を見せろ」 「っ、つ……」 大男に髪を掴まれて持ち上げられる。そのまま太い片腕で両手を拘束された。痛みで意識を覚醒させながら、じわりと滲んだ視界でスーツの男を捉えた。 「娘、一体どこの誰だ?ただの人間ではないようだが、あの企業の実験体か何かか?」 「……我が、名は黒曜将軍、オブシディアナ・アルケア……ネオデスジェネラルの……」 「―――ぷ、くくっ……コイツまだ言ってやがるぜ。お前みたいな雑魚で、しかも人間があのネオデスジェネラルだってぇ?」 声を絞り出したアルケアの頭上に、猫背男が手を叩きながら嘲笑を浴びせた。各地で被害を広げるネオデスジェネラルの脅威は彼らも知るところであったが、明らかにアルケアのそれは彼ら将軍達に並ぶものではない。 「黙れ!!汝らごときに我の真の力など知る由もない!!今それを証明して……」 「見せてみろ、デジモンに変身できる化物ならば使い道もある」 「っ……!?」 もう一度声を張り上げて、黒曜将軍の矜持で抵抗しようとしたアルケアだったが、証明は叶わなかった。最早敵わない相手だから……だけではない。 角を介して感じるダークネスディーテクターのステータスが、不明な異常を検出していた。まるでシステムに過負荷がかかったように、その機能が沈黙してしまっている。 そして、これまで逃走の柱であったプレイリモンもファンビーモンに取り押さえられていては、アルケアに打つ手は一つも残されていなかった。 「どうします?」 「吐かせろ、本当にネオデスジェネラルの仲間なら、連中の情報は金になる。俺は仕事を続ける」 そう言い残すと、スーツの男はその場から離れていった。 「へへ、吐かせろってよ……」 入れ替わってアルケアの前に現れたのは、先程彼女を嗤った猫背男。長い舌が彼の唇を濡らすと、値踏みするような視線を彼女に……正確には、彼女の首から下に向けた。 その視線が意味するものを、アルケアは十分な知識を持っていなくても本能で察した。 「っイヤ、離して……!」 「んだよ急に、さっきまでの威勢はどこへ行ったんだぁ?」 少女の豊かに実った胸に白く細い指が絡みつくと、蛞蝓に這われるような嫌悪感に全身の毛が逆立った。黒曜将軍の表情が崩れ、少女に戻ったアルケアが悲鳴混じりに拘束を振りほどこうとする。 しかし大男の腕を払うことなどできず、代わりに猫背男は懐から折り畳み式のナイフを取り出した。開かれた刃に、恐怖に歪むアルケアの表情が写った。 「暴れんなよ、優しく取り調べしてやろうって言ってんだから、よ!」 「―――!!」 そのナイフを、彼女の前で一息に振り下ろした。胸の衣服に引っかかった刃がそのまま真下に振り下ろされ、ブラウスが裂けてアルケアの白い肌が、胸が露わになる。 声は出なかった。決定的な"その行為"が確実に迫っていることを確信して、アルケアの喉は悲鳴を響かせることもなく息を漏らすしかできなかった。顎は開かずに、カチカチと歯を鳴らした。 代わりに、行き場のない恐怖が腹の底から降りて、クロッチを湿らせた。 その時、 通路の天井を突き破って、何者かが乱入した。 一人は……否、一体は蝙蝠の翼を広げて、手に銃器を携えた魔人。もう一人は――― 赤い刃を握りしめた、褐色の肌に黒い眼の少年だった。 「貴様、BVの……!」 スーツの男が叫び、懐からクロスボウのような武器を突きつける。デジタルワールド内で対人用に使用される攻勢プログラムの一つで、外観に反して高い弾速と威力を誇る。 必中の距離、男は先んじて矢を少年に、シュヴァルツの額に目掛けて射出した。 「―――」 しかし、その矢は何も貫かなかった。高速を誇るはずの矢は、まるでそれが来るのが最初から分かっていたかのように、シュヴァルツの左手によって掴み取られていたから。 「バカな……!?」 思わず呻くスーツの男を無視して、左手に持った矢を持ち替え、渾身の力を込めて投擲する。飛び出した矢はクロスボウとさほど変わらない速度で、スーツの男の脇を通り過ぎていった。 狙いは彼ではない、アルケアを拘束している大男の方。彼の左肩に矢が貫入すると、内蔵されたプログラムが大男の肩の構造を破砕した。 「ぐがっ!!ぐっ、貴様ぁ!!」 比較的冷静だった大男が苦痛に顔を歪め、アルケアを手放すと、彼女の身体は倒れこむように地面に落ちる。そしてシュヴァルツが矢を追うように飛び出してこちらに突っ込んでくるのを視認すると、 大男はそのまま右拳を握りしめ、咆哮と共に彼に襲い掛かった。 命中すれば、容易く骨肉を砕く威力の拳。しかしこれも彼には当たらない、やはり予め軌道が見えていたかのように、ひらりと半身をずらして回避する。 そして慣性のままに突っ込んでくる右腕に、赤い刃―――デジヴァイスブラッドの刃を当てた。 ごり、ごり、ごりん。鈍い音を立てる。刃は拳に、手首に……そして前腕に食い込み、そこまでの部位を唐竹割のように斬り開いた。その断面には、縦方向に両断された骨の一部が見えた。 次の瞬間に血が破裂するように噴き出し。大男の悲鳴が耳をつんざく。その開いた顎を、シュヴァルツは下から蹴り上げて粉砕する。 そして飛び散った血に向かって、短く唱えた。 「エッジスラッシュ」 地面に落ちた血から、黒い靄のようなものがじわりと湧き出し始めた。 同じ瞬間、同時に突入したシュヴァルツのパートナー、アスタモンはスーツの男がけしかけたワスプモン、そしてヴェスパモンと対峙していた。 手にする銃から断続的に弾丸を放ち、それは意思を持つように対象を追尾する。その弾幕を二体は掻い潜りながら、ワスプモンのレーザーをアスタモンが上昇して回避する。 その瞬間に、シュヴァルツの放った黒い靄がアスタモンの銃へと取りついた。靄を吸収し、それを漆黒のオーラとして放ちながら、内部のエネルギーを著しく増大させる。 アスタモンが銃を構える。その銃口には巨大な火の玉が光を増していた。 「"ブリムストーン"!」 発射された火の玉は、巨大な爆弾となって地面で起爆した。内部に満ちていた炎が一気に放出されて、直撃を逃れたワスプモン達の視界を塗りつぶしていく。 否、視界を潰すのが本命。アスタモンは続けざまに、闇の気を自身の足元へと集約させていった。 「"マーヴェリック"!」 対応の猶予はなかった。ヴェスパモンは先行するワスプモンを盾として、それがアスタモンが繰り出した技をまともに喰らった。 炎の壁から飛び出したアスタモンの脚はワスプモンの基礎構造を撃ち抜き、そのまま地面へと踏み砕いた。キックの勢いで前進するアスタモンに合わせて、引きずられたワスプモンは各部を砕かれながら光となって消えた。 次の目標はファンビーモン。打ち出した銃弾が弧を描いて殺到し、下敷きになっているプレイリモンを避けながらファンビーモンを貫通した。 そのアスタモンの背後から、ヴァスパモンが復讐の槍を彼に向けて突き出す。直撃コース、しかし。 「―――!?」 全身の力を込めて突き出したヴェスパモンの槍を、アスタモンは素手で掴んで止めた。片手で掴んだその姿勢は全く揺らがず、闇の気で保護された手袋一つ傷つけられていない。 「っ、ヴェスパモン!!」 その状況を視認したスーツの男が指示を飛ばそうとするが、後ろからの気配に振り返った。同時に彼の反射神経がナイフを抜かせて、迫りくる何かへと振り払う。 けれども、刃は空を切った。迫ってきたもの、シュヴァルツは上方へ跳躍してナイフを回避し、スーツの男の背後まで跳んだ位置から、デジヴァイスブラッドを投げつけた。 「がぁっ!!」 背中に突き刺さった刃を、シュヴァルツは空中からの回転蹴りでかち上げ、引き裂いた肉から血が噴き出す。 「エッジスラッシュ」 再び唱えて、黒いエネルギーがアスタモンへと補充された。ヴェスパモンを蹴り飛ばすと、彼の左手には自身のナイフが握られていた。ナイフにエネルギーが収束し、血のように赤い長剣の刃を形作る。 翼を翻し、剣を構えたアスタモンが突撃する。それに対してヴェスパモンは盾に身を隠したが、彼はそれを容易く掻い潜った。 「―――"キンジャール"!!」 振るわれた赤剣が、ヴェスパモンの頭を両断し、光の塵へと返した。 「っは、あっ、はっ……ひぃぃぃぃ……!」 それを呆然と眺めていた猫背男は、漸く何が起こったのか理解した、という風にヨタヨタと立ち上がって逃げ出そうとする。だが、暗い黒の瞳はそれを逃がさず、一息で彼の元に迫った。 「あ……」 理性の糸が切れた男が、半狂乱になってナイフを振り回す。しかし、彼はすぐにそれを取り落とした。 ナイフと共に、白い芋虫のようなものが落ちていく。男の手の指の四本が切り落とされて、ナイフを握れなくなっていた。代わりに、落ちていく折り畳みナイフをシュヴァルツの手が掴む。 「―――」 喉元に突き入れ、引き裂く。男の上半身から、大きな鮮血の花が咲いた。 「……殺っちゃってないですよねェ?」 「まだ死んでないよ」 「アラそう。上の店はもう押さえましたし、撤収してお話伺いますかァ」 戦闘を終えたアスタモンが周囲の状況を確認する。 スーツの男……アルヴェアーレ・ファミリーの構成員は軽傷。残り二人のチンピラは重傷だが、処置すれば命はある。 元々、彼らのデジタルドラッグ混じりの花の回収と流通の阻止がBVとしての彼らの任務だった。取引の当日に出た尻尾を掴み、叩き潰して回収、更なる情報を吐かせる仕事は概ね達成できたと言える。 最悪なことに、その取引現場が正にアルケアのやってきた花屋だったのだが。 「―――アルケア!!」 シュヴァルツが小走りでアルケアの元に駆け寄る。彼女は拘束を解かれてから動いておらず、その容態が気がかりだった。 「ごめん、怖かったよね。もう大丈夫、大丈夫だから……」 アルケアを心配させないように、笑顔を浮かべながら手を差し伸べた。その瞬間、 「っ―――来ないで!」 笑顔のまま、シュヴァルツの手が硬直した。 発した声の主はアルケアだった。その両手は頭を抱えるようにして、肩を震わせながら、不規則な呼吸を繰り返している。 尻餅をついた姿勢のまま、力が抜けた腰の下から生暖かい水音がスカートを汚していった。 「こないで……たすけて……だれか……」 赤く染まっていた。地面が、壁が、天井が、流れる水、アルケアの顔と服、 「だれか……」 差し伸べられたシュヴァルツの手、シュヴァルツの全てが、赤い血に汚れていた。 「―――ありがとうね、わざわざ」 「いえいえ、当然のアフターケアですよォ。それで、もう帰りますんで?」 「うん……早く日常に戻した方が、葵のためになるからね」 数時間後、アルケア達は撤収したシュヴァルツの拠点の中にいた。シャワーを浴びて身体の汚れを落とし、汚れた衣服を着替えさえ、外傷にある程度の治療を施した。 幸いにも致命的な傷は無かったので、一通り用事を終えたプレイリモンはそのままアルケアを連れて帰ろうとしていた。 「まァ、それなら止めねェですが……一応カウンセリング受けときませんか?まァ専門ってわけじゃねェですが」 「ありがとう、でも、ボクたちは……」 「立場の相違、ですか。それじゃ、道中お気をつけて」 立場を辿れば、アスタモンはBV、プレイリモンはイレイザー軍のデジモン。気遣いの感謝はあれど、本来ならば深入りしすぎる間柄ではない。 最後に解き切れない空気を残して、プレイリモンとアルケアはそのまま去っていった。表情の晴れないままに。 それを見送り、深いため息を吐いたアスタモンは、再び拠点に戻ってシュヴァルツの部屋の扉を開けた。 「失礼しますよォ」 返事はない。 暗く明かりの無い部屋で、シュヴァルツは部屋の隅で膝を抱えたまま動かなかった。 「……そんなナーバスになられちゃ困りますよォ。結果だけ見りゃあ大成功じゃあないですか」 アスタモンはあくまでそう結論付ける。目標は全員確保し、アルケアは本当の被害が及ぶ直前に保護できた。 けれども、 「ちゃんとあの子を助けたんですから、顔合わせたっていいでしょうに」 「―――助けてない」 シュヴァルツの言葉が遮る。 「ボクは……なにも助けてない、目標を、いつも通り殲滅しただけだ、いつも通りに……それしかできないから」 「あの時、彼女に拒絶されて、彼女の眼が見えて……ボクが見えた」 「あれがボクだ……何も変わってない……!」 抱え込む両手に力を込める。涙に濡れたアルケアの眼に映った、血塗れの手を差し出す血塗れの自分の姿。 それがシュヴァルツだった。FE社の実験で、何の疑問も抱かずに幾千幾万のデジモンを殺して、同じ被験者を殺して、 殺して、戦って、それを途方もなく繰り返し続けて、それだけに最適化された。そんな存在が人に触れて、絆されて、自分も人たると思い上がった。 けれども、罪は罪のまま、積み重なった本質は変わっていなかった。 そんな身体で、そんな手で、一体何を助けたなどと言えるのだろうか。 何を救えるというのだろうか。 足元が血に満ちて前に進めない。 手元が血に満ちて何も掴めない。 喉元まで血が迫って来て、息が詰まって溺れていく。 おかしいね。 殺すための機構がなんで呼吸をするんだろう。 何も考えずに、役割のままに引き裂いて、摺り潰して、殺し続けて。 なるべくしてなった結果の中で、ボクはなんで、泣いているんだろう。