喫茶「Empatia」。それはオノゴロ市の一角にある、可愛らしい風体の看板娘の龍崎 凜と心優しいおじさんマスターのマーヴィンさんで喫茶店好き界隈の中では有名なお店である。 そして女子大生の例にもれず、私、永須 芽亜里もまた喫茶店を愛好するものの一人である。なにより、この製薬会社の企業城下町は観光地化が著し過ぎて落ち着ける場所があまりにも少ない。観光客ではなくこの地で働くものとしては喧噪から離れた場所で静かに過ごしたい。そういった需要を満たしてくれるのがこの喫茶店だったのだ。 人には言えないあれやそれやあってFE社でこれまた人には言えないようなバイトをするようになってから一年程、その間最低でも2週間に一度はこの喫茶店に足を運んでいた。その甲斐もあってか、男どもが仲良くなりたくて仕方がない看板娘とも気軽に話せるような仲になっていた。もちろんファントモンは連れてこない。この場所では金行のアルバイトじゃなくてただの女子大生で居たいから。 「こんにちは、龍崎さん。席は…空いてそうね?」 「いらっしゃいませ~。あ、永須さんハロハロ~。見ての通りどこでも座れますよ~」 「この時間に人がいないのは珍しいわね。なにかあったのかしら?」 「たまたまお客様の入れ替わりの時間なだけな気もしますけどね。つい三十分くらい前までは満席だったんですよ?」 「あら、それは運が良かったわね。おかげで店だけじゃなくてかわいい看板娘まで貸し切りにできちゃう」 「永須さんったら口がうまいんだから!そんなに褒めてもサービスしませんよ~。お冷とおしぼり持ってきますね!」 本当にいい子だな、と私は思う。人当たりが良くて愛嬌があってなにより人への誠意を感じられる。あの年頃であそこまでまっすぐ人と向き合えるのはいい環境で育ったんだろう。この子には、今後もあのまま成長していってほしい。身も心も汚れ切ったわが身のことを考えると、そう願わざるを得なかった。 カウンター席に座って店内に漂う挽いたコーヒー豆の匂いを楽しんでいると、お盆を携えた龍崎さんがやってくる。載ってるものはお冷とおしぼり。それと…厚切りの食パンにジャム? 「ねえ、サービスはしないんじゃなかったの?」 「これはいつも来てくれる永須さんへのサービスですよ。誉め言葉へのサービスではないので嘘はついてません。ほんとですよ?ああ、お金についてはご心配なく。まかないの残りですから」 「ふふ、口が上手いわね。それじゃあ、遠慮なくいただきます」 「それと、注文は何にしますか?」 「いつものにしようかしら。特別なものって日常の中にあるからこそ輝くものだし」 「はいはいー。ブルーマウンテンの深煎りのブラックですね~」 こういう茶目っ気もまた魅力の一つだろう。龍崎さんは人の少ない時間帯だとたまにこうして常連相手にサービスしてくれることがあるのだ。この辺りもこのお店に通い詰める部分なのだが、このサービス精神は男の人を勘違いさせてしまいそうでちょっと心配になる部分でもある。 龍崎 凜という少女は同性の私から見ても性的魅力にあふれている。くりくりとした真ん丸な瞳、プリンと張りのある唇。見るものすべてに若さ、あるいは幼さという魅力をを伝える顔立ちは愛らしいの一言。そしてその顔に見合わぬ胸の大きさは男たちの劣情を煽って仕方がないだろう。そこについては心底同情する。とはいえ、そのおかげでこの店が私にとって居心地のいい空間となっているのも事実だった。基本的に、「Empatia」に来る男性は大体看板娘が目当てであり、周りの席にいる女子にはほとんど目もくれない。したがって、普段じろじろと視姦されがちな私であっても、この場所にいる限りは龍崎 凜という少女の背景となれるのである。申し訳ないという気持ちもあるが、それ以上にわずらわしさから解放された喜びも確かにあるのだった。 「永須さん、こちらご注文のブルーマウンテンです」 「ありがとう、龍崎さん」 「そういえば、永須さんってオノゴロ市外の大学に通われてるんですよね。なんでオノゴロ市でバイトしてるんです?」 注文の品を運んできてくれた龍崎さんがそのまま話しかけてくる。ほかに人がいなくて彼女も暇なんだろう。たまにこうして話しかけて来るのも、この店のリピート率をあげる秘訣なのかもしれない。 しかし、バイトか。なかなか答えづらい質問なのよね。まさか人を殺した弱みを握られて悪の組織の傀儡として人殺して回ってますなんて白昼堂々いえるわけもないし。まあ、そこら辺についてはほどほどにぼかして言うしかない、か。 「ちょっと縁があってね。ほかのバイトよりも給料が良かったから、近所で働くより遠くてもまあいっかなって」 「へえ~、そんなに割のいい仕事なんですか?」 「ここだけの話、かなりいいわよ。ただ守秘義務がいっぱいあるからそこらへんは気を付けないと駄目ね」 「なるほど~。じゃあ業務内容とかもいえなかったり?」 「そうねえ、あんまり詳しいことは言えないかも。ただ一応分類としては人助け、ではあるのかしら」 助けてる相手が昨今のデジモン犯罪の元凶のデジモンイレイザーであったり、非道な人体実験を繰り返す悪の組織であったりするのはご愛嬌…ではすまされないでしょうね。まあ人殺しの私が言えた話でもないのだけど。 「それじゃあ、今度は私から聞いちゃおうかしら。どうして龍崎さんはこのお仕事を?」 「ええっと、私も縁があって、って感じです」 「あら、真似されちゃった」 「ふふ、真似しちゃいました。でも、本当にそんな感じなんですよ。いろいろあってすぐにでもお仕事探さなきゃいけない状態になっちゃって、そこで手を差し伸べてくれたのがマーヴィンさんだったんです。それで、ここで働かせてもらえることになりました」 「……いい人ね、マーヴィンさん」 「はい……本当に」 ……気のせいかしら。龍崎さんがどこか憂いを帯びた顔をしたような…… ───カランカラン 「──ぁ、いらっしゃいませー!」 「あら、いっちゃった」 まあ、そもそも誰もいないから雑談していただけな以上、お客さんが来たらそっちに専念するのは道理なのだけど。 しかし、あの表情。可愛らしい笑顔ばかりの子だと思ってたけど、あんな顔もするのなら客と店員の関係を超えて仲良くなれるかもしれない……と思うのは少々飛躍しすぎかしら? (……そのあたりもおいおいもっと仲良くなってから考えればいいか) さくり、とサービスでいただいた食パンをかじる。硬すぎず柔らか過ぎずの絶妙な塩梅なのは流石というべきか。 コーヒーの強い苦みを舌で感じつつ、腕時計で時間を確認する。16時を半分回るかどうかといったところで、まだまだ件のバイトの時間には程遠かった。予定通り、大学の宿題を進めることにしよう。裏の顔がどれだけ忙しかろうと、表の顔をおろそかにするわけにはいかないのだから。 ここは喫茶「Empatia」。観光地の喧噪から離れた穏やかな場所。皆さんもオノゴロ市を訪れることがあれば一度覗いてはみませんか?