CREDO QUIA ABSURDUM  3,セイレーン [1]  チャルノ川へ面した古い倉庫街を照らすのは、月の光と、水面に反射したその破片だけだった。湿度の高い夜の闇には埃と黴、そして海から上ってきた微かな潮の香りが混ざっている。とぷり、とぷりと護岸に打ちつける音は、巨大な両生類が唾液の溜まった口を開け閉めするかのようだった。  暗幕のように分厚い夜のしじまを震わせたのは、水平二気筒のドロドロとしたエンジン音と男たちの甲高い声だった。サイドカーつきのモーターサイクルたちが、微睡んでいた闇の精霊たちを蹴散らしていく。  若者たちだった。十人以上いたが、一番年かさの者でも、おそらく二十歳は超えていないだろう。皆一様に油紋が浮いたようなギラついた目をしていた。それは、興奮に濡れたものだった。  勝手に占拠している馴染みの廃倉庫前に車を停めると、エンジンキーを回す暇さえ惜しむように中へ駆け込んだ。壊れかけた電球が一斉に灯ると、抜けた天井から注いでいた月光をかき消した。  男たちは下品に笑いながら、材木を組み合わせただけの粗末な机の上に今日の収穫物《・・・》を積み上げる。 「これ一つで二万エレクト(日本円で約六十万円)は稼げるぞ……!」  山積みになったズタ袋の中に入っていたのは、煤のような色をした細かい枯れ草だった。独特な臭いがするそれは幻覚剤の材料に使われる一種である。 「伯父貴の言った通りだ! アイツら、こんなに隠し持っているなんて……!」  男たちはつい一時間ほど前まで、ヴィネダ郊外まで遠征に出ていた。目的地は、中央アメリカ系移民のコロニーである。  幻覚剤を含む強力な向精神薬の類は、ルギニア国内でも当然規制されている。一方で、魔術目的での所持と利用については文化保護などの観点から規制が緩和されており、それは、この国が「魔術師たちのカナン」などと揶揄される要因の一つでもあった。  男たちが狙ったのは、そうした規制から見逃された一団だった。クスリを譲り受けた方法については言うまでもない。 「オイ、ヨシフ!」狂乱に熱っした空気に水を差したのは、倉庫の前で見張り番をしていた男だった。ヨシフとは、どうやらリーダー格の男の名らしい。「変なヤツがいたぞ」  見張り番が乱暴に突き出してきたのは、みすぼらしい少年だった。背丈はそれなりにあるが、顔立ちの幼さから見て十五、六歳ほどだろう。灰色がかった乱雑な髪に、擦り切れそうなほどにくたびれたミリタリーパーカーを羽織っている。  歓楽的な雰囲気が一転した。男たちは一様に押し黙ると、懐に隠していた凶器を弄《まさぐ》った。滲み出す怒気には、地鳴りのような低い音を幻聴させる凄みがあった。だがそれは、張り詰める緊張感の裏返しでもあった。  ヨシフが無言で立ち上がった。長い脚が机に当たり、空虚な音がこだまする。カタギの人間ならば、今の音だけで竦みあがっただろう。  だが、少年は肩を震わせることもなかった。 「武器は持っていないみたいだ」  見張り番が、少年の身体中を手のひらで叩きながら言った。 「こんな時間に何してるんだ、ボウズ?」  大して歳も変わらないだろうに、ヨシフは少年を値踏みするような目で見た。 「迷い込んだのか、俺達の仲間になりたいのか、それとも──」少年の前髪を鷲掴み、ぐじゃぐしゃと頭皮ごと指圧する。「──だれかから指示されたのか」  リーダーの言葉に、男たちの緊張が一段と張り詰めた。だがそれとは対象的に、当事者である少年の表情に変わりはない。生気の抜けた瞳で、しかし針のように鋭い視線で眼の前のギャングを見据えている。 「大したタマだ。……いや、もしかしてクスリでもキメてるのか?」ヨシフは身を屈めると、少年の視線に真正面から受けて立って、言った。「にしても……ムカつく目つきだな」  瞬間、稲妻のような音が周囲を奔った。  ギャングたちは、ヨシフが平手を打った音だと思った。ヨシフはそういう男であることを彼らは知っていた。  しかし──態勢を崩したのは、ヨシフだった。  硬い地面に両膝をつき、そのまま少年の靴を舐めるように倒れ伏したのだ。 「…………!」  男たちは、リーダーと少年を交互に見比べた。確かに、倒れているのはヨシフだ。少年は未だ微動だにしない。ただ、哀れみに似た視線を地へ向けている。 「魔術師だ……!」  誰かの言葉で、男たちは散り散りに走りだした。廃倉庫の壁は虫に食われた布のように穴だらけで、どこからでも出ることができた。  後ろでまた雷鳴が響いた。少年の背後に居た倉庫番が倒れた音だった。  逃げる男たちには、どうすることもできなかった。 「クソ! アイツらが護衛を雇っていたなんて聞いてないぞ!」  一人が叫んだ。誰に言うわけではなかったが、闇の中で自分とともに走っているであろう仲間へ向かって。 「いや、だったら襲ったときになんで出てこなかったんだ!? もしかしてほかの組の奴らが嗅ぎつけて……!」  またしても雷鳴が二度。さらに続けざまに何度か轟いた。男たちの脳裏に焼き付いたリーダーの姿が、否応なく蘇ってくる。 「クソ、クソ、クソ! まさか伯父貴が裏切って──」  雷鳴。そして人が倒れる音。  断末魔を上げる暇もなく、一人、また一人と狩られていく。  夜の倉庫街は暗い森のようだった。街まで遠く、闇と危険に満ちた森。男たちは己を、この森に住む獣だと思っていた。残忍で精気に満ちた野生の獣《けだもの》だと。  だが森には、上位捕食者が居るものだ。  少年の皮を被った狼だ。 「こっちから迎え撃つ! ぶっ殺してやる!!」  闇の中で数人が足を止めた。この野太い声は副リーダーのサムイルの声だ。確かヤツは拳銃を持っていた。  各々取り出した肉厚なナイフの刃が、鈍く光った。  倉庫街には木造の小屋が不揃いに立ち並び、積み上がった荷物の山も多い。隠れることのできる死角はいくらでもある。  月明かりの下、サムイル筆頭に四人が小屋の角や荷山の後ろに隠れた。  一際大きい雷鳴が聞こえた。  近い。  男たちが固唾を呑むなかで、少年は現れた。警戒する素振りもなく、わずかに早足でやってくる。右手には麻袋。だれかがどさくさに紛れて持ち去ろうとした薬物を回収したのだろう。 ──やはり、目的はあのクスリか。  男たちは「美味い話」を持ち込んできた彼らのボスを恨んだ。  その時、少年は不意に左手を振るった。轟音とともに、手元から光が迸った。建物の角で待ち構えていた一人が倒れ伏すのが分かった。  比喩ではなく、あの音は本当に雷鳴だったのだ。一瞬で空間を駆け抜ける電撃──それがあの少年の魔術か。  いや、問題はそんなことではない。  男たちの頭が冷えていく。 ──なぜ、隠れているのが分かった? 「あああああああああ──!」  ヤケクソになった一人が、少年に背後から迫った。しかし、少年は一瞥をくれることもなく、ただ先程と同様に左手を振るうだけでそれをいなした。  雷鳴。男が倒れ、ナイフが地を滑っていく。  それを見たサムイルは、強烈な悪寒に震えた。いくつかの修羅場をくぐってきた彼には分かる。これは、誰かの視線に晒された時に感じるものだ。 「どこかに少年《そいつ》のグルが居る! どこかから俺達を監視していて──」サムイルは脳天に、血液が集中するような凝り《・・》を感じた「上だ……!」  叫びながら、夜空を仰いだ。星と地上のあいだに銃を撃った。  しかし──何も居ない。闇の中へ銃声が吸い込まれていく。何かが逃げていくそぶりはない。いや、そんなはずはない。この視線は、明らかに──。  青白い月が目玉のように思えて、気味が悪くなった。 「は──」  視線を戻すと、眼の前に少年が居た。  周りには男たちが倒れている。もう、自分しか残っていなかった。  銃声が響くより早く、雷鳴が轟いた。 ────。 「これで全員か」  倒れた男の手から銃を抜き取ると、少年は呟いた。独り言──ではなかった。 「周りには誰も居ないわ」  少年の耳元で、女の声がした。だが、倒れ伏す男たち以外に姿は無い。 「モノを回収して終わりましょう。……お疲れ様」  少年は小さく頷くと、男たちに背を向け闇へ消えていった。 †  ミハウ・クラウチクは、眉間に寄った皺を隠すように眼鏡の位置を直した。レンズの定位置に収まった青い瞳には、炎に似た怒気が滲んでいる。スクエア型の銀縁が、厳格な顔の印象をいっそう強調していた。 「周辺に十三名、いずれも焼死ですね」  駆け寄ってきた男が、耳打つように報告した。その袖に縫いつけられた国章の下には、ラテン文字で「POLICJA《警察》」の文字。 「銃を撃った形跡があります。……被害者のもの、ですが。それに──」検察官は現場をもう一度振り返りながら言い淀むと、言葉を絞り出した。「やはり、火災の痕跡は見当たりませんでした。あるのは、焼死体だけです」 「つまり、魔術師による犯行ですね」  捜査官は、若い上司の言葉を苦い顔で肯定した。 「今月に入って、何件目ですか……」  ため息を吐きながら、ヴィネダ中央署のクラウチク刑事は細い目で現場を見渡した。 ──ヴィネダ第十三東港湾区。  歴史的湊町であるヴィネダからチャルノ川を挟んで対岸、十一番以降の区域は通称「ノヴァ・ヴィネダ」と呼ばれ、二〇世紀中盤から後半に開発が進んだ、その名の通り新しい区域である。  チャルノ川河口域は深い川底から大型貨物船の運用に適し、開発当時の潮流もあって工業港、商業港として発展。円熟期に入ったとされる現在も、拡大と発展を続けている。