#1 ヲタクたるもの弁えることは重要です。イエスウマ娘ちゃんノータッチ、これは絶対!  我々は日夜推しを見守り、解釈の談義に花を咲かせ、時に矛を交え、そして……こういうイベントの機会には、ありったけの尊みをかき集め推しを探しに行くのです!  今回のオンリーイベは特に大規模なものですから、自然と気合いも入ろうというもの。  そんな訳でトレーナーさんに無理を言って今日はオフにしてもらいました! 新刊を先に送っておいて、あたしは電車で会場入りです! 後に待っているウマ娘ちゃんを考えれば、この位の満員電車なんか平気へっちゃら!  さぁ今の内にサークルの配置図をチェックしましょう、むっこの人の葦毛合同は要チェック……っていう時のことです。 「……?」  ――最初は何かの間違いだろうと思いました。うっかりぶつかったか何かだろうなーと。  あたしのお尻……ごめんなさいこの期に及んで日和りました。その、えっと……お股に何か当たってるんですよ。結構ガッツリ目に。 「っ!」  正直何が起こってるか分かりませんでした。  でも、もぞ、と動く感じがどう考えたって揺れのせいじゃなくて。なんなら生暖かくて、それが余計に気持ち悪くて。でも常識的に考えて人違いか何かでしょう? いやだってこんなのですよ? あり得ないでしょ。  でもあたしが頭真っ白にしてる間にも、手はとまってくれませんでした。  後から考えればあたしの方がよっぽど力が強いはずなんですけど、でも身体は金縛りにあったみたいに動かなくて。手がスカートの中に入ってきても、振り向くことも出来ませんでした。  そりゃ、男の人にそういうのが居るのは知ってます。その手の無理矢理どうこうみたいな本だっていくらでも読みました。けど、いざ向けられてみると、怖くて、怖……くて。ひっ、ぐすっ……。  ……。はい、落ち着きました。抱きしめてくれてありがとうございます。  すみません、いきなりこんな重たいこと聞かせちゃって。でもどうしていいかわからなくて、不安で、トレーナーさんにどうしても聞いてほしくて。  え、警察!? い、いえ、その。そうすべきなのは分かるんですけど~……今のをトレーナーさん以外に聞かせるのはちょっ……と、嫌です。ええ。ごめんなさい面倒臭くて。ちょっと何がしたいかわかんないですよね。あたしも分かりません。  ……ぁ。  ……あんなに怖かったのに、トレーナーさんは不思議と怖くないんです。こうやって抱きしめられるとこんなに安心する。本当に、ありがとうございます。  明日には、きっと元に戻りますから。今は……ちょっとだけ……。 ◆  ――完全な出来心だった。  レースと趣味を両立させるデジタルが、珍しく休みを取りたいと言い出したので、空いた時間に遠出でもするかと電車に乗り――無防備な「オフ」の彼女を見た。小柄な体躯に似合う、少し幼い出で立ちで、短いスカートを履いて。  彼女が耳年増ではあっても、実際に自分が性欲を向けられる立場にあることは理解していないのは知っていた。トレーナー室で当然のように着替えようとするから、脳の奥でグツグツと煮えたぎるそれを押さえるのに苦労していた。  グイグイ来る男に弱いのも知っていた。恐らくいざ欲望を突きつけられたら、委縮して何もできなくなるだろうことも。それをやったら……いや、やったのが知れたら、二度と元の関係には戻れないだろうことも。  なんであんなことをやったのか。知ったことではない。欲望が理屈で推し量れるものか。  少なくとも俺は言い訳のしようもなく犯罪者で、けれど、俺の手に怯えて体を硬直させる愛バと、指先から伝わってくる感触は、そんなものを軽く吹き飛ばすに足るものだった。  その愛バが、よりによって自分に相談を持ち掛けてきた。  あの時の感覚が残った手で、怖がる愛バに常識を嘯き抱きしめた。今思うと、果たしてどうやって勃起を隠したんだったか。  ――次のイベントは来月だと言っていたな。  俺は彼女に提出してもらっているスケジュールを確認すると、無意識に緩む頬を苦心して元に戻し、愛バのトレーニングを監督しに戻った。 #2  あたしが電車で痴漢に遭ってから、今日で一か月。今日のイベントへは電車で行きます。トレーナーさんはタクシー使ってもいいぞって言ってくれましたけど、流石に距離がありますから、  あの時はトレーナーさんに慰めてもらって、その日は一晩一緒にいてもらいました。  一緒に寝ましたけど、いかがわしいことはされてません。……こんな註釈付けちゃうのが、あたしが致命的に変えられちゃったみたいで嫌です。  トレーナーさんがそんなことするハズない。  もう3年目ですよ。今の今まで心の底から信じてて、トレーナーさんはその時から何も変わってない。信じられなくなったのはあたしの方。どうしちゃったんでしょうねあたしは。  あーもう! 鬱展開が映えるのはカワイイウマ娘ちゃんだけです! あたしがいつまでも悲劇のヒロインぶっててどうすんですか! ま、まあトレーナーさんが何かと気を使ってくれるのは正直嬉しかったです……はい。  ええ、今思えば、あたしは何も分かってなかった。 「ひッ!」  悲鳴って自然と湧いて来るものなんですね。知りたくなかったです。  おずおず乗った電車の中で、お股に何か……手が当たった瞬間、"前"の時のが一気にフラッシュバックしました。 「……っ、っ!!」  多分真っ青な、ひどい顔してたと思います。怖くて、泣きそうで、でも声が出なくて、ピクリとも身体が動かない。  その間にも、容赦なくスカートの中の手は動いてて。            ・  お尻を触るどころか、前の方にまで手が来て。それでも歯を食いしばって耐えて、必死に「早く終わって」と願うことしかできなくて。  多分1分も無かったと思います。ひとしきり弄られた後、一回手が引いて行きました。 (ぁ。終わった……?)  ホッとしようとして――後悔しました。 「~~ッ!!?」  手がパンツの中に入ってきた。  素肌に触れる感覚で否応なくそれを分からされて、背筋を嫌なものが駆け上がっていきます。  それより先は、もう自分に言い訳ができません。何かの間違いだって、自分を納得させるのが無理になります。下手したら、入ってきちゃうかも……思考はどんどん最悪の状況を頭の中に描いて行って。  ああ、もう駄目だ。   そう思った時、電車がトンネルに入って、眼前のドアの硝子が鏡みたいに反射しました。  ――見なきゃよかった。  当然、光の加減で、あたしの真後ろ……今、あたしを触っている人が写ります。  ――どうして。  満員電車でしたが、そのヒトは際立って見えました。  ――トレーナー、さん? #3 あんなに楽しみにしてたイベントなのに、全然覚えてません。 トレセンに戻ってからも、頭の中はぐちゃぐちゃのままで。 あの時思わず目をそらしてしまったので、本当のところどうだったか、実は分かりません。 でも、マスクと眼鏡でお顔を隠したその人を見て、どうしてかトレーナーさんを直感し―― そんなはずない。そんなはずない。そんなはずない! トレーナーさんはあんなことしない。 トレーナーさんはあんなことしない。 あたしの頭の中では、そればっかりぐるぐる回ってました。 当然、トレーニングに身が入る訳なくて。その度トレーナーさんに心配そうに声をかけられて。 そうですよ、きっと見間違いに決まってます。だってトレーナーさんはこんなに優しく…… 「大丈夫か? ほらスポドリ――」 「ヒッ!」 でも、手を差し出された時、あの時の犯人とトレーナーさんが重なってしまって。思わずその場を逃げ出しました。 最低です、私は。きっと似ているだけなのに、こんな……っ。 「……っ、おえ゛っ、ぐ、う゛ぇ……っ」  たまらず寮のトイレで吐いてるのを同室のタキオンさんに見られて、その話を聞いたドトウさんとオペラオーさんがトレーナー室に怒鳴り込んだらしく。  翌日トレーナーさんから「話しておきたいことがある」と呼び出されました。俺に話せないようなことなら保健室や、親御さんでも構わない、とも。  ……言える訳ない。言えるとしたら。  いつも防波堤になってくれて、グイグイくるマスコミや男の人を追い返してくれてたトレーナーさんしか。    トレーナーさんの部屋は、散らかり放題のトレーナー室と違ってひどくこざっぱりしてました。  生まれて初めての異性の部屋ですが、少なくともこの時は何とも思ってませんでした。とにかくこの不安を何とかしたくて、でも聞きたくないような気もして。ほとんど、何も考えられない所まで来てたんだと思います。  ワンルームに、ベッドと机。PCと、ファイルやらスポーツ科学の本が満載されている本棚。なんていうか、無趣味な人って感じがして……意外でした。  トレーナー室や仕事場にグッズを全く持ってこない人でしたから、てっきりもっとこう、家には推しのウマ娘ちゃんグッズが山積みになってるものかと。  いや、ある意味それは正しかったです。  置かれているのは、あたしのトロフィーと、額に入った没になった方の勝負服。あたしの反対を押し切って作られてしまった、あたしがデカデカと写っているURAの広報ポスター。  あたしのぬいぐるみ。あたしのフィギュア。あたしの、あたしの、あたしの――  いつだったか、自分の推しはデジタルだ、と。そう言っていたのを思い出しました。  あの時は、あたしを喜ばせるために言ってくれたんだと思っていたけど……きっとそれは、本当のことだった。  だから、あたしをこんなに強くしてくれて、あたしの趣味についてきてくれたんだ。  あ、あれ。でも、おかしいな。  こんなに考えてくれてるのが、嬉しいはずなのに。  なんで、あたし今、"怖い"と思――  その時。  背後で鍵の締まる音を聞きました。 #4  トレーナーさんの部屋は、散らかり放題のトレーナー室と違ってひどくこざっぱりしてました。  生まれて初めての異性の部屋ですが、少なくともこの時は何とも思ってませんでした。とにかくこの不安を何とかしたくて、でも聞きたくないような気もして。ほとんど、何も考えられない所まで来てたんだと思います。  ワンルームに、ベッドと机。PCと、ファイルやらスポーツ科学の本が満載されている本棚。なんていうか、無趣味な人って感じがして……意外でした。  トレーナー室や仕事場にグッズを全く持ってこない人でしたから、てっきりもっとこう、家には推しのウマ娘ちゃんグッズが山積みになってるものかと。  いや、ある意味それは正しかったです。  置かれているのは、あたしのトロフィーと、額に入った没になった方の勝負服。あたしの反対を押し切って作られてしまった、あたしがデカデカと写っているURAの広報ポスター。  あたしのぬいぐるみ。あたしのフィギュア。あたしの、あたしの、あたしの――  いつだったか、自分の推しはデジタルだ、と。そう言っていたのを思い出しました。  あの時は、あたしを喜ばせるために言ってくれたんだと思っていたけど……きっとそれは、本当のことだった。  だから、あたしをこんなに強くしてくれて、あたしの趣味についてきてくれたんだ。  あ、あれ。でも、おかしいな。  こんなに考えてくれてるのが、嬉しいはずなのに。  なんで、あたし今、"怖い"と思――  その時。  背後で鍵の締まる音を聞きました。