5/2/2021 パソコンの画面と睨み合いをしていると、唐突に頭を誰かに触られた。 振り返ってみると、我が愛バがいつものように少々の狂気を孕んだ微笑みを浮かべているのがわかって、少し身構える。 「…何か付けた?」 「流石の私も少々傷つくよ、その反応は。 何も付けてなどいないさ。ただ触れただけだよ」 いつもの実験のときの笑みを浮かべてくつくつと笑っているほうが悪い所もあると思うのだが。かわいらしいスキンシップと言うには、かなり含みのある表情だった。 「触れた、というのは少々語弊があったかな。撫でた、というのが正しい」 撫でる。頭を。彼女が。 普段の彼女とは幾分かけ離れた行為に、脳が文節でしか情報を処理できなくなってしまったが、それはそれ。 「何でまた」 「最近、私が感情の働きに着目しているのは知っているだろう?身近な行為で強く感情を惹起するものとして思い当たったのがそれさ。 撫でるという行為には色々な意味合いがある。人間同士で行うものは言うに及ばず、ペットに対して報酬の意味合いで頭を撫でることもある。 撫でる刺激を特に伝達する神経線維があるという学説もあってね、実際にマウスでは存在が確認されているそうだよ」 滔々と語り出す彼女に椅子を引いてくると、マグカップを片手に此方の前に寄ってくる。こうなると長くなることも珍しくないが、愉しそうに話す彼女に付き合う時間は好きなので、紅茶を淹れる手付きも自然と調子が良くなる。 「ただ、撫でるという行為への理論的説明としてはまだ半分だ。確かに撫でる刺激をよく伝える神経があるとすれば、撫でることで特別に感情が変化するということにも納得がいく。 ただ、神経の刺激だけが本態であるなら、同じ刺激を与えさえすれば誰がやっても同じような結果になるはずだ。同じ力で叩かれれば、誰に叩かれようと同様に痛いようにね。 それが撫でることに当てはまらないのは容易に想像がつくだろう」 確かにそうではある。親や慕っている相手に撫でられるのと、大嫌いな相手に撫でられるのではまるで気分が違う。彼女の言わんとしていることはなんとなく想像がついた。 ただ、実験としては一点問題があるような気がする。 「あれは撫でるとは言わないと思うよ」 いいところが頭を触る悪戯だろう。そう言うと、彼女は幾分ご機嫌を損ねたようだった。拗ねた声色で、モルモットに命令が飛ぶ。 「なら、君が手本を見せてくれたまえ」 少々困ったことになった。今の状況で手本を見せろ、ということは、私が彼女の頭を撫でる、ということになる。 最後に人の頭を撫でたのはいつだったっけ。下に弟妹はいないから、はっきりと記憶に残っているようなものではない。 「はーやーくー。それとも、私にはできないのかい?」 ままよ。椅子の上で少し屈んだ彼女の頭に、そっと手を伸ばした。 「んっ…」 ゆっくりと、彼女の頭を撫でてゆく。 指の間に髪が通ると、栗色の毛先がするりと抜けていって心地いい。研究に没頭するあまり頓着がない印象があったが、不意にわかった女の子らしさに、少しどきりとする。 「どう、だった?」 目を閉じていたタキオンが感想を述べるまでには、多少の間があった。 「…私もあまりない体験だったからね。ちょっととまどってしまったよ。 …ただ、悪くはなかった」 いつになくしおらしい彼女の様子に、なにかむずむずとさせられる。 「他にもやってほしいのがあるんだが」 手を離そうとすると、すかさず手首を捕まえられる。 「犬や猫にやる撫で方があるだろう?顔の横に手をやってさするのが。 …あれも、やってほしい」 それはちょっと、と言おうとしたときには、既に彼女の頬に手を近づけられていた。 「…ふ、ぅ…」 猫にやるように、頬に手を添えて指で下顎を掻く。 解ってはいたが、かなり破壊力のある絵面だった。彼女の整った顔に、少しうっとりとしたように紅みが差している。目を細めて、触れている方の手に首を傾けながらため息をつかれると、少しずつ、ただ確実に心臓の鼓動が速くなっているのがわかった。 「もう、いいかな」 手を離そうとすると、彼女の左手が柔らかく手の甲を包んだ。そのまま、もう一度彼女の頬に連れ戻される。 特別な間柄の男女がするようなその仕草を見て、心臓の鼓動が俄にうるさくなる。彼女にばれる前に、落ち着いてくれるといいのだが。 「まだだよ、モルモットくん。 …もう少し、こうしていてくれ」 甘えた声を出す彼女に、釘付けになってしまっている自分がいる。 触れ合った掌から、お互いの心まで掴めてしまうような気がした。 5/3/2021 「運動学習、というものを知っているかな?モルモットくん」 物々しい字画の言葉が彼女の口から出るのは、自分たちにとって一種の合図である。 「まあ、学生の頃に聞き齧った覚えはあるけどね…座る?」 「ああ、すまないね…では神経生理学の復習といこうじゃないか」 棚の奥からクッキーを出して紅茶を注ぐ。 本日の実験の講義は図の講釈から始まるようだ。彼女は近くにあった紙を取って絵を描き始めた。 「スポーツに携わる者なら覚えがあるだろうけれど、そうでなくても日常生活で繰り返してきた動作は、それを行うときに一々頭を使いはしない。暫くその動作をしていなくても、ある程度繰り返せば感覚が蘇る。習いたての頃は手本を見ながら書き順を意識して書いていた漢字が、慣れれば考えなくても目を瞑りながら書けるようになる。 所謂身体が覚えている、という経験は誰にでもあることだよ。それがスポーツの分野でなくとも」 競技の初心者は、基本の動作を逐一意識し、次に何をするかを考えながら練習をする。しかし、それを積み重ねるうちに考えなくても一連の動作をスムーズに行うことができる。 練習の完成形だ。トレーナーはそれを目指して選手をコーチングする。 彼女がペンを離すと、紙には脳と脊髄の図が描かれていた。 「人間の記憶は大脳皮質と海馬によって形成される。しかし、海馬が作る記憶は陳述記憶といって、内容を言葉にして説明できる類のものだ。 今きみに話している脳科学の知識や、今朝食べた食事のメニューが思い出せるかどうか、などといったことがこれにあたる」 「わかるよ。ちなみに今日の朝はどうだった?」 「イングリッシュ・ブレックファストはすっかりものにしたようだね、あとはサラダの量を少し増やしてくれたまえ…むぅ、講義の途中だよ?からかうのは感心しないな。 しかし先程述べたような運動の手順の記憶はこれらとは異なる」 脳の下側を指していたペンが、後側に付いている塊にスライドした。 「運動学習に大きく寄与しているのは、大脳ではなく小脳なのさ。ここにダメージを受けた患者は、物を触ろうとしてもそれにうまく手を伸ばせなくなるし、目を瞑ると真っ直ぐ歩けなくなる。 小脳のプルキンエ細胞の樹状突起を見たことがあるかい?あれは見事なものだよ、全身の神経細胞の中でももっとも高度に発達したネットワークを持っているのだからね」 「なら、今回はあの装置で小脳を刺激する実験?」 指差した先には、数日前からトレーナー室に置かれていた見慣れない器具がある。正確に言えば、2つのうち1つが見慣れない器具だが。 1つはよく見るものだった。彼女が時折使うVRヘッドギアとそのゴーグルである。しかし、その下に畳まれている黒い布のようなものは初めて見る代物だった。 「察しがいいねぇ。ただ、これは直接小脳に電流を流したりするようなものではない」 席を立った彼女は、畳んでいたものを広げてみせた。出てきたのは、ダイバーが着るぴっちりとした潜水服のような見た目のボディスーツだった。 「このスーツは、皮膚に微弱な電流を流すことで全身の感覚を脳に直接入力する装置だよ。例えば、脚の感覚神経の伝導路を刺激すれば、実際には走っていないのに地面を踏みしめる感覚や筋肉の張りが味わえる」 「それをどう使うんだ?」 「小脳が記憶するのは何も運動の手順だけではないよ。何度も行った手続きの内容は、全て小脳の働きによって記憶される。 プロの棋士が指し手を導くときに使うのも小脳だと言われている。きっと、ウマ娘たちが無意識に行っているレースのペース配分もね」 なんとなく想像がついた。これを使えば、精巧なレースのシミュレーションができるということだろうか。 「これを使って、コンピューターで計算した理想の走り方をウマ娘に繰り返し体験させ、その感覚情報を小脳にフィードバックする。 何度か繰り返せば、実際に走ったときの走法も先ほどの原理で改善されていくはずさ。 イメージをつかむというのが重要なのは私もよく承知している。君たちが言葉を尽くして説明していたことを、文字通り頭と体に直接叩き込めるというわけだね」 主旨はわかった。では早速試そうとスーツに手を伸ばしたところ、彼女に遮られた。 「ああ、すまないね。ここまで説明しておいてなんだが、今回の被験者は君ではないよ。 さっきも言ったように、これは普段からレースを走る選手が実際の感覚と一致させてこそ意味がある実験なんだ」 そう聞かされて手を下ろしたが、少しだけ落胆していた。ウマ娘の走っている感覚を体験できれば、タキオンとのトレーニングにも活かせると思ったのだが。 「くく、そうがっかりすることはないよ。そのうち君にも被ってもらうことになるだろうからね。 ただ、今回はひとり志願者がいるんだ」 驚愕を隠せなかった。今や学園中にその名が知れ渡っている実験狂いの彼女に、自分の他に自ら志願して協力する者がいるなんて。 誰かと聞くと、聞き覚えのある名前が出てきた。最近たまにアドバイスをしている、新入生のウマ娘だった。 「大丈夫?安全性とか…ちゃんと実験の内容は説明した?」 「安心したまえ、危ない実験とサプライズは君にしかやらないと決めているんだ…流石に新入生の身に何かあったら言い訳がつかないからね、安全性の担保されたものを使っているよ」 それならいいが、万が一のことは考えておこうと心に決めた。それにしても、どうして彼女とそんな話の流れになったのだろう。 「ああ、そんなことか。そもそも彼女は、君が私の担当だったから声をかけたと言っていたよ。ならば、私が直接手助けをするのもそう不自然なことではないだろう?」 「それもそうだけど…いつものタキオンなら、研究の時間が削られるとか言って相談とかは受けないと思ってたから」 「その研究に役立つなら話は別だよ。協力者が増えるなら、私も多少の手間は惜しまないさ…ああ、もういい時間だね」 時計を見た彼女は、背伸びをして部屋から出ようとしていた。両手に例のヘッドギアとスーツを持って。 「出掛けるの?」 「ああ、そろそろ件の彼女と約束していた時間なんだ。 夕方には戻るよ。夕食はいつも通り用意しておいてくれたまえ」 扉の前の彼女に、最後に1つだけ質問をした。 「自分でこれ、使ってみた?」 「…ああ、いつも走っている感覚と殆ど変わらなかったよ」 独り残された部屋で、改めて彼女の素質に舌を巻く。普段の走りとシミュレーションの走りが殆ど変わらないということは、彼女の走り方は理想のそれに極めて近いということに他ならない。 惚れ直した、と言っては大袈裟だが、やはり彼女は凄い。それがわかっただけでも、今日は実りのある日だった。 彼に言っていないことが2つほどある。 1つは、この装置は設定を少しいじれば予め用意した視覚映像を直接脳に流し込むこともできるということ。 今、ベッドに横たわっている彼女には、私が予め計算したフォームで走ったときの景色の変化を見せている。これは彼に説明した通りのものだ。 但し、それだけではないが。 実験を終えて、彼女は随分といいインスピレーションを得たようだ。 いや、それは何より。フォームの映像をそれだけ良く体験できたということは、もう1つの映像もしっかり頭に入っていることだろう。 君がモルモットくんに声をかけたのは、最近頓に結果を出している選手の担当だったから、というだけではないだろう? 少々おいたが過ぎるね。 君が彼に会うときだけアクセサリーと香水を変えていたり、制服を着崩して胸元を強調したりしているのに、私が気づかないとでも思っていたのかい? まあ、あれをきちんと見たなら、今後はそのようなこともなくなるだろう。 洗脳だって?人聞きの悪い。 まあ、教育というものは大なり小なり洗脳の要素を含むものではあるけれど。 「いや、礼を言うのはこちらの方だよ。君の協力で私も貴重なデータが取れた。 それはそうと、私とモルモットくんの間柄についてはどう思う?」 「ハイ…タキオンサントトレーナーサンハアイショウピッタリダトオモイマス…ウレシイナア…」 サブリミナル映像はよく効いているようだ。フォルダの中に数多ある彼との写真から厳選したものを見せたのだから、当然のことだが。 「わかってくれて嬉しいよ、引き続き実験への協力もよろしく」 この装置の開発はほぼ成功したと言っていいだろう。これがあれば、走る回数を抑えても感覚を鈍らせずに済む。脚への負担も軽減できるだろう。 彼に言っていないもう1つのことだ。言う必要もないが。 今は、少しでも長く走っていたいからね。君が思うよりきっと、私には君が必要なんだから。 だから、ちゃんとそばにいてね。 私のモルモットくん。