息が詰まりそうになる。 彼女とのキスは、いつも窒息しそうになるほど長い。一度唇を重ねるとなかなか離してくれないからだが、離れるように此方から促すことはしない。 お互いに息が続かなくなるくらい触れ合って、漸く離れる。彼女の腰にやっていた手を離すと、すぐに彼女の掌が重なって、やわらかな胸の双丘へと着地させられる。 「大丈夫、大丈夫だから…」 急ぐ彼女を宥めるように、栗色の髪にそっと指を絡める。 これも長くは続くまい。じきにきっといつものように、意識を手放すまでお互いの身体を貪る時間が始まるのだろう。 軋む心から目を背けるように、彼女から求められるまま肌を重ねる。こんな日々が、ずっと続いていた。 駆け抜けるような3年間だった。 彼女と出逢い、その走りに魅入られ、専属トレーナー、即ち彼女のモルモットになって、彼女の実験と我儘で日常をかき回されるようになってから、一日が過ぎてゆくのがひどく早くなったと思う。 「ほら、早く作っておくれよー。食事が終わったら、お茶とマッサージの時間だってあるのだからね」 自分のためのものよりも、彼女に料理を作る回数のほうが多くなるのも、あまり時間はかからなかった。弁当ではなくできたてを食べたいという彼女の希望で、一緒に食卓を囲むようになったのは、いつからだったっけ。 「はいはい、もうできるよ」 そんなことを思いながら一緒のごはんを食べて、食後のお茶を囲って談笑する。私服の彼女と過ごす時間も、随分長くなった。 「ベッドまで行くのは面倒なんだ、だから、ここで落ち着かせてくれたまえ」 温かい紅茶を飲んで、少しだけ瞼が重くなってきた頃だった。彼女はそう言って、此方の太腿をぽんぽんと優しく叩いてくる。 此方を信用しているのか、そういう意識がまったくないのか。どちらもありえそうだが、流石に生徒とトレーナーの間だからと二の足を踏む。 「ほら、はーやーくー。私のためならなんでもすると言ったあのときの言葉は、もしかして嘘だったのかい?」 まあ、そんな正論で許してくれるなら、俺は彼女のモルモットになんてならなかっただろうけど。 「誰のせいだろうね。非合理的な計画を簡単に捨てられなくなってしまったのは」 自分の気持ちをはっきりと自覚したのは、そのときだったと思う。それでも、URAファイナルズを終えるまでは努めてそれを表に出さないようにしてきたつもりだった。 数々のG1レースに勝ち、URAファイナルズをも制した彼女は、もはや誰もが認めるスターウマ娘となっていた。 嫌われてはいない、と思う。けれどそんな彼女に、一介のトレーナー風情が釣り合うだろうか。何より彼女が自分に、モルモット以上の関係を望むだろうか。 ただ、そんな真っ当な判断が何の用も為さないほど、彼女への想いは大きくなってしまっていた。ターフを駆ける姿だけではない。彼女といるときにはそんな悩みも忘れてしまっている自分がいる。 ゲートに向かう彼女をいつものように送り出すと、決心がついた。 このレースに勝ったら、言おう。 彼女が受け入れてくれるかはわからないけれど、この気持ちを胸にしまったままにはしたくない。 あのときの自分は、もはやトレーナーではなかったと思う。 勝負の神様はちっぽけな人間の都合なんて聞き入れてはくれないことを、すっかり忘れてしまっていたのだから。 その日、彼女は初めてレースで敗北した。 そのレース以来、彼女は1着を取れなくなってしまった。練習や模擬レースでは常に記録を更新し続けているのに、何故か本番になると勝ちきれない。 以来、彼女は自分が壊れるのも厭わずに過酷な練習をするようになった。皐月賞を終えたあのとき以上に。 彼女を止めたくて、嫌われるのを覚悟で強く叱りもした。けれど彼女は気を悪くするでもなく、走り続けるばかりだった。 「まだ足りないよ。自分の中の不足を埋めずに放っておくのを、私が許すと思うのかい?」 態度こそ変えないが、彼女がどうなっているかは明白だった。無茶をしていたのも計算のうちだったはずの彼女が、はっきりと焦っている。 このままではいけないことはよくわかっていた。けれど、勝てない理由がどうしてもわからない。それは彼女もきっと同じで、だからこそあのような無理をするのだろう。 眠るのも忘れて悩む日々が続くにつれて、昔のことをよく思い出すようになっていく。 あの日の彼女の走りが、目に焼き付いて離れない。 もしあの輝きに、俺が影を差してしまっていたのなら── 「…きちんと説明してくれ」 彼女の表情が険しい理由は明白だった。 原因不明の成績不振と、彼女の過剰なトレーニングを受けて、専属トレーナー契約の延長に学園が難色を示した。 彼等の意見に、俺は異を唱えなかった。 「タキオンの力は、俺が一番よくわかってるつもりだ。才能だけじゃない。それを活かす技術も体の強さも、もう十分持っている筈なんだ」 彼女はそれを幾多のレースで、いやそれより前からずっと、俺に示し続けてくれた。 だからこそ、その輝きがつまらない人間ひとりのためにくすんでしまうなど、あってはならない。 「タキオンは強いんだ…こんなところで終わるような器じゃない。 だから、力が足りないのは俺なんだ。タキオンが勝てないのは、あんな練習をしてしまうのは、俺が不甲斐ないから…!」 彼女を勝たせることこそが、自分にできる最大の贈り物であり、役目のはずなのだ。それに、何より── 大切な人の夢を自分のせいで縛り付けることだけは、どうしても嫌だった。 「きっと、君にはもっと相応しい人がいる。俺なんかよりずっといいトレーナーが、きっと君を元に戻してくれる…! だから、もうこんなことは…!」 「うるさい」 彼女の口からこんな冷たい声が出るなんて、想像もしていなかった。 「私はそんな話を聞きたいんじゃない。 元通りって?君がいないことの、何処が元通りなのさ。 私を置いて、何処に行こうというんだい?」 その日から、彼女は俺の部屋に来なくなった。実験の被検体にしようともしてこなくなった。 練習にも来なくなった。たまに学内で見かけると、あまり顔色がよくない。問い質そうとしても、すぐに避けられてしまっていた。 独りになった部屋で、後悔だけが積み上がっていく。 彼女のためにならないなんて言い訳だ。 怖かったのだ。彼女の足枷になるのが。彼女の才能をくすませてしまうかもしれないという恐怖から逃げるために、聞き分けのいいトレーナーのふりをしたに過ぎない。 誰よりも傷ついているのは彼女なのに。 どうしてあのとき、彼女の手をとってあげられなかったんだろう。どうして最後まで、彼女に付き合わせてほしいと、恥を捨ててでも願わなかったんだろう。 自分の心の弱さに負けて、俺は彼女を裏切った。 一番辛いのは、苦しいのは、彼女だったはずなのに。 本当に苦しいことは、何かに苦しんでいる最中にこそやってくる。全速力で保健室に駆け込む俺を、咎める者は誰もいなかった。 「タキオン!」 今まで口も利いてくれなかった彼女は、どこか憑物の落ちたような表情で、優しく此方に振り向いた。 「やあ。随分と久しいね、モルモットくん」 彼女の脚には、無骨な白いギプスが巻かれていた。 彼女は俺に隠れて練習をしていた。殆ど眠る時間もないほど、練習と研究に時間を費やしていたらしい。 「寮に戻ったのは──」 「そうだよ。君に見つかっていたら、絶対に止められていただろうからね」 涙が止まらなかった。一番してはいけない、取り返しのつかないことをしてしまった。 「ごめん…!俺がちゃんと、あのとき止めなかったから…!」 「やめたら、どうなるんだい? 君は私と、出逢う前の他人同士に戻りたいのかい?私と君を繋いでいるものは、レースだけなんだから。 …それだけは、どうしても嫌だったんだ。 もう私は、探究のためには走っていない。君と離れてしまうのが嫌で、ずっと、怖かった。 …負けるのが怖い。負けて、君と一緒にいられなくなるのが怖い。 やっとわかったんだ。君のことが、こんなにも愛おしいと」 待ち望んでいたはずの愛の告白は、いつから苦しみを吐き出す懺悔になってしまっていたのだろう。 実験が失敗しても、レースに負けても泣かなかった彼女の瞳から、ぽろぽろと涙が溢れ落ちていた。 「ごめんね、モルモットくん。私の脚のために、あんなに尽くしてくれたのに。 全部無駄にした。私が全部、壊してしまった」 「違う…!そこまで君を追い詰めてしまったのは俺だ…! 何でも言ってくれ。俺にできることだったら、なんだってする。だから、もうこれ以上自分を責めないでくれ…!」 彼女は少しだけ迷うように、顔を伏せていた。 そして突然、此方の手を取って自分の胸元に導いた。 「…私を君のものにして、モルモットくん」 その行為の意味がわからないほど、お互いに子供ではない。 「何、を…」 「もう私は走れない。君に夢を見せてあげることももうできない。 でも、君との繋がりがないと、もう私は生きていけないんだ。 君の心までほしいなんて言わないから。 …だから、おねがい。そばにいて。私を、おいていかないで」 君に謝りたい。君のことが誰よりも好きだと、今すぐ言ってしまいたい。 でも今、彼女に想いの丈を伝えても、現実の前で呆気なく崩れ去る気がした。 そんなものは只の自己満足だ。心の内を吐き出して、自分はきちんと伝えたという言い訳にしかならない、そんな気がした。 今更なんと言えば、今の彼女を慰められるというのだろう。 彼女のために生きて、彼女のためだけに死ぬ。 自分の人生は、今きっとそういうものになった。 「大好きだよ、モルモットくん」 今日も、彼女と唇を重ねる。 いつも性急に求めてくる彼女を傷つけたくなくて、少しだけ自制を申し入れることもあった。ただ、そうすると彼女はひどく不安がる。 結局、そんなことがあった次の日からは、むしろ行為の頻度も過激さもエスカレートしていった。 「んうっ…は、ぁっ…!」 もう一度唇を塞いで、少し乱暴なほどに強く胸を揉みしだく。痛いくらいに力を入れているはずなのに、彼女の表情は喜悦に歪んでいた。 服をはだけた柔肌に触れても、彼女の欲求が止まることはなかった。 「もっと…!もっと、して…!」 大丈夫だよ、君しか見えてないから。 あのときから、ずっと。 きっと、神様がもう一度だけチャンスをくれたんだ。どんなに苦しくても、何を失っても、もう君の手を離したりなんかしない。 「…大好きだよ、タキオン」 「うれ、しい…! わたしも、すき…、もるもっと、くん…!」 ああ、もっと、ちゃんと伝えればよかった。 言葉が色褪せる前に。心が届かなくなる前に。 でも、今でも、愛してる。