「一緒に走れたらなあ」 それは、本心から出た言葉であった。 我が愛バ、アグネスタキオンの走りへの情熱たるや凄まじく、中距離部門チャンピオンの座を手にした後も衰えを知らない。 そんな彼女の隣に居て、苦楽を共にした仲である私の気持ちもまた、大きさを増すばかり。 あらゆる形で惜しまず協力を続け、一時は当人からもおかしい奴扱いを受けながら、それでも彼女の走りのそばにあった者として、羨望、憧憬、友情、愛情、様々な感情から出た、そんな一言。 すると、勝負服とはまた別な、きちんとした重たい防護用白衣に身を包んだ彼女の耳が、そんな独り言を聞きつけたような反応を見せる。 「それは、体力が欲しいな、とか、そういう話かね」 薬品棚からこちらに目線を移した彼女の目付きが、僅かに好奇に傾く。 これまでも、私が肩凝り、腰痛、寝不足などを訴えるたびに光らせた、あの目。 じわじわとこちらに近寄っては、その表情を笑顔に寄せていく彼女を宥めるように両手で待ったをかけながら、独り言に次いで話を続ける。 「私さ、タキオンと一緒にターフを駆けたい。並べなくてもいいから、追えるくらいには」 無謀な発言。人の身では耐えられぬ、理外の域への憧れ。 さしものタキオンもすっかり面食らって、その眉をひそめている。それほどの無謀。 VRですら耐え切れないのに、何を。そんな、ただの憧れ。 しかし気付くと、彼女はまた何かを思い出すような目つきをしている。 「健康で丈夫な成人女性である事も、評価していたんだがね」 そう嘯く彼女の手には、いつの間にか一冊の、くたびれたノート。 パラパラとそのノートをめくりながら、彼女はついに、こちらに耳を貸さないモードで喋り始める。 「いや、試すべきものはひとつある。君と出会ってからの3年間、あらゆる研究が非常に進展していたからね。  主に限界域への挑戦とまともな身体になる為の治療・改造の為にやってきた事だが、うちひとつの副産物として私の遺伝情報から抜き出したDNA組み換え型の薬剤がある。具体的には、ウマ娘変身キットさ。  ただ、当然テストはしてないし、する気もないし、使う気もなかったんだ。トレーナー君が今のままの方が、都合良かったしね」 は、と息継ぎをする彼女の前で、思わず爛々と目を輝かせてしまう。 それさえあれば、私もターフを駆けられるのか。彼女に立ち並び、同じ景色を共有出来るのか。 座っていた椅子から思わず身を乗り出すと、今度は彼女が、私を制止する。 「待ちたまえトレーナー君。問題点も多いんだ」 彼女にしては珍しく、非常に否定的な態度。 しかめっ面の彼女は珍しいので、思わず大人しくしてしまう。 「まず一点、私から遺伝情報を抜いている事。私の遺伝子といったら、虚弱で脆弱な遺伝子さ。発現次第では、私より弱る可能性がある。  次、そのままウマ娘のように身体が書き換わるとは想定されるが、そうでない場合ただ出力だけが上がった人間になる可能性。その場合、多分1ハロンで膝か踵が折れる。いや、半分かも。  最後、戻せない。全く。」 顔をしかめるだけの理由を提示して、彼女は溜息をつく。 彼女にとっては、諦めた研究なのだろう。しかし私にとっては、夢への挑戦なのだ。 「試しちゃダメかな」 「聞いてたかい、君」 「聞いてた」 これまた珍しく、彼女に心配される。 そんなにおかしな事を言っただろうか。それとも、私はもうおかしいのだろうか。 最早分からない。 「ひとつ目の欠点、丈夫な子から遺伝子借りたらダメかな」 提案も忘れない。彼女との生活で身についたものが、私を突き動かす。 「……ふっ、はは、はっはっは!倫理観がないねえ、君は!  いくら私でも、そこまで狂った事はしたくない!」 ついに、彼女のスイッチが入った音。ああ、この姿を、待っていたのだ。 「だいたい、君にそんな、誰とも知らぬ奴の遺伝子を叩き込むのは困る。  よく知る範囲の物でないと、危険じゃあないか」 ひとしきり笑った彼女は、ノートを机に放り出して、薬品棚をがさごそと漁っている。 少し頬が赤いのは、笑いすぎたせいだろうか。 そんな彼女を眺めていると、目当ての物が見つかったのか、ぴたりと動きが止んで、そのうち、注射器と薬液を取り出す。 「ウマ娘のように変わるからには、外観の変化も大きいだろう。  私にそっくりにでもなればまだマシな方だが、そのままウマ娘並にでもなるのか、いやあ果たして、美人な君になるかも知れない」 そう語る彼女は、少し悩んだ顔。 「タキオンと一緒かあ。悪くないかも」 「そういう事、言うものかな」 「まあ、言うかな」 互いに少し頬を赤らめながら、顔を見合う。 少し表情の幼い、美人な顔立ち。クセのある髪は栗色で、髪質は意外に柔らかい。 目付きは険しくなく、かといって可愛すぎず。 彼女とお揃いも、悪くはないと思う。 「私は君のその容姿も、好ましく思うんだけどね。まあ、言って聞かないのはお互い様か」 頬に手を当て悩む仕草の後、さらに彼女はぼやく。 「だいたい、お揃いじゃないとして、これ以上美人の、それもウマ娘になったら、まるでモデルじゃないか。  自分の事を評価出来ないのか?読者モデルやってた話は忘れてないぞ、私は。  ああいやだ。トレーナー君がどこかに行くなんて、私は嫌だ。  この実験はナシだ。やっぱりナシ。私は成人女性としての君を────」 ぼやく彼女を前に、薬液を飲み干す。開きっぱなしのノートにはA剤服用後、B剤を筋注と書いてある。静注では回りすぎるのだろう、故にスプリング付きの注射器か。 「まっ、ちょ、待て!」 意に介さず、太腿目掛けて注射器を刺す。刺さる痛みに次いで、冷たい感覚がじわりと脚に伝わる。 「あとはよろしく、タキオン」 じわじわと崩れ始める視界。これはそれなりに、眠る時間が長そうだ。 「トレ────、────なーくん、ば────」 ああ、だいぶ、眠るのが、早い──── 「うおっ」 目を覚ますと、随分豪華なベッドに寝かされていた。 どう見ても病院にあるような、一台50万くらいはしそうな低床多目的ベッドである。 一体ここは、と悩んだが、横に覗くのはタキオンが学内に無断で用意しているラボの光景なため、ひとまず胸を撫で下ろす。どうやら、医療の世話になる事態にはなっていないらしい。 「おや、お目覚めかね」 部屋の奥から、僅かに干からびたような声で、目覚めを出迎えてくれる。 ぼさぼさの髪に、よれた制服。どうやら私のお陰で、随分不安がらせたらしい。 「おはよう」 「おはようじゃないよ、バカなモルモットが」 「ひとまず鏡を見たまえよ」 ぽいと手鏡を渡されて、直前の出来事を思い出す。 ははあ、これはどうなったかな、と鏡を覗くと──── 赤みがかった茶髪は見事に真っ黒に染まり 頭頂にはやや長めのウマ耳 顔立ちは大きな変化こそないものの、よりシャープに 睫毛は伸び、目の色は輝くルビー色──── 思わぬ変化に、溜息が漏れる。 「こりゃ驚いた」 「3日かけて変化するものだからちょっと気味悪かったぞ」 「そりゃ失礼。  それで、私は何者になったんだ」 「分からないよ。あれから色々試したはずだが、完全に不可逆だった。  仕方ないからゴールドシップ君やスペ君のトレーナーの協力を得てみたが、一切変化はなくてね。  君はつまり、唯一の成功例になってしまった」 ベッド脇で椅子に座り、背にもたれかかる彼女は、くたびれている中に興味を隠せない雰囲気を湛える。 なんだかんだ言うが、目の当たりにしてしまえば、彼女は楽しんでしまうのだ。 「とりあえず、走っても良い?」 不意に、口を突いて言葉が出る。 「先に検査」 「走りたい」 「ダメだよ。何があるか分からないのに」 「走る」 ベッドから跳ね起きて、裸足で床に降りる。 背骨から伸びた尾の感覚も、違和感なく馴染むものだから、不思議な感情を抱く。 そんな私の腕を掴んで、目一杯引き留めようとするタキオンの目は、この数ヶ月で一番怒って見える。 「ダメ」 「なんか走りたいんだって」 「ならせめて、食事が摂れるか確認したまえ」 ぐう、とお腹が鳴る。同時に、喉の渇きを自覚する。 「とりあえず、私のジャージを貸すから……」 ぽいと、学園指定のジャージを投げられる。 「黙っていればバレないとも。学園の生徒数ならね」 まるで今までの悪行が物語るかのように、自信たっぷりに話す。 そんな彼女のジャージに着替えながら、ペットボトルの水を飲み干し、食堂へ足を向ける。 「名前、名前だ。トレー……いや、君、名前」 「モルモットじゃダメかな」 「ダメだよ!いや、まっ、ダメだってばー!」 さて、ややこしくなった気がする。 そんな笑いと一緒に、歩き出した。 --- 日誌1日目 トレーナー君がウマ娘となって3日目になるが、記帳を始めた日を初日と定む事とする。 「走りたい。叶うなら一緒に」と言い続ける彼女に折れて、芝コースの利用許可を得て走ることにした。 ウマ娘となっても中身はトレーナーである為、書類の作成には滞りナシ。記憶の不都合、不整合等が今のところ見当たらない証左。 芝2000の位置にゲートを設定し、一走だけ彼女のラップタイムを測るが、きちんとペース配分する分、随分と遅いタイム。 代わりに疲れを見せなかったので続けて競走をしたが、上がり3ハロンで猛追した後、バテて失速、転倒。 そもそも一般用の運動靴で走るせいで、靴が破けている。要対策。 「────やっぱ、タキオン、速い、ね」 「付け焼き刃に負ける現役が居たらそれはどうなんだい」 「まるで、追い付け、なかった、やっぱ、すごい」 「……初めて生身で走ったくせに、ペースは守るあたり君らしいがね」 3日目 彼女が完全フォアフット、前傾姿勢のウマ娘の走りをようやく身に着ける これにてようやく懸念材料がひとつ減った 急場で用意したトレーニングシューズに装鉄して走らせる。新入生相手ならギリギリ話になる程度のタイム フォームやストライド、ペース配分などは私によく似ているが、これは果たして、学習性のものか、本能的なものか どちらにせよ、似ているのは少し嬉しい 「────重いかなって思ったけど、履くとそうでもないんだね」 「ウマ娘の脚力とはそういうものさ」 「走りやすい」 「……それを選んだのは、三年前の君なんだけどね」 4日目 元々耳が弱点であった影響か、彼女が時折耳をしきりに揺らし、後ろ向きに絞る動作を示す うっかり筆箱を落とした際に随分びっくりしていたので、端切れを縫っただけの急ごしらえではあるが耳覆いを用意 ついでに以前二人で買った髪飾りを縛り付けてそれらしくしてみる 耳を飾るだけで随分風景に馴染むようになったので、結果オーライ 自分の好みに飾るのは少し、楽しい 「────耳覆いって大事なんだねえ」 「鈍感な者もいれば鋭敏過ぎる者もいるという事さ」 「じゃあタキオンはニブいんだ」 「興味の対象がハッキリしているだけさ」 5日目 真っ黒だった髪色がほんの少し明るくなり、前髪に白色が差している事が分かった ウマ娘の間では”流星”と呼んでいる、髪色の分かれたパーツが、彼女にも発したようだ。 つまり、私ほど明るい栗色ではないが、茶色、鹿毛とでも言おうか、そんな色の中に、ぼんやりながら、前髪に白い流星の入った髪色だ。 好みは分かれるが、綺麗だと思う。 「────流星っていうのかあ、これ」 「ウマ娘たちの間ではね」 「随分目立つなあ」 「そうだねえ。  ……しかし、私の遺伝子のクセに私に一切似ないとは、不敬じゃないかい」 「向こうで子供の取り違えでもあったのかも」 「何だとう」 7日目 会いたくない人物の1人、カフェと遭遇させてしまう。 不可解な出来事のそばには、彼女の得意ジャンルが介在する事が多い。どうやら今回も当たりがひとつ混ざっているようだ。 誰ですかその子、と随分怪訝な顔をされたが、ひとまず親戚と言って逃げておく。 カフェを騙すのは難しい。同時に、最後に頼れる相手の1人だ。カフェとシャカール君には、洗いざらい話す事になるだろうか。 「────その子、何をしたんですか」 「いずれ話すよカフェ!今はとりあえず、親戚という事に出来ないかな」 「……大きめの貸しにしますよ」 「ハッハッハ……ありがとう」 「……なんだか、他人事には思えませんしね」 8日目 ウマ娘にはある種の衝動が存在する事がある 走りたい、競いたいというのはその最たる例といえるだろう 無論私も走る事、高める事に腐心したものだが、彼女も随分走りたがる それにしても寝る時と食べる時以外走りたい気持ちと戦っているように見えるのは気のせいだろうか。 あれほど執着しているのは、スズカ君並ではないか 「────ずいぶん走りたそうな顔をするね」 「私もちょっと焦ってる。まる1週間は経つけど、何かにつけて走りたくて仕方ない」 「程度の差はあれ、それが生徒の抱える衝動さ」 「随分な歳まで付き合う事になるんだね」 「そうとも」 10日目 デジタル君に相応の代価を払う事で遠回りに入手した制服類一式でトレーナー君を学園生徒として紛れさせる準備 ウマ娘の外見年齢は分かりづらいが、トレーナー君は元が美人なせいか、随分若作りだ 私と並んでも私より若く見える事すらある 少し腹が立つ 「────ハハッ、似合っているねえ」 「関係者用のジャケットとかあったでしょ」 「まあまあ。走りたいならこっちの方が本気で走れるさ」 「なんだそれ」 「興味なかった訳じゃないだろう?」 「それは……まあ……」 12日目 2週間が経過。あれから髪色も落ち着き、流星についてはハッキリと、前髪一房分を染めて発色。以来、変化は止まっている。トレーナー君は、完全にウマ娘になっているようだ。 教職の経験とウマ娘としての資質が喧嘩をするのか、走りはやはりぎこちないが、トレーニング中の私の後ろを追い回す分には辛うじて足りなくもない能力に、一応は満足している様子。 これでは、どちらがトレーナーか分からないが。 「────ほらトレーナー君、置いて行っちゃうよー」 「待ってよ、タキオン、現役、そっち現役」 「私と一緒に走るんだろう?私は君に教わった事でここまで来たんだ、ほら、泣き言はなしだ」 「ひえ、今までごめん、許してえ」 「……むしろ、感謝したつもりなんだけどな」 14日目 ダートコースを借りてのトレーニング 半分くらい、トレーナー君の研究目的と化している 意外に足に馴染んだか、蹴る脚が弱く砂地では力不足な私に対して好走を見せる ダートに才があるか、デジタル君やタイキ君のように両刀か しかし彼女に追い縋られるというのは、少し腹立たしい所がある 「────だっ、はぁ、げほっ、はあ、もう少し!」 「私が、砂、苦手なのは、分かってるだろう」 「わかってる、ごめん、はぁ、ごめん」 「……そんな笑顔、ずるいじゃないか」 ────私がウマ娘になってから、20日目。 「それで、自身のトレーナーがウマ娘になったと」 「「ハイ……」」 生徒会室。机を挟んだ向かいには、生徒会長、シンボリルドルフ。 「まったく、やたらと熱心なアグネスタキオンを不審がる声が聞こえたかと思えば、不審な生徒の姿まであると聞いたから、いざ現場まで出てみれば……」 数多の生徒をごまかせたとして、この生徒会長の目ばかりはごまかせない。 幾千いる生徒のうち、毎年の出入りまで全部記憶しながら生きてきたこの怪物には、いかな嘘とて見抜かれてしまう。 「それで、トレーナー業について、実務に支障はないのかな」 「あ、ええ。この3週間、提出した書類は私が」 むしろ、伸び伸びとやれた気がする。ウマ娘の身体は、今のところ肩凝りや腰痛とは縁遠い。万歳だ。 「なら、いつもの通りタキオンの反省文で処理しておこう」 「えー!今回は止めたよ!冤罪だ!」 「原因は君なんだから、形式だけでも守ってくれないか。そうすれば不問に処す。  聞けば、放恣遊惰な態度を取らず、随分きちんと走っていたようじゃないか。  一栄一辱のなかで、慢心せずに居られるのなら、トレーナーがその姿になったのも、悪い事ではないかもしれない」 そう言いながら机から原稿用紙を取り出す会長と、非常に不満な態度のタキオンのやり取りから、ふと横にある姿見に目をやると、指定のジャージに身を包んだ自分が映る。 不思議なものだ。まるきり姿が変わっても、何故か自分と認識出来る。 尾を揺らめかせ、耳を跳ねさせる自分を、自分と認識する矛盾。 そんな姿に、ふと感じる衝動。 「会長、それは明日提出させますから────走ってきても良いですか?」 「ええー!トレーナー君、もう休もうよ!」 「罰だと思って」 「ふふっ、はっはっは!わかった、君も苦労しているようだ。  反省文は1週間以内で結構。タキオンの事は、よろしく頼むよ」 「はい!」 嫌だ、助けて、とわめくタキオンを引きずって、生徒会室を後にする。 何もかも見抜かれてみれば、それはそれで荷が軽い。 「走るコースも、トレーニング後の予定も、タキオンの好きにして良いからさ、あと2走くらい付き合ってよ」 「……死ぬ気で止めれば良かったよお」 弱々しく言葉を吐く彼女から、僅かに喜びが感じられる。 きっと今も、私といかに走るかを、考え始めている。 結局のところ、走る事ばかりが、私たちの居場所なのだ。