―――夢を見ている。  それは決まっていつもの、同じ夢。  暖かく爽やかな風の吹く中、ゆったりとした時間が流れ……でも、暗雲が垂れ込んですぐに世界は暗くなってしまう。  薄闇の中、周りから聞こえる地響きを伴って連続し続ける足音。  必死な荒い息遣い。  いつの間にか自分も同じようなものだから、きっと皆で走っているのだろう。  もう既に私はここが凄く怖い。  見られている。  隣から、後ろから、鋭い視線が私に向いている。  周りから折り重なって、もう殺意と言ってもいい程の感情が私を覆い尽くす。  慣れなくて、恐ろしくて、私は逃げ出そうとする。  強く宥めるような誰かの声が聞こえた。  けれど意味は分からない。  ただ私はそこにはいたくなくて、でも、竦んでしまった私の身体は思う様には動かなくて。  だから脚をもつれさせてしまう。  転んでしまうが、その時に誰かを庇うようにして。  そしてすぐに、鋭く、どうしようもない激痛が私を貫く。  悲鳴を上げるけれどもう身体は動かなくって。  ただ身を固くして我慢していると、傍で誰かが泣いていた。  さっきの声の主だと思う。  いいの、あなたは悪くないの。  きっと私が、あなたの指示を上手に聞けなかったから。  だから――― 「……あ、っく……ぅ、痛たたた……」  目を覚ました時、私は泣いている事がある。  そして決まって同じ箇所が痛い。  また夢を見ていたんだなと思う。  いつもの夢。  覚えていても、忘れていても、体の反応は変わらない。  あのとても悲しく、とても痛い夢。  ウマ娘として産まれたけれど、この夢のせいで私はレースに向いていなかった。  他のウマ娘と競り合えないなら競争競技の場に立つべきではない。  よく言われるし、私もそう思う。  でもそれ以上に。  私は知っている。  あの歓呼の声を。  私だけに浴びせられるあの波のような大歓声を。  あれをまた聞きたくて、だから私は――― 「うぐ……ッ!?」  でも今日のは久し振りに物凄く痛くって、早朝からちょっと萎えそうになってしまう。  幼い頃はしょっちゅう泣いてママを心配させたものだけど、今はママはいない。 「ダンデ?あ、またか……大丈夫か?」 「ごめん……ハヤヒデ……まだ早いのに……」 「いいんだ。ほら無理はするな、安静にしていた方が痛みが引きやすいのは統計上明らかだ」  代わりに同室のビワハヤヒデに心配させてしまっている。  彼女はトレセン学園に入って以来、何やら放っておけないと言ってずっと助けてくれていた。  助けられてばっかりで、甘えてばっかりで、良くないとは思うけど……。  また後でお礼をしなきゃ。  ママみたいに慈しんでくれるビワハヤヒデを安心させるように微笑めば、こちらの汗を拭く手を止めて彼女も微笑みを返してくれる。  うん、彼女はいいお母さんになるね。間違いない。  ビワハヤヒデから連絡があり、ダンデライオンは午前のトレーニングを休む事となった。  彼女のトレーナーとして早くも限界を感じつつある中、正直に言えばまたかと思えてくる。  ダンデライオンの適性を疑う訳ではないし、自分の采配に自信がない訳でもない。  むしろステイヤーとしての素質を考えればいずれ学園でも最上位グループに入れる筈だ。  ただ彼女のメンタル面に問題がある上、幻痛と悪夢に苛まれているとなると、これはもう精神科医の出番だろうと誰だって考える。  問題はそれですら解決に至っていない事だ。  定期的なカウンセリングを受けさせているものの、分かったのは朧げな夢の内容のみ。  ご両親に連絡を取った所ダンデライオンの幼少期にそんな体験に心当たりはなく、謎の悪夢に苛まれ痛み止めの効かない幻痛を発症し、メンタル面が弱くなっているという訳だ。  いや本当どうしろと? ……ただでさえメイクデビューから躓いてしまっているのに。  1着のタイムからすると、当日の悪夢からくる不調さえなければ間違いなく勝っていた筈だったのが余計悔やまれる。  本当に彼女は安定しない。  運の要素が大き過ぎる。  鷹揚に受け止める気構えも、気長に付き合うよと微笑みかけた時の思いも、いざ事に当たり続けていると想定以上に辛くて半年もしない内に不甲斐なく萎みかかっている有様だ。  このまま彼女も、他多くの芽の出なかったウマ娘の一人に数えられてしまうのだろうか。  だとしたなら非常にもったいない話だが、この調子ではそうなってしまう可能性がとても高い。  嫌な話だと思う。  起きているダンデライオンとどれだけ良好な関係を築き、トレーニングを積み重ねた所で、一度悪夢を見てしまえばご破算となりメニューの見直しを強いられる事となるのだ。  この不意に訪れる卓袱台返しはすっかりトラウマの様なものに成り果てている。  ダンデライオンが一番辛いのは分かっているが、その内こちらも何かしらのメンタルケアが必要になりそうだ。  ただ唯一の救いと言うか、いやこれはもう当然なのだが。  調子の良い状態でレースに出たダンデライオンは見事の一言に尽きる。  小柄な体の一体どこにと思わされるスタミナの持ち主はそうそういないし、本領である長距離レースに出せさえすればその勝ちっぷりに観客は瞠目するに違いない。  あの才能があるからこそ、半面あの才能があるせいで、長い溜息もこぼれようというやつだ。 ……良くないな。  立ち上がり、大きく身を反らし伸びをする。  周囲確認。  よし。 ―――俺は!  ダンデライオンのトレーナーだ!  ダンデライオンが走り続ける意思を持つ限り!サポートするのがその仕事!  頑張れ!  頑張る!  オォス!!  殊更大げさにポージングして気合を入れて、作業に取り掛かった。  まだ先の話だが、札幌日経オープンはどうにか無事に迎えたいものだ。 「わあ……!」  仕上がってきた勝負服を手にダンデライオンは嬉しそうに頬を緩ませる。  名前をモチーフにデザイナーと案を詰めてパステルカラー基調の白と緑を地としてそこかしこに大小多数のタンポポをあしらい、首元には綿毛を思わせるフェイクファーを付けた。  これを着て……例えばG1レースで1着を取ったならと思うだけで心が弾むし身も弾む。  背面側を見たり、自分に当てて姿見の前に立ってみたり、タンポポ一つ一つに指差しして微笑んだり。  この場にビワハヤヒデ達がいないのが残念だが、勝負服が届いたのが午前の授業中で、それに気付いたのがお昼にたまたま部屋に戻ったダンデライオンだけだったから仕方がない。 「えへへ……」  そうだ、ごはんを食べて授業が終わったらトレーナーにも見せに行こう。  鼻歌混じりに勝負服をハンガーに通し、窓辺にかけて小走りにビワハヤヒデ達の待つ学食へと向かって行った。  今日は風が強いという気象条件をその時思い至れなかったのはダンデライオン一生の不覚と言える。 「あれ?」  授業も終わり、にこにこ上機嫌のダンデライオンに先導される様にして寮の部屋にやってきた4人組は、しかしドアを開けるなりダンデライオンの静かな一言に静まり返った。 「…………ない」  窓辺にかけた勝負服はその通り存在せず、ただ外開きの窓が揺れるばかり。 「は?」 「え?」 「うん?」  主語が抜け落ちているが、この場合は言うまでもない事で。  ダンデライオンを少し押し退けるようにして部屋に入ったビワハヤヒデは即座に状況を把握した。 「窓が開いているようだが施錠を忘れたか?」 「……かもしれない、でも私、こんな事」 「分かった、落ち着くんだダンデ。ここは3階だ。強風にさらわれたと考えるのが妥当だから、私達は四手に分かれて勝負服の捜索に出よう」  顔面蒼白で今にも倒れそうなダンデライオンの細い両腕を掴み、ビワハヤヒデはしっかりとした口調で諭す。勝負服の特徴は既に複数回聞かされているので問題はないだろう。  ダンデライオンを部屋に残す手もあるが、今回はむしろその方が危ういと判断した。 「いいね?いいな?」  初めはダンデへ、次はウイニングチケットとナリタタイシンへ。  三つの頷きが返されて、行動は迅速だった。  信じられないものを見た。  信じたくないものを見た。  でもあれが何なのかは分かる。  最初は何かの間違いかと思った。  確認の為に目を凝らしたのを後悔した。  そしてあれをそうしてしまっているのが誰なのかも。  でも、どうしてああなってしまっているのかが分からない。  だけど、現実としては見たままの事なので。 「グラス……ちゃん……?」  応えはない。  ダンデライオンの視界、学園西側にある陽当たりの良い斜面。  そこで横になっているグラスワンダーは、何かを満足げな面持ちでしゃぶっており、その何かとは――― 「それ……私の……」  探し始めて30分は経ったろうか。  ダンデライオンの勝負服は最低の部類に入る発見の仕方をされていた。 「嘘……いや……いやだよ……なんで……」  首を左右に、何とか現実を否定しようとする。  無論叶わない。 「あ……あ、やだ、やだ、やだ……」  目尻から溢れる大粒の涙は留まる事なく流れ続け、深い絶望から人目を憚らない大泣きになるのにそう時間はかからなかった。  虫の知らせというものをビワハヤヒデは初めて自覚した。  自分でも分からないが確信をもって捜索方向を変え、走ればやがて誰かの叫びが聞こえて来たのだから。  やがてその悲痛な叫びが誰のものかを理解し、更に速度を速める。 「ダンデ!?」  火の付いた様に泣いているとはあの事だろう。  校舎から少し離れた位置とはいえ、窓から多くのウマ娘が何事かと覗いているのが何となくわかる。  一体何が?  庇護欲をかき立てるその小柄な姿に駆け寄ったビワハヤヒデは、流れる涙もそのままに泣き叫ぶダンデライオンから事情を聞こうと宥めようとしたが、その前に視界に異物が映った。 「……グラス……ワンダー……?」  理解を拒む脳を叱咤し状況把握に努める。  グラスワンダーが寝ながら物を食べる事が可能なのは、同室のエルコンドルパサーの検証により確かめられていた。  偶然に端を発したその検証を人づてに聞いた時は人それぞれ色々あるものだと聞き流していたのだが。  そういえば昨日学食メニューに野草の天ぷらがあったか?  タンポポは食べられるのか?  いやまずあれは食品ではなく合成繊維だから食べたらお腹を壊すから取り上げなければ。  だってあれはダンデライオンの勝負服。  勝負服がグラスワンダーに食べられ……何故だ?何故ああも執拗に食まれている?いつからだ?  意図的の筈がないし寝惚けているなら……いやともかく落ち着くんだ。  気合を入れて一歩を踏み出す。  近付いてはいけない領域だが、近付かなければ話は進まない。  もう一歩を踏み出した所でビワハヤヒデの脇を黒風が吹き抜ける。 「あ、ダンデ」  泣いたまま駆け出したダンデライオンにビワハヤヒデは手を伸ばすが届かず、彼女は勢いそのまま斜面を駆け上がると、 「グラスちゃんのバカァ!!」  一喝と共にグラスワンダーの頬を引っ叩いた。  快音と共に寝転がっていたグラスワンダーはその一発で宙に浮き、落着、斜面を転げ落ちる。  全く状況が理解できていない彼女の顔に、嫌な偶然もあるものだなとビワハヤヒデは辛い気持ちになった。  こんな事態でなければ転げ落ちたグラスワンダーに飛びかからんとするダンデライオンを止めただろう。  グラスワンダーの口元からダンデライオンの勝負服がやっと落ちる様を目にさえしなければ。 「すまない」  スマホを取り出し悲劇に背を向ける。  盗難の可能性を考えエアグルーヴに一報を入れていたのだ。 「……エアグルーヴか。ああ、見つかったよ。……ん、まあ……再発注の書類を頼む。理由は伏すが汚濁状態で……場所?校舎西側の斜面……そうそうその辺り。やはり風で飛ばされたんだろう、風向き的にも有り得る範囲だ」  背後から聞こえてくる喧嘩の喧噪を務めて無視し、ビワハヤヒデは話を進めていく。  ダンデライオンの剥き出しの戦意。  グラスワンダーの困惑一方の防戦。  双方理解できる。  できるがこの場合はダンデライオンの肩を持つしかなかった。 「ぁー……聞こえるか。うん、ケンカだよ。ダンデとグラスワンダーの」  そして流石に喧騒がエアグルーヴの耳にも届いたらしく、これ以上の放置は無理かと観念する。 「止めるべきなのは百も承知なんだが……誰か送ってくれないか?一人では、ああいや、え?」  自分の手に負えないので助けを求めようとしたのだが、既にナリタブライアンが駆け出した後だと聞いてビワハヤヒデは逃げてしまおうかなと思った。  当然そうする訳にもいかない。  ビワハヤヒデの妹であるナリタブライアンは、ビワハヤヒデのお気に入りであるダンデライオンを姉貴のお気に入りだからと好いているのをビワハヤヒデは知っていた。  そのナリタブライアンが既に駆け出した後だと。  収拾を急ぐ必要がある。  最低でも喧嘩は止めなければ。 「ブライアンが来るぞ!」  と一喝すればダンデライオンとグラスワンダーは一瞬動きを止め、そして戦慄すべき事に足音が聞こえた。  そちらを一瞥すれば本当にナリタブライアンが走って来ていたのが見える。  それも何やらオーラのようなものすら纏って。  妹の恐るべき俊足ぶりにはビワハヤヒデも驚いたが、ともかくダンデライオンを羽交い絞めしグラスワンダーから引き離す事には成功した。  入れ替わる様にグラスワンダーへナリタブライアンが襲いかかったのでそれをタックルして止める事にもなったが。  学園内で大喧嘩をやらかした二人は保健室を経由し理事長室に呼び出される事になった。  ダンデライオンは既に平静を取り戻し、グラスワンダーへ幾度も謝罪の言葉を述べている。  グラスワンダーも事態を把握した瞬間蒼白となり、ダンデライオンへ平身低頭するばかり。  すっかり雰囲気の悪くなった双方のトレーナーも交え、秋川理事長は熟慮の末裁定を下した。  取っ組み合いの喧嘩など言語道断だが、反省は既に十分であり不幸な偶然が重なった事なのを踏まえて、両名には五日間の寮内謹慎が言い渡されたのである。  通常ならこの手の不祥事は瞬く間に学園中に知れ渡り、色んなヒレのついた噂となりそうなものなのだが、目撃者が多かった事と言う方も聞く方も辛い内容なので、謹慎期間中にこの悲しい話題は終息していた。  ゴールドシップでさえ「嘘だろ」と呆然と短い感想を零したのみで二度と触れようとしなかったのだ。  とはいえ、ダンデライオンとグラスワンダーへの視線に気の毒な者を見る色が過分に含まれるようになったのは仕方のない所か。  訳の分からない椿事はあったが、ダンデライオンの戦果自体は順調だった。  札幌日経オープンでは狙い通りの大勝利を挙げ、余勢を駆って菊花賞に殴り込みをかければあのミホノブルボンを3着に降して1着に輝く事ができたのだ。  ダンデライオンは長距離に強い。  それを確信していたトレーナーは当然の事だと嘯いているが、菊花賞後に泣きだしてしまったダンデライオンにうっすら貰い泣きしてしまったのが乙名史記者によって記事化されている。  ただそれでも、ダンデライオンは悪夢を見なくなった訳ではない。  幻痛もまた同じだ。  トレーナーによってバ群を徹底して避けて追い込む展開を仕込まれ、G1で勝利し大歓声を浴びても尚、あの忌々しい悪夢はダンデライオンを苛んでいた。  有馬記念前日に酷い幻痛を起こした時などは、ダンデライオンの必死の訴えがなければトレーナーは出走取消の申請をしていただろう。  ダンデライオンには勝利への渇望が確かにある。  それはウマ娘なら誰もが持ち合わせている筈のものだが、彼女の場合それが特に強い。  だからこそトレーナーはG1勝利を以てその渇望を満たせば或いは、と考えていたのだが。  有馬記念をハナ差で辛勝したダンデライオンは、ライブを演り通した後寮に戻る途上で突然倒れた。 「なんだこれは……!?」  有馬記念後に倒れたダンデライオンを診察した主治医が彼女の身体におぞましいものを見つけ、すぐに警察とトレセン学園に通報した為学園は大騒ぎになった。  虐待が行われていた疑いがあるというのだ。  即座に担当トレーナーは軟禁状態となり、彼やダンデライオンがそんな事実は一切ないといくら訴えても軟禁は解かれなかった。  ダンデライオンの身体に蹄鉄状の痛ましい大痣が刻まれている以上、誰がそんなものを付けるかと言えば答えは自ずと限られる。  そしてこのままでは拙いと判断した秋川理事長の動きは迅速だった。  蹄鉄状の大痣が一つである事。  それが学園のどの生徒の蹄鉄より明らかに大きい事。  トレーナーの部屋、手荷物にも警察の調べでは同様の痣を付けられそうなものが存在しなかった事。  そして何より、痣が出ているのはダンデライオンが幻痛を訴え続けていた個所に重なるものだという事。  これら4点とトレーナーの開放署名三千筆を携え警察署に乗り込んだのだ。  警察側としてもウマ娘と担当トレーナーの不祥事については過敏にならざるを得ないが、状況や人的物的証拠共にトレーナーの犯行と断ずる事は出来ず、長年患っている心因性のものが悪化したと判断しトレーナーの軟禁を解いた。  それは有馬記念から一週間後の事であり、その間既に世間は新年を迎えていたのである。  泣いて謝るダンデライオンに、ダンデは悪くないしいい経験になったとトレーナーは笑っていたが、彼女の症状が悪化したとなると今後どうなるかについては心中暗澹としたものだった。 ―――夢を見る。  変わらない夢、痛くて悲しい夢を。  この風の香りも、夥しい足音も。  変わらない。  そして私は転び、蹴られてしまう。  悲しかった。  どうしてこうなってしまったのだろう。  これを避ける事はできなかったんだろうか。  深い闇の中、誰かが泣いているのを聞きながら、私はとても――― 「……ンデ!……ダンデ!」 「っ、あ、ハヤ……ヒデ……?」  ダンデライオンが起こされたんだと理解する間に、ビワハヤヒデは彼女の涙を拭っている。 「起きたか……。珍しく随分うなされていたんだぞ」 「そうな、っぎ、あ、痛……!!」 「ダンデ!?」  どうしてだろうと思う間もなく、かつてない強い痛みがダンデライオンの身体を貫く。  消えないままの痣から生じた痛みに身を丸めて耐えるが、とても耐えきれるものではなかった。 「だめ……ハヤ、ヒデ……やめて……」  しかしダンデライオンの手は、彼女のトレーナーに連絡しようとしたビワハヤヒデの手首を掴んでいる。  今日は春の天皇賞当日。  有馬記念以来のレースで、ここに照準を合わせトレーニングを重ね調子を合わせてきたのだ。  昨日寝る前までは。  だが起きてこの様となっては諦めるのが当然だろうに。 「正気か?ここで私を止める事の意味が分かっているのか?」  ビワハヤヒデは困惑した。  昨日のダンデライオンならレースの勝ち目は十分にあっただろう。  しかし今、呼吸は荒く汗をかき痛みに震える彼女がどうやって3,200メートルもの長距離を走破できるというのか。 「いける……から、私は、レース、出なきゃ……!」  ビワハヤヒデの手首をつかんだまま、ダンデライオンは幽鬼の如き形相でゆっくりと体を起こし、気迫で彼女を圧倒する。  何故そこまでして?  気圧されて言葉にできず、ビワハヤヒデはただただ瞳で訴えかける。  ダンデライオンは答えなかった。  或いは彼女も分からないのかもしれない。  ただトレーナーから春の天皇賞への出走を聞かされた時、何か運命的なものを感じたのだ。  絶対に出走しなければならない。  呪いのような直感と共に。  現れたダンデライオンを見たトレーナーは言葉を失った。  昨日笑顔で別れた彼女とは同一人物に見えず、影のようなものを帯びてさえ見える有様に呼吸を忘れそうになった程。  レースに出るのか、と問えばダンデライオンは頷く。  負けるのが分かっているのにか、と問えばダンデライオンはやはり頷く。  今のお前をレースに出す訳がないだろう、と言えばダンデライオンは三度頷いた。  トレーナーは天を仰ぐ。  ダンデライオンに何があったのかはある程度察せられる。  だがその状態で尚もレースに出ようという心情は一体どこから湧いてきたものか。  ウマ娘という者は、誰しも何かに突き動かされる様に走る事に自分の存在意義を求める生き物だ。  何故走るのか、と問えば本当にウマ娘だから以外の答えがないのは彼女等の歴史が証明している。  己の危険を顧みず戦場を駆け抜けたウマ娘や、手紙を携え何千キロも走破したウマ娘等の伝記にはトレーナーも涙したものだ。  しかし今、自分と言う存在すら燃やして立っていそうなこのダンデライオンは、明らかに走るべきではない。 「トレーナー」  ダンデライオンが口を開く。  トレーナーは悲壮なまでの決意というものを、声として初めて聞いた。 「私、このレースにだけは出なきゃならないの」 ……そんな今にも死にそうな顔でか。 「そこまで酷いかな……でも、お願いします。このレースだけは走らせて下さい。この後はトレーナーの言う事はなんでも聞きます。だからどうか、お願いします」  ややぎこちなく深々と頭を下げるダンデライオンに、トレーナーは沈痛気な面持ちで息を吐く。  頭を下げる事にすら痛みが伴うくせに長距離レースに出たいなどとほざく。  普段のダンデライオンからすれば信じられない意志の強さで、それを圧し折ってまで保健室に送り込むのが本当に正しいのかトレーナーには分からなくなりつつあった。  たまにいるのだ。  無理を通して栄冠の座に至るウマ娘が。  挙句そこで消えず現役を長く続けさえもするウマ娘が。  そんな一握りにも満たない極々少数の特別なウマ娘の幻影を自分の担当ウマ娘に見てしまうのは、間違いなくトレーナー失格だ。現実を見ろ現実を。  だが、しかしだ。  ここで、これ程の気迫を見せるダンデライオンを無理に留めるのは、彼女自身にどんな悪影響があるか想像もつかない。  無理に走ろうとするウマ娘を止め続けていたら弱り果てて寿命を縮めたと思しき例だってある。  いや、そういう問題ではない。 「……トレーナー、お願いします」  繰り返される消えてしまいそうな言葉。  弱々しいが、それでも諦めようとしない意思。  いや、そういう問題だろうか。  ここで走らせず休ませたなら、そのまま憔悴して生きる気力を失う可能性すらあるだろう。  過去の事例を紐解けば、ここでウマ娘に無理をさせないのが模範解答だが。  ダンデライオンに走る意思があるのなら。  改めて溜息を吐いた。 「……トレーナー?……」  分かった。レース場へ連れて行く……前に化粧だな。 「え?」  お前のそんな顔を衆目に晒したら俺のトレーナー人生はお終いだ。  せめて誤魔化させろ 「えっ?……じゃあ、いいの?」  レース後に俺の言う事は全部聞いてもらうぞ 「……はい!ありがとうございます、ありがとうございます、トレーナー」  いいから俺の顔見て瞼閉じてじっとしてな。 「はい……!」  急にちょっとだけ元気を取り戻したダンデライオンの顔に化粧を施していく。  トレーナーには必須技能が幾つもあるが、メイクもその一つだ。  今日のような例は極端だが、多感な年頃のウマ娘のケガ隠しやくま隠しに肌荒れ等、レースやステージ前に誤魔化すくらいはできなければ話にならない。  無論顔色が悪いのを隠すためなんていうのはバレたら懲戒ものだが、トレーナーであればウマ娘用の化粧道具くらい常備していて当たり前なのだ。  渾身のナチュラルメイクを施してダンデライオンに手鏡で確認、OKを取る。  後は何としても誤魔化しきってレースを完走し、無理に上位に立とうだなんて考えるなライブは欠席すれば良いんだからとよくよく言い含めて、トレーナーはダンデライオンをさりげなく庇いながらレース場へ向かった。 「ダンデライオンさん」  ミホノブルボンは小柄なライバルのタンポポな方を見つけ、その背中に声をかける。  彼女としてはレース前の簡単なコミュニケーションの予定だったのだが、ゆっくり振り返ったダンデライオンを見て予定を忘れた。 「……しー」  こちらを見るなり呆然としてしまったミホノブルボンに、ダンデライオンは人差し指を立てる。  トレーナーからレースに出たいならとにかく誤魔化し通せと指示があったものの、やはり間近ではバレてしまう。 「……大丈夫なのですか?」  一歩近づき、周囲を窺ってからミホノブルボンは声を潜める。  彼女も自分が無茶をするのに慣れている為、ダンデライオンが無茶をしているのを止めるつもりはないようだ。 「大丈夫じゃないけど大丈夫だから」  ダンデライオンは首を左右に振って、それから自分を鼓舞するように胸元で両手を握る。 「分かりました。……私はマスターの指示通り走るだけですし、あなたを倒すのがオーダーです。遠慮はしません」 「ありがとう。……でも、ごめんね」 「いいえ。次の有馬記念に本当の決着を持ち越すだけです」  では、と去って行くミホノブルボンに、ダンデライオンは少しの罪悪感と、たのもしさを感じた。  痣の痛みは引く気配がない。 「先頭はセイウンスカイ、スタートから快調に飛ばしていきます。それを追うようにミホノブルボン、マヤノトップガン」 「やはりこの三人がレースを引っ張る展開になりそうですね」 「そこから2バ身程開いて外からライスシャワー、メジロマックイーン、ダンデライオン……ダンデライオン?」 「おっとこれは!?ダンデライオンが先頭集団にいます、珍しい。掛かっているのでしょうか、それとも作戦の内でしょうか?」 「レース序盤から早くも混沌として来ました!」 ―――心臓が鳴れば、痣が激痛を発してくる。  どうしてレースに出てしまったのだろう。  痛い。  痛いなんてものじゃないくらい痛い。  ドクン、痛い、ドクン、痛い。  嗚呼、でも私がこれを望んだのだから。  レースを走り切りさえすれば、早くレースが終われば、前へ、早く。 「あれはダメじゃないのか。あいつのトレーナーは何を考えている?」  巨大スクリーンに映ったバ群に、ナリタブライアンは苛立たし気に零す。  ウイニングチケットもナリタタイシンも似たようなもので、三者の視線はビワハヤヒデへと向けられている。 「……私だって分からない。正直このレースに出ないかも知れないと思ってたくらいだから」 「そんなに悪いの?」 「ダンデの様子からしたら過去最悪クラスだと思う。きっと走るのも辛いだろうに……」  落ち着かない様子で欄干を握ったり離したりし、ビワハヤヒデはとにかくダンデライオンが無事にレースを終えてくれる事を願った。 ―――鼓動が高鳴る。痛みも強まる。  私は今どうなっているのかも分からない。  多分走っていると思うんだけど。  周りの皆の足音、刺すような視線、息遣い。  観客からの歓声がとても遠くに聞こえる。  でもきっとこの調子で行けば大丈夫。  前の方にいればレースも早く終わる。 『……!…………た!!』  え?  何かが聞こえたような気がして、少し意識がはっきりする。  でもレース中の私に届く声なんてせいぜい誰かの囁きくらいで……? 『悪かった!ダンデライオン、下がろう!』  誰?  あ、でも聞いたことがあるような……?  どこでだったかな……。 『俺が悪かった、お前馬群が苦手だったんだな!分かるよ、こんな所に入れて悪かった!畜生!一旦外へ膨れて馬群から出る!だから俺の手綱に応えてくれ!ダンデライオン!!頼むよ!!』  えっと?  誰だろう。  でも、どうしてだろう。  この声に従った方がいい気がする。  うううん、従いたい。  そうだ、きっとその方がいい。  そうすれば後悔はしないで済む。  誰も泣かずに済む。 「現在先頭はミホノブルボン。続いてマヤノトップガン、少し遅れてセイウンスカイ。そこから1バ身後方スーパークリーク、外からライスシャワー、ダンデライオン、メジロマックイーン」 「1周目を終えレースの展開は緩やかですが、伸びていたバ群が縮まりつつありますね」 「あっとダンデライオンここでじりじりと下がって行く。やはり掛かっていたのか?一体どこまでが作戦の内なのか」 ―――皆から離れて、さっきまで一緒に走っていた皆を追って、大きく息を吸う。  相変わらず心臓と痣の痛みは連動しているけれど、何だかとても気持ちが楽になった。  掛かっていたのかな。  私は最初から飛ばすより、後から飛ばした方がタイムが早いのは知っていたのに。  皆と一緒に走るより、少し遠くから走った方がずっと楽なのは分かっていたのに。  痣の痛みを打ち消す様に、再度息を吸う。 「……あ」  いい匂いがした。  暖かで、爽やかで。  レース中だから間違いなく私は走っているけれど、なんとなく、時間の流れをゆっくりに感じる。  不思議な感覚。  ふとハヤヒデ達が見えたので微笑みかけておく。  多分、いや絶対、心配させてしまっているから。  大丈夫だよ。  私はもう大丈夫。  脱落したダンデライオンが苦しそうにしている様に、ビワハヤヒデは両手を口に当てて悲鳴を抑えた。  ウイニングチケットもナリタタイシンも、どうか頑張って欲しいと願い、拳に力が籠ってしまう。  だがナリタブライアンは気付いた。 「なあ……今あいつこっち見て笑ってたぞ……?」  疾走するダンデライオンを正視できていたからこそ気付けたのだが、確かに彼女は笑っていた筈だ。 「笑って……?」 「本当?」 「本当だ。この目で見た」 「ブライアンが言うならそうだろう。……笑う余裕があるなら、完走は大丈夫なのか……?」  得意の方程式を持ち出そうにも、必要な数字が足りなさ過ぎる。  ビワハヤヒデはウマ娘最後の手段である三女神に願う事にし、他の三人もそれに倣った。 「最終コーナーを曲がって最初に駆け抜けてきたのはライスシャワー!」 「ミホノブルボン食い下がる!凄まじいデッドヒートだ!」 「どちらにとっても負けられない戦い!更に後ろからメジロマックイーンが迫る!」 「残り200」 「3人横一線!そのうわーっ!?ダンデライオン!?ダンデライオンだ!ダンデライオンだ!いつの間に!」 「中盤で脱落したかに見えたダンデライオンここに来てまさかの末脚!」 「全ては彼女の掌の上か!?4人並んだ!」 「ダンデライオン、ミホノブルボンが抜け出す!」 「更にダンデライオンが勢いに乗ってリードを広げた!今ゴール!!」 「やりましたダンデライオン!春風とともに今!大輪の花を咲かせました!!長距離でこの娘に敵うウマ娘はいるのか!?」 「2着はミホノブルボン、3着はメジロマックイーン……」 ―――息を弾ませて、歓声を浴びて、そういえば私が先頭?  実感がないまま流していると、隣に来たミホノブルボンがそっと耳打ちしてくる。 「どんなに疲れていても、ファンに向かってアピールすべきです」 「……私が1着?」  彼女の方へ顔を向けたら、珍しくびっくりしたような顔になっていた。 「……今度は私が2着なので、ライスさんには勝ちましたが、あなたにはまた負けました」 「そっか……何だかよく覚えてなくって……」 「まあいいです。それよりほら、皆待ってます」 「うん」  改めて促され、客席の方へ手を振れば歓声がより大きくなる。  そろそろ実感がわいてきた。  私、勝ったんだ。  完走すればいいってつもりだったけど、勝っちゃった。  あの誰かの声のおかげかな……?  嘘だろオイ。  生きた心地のしないままダンデライオンのレースを見ていたトレーナーは、完全にカメラを外されて祈るしかなかった筈なのに、今では周囲から称賛を浴びせられている。  どう誤魔化すかで必死だった所に全く想定外の事態を叩き付けられ、それが余計に周りの関心を買ったらしく、抜け出せそうにない人だかりの中でトレーナーは何が起こったのかこっちが聞きたいくらいだった。  ライブを終え、掲示板入りの特権である個室の控室で一息ついたダンデライオンは、ようやく違和感に気が付いた。  レース後彼女のトレーナー程でないにしても周囲からの称賛や質問攻め、ライブの準備もあって突然多忙極まる状況だったのでつい忘れてしまっていたのだが。  いや、忘れる事ができた時点でもう違和感と考えるべきだったのだろう。  ともかく勝負服の上から痣の箇所にそっと、過剰なくらいおっかなびっくりに、触れる。 「……え」  痛みはない。  そもそも鼓動に合わせて痛みを訴えていたのが今はなく、触れるどころか撫でても平気。  ポンポン、からトントン、そしてドンと叩いてみても相応の感覚が返される以上の事はない。 「あれ……?」  痣の感触が消え失せていた。  勝負服を少し開き、シャツを上げ、手鏡経由で見てみる。  素肌の表面に何かあるようには見えなかった。 「春の天皇賞に勝てたから……?」  そう考えるのは早計だと分かっていても、ライブ中に見せた以上の笑顔がダンデライオンに浮かぶのは仕方のない事だ。 「やった……!やったやった!痛くない!痛くなーい!」  喜びは彼女の体を突き動かし、椅子から立つなりぴょんぴょんと控室内を跳ねて回った。  年齢よりも下の幼さを発露させるのは彼女にとって非常に珍しいが、突然のノック音。  続くトレーナーの声にダンデライオンは静かになる。 「あ、どうぞ……」  入ってきたトレーナーは、全く身に覚えのないレースの秘策について会う相手会う相手から問われ続けてかなり消耗したようだった。  空いている椅子に座るなり気が抜けた様に大きく息を吐いた。 「大丈夫ですか……?」  案ずれば、全部お前のせいなんだからなと苦笑しながら返される。  ダンデライオン自身今回のレース展開は全く想定しておらず、なのにミホノブルボンを始めとしたウマ娘達からはしてやられたと策士のような扱いをされているのだ。  トレーナーの立場からしたらより一層というものだろう。 「ごめんなさい……あっでも!そうだトレーナー!」  突然元気を見せるダンデライオンに驚きつつ、そもそも何があったらライブをやり遂げられるまで回復できたのかと思っていたのだが。 「見てくださいほら!痣が消えたんです!」  などと嬉しそうに勝負服の前を開けて柔肌を晒したものだから。 「ダンデおめでとう!」 「凄かったなあ!」  そこへビワハヤヒデ達が控室に入って来たものだから。  赤面し入ってきた勢いそのまま引っ込んだビワハヤヒデ達と、自分が何をしているかに気付いたダンデライオン。  折り重なった悲鳴とか詫びとかそういうのを聞きながら、トレーナーは痣が消えたのを喜ぶべきか、誤解を解きに行くべきか、はたまた謝るべきなのか。  考えた末にすっかり脳が疲れていたトレーナーは、結構あるんだなとの感想を述べてダンデライオンを泣かせ、再度入ってきたビワハヤヒデ達に取り押さえられた。  二度目の有馬記念。  前回は辛勝だったが、今回は何バ身離す事になるだろうかとトレーナーは内心楽しみにしていた。  そしてレースを楽しみにしているという点ではダンデライオンも同様だ。  なにせ春の天皇賞以来痣が消え、悪夢からも開放され、幻痛も消え失せている。  4月から今までがずっと今までにない絶好調の状態で過ごす事が出来ているのだ。  これでレース結果に良き思いを馳せるなというのが無理と言うもの。 「じゃあトレーナー、いつもの、やろ?」  ダンデライオンの要求にトレーナーは若干鼻白む。  どうしてもかと問えばどうしてもと返される。  一体いつ見られたのか、夏頃からレース前の恒例になってしまっていた。  仕方がないと観念し、トレーナーは大きく息を吸う。 ―――俺は!  ダンデライオンのトレーナーだ!  ダンデライオンが走り続ける意思を持つ限り!サポートするのがその仕事! 「私は!トレーナーと一緒に走り続けたいです!  トレーナーの期待に応え、そしてその期待を超えるのが私の仕事です!」  頑張れ! 「頑張る!」  オォス!! 「たあー!!」  掛け合いの後、二人して殊更大げさにポージングして気合を入れる。  よし、行ってこい! 「はい!」  ダンデライオンの背を押し、走り出す彼女の背を見送る。  この前ビワハヤヒデ達に見られたのもあって、いっそ堂々とやるようになっていた。  だがトレーナーとしては正直止めたい。恥ずかしいから。  だが楽し気なダンデライオンを見ていると、まあいいかと思えてくる。  すっかり担当ウマ娘に入れ込んでしまっている事実を自覚して、トレーナーはもう苦笑するしかなかった。