◆ その時間は、ずっと在るものだと思っていた。 特別仲が良かったわけでも、険悪だったわけでもない。 付かずとも離れ切らず、保たれた距離。 一歩踏み込むには、臆病だった。 甘え方を知らない身には、微かに心地がよかった。 けれど、時間は過ぎ去るのみ。 立ち止まるのは、一人だけ。 ◇ 「――え……?」 目を合わせた少年少女が、歩みを止める。 そんな時間はないのだが。 このような隙を見せてはならないのだが。 彼らは互いに、ここで会うはずのない人物に目を奪われていた。 「……どうした?ミネフミ」 硬直した少年の傍らで、彼のパートナーデジモンであるプテロモンが問う。 それが呼び水になったのか、または逡巡に答えが出たのか。 少年は金縛りが解けたかのように、口を開いた。 「……アンタ、誰だ?」 あえて、相対する少女にそう告げる。 実際のところ、目星はついていた。 だが、容姿があまりにも違う。 パンツルックに黒いジャケット、頭頂部から色の抜けた金髪。 おまけに連れているデジモンも黒い甲殻に覆われた、 巨大な甲虫型デジモンといった出で立ちで、これも見覚えがない。 正直別人と言ってもいいのだが、それを少年にさせず、 むしろ直感に近い形の確信を持たせてすらいたのは、少女が宿す紫水晶の瞳だった。 「……いよいよ、アイツの言う事も与太話じゃ済まなくなったか」 一方の少女もまた、思考と肉体を再同期させる。 握り拳で伏せた眉間を押さえる彼女は嘆息しながら呟いて、目の前の現実に向き直った。 「アタシは霞澤璃子。……で、名乗らねえお前は空上嶺文だな」 紫水晶の瞳が、見下ろした相手を射竦める。 「……マジかよ」 その眼光に曝された少年は、想定していた最悪の答えに落胆の声を漏らした。 ここは森。 喧騒渦巻き、火が闇を詳らかにする、欲望の森。 空上嶺文がここの異常事態を知ったのは偶然だったが、友人である霞澤璃子にそれを伝える事はなかった。 単純に危険だというのもあったし、斯く言う嶺文達も求められる戦力には遠く及ばない。 ただ特性である足の早さは生かせるだろうと、救助活動には参加していたのだった。 それだけに、件の彼女も参戦したとあっては気まずさも大したものだが、何より―― 「いや、数日前に会った時とは容姿が違うな。キミは本当にカスミザワリコか?」 「おまっ……」 ――璃子の変貌ぶりが気がかりではあった。 ただ、それを加味しても性急なプテロモン物言いには嶺文も肝を冷やして、 強引に掴み寄せたプテロモンに耳打ちする。 「直球でいくやつがあるか……!ああいうのはこう……心境の変化とか、色々あるんだよ……!」 「髪色も長さも違うが」 「ウィッグかもしれないし……」 「背も伸びていないか?」 「成長期だろ……たぶん……」 「?……リコは幼年期だったのか?」 「ンなわけ。……ねーわけでもないか……?」 混乱を引き起こした霞澤璃子はというと、何を言うでもなく、自身を差し置いて言い合いを始めた彼らの様子を見つめていた。 いつも横目に見ていた、懐かしいやり取り。 嶺文の仕草も、それに逐一嘴を挟むプテロモンも、摩耗した記憶には相違なく映る。 ……それでも、アイツらは違う。 浸りたい自身の背中をその事実で押して、璃子は緩みかけた口元を引き結んだ。 「……そろそろ、いいか」 低く掠れた声が、嶺文とプテロモンの間に割って入る。 聞き入れた一人と一体は、間もなく声の主の方に振り返った。 「さっきの質問だが……どっちとも言えるな。アタシ達は別の次元から来た」 「は?」 荒唐無稽な璃子の一言に、間の抜けた声が嶺文から漏れる。 「パラレルワールドだか、マルチバースだか……そういうやつさ。 だからアタシは向こうの霞澤璃子であって、ここに元々いるはずの霞澤璃子じゃない」 「いや、そこはもう一度だけ説明してもらわなくてもわかるけどさ……何?デジタルワールドってそういうのもアリなの?」 「オレに聞くな、と言いたいところだが……次元を渡り行くデジモンの噂は聞いたことがある。名は確か――」 「パラレルモンだ。アタシらはそいつに連れられてここに来た」 困惑混じりに紡がれたプテロモンの語句を、璃子が引き継ぐ。 「何が目的で、までは聞くなよ?正直なところ、アタシだってお前らに会うまでは半信半疑だったからな」 「はぁ……え、じゃあ璃子さんの後ろにいるのって……」 「ん、あぁ……そうだな、元はファンビーモンだったか」 恐る恐る嶺文が指差した後方に、璃子は今思い出したかのように振り向いた。 その先にいたデジモン――グランクワガーモン――もまた身じろぎ一つ取らず、 これまでと同じく、相対する一人と一体を無機質に見据えている。 「……究極体、か」 プテロモンの呟きをよそに、向き直った璃子は薄く笑った。 「……ま、信じる信じねえはお前らに任せるさ」 不思議な感覚だった。 年齢離れした振る舞いは元より彼女に備わっているものではあるが、 場違いなほど力の抜けたその姿勢は、類を見ない。 見知った安心感と、未知数な気味の悪さ。 嶺文としても普段の璃子に関して掴みかねている部分は多いが、 微かに覚える居心地の悪さが、ここで展開された話の実感を伴わせていた。 「それじゃあな。知った顔に会えて嬉しかったよ」 笑みを張りつけたまま、璃子が歩を進めた。 前触れもなく切り出された別れに嶺文の反応も一拍遅れて、すれ違ったところを―― 「待て」 ――プテロモンが、鋭い制止をかけた。 「オレにとっては、キミがカスミザワリコかどうかは大した問題じゃない」 今度は璃子も聞き入れたか、その歩みを止める。 「……"お前"、どちら側だ?」 現在、この森に足を点在する多くのテイマーとデジモンには、ある噂がもたらされていた。 "森の巫女"が持つとされる、蘇生の力。 どこからか広められたこの情報は、知った者達を2つの勢力に大別させた。 真偽を問わず、巫女の能力に駆り立てられるもの。 巫女の防衛及び、それによって生じる無益な争い自体を望まないもの。 勢力と言っても一枚岩ではなく、特に前者の者同士が喰い合う事すらも有り得るこの争奪戦は、 防衛側が危惧する通り、混迷の様相を呈していた。 火は衰えず、木々を焼き尽くさんばかりの現場に、目的もなく足を踏み入れるものがいるだろうか。 出自が何にせよ、知らないにせよ、何も聞かずにいられるものだろうか。 「……なんだ、泳がせてたのか」 背を向けたまま、璃子がくつくつと喉を鳴らした。 「懐かしい気分にさせてくれた礼だ……特別に見逃してやろうと思ったのによ」 振り返った璃子の貌を認めて、嶺文は息を呑む。 炎を背に浮かび上がる紫水晶は、一際妖しい輝きを放っていた。 「……オレからも、一個聞いとくか」 されど、嶺文もまた、全くの無防備でいたわけではない。 普段はデジモンの進化と見ればはしゃぐプテロモンの、怪訝な呟き。 その反応を傍目に見た時から、眼前の相手と事を構える心の準備を少しずつ進めていた。 だが、自身の納得に至るにはもう一片。 「"そっち"のオレ、どうしてる?」 問われてから一寸間を置いて、璃子が口を開いた。 「死んだよ。アタシの目の前でな」 努めて、平坦な声色。 一欠片が、埋まった。 そう判断するが早いか、嶺文は懐からデジヴァイスを取り出した。 「……ヤな予想はよく当たるな!」 決心した彼の左胸に、特異な形状のデジヴァイスが押し当てられた。 引かれたトリガーは嶺文から生体情報を抽出し、デジヴァイスにDNAを記録させる。 「デジメンタル・アップ!」 光を灯したデジヴァイスは、傍らのプテロモンに向けられた。 再度引かれたトリガーが、嶺文の身体構造を作り替えていく。 「プテロモン、アーマー進化――」 変換を終えた彼の肉体はデジヴァイスごと光球と化し、プテロモンの下へ飛来して、その全身をも包んでいった。 「「――リンクモン!!」」 眩い光と共に、デジメンタルを纏ったプテロモン――リンクモン――が降り立つ。 嶺文とプテロモン、両者の意思を携える痩躯の機人が、改めて霞澤璃子と相対した。 「……で?威勢がいいのは結構だが、アタシらの相手が務まんのか?」 「さあな。やってみりゃ分かるさ」 互いのスタンスは最早聞くまでもなく。 しかしながら、戦力の見当はついていないリンクモン――の主人格となっていた嶺文――は、すかさず内奥のプテロモンに意見を求める。 『……実際、どうなの?』 『まず勝ち目はないな』 『えっ』 『オレ達にとって、究極体というのはそういう存在なんだよ。逃げるか、助けを呼んだ方が賢明だな』 あまりの言い草に、嶺文はその半開きの口から呻くことも叶わなかった。